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2007年7月30日 (月)

赤い靴

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:野口雨情、作曲:本居長世

1 赤い靴はいてた 女の子
  異人さんにつれられて
  いっちゃった

2 横浜のはとばから 船に乗って
  異人さんにつれられて
  いっちゃった

3 今では青い目に なっちゃって
  異人さんのお国に
  いるんだろ

4 赤い靴見るたび かんがえる
  異人さんにあうたび
  かんがえる

Photo_20201231031501
上のイラストは、2021年の年賀状用に歌詞の3番・4番のイメージで描いたもの。デッサンがくるっているのはご愛嬌ということで。)

《蛇足》 詞は大正10年(1921)、『小学女生』という雑誌に掲載されました。翌年、本居長世が曲をつけ、その娘・貴美子の歌で発表されました。

 野口雨情の詞には、モデルがいます。静岡県生まれの「岩崎きみ」という女の子で、母親が北海道の開拓地に入植するため、アメリカ人の宣教師に養女として預けられたのです。
 ただし、きみは結核にかかり、9歳で亡くなってしまったため、実際にはアメリカには行っていません。東京の青山墓地に彼女の墓があります。あまりに幸薄く、はかない一生でした。

 この歌が有名になってから、静岡県日本平に「親子の像」、横浜の山下公園に「赤い靴はいてた女の子」の像が建てられました。
 これについての詳しい説明は、「麻布十番商店街」のホームページの中にあります。

(写真は横浜・山下公園にある赤い靴の女の子像)。

(二木紘三)

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コメント

「麻布十番商店街」のホームページで赤い靴の女の子の悲話を読みました。
戦前手回しの蓄音機で聴いた美しい詩とメロディーの童謡にこのような秘話があったなんて・・・・。
最近は親と子がともに歌えるような童謡がなくなってしまいました。

投稿: 周坊 | 2008年1月 9日 (水) 20時43分

 二木さんの、簡にして要を得た解説に、いつも目からウロコの思いでいます。夜毎の楽しみになっています。
 この「赤い靴」は幼少のころから親しんでいる歌のひとつですが、子供ながらに、4番の歌詞中の「かんがえる」という言葉に、何か重いものを感じていました。なぜ「思い出す」ではいけないのか。
 私がこの歌に初めて接したのは、小学入学前後、今から60年あまりも前のことになりますが、その年頃の私にとって、「かんがえる」という言葉がいかにも大人っぽく響いたことを、今も覚えています。
富国強兵の国策の裏にあった和魂洋才という考えかた、そういう中での庶民レベルでの欧米人との付き合い方に、野口雨情は、ある種の違和感を持っていたのでしょうか。
 ご意見をお聞かせ願えれば幸いです。

投稿: K.HIRAO | 2008年2月13日 (水) 21時36分

小さい頃から親しんできたこの「赤い靴」ですが、私も子供ながらにこの歌詞は謎でした。
 ある日異人さんが赤い靴の女の子を誘拐して、横浜の港から連れ去って行っちゃった。赤い靴を見るたび、異人さんにあうたび、あの子は一体どうなっちゃたのか、考えてしまう。異人さんはこわい。と、解釈して歌っていました。
 最近になってこのサイトのおかげで、この歌がつくられたいきさつがわかりましたが、またあらたな疑問がわいてきました。
 女の子は連れ去られたのではなく、母親の方から、生活苦のため、信頼する異人さん(アメリカ人宣教師)に引き渡したのですね。それなのにどうして、「つれられていっちゃった」という表現になったのか。もっと他の言い方をしても良さそうなものです。
 全体、この歌詞をすなおに読むかぎり、そのような背景を暗示するものは全くないように思います。
 でも、野口雨情さんは、私達にはうかがい知れないもっと別の、あるいはもっと深いものを、この詞に籠めたのでしょうか。

なお、揚げ足取りで恐縮ですが、<蛇足>の中で「・・・アメリカ人の神父に養女として・・・」とありますが、ここは「神父」ではなく、「牧師」が正しいのではないでしょうか。
 

投稿: くまさん | 2008年2月19日 (火) 23時35分

くまさん 様
 チャールズ・ヒューエットがカトリックかプロテスタントかわかりませんが、きみちゃんをメソジスト系の孤児院に預けたとありますから、おそらくプロテスタントでしょう。プロテスタントなら、確かに神父はおかしいですね。しかし、確実にプロテスタントかはわからないので、宣教師という言葉に直しました。

 野口雨情はきみちゃんの実話をそのまま詩にしたのではなく、それを素材にイメージをふくらませて、詩を作ったのです。
 しかもその詩は、きみちゃんの母親の視点からではなく、宣教師の家の近所に住んでいた少年か少女の視点から書かれています。
 少年か少女は、外国人の家で暮らす日本人の小さな女の子に強い印象を持ったのです。その小さな女の子を何度か見かけ、もしかしたら、いっしょに遊んだこともあったかもしれません。
 その小さな女の子が、ある時から急に姿が見えなくなったが、どうしたのだろう。たぶん、外国人夫妻に連れられてその国へ行ってしまったのだろう。なんだか寂しいな……と、少年か少女が考えているわけです。
 「連れられて」を「連れ去られた」とか「連れて行かれた」というイメージで解釈なさっているようですが、ここでは「伴われて」という意味にすぎず、それ自体に負の意味はないと思います。
 「いっちゃった」も、きみちゃんがいなくなって寂しいという少年または少女の気持ちを強調したした表現で、野口雨情の言葉の使い方がおかしいとは思えません。

