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2007年6月 3日 (日)

穂高よさらば

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:芳野満彦ほか、作曲:古関裕而

1 穂高よさらば また来る日まで
  奥穂に映ゆるあかね雲
  返り見すれば遠ざかる
  まぶたに残るジャンダルム

2 滝谷さらば また来る日まで
  北穂へ続く雪の道
  返り見すれば遠ざかる
  まぶたに残る槍ヶ岳

3 涸沢(からさわ)さらば また来る日まで
  横尾へ続く雪の道
  返り見すれば遠ざかる
  まぶたに残る屏風岩(びょうぶいわ)

4 岳沢(だけさわ)さらば また来る日まで
  前穂をあとに河童橋(かっぱばし)
  返り見すれば遠ざかる
  まぶたに残る畳岩

《蛇足》 第二次大戦後、北アルプスに登る岳人の間で自然発生的に歌われ始めた歌ですが、原曲は実は軍歌の『雷撃隊出動の歌』(米山忠雄作詞)です。

 古関裕而の傑作メロディに、登山家の芳野満彦が詞をつけました。私が聞いたところでは、彼が作ったのは1番だけでしたが、山男・山女たちの間に広まる過程で、次々と詞が付け加えられ、記録に残っているかぎりでは10数番まであるとのことです。

 原曲は軍歌ですから、もう少しハイテンポでよりリズミック、勇壮な感じですが、『穂高よさらば』は思い出の歌として歌われるのが普通なので、ややノスタルジックなアレンジにしました。

 3番は他の聯とメロディが違います。原曲では、この聯に「天皇陛下万歳と……」という歌詞があります。古関裕而がここでメロディ転換を図ったのは、それを強調しようとしたからでしょう。
 この強調は軍国主義
への迎合だったかもしれないし、戦争賛美一辺倒の世相における一種の保身だったかもしれません。にもかかわらず、このメロディ転換は、すばらしい効果をあげています。古関裕而の才能がうかがい知れる部分です。

 私はこの歌を、大学2年(昭和37年)の夏休み、高校時代の友人・Z君から教わりました。そのとき、私は上高地にあったタクシー会社の出張所で飯炊きのアルバイトを、Z君は観光バスのガイドのアルバイトをしていました。
 2人とも仕事を終わった深夜、小梨平に面した梓川の岸辺に腰を下ろして、高校卒業以来のことをいろいろ語り合いました。そのあとZ君は、覚えの悪い私のために、この歌を何度も歌ってくれました。

 Z君はそのとき信州大学文理学部(当時の名称)の学生でした。卒業後、高校の教師になりましたが、結婚式の数日前、自転車で帰宅中、トラックにはねられて亡くなりました。
 私は、彼の婚約者とは面識がありませんでしたが、その人の悲嘆を思うと、今でも胸が痛みます。

 1番のジャンダルムはフランス語で憲兵の意。地質学用語としては主峰の前にそそり立つ岩峰を指します。穂高連峰のジャンダルムは、奥穂高岳から西穂高岳へ向かって南へ下ったところにあります(写真)
 穂高は「ほだか」ではなく、平板アクセントで「ほたか」と読んでください。それが地元の呼び方であり、かつ正式名称です。

 なお、歌詞には上記のほかに、岐阜県のバス会社が観光宣伝のために作った「濃飛バス版」があります。上の『穂高よさらば」は岳人が実際に踏破した山の思い出を歌ったものですが、濃飛バス版は、バスの車窓から見た光景を歌ったという感じで、一般観光客の歌になっています。

YouTube=https://youtu.be/eRXtskjhh5w

(二木紘三)

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コメント

二木先生・・

このスタイルになる以前から・・つまり三年ほど前から、主に、懐かしい曲を中心に、楽しませて頂いて居ります。

先日、いつものように、曲をセレクトしてしていたところ、「穂高よさらば」というタイトルに目が止まり、聴いてみました。
「あっ・・」と驚きました。
歌詞こそ違え、あの歌でした。
 
終戦の前年、当時、東京の府立二中4年生(旧制)だった兄が、B29の爆撃で、危なくなったからとて、帰郷(山梨)していました。
毎日のように頭上を、東京目指して飛んで行く、B29の大編隊を見て口惜しがりながら、兄は歌っていました。 私は当時国民学校5年生でしたが、その、悲壮感に満ちていながら、気品のあるメロディに魅せられて、すぐに覚えてしまいました。

先生の「穂高よさらば」で聴いた曲こそ“あの歌”でした。
“あの歌”とは・・・

 母艦よさらば 撃滅の
  翼に映ゆる 茜雲
   返り見すれば 遠ざかる
    瞼に残る 菊の花

という歌詞でした。
先生の解説のお蔭で、タイトルが「雷撃隊出動の歌」と言うことも、作曲者が、古関裕而と言うことも、初めて知りました。 兄は知っていたんでしょうが・・・・・

昨日、兄に電話して、この曲を電話越しに聴かせてやりました。
「フンフン・・」と兄は聴いて懐かしそうでした。 二人は、60余年前の兄弟に還っていました。
艦載機の、グラマンF6Fに機銃掃射をされた話など、思い出話は尽きませんでした。 
でも・・結論は、「戦争は、やっちゃいかんな・・」でした。

