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2007年7月 2日 (月)

ふるさとの

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:三木露風、作曲:斎藤佳三

ふるさとの 小野の木立に
笛の音(ね)の うるむ月夜や

少女子(おとめご)は あつき心に
そをば聞き 涙ながしき

十年(ととせ)経ぬ 同じ心に
君泣くや 母となりても

《蛇足》 郷愁にも似た淡い初恋の記憶を、これほどみごとに短詩型で表現した詩がかつてあったでしょうか。後年、斎藤佳三がつけたメロディと相まって、「哀しいまでに美しい曲」と評されています。

 詩は明治40年
(1907)12月露風19歳のとき、雑誌『文庫』35巻第6に発表されました。作ったのは18歳のときで、その早熟な才能に驚かされます。
 明治42年
(1909)9月に出版された露風の第二詩集『廃園』では、「二十歳までの抒情詩」の部に収録されています。
 なお、露風はこの年の2月、早稲田大学から除籍されましたが、のちに推薦校友になっています。

 『廃園』は、半年先に刊行された北原白秋の絢爛たる処女詩集『邪宗門』とともに、詩壇に大きな衝撃を与えました。以後、2人は「白露時代」と呼ばれる一時代を抒情詩の歴史に刻むことになります。

 斎藤佳三は秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市)出身で、明治38年(1905)、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)に入学しました。オペラに関心をもつうちに演劇や舞台美術に惹かれるようになり、ついに東京音楽学校を中退して、東京美術学校(現・東京芸大美術学部)に入学し直しました。

 大正元年(1912)にドイツに留学、一足先に渡独していた東京音楽学校時代の友人・山田耕筰と共同生活を送りました。
 帰国後は、空間芸術家として帝展などにオブジェを出品するかたわら、作曲でも活躍しました。

 『ふるさとの』は、大正3年(1914)に発行された斎藤佳三作品集『新しき民謡』のなかで発表されたものです。
 昭和3年
(1928)2月、藤原義江の歌でビクターからレコードが発売されました。
 さらに、昭和11年
(1936)から始まった国民歌謡(戦後のラジオ歌謡の前身)の1つとしてNHKで放送され、多くの人たちに愛唱されるようになりました。三木露風の詩では、『赤とんぼ』に次いで長く、広く愛唱されている歌です。

(二木紘三)

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コメント

三木露風の作品の、この「ふるさとの」と「白月」とは1つの曲と錯覚してしまうほど、いつも同じ機会に耳にしていました。 露風が10台のときの作品と知り、なるほど、と思います。
 日本の歌曲の中の、何物にも換え難い清流の1つだと思っていますが、叶うことであれば、二木さんの編曲されたMP3で聴くことができれば などと都合のよい希望を述べさせていただきます。 

投稿: 成瀬吉明 | 2007年7月18日 (水) 10時25分

思いがけなくこの美しい旋律を聞かせていただき、50年近く前の十代後半の頃の自分にバッタリと再会したような気持ちです。その頃の自分は劣等感のカタマリのくせに、いつもいつも異性の「観念」に恋をしていました。

その「観念」のシンボルがこの「ふるさとの」の甘く哀しい詞と旋律でした。そして、いつもその「観念」に裏切られては、心臓に出来たミミズばれがヒリヒリと痛む感覚でこの歌を口づさんでいたものです。

そして何とか人並みの人生をくぐりぬけてきた60代半ばの今、改めてこの歌の最後の連、

  十年経ぬ 同じ心に
  君泣くや 母となりても

にたいして、「いいや、母となった女性は絶対に泣くはずがない」と断言する自分を発見します。やや寂しさを感じつつ・・・。

投稿: Snowman | 2007年11月 1日 (木) 22時49分

この詩とメロデーは初恋その古稀になる身の初恋そのものです。

投稿: なつメロ愛子 | 2008年9月12日 (金) 23時48分

メロディが元に戻ってほっとしました。露風はなぜ女の気持ちがこんなにわかるのか何十年も不思議に思っています。恋と愛とは違うのですね。子供への愛は限りなく深いのですが、ほのかに恋した人は永遠に懐かしい人なのです。母になっても涙があふれてくるほど懐かしく、恋しくなる時があるのです。少女の自分に戻って涙するのです。
ちなみに私はこの歌は大好きですが、赤とんぼのメロディは好きになれません。音楽に疎いので、理由が自分でもわかりません。

投稿: ハコベの花 | 2008年9月13日 (土) 00時16分

 哀しいまでに美しい・・・ほんとうに、この曲を形容するのにこれ以上の表現はありませんね。
詩がおのずとこの美しい旋律を呼び、旋律は詩の化身となりました。そしてその1聯・2聯・3聯が、静かな序・破・急となって、胸の奥深くしみてきます。
 わたしは3聯をくちずさみながら、アンドレ・ジイドの「狭き門」の最後の場面を思い出しています。今は幸せな主婦となり母となったジュリエットが、十数年ぶりで嘗ての恋人ジェロームと再会し、ひとしきり自分の家族の近況などを話したあと、しばしの沈黙が訪れます。やがて気を取り直したように、「さあ、目を覚まさなければ!」と言いつつ泣き崩れるシーンです。

