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2007年7月19日 (木)

里の秋

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:斎藤信夫、作曲:海沼 実、唄:川田正子

1 静かな静かな 里の秋
  お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
  ああ母さんと ただ二人
  栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい 星の空
  鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
  ああ父さんの あの笑顔
  栗の実食べては 思い出す

3 さよならさよなら 椰子(やし)の島
  お舟にゆられて 帰られる
  ああ父さんよ 御無事でと
  今夜も母さんと 祈ります

Satonoaki_2《蛇足》 昭和20年(1945)8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れて、連合国に降伏しました。敗戦とともに、南方や大陸各地から軍人・軍属、民間人たちが続々と日本に引き揚げてきました。
 彼らは、多かれ少なかれ体か心、またはその両方に傷を負っていました。

 同年暮れ、日本放送協会(NHK)は、そうした復員兵や引き揚げ者たちを励ます特別ラジオ番組を企画し、その中で流す歌の制作を音羽ゆりかご会の主宰者で作曲家の海沼実に依頼しました。
 放送日は、12月24日と決められました。

 海沼のもとに曲の依頼があったのは、そのわずか1週間前でした。
 焦った海沼は、何か適当な詩はないかと、古い童謡雑誌を引っ張り出して次々と調べていきました。その彼の目にとまったのが、斎藤信夫作『星月夜』という童謡でした。

 その名前を見たとたん、海沼は、その作者のことを思い出しました。
 海沼がまだ無名だった昭和12年
(1937)ごろ、斎藤信夫が千葉県の成東(なるとう)(現・山武市)から訪ねてきて、童謡にかける思いを語り合ったことがあったのです。
 場所は、音羽ゆりかご会の練習場所になっていた東京・護国寺内の幼稚園でした。斎藤は小学校
(昭和16年~22年は国民学校という名称) 教師の傍ら、せっせと童謡を作詞し、童謡雑誌に投稿していました。その雑誌上で海沼の名前を知り、興味をもったといいます。

 『星月夜』を見た海沼は、この詩でいけると直感しました。しかし、そのままでは使えません。
 というのは、1番と2番は、母子が栗の実を煮ながら出征中の父親を思いやる内容でしたが、3番と4番は、下記のように軍国主義的な内容になっていたからです。

3番:きれいなきれいな椰子の島/しっかり護って下さいと/ああ父さんのご武運を/今夜も一人で祈ります
4番:大きく大きくなったなら/兵隊さんだようれしいな/ねえ母さんよ僕だって/必ずお国を護ります

 そこで海沼は、その部分を修正してもらおうと、斎藤宛に「スグオイデコフ、カイヌマ」と電報を打ちました。

 そのころ、斎藤は小学校教師を辞める決意をしていました。
 戦争中、斎藤も、ほかのほとんどの教師と同じように、日本の軍国主義を素直に信じ、生徒たちに神州不滅と教えていました。『星月夜』を書いたのも、太平洋戦争開戦直後の昭和16年
(1941)12月21日のことでした。
 しかし、その神州が敗れ去った以上、教師として大勢の子供たちに嘘をついてきたことになります。斎藤が教師を辞めようとしたのは、そうした過去に耐え切れなくなったからでした。
 学校から引き留められたため、実際に止めた辞めたのは、昭和21年
(1946)4月でした。

 海沼から電報が届いたのは、そんなときでした。斎藤は、用件も示さず、一方的に呼びつけるとは少々厚かましいと思ったものの、海沼の活動には敬意を払っていたので、出かけてみることにしました。

 やってきた斎藤に海沼は事情を話して、3番・4番の修正を依頼しました。
 そんなことなら簡単と引き受けたものの、詩のテーマの根本的な変更なので、なかなか筆が進みません。あれこれ悩んでいるうちに、とうとう放送当日になってしまいました。

 斎藤は、あわてて3番だけ書いてNHKに駆けつけ、童謡歌手の川田正子を連れて待ちかまえていた海沼に渡しました。
 題名は、海沼の注文で『里の秋』と変えられました。曲はすでにできていたので、海沼は正子に詩を渡して練習させたあと、放送に臨みました。

 特別番組は「外地引揚同胞激励の午後」と題して、昭和20年12月24日午後1時45分から放送されました。

 『里の秋』に対する反響は驚くべきものでした。正子が歌い終えると、「スタジオ内はシーンと静まり返り、その場にいた全員が心が浄化されるのを感じた」と、放送に立ち会ったあるスタッフは語っています。
 放送が終わったとたん、局内の電話がいっせいに鳴りだし、翌日以降も、電話による問い合わせや感想の手紙が殺到しました。
 一つの歌にこれほどの反響があったのは、NHKでも初めてのことだったといいます。

 その後斎藤は、川田正子の家庭教師をしながら、海沼と組んで叙情的な作品をいくつも作りました。その1つが名作『蛙の笛』です。
 しかし、根っからの教師だった斎藤は、プロの作詞家になる道は選ばず、やがて教職に復帰しました。

 昭和57年(1982)、千葉県成東町(現在は山武市成東)の城跡公園の一角に斎藤信夫を顕彰して『里の秋』の歌碑が建てられました。斎藤の生家の近くにある南郷小学校の校庭にも歌碑があります(写真)

