岬めぐり
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:山上路夫、作曲:山本コウタロー
唄:山本コウタローとウィークエンド
1 あなたがいつか 話してくれた 2 幸せそうな 人々たちと 岬めぐりの バスは走る |
《蛇足》 昭和49年(1974)発売。山本コウタローは、ソルティシュガー時代に『走れコウタロー』を大ヒットさせました。ソルティシュガー解散後、「山本コウタローと少年探偵団」「山本コウタローとウィークエンド」を結成、この歌はウィークエンド時代のヒット曲です。
狩人の『あずさ2号』では、「あなたと行くはずだった信濃路」へ「あなたの知らない人と二人で」行くのですが、ほかの人の面影を抱いて行くのでは、同行の彼氏だか彼女だかに失礼でしょう。
心の傷を癒しに行くのなら、この歌のように、1人で行きましょう――と書いたところ、ある方から「岬めぐりに1人で出かけたのは、失恋のためとはかぎらず、恋人と死別した傷心を癒すため、という解釈もできるのではないか」というご指摘がありました。
なるほど、ありですね、確かに。
山本コウタロー、本名山本厚太郎は、2022年7月4日、脳内出血で永眠。73歳だった。残念。
(二木紘三)
コメント
二木先生。ご同好の皆様。またこうして、無事『うた物語』が再開されましたこと、まことにお慶び申し上げます。再開に向けた二木先生のなみなみならぬご尽力、心より感謝申し上げます。大変ありがとうございました。
ところでこの歌は、私の懐かしい「青春の歌」の一曲です。山本コータローには、同じ「コータロー同士」なもので、当時から何となくシンパシーを感じておりました。
そしてこの歌は、(最近では滅多に歌いませんが)カラオケの私の十八番の歌でもあります。軽快なメロディで、とにかく歌いやすいのです。無難で先ず失敗がありません。皆様に私の美声(?)でのこの歌、お聞かせしたいものです(笑)。
ただ、2番の
くだける波のあの激しさで
あなたをもっと愛したかった
この箇所では、歌いながら切ない感情がこみ上げてくることがあります。
投稿: 大場光太郎 | 2008年7月 2日 (水) 23時47分
あまりにもヒットしたので好きな曲とは言えなかったのですが。。。
山本さんの爽やかさとアカデミックな印象がこの曲を作られた頃の年代の青少年の心を捉えているようです。
投稿: sunday | 2009年11月23日 (月) 11時53分
この曲は、恋人と二人で岬めぐりをしたかったのに、なんらかの理由で行けなかったというなんともやるせない感じですが、曲調は、意に反して明るいですね。そこが不思議ですね。
私も、よく口ずさんでいます。山本コータローさんは、最近少し年をめされているような感じ
ですが、憎めない優しそうな人柄で、いまだにファンです。これからも、落ち込んだりした時は、この歌を歌って元気をいただきまして頑張りたいです。
投稿: 中山 寿美 | 2010年5月 5日 (水) 23時00分
初めてコメント書きます。二木先生を始め、この中の意見の応酬が面白いです。私は岬めぐりは、失恋した人が、一緒に行くはずだった人を思いながら乗っていると解釈していました。叶わなかったことが心に深く滓のようにあって、その人を苦しめることもあるようです。
つい先だってTV番組でコータローさんが語ったていましたが、この三崎は、三浦岬だそうです。
投稿: 入山靖子 | 2010年6月10日 (木) 02時14分
私が今行っているハーモ二カのクラブでこの
「岬めぐり」を練習しています
いい曲ですね・・若かった頃を思い出します
頑張ります・・
投稿: 田中喬ニ | 2010年6月12日 (土) 09時07分
2ヶ月前の出来事です。次のような内容でした。
会社の懇親会があった。社長の特別参加もあり総勢10名である。
二次会で、神戸三宮の北野坂の飲み屋街のビルを見渡すと懐かしいスナックの名前が目に入った。10年以上前まで通っていたスナックである。
重厚なドアを開けると、目の大きなママさんがそれ以上に目を丸くして「わ~、何年振り?大歓迎!!」と迎えてもらった。
ママさんは元宝塚出身で、素晴らしい声を披露してもらって他のメンバーも感激していた。