先生のお蔭で、はからずも、久し振りの兄弟の話ができました。

有難うございました。

投稿: K.Tsuji | 2007年10月 5日 (金) 23時54分

その年の八月に富士山頂で挙式して、翌月、涸沢に紅葉を見に行きました。横尾から徳沢まで、歌詞はうろ覚えでしたが、「穂高よさらば」を繰り返して歌って歩きました。テンポのよいメロディで忘れられない快適な山旅でした。

投稿: Hideo Horii | 2008年6月14日 (土) 21時22分

あれは高校2年の時だと思いますが、松本の母校から島々
(上高地の入り口)までの長距離走があり、最初から最後まで歩き通しました。途中たわわに実った林檎にお世話になりながら。ちなみに1位は国体の5000Mスケート5位の男
でした。

投稿: 海道 | 2008年12月 5日 (金) 16時14分

今から30年位前、ダークダックスの歌よりこの歌を知りました。あこがれの槍穂高、いつかは登ると決意した。しかし、体の弱い私は夢のまた夢。本番の練習のため秩父の山々へ。ダークのファンの親友とともに登るたび歌ったのが[穂高よさらば]です。結局 槍穂高にはいまだ登っていません。社会に出てそれどころではなく、仕事に忙しい毎日でした。二年前、最愛の父が末期のガンであることを医師から宣告され、落ち込んでいるときに偶然テレビから流れていたのが上高地音楽祭でさとう宗幸さんの歌うこの歌です。このとき懐かしさの半面、父とともに病気と闘うぞと勇気をくれたうたです。今年の夏、飛騨を旅して槍穂高の雄姿を見てきました。青空にそびえる雄姿は感動ものです。今頃父も遠い空から槍穂高を見ていることでしょう。

投稿:  これきよ | 2009年8月26日 (水) 21時46分

 山歩きをしていて台風に遭遇してテントで沈殿してる時、近所のテントから交歓会をしましょうとの申し入れで一つの狭いテント内で自己紹介からお話そして、歌へと続いてる時に、私の大好きな「穂高よさらば」ですと、歌われた歌に驚きの声を上げました。終戦直前の頃、戦地より負傷して帰られた国語の先生が板書されたのが、母艦よさらば・・・の歌でした。忘れもしません。私達国民学校の3年生で、お前達は意味は判らなくて良い、大きな声で歌えよでした。口が開いてなかったり、声が小さいと「木刀」が頭に振り下ろされるからでした。あれから60年を経過しても歌詞・曲をはっきりと覚えて居ます。木刀に怯えて歌ってた懐かしい歌に遭遇致ました。

投稿: 歌木千貝 | 2009年8月28日 (金) 22時39分

穂高の美しい写真をはじめて見たのは、高校を終え喫茶店というところに大手をふって行ける様になってからで、その名も〔上高地〕という名前の喫茶店でした。50年前のことです。壁に展示された神々しいばかりの山々に一度は行ってみたいものだと東北の片田舎で憧れたものでした。

そして関東へ来て絵を描くようになって念願の上高地へ。。。実際に目の前にした穂高は息の呑むばかりの美しさでした。

このような歌詞の曲があったとは知りませんでした。

投稿: おキヨ | 2009年8月31日 (月) 11時59分

 芳野満彦氏のお名前を、久しぶりに目にしました。昭和30年代、40年代にかけて氏は登山界のスターでした。欧州アルプスへ先鞭をつけ、大倉大八氏とアイガー北壁へ挑戦し、2度敗れて3度目はマッターホルン北壁の登攀に挑戦して成功しました。パートナーは我が県筑豊出身の渡部恒明さんであったことも嬉しいニユースでした。
 年代的には8歳ほどの隔たりがありますが、同じ登山をやるものとして共鳴する部分、羨望する面がたくさんありました。
 目をつむれば綺羅星のごとき先鋭たちの名前が浮かびます。
 服部満彦御本人、吉尾弘、小西政継、服部清次、小森康行、安久一成、加藤保男、山岳雑誌を開けば誰かの名前を目にしたものです。
 当時、麻のザイルが主流だったのですが、初めての北アルプス(剣岳)への山行に13ミリ(30m)のナイロンザイルを携行し、八つ峰6峰C・Dフェース、チンネ筑豊ルート、池の谷周辺の岩場をあさる様にして登りました。21歳の夏です。池の谷右俣のⅡ峰南壁を狙いましたが刃が立ちませんでした。あれから49年、立山の青い空と、長次郎の雪渓と熊岩での休息、高須茂氏の名ガイドブック「剣岳」がぼろぼろになって本棚にあります。
 偶然に目にしました「穂高よさらば」は愛唱歌でもあり、芳野氏が徳沢で過ごした記録でもある「山靴の音」は息子の愛読書ともなっています。清冽な秋のアルプスの空気と前穂の勇姿、気さくな山屋たちとの交流がまぶたに浮かびます。何より共感しますのは軍歌を山の歌にした芳野満彦氏もまた、必ず日本が勝利すると信じて寸分の疑いも持たなかった少年時代を過ごし、焼け跡闇市を体験した骨っぽい人だということです。
 