 1番の背戸は、家の裏口・勝手口、または裏庭のことです。
 上の絵は2005年の年賀状用にPhotoShopで描いたものです。

(二木紘三)

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コメント

二木先生 こんにちわ
里の秋は子どもの頃によく歌ったものです。誕生までの逸話を興味深く読ませていただきました。
この温かい旋律は、戦争ですさんだ人々の気持ちを和らげてくれたに違いありません。
この曲と同じ年に生まれたものとして、二度とあの悲惨な戦争を繰り返さない思いをこめて歌いついでいきたいと思います。

投稿: 孫すずめ | 2007年7月28日 (土) 01時10分

小学校の頃、音楽祭でこの「里の秋」や「みかんの花咲く丘」を上手に歌う子たちがいました。友達の中には父親が戦死して母子家庭の子もいました。その頃はあまり感じませんでしたが、年老いたいま、平和の大切さを痛感します。今も地球上のどこかで殺されている人があります。
 テロをテロによって押さえつけることは出来ないと思います。
 1951年のサンフランシスコ講和会議でスリランカの代表が戦勝国の賠償放棄を訴えて「憎しみは憎しみによって越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えることが出来る」と言ったということです。
 全てにおいて愛というものの重要性を痛感します。
 童謡の世界には愛があります。私は年老いても童謡を歌いたいと思っています。

投稿: F.S. | 2007年9月14日 (金) 22時43分

二木先生、はじめまして。
里の秋について、最近台湾にいる友人から、実は3番以外に4番もあ
った、というメールが届きました。それは、
(4)明るい明るい里の道
 白木の箱の父さんを 
 ああ母さんとただ二人 
 迎えに行きます里の駅
というものです。外地で苦労をされた引き上げ軍人さんを迎える歌に相応しい、最後は悲しい歌です。亡くなったお父さんへの「ご苦労さまでした」の思いと、これから立ち上がって行こうとの思いが伝わってくるような歌詞です。事実この同胞を迎える会には、白木の箱の状態で戦友に抱えられて帰った人が多かったと言うことです。友人の言うこの4番についてどう考えればいいのでしょうか?

投稿: さくゆり | 2007年10月 7日 (日) 22時01分

さくゆり様
 『里の秋』は「蛇足」にも書いたように、海外からの復員兵や引き揚げ者たちを慰め、励ますために作られた歌です。「みなさんは苦しい目に遭い、辛い思いをしてきたでしょうが、今やっと祖国に帰り、父母や妻子のもとに戻ってきたのですよ」という番組で歌うのに、「白木の箱で」云々という悲しい歌詞を歌うわけがありません。
 また、どの歌にも基礎となるコンセプトがあります。『里の秋』は、南方にいる父親を母と子が待ちわびるという歌です。「白木の箱」という歌詞は、このコンセプトからまったく外れています。
 ご紹介いただいた「4番」は、誰かが作った替歌でしょう。
 なお、齋藤信夫の書いた歌詞が3番までというのは、はっきりしています。

投稿: 管理人 | 2007年10月 8日 (月) 08時01分

二木先生 初めまして
私は退職後JICAシニア海外ボランテイアに応募し、2年間マーシャルという国(Atoll)に行っておりました。マーシャルやミクロネシアの戦跡も沢山見てきました。
日本で時々この歌を(カラオケで)歌う時「この3番に出てくる椰子の島に行っていました」とだけ言って歌いますと、「この歌はそうだったんですか、初めて分かりました」と言う方が多いです。
私も先生の解説で改めて勉強しました。
僭越ですが私の撮ってきた(以下の)写真を見て戴ければと思います。http://www.w1vx.net/ja8ve/august.htm
http://www.w1vx.net/pedition/v63_2006/chuuk_poem.htm


投稿: 齋藤 | 2007年10月12日 (金) 22時17分

 初めまして。私は、いすみ市出身の者です。『星月夜』の詩が気になっていましたんで、助かりました。ありがとうございます。子供の頃がちょうど、曲の誕生50年目だったと思います。3番迄、しっかり歌わされましたよ。メロディは海沼さんが、この地(当時は『夷隅郡古沢村』)で生んだそうですから。

投稿: 夷隅郡に生誕 | 2007年12月10日 (月) 13時26分

さくゆりさんの新4番、やはり斉藤信夫ではなく詩にあまり熟達していないひとの作でしょう。
(原詩1-4番、新3番とも冒頭のリフレーンは別の言葉が使われているのに対し、2番の「明るい明るい」を再使用している、「里の道」「里の駅」と「里」が二度でてくるなど)
 ただ、この新4番を歌ってみると、涙が湧き出、声が震えました。帰還を待ちわびていたら帰ってきたのは白木の箱、中には石ころか木札というのはよくあった話です。だからこの新4番、捨てがたい思いが強いのですがどうでしょうか。

投稿: 熊さん | 2008年3月 2日 (日) 02時12分

38歳の時に離婚をした母について。。。田舎に帰りました。その頃の離婚は親権者が父親と言う事が普通で私もそうでした。
母は実家へ帰ったものの普通の女であるから仕事もなく。。。しばらくぶらぶらしていました。
実家は母の兄が継ぎその家族に気を使いながらの私達の生活でした。
帰ってしばらくは母はこのような歌ばかり歌って過ごしていました。
自分に降りかかった不幸を歌って乗り越えていたのでしょうか?