投稿: 管理人 | 2008年2月20日 (水) 01時33分

管理人 様
 早速懇切丁寧なご回答、ありがとうございます。
先生ご指摘の通り、きみちゃんがいなくなって寂しいな、という遊び友達の目線でこの詞を読めば、何の違和感もなく素直に共鳴できますね。それなのにどうしてあのような曲解に捉われていたものか、我ながら可笑しくなります。
童謡は子どもの視点での詩表現である、という肝腎のところを忘れていたようです。
また眼から鱗が一枚落ちました。尤も、私の眼は鱗で出来ているようなものですが。
 

投稿: くまさん | 2008年2月20日 (水) 13時06分

 二木先生の解説、「麻布十番商店街」、そして皆様方のコメントじっくり読ませていただきました。お蔭様で、私もいっぱしの「赤い靴通」になれそうです。
 さて、これまでの良い流れを止めてしまわないだろうか。また『赤い靴』のようなロマンをかき立てる話でもないし、個人的なことだし…。迷いましたが、私の二番目の妹の供養にと、以下の文を書かせていただきます。だいぶ長文で申し訳ありませんが、二木先生の『赤い靴』をBGMに、ご一読いただければ幸いです。
                      *
 昭和31年。もう半世紀以上前のことです。この年、私の家は零落の極みでした。
 山形県内陸部の山あいの「太郎村」という戸数数十戸ほどの寒村に私の家はありました。(この部落名に「光」を上につけて、私の名前になりました。)最上川の一上流である吉野川の川そばの、借地上のあばら家でした。畑のみの小作農、貧農でした。2年ほど前から家で病床にあった父と、母と、私と、すぐ下の妹と、二番目の妹の5人家族。父に代わって母が、畑仕事をして私たちを養ってくれていました。主食は、アワ、イモ、大根のたぐい。「白いおまま(ご飯)」は食べられませんでした。

 その年の4月半ば過ぎ。私が小学校に入って間もなく、父逝去。享年35歳。若すぎる死でした。
 父の野辺の送りも終わって、参列してくれた親族や村人らがほぼ帰った頃。福島県K市から来ていた父の姉(叔母さん)が、当時三つだった二番目の妹を「養子にもらい受けたい」と切り出したそうです。叔母家には子供がいなかったのです。叔母はどうも初めからその腹づもりだったようで、当家では出せない葬儀費用一切をこの叔母が出してくれたのだそうです。母は「それだけはダメだ」と強硬に拒みました。(母にとってその妹は一番お気に入りの「めんごいおぼご(可愛い子供)」だったようです。)しかし叔母は最後は、ひったくるようにして抱きかかえながら、その妹を連れて行きました。
 妹は、手足をばたばたさせながら泣きじゃくって、見えなくなるまで母の姿を求めていた。その姿が忘れられないとは、母のずっと後年の談です。
 また、すぐ下の妹は、村から三里ほど奥に行った山の中の七軒部落の母の実家に預けられました。こうして我が家は、あっという間に、母と長男である私の2人だけになってしまいました。

 その年の9月。電報が届きました。「キクコ シス スグ コイ」というような内容の。キクコ(菊子)はもらわれていった妹の名前です。
 母に連れられて、K市の叔母家まで、初めての汽車の旅をしました。今では新幹線ですぐですが、当時は鈍行のうえ県境の板谷峠がスイッチバック方式で、けっこう時間がかかりました。米沢あたりから同席になったよその小父さんが、我が家の身の上に同情し、親切にしてくださいました。
 叔母の家は、K市の外れの、わりと大きな農家でした。途中竹林が多く、ざわざわ風にそよいでおりました。
 叔母の話では、妹は疫痢(えきり)という流行病にかかって、あっけなく死んでしまったのだそうです。それで、連絡が遅くなってしまった。流行病だから急ぎ葬儀を済ませ、既に荼毘に付してしまった…。

 その晩叔母が、母と私のもとに妹の骨壷を持ってきてくれました。大人のよりだいぶ小さい、赤い色の壷だったと思います。蓋を取って、中を見せてくれました。
 菊子は、ほんの小さな何片かの骨になっていました。真っ白い可愛らしい骨でした。

 妹が死んだ翌10月、「女手で畑仕事を続けていくのは無理だべ」という村の有力者のご配慮で、母と私は、町の「母子寮」にお世話になることになりました。ようやく「白いおまま」にありつけました。(翌年、母の実家に預けられていたすぐ下の妹も戻ってきました)。

