鐘の鳴る丘(とんがり帽子)
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:川田正子
1 緑の丘の赤い屋根 2 緑の丘の麦畑 3 とんがり帽子の時計台 4 おやすみなさい 空の星 |
《蛇足》 太平洋戦争末期、日本の主要都市の多くが米軍の空襲を受けましたが、とりわけ首都東京は被害が著しく、区部の大半が焼け野原となってしまいました。
昭和20年(1945)8月15日、戦争が終わると、空襲で家も親も失った「戦災孤児」たちが街にあふれました。保護施設に収容されなかった孤児たちの多くは、地下道やガード下、防空壕跡などで寝泊まりし、昼間はくず拾いや靴磨き、残飯あさりをして暮らしていました。彼らは「浮浪児」と呼ばれました。
浮浪児のなかには、かっぱらいや盗みを働く者もいましたが、だれが彼らを責められましょうか。昨今横行している青少年のかっぱらいや万引きと違って、彼らのそれは、ぎりぎり命をつなぐためのやむを得ない行動だったのです。
責められるべきは、その気になれば避けられた戦争に突っ走り、国内外の民衆を塗炭の苦しみに陥れた指導者たちの愚かな行動でしょう。
施設に収容された孤児たちも、必ずしも平穏だったわけではありません。一般社会でも餓死者が続出していた時代でしたから、食べ物は十分ではなかったし、虐待やいじめもありました。社会全体が混乱していましたから、そういったことへの監視の目が行き渡らなかったのです。
菊田一夫作のNHKラジオドラマ『鐘の鳴る丘』は、こうした社会情勢を背景として、昭和22年(1947)7月に始まりました。
以後3年7か月、790回にわたって放送され、古関裕而作曲の主題歌『とんがり帽子』とともに大流行しました。昭和23年(1948)には、松竹によって映画化され、全部で3本作られています。
ドラマは、戦争が終り、復員してきた若者・加賀見修平がガード下で浮浪児にカバンを奪われそうになるところから始まります。その浮浪児は隆太といいました。ここから、修平は、隆太やその仲間、修吉、ガンちゃん、クロ、みどりなどと交流するようになります。
彼らの惨めな境遇を知った修平は、何とかしなければと考え、浮浪児たちも彼を慕いました。そして、修平の故郷が信州だったところから、孤児たちと力を合わせて信州の山あいに「少年の家」を作り、共同生活を始めるのです……。
当時は、日本中の子どもたちが、このドラマを欠かさず聞いていました。子どもたちだけでありません。敗戦とそれに続く苦しい生活にうちひしがれていた大人たちも、このドラマによって、明日への希望を育てたといわれます。
菊田一夫は、戦争中、岩手県の江刺郡岩谷堂町(現在は奥州市)に家族を疎開させていました。ここの町役場には鐘のついた高楼があり、菊田一夫はそれを見て『鐘の鳴る丘』を発想したといわれます。
この建物は、明治記念館として保存されており、現在も、毎日午前7時と午後5時に『とんがり帽子』のメロディーが流れています。
また、映画では、長野県南安曇郡穂高(ほたか)町(現在は安曇野市穂高)にあった青少年の更生施設「有明(ありあけ)高原寮」がモデルになりました。
現在同じ場所に建っている鉄筋の「有明高原寮」は、やはり青少年の更生施設ですが、『鐘の鳴る丘』のモデルになった建物とは違います。モデルになった時計台つきの旧建物は、昭和55年(1980)に約600メートル離れた場所に移築・復元され、「鐘の鳴る丘集会場」という青少年の合宿訓練施設となっています。
穂高町は、私の亡母の生地です。昭和27年(1952)4月末の休日、小学校4年のとき、私は、母方の祖父に連れられて、1日の周遊サイクリングに出かけました。その途中、有明高原寮の前を通ったとき、祖父から、ここが『鐘の鳴る丘』の舞台になった場所だと説明されて、非常に感銘を受けたことを覚えています。
有明高原寮のすぐすぐ先の川には、アルプスからの真っ青な雪解け水が泡立ち流れていました。
その川を渡った崖下に泉があり、近所の女性たちが洗濯をしていました。崖の上には青い空をバックに早咲きの桜が咲き、泉の水面に花びらを散らしていました。
それから何十年かして、同じ場所を再訪したら、上流にダムができたためか、川の水は干上がり、泉も桜も消えていました。
(上の絵は色鉛筆で書いたものです)。
(二木紘三)
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コメント
もうあの時代に戻らせないようにしなければなりません。
憲法第9条を守り、62年前に戻らないしたいです。
投稿: c,m | 2007年8月16日 (木) 19時15分
この曲を耳にするたび思い出すことがあります。
《蛇足》を読ませていただくと昭和23年(1948)に映画化されたそうですが,私は昭和18年(1943)生まれですから5歳のときですね。私の記憶に残っている最も古い映画なんです。当時家から4kmほど離れている幼稚園に通っていまして,その多分途中に映画館があったんですね。日曜日だったんでしょう,近所の谷口さん一家に連れられてこの「鐘の鳴る丘」を見に行ったんです。メロディ以外は何も覚えていませんが,子供心にひどく悲しくていたたまれず,谷口さんには知らせず,そっと映画館を抜け出し,家に帰ろうとしたことを覚えています。覚えているというのは,途中道に迷って困り果て,やっと家にたどり着いた時にはもうすっかり日も暮れ,普段は優しい親にひどくしかられたからなんでしょう。
ラジオからこの曲が流れると,私がいつも涙を流していたと今は無き母親がよく言っていました。
ありがとうございました。
投稿: Santa | 2007年10月 4日 (木) 22時43分
この映画のビデオを所持しており、数年に1度の割合で鑑賞していますが、良い映画ですね。この映画は続き物になっており、1作目の「隆太の巻」2作目の「修吉の巻」で1つのエピソードが完結します。そして3作目の「クロの巻」で新しいエピソードが展開されるのですが、話は途中で終り、第4作へ続くとなっています。しかし、4作目は事情により制作中止になりました。何があったのか知りませんが、大変残念な結果です。
紘三さん、良い音楽をありがとうございました。
投稿: ばくはつ五郎 | 2007年11月15日 (木) 22時06分
私の妻は初めての子の出産で医療事故により命を落としました。そして、生まれた娘はキリスト教の施設に預かってもらいました。平日はその施設のお世話になり週末は家に引き取って私が世話をするという生活が2年間続きました。それから10年、父と娘の二人の生活を経、娘はこの4月に中学生になります。しかし、施設には娘と一緒にいた子供達の何人かがまだ残っています。この「鐘の鳴る丘」を聞くと娘を思い施設に残っている子を思い、「長崎の鐘」を聞くと妻を思い、そして昔は私達よりさらに辛い思いをした人たちがいたことを思うと、涙が溢れてきます。
投稿: Wisteria | 2008年1月25日 (金) 01時37分
私は現在、安曇野市穂高の「鐘の鳴る丘集会所」の近くに住んでおります。