投稿: sunday | 2008年8月 5日 (火) 19時42分

二木先生へ
今年70歳になりますが、この5月から奈良市にあるシルバーコーラスに入会して童謡や歌曲、懐かしい歌謡曲などを多くの人たちと合唱し歌を楽しんでいます。最近奈良市のある行事に我々シルバーコーラスが出場することになり、発表曲の一つに「里の秋」が選ばれました。
有名な童謡で1番の歌詞はよく知っていましたが、この曲は「ふるさと」と同じ故郷をテーマにした叙情歌と思っていたのですが、2番の歌詞に「とうさんを思い出す」という歌詞が出てきたので、不思議に思って「うた物語」でこの曲のいわれを調べさせてもらったら戦後復員する人たちを歌ったものだということが恥ずかしながら初めてわかりました。復員する兵隊をテーマにした有名な「帰り船」もいい歌で好きな曲ですが、これからは「里の秋」も同じ思いを込めて歌いたいと思っています。

投稿: SF | 2008年9月16日 (火) 08時35分

   野も山も家も黙(もだ)せり里の秋  (拙句)
 まことに申し訳ありませんが。山形の内陸部の名もない一寒村を、『うた物語』で日本一有名な村にしてしまいました。「太郎村」。
 一筋の川が流れる山あいの村で、秋ともなると本当に『里の秋』さながらのたたずまいでした。

投稿: 大場光太郎 | 2008年10月28日 (火) 00時56分

二木様
はじめまして。今年古希を迎えた記念に中学同級生の有志で一泊旅行を計画しております。実は私達は斉藤信夫先生の教え子で、旅行ではいつも先生の思い出話が中心でした。里の秋にまつわる資料集め中にこのブログに出会いました。これも何かの縁です今後ともよろしくお願い致します。ちなみに私の〔里の秋〕はかなり以前から投稿ネームとして使わせていただいております。

投稿: 里の秋 | 2009年8月19日 (水) 11時43分

「里の秋」の作詞された本当の意味を初めて知りました。
戦争の復員して来る方たちを出迎える歌だと知りました。
「戦争は人の命、物、心を奪います。だから、戦争をやってはいけないのです。」と亡き母が言っていました。
私も戦争はしてはいけないと思います。

投稿: C,M | 2009年9月 2日 (水) 19時42分

なつかしい歌をありがとうございます。介護学校の先生に二木先生のサイトを教わりました。

投稿: 渡邊悦雄 | 2009年11月 6日 (金) 22時31分

確かにこの歌は3番で終わらないとコンセプトが崩れ
ますね。海沼実はどうして何時もあわただしく曲を作る
のでしょうか。そうして作った曲の反響が凄かったのも
不思議、これが芸術家と言うものでしょうか。

投稿: 海道 | 2009年11月 7日 (土) 15時12分

映画「男はつらいよ」の中で「里の秋」が丁寧に歌われたことがあります。第34作「寅次郎真実一路」(1984年)です。
この作品のマドンナ:大原麗子の夫・米倉斉加年は大企業のモーレツサラリーマンつまり企業戦士です。あまりの激務に、あるとき「蒸発」して行方不明に。
米倉をたまたま知っていた寅さん(渥美清)は、奥さん(大原)とその息子のために、蒸発者探しを手伝っています。
ある日、大原と息子さんをなぐさめるため、寅さんが二人を柴又の団子屋に招待します。皆で御馳走を食べ、歓談したあと、皆さんへのお礼にと、小学生の息子が立ち上がって「里の秋」を歌います。それが長いカットで、一番の歌詞全部が歌い終わるまでカメラは動きません。
 映画のストーリーには直接関係のない一つのエピソードですから、ふつうなら、歌う場面が少しあって、すぐ次の場面に転換しても不思議ではない場面です。一番だけとはいえ歌詞全部終わるまで歌うと、けっこう長く感じます。
 その長いシーンを見ていて、私はハッとしました。私は父が戦死者で、白い箱を受け取った子供でしたから、終戦後の「復員だより」のテーマソングだった「里の秋」を知っていましたから、山田洋次監督がここでこの歌を丁寧にゆっくり聞かせた意図がわかったような気がしたのです。山田監督は、ややもすれば日本を再び戦争する国にしようとするような政治的動きに不安を感じ、あの頃を(観客に)思い出させようとしたのではないか、また、それに重ねて異常な企業活動で父親を、母と子から奪っている現状に「これでいいのか」と怒っていたのではないかと感じました。
 その点を取り上げた映画評論がなかったことはちょっぴり残念でした。

投稿: お茶の水 | 2010年2月15日 (月) 18時24分

毎日この曲を聴いています。今年68歳、父はシベリア抑留者で、南洋からの復員ではありませんし、私も都会暮らしで栗の木もいろりもなかったけれど、何故かこの曲には惹かれます。父を待つ母子の素朴な生活ぶりが偲ばれるからでしょうか・・・永遠の名曲ですね・・・