 母にとって、最愛の子の死は相当のショックだったらしく、それ以後乳房が引っ込んで、男の胸のように真っ平らになってしまいました。
 その後、母は死んだ妹の話はあまりしませんでした。しかし平成9年初夏、母が脳梗塞で倒れて入院し、私が病院を訪ねたある日。母はうわごとで「きぐこ、どさえった?(菊子どこに行った)」と、私の背広の腕のすそをつかみながら聞くのです。「どさもえってねえ。げんきにすてっから、しんぱえねえ。(どこにも行ってない。元気にしてるから心配ない)」と、私は答えました。

 お読みいただき、ありがとうございました。

投稿: 大場光太郎 | 2008年3月 2日 (日) 19時09分

大場様、涙を流しながらコメント記事を読ませて頂きました。
昭和31年は、もう私は結婚しておりました。この時代に
こんな生活をしておられる人がいることを知らないで過ごした
時代でした。お母様のお心の中に最後まで一緒におられた妹さん
きっと今はあの大空の中で、楽しい語らいをなさっていらっしゃる
ことでしょうね。横浜の山下公園の中にある「赤い靴の像」の
小さな女の子の姿が目に浮かびます。私もこの歌は大好きで
こども時代から口ずさんでおりました。一つの歌中には、人
それぞれの思い出があることを、改めて痛感しております。
お母様、妹さんを思い出すたびに、大場様のご長寿を祈って
いらっしゃることでしょう。

投稿: れいこ | 2008年3月 3日 (月) 08時19分

れいこ 様

 お読みいただいたうえ、暖かいご感想までたまわり、まことにありがとうございました。
 本日たまたま「ひなまつり」です。お蔭様で、半世紀余り経ってようやく、妹・菊子への良い手向けができた思いです。(妹は、私の中では今でも3歳のままです。)
 私は業務の関係で、月に一、二度は神奈川県庁にまいります。今度余裕をもって出て、県庁から近いですから、山下公園まで足をのばして、「赤い靴の像」に会ってこようかなと考えております。
 れいこ様。どうぞご健勝でお過ごしくださいませ。

投稿: 大場 光太郎 | 2008年3月 3日 (月) 15時29分

 「赤い靴はいてた女の子の像」を見てまいりました。その時のようすを(一部創作を交えて)私のブログ「今この時&あの日あの時」に記させていただきました。記事のアドレスは下記です。
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_2c19.html

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月12日 (土) 19時31分

私は幼いころ異人さんにのところを「良い爺さん」にと誤解
して歌っていました。良い爺さんが何故つれていくのか不思議でしたが。

投稿: M.U | 2008年7月26日 (土) 14時34分

教師をしていた時、6年生の修学旅行で横浜の「赤い靴をはいた女の子」が見学コースの一つに入ってたので、“赤い靴はいてた女の子 異人さんに連れられていいちゃった”の歌詞を解説しようと軽い気持ちで読みだしたとき、急に言葉に詰まり読めなくなってしまいました。管理人さんの解説でさらにこの歌詞への理解を深めることができ、いまさらながら、歌詞の深い背景に思いをはせています。
野口雨情の“シャボン玉 とんだ 屋根まで飛んだ・・・”も背景を知ると胸が詰まります。
また、読ませてください。

投稿: くらんぽん | 2008年8月10日 (日) 02時23分

かのサトウ・ハチロー大人は、雨情の詞について、

「初期のものほど、ひなびた味があっていいのですが、良い頃の詩は
あまり知られなくて、晩年“青い目の人形” “赤い靴”など 
悪くなってからの作品が、広く普及しているのは、
悲しいことだと思います」(「日本童謡集」社会思想社刊)

と、辛辣に批判していますが、彼がなぜ「赤い靴」を駄作のうちと断じたのかは、
憶測の域を出ません。

やはり「連れられて」に引っかかるものを感じたのかとも
思いますが、ハチロー氏ほどの言語感覚の持ち主が、この
部分の本質を見誤るとも思われません。

あくまで私見ですが、第三節の「今では青い目になっちゃって」
が気に入らなかったのかも知れません。

極度なまでに潔癖で、詩想にいささかのウソもごまかしも
許さなかったリアリストゆえに、敬愛した白秋の詩でさえ
「赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実をたべた」に対してだけは
「ミステイクでいただけない」と切り捨てているほどですから。

まあ、感じ方は人さまざまで、難しいところではあるでしょうが。


投稿: 若輩 | 2008年8月25日 (月) 21時42分

大場様

まさに「おしん」を想わせるご体験ですね。感涙に耐えかねません。日本の発展の過程で大場様が体験されたような悲しみがいくつあったことでしょうか。

私は41歳の若輩者ですが、幼い日に親を失い、以来世間の荒波に呑まれながらも懸命に生きてまいりました。世間がバブルに浮かれた時代でも、病気で何度も倒れるまで苦学しました。行きたかった大学は受験さえできませんでしたが、その分残された妹を育て上げました。今でも「人生の並木道」を聞くと涙がこみ上げてきます。