集会所の前が小さな公園になっていますので
休日などには出かけて、ベンチに腰掛けさせていただくことがあります。
集会所は現在も、イラストそのままに建っています。
12時と15時の2回(と思います)集会所のスピーカーから
この曲が流れてきます。
私は戦後生まれで、投稿されているみなさんのように
この曲に繫がる悲しい思い出はありません。
しかし友人の親をはじめ、その頃の年代の方が
旅行にこられたときは必ずここにお連れすることにしています。
みなさん必ずといっていいほど感慨に浸っておられます。
ココロに残るすばらしい名曲と思っております。
投稿: 鐘のなる丘の近所 | 2008年2月 1日 (金) 22時48分
今日たまたまNHKで小沢昭一さんのハモニカと歌での「鐘の鳴る丘」を聞き妻の前でしたが涙が出て止まらなくなりました。昭和20年10歳で親子5人で満州から引揚げてきました。帰国できたのは母と私の二人、父と弟二人は途中餓死しました。当時NHKを聞き又映画も見ましたが、「僕にはお母さんがいる」と言うのが心の支えでした。現在72歳になり家内に子供2人配偶者と孫4人計10人の幸せな生活になっていますが、当時父母をなくしたいわゆる浮浪児たちはどうしているのでしょうか。
再び戦争には巻き込まれたくありませんね。しかし、怖い国も存在します。観念的な平和論で終始しないようにしましょう。
投稿: hiro | 2008年4月14日 (月) 21時33分
童謡「とんがり帽子」が大好きで、この曲の背景が知りたくなり、このページを拝読致しました。
わたくしは戦後生まれで、現在二歳になる子の母です。戦中戦後の悲惨な状態は知識としてしか知りません。両親もそろって健在です。しかし、幼い頃両親から虐待を受け、今では絶縁状態です。辛い境遇から逃れて、優しい今の夫と出会い、子供にも恵まれる事が出来ました。この曲を聴くと、自分の辛い幼少時代が慰められる気がします。父母がいなくても仲間(家族)と元気で明るく幸せに生きようと思い、我が子にも「元気でいろよ」「明日はもっと幸せに みんな仲良く」と気持ちを込めて歌うのです。この子にはわたくしのような辛い思いはさせたくない。そして我が子は可愛い。「元気でいろよ」という私達の思いを忘れずに、育って欲しいと思います。「緑の丘の赤い屋根」と歌いながら手を叩いている我が子を見ると、そんなことを考えます。
投稿: 横笛 | 2008年5月22日 (木) 23時33分
人間は狂気になれば、何をするか解らない。法律でしばって
あってもです。その例がサリン事件ではないでしょうか。
早く芽を摘み捨ててしまう、大人の役目のような気がします。
投稿: M.U | 2008年6月 2日 (月) 13時24分
戦後父が、シャープの5球スーパーのラジオを持って帰ってきてそれから、私は、うたのおばさんの番組を聞いておりました。鐘のなる丘の題名は知りませんでしたが、曲を覚えていて、二木さんのホームページでやっと曲名がわかりその当時丸い机(ちゃぶ台?)の前にすわって聞いていた自分の姿を思いだしています。
投稿: 昔の少女 | 2008年6月20日 (金) 22時28分
私の育った地域では、昔、童謡でゴム跳び遊びをしていました。歌の意味など考えることもなく、ひたすら大声で歌いながら、曲が終わるまで複雑に足にゴムを絡ませながら遊ぶのです。しかし、今、改めて歌詞を聞くと、戦後の孤児のうたでありながら、なぜか懐かしいような、そして元気の出る歌だったんだな~と、またまた、深夜でありながら何回も聞き返してしまいました。
そんな歌だから、意味がわからない幼少のころでも飽きずに、うたってあそべたのかもしれませんね。
せめて、わが子に伝承したいです。
投稿: 昔のゴム跳び少女 | 2009年1月25日 (日) 07時54分
数年前穂高有明に温泉付き住宅を買いました。今は別荘として利用していますが、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の映画の舞台となった建物がすぐ近くにあることがわかり、何と幸せ者かと思っていました。昭和14年生まれ、ラジオから聞こえた「とんがり帽子」の歌は千葉県の貧しい農家に育つ子供心には歌詞の様々な情景がダブり泣いたこともあり、たくましく生きる勇気をいただいたように思っております。多くの友人を現地にご案内させていただく度に感謝されております。貴重なドラマを語る建造物として永き保存を希望します。携帯の着信音は「鐘の鳴る丘」です。
投稿: 力三 | 2009年4月12日 (日) 17時37分
私は、この歌を始めて聞いた時は12歳になっていました。5歳の時ちょうど戦争が始まる2年前、父親からもうすぐアメリカと戦争が始まる東京は爆弾で家族が生き残れるかどうか判らない。
全員死んだら血が絶えてしまうからと滋賀県安土のお寺に預けられました。
その時父は、これが今生の別れに成るかもしれないからと「特急ツバメの展望車」に乗せてくれたのです。今でもまざまざと覚えているのは、シジミのみそ汁がぬるくて生臭かったことです。
あくる日から他人の家で全く異なった生活、夜は一人で本堂の片隅で寝る生活が始まり全員家族が東京から無事に引き上げたのが私が小学生入学の年でした。
この歌を聴くとその時代、東京に出ると上野の地下道に垢で汚れボロボロの学生服や国民服を着た子供たちが屯していた事を思い出します。
そして、通りかかると靴をみがくから金をくれと寄って来て恐怖を覚えたことを思い出します。
このドラマで少年たちの更生に力を出した人が多々いらっしゃったとものの本で読み、就職が無くて上野でドヤ街やニコヨン生活をしたことが蘇ってきます。この時代の歌は、私たちの時代の人間にとっては生死の境の歌でした。祖父母、両親を亡くし、兄を亡くし、兄弟妹姉を亡くし、東京大空襲では隅田川に亡くなった人たちの遺体で埋まったと聞きました。戦争は何処に居ても悲惨です。
どこかの国の独裁者の映像を見ると、日本のあの時代を彷彿とします。戦争は、絶対にやってはいけません。孫子の代、玄孫の代、未来永劫戦争をしてはいけません。とんがり帽子の時計台を口ずさむとあの薄汚れて食べ物をねだっていた子供たちは今や70歳を超えてどのような生活をされているだろうか幸せになっていたらいいのにと思わずには居られません。このサイトの製作者が初めて自分史の一端を示されたことにいたく感動し、私が今行っていることを倒れるまでやらなければと勇気が湧いてきました。
何十年か前にこの時計台を見に行きました。
その時も胸がいっぱいになり、よく、生きていたねと心の中でつぶやいたことを思い出します。
青い空が何処までも透明で、丘の上にすっきりと立っていたように覚えています。写真を撮ったのをと探したのですが見当たりませんので見つけたらお送りしたいです。
投稿: 早崎日出太 | 2009年7月22日 (水) 23時19分
うた・唄・歌・どれも詩と曲がついてきますよね。
特に人々の心に残り、時を経ても歌われることが多い名曲といわれるものは素敵な詩(言葉)と、感情豊かな曲(相手への思いやり)とで構成されているように思うのですが?