投稿: くまさん | 2008年9月13日 (土) 20時13分

この美しい曲を今まで知らなくて、すご~く損をした感じです。
二木先生のおっしゃるように、ほんとうに「哀しいまでに美しい曲」ですね。でも、この哀しさは悲哀とか悲嘆といったものではなく、甘酸っぱい切なさですね。

私が子供のころ、夏祭りの前になると、毎晩、村の若い衆が笛や太鼓のけいこをする音が遠くから聞こえてきて、それを聞きながら寝入ったものでした。小学生のころですから、初恋の思い出ではありませんが、どこかでそれを聞きながら、切ない思いに涙を流していた女性がいたかもしれません。

投稿: 団塊思春期 | 2009年3月12日 (木) 12時08分

私には人に言えない秘密がいくつかあり、「『ふるさとの』と『平城山』が好き」と言うのもそのうちの一つなのです。この二曲は高校生の頃初めて聴いて、深く心に刻まれたのでした。
「平城山」は、美しいのですが、なぜ言いようの無い苦しさを覚えるのか…その時は解りませんでした。長年、その理由を知ろうとしてはいけないと思っていたのですが、ご解説により霧が晴れたような思いです。
「ふるさとの」は詩を先に知っていました。古い詩集を今も大切にしているのですが、その中に矢野峰人氏の「三木露風・人と作品」があり、『……彼の詩碑に刻まれている「をとめ」は、竜野時代の姐やと想われる。』としるされています。(龍野と書くのでしょうが、手元の新潮社の古い本では年表もすべて竜野になっています)
諸説あるのでしょうが、七歳で母が去ったのちに姐やとして露風を可愛がってくれた少女、十五歳でお嫁に行った少女、その面影を重ねてみると、なんとも言えない哀切な思いがこみ上げてきます。先入観なしに聴いても、この上なく美しく哀しく気高い初恋の歌なのは言うまでも無いのですが…。
二木先生の素晴らしい演奏に心から感謝しながら、この二曲を聴いています。

投稿: 眠り草 | 2010年10月30日 (土) 11時15分

笛の音は、この旋律のように愁いをおびていたのではないでしょうか…。
そして、うるむのは笛の音ばかりではなく、月夜の木陰にたたずむ年若い二人の心、瞳、声。
一、二聯は、別れの場面なのではないでしょうか……。
ねえやとして露風の世話をした少女には、慈しむ心があったのでしょう。露風も恋というよりは母を慕うような想いを寄せていたのでしょう。十五でお嫁に行くことになり、この別れは二人にとってどれほど辛かったことでしょうか…。
…もし私がとんでもない憶測を書いているのでしたら、二木先生どうぞお許しください。
なお昨日のコメントに書いた詩集は昭和四十三年頃に買い求めたもので、高校時代に読んだ本とは別のものです。

投稿: 眠り草 | 2010年10月31日 (日) 13時44分

時々、この歌を無性に聴きたくなる事があります。夫が前後不覚になるほど酔った時です。「哀しいまでに絶望した時」と言うべきなのかもしれません。この歌を聴くと絶望が遠のいて行きます。夫が嫌いなのか、酔っ払いが嫌いなのかわかりませんが、50年近くこの歌に救われています。

投稿: ハコベの花 | 2010年11月 3日 (水) 19時37分

音楽には不思議な力がありますね。ハコベの花さんのお気持ちはよく解ります。
私も家族の病気や介護、死別を経験し、その後も含めて長い間、クラシックのそれも古い時代のCDばかりを聴いていました。
人により、曲は違うのでしょうが、救ってくれる曲はあると思います。

投稿: 眠り草 | 2010年11月 9日 (火) 00時49分

青春多感な時代の自らの哀しい想い出と共に忘れられない詩の一つがこの露風の「ふるさとの」です。
人生の晩秋を迎えた私の拙い経験からして、三連目の歌詞は女性には到底届かない男の一方的な心情にしか過ぎないと言えましょう。男女の「こころ」には大きな差がある事を理解しています。
それでも尚、これからも折りに触れこの歌を口ずさみ続けると思います。

どなたか「をとめ」を「ねえや」と同一の女性と言われていましたが、過去NHKで放送された「三木露風の生涯」によりますと違うようです。

投稿: 晩秋の男 | 2010年12月30日 (木) 01時14分

晩秋の男さま

>どなたか「をとめ」を「ねえや」と同一の女性と言われていましたが、過去NHKで放送された「三木露風の生涯」によりますと違うようです。

NHKでは、どのように放送されたのでしょうか…見ておりませんので、差し支えなければ教えて頂けましたら幸いに存じます。
露風は岡山時代にも、看護婦をしていた少女と恋に陥った事があるそうですが、「をとめ」が「ねえや」であって欲しいと願うのは、私の、人にはあまり理解してもらえない心情からです。