現在は大場様が体験されたような悲しみが現存する途上国の支援のお手伝いをさせていただいております。

ある途上国で貧しい身なりの兄妹のストリートチルドレンと話す機会がありました。瞬間、30年前の自分をそこに発見し、この世で自分のすべき仕事を確認致しました。

大場様の3歳の妹さんは必ず生まれ変わって大場様のお近くにいらっしゃると思います。強い縁を持って生まれてきたのですから、どこにも行っているはずがありません。

失礼ながら。。。

ひとたびは蕾の落つと見ゆれども次の枝にぞ菊の薫らん

貴重なお話ありがとうございました。

投稿: 寅次郎 | 2008年11月16日 (日) 11時48分

寅次郎様
 このたびは私の拙文に特別なコメントをいただき、まことにありがとうございました。御文を拝読し、「私なりの貴重な過去の体験を、決して無駄にしてはいけない」との想いを、新たにさせていただきました。
 寅次郎様は現在、途上国の人々への支援のお仕事に従事されているとか。意識が高くありませんと、心では思ってもなかなか実際行動に移せるものではないと思います。寅次郎様も幼くして親を失われ、苦学、苦闘されたよし。「艱難汝を玉にす」―この金言は決してウソではありませんね。
 その過去の体験は、必ずや向うの方々の心に響くものと思います。国境を越えてご活躍の寅次郎様のお姿から、ともすれば安易に流されやすい、昨今の自分への戒めと励ましをいただきました。
 41歳。まだまだお若く、人生の働き盛りはこれからです。寅次郎様の今後の、更なる飛躍を心よりお祈り申し上げます。

投稿: 大場光太郎 | 2008年11月16日 (日) 15時09分

30年位前、ハーモニカを吹く身障者に協力して10人ほどのメンバーで、ボランティアで県内の老人ホームに慰問をしてました。
その時の協力者に清水市宮加三の70歳ぐらいの岩崎さんがいました家業は自動車修理業でした、岩崎かよは家から出た子だと、よく皆様の前で話をしてました。私は下手な腹話術と歌をやり、岩崎さんはメインのハモニカを吹く身障者の協力者してました、とてもいいお爺さんでした。

投稿: 藤田宣美 | 2009年2月11日 (水) 16時44分

「赤い靴」と「青い目の人形」はセットで発表しているんですね。
野口雨情は、これはわざと対照的につくったと書いています。
日本の女の子がアメリカに行った話と、(そのうらがえしの)アメリカの女の子が日本に来た話。

野口雨情が札幌時代に、啄木やこの赤い靴の女の子の義父と
職場で同僚だったことは他の資料からも間違いないことです。
しかし、それから10年以上もたって
札幌で聞いたという赤い靴の女の子の話を歌にしたというのは
他の話も影響があったのであって
「きみちゃん」の話がストレートにこの赤い靴にむすびついたと
きめつけるのはいかがなものかという意見もあります。

雪の降る町が、鶴岡以外の町で作ったのではないかと諸説があるように
おそらくそういう話をしたら作者自身でも、なかなか断定できないのではないかと思います。
私としては、「きみちゃん」がモデルでいいと思います。

小樽、函館と赤い靴の女の子の像を見て回りました。
次は札幌に像ができるそうですが、赤い靴の女の子の像ができたなら見に行きたいと思います。

投稿: みやもと | 2010年8月25日 (水) 21時57分

 ちょっと必要があって 山下公園のー赤い靴を履いた女の子ーの像を撮って来ました パッチリとした大きな目で 何かに腰をかけて沖を見つめています 着物ではなくて丸襟の洋服姿です 異人さんに引き取られたのですから 当然なのかもしれませんね そういえば麻布のきみちゃんも洋服姿で立っています 汽笛が聞こえる処に住んで居りますので きみちゃんとは親しく致しております 帰来 この頁を開きましたら いくつもの 高論卓説に あっそう ふ~んと驚きながら拝読致しました 明日にも行って 薄倖のきみちゃん肩に手を置いてきます  

投稿: 寅  君 | 2011年1月25日 (火) 13時39分

我が家は、戦災で埼玉の片田舎に疎開しました。
その地域には、農家の納屋・蚕室等の一角を間借りした大勢の疎開者がおりました。
私の近所に私を真ん中にして上下一歳違いの姉妹がおり、毎日よく遊びました。姉妹の家は横浜で靴屋をしていたようで、昭和27年ごろ横浜に帰っていき、寂しい思いをした記憶があります。
この歌を聴くと、横浜と靴屋のイメージから当時のことが想い出されます。

投稿: タケオ | 2012年10月 8日 (月) 08時51分

長女が幼いころ口ずさんでいました。言葉にならないなんごで、意味も知らずに歌っていました。なぜか私は涙が流れてしかたがありませんでした。
 赤い靴見るたびかんがえる・・・・。
 

投稿: 山岸 | 2012年10月17日 (水) 23時35分

昭和21年4月に小学校に入学しました。が校舎が焼けてないので運動場で式がありました。洋服はどこかから手に入れたガラボウの桃色の生地で母が手縫いで作ってくれたのですが足は何を履いていたのか全く思い出せません。兄のお下がりの運動靴か下駄かのどちらかだったと思います。3年生位まで靴が無くて桐下駄を履いて通いました。雨ふりはつまかわの着いた高下駄でした。校舎もなかったのであちこち間借りの授業でした。忘れもしない4年生の時校舎ができ、赤いズック靴も売り出されたのです。「買って」と母にねだったのに黒のズックしか買ってくれません。今思えば小さくなったときに弟に履かせようという魂胆があったのでしょう。ついに子供のころ赤い靴を履く事が出来ませんでした。年を取った今、私は赤い靴を履いて出かけます。