順番にそれぞれの持ち歌を唄った。
小生は「岬めぐり」を唄った。ふと小生の隣に座っている50歳前後の独身女性部長さんをみると、目から涙をぼろぼろ流してハンカチでしきりに涙を拭いている。
唄い終わってから彼女に聞いた。
「この歌、唄ってよかったのですかね?」
「うん」
「この岬は、潮岬と思うけど・・・。思い出はその岬ですか?」
「うん」
「凄い思い出があるのですか?」
「うん」
と、泣き笑いしながら、
「ありがとうございました」
と言って頭を下げられた。
それにしても、声さえ上げなかったものの号泣に近い泣きっぷりだった。
いいことをしたのか、悪いことをしたのか判断がつかなかったが、彼女の思い出に火をつけてしまったようだった。
店を出るとき、エキゾチックなこの独身部長さんの思い出を次の機会に聞いてみたいと思った。
別れ際、「また、行きましょう」と言われたので、次回はぜひ思い出話を聞かせて欲しいと思った。
投稿: 田中 均 | 2012年5月30日 (水) 20時41分
「岬めぐり」。学生時代の終わりに同期の6,7人で宮崎県「都井の岬」に行きました。午後の太陽に海が反射してバスの窓からまるで歩けるように光っていたのが今でも忘れられません。
三浦岬は行ったことがなく、何となくロマンチックな風景が浮かびます。
カラオケで歌ったら「若いなあ」と同席の方から評されました。40代半ばのころです。古希を過ぎましたがもちろん青春時代のそのままです。いい歌ですね。
投稿: 今でも青春 | 2014年7月28日 (月) 09時03分
日本で一番細長い岬(半島)は愛媛県の佐田岬で、約40キロの長さを持ちます。
定年退職を1か月後にひかえた3月、友人二人と退職記念旅行をしようということになり、行き先は佐田岬に決まった。
私には、職場に0さんという親友がいて、同じ年齢で、同じ時期の退職であった。二人とも60歳を過ぎたら仕事をする気は一切無しの人間だ。離れ離れになる前に旧交を温めておこうという思いが強かった。
彼の車で四国最西端である佐田岬に行った。北に瀬戸内海、南に宇和海、前(西)に豊後水道を望む所で、たえず風が吹き、まさに地の果てを思わせる風景であった。
夜釣りをする人々のテントと並んで我々もテントを張って寝たが、風はひっきりなしに吹いて、何度も目がさめた。
佐田岬に行こうと提案したのは私でした。若い頃読んだ『日本往生極楽記』の一部に登場するこの岬が記憶の底にあったからです。
極楽往生の臨終の様子を記したこの本に、大坂の天王寺から船出して、西方浄土を目指す僧が出てくる。四国に上陸した後、阿波、讃岐、伊予とひたすら西へ西へと進み、ついに佐田岬の断崖でこときれる。
僧の口からは、一茎の蓮が生え出て、花が咲いていたそうです。その蓮の花こそが、極楽往生の証とみるわけだが、あまりに官能的というか、グロテスクな場面描写と、佐田岬の地の果てのイメージとが頭に残り、退職記念旅行の候補地になった次第です。実際に訪れた早春の佐田岬は、私のイメージをまったく裏切らないもので、今も時々思い出します。
その岬をめぐる旅行は、もう4年半も前の出来事になってしまった。0さんは定年後、道楽の有機農業を岡山で続け、私もベトナムでの生活を気ままに送っている。二人とも極楽往生にはまだまだ間があると思っている。ま、極楽に行く資格があるかどうかは、深く考えないことにしているんですが・・。
投稿: 越村 南 | 2014年7月31日 (木) 01時57分
久し振りでこの曲と巡り合いました。
軽快なメロディー・・・二木オーケストラの見事な演奏にもさることながら、自然と曲の中へ吸い込まれそうな何事にも深く考えずに前に前に進むようにと後押ししてくれているようにさえ思えます。
ところで、私の住む佐賀県の北西部の玄界灘に広がり、特に夕日が沈む海の様子が格別な「波戸岬」(はとみさき)という通称「恋人の聖地」といわれ、特に若者に人気のある観光スポットがあります。
日本海では唯一の海中展望塔は、岬の陸地から86mの桟橋でつながれ、海中展望室では水深7mの自然のままの海の中が見られます。
また、波戸岬近海では良質な魚介の漁場となっていて、なかでも「さざえのつぼ焼き」は名物となっています。
機会があれば「うた物語」フアンの皆さんも来られてみては如何でしょうか。