投稿: 磯野 隆尚 | 2009年9月17日 (木) 00時10分

地元では、穂高は「ほだか」ではなく、平板アクセントで「ほたか」と読むことを初めて知りました。私の郷里石川にはかって「根上町」というのがありました。小さい町ですが、神の国発言の元総理やNYヤンキースの外野手などを輩出しています。この町はテレビでは「ネアガリ」ですが地元では皆「ネガミ」と言います。私の出身地の「塚崎町」は地元では全員「ツカザキ」(カにアクセント)ですがテレビでは何故か「ツカサキ」(平板アクセント)となります。テレビ局は何らかの根拠があってのことと思いますが、読み方やアクセントは誰が決めているのでしょうか?何はともあれ「穂高」は平板なアクセントで「ホタカ」です。

投稿: なとりがおか | 2009年10月31日 (土) 16時29分

私が初めて穂高に登りましたのは父が死んだ為に高校を中途退学した昭和29年の夏のことでした。上高地から涸沢までは高校の入学と同時の昭和27年のことです。しかしながら、此の歌だけは全く今日までは知らなかったことです。但し・原曲の『雷撃隊出動』だけは、私が蒐集しました軍歌に収まって居りましたことから、演奏が始まると同時に歌うことが出来ましたが、素晴らしい歌であると感心しました。 

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 6日 (金) 20時43分

この曲は初めて聴きましたが、山への憧れを満たしてくれる歌詞で、気持よく歌えました。
今から40年以上前、安い給料の中から立派な登山靴とピッケルを買いました。当時、二日以上の休暇はとりづらく、穂高方面とは無縁でした。
ピッケルは使うことなく眠ったままです。
一度、涸沢あたりまで登って穂高の山々を眺めたいものです。

投稿: jiro.sakata | 2010年9月10日 (金) 11時30分

岳人が好むこの歌の山は穂高(ほたか)、槍ヶ岳(やりがたけ)ですよといくら叫んでみても、歌の世界では濁って歌われています。ただ岳沢(だけさわ)を(たけさわ)と歌っているように聴こえます。言葉としては濁った方が円みがあり歌い易いとか。濁らないでと思うのは少数派でしょうね。

投稿: 海道 | 2011年11月 4日 (金) 06時39分

何んとも心地良く響くメロディー、きついと時、苦し時、心の中で口遊めば疲れなどありませんね。
会社を引退したのは還暦2,3年過ぎた頃でした。足腰は大分弱っていましたあの頃、毎日歩くしかないと決意、近くの田んぼ道から始まり、山麓の林道、そして尾根歩きと馴らし登山でした。数年経って日本の山に何んで横文字の山があるんだと不思議でした、ならば行って見ようと、ジャンダルムの謎解き登山であった。そのジャンダムと対峙する時、一瞬脳裏は真っ白でした。それは午前6時、あの岩壁に映しだされた影絵だった。謎は解けました。
≪蛇足≫の通リ穂高を守る衛兵でした。槍、盾、兜姿の衛兵の姿が眼前に現われました。名付けた先人に逢った思いでした。鎗、穂高、ジャンタルム越えの縦走で66歳の時でした。穂高よ、涸沢よ、槍よ、また来るよ、と山人生の始まりでした。今は,こうべ、耳を擦られる程に何時でも流れてい音楽、聞きたいとおもいば即座にクリック一発で、思いでの曲、快いメロディーを聞くことが出来ることを感謝しているところです。有難う御座います。

投稿: 権兵衛 | 2014年9月12日 (金) 14時40分

かつて山の先輩から教わったこの歌が、あの古関裕而の作曲ということは、初めて知りました。このサイトで勉強になることは多いです。二木先生、ありがとうございます。
山に行っていた頃に好きだった歌はたくさんありますが、「北岳の歌」なども取り上げて頂けると嬉しいです。
勝手を申しまして恐縮です。

投稿: 川口雄二 | 2014年9月13日 (土) 08時37分

ジャンダルムの写真にしばらく眺め入りました。前妻を亡くした60代の終わりから70代にかけて、まだ3000m峰を半分ぐらいしか歩いていなかったからと、しらみつぶしに登りました。奥穂高岳から初めてのジャンダルムへのナイフリッジが今でも一番怖い思い出です。リッジにまたがり、下を向いて這うように降るので、足の下の方で裾は霧に消えていく両側の絶壁がいやでも目に入るのでした。同じ道でも帰りは目が上を向いていて、さっぱり怖くないのもおかしかった。すでに半ば伝説となっていた芳野満彦の名前に、胸が揺すぶられます。「かえりみすれば」の語調に柿本人麻呂の名歌が連想されていささか不思議でしたが、元歌が「雷撃隊出動の歌」というので腑に落ちました。