投稿: 眠り草 | 2010年12月31日 (金) 00時22分

眠り草さま

5~6前(年代不覚)、NHKラジオ ラジオドラマ「大いなる黄昏~三木露風の生涯」(90分)が放送されてカセットテープに収録しました。この中で、露風の中学時代に知り合った4歳年上の恋人「もえこ」として紹介されています。眠り草さんの「看護婦」とはこのもえこを指すものと記憶しています。露風が中学を中退して上京した後、もえことの結婚を父親に反対されて結局もえこは別の男性と結婚してしまいます。この間、お互いに交換したラブレターが複数朗読されています。

「赤トンボ」の「ねえや」との関連付けは一切ありません。
NHKが論拠とした出展元は明らかになっていません。
探せば当該カセットテープも見つかると思いますが、NHKアーカイブに連絡して視聴の可否をお問い合わせされる方法も御座います。
カセットテープが見つかれば書き込ませて戴きます。 

投稿: 晩秋の男 | 2010年12月31日 (金) 21時27分

眠り草さま

過去、当該カセットテープをWAV変換してパソコンに取り込んでいたのを見つけ出しました。
前回の書き込みの間違いと追加を致します。

NHKラジオ→NHK FMラジオ
「もえこ」→「太田もよこ」
放送は10年位前だったかも知れません。
記憶が曖昧で大変失礼致しました。

「赤とんぼ」の15歳で嫁に行った「ねえや」は山間の田舎から来たねえや。「ふるさとの」の「少女子」である「をとめ」とは年齢が合いません。

「太田もよこ」は露風が渋谷校に転校して知り合った母親ひとりの酒屋の娘。高女を中退した琴と舞が得意な美人。渋谷の店をたたみ、母と二人で岡山に移り住み岡山大学病院で看護婦をして生活を支えていました。
渋谷で知り合ったもよこに対する情熱的な恋を謳った「春の夜」という詩があります。

視聴を希望される場合は仰って下さい。

投稿: 晩秋の男 | 2011年1月 1日 (土) 00時23分

晩秋の男さま

とても詳しく丁寧なご説明に、心からお礼申し上げます。
また、忙しい時期に、お手を煩わせて申し訳なく思っております。

「もよこ」の名は、以前何かで読んで記憶しています。
しかし『渋谷で』「もよこ」と知り合ったと言うところが、私にはいまひとつ解りません。
岡山で15歳の時に知り合ったとばかり思っていました。
放送を聴けば、このあたりもう少し良く解るのでしょうか。
私の持っている本には、「春の夜」は載っていません。
「ふるさとの」を大切に思うほど、「春の夜」を読むのをどこかためらってしまいます。

手元の新潮社の古い詩集の年譜から少し抜書きします。

明治36年(1903)14歳 竜野中学に入学
明治37年(1904)15歳 岡山県和気郡の私立閑谷コウ(しずたにこう…こうの漢字が見つけられません)に転校
明治38年(1905)16歳 上京、麹町一番町に下宿
明治39年(1906)17歳 「最後に編入した水道橋際の商業学校を四度めに出され時、親から厳しい勘気を受け、哀れな私は忽ち悲惨な境遇に墜落した」(淡い夢)。下宿を転々とする。

そして、「ふるさとの」の初出は明治40年12月15日。露風17歳。

「ねえや」は露風の母が去った後に三木家に来て、露風の世話をした少女。
露風とねえやの年齢の差はそれほど大きくは無かったのではないでしょうか。
10歳くらいで「ねえや」…子守として他家に雇われる事は、その時代よくあったのではないかと思います。
そして15歳位になると、周囲の決めた所へ嫁ぐ事もあったのではないでしょうか。
「ねえや」は露風より4歳くらい年上だったのではないかと、私は想像しています。

番組を聴く事が出来るようでしたら、そのうちにNHKに問い合わせてみたいと思います。


投稿: 眠り草 | 2011年1月 2日 (日) 10時52分

舟木一夫さんの「夕笛」を聴いてみてください。
歌詞は「ふるさとの」がモチーフのようです。
http://www.youtube.com/watch?v=gM4Bqhb1v34

投稿: なち | 2011年1月 2日 (日) 13時01分

晩秋の男さま

ご紹介の「大いなる黄昏~三木露風の生涯」はラジオドラマなのですね。
ドラマならば、いくらかの脚色があっても不思議ではありません。
閑谷黌(しずたにこう)と渋谷校(しぶやこう)の違いは、その辺に原因があるかも知れませんね。
ご親切に教えて下さいましたのに、先ほどは強い書き方をして失礼いたしました。

なちさま

ご紹介のページの歌は、のちほどゆっくり聴かせていただきます。

投稿: 眠り草 | 2011年1月 2日 (日) 21時23分

眠り草さま

ラジオ放送を流し聞きして「しずたに」を「しぶたに」と聞き違えていました。
正しくは「閑谷」でした。お詫びします。

NHK FMラジオに依りますと
明治36年、15歳(年齢は当時のしきたりで数え年)の露風は主席で龍野中学に入学。文学に熱中して成績が落ち、一年半後の16歳の時、落第のおそれがある為に備前市の私立閑谷中学校(旧岡山藩々校)に転校する。
露風が16歳で付き合っていたもよこは既に数えで二十歳の娘ということになります。
又、もよこは岡山の高等女学校に2年通っています。明治の学制はめまぐるしく変わっていますが、旧制高女は男性の旧制中学と同じですから15~16歳のもよこは女学生だったということになります。
明治期、高女に通える女性は社会の中で極めて少数です(上流階級か特別な能力を持った女性)。インテリ階級といってもよいでしょう。これらの状況から、15歳で嫁に行った子守の「姐や」のイメージにそぐいません。