投稿: 一章 | 2017年2月10日 (金) 23時28分
「岬めぐり」の歌は、三浦半島で作った歌だと聞きました。はじめて聞いたのは昭和49年ごろだったと思います。若い人から歌詞を聞いていい歌だなと思ったことを覚えています。
高校時代の同期の方が三浦三﨑に住んでいてこの歌のいきさつを教えてくれました。精しく聞かなかったのが惜しいですが、いい歌です。
話は変わりますが「ダンチョネ節」もここから出ていると聞いた気がします。
投稿: 今でも青春 | 2018年9月 1日 (土) 21時28分
今から40年も前のこと、そのころの私のフアンは元祖御三家で、その中でも橋幸夫があまりにも好きだったので、やがて彼のヒット曲がしぼんでしまうにつれ、新しい歌手、新しい歌には興味がなくなり、つまり、思考力が停止したわけです。従って自分の口から出る鼻歌は、西郷輝彦の『涙になりたい』、舟木一夫の『高原のお嬢さん』、橋幸夫の『江梨子』『あした逢う人』『すずらん娘』・・それらの歌に飽きたら、石原裕次郎の『世界を賭ける恋』美川憲一の『釧路の夜』等々・・それらに飽きるとまた橋幸夫に戻っていくと言う調子で、ホークとかカントリーとか呼ばれるものは全く駄目で、進化することなく流行歌の風潮について行けずにいました。そんな折、後輩とスナックに飲みに行ったときのこと、そこにはカラオケが置いてあり、後輩がこの『岬めぐり』を唄いだし、ああ、いい歌だなあ、と久しぶりに私の脳が叫びました。この歌を教えてくれないかと初めて後輩に教えを請いました。
世の中は捨てたものではない、探せばいい歌はあるものだ・・ と自分の中にある固定観念がはじける瞬間でした。こうして『岬めぐり』が好になりました。でも、その時は分からなかったのですが、その後興味深いことを見つけたのです。それは、1966年発売:布施明の『霧の摩周湖』と『岬めぐり』の類似点です。『霧の摩周湖』の歌詞の中で、その2番の後程に《♬いつか あなたが話してくれた 北のさいはて摩周湖の夜♬》この《》部分の歌詞は私の『霧の摩周湖』の中で一番好きなところですが、1974年発売のこの『岬めぐり』も1番の出だしで、〈♩あなたが いつか話してくれた♩〉と、(いつか)と(あなた) を前後させて歌い始めています。また、内容を見ますと、『霧の摩周湖』では2番の出だしが「あなたがいれば楽しいはずの 旅路の空もないてる霧に・・」とあり、「岬めぐり」同様・・別れても好きでたまらない、あなたの面影を追いかけて、あなたが話してくれたところをたずねてみようとしています。いや、面影をたずねるだけでなく、そこに行けばひょっとしたら、あなたが来ているのかも知れない。という希望を持って旅をしているのかも知れません・・従ってこの『いつかあなたが話してくれた』のこの一行は意味深で最高な歌詞だと思うのです。こうして、単に二つの歌の歌詞の一部が似ているにとどまらず、歌の本意と言うか意図しているところが一致して、二つのうた物語がよく似ていることに気がつきました。本当におもしろいですね・・
2018.9.5 迷える古羊
投稿: 迷える古羊 | 2018年9月 5日 (水) 23時33分
歌われている岬の旅は傷心の旅です。当人は悩みの渦中にありますが、やり直しをするための心の整理であり、ある意味、若さの証しともいえます。
人気(ひとけ)の少ない岬、入り江、半島、島は、自分の心をみつめるのにふさわしい所です。
傷心の旅などカケラほどの縁もなかった大学生の夏休みに、鹿児島県の坊津(ぼうのつ)に行きました。坊ノ岬の北に位置する古い泊(とまり)で、奈良・平安時代は遣唐使の寄港地、室町時代は倭寇の拠点、江戸時代は薩摩藩の密貿易の港として知られ、観光地図には出てきませんが、私には興味津々の土地でした。日本最南端の駅、枕崎駅からてくてく歩いて行きました。途中、バイクの青年が「どこから来たの」と聞いてきたので、答えると「じゃ乗りなよ」と後ろに乗せてくれ、自分の家を通り過ぎて、目的地まで送ってくれました。<九州は人情豊かな所>を体感しました。
漁師の家がひしめく路地を足が痛くなるほど歩きまわり、東シナ海に落ちる夕陽を見ながら、その入り江の町を離れました。帰る途中、高い峠道に立つと、南の海にイカ釣り船が何艘も横一列に並んで漁をしているのが見えました。イカを集めるための電球の強い光が、黒い海面にゆらゆら浮かび、空はちょうど茜色から紫色に変わりつつあり、息をのむような美しい光景に見入ってしまいました。