投稿: dorule | 2014年9月13日 (土) 11時17分

来年(2016)から山の日ができ、休日が追加されました。山に出かけて楽しもうと言うことですね。
登山の事で言うならば、楽な山は別にして、人生は登山だと良く云われますね、穂高連峰の縦走、北鎌尾根の縦走など非常にきつくて辛いですね。何かトラブルが発生すれば身の危険もありますから決断と勇気が試されます。

でもね、この「穂高よさらば」や「坊がつる讃歌」のメロディー、何故か心に染みませんか。山の歌は何故にこうも皆、心に染みて爽快なのでしょうね。この歳になってもま未だまぶたに残る、ああ~ジャンダルム!。

投稿: 権兵衛 | 2015年9月20日 (日) 09時37分

作詩の芳野満彦は小五で富士山に登頂している。17歳の時八ヶ岳で遭難、凍傷のため両足指を全部切断しながら、のち日本人初のマッターホルンなど、輝かしい山歴を残した。ほぼ同年配の私は中学で山の魅力を知りながら高校大学を通じて山と関わることができず、サラリーマンになってから、土曜日も5時が定時という時代に、無理して徹夜山行なども試みたりした。6歳ほど年下の友人に雲取山や八ヶ岳を案内してもらったこともあり、そのころ芳野の逸話も彼から聞いた。この友人は定年後趣味の音楽の仕事をしているが、最近「穂高よさらば」を話題にしたとき、国民的作曲家といわれる古関裕而が戦時歌謡の量産者だったことが彼には許せないらしかった。それはいささか狭量ではないかと感じたが、彼が日本遺族会の要職にあったりした戦争遺児であることを思うと、批判めいたことは言えなかった。「雷撃隊出動の歌」は戦争も終末期の発表だから、替え歌を作るほど広く知られていたとは思えない。芳野がそのメロディーで「穂高よさらば」を歌ったのは、身内の誰かが特攻で亡くなったからではないかと思う、と私が言うと、友人は私が芳野と知り合いかと訊ねたが、そういうわけではなく、ただの憶測に過ぎない。

投稿: dorule | 2015年9月28日 (月) 12時14分

紅葉前線急ぎ南下中の報がしきりです。この歌に出て来る河童橋周辺は、今頃はさぞかし錦繍の装いも艶やかに、上高地ファンや登山客の目を楽しませていることでしょう。
 わたしは山男ではありません。したがって、この歌も知りませんでした。これまで2000m以上の山に登ったことも片手ほどしかありませんが、その中で最も高い山は西穂高岳(2909m)です。しかし、正確にいうと、頂上まで登らずに手前で引き返して来たのです。天候は晴れていましたが、風が強く、途中独標(どっぴょう)からの鞍部キレットを走破するには、初心者は危険だと判断してのことです。大学1年(昭和30年)の夏休みのことでした。
 後年(昭和42.8.1)、長野県立松本深志高校のパーティがこの独標付近で落雷に遭い、11名の死者と13名の重軽傷者を出した、登山史上類を見ない遭難事故があったことを知り、慄然とした記憶があります。
 

投稿: ひろし | 2015年9月28日 (月) 15時10分

今宵はスーパームーン。蒼く冴えたお月様が夜空に架かっております。虫の音も心地よく聞こえて来ます。
 北アルプスの山荘で、今夜の満月を堪能しておられる岳人も多い事でしょうね。これだけ明るいと周りの峰々の稜線もくっきり見て取れて、素晴しいでしょう。
 今時の登山ザックは縦型主流になり、昔のようなキスリング型は殆ど使われてはいないでしょう。服装や装備品なども目覚ましく進化して、山岳スポーツが身近になったことは確かです。
 それとともに遭難、それも中高年の遭難が年々増加しているのも気になりますね。天候が怪しくなったら、躊躇する事なく引き返す勇気を持つ事が大事だと思います。 これからの紅葉シーズン、ハイキング、トレッキング、クライミング、秋山は賑わいますね。私は穂高・槍ももう行けませんが、「河童橋」辺りは随分な変わり様でしょうね。穂高よ!大キレットよ! さらば‼