眠り草さんは何を求めていらっしゃるのでしょうか。
事実を知ることは大切です。然し、事実を知ったことで不幸になることもあります。
真実を知ることは必ずしも幸福とは限りません。これは人生に於ける知恵かも知れません。
露風の「少女子」は、かりそめにも心を通わせ合った仲であれば、恋人でも姐やでも構わないと思います。
「ふるさとの」の詩情を愛する人達が自らに心当たりのある「女性」を各々に想い描くことで充分ではないでしょうか。

私が最初に書き込みました動機は
>矢野峰人氏の『……彼の詩碑に刻まれている「をとめ」は、竜野時代の姐やと想われる。』との断定記述が些か気になった為です。
日本詩人で社会的に地位の高い同氏の感想としては如何なものであろうかと思いました。社会的に影響を及ぼす方は真実と願望の混同をしてはならないと思ったからです。

歌曲としての「ふるさとの」
http://www.youtube.com/watch?v=oaLkzuA6mjY

をよろしければどうぞ。

投稿: 晩秋の男 | 2011年1月 3日 (月) 02時10分

晩秋の男さま

矢野峰人氏を私は盲信するものではなく、同様に大変影響力のあるNHKのドラマもまた、それぞれ一つの立場と受けとめています。
詩は必ずしも現実を詠っているとは限らないのですし、「をとめ」が誰かは、読む人がそれぞれに思い描けば良いのでしょう。
ただ、私が「ふるさとの」から受けるイメージは淡く清らかな初恋で、あまりに情熱的な恋は想像できないのです。
また、人は幼いときに自分を慈しみ、世話をしてくれた人に、郷愁にも通じるような思いを抱くものではないでしょうか…その人に教養があるかどうかは無関係に。それは恋とは呼べない感情かもしれませんが。

影響力のあるNHKが、どういう立場を採ったかを私は知りたかったのです。
貴重なお時間を割いて詳細なお返事を下さいました事に、心からお礼を申し上げます。

投稿: 眠り草 | 2011年1月 3日 (月) 07時45分

皆様のお蔭で大変有意義なお正月を過ごすことができました。「夕笛」も視聴しました。高校生の頃を思い出して涙ぐみました。いつも黙って5年近くじっと見つめてくれていた秀麗な青年、にっこり笑って「こんにちは」と言ったら結婚していたかもしれません。純情過ぎましたね。
改めて三木露風の詩を読みなおしました。繊細で優美、言葉の美しさ、詩の美しさを堪能しました。「語れよ。無言の君。寂び果てし沼のほとりに」 露風は偉大な詩人です。

投稿: ハコベの花 | 2011年1月 3日 (月) 11時50分

眠り草さま

揚げ足をとることは本望ではありませんが
>その人に教養があるかどうかは無関係に。
私は「姐や」と「をとめ」が別人であろうという論証の一例としてもよこの高女中退を挙げたものでして、教養の有無に思慕や恋愛感情が関係すると等という不遜なことを申し上げた積もりは毛頭ありません。
本意をご理解戴けなかった事を残念に思います。

「矢野峰人氏の見解も一例」とのご理解には首肯できないものが御座います。
私は日本の代表的伝統工芸の一分野に関して何が真実かを10数年研究して参りました。
そこから得られた結論は
肩書きや権威というものが如何に当てにならないかということです。
然し、世の中の大勢は、学者だから、著名人だから、公的機関だからという根拠の無い理由で情報を信じてしまうのが現実です。
疑問に思う、考えるという習慣が希薄になっているように思えます。
矢野峰人氏が無名の個人で且つ私的サイトでつぶやくのなら何を言っても許されるでしょう。
上梓には社会的責任を伴わなければなりません。不確かなことは判らないと言うべきです。
責任感の欠如から、従来どれだけ社会に虚構を撒き散らしたことか。一種の詐欺だと私は捉えています。
これは本題ではありませんので議論は無用に願います。
これで応答は了わりとさせて戴きます。