投稿: ハコベの花 | 2012年10月18日 (木) 10時50分

初めまして 「麻布十番未知案内」を運営している山本と申します。赤い靴の女の子のお話を大勢の方々に知っていただこうと このサイトを立ち上げました。以前は麻布十番商店街の理事でしたが 2011年に創業100年に店を閉店し 商店街からも離れています。しかし、赤い靴の女の子きみちゃんとチャリティーは私のライフワークとして継続しています。きみちゃんの像が出来たその日から始まったチャリティーは昨年までに1241万円を子どもたちのためにユニセフに送り続けています。このサイトからのリンクでも大勢の方がきみちゃんのお話を読みに来て下さっていると思います。ありがとうございました。サイトのアドレスが少し変更になっていますので お手数ですが直していただければ幸甚です。http://jin3.jp/kimi/kimi-1.html
よろしくお願い申し上げます。仁3

投稿: 山本 仁壽 | 2014年3月17日 (月) 22時09分

私が童謡の、「赤い靴」を知ったのは、小学生の頃である。或る日、母が見せてくれた挿絵入りの歌集の一ページが、心を捉えて離さなかった。それは、白波の立っている波止場に、赤い靴の女の子が、沖の異国船を哀しげに見つめている絵であった。それに見入って目を離せなかった。
私はこの歌を知らなかった。そして、母に教えてくれるように頼んだ。母の歌が流れた。それを聞いている内に何故か、涙がボロボロとこぼれ落ちていた。そして、この歌を覚えて自分で歌ってみたいと思った。歌詞を見ながら、一節づつ母の歌う後を続けて口ずさんだ。やがて一人で歌えるようになった。その時から、この歌は心の故郷になっているのです。

投稿: 宮原賢治 | 2015年11月20日 (金) 15時29分

<考える>
「子供ながらに四番の歌詞中の『かんがえる』という言葉に何か重いものを感じて」いた、「なぜ『思い出す』ではいけないのか、というK.HIRANO 様のコメント(2008年2月13日)に、自分は何も感じなかった、鈍感な子供だったな、と思い返しています。ですが「かんがえ」て見ると、四番の「かんがえる」はそれほど重いわけでもなく、単純なのであって、「思い出す」とは当然ならないはずです。一番と二番では、赤い靴の女の子が異人さんにつれられて横浜の波止場から船に乗って行ったことを思いだしています。これはたしかに思い出でした。しかし3番になると思い出ではなく、「今では」青い目になって異人さんの国にいるのだろうと推量しています。それを受けて、四番では、異人さんの国にいると眼の色も青くなっちゃうのだろうかと考え込むのです。異人さんに会う度に——「異人さん」とは外国人の同義語ではなく、たとえば中国人を異人さんと普通は呼びません——その異人さんの青い目を見ては、赤い靴の女の子の目も青くなっているのだろうかと「かんがえる」のですね。ピトレスクな想像です。考えるほどに、野口雨情の言葉の神経の行き届いていることに感じ入ります。若輩様(2008年8月25日)によるとサトウ・ハチローがこの詩を駄作としているとのことですが、「ひなびた味」がなくなったから駄目というのは一面的過ぎる裁断ですね。青い目が気に入らなかったのだろうとの若輩様の「私見」が当たっているように思われます。

投稿: dorule | 2016年8月17日 (水) 12時42分

何にも考えずに小さいころからこの歌を歌ったり聴いたりしていましたが、ハチローが駄作と言った意味が分かるような気がします。普通の子供は異人さんの国へ行った女の子が青い目になるなんて考えないと思います。ですからこれは大人の考えた詞で子供の情感で考えた詞ではないとハチローは思ったのではないでしょうか。作り過ぎていると言う意味のように思われます。でも、青い目になってしまうとは面白い発想だとも思います。この歌はこの1節がなかったら面白くないですね。