毎日このサイトで最低1曲は聞くようにし、皆さんの投稿を読むのが楽しみです。
管理人の二木先生のサイト運営方法に共感されている人が多いからこそアクセス数も多いのではないでしょうか。
いつまでも楽しみにしたいサイトです。
投稿: 修さん | 2009年8月20日 (木) 01時16分
二木先生のHPはPCが常時接続前のテレ放題の頃だと思いますが詳しくは忘れてます。音楽を求めてMIDIの世界をあるいてました。youtubeで映像とともに歌も手軽になってます。でも私の使命は童謡唱歌の世界であり、歌声の世界。
またこちらにもたびたびお邪魔します。よろしく
投稿: じいたろう | 2009年9月20日 (日) 17時48分
今から30年以上前のことになりますが、鐘の鳴る丘の曲の入ったLPを手にいれて聴いていると、昭和11年生まれの父がいきなり懐かしそうに歌いだしたのです。
私が驚いて見ていると、「この歌は、いつもラジオを聴いていたから歌詞なんか見なくてもちゃんと歌えるんだよ。」と嬉しそうに言うのです。
私の父は、8人兄弟の末っ子で、兄3人が出征しました。戦後直ぐに父親を亡くし、復員してきた一番上の兄が父親代わりとなり私の父を育てることになります。(3番目の兄は、シベリアに抑留されとうとう帰らぬ人となり・・・)
それから数年後、思春期となり反抗期にさしかかった私は、ほとんど大学へ進学することが出来ないレベルの高校ですら何度も停学をくらう有り様で、退学寸前の地元でも有名な不良少年となってしまいました。そんな時、父が病で1年近く入院し・・・
私は、父の入院を機に改心しました。
けれども父は、私が無事高校を卒業し、大学に進学出来たことを知りません。
私が17歳の時に父は癌で亡くなってしまいました。
鐘の鳴る丘を聴くと、いつも優しかった父のあの日の笑顔を思い出します。
投稿: 本間正幸 | 2009年9月23日 (水) 06時57分
二木先生;
今日は「ガード下の靴磨き」からこちらにまいりました。どちらも口ずさみながら涙で胸が詰まって歌えなくなってしまいました。
物心ついた時には戦争が終わっていて、子供の頃に町内の掲示板で船腹に赤十字のマークがついた引揚船“白山丸”“興安丸”のニュース写真を見たのが私の最初の“戦争体験”です。
時代の生まれ合わせとは言え、これまで生きてきて、私たちの父や叔父の世代のように、赤紙一枚で強いて望まぬ戦場に送り込まれ、銃や武器を持たされて理不尽に人を殺したり殺されたりする悲惨な経験もせずに済んだことを僥倖と思わずにはいられません。しかしながら平和の尊さ、有難さは何物にも代えがたいと思いつつも、昨今の世相や内外の状況を見ていると、先生のコメントにある“民衆を塗炭の苦しみに陥れた指導者たちの愚かな行動”が私たちの子や孫の時代に再び繰り返されるのではないかとの予感と不安が強く感じられて仕方がありません。
「ガード下の靴磨き」も「鐘の鳴る丘」も歌って涙することはあっても、リバイバルは絶対にあってほしくないものです。
投稿: 中嶋 毅 | 2010年5月27日 (木) 21時38分
このような時代に戻らないように憲法第9条を守り、平和でみんなが住みやすい日本にと、この歌は語り掛けているような気がします。
投稿: c,m | 2010年6月16日 (水) 19時09分
子供の感覚では住んでいた市から遠く感じられた町に、カトリックの修道会が運営する孤児の施設がありました。
小学生の時(昭和29年頃から?)何度か大人たちに連れられてバスに乗り、日帰りでそこへ慰問に行ったことがあります。
私たちのグループは合唱をしたり、「赤ずきん」の音楽劇を演じたり、ウェーバーの「舞踏への勧誘」のレコードに合わせて大勢の前で踊ったりしました。
いくつかのグループ合同の学芸会のようなレベルのもので、当時はそれほど深い事情もわからず、無邪気に大人たちに従っていたのでした。
その頃まだ、私の家族は戦争の影をひきずっていました。
父が兵役に服している間に、私の家も母の実家も空襲で燃えてしまったのですし、叔父は南方に出征したまま戦後10年以上も生死不明のままでした。
子供なりに耐えた辛い思いもありましたが、でも、私は孤児ではなかった……。
戦災孤児が多かったと思われるあの施設の子供達は、親のいる子供達の「学芸会」をどのような気持で見ていたのでしょうか……。
ふと、そう思った時から、慰問の思い出はどこか罪の意識に似た苦しいものになってしまいました。
今この懐かしい歌を聴く時、そのような私の思いも幾分清められるような気がするのです。
勿論、戦争はあってはならないと思います。
投稿: nobara | 2010年7月23日 (金) 10時02分
この鐘の鳴る丘(トンガリ帽子)という歌ですが、一般的には冒頭に記載された4番までということになっています。私も、ずっと長いこと、4番で終わりと思っていました。(歌詞の流れからしても、ここでストーリーが完結しています。)
ところが、先日、このビデオ全3巻を入手し、見てみたところ、歌詞が6番まであることが判明し、驚愕しました。
私は昔、隆太の巻と修吉の巻は見たことがあるのですが、クロの巻は、はじめて見るものでした。で、上記の1番と2番が隆太の巻のタイトルバックに流れるテーマ、3番と4番が修吉の巻のタイトルバックに流れるテーマとなっていることは知っていましたが、クロの巻のタイトルバックには、これまで聞いたこともない5番と6番が流れだしたのです。
確かに、修吉の巻で、トンガリ帽子の家は一応完成し、歌の歌詞としては4番までの世界が完結したのに対して、クロの巻は、Santaさんが御指摘されているとおり、次のエピソードが始まるところで、歌詞としては別のものがあっても然るべきだと思い至りました。またクロの巻では、この曲が、単なるタイトルバックのメインテーマというだけではなく、劇中でこの歌を習うシーンがかなり沢山あります。(クロが心を開いていく過程で、この歌が極めて重要な役割を果たしています。)
どなたか、この5番と6番について、詳細を御存知の方がいらっしゃいましたら、是非教えて頂けると幸いです。
投稿: 「もう戦後ではない」と言われた時代に生まれたおっさん | 2011年2月24日 (木) 23時40分
懐かしいメロディーに巡り会った気がしました。ラジオ放送があった頃生まれたので、放送を聞いたのではなく、その後よく話題になっていた曲でした。説明を読んで驚き、ドラマの舞台が信州の安曇野だったというので。今は北海道ですが数年前まで群馬県に住んでいました。赤城山の山麓大胡町(現在前橋市)にトンガリ帽子の時計台ある「鐘の鳴る丘少年の家」があって、ここがモデルとばかり思いこんでいました。ここはモデルではないのですが、非常にドラマに似ています。初代園長が数人の孤児と共同生活を始めた頃、このラジオドラマを聞き、菊田一夫に会って助力を得るとともに施設名を付けたそうです。ドラマの後を追うという形になりましたが、孤児らを温かく見守る姿勢には変わりありません。
投稿: かおる | 2012年3月 7日 (水) 23時28分
戦後3年目ぐらいの時、お向かいの家が疎開先から焼け跡にバラックを建て帰ってきました。その家の側溝の中から赤ちゃんのお骨が一体出てきました。親が焼け死ぬ前に汚水でも水の中なら熱くないと側溝につけたのでしょうか。お骨をきれいに洗って箱に入れ端切れで包み、警察に届ける前の、わずかな隙に泥棒が盗んでいきました。少し離れた川の土手に捨ててあったそうです。箱を開けた泥棒もびっくりしたと思います。鐘の鳴る丘の2番、鳴る鳴る鐘は父、母の 元気でいろよという声よというところにくると目が潤みます。大空襲の10日前に山さとに疎開したお蔭で、私も今を生きています。戦後苦労して8人の子供を育て、まだ若い中に亡くなってしまった両親に感謝です。へこたれそうになった時、元気でいろよと声を掛けられている様に思います。
投稿: ハコベの花 | 2012年3月 8日 (木) 21時15分
有明高原寮は、小学生の頃に隣接する古墳(陵塚、穂高古墳群A-1号)の観察で訪れました
小学生の身にはどういう施設か分かりませんでしたが、自律性を重視した施設であり、当時は塀はもちろん、フェンスもロクにありませんでした
あれでいいのかな?と今も思っていますが、脱走とかの事件は寡聞にして知りません
たとえ失敗をしても、ちゃんと立ち直ってくれれば、それでもう良いのですがね
投稿: FFF | 2012年3月18日 (日) 15時51分
世の中の不景気を立ち直させられない政治と福島住民に心の安らぎを与えてやれない政治に対して戦後の「鐘の鳴る丘」のような国民的ドラマが欲しい。また「リンゴの唄」「みかんの花咲く丘」のような明るい歌も欲しい。AKB48だか、DDT48だかそんな歌がいくら売れても闇は晴れない。
投稿: 海道 | 2012年6月 5日 (火) 12時44分
最近NHKの土曜ドラマで~戦後を創った男・吉田茂~が放映されていますが、ディレクターの言葉が良い。(「戦争に負けて、外交で勝った歴史がある。」国を立て直す自信を問われて吉田が語った言葉である。決して諦めない、不屈の精神で戦後日本を復興に導いたリーダーの苦難の舵取りを克明に描くことで、大震災からの復興に向かうこれからの日本への力強いエールとしたい。)
投稿: 海道 | 2012年9月15日 (土) 16時28分
子供が産まれて母親から童謡セットをもらいました。
童謡というか昭和、大正のこういう歌は聞いたこともありませんでしたが、、、どれもこれもいい曲ばかりでびっくり。
その中でもこの曲の歌詞がどうも気になり、検索してここにきました。
ラジオドラマの主題歌だったんですね。
明るいのに切ない、歌詞も物悲しい、でも明るい前向きな歌で素晴らしい曲です。
投稿: 1歳児母 | 2012年10月 5日 (金) 11時26分
責められるべきは、その気になれば避けられた戦争につっぱしり、国内外の民衆を塗炭の苦しみに陥れた指導者たちの愚かな行動でしょう。