投稿: かせい | 2015年9月29日 (火) 00時39分

また上高地のウエストン祭が来ますがその中で歌われるダークダックスの「上高地の春」をアップして頂きたくお願いします。

投稿: 海道 | 2016年5月10日 (火) 11時11分

【穂高!】何と懐かしい山の名前でしょう。50年前大阪駅を深夜出発して、翌早朝【木曽福島】に到着しバスで上高地へ。寝ぼけ眼で・・・・【梓川】で顔をあらいやっと【上高地】に自分がたどり着いた実感が・・・・・・。その後空腹で「嘉門治小屋(?)」で待望の「そば」を口にできたとき、あらためて【西穂高】に登れることが実感出来ました。男性方には理解できないでしょうが当時は、女子は2800のみが同行を許されていたのです。男子は冬山や【立山】や【槍ヶ岳】など登っていました。当時の常識を私たちは受けて止めて、夏は【六甲山】や【大山】あたりで十分満足していたのです。
【西穂高山荘】で夕方【お風呂入れますよ】と声がかかり私が着替えをかかえておりていくと、目の前に【ドラム管から湯気が・・・・】
二階を見上げると、皆の笑い顔が・・・・・。
思わず部屋にかけあがりました。
その夜、硝子窓から見た【星空】の見事だったこと、忘れられない光景でした。あの【西穂高登山】に参加するために「播州のある山」でひとりトレーニングされての【上高地~美しヶ原】の二泊三日の登山でした。
その後息子たちをつれて、夏休みには【上高地】には二度足を運び、【河童橋】あたりで遊ばせ夜には「山荘どまり」をして、星空をみせてひとり自己満足したものでした。すべて懐かしい思い出の一ページです。
人生で4度【上高地】に足を運びましたが、5度目はないでしょう。でも後悔はありません。早朝に見た上高地が薄紫に見えたあの朝の光景は、一生忘れない私の記憶の一こまです。仰ぎ見ることしかできなかった山々、有難う!!

投稿: mitsuko | 2016年5月10日 (火) 15時06分

大学生の時友人S君と二人で穂高に登りました。スポーツは何をやってもだめな僕ですが歩くことくらい何とかなるだろうとの思いがありました。甘かったです。

S君がテント、飯ごう、ガスバーナーなどを準備し野営できるようにしました。徳澤でキャンプしました。

梓川の清流、シラカバ林の素晴らしさを満喫して歩いていたのですが、ほどなくS君のペースに合わせて歩くことができなくなりました。少し歩いては休み少し歩いては休みました。遠くに見える涸沢の山小屋も歩けども歩けども近付きません。こんなところに来るんじゃなかった、こんなことするんじゃなかった、と思いながら歩き続けました。

山の中腹からはるか下を見下ろすとゴマ粒のように小さく見えていた4~5人の女性グループがやがて私たちを追い越して行きました。女子大生のグループだったのでしょうか。

やっとの思いで山小屋に辿りつくと山小屋も山の頂上も深い霧に包まれました。頂上(残り400m)まで登攀することは止めになりました。助かった、と私は思いました。もうこれ以上歩けません。

先に到着していた女性グループのリーダーらしき方がS君に近付き、「下りをご一緒しません?」と話しかけました。なかなか魅力的な女性です。私の気持ちは「おぉ~!」と舞い上がりました。少しは私の体力も回復していたのだと思います。先ほどまで死ぬ思いでやっとのことで山小屋にたどり着いたのもケロリと忘れて、下りは楽しいぞ、と期待に胸が膨らみました。

S君は、体躯も風貌も私と比べると月とスッポンです。私はこのように女性に声をかけてもらえるS君に嫉妬していました。俺なんかじゃなぁ~、という嫉妬がありました。

ところが、S君は彼女の親しみを込めた申し出に表情をピクリとも変えないのです。彼女とは眼も逢わせず、横を向いて無視していました。一言も彼女に返事を返しませんでした。

私は、失礼だなぁ~。何ともったいないことを、こんな出会いのチャンスは二度とないのに・・・、などと思っていたのですが・・・

私はその後S君にその理由を問い詰めることはしませんでした。考えてみますに、おそらく私が一緒では皆と同じペースで歩くことはできない、という配慮もあったのだろうと思います。

穂高についてはたわいのない後日談も書きたかったのですが、長くなりますので、またの機会があれば投稿させてください。

穂高よさらば


投稿: yoko | 2016年5月15日 (日) 09時49分

  二木先生

   こんばんは

  この うた物語に書かせてもらうきっかけの
    心の抑揚を与えていただけた すばらしい曲です

   YouTubeでは   横内正&山の仲間達 歌う
   穂高よさらば  は低音の魅力がすばらしいものですね  
   この俳優さん  歌手としても十分な活躍ができただろうと思っています


  僕の人生で 登山を趣味にしたことはなく
   何度かの旅行などの機会で 利尻富士 層雲峡黒岳途中まで
   昭和新山 これも ほんのすそまで
      など登ったのを思い出すのみです
   完全登頂は 利尻岳だけかな
   地元で 六甲 摩耶はありますね  これは遠足です

  それは さておき  この 穂高よさらば は
  直接の 死という題材を歌ったものではないですね 

  そうなのですが  僕にとっては とても 悲しい悲しい 
   思い出が うかんでくる曲なのです

  こんなこと 書くべきでないという気持ちもあり
    葛藤は強いのですがーーー

  こども病院に勤務して 40年が経ちました

  その病院でのことです  その当時は だいたい
    年齢別に 病棟はわかれていました
  七階は新生児病棟  六階は A Bにわかれていて
  それぞれが乳児対象  下におりるほど 年長者でした   
    三階がICUだったかな

  彼女は そのときは 学童対象のフロアー勤務だったと記憶しています
  よくできる しっかりした看護婦さんで 集会などでもよく 発言していました 
  何かきっかけがあれば 医療につして話したいなぁ と思わせてくれる人でした
    まじめに ちびっ子のことを考えているーーー
  しかし  心から話す機会は得られませんでした
  学童の病棟には 小児外科の患児は少なく
   たいてい 新生児か 乳幼児のフロアーが我々が
  よく出没する場所でした  ですから 学童の病棟で   
  --君はどの部屋ですか  と質問したことくらいですね  
    言葉をかわしたのは