投稿: ハコベの花 | 2016年8月17日 (水) 20時01分

①サトウ・ハチローの批評について。かれが、この歌について批判をしていることは知りませんでした。批判の当否は、かれの具体的な論拠が分かりませんので何とも言えませんが、雨紅作詞の『ゆうやけこやけ』についての批評は「なるほどな」と思いました。かれの言う、一番はこども目線でいいが、2番はおとな目線でおかしい、という批評は当を得ているように思います。しかし、だからと言って、わたしは『ゆうやけこやけ』の童謡自体を否定するつもりはありません。学術的論争は専門家の間の問題であって、わたしたちが、その童謡を受け入れるか、受け入れないかとは、別の問題ですから。
 多分、この歌についても、サトウ・ハチローに限らず、、専門家からさまざまな問題点が指摘されていると思います。時代の変遷もあるでしょう。しかし、この歌が1世紀近くも歌い継がれて来たことは、時代を越えてたくさんの愛好者がいたことを証明しています。間違いなく、21世紀にも、歌い継がれていく1曲になることでしょう。
②「かんがえる」について。ネットで調べたところ、雨情作詩の初出では「思ひだす」になっています。本居長世が作曲時に「かんがへる」に変更したようです。わたしは、音符については小学生くらいの知識しかありませんので、よくは分かりませんが、「思ひだす」の「ひ」の部分が歌いにくかったことらしいです。雨情も了承したので「かんがへる」になったようです。長世がなぜ「かんがへる」にしたのか、は調べても分かりませんでした。dorule様や はこべの花様のコメントにあるような違和感は、わたしも持っています。 

投稿: ひろし | 2016年8月20日 (土) 13時22分

ひろし様
 野口雨情の詩が初出では「思ひ出す」だった、本居長世が作曲するとき「かんがへる」に変更したようだとの御教示ありがとうございます。たしかに、普通に何も考えなければ「思ひだす」と言いそうなところで、詩人も初めはそう書いたというわけですね。声楽として「思い出す」でなく「考える」が歌いやすいのかどうかということは私には理解の外ですが、こどもが「異人さんのお国にいるとみんな青い目になるのかなあ」と考えこむなら(情報豊富な21世紀の子供ならそんなことを考えるはずはないかも知れませんが、これは大正時代の風景です)、それはかわいくてたいそう素敵です。作りすぎだとしても、ハコベの花様のおっしゃるとおり、「この歌はこの一節がなかったら面白くない」と私も考えますね。

投稿: dorule | 2016年8月23日 (火) 21時51分

dorule様
 お説に賛成です。こどもの発想はおとなの及ばないところにあります。「思いだす」よりも、「かんがえる」になったことで、この詩が生き生きとしてきたように思います。
 あなた様も仰る通り、この歌の時代は大正後期、まだ都会でも下駄や草履が主流で、靴、ましてや「赤い靴」を履いたこどもなど稀少な存在だったこと、外国人(西洋人)が珍しくて「異人さん」と呼んでいたこと(この呼称には、物珍しさと同時に怖さを含む)などを勘案すると、こどもの発想として「赤い靴」の女の子が「異人さん」に連れられて行けば、「青い目」になってしまうと「かんがえ」ても不思議ではないでしょう。もっと想像をたくましくすれば、「かんがえる」には、こどもごころに、初めは、可愛い洋服を着て「赤い靴はいた女の子」を羨ましく思ったが、「異人さんのお国に」行って、はたして幸せなんだろうか、と気にかけていることも含まれているように思います。本居長世は、それらを総合して「かんがへる」としたのではないかと、わたしは推測しています。

投稿: ひろし | 2016年8月24日 (水) 12時47分

「赤い靴」これまでに私が聴いてきた童謡は数えきれないほどありますが、そんな中で私が初めて好きになった童謡がこの唄で、幼い頃から4番まで歌えました!

またその頃、この詩に出てくる異人さんという言葉、そして横浜の波止場という地名に、私は強く興味を持ったことを憶えています。
私が16才の時にフォークギターの練習で初めてアルペジオに挑戦し、そしてマスターした曲も、大好きだったこの「赤い靴」でした。今でも時々クラシックギターで、この曲の弾き語りをすることがあります。
幼い頃の自分がこの唄に抱いていた寂しいイメージへの興味が、後年さらに強くなり、野口雨情の書いたこの詩の経緯や、そして主人公の岩崎きみちゃんが、儚くも悲しい短い生涯だったことを知ってからは、この童謡「赤い靴」がより心に残る唄になったような気がします。
38才の時、旅行で横浜へ行った時、山下公園にある、きみちゃんの像を私は初めて見ましたが、じっと見つめているうちに、何とも言えず慈悲愛的なものを感じた記憶があります。

4:赤い靴見るたび、かんがえる

  異人さんにあうたび 

  かんがえる・・・

上記の詩には、儚くも悲しい短い生涯だった岩崎きみちゃんのことをいつまでも忘れさせないという、野口雨情のそんな魂さえ私は感じる時があります。そして大正時代に作られたこの「赤い靴」を現在までの長年にわたり人々の心に残る童謡にしたのは、まぎれもなくこの名詩に相応しい哀愁と切なさを際立たせる、そんな素晴らしいメロディをつけた、本居長世の才能だと私は思っています。

時代とともに変わりゆく童謡の世界ではあっても、私は「赤い靴」をいつまでも後世に歌い継いでいってもらいたいと願っている童謡です。

投稿: 芳勝 | 2019年5月18日 (土) 15時39分

芳勝様の文章に全く同感です。私もはかない命だったきみ子ちゃんを思い浮かべながら口ずさみます。横浜に住んでおり時たま山下公園に寄ったときには赤い靴の像を見つめます。
以前静岡の日本平でこの赤い靴にまつわる史実の碑を読んだ時には大変驚いたものです。

投稿: 栗さん | 2019年5月19日 (日) 09時51分

岩崎きみちゃんが短命であったことは、昭和五十年頃に判明しました。 野口雨情が作詞した時は、宣教師夫妻と共に米国に渡ったと思われていたのです。 事実を時系列で整理して考えないと、解釈が飛躍してしまいます。 

投稿: 寒崎 秀一 | 2019年5月19日 (日) 13時58分

「赤い靴」新たに変わった『交流掲示板「1981」告知』この歌詞の3番・4番をイメージして二木先生が描かれたというこの挿絵は実に見事です!