投稿: エスペロ | 2010年5月16日 (日) 13時34分

若いときも年をとっても聴いていい歌ですね。日本を感じさせる歌です。戦時中子供の私は外地に妻は筑波山の見える田舎に住んでいたのですね。妻の父上は出征して南の島へ兵隊は食べるものが無くて蛇や蛙を食べていたそうです。母上と娘は父上の無事の帰りを待っていたんですね。この歌そっくりの絵に書いたよう暮らし今でも囲炉裏があります。いつかそのことを妻に話した時何故かあまり話したくないようでした。

投稿: 釈 浄慶 | 2010年5月25日 (火) 16時55分

二木様  いい解説をありがとうございます。私は子供のころから、この歌の「ただ二人」というところに違和感を感じ、気になっていました。「ただ」の場合「ただ一人」となるのが自然だろうと思っていたからです。夫が出征し、その帰りを待つ時の歌として知り、長年の疑問が解けました。戦争は国家のため、家族のためとして始まります。死んでしまえば何も考える必要ありませんが、結局悲しむのは残された家族です。書き換えられたこの歌の心がいつまでも続くことを祈ります。
  
歌を愛し、もうすぐ還暦で、戦争を憎む”オカピー”
   

投稿: 岡村直孝 | 2010年12月 9日 (木) 22時12分

昔は7,8人の大家族が当たり前でしたから、たった二人の家庭はめずらしい方に入ったのだと思います。ですから「ただ二人」でも違和感がないのです。淋しい家庭とすぐ理解されます。私の家も戦後すぐは10人家族でした。
戦争は国家のため、家族のために始まるのではなく、一部の権力者の欲望のために始まるのだと私は思っています。戦争を一番したがる人はそれによって金儲けが出来て、名誉が与えられると思っている人たちです。彼らは兵士になって死にません。彼らのために使い捨てされないようにしたいものです。

投稿: ハコベの花 | 2010年12月10日 (金) 11時00分

私は、昭和22年九州・小倉市に生まれました。年代的にこの歌の様な状況には成り得ませんでしたが、親戚にこの様な家族がいました。戦争未亡人である叔母さんは、妹(私の母)である私の家に来ては密かに泣いておられました。残念ながら、時代を問わず戦争で儲ける人々がいます。そういう人々に踊らされてはいけません。眼を見開いて監視していなければなりません。

投稿: 竹永尚義 | 2010年12月10日 (金) 16時46分

こんばんは

海道さん
>確かにこの歌は3番で終わらないとコンセプトが崩れ
ますね。
>海沼実はどうして何時もあわただしく曲を作る
のでしょうか。
>そうして作った曲の反響が凄かったのも
不思議、これが芸術家と言うものでしょうか。


ものの本によると
彼は頼まれて、あまり時間のない条件のなかで
大変努力するのですね。

「里の秋」は
放送局から番組のため、南洋からの復員兵を日本に迎える歌を頼まれ
実は戦争中に作詞者から送られてきた詩があるのを思い出して
それを引っ張り出して、一部を変えると使えるということに気がつき
作詞者斎藤信夫に電報を打って東京にきてもらって相談して
こういうふうに直して
放送に間に合わせたんですね。
この音楽が流れて放送が終わったら
とたんに電話が鳴り続き、もう一度聞きたいというアンコール続出。
要するに彼は戦争中も創作データベースをしっかり確保していたのです。

だから四番は、彼の放送局からの依頼には外れていますから
ありえません。
この成功話のどさくさにもちこんだ蛇足ですね。
まあ、そういう発展もありかもしれませんが、当時の状況から逸脱しています。

「みかんの花咲く丘」も放送局から頼まれ
川田正子によれば、はじめから(こんど作る歌は)みかんの歌だよと言われたそうです。歌のできる前から。

ちょうど川田正子のインタビューにきた加藤省吾をつかまえて
お赤飯をご馳走するからと(仕事が終わって)無理に残ってもらって
詩をきちっとつくってもらってから
GHQに駆け込んで許可を得て
それから川田正子と一緒に列車に乗り静岡につくまでに曲を作ったのは
彼の状況としてはやむをえなかったでしょう。
与えられた時間の中で最善を尽くすしかないわけてす。

このへんのいきさつを書いた本を
私は代々木上原の古賀政男音楽博物館の図書で読みました。

そのとき、なんとなく感じたのは
川田正子の父親と、川田美知子の父親は違うのではないか
川田三姉妹の末子の美智子の父親は海沼実ではないかと推定しました。
その本には書いていませんでした。
のちに故川田正子の本を読むと、美智子の父親は海沼実だということがわかりました。美智子の息子が、祖父の後を継いだ三代目海沼実です。
http://spysee.jp/%E4%B8%89%E4%BB%A3%E7%9B%AE%E6%B5%B7%E6%B2%BC%E5%AE%9F/37159/