投稿: 晩秋の男 | 2011年1月 3日 (月) 16時01分

露風の「少女子」にご関心のある方へ

今回の応答を契機にWeb上で三木露風の記述を調べてみました。実に論拠のしっかりしたサイトを発見しました。憶測や推測ではなく、証拠に基づく露風の初恋に至るまでの足跡です。
要点
1.露風の龍野中学校入学~閑谷中学校への転校の経緯。
2.閑谷村の露風の下宿先ともよこの家は近所であったこと。
3.もよこは明治18年生まれ。露風より4歳年上の女性。戸籍上の本名は太田小茂与(こもよ又はおもよ)。
同窓の先輩歌人で露風が上京した当時に親密な間柄であった汪洋の手元に露風から取り上げた露風宛の書簡が残されていた。
家森長治郎氏の研究によれば、残された手紙の差出人は『岡山市内山下68番地 三浦長治方 太田茂代子』となっている。
(NHKのラジオ放送は本名ではなく、封筒記載の名前「茂代子」を採用した)
4.茂代子の家はタバコも販売。某高女を中退して店番をしていた茂代子は中学生の間で「マドンナ」的存在だったと推定。この閑谷時代に茂代子と露風が知り合った可能性大。
5.二人は男女の関係に進展していた可能性大。根拠は露風の「春の夜」他の詩歌、露風に宛てた茂代子の手紙の内容。二人は共に夫婦になることを望んでいた。
6.露風の父親の反対で二人の結婚の望みが断たれる。
7.二人の関係を窺わせる論拠

「春の夜」第三連
  寄り添えばばああ自ら
  双の腕頸を捲きて
  渇きては熱き唇
  接吻の甘まきに堪えむ
  (NHK FM放送では山本学が全連朗読)

明治38年10月『新声』に発表された茂代子と露風の初旅の二人が京屋という旅館に宿った時の初いういしさを主題にした詩
 『長岡は青葉の鐘に別れむの二人が泣きし夕雨の里(「夢野」)』

露風への茂代子の手紙の一節
 『何に付けても思ひ出しますね今年の春の楽しさをほんとに短い短い夢の間で御座いましたよ四月卅日から五月廿三日までうれしかったはたった一月たらずで御座いましたわね』

NHK FM放送のラジオドラマ「大いなる黄昏~三木露風の生涯」は茂代子の本名を除き、ノンフィクションで構成されていたことが改めて確認されました。

詳しくはこちらをどうぞ
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=NKGRgP7e9xcJ&p=%E4%B8%89%E6%9C%A8%E9%9C%B2%E9%A2%A8+%E6%98%A5%E3%81%AE%E5%A4%9C&u=www3.nns.ne.jp%2Fpri%2Fkizansou%2Fhyouden.html

例え二人の関係が生々しいものであったとしても「ふるさとの」の叙情詩としての格調が些かも揺らぐものではありません。
私の中の「少女子」は高校時代の仄かな初恋の人でしかありません。露風の詩情に対する共鳴は何等変わるものではありません。
長文の失礼はお許し下さい。

投稿: 晩秋の男 | 2011年1月 3日 (月) 16時08分

久しぶりに「ふるさとの」を聴きました。心が洗われるような清々しい気持ちになれました。この歌を最初に聴いたのも16歳、憧れの人と出会ったのも16歳。夢のような時代でした。二人が結ばれていたらこんな美しい気持ちに帰ることはなかったでしょうね。この歌は美しいままの私の心のふるさとです。

投稿: ハコベの花 | 2017年11月 7日 (火) 16時53分

この歌を無性に聴きたくなる時があります。玄関に「但馬より丹波へ続く山波も雪降り積むか君がふるさと」と書いて飾ってあります。雪山がきれいだと稚拙な絵を褒めてくれた青年がありました。別れてから56年も経ってしまいました。グーグルマップは便利ですね。行ったこともないその人の生まれ育った家が目の前に現れたのです。想像してもいなかった大きな家でした。そこを出て私は彼と山際の川の流れに沿って歩きます。小高い山に登る時は彼に手を引て貰います。彼のふるさとが私の故郷のような気がします。美しい山里、出会った時のおさげ髪の私と、学生服の彼が青い空を見上げながら今日も歩いてみました。一度訪ねて見たかった彼のふるさとです。

投稿: ハコベの花 | 2018年1月18日 (木) 23時58分

「但馬より 丹波へ.....」の歌はハコベの花様のお作でしょうか。思いが深くて、とても美しく感じます。美しい「ふるさとの」の歌詞も、「但馬より」の歌も、歌の持つ美しさは何から来るのか、思いの深さでしょうか。

投稿: kazu | 2018年1月23日 (火) 01時54分

 昭和42年に舟木一夫の主演映画の主題歌として『夕笛』が作られた。その歌詞が『ふるさとの』に似ていると盗作騒ぎになったことがあるそうです。しかも、もともとの題は『ふるさとの笛』だったのをインパクトがないということで『夕笛』に変えたそうです。その歌詞は、

夕笛

作詞:西條八十
作曲:船村徹

ふるさとの 蒼い月夜に
ながれくる 笛の音きいて
きみ泣けば わたしも泣いた
初恋の ゆめのふるさと

おさげ髪 きみは十三
春くれば 乙女椿を
きみ摘んで うかべた小川
おもいでは 花のよこがお

ふるさとへ いつの日かえる
屋敷町 ふるいあの町
月の夜を ながれる笛に
きみ泣くや 妻となりても
あゝ花も恋も かえらず
ながれゆく きみの夕笛

たしかによく似ている。
私の敬愛する西條八十氏がどういう弁明をされたか、わかりませんが、たぶん三木露風の詩が好きで「ふるさと」「笛の音」が意識の底に眠っていて、「乙女椿」や「屋敷町」のイメージと結びついたのだろうと推測します。
もし盗作のようなけち臭いことを考えていたらはじめの題に『ふるさとの笛』みたいなばればれの題、盗作丸出しの題にするはずがないとおもうのです。
ところで『夕笛』の詞では屋敷町、武家屋敷、城下町とイメージが限定されていき、どういうわけか兵庫の神戸育ちの私には龍野の町を思います。『赤とんぼ』ゆかりの三木露風の出身地です。