  よくは知りませんが 在日の朝鮮の方で  日本名ではなく 日本読みでもなく
  誇りをもって 朝鮮の読み方で氏名を名乗られる方でした

  清々しい 賢い 穏やかな方でした

  もちろん 僕がこども病院を退職し 大学にもどったら
  思い出すこともない人だったのです

  しかし  それから どれくらい経ったときだったのか
  新聞一面に  多人数の 神戸の山岳会の遭難事故がのったのです  
  日本アルプスでの遭難だったと思うのですが
    こういう事実は 調べてもなかなか  
     その記事に到達しないのですね
 
  少なくとも インターネット 人からの伝聞 などからは 
   消え去ったまま 表にでてきません
 
 その 山岳会 クラブも閉鎖の憂き目にあっているのでしょうね

  そのとき その パーティを指揮していたことになっているのが
    彼女だったのです
  
  彼女を隊長にしての行軍だったのです  
    えっ ---君が山で死んだ??
  それも隊長として 10人近く いや もう少し多い人々の死に関係したとは 
    ショックでした

   将来 どれだけすばらしい 人間として 看護婦として
  世の中に貢献したであろう あの人が亡くなってしまった

   彼女の指揮 判断で 多くの人を死なせてしまった

   その後におこる 予想のできる諸問題

   また 彼女の家族の思い 苦しみ
    他のなくなった方たちの 苦しみ 憎しみ

   考えるだけで 気が重く 遠くなりそうです

  彼女の 立派さ 賢さのために リーダーにならざるをえなかったのでしょう

  この曲を聞くたび 彼女の清楚なナース姿が浮かんできます  
  残酷な 残念な どうしょうもない事実は起こるものです

  エベレストで 著名な登山家 栗城史多さんが亡くなられたと報道されています  

    人間は 真の自然には 無力です

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年5月22日 (火) 01時25分

栗木史多エベレスト7400m地点で遭難。のニュースを見て、これは正に「神々の山嶺(いただき)」夢枕 獏:著
の、羽生丈二を 地でいった感じで受け取りました。
世界最高峰8000mを超すエベレストへの挑戦、単独で無酸素で、過去ノーマルルートからの挑戦でも、ほんの数名しか登攀成功した例のない神々の山への無謀な挑戦は、山を知り尽くした登山家連中からは、むしろ登山家としてではなく、山を舞台にした表現者としてしか認められなかった存在だとも言われていました。

あの、ジョージ・マロリーが8000m頂上僅かの地点で姿を消し、今だ彼が最高峰まで到達したのか、しなかったのか?永遠の謎として山を愛する人たちの間では、謎でもありロマンでもあると、聞いています。

それにしても、青春を山に賭けた 植村直己にしろ、単独行の加藤文太郎が、たった一度最後に後輩の無謀な登攀計画に同伴して、不幸にも猛吹雪に遭遇して38才?にして、帰らぬ人となったり、単独行の危険を知りながら、そこまでやる?と、いうのは、臆病者の私には理解に悩むところです。 山好きの方々、かせい様、越村様、yasusi様・・等々 どう思われます?

投稿: あこがれ | 2018年5月22日 (火) 14時30分

山は、やっぱり麓から眺めるのが一番ですね~。

投稿: あこがれ | 2018年5月22日 (火) 16時11分

 近年の登山者スタイルは大層様変わりして、昔のようにチロル帽やニッカーボッカーに革の登山靴など身につけてたら、どこからか石が飛んでくるかもしれません。
 私が山に登っていたのは20代までで、北アルプスの白馬、槍、穂高など
ポピュラーな高山でした。難所の多い、リスクの高い山は怖くて極力避け、
天候にも努めて慎重に、そしていつも3人パーティでした。
 単独登山は矢張り避けた方が良いですね。
 若い冒険登山家が亡くなられましたが、人の生き方が様々なように、『登山』のスタイルも人それぞれ在るのかもしれません。
 私も実は一度だけ単独登山をしたことがあります。八ヶ岳の主峰、赤岳です。 登頂後、夜曇りそうだ、満天の星が観れそうもないと思い、急きょ下山を決め、小海線側へ下り始めたのですが、尾根を間違えたらしく迷い子に。 清里の予定が野辺山に出てしまいましたが、大事には
至らず、でも途中で足でもくじいたら完全に遭難です。
 皆さん、夏山、雪山とも単独行はやめましょうね。
60歳を過ぎたら、クライミングからトレッキングに変えた方が賢明かもしれません…よ。

投稿: かせい | 2018年5月22日 (火) 22時04分

かせい 様

八ヶ岳南麓の友人のペンションを初めて訪れた時、八ヶ岳山麓の公園道路から赤岳を間近に見て、そのゴツゴツして荒々しい男性的な姿に一瞬目を奪われました。
関西辺りでは見ることのない偉容を仰ぎながら、信州の信州たる所以を、しみじみ味わった思いでした。