海沼実は長野県に妻子をおいて
上京し、音楽の道をまっしぐら
とうとう川田美智子の父親になり
長野県の妻子とは別れてしまったわけです。

投稿: みやもと | 2010年12月10日 (金) 20時57分

昨晩友人一家に誘われ、ワルシャワ市内の広東料理店で食事を楽しみました。味付けは甘くタイ風でした。BGMになにかしら聞き覚えのある中国語の旋律が聞こえてきます。娘も友人の息子さんも「あっ、里の秋だ」と言います。そうなのです。中国語でそれも中国風に揺曳する旋律の、わが「里の秋」なのです。日本の旋律は独自のものという先入観がありました。四十年前の昔、札幌の本屋でのある数学雑誌の立ち読みで、沖縄旋律は五線譜上のある音程を基準に上下反転すると、中国旋律に変換するという論文を読みました。歌が心の深くに沁みこむのは、表面の旋律だけによるのではなく、恐らくベースとか虚像の倍音などの存在によるものなのでしょうか。国語のK先生は本居長与について声楽を学んだことを自慢にしておりましたが、いわゆる洋楽の歌を本居長与風に変換して歌うことができました。ある時、指名されて故郷の観音講の憂鬱な歌を歌いましたら、「ああ、懐かしい、ほーとーけーわーとーわに、おーまーせーどーもーおおおー」と続けてくださいました。決して、学生の目を見ることのない先生でした。

投稿: イサコフスキー | 2012年1月17日 (火) 06時40分

 >>  カエデ舞い 栗の実育つ 里の秋

庭のカエデが葉を落とし始めました。十年前、数㎝白まだら双子葉を森で見つけ、庭に移植。引っ越しごとの3度移植に耐えて7mほどに育ちながら、いつプロペラ果実を付けるだろう?

ニセプラタナスとプラタナスモドキと言う種名上二つが我が村の代表。他人の名前をもじり付けられ、不憫な思いをしているのかもしれません。にも拘らず`里の秋`を十分に感じさせてくれます。葉っぱ白いパターン部分はシアン紅味が入り長い葉柄ねもとから綺麗に離接され、舞い落ちた地面を飾っていきます。

向かいの散策路に立つ栗の木にどっさり毬栗が付き、深い神無月に褐色に輝く実が転がりこぼれ出てくる。すると母と娘の囲炉裏火がパチパチ揺らいで重なって見えてくるんですね。 

投稿: minatoya | 2013年9月 3日 (火) 01時28分

二木様
今日仕事をしていたら、突然、唱歌のメロディーが心に浮かんで来ました。秋にぴったりの風情を醸し出す旋律だと思います。早速、ネットで調べてみてびっくり仰天!復員兵を待つ母子の心を描いているとは。誰もが知ってる歌なのに、その背景を知ってる人は少ないのにも驚きました。今の日本の繁栄が戦争で亡くなられた方々だけでなく、御家族の方々の尊い犠牲や愛国心があったからだと思います。戦争のない恒久平和世界を夢見るのは万人共通でしょうが、如何にすれば実現できるのか、具体的なビジョンがないのが悲しい現実です。それどころか日本を取り巻く昨今の国際情勢は、一触即発の状況です。秋の里の歌でも口ずさみながら、命の尊さ、家族の大切さを改めて考える人が増えることを祈ります。
感動的な歌と秘話をありがとうございました。
ざ・ガードマン

投稿: ざ・ガードマン | 2013年10月17日 (木) 22時45分

この歌のこと、中国でも歌われていると書き込みがありましたが、「又見炊烟」の題名で台湾で作られ,テレサ・テンも歌っていました。歌詞の内容は,台湾の田園の夕暮れを歌ったものです。

14年ほど前に中国の若い歌手(王フェイ)が歌って、日本でも流行っているようでした。中国の取締当局はこの歌の原曲・発生の由来に気づいてないようです。
知れば黙ってないと思いますが・・・?

投稿: 中さん | 2013年12月 8日 (日) 22時39分

この歌は、ずいぶん前から知っていましたが、三番の歌詞では、いきなり南方の椰子の島が出てくるので、その意味がわからず好きになれませんでした。しかし、二木先生の解説でその意味がわかり好きになりました。じつは、私は終戦一年前に台湾で生まれました。当時、父は出征中で5歳の姉と3歳の兄がいました。父は無事に復員することができましたが、父の帰りを待つ母の心境を思うと目頭が熱くなり泪しました。
長嶺(69歳)

投稿: 長嶺勲夫 | 2014年2月12日 (水) 13時52分

 この<蛇足>はとくに感銘があり、今日読むのは3回目です。今日、はじめて気づいたことを述べさせてもらいます。
 作詞家の斉藤信夫氏は、終戦になって、皇国史観にもとづいた教育を恥じて、教員を辞します。1911年生まれですから、当時34歳です。職を失えば、当然、家族はたちまち困窮します。ウィキぺディアなどでは、教職を辞したことを気骨ある人物と書いていますが、気骨云々のレベルとはちがう。これは倫理感の問題です。後に教職に戻っていますから、よほど子どもが好きだったようです。さぞ苦しんだ末の決断だったでしょう。自らを罰し、けじめをつけたわけです。えらいと思います。
 一方で、やめなかった教員が気になります。戦後、教職員組合などで、「教え子を再び戦場に送るな」という結構なスローガンがかかげられます。軍国主義から民主主義への転向です。しかし、かなり都合のいい転向です。けじめをどこでつけたんでしょうね。
 かつて特攻隊の隊員に「国ために散ってくれ、わしも後で、お前たちのところへ行くからな」といったまま、戦後長生きした上官もいました。その連中とイメージが重なってきます。
 「ひとつの愚からめざめて、次のあらたな愚に走りこんでいく」と民衆(=自分でものを考えようとしない人)のことを指摘した人がいました。軍国主義から民主主義へとバスを乗り換えただけではなかったのか。そんなことを考えさせる斉藤信夫氏の自分の道の歩き方でした。