投稿: 越村 南 | 2018年1月23日 (火) 10時12分

私は高校の修学旅行で大阪へ行ったきりで関西にはまったく縁が無く過ごしてきました。昭和33年の大学受験を1校だけ兄嫁に許可されて東京の友人の下宿先でたまたま大学受験に来ていた但馬の彼と出会いました。彼が但馬に帰った最初の手紙に「今、4月には珍しく雪が積もりその上を黄色の蝶が舞っている」と書いてありました。その風景が写真の様に頭に張り付いています。パソコンを始めるまで但馬がどんなところか想像も出来ませんでした。
グーグルで彼の家を見つけた時はとても嬉しかったのです。私の家庭の事情で結婚できませんでしたが、時々彼の家を出て2人で散歩をすることを覚えました。山と川のある村ですね。想像が半分現実になったような気持ちになりました。そして雪を知らない私が真っ白に雪の積もった山波を想像して、東京で家庭を持った彼もこんな風景を思い出しているだろうと短歌を作ったのは10年ぐらい前でした。
日本海の蟹を山盛り食べさせてやると言った言葉は忘れられません。すべてが夢のような気がします。私はごみごみした街中で育ちましたから、彼の田舎が故郷のような気がします。日本の原風景そのもの山里ですね。「ふるさとの」を聴きながら18歳の昔の自分に帰っています。それが生きて行く力になっています。

投稿: ハコベの花 | 2018年1月23日 (火) 14時01分

私は、こんなにも心にしみ入るような素晴らしい歌を、今まで知りませんでした。
マロニエに降る雨、草山に も、知りませんでした。

このサイトに出会わなかったなら、あるいはそのまま知らずに通り過ぎていたかも知れません。
素晴らしい歌、深く味わいのある名解説、そしてそれら一つ一つの背景にある豊かな想いを、コメントして下さる方々から いろんなことを学ばせて頂いております。
二木先生の名演奏と名曲をリクエストして下さった はこべの花 様、越村 様 有り難うございました。

投稿: あこがれ | 2018年1月23日 (火) 18時44分

続けての投稿 お許し下さい。

はこべの花 様

今日、夕方4時、但馬地方北部に大雪警報が発令されました。
彼の君のふるさと 辺りも一面の雪化粧でしょうね。
このままだと、丹後鉄道もストップしてしまうかも知れませんね。
りんご 様は、大丈夫ですか?

投稿: あこがれ | 2018年1月24日 (水) 23時45分

今朝、りんご様からストーブにかじりついているとメールがありました。雪掻きの必要な方々、どうぞお気をつけてくださいね。とても心配です。
kazu様が読ん下さった短歌の「山波」普通には山脈と書きますが私には山が連なった雪山の頭が波がしらのような感じがして、波を使いました。雪国の皆様のふるさとへの思いが美味しいお米になって私たちに届くのだと感謝で一杯です。10分も車で行くと富士山の雪をかぶった頭がくっきりきれいに見えます。あこがれ様 彼の故郷は播但線の青倉という駅の近くです。私も1度播但線に乗って見たいと思っていました。家族がいると女の一人旅は難しいものですね。一人旅があこがれなのですが。

投稿: ハコベの花 | 2018年1月25日 (木) 12時11分

哀切極まりないこの歌にこころひかれつつ年老いました。白秋、三好達治、立原道造なども好きでノートに書き留めていた若かりし日々がよみがえります。

あこがれ様
豪雪のご心配ありがとうございます。
つい今しがた、二度目の雪上げ~自然落下の屋根からの雪が窓を塞いでで部屋が真っ暗。その雪を掘り起こしてあげるのが重労働。疲労困憊しておったらハコベの花様からメールがあり急遽パソコンを開いた次第です。

当地は県内でも雪は中間地帯。
おばなざわ、新庄、米沢、」最上郡大蔵村などは比較にならない豪雪地帯です。なかでも」最上郡大蔵村の肘折温泉はまたしても日本一を更新。3メートル直前です。人の住む地域では最高です。
豪雪の地に神様は温泉を用意いしてくださいました。
肘折  おばなざわ最寄りの銀山温泉、米沢エリアの小野川温泉と名湯がたくさんあります。
当地も公共の湯が我が家からほぼ等間隔に6つもあり、なかでも徒歩圏に二か所あるがこの寒さで行くこともかないません。
道路もスケートリンク状です。