この岬の風景は今も鮮やかに脳裏にあります。おそらく私の臨終の床で思い浮かべる走馬灯のワンシーンになるでしょう。最近、「わが走馬灯の光景ベスト10」などを予想している私です。
投稿: 越村 南 | 2019年2月15日 (金) 01時10分
この曲の悲しみは失恋ではなくやはり死別のような気がします。でも、そうだとするとこの曲のテンポは軽すぎるようなきがしますね。
幼少の頃母が日御碕灯台に日帰りで連れて行ってくれたことがあります。そのとき母が買ってくれたて食べたサザエのつぼ焼きのおいしかったこと、今でも忘れられません。十数年前になりますが、母を江ノ島に案内しました。サザエのつぼ焼きを思い出したのですが、お店の値段”500円”をみてビックリ、諦めました。お金持ちになりたいですね。もう母はいないですけど。
私の毎日は’岬めぐり’ならぬ’うた物語’めぐりです。思いもかけず忘れていた自分のコメントに出くわすこともあります。
”こんなことあったんだ”と人生の一コマが走馬灯のようによみがえり、悲しみもぶり返します。
替え歌にしてみました。
♪うた物語めぐりの バスは走る
窓に広がる 青い海よ
悲しみ深く 胸に沈めたら
この旅終えて 街に帰ろう ♪
投稿: yoko | 2020年1月 8日 (水) 15時12分
久しぶりに歌めぐりしていましたら、”岬めぐり”にぶつかりました。あっ、この歌好きな歌だ、懐かしいな、と思い開いてみたら二年前に残した私のコメントがまだ最後でビックリ。
いい歌ですね、なんだか懐かしいですね。
投稿: yoko | 2021年12月 5日 (日) 22時24分
山本氏の訃報のニュースから「岬めぐり」のメロディが頭の中をめぐり、歌詞を探してたところこのHPにたどり着きました。
投稿を読んでいくうちに心の悲しみが波紋のように広がっていき、昇華されそうな気がしました。
最後に山本氏のご冥福をお祈り申し上げます。
投稿: 麻翔 | 2022年7月15日 (金) 08時39分
山本コウタローさんと言えは『走れコウタロー』とこの『岬めぐり』ですね。
『走れコウタロー』は、確か僕が中学2年生の頃、昭和45年の頃だったでしょうか、仲が良かった同級生の弟が小学校の卒業式で、見事な実況をやって大喝采だったそうです。
あれから50年以上が過ぎ、同級生は酒におぼれて若くしてなくなったそうですが(泣)・・・。
『岬めぐり』は昭和49年の発売だそうですが、もっと後のイメージがあります。
昭和56年頃に会社の社員旅行で行った壱岐の島内めぐり・・・青く透き通る海と岸壁が作る絶景、まさに『岬めぐり』でした(笑)。
僕もこの旅で、学生時代の虚ろな「悲しみを深く胸に沈る」ことができたのでしょうか・・・40年経っても未だ判らずです(;^_^A・・・。
遠出する時に『70年代ヒット曲集』を聞きながら運転します。
「神田川」の後に『岬めぐり』が流れます、もちろん一人の時は大声で歌います(笑)。
山本コウタローさんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
投稿: まこ | 2022年7月15日 (金) 17時41分
25年程前に青森まで車で行き青函連絡船で函館に着き。大勢でお盆休みと有って中々予約ができない中、レンタカーを借りて北海道を旅行しました山肌が赤茶けた、昭和新山を訪れコンビナートの室蘭そしてアイヌの伝説の長万部から岬、走っても走っても又岬が続きどれ程の岬を巡ったでしょう。あの光景は脳裏に焼き付いています。倉庫の立ち並ぶ小樽の運河迄縦断して長い旅でした。この岬巡りを歌うと夏休みに子供たちと北海道を旅行した楽しかった時を思い出して懐かしくなります。大沼公園で赤い果肉の夕張メロンを頂いた事も記憶に残っています。
投稿: 細川 和代 | 2023年2月23日 (木) 18時40分