投稿: 七色仮面 | 2014年2月13日 (木) 17時23分

『里の秋』の歌詞3番と4番は、軍国主義的な内容にー3番きれいなきれいな椰子の島/しっかり護って下さいと/ああ父さんのご武運を/今夜も一人で祈ります4番大きく大きくなったなら/兵隊さんだようれしいな/ねえ母さんよ僕だって/必ずお国を護ります~改めて知り驚く、噛み締めて歌いたい名曲!

ボケ防止で、カラオケで好きな歌を歌うだけでなく、歴史を学びながら歌わなければと思う今日この頃。演歌、流行歌なども楽しいが、たまには、軍歌、戦時歌謡なども歌い、戦争、平和について思い出してほしいと思うが、仲間は、これらを敬遠している。戦時中に生まれたものには、辛くで、悲しいものです。昭和の庶民史を語る会

投稿: 昭和の庶民史を語る会 | 2015年8月21日 (金) 11時43分

 私は元声楽家で77歳、現在、出身地の神奈川県横須賀で「名曲を歌おう!」の会を主宰(選曲、歌指導、伴奏共)しています。毎月一回の開催で参加メンバーは男女ともに古希・喜寿を過ぎた方々です。
 
 毎回2時間の会の最後にピアノの回りで「季節のウタ」を数曲歌ってお別れしています。秋のシーズン定番は「もみじ」「野菊」「小さな秋」そして「里の秋」です。

 特に「しーずかーなーしーずかなー」で始まる「里の秋」は他の海沼実作品「ミカンの花咲く丘」「ばあや訪ねて」等と共に戦後の混乱期を生きてきた世代共通の思い出が込められている名曲だと思います。誰でも歌いやすく楽譜や歌詞を見ずに皆が歌えるのもいいですね。

 年に一度か二度、秋の季節感を味わいながら名曲「里の秋」を声を合わせて歌う愉しみは理屈無しに、高齢期を生きる私たち仲間の大きな活力になるに違いありません。

投稿: 「名曲を歌おう!」主宰者 | 2015年10月 5日 (月) 17時27分

今日は
ご無沙汰しています。
覚えていらっしゃいますか?
かなり前に溝の口で作文の講座に参加させていただいたものです。
今日偶然戦争の関係についてのブログで先生のページを見つけました。
戦争中に生まれた子という題でブログを更新しています。
今日からは漢方に関するものに戻ります。

投稿: 川手鮎子 | 2016年3月19日 (土) 12時06分

 この歌は小さいころを思い出します。境遇が似ていたわけではないですが、旋律に惹かれます。でも「背戸」と「瀬戸」との違いは今なら分かりますが、1年ぐらい前まで同じと思っていました。
 

投稿: 今でも青春 | 2016年11月 4日 (金) 20時42分

「里の秋」を聴くと、ほのぼのとした気持ちになります。
私は戦後10年近くたって生まれましたが、「里の秋」の歌詞に3番があるのを知りませんでした。
学校の音楽帳の歌詞にも1番と2番だけが載っていたような気がします。
ですから、「里の秋」は故郷を歌った唱歌だと思っていました。
でも3番の歌詞を見て、この歌は海外からの復員兵や引揚者と迎える歌だったと知って驚きました。

また「里の秋」は、台湾出身のテレサ・テン(鄧麗君)が台湾語か中国語(北京語)でカバーしていて「又見炊煙」という題名で歌を聴くことが出来ます。
テレサ・テンの澄んだ歌声と素直な歌唱が、この歌の良さを引き出しています。
他にも、何人かの台湾人または中国人の歌手が、この歌をカバーしているようです。
興味のある方はぜひ、聴いてみてください。

投稿: Ken | 2017年3月14日 (火) 21時04分

作曲の海沼實が長野市松代町出身だから里の秋はてっきり信州の山里がモデルと思っていました。信州にも童謡は沢山ありますが秋になると里の秋が自然と景色から出てきます。3番の南方から復員するであろうお父さんを待つ景色には心を打たれます。原詞の星月夜の3番がお父さんの武運をたたえる詞であったとしても。長野県の南にある阿智村には満蒙開拓団の記念館があります。国策により開拓団として満州にわたった沢山の人々がソ連軍の参戦により亡くなられたり逃避行の際に自決したことが分かります。私は地区報に信州にゆかりの歌、童謡を載せています。自由民権運動にも関りのある県歌信濃の国、都内の軍需工場から戦地に向かう学徒を見送った島崎藤村の詞による惜別の歌、そして鐘の鳴る丘、それに今度は里の秋です。