八ヶ岳は車で2~3回縦走しましたが、トレッキング(といえるかどうか?)したのは、白駒の池近辺くらいです。

投稿: あこがれ | 2018年5月23日 (水) 12時05分

あこがれ様、かせい様ほかのコメントを興味深く読ませて頂きました。
  私の郷里の山は、加賀・白山です。二十歳前から三十歳過ぎまで、数回登りましたが、いつも夏山登山で、いわば、ハイキングの延長のようなものでした。何回目かの登山のとき、大分様子が分かってきたことから、初めて単独登山を試みました。因みに、他の山も含め、”雪と岩”の山に登ったことはありません。
  山の思い出ということになると、やはり、初めての登山はとても印象的で、登山口から歩き始めて、麓付近ではブナの大木に目を見張り、中腹では白樺に似た岳樺(だけかんば)の木に出会って不思議に思い、頂上付近ではハイマツやシャクナゲなどの低木や、高山植物を見て、高山の厳しさの中で健気に生きている木や花の命の美しさを感じ、これらが一体となって脳裏に強く焼き付けられました。真夏の暑さの中の下界に対比して、ハクサンコザクラ、ハクサンイチゲなどの色とりどりの高山植物が花が咲き乱れる、春の陽気の頂上付近は、まさに天空の楽園でした。また、主峰に寄り添う別山などの付近の山々の雄大な景色は、そこに立たないと味わえない絶景でした。 
  一方、春先の晴れた日に、加賀平野の木場潟越しに仰ぎ見る白山は、手前の青い山並みの後方に、三つのピークの真っ白な姿を見せ、その気高い美しさは喩えようがありません。
 齢傘寿に達し、自力での白山登山は相成りませんが、若い日に登った白山の雄大な景色や美しい高山植物の花々の記憶は、消えることなく、今も私の心に息づいているのです。

投稿: yasushi | 2018年5月23日 (水) 14時42分

 『穂高よさらば』の元歌である『雷撃隊出動の歌』では、唄い出し一句目が〝母艦よさらば 撃滅の〟と七五ですが、五を〝また合う日まで〟と七にしてますね。 〝また会おう〟と五にできたのに、わざわざ変えたのはニュアンスもさことながら、「軍歌」というイメージを少しでも払拭させたかったのでしょうか。
 私はほぼこの歌のとおりのルートで、槍から穂高へ縦走しましたが、難所も多く、初級に毛が生えた程度の登山者には相当きついものでした。 翌日、岳沢から上高地へ下山しましたが、着いた頃には膝がガクガクしていて、初めて「膝が笑う」というのを体験しました。

 あこがれ様もご存知のとおり、八ヶ岳南麓は裾野がとてもひろいですね。 岩肌が剥き出しの分、浸食された岩や土砂が麓に体積して、あのように広大な裾野が出来上がったのでしょう。
 南麓にある緑したたる「まきば公園」や「清泉寮」を、牧場を見た事がないとおっしゃるハコベの花様に是非一度訪れて欲しいと思っていますが、なにせあの赤石山脈が阻んでいますからねー。

投稿: かせい | 2018年5月23日 (水) 16時44分

yasushi 様

加賀のご出身とか。茨城県で、定年有機農業をやっている者です。
 今秋48年振りに
同期生と会う為(加賀市山代温泉在住。高知市出身)に、石川県山代温泉を訪ねた後、福井県「永平寺」経由、白山南麓の岐阜県郡上市石徹白地区を尋ねて帰る予定にしています。齢70ですから、最早、白山に登る元気はありませんが。生まれ育ちは、九州・小倉。高校の2年間は広島市でした。
 目的は、石徹白地区の「小水力発電所」その他、農業の様子をみる事です。若ければ、福井県大野市から九頭竜川を遡って、歩いて行きたい所ですが、叶いません。2年前から、圃場で「大野芋」を作付しています。自分に取っての「終活旅行」と位置付けています。

投稿: 竹永尚義 | 2018年5月23日 (水) 18時11分

遠くに見える山並みを見ているだけなので、かせい様が教えて下さった八ヶ岳がどこにあるのか地図で探してみました。足が元気なうちに行ってみたくなりました。今度、旅行のパンフレットを見てみます。ゆっくり行けるバス旅行がありましたら行ってみたいです。正直なところ私は新幹線の切符の買い方もわからないほど旅に出ませんでした。招待でタダの切符を貰って東京まで3回ほど行ったことがあるだけです。なんだか久しぶりに楽しくなってきました。かせい様有難うございました。あこがれ様 私も山は麓から眺める方が好きです。元気なうちに麓から眺めてみたくなりました。皆様のおかげで気持ちが元気になってきました。有難うございました。