上記の文は二木様の解説(蛇足)の中にあるものです。このサイトの性格上、二木様がご自分の主義主張を語られ部分はほとんどないのですが、この歌の解説では、明確に今次大戦(と言っても70年以前になるのですが)の指導者の責任を断罪されています。わたしも全く同感です。また、ここにアクセスされた方々もほぼ異議はないでしょう。
不幸にして戦争になれば、大人はともかく、最大の犠牲者はこどもたちです。1歳児母様はこの歌に感銘を受けられたようですが、わたしたち大人は、祝福されて生まれた赤ちゃんがすくすくと成長し、二度と「戦災孤児」と呼ばれることのない平和な国づくりをしていかなければなりません。殷鑑遠からず、政治指導者たちはこのことばを肝に銘じて、政治の衝にあたって欲しいと念願しています。
投稿: ひろし | 2012年10月 5日 (金) 14時32分
高齢の認知症の方と先日この唄を歌いました。その方は歌詞を混同されて覚えておられ、上3行は1番、下3行は2番で唄っていらっしゃいました。
2番の下3行がよほど強く印象に残っていらしたのだと思います。私が覚えてしまうくらい、何十回も繰り返して唄っていらっしゃいました。
国際情勢の厳しい時代に入ってきています。武力行使をわが国も隣国も行わないようにと願ってやみません。
投稿: ぬえの | 2012年10月13日 (土) 22時16分
戦災孤児の保護施設と聞けば 忘れられない話がひとつあります。学生の時、大学の教授から聞いた 40年ほど昔の話です。
広島に原爆被災による孤児を世話する施設があり、昭和21,22年頃になって、ようやくさがしあてた親戚が 子どもをひきとりに来る。「よかったねえ」とみんなは祝福するが、その日の夜、迎えのないほかの子どもたちの 落ち込みはひどかったそうです。そのなかに4才くらいの子がいて、毎日、夕暮れ時になると、仲間から離れて 一人、門の所にたたずんで 親が迎えにくるのをまっていたそうです。「夕ごはんよー、宿舎に入りましょうね」の声がかかるまで門のそばから 施設に続く道をながめているそうです。冬になると 外はすっかり暗くなって 寒さも厳しいのですが その子は決まったように一人、門のかたわらに立っていた。「かわいそうでねえ」と職員はつらそうに話したそうです。
この話には続きがあって、その頃、小説家の吉川英治が 取材のため この施設を訪れ いろいろな話を聞きました。夕方になると 門の所で 親の迎えを待ちつづけるという 件の子どもの話を聞くと、彼は人目もはばからず 涙を流し 嗚咽したそうです。
その教授は最後に言いました。大衆小説家だといって吉川英治を軽視するインテリと称する輩もいるが、吉川英治はなかなか立派な心の持ち主ですと。
人前で人目もはばからず泣く、いや泣けるというべきか、そんな人は 女々しいどころか 勇気のある、自分に正直な 剛直な精神の持ち主だと その時以来 思っています。
投稿: 秋山 小兵衛 | 2012年10月14日 (日) 00時05分
終戦時10才でした。本間さんのお父さん同様歌詞を見ずに歌えます。そういう世代の方もおいおい消えて昔話になるのだろう。食糧難の頃、自分や家族も飢えていたのに困窮した他人の戦争孤児、戦争未亡人を助ける人はほとんどいなかった。大阪で仁左衛門一家殺しという事件があった。歌舞伎役者に同居する内弟子が食事の差別が原因で一家を皆殺しした。小平事件というのがあった農村に買い出しに来る多くの女性達を「米を売ってくれる農家に案内してやる」と騙して強姦殺人を重ねた。そうした時代だった。もし戦争が1年でも半年でも早く終わっていれば、大空襲も原爆も沖縄戦も硫黄島もシベリア抑留も避けられて多くの涙が流されず、こういう施設の子たちも父母の膝下にいたはずだ。私たちは、そういう思いを多分生涯持ち続ける世代です。
投稿: 昭和老人 | 2014年5月29日 (木) 04時37分
昭和老人様 貴重なお話ありがとうございます。小生終戦時4歳ですが、今日は横浜大空襲記念日。B29が横浜蒔田周辺に爆弾投下、子供ながら空からの黒い物体をなんとなく記憶してます。叔母が犠牲になりました。この曲は子供二人によく歌ってきかせました。
投稿: 河嶋 忠雄 | 2014年5月29日 (木) 21時42分
昭和17年生まれの72歳です。この歌を聴いたのは昭和23年の時で当時西伊豆の漁村に住んでいました。
昭和20年に東京から引っ越してきていたのですが、大工をしていた父親が「幼稚園などはお坊ちゃんやお嬢ちゃんのいくところだ」と言って幼稚園にいれてもらえなかったんですが、近所のともだちが皆幼稚園へ行って遊び相手がいなくなり、昭和23年5月からしぶしぶ幼稚園へいかせてもらえました。その幼稚園で先生が紙芝居で「鐘の鳴る丘」をやってくれたのを鮮明におぼえています。
次回の紙芝居が楽しみでわくわく待っていましたがその後のことは憶えていません。
昭和26年の小学校3年生のときにに東京へ行った時、上野の駅の地下道から京成上野の駅までの地下道におおぜいの人が寝転んでいてとても怖かったことや上野の動物園で迷子になり当時、浮浪児とよばれていた子供たちに(同じくらいの年齢)付き纏われた怖い思い出がありますが、あれが当時の「鐘の鳴る丘」の社会状況だったのですね。
この歌をインターネットの動画で聞くと懐かしく思い出されます。その後の「さくらんぼ大将」ともどもいまもくちずさんでいます。
投稿: 町田勝二 | 2014年6月11日 (水) 14時47分
五年ほど前に、この歌の歌詞が6番まであるという投稿をしました。
その後いろいろと調べて、歌詞は以下のように8番まであることが判明しました。(出典:河内紀・小島美子著『日本童謡集』(音楽之友社))
5番
お山は緑 白い雲 小鳥が啼いてる 時計台
鐘が鳴ります キンコンカン 僕らの畑の 麦の穂に
風が吹いてる 歌ってる みんなで歌おう 緑の丘よ
6番
とんがり帽子の 空高く 親子つばめの 宙返り
鐘が鳴ります キンコンカン 僕らは母さん いないけど
寂しかないぞ つばくろよ 春の手紙を 話しておくれ
7番
秋空晴れて アルプスの お花畑に 虹の橋
鐘がなります キンコンカン 僕らは見ている 七色の
望みは高い 虹の橋 みんなで仲良く わたっていこう
8番
緑の丘の 白樺の 学びの窓に 日が落ちて
鐘が鳴ります キンコンカン とんがり帽子も 真っ暗で
青い夜空に 銀の星 ポッカリ浮かんだ 僕らの星よ
背景についても若干のことが判ってきました。まず当時はすべて生放送で、時間はその場で調整しなければならなかったのに、ぴったりに仕上げなければならなかったことから、歌で時間を調節するというのが普通に行われていて、そのため(実際には歌わなくても)後のほうまで作詩しておくのが一般的だったらしいのです。
また、これは意図していたのかどうかは判りませんが、映画化に際して第1巻(隆太の巻)で1番と2番がタイトルバックに流れ、第2巻(修吉の巻)で3番と4番が、また第3巻(クロの巻)で5番と6番が、それぞれ流れています。第3巻の最後で、一瞬だけ予告編が流れた第4巻(カラスの巻)において、多分7番と8番を使う予定だったのではないでしょうか。
なお、4番の歌詞の最後で「おやすみなさい」となっているのは、元の8番まで書かれている歌詞によると、「元気で行こう」(みんな仲良く元気で行こう)になっています。ここも憶測になりますが、後が続くのに「おやすみなさい」では繫がりが変ですので、もともとは「元気で行こう」だったのが、実際には4番までしか歌われないことが殆どだったため、8番の最後の情景と4番の末尾の情景が似ていることから、ここに「おやすみなさい」を入れて、ここで歌の世界が完結するようにしたものだと思います。
投稿: 「もう戦後ではない」と言われた時代に生まれたおっさん | 2016年2月23日 (火) 18時10分
昨日、京都文化博物館のフィルムシアターで「鐘の鳴る丘 脩吉の巻」(昭和24年松竹大船作品)を初めて観ました。ラストのクリスマスパーティで、女性の弾くピアノの音に合わせて子どもたちと合唄するシーンで、どうしても気になることがありました。「蛍の光」のメロディ(違う曲だったらごめんなさい)でありながら、全く違う歌詞で皆が歌っていたと私は思ったので、詳細を知っておられる方があれば、この歌が何であるのか教えてください。私は昭和40年前に生まれたので、この映画もラジオドラマも全く見聞きしたことがありませんが、このメロディは聞きおぼえがあり、とても気になったわけです。
投稿: まさぴょん | 2016年4月 7日 (木) 10時45分
このサイトで2度目の投稿です。
私は昭和27年の生まれで、皆さん方のご苦労は身をもって知りません。しかしこの歌は何度聞いてもいい。
菊田一夫という人は大変なわんぱく坊主だったと聞きましたが、それが大人になってこんな感動させる詩を書けるんですね。
私が涙なしでは聞けないのはこの歌と、みかんの花咲く丘です。
これは現実に本当に起こっていることだと思って聞いていた少年少女たちは全国にたくさんいたことでしょう。
投稿: ろくろう | 2017年4月 6日 (木) 21時34分
「いい夫婦」の11月22日は 静岡県の富士山の裾野で
お母さんの誕生日プレゼントに草笛を覚えたいという60歳前後の男性とお逢いしました。
2時間弱の練習で音出しができ「ハッピーバースディ♪」の曲を吹けるようになり私自身その熱意に感動しました。
本日は勤労感謝の日ですが、朝から冷たい雨が降っていました。二木先生の「母さんをたずねて♪」を検索し、幼い頃
川田正子さんの歌から 両親に恵まれなかったおさな友達の事を思い出しました。
そして鐘の鳴る丘「とんがり帽子」に辿り着きました。
鐘の鳴る丘 第一篇【隆太の巻】
を1時間20分観ました。懐かしい佐田啓二さんや飯田蝶子さんはすぐわかりました。二木先生にとっても小学生の頃訪ねられた大切な場所だと解説で知りました。元気なうちにこの鐘の鳴る丘集会場を訪ね 草笛を吹いてみたいと思います。
今 元気でこの歌を聴き、映画を観れる幸せを感じます。
投稿: けん | 2017年11月23日 (木) 13時20分
私は、鐘の鳴る丘♪とんがり帽子♪を聴く度に、何故だか想いだしてしまい、必ずページを開いてしまう本があります!