岬めぐりで思い出すのが伊豆半島? 確か三浦半島です。主人が海が大好きで伊豆半島の真鶴に行った時の事が思い出されます。スノーケルと足のひれ何というの?だけで潜ってはアワビをいいえあれはとこぶしでした。海水パンツに入れて又潜って本当に若かったです。テントを張って楽しかったです。肥えていたものだから反動をつけないと潜れなくって大笑いをしました。お盆ですごく東京からの客で車が渋滞していました。道中サザエのつぼ焼きとか活魚の幟を横目で見て通り美味しそうと思ったものです。禁漁区なのでとこぶしはいいかとか。主人曰く皆潜っていたよ。
投稿: 細川 和代 | 2023年4月19日 (水) 15時03分
私は今73歳ですが、父が81歳、母が86歳で亡くなったから自分の寿命はまあ83歳,84歳ぐらいかなと思って、知り合いのお坊さんにその話をした。すると「90歳と思いなさい」と決然と言われた。その理由を聞きもしなかったが、はっとして、何か悟ったような気持ちになった。自分にやり残したことはないかと静かに1年ほど考えて、とうとう思いついたのが1週間の北海道旅行。稚内の宗谷岬、根室の納沙布岬、室蘭の地球岬をみることが潜在的欲望だった。まさに岬巡りの旅だ。今年の3月に福井の敦賀港から北海道の苫小牧港へ入り、1週間の旅行を終え、帰りは函館港から青森港へ。後から思えばこれらの船の旅が良かった。
なぜ北海道だったのか。私の尊敬する間宮林蔵(樺太が半島ではなく島であることをはじめて確認した)、伊能忠敬(北海道をはじめとし、精密な日本全土の地図を作った)、大黒屋光太夫(駿河沖で難破しアリ―シャン列島の一つの島に漂着した。苦労してロシア語を習得、ロシア貴族の信頼を得て女帝エカチェリーナ2世と謁見し、帰国を許され、漂着して10年後、根室に戻った)などの体を張って測量や探検、日露の外交に努めた苦労を、少しでも現地で体感したかったからです。それは吉村昭の著作のおかげともいえます。
投稿: 越村 南 | 2023年6月12日 (月) 09時57分
失恋か死別か
「江梨子」は死別、「湖愁」と「霧の中の少女」は失恋と読んだがどうでしょう。作詞者は上手く書きますねえ。どちらであっても詞が綺麗なのには感心しますねえ。この歌もそうです。
投稿: 海道 | 2023年6月12日 (月) 13時49分
「岬めぐり」この曲が流行ったのはちょうど私が二十歳のころでしたが、当時は大好きだったこのメロディのテンポに合わせて、フォークギターを手にスリーフィンガー奏法の猛練習をしたものです!
早いものであれからもう50年が経ちましたが、
『・・・くだける波の あの激しさで あなたをもっと 愛したかった・・・』
最近では、ここで時折メロディを聴きながら『上記の詩』のフレーズを眼に留めるにつけ、若き日の当時の想い出とも重なり思わず目頭が熱くなってしまう自分がいます。
この作品の主人公男性の旅は、はたして失恋の悲しみを癒すためのものだったのか、それとも死別の悲しみを癒すためのものだったのか、私には今でも掴めてはいませんが、ただそんなところにもこの歌の妙があるような、私はそんな気がするのです。
「岬めぐり」山上路夫が書いた、主人公男性の傷心の旅の情景が仄かに浮かんでくるようなこの秀逸の詩に、山本コータローが付けた、やや意外性を感じさせるようなこの軽快で爽やかなメロディですが、今思えば、それこそが長年が経った今でもこの歌を人の心の中に根強く残るものにしたのではないのか・・・私はそう思います。
投稿: 芳勝 | 2023年8月12日 (土) 15時53分
今年の4月6日の23時45分博多港発の五島列島行のフェリーに乗り込みました。夜ゆっくり五島の各港を巡り、朝8時15分福江港についた。私が五島に来たわけはーーー中学校の時、五島出身だという教頭先生がいて数学を教えてもらった。その先生の五島なまりの入ったしゃべり方も好きだったが、質問する生徒の立場に立って「数学はちっとも難しくないんだ、ゆっくり考えればだれでも解ける」という姿勢に強くひかれた。数学の面白さを教えてくれた恩師ともいえる。私が後に高校の教師になったのもこの先生との出会いがあったからだと思います。
その先生の育ったところがとにかく見たかったからです。そうはいっても福江も長くはおられず9時20分に発ち長崎に向かった。1時10分に長崎港に着き、電車で諫早へ。そこからバスの便が良いというので島原半島の南岸をまわるような恰好で口之津へ。口之津から船で天草下島の鬼池へ渡った。鬼池から本渡のバスセンターへ行くと熊本行の快速バスが出るところだった。飛び乗って天草上島、大矢野島などを通り三角半島を経て熊本へ。島伝いに海辺の道を行くときこの「岬めぐり」の曲を思い出した。