円内に描かれた『笑みを浮かべ青い眼をしたきみちゃん』自分の前からいつのまにかいなくなってしまったきみちゃんのそんな姿を想像しているかのような、幼き少年のその複雑な胸中が見事に表現されていると思います。

この唄に関する定説や情報は数多く存在しており、そのストーリーの事実性については一部定かではありませんが、およそ百年あまり前に作られたという『野口雨情の詩と本居長世のメロディ』そこには究極の素晴らしさがあり、この作品は今も人の心に深く沁み込んでくる名曲であることはいつわりのない事実だと思います。

「赤い靴」この童謡はフォークギターの弾き語りで私が初めてマスターした忘れられない曲ですが、あれから50年以上が過ぎた今でも時々クラッシックギターに変えて弾き語りをしています。そして後世にいつまでも残したいと願う私の大切な唄でもあります。

投稿: 芳勝 | 2021年1月30日 (土) 15時36分

 赤い靴はいてた女の子 いじんさんにつれられていっちゃった、、、

小さいころ姉に教わった多くの童謡のひとつ、メロディーのなかに少しばかり寂しさを感じさせるものがあって胸に響く思いがありました。 だけどまだ幼かったころのこと、その裏に悲しいお話が隠れていたとは夢だにも思いませんでした。 長い間ある一つの童謡として、その昔外国人に連れられて(どこの国かは知らないが)横浜から船に乗って行ってしまった女の子がいたんだなあと思っていました。

暫く前このサイトで「赤い靴」を目にしてびっくりしました。ええ!行っちゃったんじゃないの!との思い。 全く知りませんでした。ふーん、雨情の詩もつまりはモデルからイメージを描いたフィクションなのか、二木先生のコメントの通りなんだなとひとつ勉強になった思いでした。

それからまた暫くして、五木寛之の「ステッセルのピアノ」という本に出あいました。この本自体は、あの旅順要塞司令官ステッセルが水師営での会見時乃木に贈ったステッセル夫人所有のピアノに関わるもので、この「ステッセルのピアノ」と呼ばれるものが日本各地、金沢、旭川、遠軽、水戸などに散在するとのこと、それを聞きつけた五木が各地を巡りそれぞれのそこにある由来、真偽を確かめる旅行記です。 彼の調査はまことに綿密で、旭川を訪れた時には件のピアノが旭川豊岡教会に在ったのですが、その豊岡教会の由来にも触れ、その設立に力を尽くしたのがこの女の子を養子に迎えたメソジスト派宣教師チャールズ・ヒュエットなのでした。そして女の子はヒュエット夫妻に大変可愛がられたのですが、幼くして結核というほぼ恢復不能な病によりアメリカに向かうことなく11歳で亡くなってしまったと。

どうも先の二木先生のご説明が裏付けされた形ですが、それにしても二木先生も五木寛之も、そしてここにコメントされている皆様もこの女の子の悲しい最期をもう常識的にご存じだったように思われます。つまりは知らぬは私ばかりなりということだったのでしょうか。
(ついでに申せば、ステッセルのピアノですが、ピアノを送られた乃木さん、当時日本にはまともにピアノを弾ける人が居なくて処置に困り、乃木第三軍麾下で大損傷を被った旭川第七師団、金沢第九師団のどちらかに下げ渡したのでした。また師団の方も処置に困り、旭川では新設の豊岡教会、金沢では金沢女子短期大学とやらに贈ったのです。どちらがホンモノか五木は結論づけていません。 どうも金沢の方のがそれらしく思えますが)

また時が経ち、昨日このホームの図書室で「童謡の謎」(合田道人、平成15年10月)という本を見付けました。この中の「赤い靴」の項にこの女の子についてかなり詳しい説明があります。 もうかなり世の中に知られている話なのでしょうが、自己の知識の整理の為にも概略述べてみます。