それは、土門拳の写真集で、昭和の子供たち と炭鉱閉山後のボタ山があり、そこで遊んだ、幼い頃の私の故郷を思い出させてくれる、筑豊の子供たち、この二冊の本です。
戦前、戦後の町の風景、その時代の子供たちの遊ぶ姿などを巧みにカメラに収めた写真集なんですが、購入後、早速その写真集を故郷の懐かしさを感じながら、ページをめくっていく内に、思わず目に止まってしまった写真がありました。
筑豊の子供たち の中で写っている、幼い二人の姉妹です。
るみえちゃん10才と、さゆりちゃん7才 なんですが、その二人の表情をみると、妹のさゆりちゃんは笑っているのですが、姉のるみえちゃんの表情は、何ともいえない寂しげで、虚ろな目をしてレンズを見つめています。二人の後ろの家もオンボロで、着ている服も汚れています。
この幼い姉妹は、戦争孤児ではないのですが、お母さんは、出稼ぎに行ったまま何年も帰らず、頼みのお父さんは酒を飲んでは二人の世話をあまりしなかったそうです。
風呂もなく、炊事場もない家で、姉のるみえちゃんは、妹のさゆりちゃんの世話を懸命にしていたそうです。
その後、酒で身体を壊したお父さんが、亡くなってからは、二人は施設に預けられたそうですが、それでもある日、遠く離れた以前住んでいた家に、姉妹で歩いて戻どろうとしていた途中の道路で、二人は見つかり保護されたそうです。
その後、るみえちゃんとさゆりちゃん、この姉妹の方たちが、その貧困で育った境遇を何とか乗り越えて、何処かで幸せに暮らしておられることを私は祈るばかりです。
鐘の鳴る丘(第一篇隆太の巻)を見ましたが、戦争によって孤児になられた方たちの映像の中での境遇を思うと同時に、この幼い姉妹のるみえちゃんとさゆりちゃんの境遇を、どうしても重ねてしまう自分がいます。
投稿: 芳勝 | 2017年12月24日 (日) 00時37分
芳勝 様、皆様。
芳勝様は、福岡県、筑豊地方に縁のある方の様ですが、私は、その後背地・小倉市に昭和22年に生れた者です。
今は、遥か遠くの茨城県で定年有機農業をやっております。この歌を聞くといつも思い出す事があります。
幼い頃、5人家族で夕飯を食べていました。まだ雨戸を閉めていなかったのですが、磨りガラスに、隣の外灯に照らされて、縁側に座っている人影(犬?)が写りました。「アッ」と家族の誰かが声を挙げると、消えました。
今考えると、所謂、浮浪児だったのかも知れません。家族の団欒をどういう気持ちで見ていたのだろうか、と思うと悲しくなります。
今、子供達が独立した後、農業をしているのも、その当時の飢餓の恐怖(両親が居ても)体験がベースになっています。最近、余剰野菜を、近くの町で「こども食堂」を始めたNPOに使って貰っています。
投稿: 竹永尚義 | 2017年12月25日 (月) 05時48分
私の現住所の近くに孤児院がありました。こんな田舎なのに粗末ながらブールが供えてありました。夏には近くの小学生が落葉だらけのそのプールで水浴びをして遊んでいました。古墳墓のある小高い丘の一角で遊び易かったようです。30分ごとに孤児院の職員らしき人が子供らを水からあげ、落葉を大きな籠ですくっていました。事故の点検も兼ねていたのでしょう。孤児院の子供らは別の時間に水浴びしていたようです。元々戦災孤児の収容が目的だったようですがこの辺りは基地も近く米兵との間に生まれた混血児たちもその施設に居たと聞きます。散歩でこの近くを通るときいつも鐘の鳴る丘の歌が自分の中に流れてきました。この子らに何かしてやれないかと思ったことも何度もありました。タイガーマスクならぬ我は勇気も金もなく何もできないまま老齢になってしまいました。髪や目の色の違う子供たちももう自立して施設から退出してしまったのでしょう。この施設は孤児院でなくなり老齢の方々を収容する施設となりましたが聞けば最近閉鎖され別の場所に移ったようです。気が付けばあの木立の丘も住宅がすぐ近くに迫り地権者もより収益の上がる利用の仕方を考えたのでしょう。不幸ながら元気に成長した孤児や混血児たちを想像して健やかであってほしいと祈る反面、こんな時代があったことを忘れそうになる自分に忸怩たる思いが浮かびます。
投稿: 林 滋 | 2017年12月25日 (月) 11時00分
林滋様、コメントにタイガーマスクのことが出ていますが、2~三日前にテレビに出ておられました。見ていて思わず、涙が出てきました。
林様の書いておられる内容も私などの体験を悠に越えます。
投稿: 今でも青春 | 2017年12月25日 (月) 14時21分
中村妙子様
るみえちゃんとさゆりちゃん、私は、筑豊の子供たちの本で、この姉妹の写真を見た時、衝撃を受けた事、などを振り返りながら、この内容のコメントを、初めて投稿しました!