熊本で一夜を明かし、4月8日の11時串木野港を発って甑(こしき)島に渡った。串木野に帰って来たのは16時ちょうどだったから1日仕事になった。小雨の中の船旅だったが、一つの仕事を終えた気持ちでした。というのは、私が初めて担任をした時、場所は宝塚でしたが、甑島出身の子がいて先生自然も人情もいいところだから絶対行ってみてと強くいう。その時鹿児島へ行く機会があればぜひ行ってみようといった記憶がある。だから行かなければ嘘つきになってしまう。年を取ると嘘の数はできるだけ減らしておきたいと思うのです。私だけかな。それが甑島へ行った理由です。
投稿: 越村 南 | 2024年4月28日 (日) 19時46分
この歌の歌詞を読んでいると、高校3年の時を思い出します。メロディーは軽く心地よいのですが歌の内容に罪深さ(大袈裟かも)を感じてしまって、どうもこの歌はパスしてしまいます。でも久しぶりに本当に久しぶりに聞いています。
あの頃、同級生の男子から打ち明けられて友達としてと答えました。その後、卒業文集である小冊子に私への気持ちを綴り、そして旅に出たと書いていました。大学受験に失敗して浪人生になりました。3年の大事な時期に彼は勉強が手につかなっかたのではと思いました。
このサイトに出会った頃、順繰りに歌を聴いていって、初めてこの歌に出会い歌詞を読んで、彼の気持ちが否応なしに伝わってきました。歌詞を読んでいて辛かったですね。別に邪険にしたわけではないのに、すごく申し訳なく、彼の気持ちを考えてしまいました。彼が文集に載せなかったら、彼の気持ちを全く知らないでいたら、青春の一コマの歌ぐらいにしか思わなかったでしょう。
投稿: konoha | 2024年4月29日 (月) 16時00分
私が高校三年の夏、まだエアコンが普及しておらず、冷房の効いている図書館は開館前から受験生を中心とした若者の行列が出来ていました。そういう受験生の為に、長野県を中心に夏の間に民家の部屋を安価に貸し出す、学生村というものがありました。食事も三食賄いつ付きで、学生にとっては親元を離れ、避暑を兼ねて勉強に専念できる(?)場でした。部屋は主に農家の一室でしたが、同宿の学生との交流もあり、時に恋も生まれた様です。
私が滞在した佐久の農家の女主人から聴いた話ですが、かつて山本さんもその家でひと夏を過ごされたそうですが、快活な方だったそうです。他の民家に滞在中の受験生と仲良くなって、かなり離れた二件の二階の窓に糸を渡して、二軒の間で糸電話での会話を試みたそうです。私はその話を聴いて、遊び心に富んだ人だと思いました。翌年一橋大学に合格したと聴いていた女主人は、数年後TVに山本さんが出演して、『走れコータロー』を歌っているのを見て驚いたそうです。あの歌は自分のことを歌っていると、宿の女主人は話していました。
私も学生時代によく一人旅をしましたが、失恋の傷を癒すための旅というのはしたことがありません。私の経験では、失恋した後は全くの無気力状態で、出来たことは無為に過ごして心の傷が癒えるのを待つことだけでした。旅で出会った同年代の若者も、そんな雰囲気ではありませんでしたが、私が無邪気だっただけかも知れません。
投稿: Yoshi | 2024年5月 5日 (日) 10時45分
yoshiさま、癒される思い出話ありがとうございます。そういえば私も読書会の男子達が勉強に勤しんでいる(?)長野県の松原湖に冷やかしで二泊旅行に行きました。小さな湖でしたが、静かでいいところでした。白樺林をのっぽくんと女子2りで散策していた時、彼女が先に歩き、のっぽくんが彼女が好きだと私に打ち明けてくれたのです。でも彼女はすでに付き合っていた人がいたので彼の話は受け流してしまいました。お弁当を食べ終るのが誰よりの遅く、優しかったのっぽくんは、仲間たちより一番早く鬼籍に入ってしまいました。
小海線に初めて乗りました。八ヶ岳の麓を走る小海線の車窓の景色の素晴らしいこと、後年、何度か家族で八ヶ岳の麓をキャンプをして回りました。
投稿: konoha | 2024年5月 5日 (日) 11時59分