投稿: りんご | 2018年1月25日 (木) 15時06分

りんごさま
 大変な雪ですね。TVの天気情報を見るたび、日本列島を覆っている白や紫の帯や、日本海側の尋常ではない豪雪模様のニュースをみるたび大変だなと思っています。りんごさまのコメントの中の「落下雪が窓を塞いでしまった」に驚きました。雪の圧力は半端ではなく、家そのものを守るための作業は並大抵ではないんでしょうね。どうぞ腰痛にはくれぐれ気をつけてください。東京の積雪で悲鳴をあげていられませんね。どうぞお大事に。

投稿: konoha | 2018年1月25日 (木) 15時56分

りんご 様

以前もコメントで 雪上げのことを書いておられましたので、このところの最強寒波で さぞや大変な思いをしておられるのでは・・・と、案じておりました。
私は、生まれてこの方 気候温暖な地域での生活しか知りませんが、本当に大変な日々の生活ですね。 どうか、一度にご無理なさいませんように、腰痛には気をつけて下さい。

青森や仙台は 仕事で何度か行きましたが、山形には一度も訪れたことがなく、あまり知識はありませんが、米沢牛、新庄米、肘折れ温泉、山寺(立石寺)それに 月山、蔵王、鳥海山等々 メジャーなところが多い県だと思っていました。
ところが、よくよく調べてみると、「山形県の産物というのは、人間だ」 と、五木寛之さんは「歌の旅人」の中で述べておられます。
斎藤茂吉・土門拳・藤沢周平・井上ひさし・丸谷才一・岸洋子・渡辺えり・ケーシー高峰・あき竹城・ 伴淳三郎 等々 多士済々 文化教養度の高さが窺い知れます。
つい先日も「周平孤言」(藤沢周平著)というエッセイを読みましたが、木訥で 一見不器用に見えて、芯のある雪国の人間らしさを感じました。

今は、浅田次郎の「蒼穹の昴」~「中原の虹」と読み進んでいます。
りんごさんが「本格小説」を推奨される訳が、読み進む内に何となく判るような気がしました。どこまで行っても軽井沢・追分けの文化から逃れられない人達のひたむきな土着心・・・タラの地を心から愛したスカーレットとレッドバトラーの愛憎を連想させる ように感じられましたが・・・

はこべの花 様

播但線はあまり利用したことはありませんが、私が大阪に転勤したての頃は、R176号線で三田~福知山~和田山~豊岡~城崎~と車で走りました。朝倉は、あの竹田城のすぐ近くなのですね。実は、私も行ったことがありません。
浜松の家内の実家も、今は姪が病気の母親(家内の妹)を抱えて苦労しているみたいです。
ふるさとも昔を偲ぶよすがもありません。でも 懐かしい~。
また、長くなりました。 お許し下さい。


投稿: あこがれ | 2018年1月25日 (木) 18時22分

konoha 様
御見舞いのお言葉身に沁みます。
屋根からの落雪ですが
通常は雪止めを屋根に設置し自然落下を防いでいます。
その為、圧雪で家屋が潰れる前に「屋根に上がって雪を下ろします。その時 雪止めが役に立ちます。雪下ろし作業の人間の落下をある程度予防できます。
我が家は 屋根の傾斜をきつくして雪止めをせず自然落雪なのです。その為  多くは積もらないままの落雪なので窓ガラス損傷などの危惧はないが、雪の幕にふさがれて自然光が遮断され暗くなります。これがとても耐えがたく憂鬱なのです。
雪止めの屋根は、温暖な日や雨の日が続くと
雪があまけ(雨気づく」?)て雪崩となるのです。
早春の風物詩?幼い頃の我が家はトタン屋根でしたが雪崩の轟音が恐ろしかったものです。今は あの音が懐かしく甦ります。春の気配を感じさせる音でした。
諄くなりますが、気温っが低いままだと雪崩は起きず屋根が潰れるので、雪下ろし作業が必要なわけです。

あこがれ様
本当にご心配いただいて感謝感謝です。
ところで、京都検定クリアのあこがれ様
高樹のぶ子さんの「マルセル」は既におよみでしょうか。京都で実際に遭った名画「マルセル」の盗難事件の顛末をモデルに描いた小説です。
高樹さん特有の感性と抒情を駆使した京都を舞台とした読ませる?小説です。毎日新聞に連載なりました。

投稿: りんご | 2018年1月25日 (木) 21時13分

外へ出て夜空を見上げたら月が潤んで見えました。この歌を口ずさんでいて気が付いたのですが、笛の音がうるんで聴こえたのか、月が潤んで見えたのか。考えてしまいました。初恋の悲しさはすべての物をうるませてしまうのでしょうか。物思いに沈む美しい若妻の姿が目に見える様です。