投稿: taguchi | 2017年8月30日 (水) 23時29分

 「里の秋」は、秋の季節の唱歌として、誰しも思い浮かべる名曲だと思います。美しいメロディのもと、静かな秋の夜に母とともに父の帰りを待つ子供の姿を詩情豊かに歌い上げていて、心に深くしみこみます。
 数年前、私はリタイヤ後の活動の一環として、地元の男声4部コーラス同好会で歌を練習していました。ある時、練習曲の一つに「里の秋」が選ばれ、他の曲とともに、地元の文化祭などにも出演する運びとなりました。
 練習を始めた当初、歌唱時間の配分等から、1番と2番のみを歌うとしていました(コーラスでは、このようなことは、ままあることのようですが)。しかし、”どうも、しっくりこないなあ”と感じた私は、後日、”この歌は、3番まで通して歌うべき”と意見具申して、受け入れられました。
 やはり、この歌は3番まで歌ってこそ、歌の持つ詩情がしっかり伝わるのであろうと思います。

投稿: yasushi | 2017年8月31日 (木) 15時30分

 柿の葉の落ちる頃になると何十年も前に新聞で見た短歌を思い出します。
 「里の秋」斉唱終えて俯(うつむ)ける母なき子をば今に忘れず
戦後は父親のいない子が多かったと思われますが、この歌の子のように母親のいない子も多かったのだと思います。
 私の父は抑留も含めて五年間の戦地から幸い復員しましたが、その間留守を守っていた母と祖母の不安感は子供心にひしひしと伝わって来ました。
 短歌の中の子供さんも、女の子ではないかと思いますが、結婚されて子沢山の賑やかな家庭を築かれたことを願っています。
                   太郎

投稿: 太郎 | 2017年10月20日 (金) 17時41分

私にとって、春・桜の頃に溢れくる歌が「港が見える丘」(S22 平野愛子 唄)なら、秋への季節の移ろいとともに恋しくなる歌は「里の秋」です。
  なかでも、歌詞1番の、♪お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は♪から、遠い昔のことが思い出されます。
  昭和21年秋、私がまだ小学生の頃、終戦で、私の一家七人は、旧・満洲から日本に引揚げて、加賀温泉郷の在の小さな集落にある、父の実家で居候生活を始めました。茅葺で、囲炉裏のある古い家でしたが、背戸には緑に苔むした庭がありました。庭には大きな栗の木が植わっていて、少し寒さを感じる朝に、庭を見渡すと、綺麗に掃き清められた苔の上に、栗の”いが”と実が幾つか落ちていました。
  その後、私の一家は急造の別棟に移り、また、数年後に、実家の建て替えとともに、栗の木は切られ、背戸も大幅に様変わりしてしまいました。今では、♪お背戸に木の実の 落ちる夜は♪のシーンは、歌と思い出の世界にだけ息づくものとなっています。

投稿: yasushi | 2018年9月 9日 (日) 13時52分

「里の秋」は典型的な秋の歌ですが、近年は気象激変期?で(地球温暖化どころか逆に太陽黒点が減少し既に小氷期に入っているという説あり)、この間までの気象庁認定・災害級猛暑とはうって変わり、今朝は北関東でも冷え込み早くも電気コタツを出して灯油の買い出しという様変わりです。
突然ですが、近年は日本に永く住んで漢字の読み書きを始め驚異的な日本語能力のロシア美女↓を始め全国津々浦々に外国人が当たり前の“風景”です。
(ロシア女性アシアさん提供)http://www.youtube.com/watch?v=bll8Mjkv79o
(ロシア女性ユーリャさん提供)http://www.youtube.com/watch?v=KSUz-hHfKJk

投稿: 焼酎 | 2018年9月21日 (金) 14時23分

はじめまして82歳のばぁさんです。
先日、里の秋の歌詞は戦時中は違うものだったとお聞きして、初めの詩を知りたくて訪問しました。
ここに書かれている詩を私のブログにお借りします。
よろしくお願いいたします。

投稿: こきおばさん | 2018年11月18日 (日) 08時09分

数年前からずっと多くの曲を聴き続けています。
里の秋は、涙無しには聞くことのできない曲の1つです。
3番は絶対に欠かすことができないし、欠かしてはいけません。
二度と戦争を起こさないために、3番まで後世に歌い継がなければなりません。
二木先生、本当にありがとうございます。

投稿: cattleya | 2019年9月15日 (日) 17時17分

私は昭和31年(1956年)生まれで、1960年代を小学生として過ごしましたが、小学校で習った「里の秋」の歌詞は1番と2番だけだったと思います。それで「里の秋」はずっと唱歌だと思っていました。

今から10数年前に私はある年配の方から、実は「里の秋」には3番もあって「戦争で南の島に行った父親の無事の帰りを母親と待っている」という歌詞があることを知らされました。(私はその方とネットを通して知り合いましたが、私もその方も何十年も海外に住んでいるので日本の事情に少し疎い面があります)