私がこの姉妹に関する記事を読んで、認識してる事は、二人のお父さんが亡くなった後、児童相談所の関係者が、母の住所を探し当て、6年ぶりに母親と再会している事。そしてその後お母さんは、また出稼ぎに出て行った事。そのお母さん宛に、るみえちゃんは手紙を書いている事などです。
その手紙の内容は、お母さんにもっと早く逢いたかった気持ち。お父さんが、死んだ時のことを知っていますか?など
6年ぶりに名乗りでた、母に対する複雑な気持ちをつづった文面で、これまで妹のさゆりちゃんの面倒を見たり、お父さんの死を看取ったり、辛く寂しい思いをしながらも、懸命に頑張ってきた、るみえちゃんの幼いなりの、母に対する復讐心にも感じた文章(土門拳)などです。
昭和34年に12才になったるみえちゃんの写真を見た事がありますが、その後の消息は、全くわかりません。
カメラのレンズを見つめ、寂しそうに何かを訴えかけているような寂し気な瞳の、るみえちゃんの顔は、初めて見たその瞬間から、私の心に焼き付いたまま、今現在も離れません。
この姉妹がご健在であれば、妹さゆりちゃんは年齢60代中、姉るみえちゃんは70才になられる頃でしょうか。
お二人ともに、ご健在で幸せになられてることを祈っています。
投稿: 芳勝 | 2017年12月25日 (月) 18時53分
竹永尚義様
私自身は佐賀県で生まれ、少年時代をそこで過ごしましたが、幼い頃に、亡き母が未だ独身の頃には、福岡県で働いていたんだよと話してくれたり、父が炭鉱の管理職をしていた話とか、そして炭鉱での悲惨な落盤事故を経験した話とかをよく聞かされていました。
佐賀県に住んでいた頃、私の家の近所にも、閉山後のボタ山があり、幼い頃には、その山に登ったり、暗いトロッコ用の穴で遊んだり、炭坑節で盆踊りを踊ったりしていましたので、そんな事もあり、以前から炭鉱と筑豊地方には強い関心がありました。それで今回のコメントをしました。
竹永様のコメントを拝読し、戦争孤児になられた方たちへのご配慮のある優しいお気持ち、また農業に携わられておられる、深い信念が、私にも伝わってきました。
投稿: 芳勝 | 2017年12月27日 (水) 17時07分
子供の頃時折この歌がラジオで流されていました。おそらくリクエストに応じたものだったのでしょう。明るくて元気の出る好きな歌でした。そのうち孤児院の子供たちの歌だということが解ったとき僕も孤児になりたい、親なんていらない、もうこんな田舎の小学校なんて行きたくない。孤児院に行きたい、と思っていました。それほど魅力的な歌だったですね。
いまブログなど読みますと、保護施設の子供たちの間にも序列があり、強い子が弱い子の持ち物をとりあげることなどもあろのだそうです。子供に私有物は持たさないようにしている施設もあったようです。また靴を履かせると逃亡する恐れもあるので施設内では靴をはかせないとか・・・
芳勝様がご紹介された写真集「筑豊の子供たち」を図書館で取り寄せてみています。皆私と同世代の二十世紀を駆け抜けた子供たちですね。懐かしいです。私はこれほどまでに極貧ではなかった。幸せなものでした。この子供たちを抱きしめてタイガーマスクになりたい気持ちです。
1960年当時ですと、冬、小学校ではだるまストーブで石炭を燃やしていました。生徒は当番制で朝30分早く出校し、ストーブで石炭を焚きつけ、授業が始まる前までに教室を温かくしました。私も一度だけ当番が回ってきたことがあります。うっすらと雪に覆われた石炭置き場から石炭をバケツに移し教室に運び火をつけました。しかし、「子供に危険なことさせるな!」という声が挙がりその当番制は中止になりました。
かっての会社の上司がふと私に漏らしたことがあります。「僕は恥ずかしくて学校ではいつも弁当は隠して食べていた。」と、その彼がある役員の下に異動されたので私は出世されるのかな、と思っていたところ、しばらくして退職されました。お話を伺ったところでは・・・「その役員は毎晩のようにお供をつれて高級バーを廻っているんだ・・・、バーにボトルをキープしていることやウイスキーの蘊蓄を語ることが得意なんだ・・・、馬鹿らしくて仕事なんかしてられない・・・」とつぶやかれていました。
筑豊の子供たち、皆同じ世代です。それぞれの人生に幸あれ、と祈ります。
そういえば当時、小学校で「にあんちゃん」とか「つづりかた兄弟」とかの映画を全員でみましたね。、
投稿: yoko | 2017年12月29日 (金) 12時16分
yoko様
筑豊の子供たちを図書館で取り寄せられてご覧になったと知り、この本に興味を持たれた事を嬉しく思っています!
お恥ずかしいお話で大変恐縮ですが、私の長姉が、筑豊の子供たちに写ってる、姉妹の姉、るみえちゃんと同年齢なのですが、その姉が、小学6年生の時に、私も含めた1年生の世話係をしていましたが、その頃は、父の病気もあり、我が家は貧乏のどん底でした。私の田舎では、未だ給食制度が実施されておらず、朝食抜きでの弁当なしの学校生活でした。姉は弁当時間になると、ひたすら本だけを見て、時間を過ごしていたそうです。1年生の私も家に早く帰っても、昼食は有りませんでしたので、その頃は、ただ食べたい意識に駆られて生活をした記憶が、今も脳裏に焼き付いています。
また、兄弟が多かったため、6年生の姉は、まだ幼児だった末弟を学校に子守がてら連れて行き、背中におんぶしたまま、学校の授業を受けていました。
yoko様の的確で、綺麗な文面でのコメントを、いつも拝読させていただいておりますが、私は、♪かあさんの歌♪ そして ♪母恋吹雪♪での、お母様が高齢の時に訪ねられた、お婆様のお里にまつわるyoko様の思いを綴られたコメントは、特に印象に残っています。
投稿: 芳勝 | 2017年12月29日 (金) 14時00分
芳勝さま
想像を絶する貧困の中でよくも真っすぐに生きて来られましたね。涙が込み上げると同時に自分が恥ずかしく思われました。芳勝さまの苦労に比べたら私などは苦労の範疇に入りません。私の場合は農家故に食べ物に困ることはなかったが(麦飯と野菜ではあったが)偏食で食が細く義務教育の9年間はいつも「栄養やや不良」でした。芳勝さまの子供時代と比べればただのわがままに過ぎません。コメントを読んでも真摯な人柄がにじみ出ています。より穏やかなお年を重ねられますよう山形の深い雪の中で祈っています。」
投稿: りんご | 2017年12月29日 (金) 18時41分
りんご様
2017年は、♪二木先生のうた物語♪に巡り会えた事が、私のこの一年を通した中での、最高の喜びとなりました!
また、このサイトを通して、りんご様の優しさにも触れる事ができました。
お心遣い、本当に有難うございました。
投稿: 芳勝 | 2017年12月29日 (金) 21時03分
蛇足の蛇足:「丘の家・丘の上」初期は丘の家でしたが川田正子52歳では丘の上と唄ってますね。
投稿: 麻生 茂 | 2018年8月 9日 (木) 21時26分
父が大好きな曲でした。
小さい頃、父がレコードでかけて、私自身も何度も何度も聴いた曲です。
なので、私にとっても思い出の曲になっています。
レコードのジャケットに、鐘の鳴る丘のワンシーンの白黒写真が載っていて、辛い時代にもかかわらず、とんがり帽子の時計台をバックに、元気な笑顔の子供達が写っていました。
一日一日を生きることに精一杯だったあの時代にも、こうして笑顔で未来を信じたあの子供達が今の豊かな日本を作り上げてくださったのですよね。
何でも容易く手に入れられる今の時代だからこそ、70余年前を忘れてはいけないと思いました。
日本のために、命を投げ打って闘ってくださった先祖、辛い時代も明るい日本の未来のために頑張ってくださった先輩方の思いを、私達の世代は次の世代に確実に繋いで行く使命を感じます。
その思いを風化させないためにも、この曲は永遠に歌い継がれて欲しいと思います。
投稿: K.N | 2018年10月19日 (金) 02時43分
KNさんのコメント胸にしみました。これを読んで小学校低学年のころ、雨がふると父の傘を持って市電の停留場まで迎えに行ったことを思い出しました。
多分6時か7時頃だった思いますが、ラジオからこの歌が聞こえてきたことが懐かしく思いだされます。貧乏な事態でした。
投稿: 栗さん | 2018年10月19日 (金) 10時51分
「鐘の鳴る丘」二木先生が奏でられる「とんがり帽子」を聴きながら、ふと想い出したことがありました!