投稿: ハコベの花 | 2018年12月20日 (木) 21時56分

 露風の『ふるさとの』の詩には、この斎藤佳三のほか、山田耕筰、大中恩、石桁真礼生ら数名の作曲家がメロディをつけているそうです。
 そのなかで、斎藤佳三作が今日まで唄われているのは、国民歌謡として放送されたからなのでしょうね。 しかしながら、格調高い旋律の美しさは理解できても、是が非でも唄いたいとは思わない自分がいます。 声楽家の唄う『ふるさとの』を聴き過ぎたせいでしょうか、それとも私が凡俗な人間だからなのでしょうか。悩むところです。
 18歳でこのような美しい詩を創るとは、三木露風はまさに早熟な天才詩人ですね。 露風は、昭和3年に武蔵野の田園風景が残る東京三鷹に居を移しますが、その36年後の昭和39(1964)年東京五輪の年の12月21日、つまり54年前の今日、三鷹の郵便局を出たところでタクシーにはねられ、それがもとで、8日後に亡くなってしまいます。郵便局には年賀状を出しに行ったのでしょうか。人間の命のあっけなさ、儚さ、無常観を感じますね。 当時私は中学3年生、期末試験が終わり、受験勉強など全く関せず、露風の訃報をテレビでもラジオでも知ることなく、もっばら冬休みをどうやって過ごそうかと、あさっての方をみていた頃です。

 

投稿: かせい | 2018年12月21日 (金) 18時36分

もう60年近く前、NHKのお昼に立川澄人の「奥様音楽をどうぞ」という番組がありました。そのメンバーの中の一人が
ふるさとの九州に帰るために番組を去るので、お別れにと、この「ふるさと」を歌いました。バリトンの声だったと思います。素晴らしい歌声で今もって忘れることがありません。どなたかこの番組を覚えて居られる方はいらっしゃいませんか。私がこの歌を大好きになった時の歌声です。

投稿: ハコベの花 | 2018年12月21日 (金) 22時01分

今、中天に月が昇っていています。動かぬ月ですが、さきほどまでは雲の流れが速く、何かに急かされて動いているように見えました。ヴェルレーヌの象徴詩が上田敏に訳されてたどり着いた日本で、花開いた繊細な詩情。笛の音が聞こえてきそうな冬の夜です。

投稿: omuraisu | 2018年12月21日 (金) 23時19分

悲しいほどに美しい心になりたくて一人静かにこの歌を聴いています。ととせではなく60年も経っています。同じ心には戻る事が出来ませんね。あまりにも現実の夫の心が汚くて、清らかな遠い人を思いだそうとしたのですが、怒りの心は清らかなものすべてを遠くに追いやってしまっているようです。かの君はもう黄泉に旅立っているのでしょう。黄泉の国からラブレターなんて来ないでしょうね。残念です。

投稿: ハコベの花 | 2019年9月25日 (水) 22時23分

初めて投稿します。
この曲に接したのは昭和半ばの高校生の時だったと思います。当時、私の両親は共働きで私はきょうだいがいませんでしたので、夕方寂しくなると、なぜか「平城山」や山田耕筰作曲の「砂山」や「ふるさとの」を口すさんで、寂しさを紛らわせていました。私は、和の言葉にこれら短調の曲を付けたものは、我が国の風土の景色を思い出させ、心を慰めるのではないかと勝手に想像しています。このことは最近の朝ドラの主人公古関裕二さんが私の郷土の歌人若山牧水の和歌に曲をつけられた「白鳥のうた」にも言えるのではないかと思っています。

投稿: いもがら | 2020年8月31日 (月) 14時52分

今年の春に、(20年ぶりくらいですが)竜野市へひとり旅をしました。露風の心を育てた山や森を見てみたいと思ったからです。若いころから「ふるさとの」の詩がすきで、その旅でなんとなく足が向いて入った記念館で、ガラスケースの中に飾ってあるその詩を見たとき、「あゝそうかぁ、この詩は有名なんや。やっぱりなぁ。」と、嬉しくなりました。実はずっと昔、舟木一夫が歌った曲で「夕笛」という曲があり、とてもいい曲なんですが、その作詞者西条八十の書いた「月の夜を流れる笛に きみ泣くや 妻となりても」よりも露風の「ととせへぬ おなじ心に きみ泣くや 母となりても」のほうが好きです。「妻」より「母」のほうがずっとおもくて、哀しいです。


投稿: 伊賀 栗 | 2022年11月14日 (月) 19時30分

私は色恋のことに疎く、女心にも疎かったので、最後の「母となりても」を、女性が娘時代と母親になった後とでは心理が違うかどうかという、心理学の問題を問うているのだろうと思っていました。今になってわかったのですが、かつて強く心を通わせ合った女性が、他の人の妻となり、子をもうけ母親となっても、自分と心を通わせた頃の心を思い出してくれますか、という切実な恋の歌だったのですね。それをそうは言わず清らかに表している、それゆえに名歌なのですね。年をとってからやっとわかっても遅いのですが。

投稿: kazu | 2024年4月14日 (日) 02時05分

連投申し訳ありません。歌の背後にある事情を詩人が語っていないのですから、事情を詮索しなくていいと思いますが、投稿欄の上の方を見ると、この歌の女性は、ねえやだ、という説を著名な方が唱えたということが書かれています。その説は間違っていると思います。もしねえやがこの詩の主人公なら、ねえやに可愛がってもらったこと、ねえやに感謝していることを、詩の中にきちんと表すのが、人間としての礼儀であり、詩のすべきことであり、こんなふうに誰だかわからないような詩にはしないと思います。

投稿: kazu | 2024年4月14日 (日) 07時15分

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