この女の子の名前は岩崎きみ。1902年7月15日、静岡県旧不二見町、現静岡市生まれ。
母親は岩崎かよ、当時18歳。既に両親はなかった。
きみの父親は不明、つまり私生児でした。当時ててなし子を産んだ娘がどれほど迫害されたことか、いたたまれず、二歳のきみをつれて、北海道函館に渡ります。(この二歳というのは数え年のはず)
函館の土産物屋に勤めながらきみを育てているうちに、鈴木史郎という青年と知り合い結婚します。鈴木史郎は篤実な青年で、平民社という組織に属していました。そして近く平民開拓団として、留寿都に入植することになっていたのでした。かよは悩みます。北海道開拓の仕事がどれ程厳しいものか、聞き知っていたのでした。果たして幼いきみを連れていっていいものだろうか。悩み苦しんだ末、当時養子を求めていたヒュエット師にきみの将来を委ねたのでした。開拓地の掘っ立て小屋のなか、冬の寒気の厳しさ、まともな食料も得られないであろう生活、それよりも優しかるべきキリスト教牧師の手で育ててもらった方が幸せなのではなかろうか。多分キリスト教の流れを汲む平民社に属する夫志郎の勧めもあったかも知れない。
ヒュエット師の仕事の場は当時主に北海道で、旭川のみならず、札幌、函館、小樽などだったようですが、主なる生活の地は東京だったようです。きみは大変に可愛がられたのでしたが、いつの間にか当時不治とみられていた結核に侵されていたのでした。明治の末、ヒュエット師に帰国命令がきます。明治の末に帰国とありますが、何年の事かは分かりません。ただその時にはきみの体は長い船旅に耐えられない程になっていたのでした。教団の帰国命令は絶対です。ヒュエット師は已むなくきみをメソジスト系孤児院に預けたのでした。 そしてきみは1911年9月15日息をひきとりました。 滿9歳2ヵ月。 (孤児院があったところは今の麻布十番、十番稲荷神社が建っているところだそうです)

扨、ここではっきりしておくべきことは、この子の死亡の事実は全然世の中には知られることはなかったということです。 "まだ有名人ではなかったし"、子供が病死するということが頻繁にあったころ、一人の女の子が病死したからと言って世間の話題になるはずもなかったのです。 おそらくアメリカに帰っていたヒュエット師には死後通知はされてはいたでしょうし、メソジスト系孤児院の関係者の方々の中では話題にはしたでしょうけれど、世間に知られるような程ではなかったはずです。 養子縁組の約束事で、ヒュエット側は元の母親かよには、きみの生前からでも交信はしなかったはずですから、この死亡の事実も知らせてはいなかったでしょう(知らせようにもかよの住所は不明だったでしょうし)。
そして、きみの死亡の10年後に「赤い靴」の詩を書いた雨情も、きみがアメリカに行けなかったことを全く知らなかったと思われます。 ただ世間の人はこの歌によって、私のように、ああ外国に貰われていった子がいたんだなあと思っていただけでした。(単にフィクションだと思っていた人も居たかもしれない)

この子の死亡の事実が、9年2ヵ月の短い人生の経緯が世間に知れ渡ったのは、1979年の北海道テレビの「赤い靴はいてた女の子」というドキュメンタリー番組が放映さてからである。 そのきっかけは、1973年に北海道新聞への投書である。 投書者は岡そのという女性、曰く「私が生まれた10年も前に日本を離れていった姉、瞼を閉じると赤い靴を履いた女の子が青い目の異人さんに連れられて横浜から船に乗ってゆく姿が目に浮かびます。その姉こそ、野口雨情が"赤い靴"に書いた女の子です」
北海道テレビのプロデューサー菊地寛(ひろし)がこれに飛びつき、以後シャカリキになってきみの人生を追い、そして上記のドキュメンタリーの放映になったのでした。 以後、きみちゃんがすっかり有名になってからのことは、皆様ご存じのとおりです。

話は逸れますが、きみを手放した後のかよ、志郎夫婦は、1905年春平民開拓団として留寿都に入植しましたが、凄まじいまでの過酷な労働で、2年後に開拓団は解散し、二人は札幌に引きあげました。 そこで志郎が就職したのが北鳴新聞社で、同じころ野口雨情もここに入社し、一軒家に同居することになりました。 そのとき、かよがきみの事を雨情に話したのでしょう。しかし、かよはきみがアメリカに渡ったと信じていての話だということは、のち、かよの娘岡そのが投書の中で、日本を去った姉、と言っていることからも分かります。
野口雨情もきみが日本を離れてしまっていると思っていたに違いありません。(まさか、東京に引き揚げたあと雨情がきみの消息を調べたわけではないでしょうし)

最後にこのコメントを書いているときに思ったことがあります。 きみって必ずしも不幸だったのではないのではないかということです。 短き人生はそれは可哀そうです。しかし当時の子供の病死は頻繁でした。
短い人生のことは措いておけば、この子が養子に行ったのは1904年、満で言えば1歳の終わりごろか 2歳の初め頃、まだ物心はついていません。気がついたらおとうさん、おかあさんがちょっとまわりの日本人とは違っていたけど、たいそうやさしく大事にしてくれた。孤児院に入ってからも、メソジストのお姉さんたちがかわいがってくれただろう。

私はこの子が、短い人生は可哀そうだけど、決して不幸を感じることはなかったのだと信じて、今後はこの歌を聴くことにします。

投稿: 田主丸 | 2022年9月26日 (月) 23時07分

【赤い靴】戦後生まれの私が最初に覚えた歌が赤い靴です。
主人の前で口ずさんでいるといつも主人が♪赤い靴履いてた女の子いい爺さんに連れられて行っちゃった(^^♪(* ´艸`)クスクス

投稿: kazuyo | 2024年1月 4日 (木) 07時35分

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