私が中学二年生の時ですが、社会歴史の受業中にご年配だった軍隊を経験したことのある先生が教室で話してくれたのですが、それは「君たちには考えられないと思うけど、戦争が終わった頃、日本には親を亡くした戦災孤児があちこちにいて、その子たちは住むところもなく、生きていくため、靴磨きや中には泥棒なんかをして、必死に生活をしていた本当に可哀そうな子たちが大勢いたんだよ」そう言って先生が涙ぐまれていたことを今も忘れず憶えています。
これは後年に知ったことですが、「鐘の鳴る丘」は全国に12万人とも云われる戦災孤児たちの悲惨な生活現状を見た、「少年の家」などの専門家フラナガン神父の働きかけにより、GHQがNHKに戦災孤児たちの番組を作成するように命じたということを知りました。
昭和41年にこの戦災孤児たちを描いたテレビドラマ木下恵介監督・木下忠司音楽の秀作「記念樹」という番組を私はよく観ていましたが、ちょうどその頃に戦災孤児の応援歌として作成された、今でも私の大好きな唄があります。
島倉千代子が歌った「涙の谷間に太陽を」という唄です。
1 ながれる涙あるかぎり まだ悲しみに耐えられる
2 愛されないと泣くよりも 愛してゆこうどこまでも
3 こがらしの道つらくても ひとりじゃないぞ負けないぞ
作詞家:西沢爽が書いた歌い出しの上記の詩は、戦災孤児の応援歌として、とても素晴らしいと思います。
島倉千代子は一時期「涙の谷間に太陽を」この唄をワンマンショーのフィナーレで必ず歌ったそうです。
幼いころ年末になると歳末助け合い運動の呼びかけがあちこちで聞こえました。また赤い羽根、緑の羽を胸に付けていたころが懐かしいです。
今日は久しぶりに川田正子・井上裕子の「とんがり帽子」も聴きました。
幼いころを振り返ると、ささやかながらも楽しく我が家で年越しを迎えることのできる現在の生活が、改めて本当に有難いことだと心から思えてきます。
投稿: 芳勝 | 2018年12月28日 (金) 01時57分
過日、NHKBS1スペシャル「戦争孤児〜埋もれてきた“戦後史”を追う」を見ました。それは決して他人事ではなく、様々の事を思います。
20年の東京大空襲に遭いました。家族は無事に逃げ延びましたが、まだ乳飲み子だった私は母におんぶされていたのですが、ねんねこに火が付いていて、よその人が教えてくれたそうです。また兄が親とはぐれ、死ななくても戦災孤児になっていたかもしれません。戦後まだ日本橋にいた頃、幼い兄は映画の火事を見て、真っ青になりガタガタ震えたそうです。そんな兄を見て父は途中で映画館をで出たそうです。
また女性史編纂の折、聞き取り調査で一緒に組んだ方は戦後初の婦警の仕事をしたそうです。彼女の仕事は戦災孤児の収容で、その時の話を口数少なく話してくれました。のちにもっとよく話を聞いておけばよかったと後悔しました。
東京大衆歌謡楽団の上野公園でのライブ映像の一つで、「人生の並木道」を長男の孝太郎さんが歌っていたとき、耳を傾けて無心に聞き入っている年配の女性がいました。その佇まいは孝太郎さんの歌声と歌詞を心に刻んで、かっての自分を視ているようでした。どのような人生を歩まれてきたのでしょうか。孝太郎さんが歌い終わると深々と頭を下げて去っていきました。観衆の中でやはり年配の男性が彼女を見送るとたまらず顔をゆがめて、溢れる涙を堪えているように見えました。
自分の人生を振り返ってみても、たまたま運に恵まれただけであって、どこでどうなったかは人ごとではありません。
投稿: konoha | 2018年12月28日 (金) 08時28分
皆様の仰る通りあの当時の子供だったら、誰もが戦災孤児になりえたと思います。親がいても孤児に近い生活でしたから、今の生活では考えられませんね。太った子がいましたが栄養失調でむくんでいたのです。風邪が元で寒い日に亡くなってしまいました。戦後の厳しさは言葉では言い尽くせません。
農家の子が学校の先生にさつま芋のつるをやったら成績表が一遍に良くなったという時代でした。私の友人の家は昔の感化院の先生でした。殆どの子供が食べ物を盗んで捕まった子だったそうです。鐘の鳴る丘を建てた先生が、何日か泊って見学していったそうです。怖い感じの人だったようです。2度と戦争をしないでほしいですね。親の苦労に感謝です。それにしても軍備に力を入れている国が多いです。戦争好きの人に甘い世の中になってきています。
投稿: ハコベの花 | 2018年12月28日 (金) 09時59分
ハコベの花 様、他、この歌へご投稿の皆さま。
私は戦後の昭和22年、北九州・小倉市の生れですが、この歌を人生の終盤に改めて聞くと、以下の出来事を思い出します。
幼いある頃、まだ雨戸を閉めていなかった夕餉時、磨りガラスに子供?犬?の影が映りました。偶々、外に街燈があり、室内も暗い裸電球でしたから・・・。
今思うと、「戦災孤児」ではなかったかと、切なくなります。家族の誰かが「アッ」叫ぶと、影は消えました。
今、茨城県で定年有機農業をしていますが、あの頃の食糧事情を思うと、「天地の感」がします。孫達に、あのような目に遭わせたくない、まかり間違えば、あの時代が再来するのだ、と教えておきたい。東日本大震災・原発事故の時に、一瞬ですが、「例えお金があっても、食糧の絶対量が不足したあの時代」が垣間見えました。
では、皆さま、良いお年を!
投稿: 竹永尚義 | 2018年12月31日 (月) 15時57分
感化院は今では救護院と呼ばれているのでしょうか。昔、その救護院から脱走する子供がいて、探し当てた時、子供のポケットにかなりお金が入っていたので「このお金はどうしたのだ」と聞くと、さい銭箱から盗ったと言ったそうです。賽銭箱の隙間は狭いのにと言うと、蠅とり紙を隙間から入れて張り付いたお金を盗って来たのだそうです。戦後は紙のお金でしたから張り付いたのでしょうね。笑ってはいけないのですが子供の知恵にびっくり、思わず笑ってしまいました。昭和22年はまだミルクが少なくてあかちゃんを育てるのも大変でした。妹が22年生まれで私は子守をしました。竹永様も大切に育てられたのでしょうね。長生きしてくださいね。
投稿: ハコベの花 | 2018年12月31日 (月) 21時01分
二木紘三先生
明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になり有り難うございました。
今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
さて、この①孤児院の歌《鐘が鳴る丘-とんがり帽子》と②夏の全国高校野球甲子園大会の大会歌《栄冠は君に輝く》について、前から疑問と申しますか、確かめたいことがありましたので、僭越ですが二木先生にお訊きします。
それは、①②の各歌曲のエンデイング部分ですが、その部分【①の1・3番は♬おいらの家よ♬で、②は1番~3番とも♬君に輝く♬です。】のメロディーが全く同じではないかと言うことです。私には同じに聞こえてしかたありません。楽譜は読めませんが思い過ごしでしょうか・・
仮にそうであっても、7文字だし、作曲家は同だし、両方とも同時期に出来た歌なので忙しかったのでしょうか。仕方がないとは思います。
でも、夏の甲子園が始まると気になります。先生から「いや、こういう所が違うよ!」と言って欲しいです。
投稿: 迷える古羊 | 2019年1月 2日 (水) 22時07分
迷える古羊様
ご指摘の部分は、1音がちょっと違うだけで、あとは同じです。
投稿: 二木紘三 | 2019年1月 3日 (木) 11時56分
「とんがり帽子」 ♪おいらの らの 同じ音程
「栄冠は君に輝く」 ♪君に輝く にか 「か」が低い
歌と「うた物語」の演奏も同じで正しいですね。
「鐘の鳴る丘」「栄冠は君に輝く」で検索すれば楽譜がありますよ。
「ヒロシマ」覚えておられたメロディーが歌と違うのに気付き、
紹介の50音、歌い出し から楽譜に辿り着けなくて、
楽譜はどうなのかと気になっておられた様子。
他の歌ですが、楽譜が間違っていて演奏も間違っているサイトもありました。
投稿: なち | 2019年1月 3日 (木) 13時32分
二木紘三 先生
お忙しいのに早速お知らせ下さり、どうも有り難うございました。
やはり、全く同じではなかったのですね。でも、作曲家気がついていてどうして似たようなフレーズにしたのかが分からず、すっきりはしませんが、全く同じではなかったと言うことは、なち様の助言と共によく分かりました。
なち様
新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
ご丁寧に事細かくご指摘いただき有り難うございました。