投稿: ハコベの花 | 2018年5月23日 (水) 21時44分

竹永尚義様には、この秋に、私の郷里(石川県)、そして、福井県、岐阜県をお訪ねになる由、当地出身者の私(兵庫県在住)にとって、嬉しいお便りです。
  ご友人がお住まいの山代温泉は、「日本百名山」(新潮社 S39)の著者の深田久弥さん〔故人、小説家(随筆家)及び登山家〕の生誕地・大聖寺町と隣合わせですね。深田久弥さんは、前著の「87 白山」の項で、”…私のふるさとの町から眺めるのが最上である…”と述べておられ、天気さえよければ、深田久弥さんお勧めの白山の眺望を体験できますね。
  次いで、福井県の「永平寺」を経て、勝山、大野と白山西域を流れる九頭竜川を遡り、白山南麓の岐阜県の石徹白を訪ねられるご計画とのこと、私もほぼ同じルートで、九頭竜湖までドライブしたことがあります。
  旅のご幸運と実り多いことをお祈りするばかりです。

投稿: yasushi | 2018年5月24日 (木) 11時08分

山を愛する方達のコメントを、読ませて頂きながら、ロマン溢れる素晴らしい情景を私なりに思い描いています。

厳しい自然に立ち向かいながらも、 風雪に耐えひっそりと咲いている 小さな花々にさえ寄せる 繊細で優しい眼差しが感じられて、山を愛する人達の紀行文は、いいな~と、しみじみ思います。

穂高よさらば、いつかある日、坊がつる讃歌、山男の歌、山のけむり、山岳への想い、槍ヶ岳讃歌 等々

もし かなうなら、山頂から満天の星を眺めながら山仲間と一緒に思い切り歌ってみたいな~♪♪
今となっては、かなわぬ夢だけど・・・。

八ヶ岳を望む南アルプスの麓に在住している樋口明雄の「天空の犬」(南アルプス山岳救助隊)を読んでいます。


投稿: あこがれ | 2018年5月28日 (月) 00時57分

野歩本様
 貴殿のコメントを読んでいて、私の知っている「知覧」が出てきました。何度か行きましたが、万世は行ったことがありません。いつか行きたいと思っていました。
 かつて県内の中学校の同窓会で行ったことがあります。現役のとき、同僚と行き今度はここに来たいねと話したものです。家族と何度か行きました。桜の花もいいですね。

投稿: 今でも青春 | 2018年5月28日 (月) 21時02分

 野歩本様
 女ことばはそういう風でいいかと思います。大隅半島のフェリーの料金所に大きく「あいがとさげもした」(ありがとうございました。)というような表現がありました。武士は「あいがと申し上げ申した」(もしゃげもした)というと思います。男と女の差別をしているわけではありません。とりわけ薩摩藩は男尊女卑の区別が激しかったところとお聞きしております。
 また、アザミの花の植生?を精しくお調べなされての記載まことにありがとうございます。そんなにあるとは存じませんでした。

投稿: 今でも青春 | 2018年5月31日 (木) 18時05分

 令和の始りとなる今日、去っていった平成のいろいろな出来事を思い出しました。
30代の頃は、元号法制化法案に反対の立場でしたが、ひとつの元号が変わることにこんなに感慨があるとは思いませんでした。年のせいもあるのでしょうが、日本の文化の良さに心底気づきました。
 この歌の出だし「穂高よ さらば」は「平成 さらば」にきこえます。「かえりみすれば 遠ざかる」の後も「まぶたに残る 昭和平成」と続きます。
 『穂高よさらば』の歌も好きですが、『雷撃隊出動の歌』も好きでよく聞きます。死地に赴いた若者が<自分の生の意味>そして<自分の死の意味>を必死に探して、<救国の一念>に収斂されていく心模様がいじらしく、いつも心打たれます。軍歌を聞くから軍国主義者だ、戦争について調べても、左派的観点に立たなければ、反動主義者だという稚拙な思考は、今や若者の中でなくなりつつあります。ネットの威力でしょう。若者たちが、マスコミや一部の老人たちの硬直した洗脳から解放されていくのは実にうれしいです。私の<今の時代の感慨>です。
 また<蛇足>には
「3番は他の聯とメロディが違います。原曲では、この聯に「天皇陛下万歳と……」という歌詞があります。古関裕而がここでメロディ転換を図ったのは、それを強調しようとしたからでしょう。
 この強調は軍国主義への迎合だったかもしれないし、戦争賛美一辺倒の世相における一種の保身だったかもしれません。にもかかわらず、このメロディ転換は、すばらしい効果をあげています。古関裕而の才能がうかがい知れる部分です。」と述べられています。
初めてこの文を読んだ時、作曲家古関裕而に戦争協力者という単純なレッテルを張らずに、実証主義的に音楽を検証して、物事を冷徹に見ていこうという姿勢に大変感動しました。大変な勇気がいる記事だとも思いました。私が、二木先生のファンである一つの大きな理由です。

投稿: 越村 南 | 2019年5月 1日 (水) 22時58分

この歌の題名を、例の国会議員に捧げます。

投稿: 半畳亭 | 2020年1月20日 (月) 16時27分

令和4年の県人会の故郷訪問ツアーは10月に上高地から飛騨に抜けるコースを検討しています。先生が若い頃餞別を貰った、あの上高地です。バスの中で歌う歌として上高地の春と穂高よさらばが候補です。

投稿: 海道 | 2022年6月 4日 (土) 07時28分

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