きっと私が小学生の1960年代は、戦争に関係のある「里の秋」の3番の歌詞を意図的に省略して、私たちに1番と2番だけ教えていたのではないかと、今では思っています。
私は3番の歌詞が悪いとは全く思いませんが、この3番の歌詞を教えたくない人たちがいたのだろうと思います。

それと「里の秋」はテレサ・テン(鄧麗君)によって、「又見炊煙」という題名で中国語で歌われ、日本だけでなく中国・台湾でも愛されている歌になっています。

テレサ・テン(鄧麗君)は、「北国の春」、「グッドバイ・マイ・ラブ」、「昴(すばる)」、「みちづれ」、「くちなしの花」、「とまり木」など、日本の歌を中国・台湾はもとより、華僑が多く住んでいる東南アジアにも広めてくれた立役者だと、私は思っています。本当にテレサ・テンに感謝の気持ちでいっぱいです。

投稿: kaincal | 2019年12月15日 (日) 12時00分

夏の名残の暑さもようやく衰えを見せ、秋の気配が増してきつつある昨今、恋しくなってくる歌が、「里の秋」です。

ここのところ、倍賞千恵子さんの歌声による「里の秋」が、お気に入りです。彼女のクリアな、優しく、美しい歌声を聴いていますと、心が和みます。

これまで、私の音源(HDDジュークボックス)には、由紀さおり・安田祥子さんの歌声による歌謡曲、抒情歌は、そこそこ入っていましたが、何故か、倍賞千恵子さんの歌では、「さよならはダンスの後に」(横井弘 作詞、小川寛興 作曲 S40)位しか入っていませんでした。
このたび、ふと、倍賞千恵子さんの歌声による、他の歌謡曲、抒情歌も聴いてみたいと思いつき、YouTube検索していたなかに、「里の秋」もあったのです。

投稿: yasushi | 2020年9月10日 (木) 14時41分

二木絋三先生
気の張ることのない寝ヨガを、歌を歌いながら行います。みんな、老女。毎年この時期出てくる歌に、里の秋があります。昨日は、先生が突然、3番の歌詞を読み上げました。3番?初めてです。知りませんでした。ハッとして聴きながら歌い、歌詞の意味を考えました。涙が出て止まりません。帰宅後、調べてみると3番の歌詞があるのです。そして、二木絋三の歌物語に辿り着き沢山のことを学ばせていただきました。幼い頃から口ずさんで来た童謡。私たちは、情景や思いも少しわかるような気がします。しかしこれを実感して歌う世代はもうすぐ消えていきます。是非ぜひ、このような日本の歌を心から歌い繋いで欲しいと祈りました。船曳

投稿: 船曳公子 | 2020年11月11日 (水) 10時40分

「里の秋」『蛇足』での解説でこの唄が出来た経緯を知った私は、時々このページを訪れては、その時代に自分の想いを馳せています!

昭和20年12月24日にNHKで放送されたラジオの特別番組「外地引揚同胞激励午後」の題で発表された歌

>「里の秋」に対する反響は驚くべきものでした。正子が歌い終えると、『スタジオ内はシーンと静まり返り、その場にいた全員が心が浄化されるのを感じた』と語っています。

終戦の年のまだ荒れ果てていた日本の歳の瀬、当時ラジオから流れる少女歌手川田正子のその素朴な歌声でこの「里の秋」を聴いた人々には、いったいどんな思いが去来したのだろう、この曲を聴きながら私はそんなことを考えてしまいます。

この唄を学校で習ったという記憶は私にはありませんが、姉や兄の影響でいつしか自然に覚えていた曲でした。毎年秋のこの季節がやってくると、今でも私が真っ先に思い浮かべるのは、やはり幼いころから慣れ親しんできたこの唄です。

先の船曳公子様コメント末文、>是非ぜひ、このような日本の歌を心から歌い繋いで欲しいと祈りました。

「里の秋」この唄への上記ご意見に、恐れながら私もまったく同じ思いを抱きます!

投稿: 芳勝 | 2020年11月11日 (水) 18時31分

『里の秋』は、多くの人に愛される名歌だと思います。
♪静かな静かな 里の秋 …♪と、気張らずに、スッと口遊めるところが、名歌たる所以だろうと思う次第です。

いろいろな歌い手さん、例えば、女性では、川田正子さん、由紀さおりさん・安田祥子さん、倍賞千恵子さん、そして、男性では、米良美一さん、錦織健さん、五郎部俊朗さんが、この歌を歌っています。
最近、よく聴くのが、五郎部俊朗さんが、ピアノ伴奏でうたう『里の秋』です。

なお、細かいことながら、最近、口遊みながら、改めて、『里の秋』の”里”とは、どういう意味なのだろうかと、思い巡らせてしまいました。
辞書を見ますと、”里”とは、”田舎(いなか)”、”実家”などとあります。
そうか。ならば、”里の秋”は、”田舎の秋”ということだろうと納得しております。
ついでながら、この歌と同じ作詞者・作曲家による『ばあやたずねて』の歌詞の末尾の、♪ばあやの里はなつかしいよ♪のなかの”ばあやの里”は、”ばあやの実家”ということで、合点しています。

投稿: yasushi | 2021年10月20日 (水) 14時53分

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