私もこの両方の歌の楽譜を入手すれば分かるだろうと思って、同様の検索をしたのですが比較できる、きれいな楽譜が見あたらず、二木先生にご依頼しました。
私は歌を唄うことは好きですが、楽譜が読めないので当然楽譜を見て覚えたことはなく、レコードやCDで歌手のものまねで覚えたものばかりです。自分の耳が、あるいは歌手の音程が必ずしも正しくないことがよく分りました。
この歌に関しては私も七言のエンデイングをこの歌に合うように私なりに色々替えて唄ってみたのですが、ぴったりくるものはなく如何ともしがたいと思いました。(笑)
「ヒロシマ」に付いては、楽譜がなくとも既に歌手里見一郎の歌唱の通りに覚えました。いろいろご心配いただき有り難うございました。今年も助け舟の舟賃はお支払いできませんが、お世話になりそうですね・・
投稿: 迷える古羊 | 2019年1月 3日 (木) 22時20分
コロナ禍をはじめ様々な災害等で国内外の政治・経済・社会情勢の変化を感じる毎日です。
寒くなりますと「空襲で家も親も失った鐘のなる丘の「戦災孤児」たちのことや、貧しいながらもみんな助け合って頑張ってきた故郷の人々を思い出します。
芳勝さんたちが書かれた「土門拳の写真集で、昭和の子供たち と炭鉱閉山後のボタ山」のことも思い出します。
当時、小学生だった私も友達の父親の出稼ぎ、出稼ぎの兄の炭坑爆発による死亡、家族の夜逃げなど耳にしました。
本日12月20日朝NHKTVで「筑豊のこどもたち」の放映があり、10歳の姉と7歳の妹のことや写真集に後ろ姿が出ている65歳の男性の話など紹介されました。
その男性の父はヤクザ、小学校も中退、肝っ玉母さんはその男性に「高校進学」を勧めた。男性は 高校を卒業後、東京の会社に就職、2年後田川に故郷に戻り、結婚して2人の子供をもうけた。その男性の子供は「親父の頭は里芋のようだ」と語った。
65歳の男性はそのような両親について「うちの両親は立派だった。私はここで死にます」と故郷への愛着を示した。
どんな親でも尊敬し肯定して、故郷をこよなく愛するこの男性の温かい言葉が沁みました。
投稿: けん | 2020年12月20日 (日) 10時17分
私も今朝NHKの「筑豊のこどもたち」を見ました。写真集の表紙の女の子は寂しそうに頼りなげな表情をしていましたが、土門拳はこの少女と妹の写真を多く撮っていたそうです。その中には少女の屈託のない可愛らしい表情の写真もありました。幼い姉妹の父親の明るい笑顔の写真もありました。
2017.12.24芳勝さまコメントの中のるみえちゃんとさゆりちゃんのことだと思いますが、父親が亡くなった後、母親の住む町でと3人で暮らしたそうです。妹を学校に行かせるため一生懸命働いたそうです。
るみえちゃんはその後結婚して子宝にも恵まれましたが、働き過ぎで倒れがちだったそうです。るみえちゃんの娘さんがお母さんに代わってインタビューに応えていましたが、お母さんは一度も筑豊の話をしなかったそうです。でも自分が死んだら父親と自分の遺灰を一緒に「ぼた山」に撒いてくれと言っているそうです。
人は原風景に戻っていくのでしょうか。るみえちゃんは父親の命日には必ず父が大好きだったタバコをお供えしているそうです。
投稿: konoha | 2020年12月20日 (日) 13時39分
52年と10ヶ月・・・ともに手を携えて過ごしてきた私達夫婦に残された時間は もう僅かしかありませんが、この歌に寄せられた皆さんのコメントは身にしみます。
今は、何方に対しても “ありがとう・・・” と、云いたい気持ちです。
投稿: あこがれ | 2020年12月20日 (日) 14時27分
この度の「鐘の鳴る丘」に寄せていただきました、けん様とkonoha様のコメントは実に感慨深く、私は感激のあまり何度も繰り返し拝読いたしました!
「筑豊の子どもたち」けん様の文面より
>・・・その男性の子どもは「親父の頭は里芋のようだ」と語った。
>・・・65歳の男性はそのような両親について「うちの両親は立派だった。私はここで死にます。」と愛着を示した。
「筑豊の子どもたち」konoha様の文面より
>・・・るみえちゃんはその後結婚して子宝ににも恵まれましたが、働き過ぎで倒れがちだったそうです。
>・・・でも自分が死んだら父親と自分の遺灰を一緒に「ぼた山」に撒いてくれと言ったそうです。
敬愛申し上げるお二方の上記コメントにより、私は改めて親子の絆の尊さを再認識することができました。今、私は心が救われた思いがしています。
この度はこのページを通して「筑豊の子どもたち」の詳細をご照会をくださって本当に有難うございました!
投稿: 芳勝 | 2020年12月20日 (日) 23時45分
私も「筑豊のこどもたち」を見たことがあります。皆様のコメントに胸を揺さぶられました。わが家にはテレビがありませんので、インターネットで何かNHKの番組の痕跡を探せないかな、と調べていて、次の動画を見出しました。
①はNHKの放送と同じものと思えますね。
➁は炭鉱孤児収容所施設の当時のニューズ映画です、泣けました。
➂は川田正子さんの歌声、良いですね~。
目撃!にっぽん「『筑豊のこどもたち』はいま “貧困のシンボル”の末に…」20201220
https://www.bing.com/videos/search?q=%e7%ad%91%e8%b1%8a%e3%81%ae%e3%81%93%e3%81%a9%e3%82%82%e3%81%9f%e3%81%a1&docid=13821007402185&mid=AC148C4CEE5B205F9AEDAC148C4CEE5B205F9AED&view=detail&FORM=VIRE
[昭和37年12月] 中日ニュース No.465_2「筑豊 -スクラップの断面-」
https://www.youtube.com/watch?v=PhbOFy4rp14
とんがり帽子 (鐘の鳴る丘) ♪川田正子
https://www.bing.com/videos/search?q=%e5%b7%9d%e7%94%b0%e6%ad%a3%e5%ad%90%e3%80%80%e9%90%98%e3%81%ae%e9%b3%b4%e3%82%8b%e4%b8%98&refig=8360fafdbbdb435eb4850c97cff14d02&ru=%2fsearch%3fq%3d%25E5%25B7%259D%25E7%2594%25B0%25E6%25AD%25A3%25E5%25AD%2590%25E3%2580%2580%25E9%2590%2598%25E3%2581%25AE%25E9%25B3%25B4%25E3%2582%258B%25E4%25B8%2598%26form%3dANNTH1%26refig%3d8360fafdbbdb435eb4850c97cff14d02&view=detail&mmscn=vwrc&mid=2F6FA87A02ADD4CBC08C2F6FA87A02ADD4CBC08C&FORM=WRVORC
投稿: yoko | 2020年12月27日 (日) 19時21分
「鐘の鳴る丘・とんがり帽子」戦後生まれの私は、後年になりこの曲とこの物語で戦災孤児の方たちの現実を知りました!
この度のyoko様がアップしてくださった「筑豊のこどもたちはいま」、先のけん様・konoha様がご照会してくださったコメントを拝読した時、この番組だけは何としても観たかったと大変残念に思っていた矢先でしたので、この作品がこんなにも早く視聴できたことに私はとても感激しています。
また、この番組最後の映像で、私が長年気になっていた少女「るみえちゃん」の純粋無垢な笑顔のアップ写真を見た時には胸がいっぱいになりました。
そして「筑豊・スクラップの断面」、もはや戦後ではないと言われ、石炭から石油へと移行した昭和30年代において、筑豊では炭鉱の閉山とともに失業者が増え続け、貧しさを極めた家族状況の中から生まれてしまった「石炭孤児」と云う悲しい現実があったことを、この番組で私は初めて知ることとなりました。
私も幼いころ炭住という長屋の棟がたくさんあり、そこで暮らしていたことを今でも鮮明に想い出します。
今思うのは、昭和のあんな時代があったからこそ、私は現在の幸せな暮らしがあるようなそんな気がします。
yoko様のおかげで、私は改めて自分の原点に立ち返ることができました。この度は私の念願だった貴重な動画をアップしていただいたことに心から感謝します。
「鐘の鳴る丘・とんがり帽子」少女期の川田正子のはちきれんばかりのその歌声は本当に素晴らしいですね。
投稿: 芳勝 | 2020年12月28日 (月) 00時43分