朝はどこから
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:森まさる、作曲:橋本国彦
1 朝はどこから来るかしら 2 昼はどこから来るかしら 3 夜はどこから来るかしら |
《蛇足》 朝日新聞社主催のホームソング懸賞公募の当選作品で、昭和21年(1946)5月にNHKラジオ歌謡として放送され、すぐにレコード化されました。
歌詞は、国とかナントカ団体の「健全な家庭を築こう運動」のキャンペーンソングのようですが、その説教臭を闊達なメロディが和らげている感じです。
私は、清潔さとか健全性とかを大上段に振りかぶって主張する言説や詩文は苦手です。
だいぶ前のことですが、関東のある市では市内各所に設置したスピーカーから「みなさん6時です。さあ今日も1日元気に仕事や勉強に励みましょう」というアナウンスを大音響で流しているという新聞記事を読んだ記憶があります。
人間は朝起きて昼間活動し、夜は寝るのがまっとうで健康な生活だということにつゆ疑いをもたない人間が考え出した施策でしょう。夜仕事をして朝眠る人、病気等で明け方にならないと眠れない人のことなどはまったく考えていなかったわけです。
人とは違う価値観をもっている人、他とは異なるスタイルで生活している人、ハミダシ者やハグレ者を認めない社会は、いずれ全体主義へとつながります。
この歌にはそれほどの押しつけがましさはありませんが、こうしたタイプの歌を聴くたび、最大公約数的な物差しで人を測るようなことはするまいと自分にいいきかせてきました。しかし、それを貫くのはなかなか難しいことだと感じています。
(二木紘三)
コメント
定年還暦を超え、小生昔々の憶えきってなかった、しかも時にはハミングでしか唄えない唄の一つです。最近その歌詞と曲を一致させようとしてます。この貴HRLにより一件落着です。
有難う御座いました。
投稿: 佐志信通 | 2007年11月 1日 (木) 19時21分
こんにちは。
大道芸観覧レポートという写真ブログをつくっています。
「朝はどこから」の歌もとりあげています。
よかったら、寄ってみてください。
http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611
投稿: kemukemu | 2007年11月16日 (金) 23時37分
ほんの一年前までは、「御国」でなければ夜も日も明けなかった日本に、
個人主義のシンボルである「家庭」が基本であることを訴えたかったのでしょう。
貧しくとも希望があった古き良き時代?の歌ではないでしょうか。
いまやその家庭も崩壊の危機に瀕していますが。
投稿: 周坊 | 2008年1月 8日 (火) 22時16分
すでに廃校になった山の中の複複式の小さな小学校でした 教育大学を出た新任の先生が毎朝オルガンをひいて皆で歌いました(1番だけでした)皆が明るい未来を思える時代でした 今は人も家庭も社会も変ったと思うのは年のせいでしょうか
投稿: hiro | 2008年12月29日 (月) 23時56分
同感現在の世の中希望も無く先が真っ暗闇ですね。
元気の出る言葉も無く、歌も無い。
国民一人ひとりが駆け出している、家庭の破壊親子の関
系も崩れまったく夢も希望も無い
挨拶が申し送れました、この音楽と隣組云々のメロディ
も懐かしがっている昭和生まれです宜しく。
投稿: 松波 | 2009年1月26日 (月) 16時06分
終戦1年前の産まれです。複々式授業に目が留まりました。私も、ど田舎育ちましたので、これでした。個人主義だと言っても子供には親がいるのだから、その親が仕事一筋で子供の躾をしてこなかった、だからその子が親になって自分の子を躾られない。だから爺ちゃんには孫を躾ける責務があると自覚しています。
投稿: 海道 | 2009年4月30日 (木) 07時01分
「朝はどこから・・・」中年以上の人なら誰でも口ずさんだことがあると思います。私は♪・・・南の国から・・・希望の過程から・・・とウロ覚えでやっていました。ほんとの歌詞を知って感嘆しました。歌詞に「家庭」という言葉が入っている歌が他にあるだろうか?
先日公民館のハーモニカサークル(中高年25人)で「朝はどこからくるかしら、という歌はご存じでしょう。さてどこから来るんでしょう」と尋ねた。勇敢な女性がパッと手を挙げ「光の国から」と答えた。他の人からは回答の気配なし。一瞬のポーズのあと私が「いえいえそうではありません」と始めると一同唱和。問題の個所へ来てワイワイガヤガヤ。
皆さん知らないんですね~歌詞を!この歌を口笛ふいて散歩するこの頃です。
投稿: 豊田 錫 | 2009年6月 6日 (土) 11時57分
子供心に明るくていい歌だなあと思いました。いろいろご意見もあるでしょうが、やはり前向きで元気な歌は朝日を拝むように気持ちいいです。学校の音楽の時間に子どもたちに教えてあげたい歌です。ちなみに私は紙芝居ボランティアをしているおじいさんです。
投稿: こぎつね | 2010年4月18日 (日) 22時34分
朝はどこから来るかしら♪
あの山越えて野を越えて♪
蓮華の里から来るかしら♪
いえいえ、そうではありません♪
それは楽しい家庭から朝が来る来る朝が来る♪
お早う お早う♪
と、僕は憶えていました。小学校の時、登校時間になると学校でこの歌を拡声器で放送し、これを合図に登校していました。
今は、我が家で僕は、朝、
♪お早う ♪お早う
と、節をつけて言っています。
投稿: 高橋昌勝 | 2011年3月22日 (火) 21時30分
外国暮らしです。南アルゼンチン、チリの自然公園をハイキングしていている時に、口すざんていました。とにかく、騒音もなく自然しかないから、昔の日本の歌が脳裏に浮かぶだけです。
2番も3番も思いだせずに、今日、此方でお世話になるわけですが、はじめに私の記憶はこんなにいい加減なものかと思いましたら、投稿者、高橋さんの歌詞と最後の一行を除いて一緒です。
...明るい希望から朝はくるくる、朝はくる♪ でした。
:家庭と言う文字がなかったのは、終戦後、父の帰らぬ家庭が多かったからではないでしょうか。元は、北海道出身です。
投稿: ミンガ | 2011年10月29日 (土) 14時52分
昔うたごえ運動、今、「老婦人のうたごえ」を主宰しています 今朝方ラジオ深夜便で流れてきて、飛び起きて、題名を書き留め、ネットで検索しました うろ覚えだった歌詞を歌集に載せることができました 「ひなまつりのうたごえ」で、みんなで歌います ありがとうございました
投稿: 桂女 | 2012年2月 4日 (土) 08時58分
オルガンの伴奏に合わせて歌いました~~~
なつかしいうたです。
明治生まれの母がよくうたってました。
昭和になってからもレコードかラジオで聞きました。
うら覚えの歌詞がはっきりしてうれしい限りです。
ありがとうございました。
投稿: H・KEIKO | 2012年11月29日 (木) 17時25分
「ミスターラジオ歌謡」岡本敦郎さんが逝去されました。
12月28日、88歳。かくしゃくとしておらようにお見受けしてましたが…。ご冥福をお祈りいたします。 この「朝はどこから」は幼稚園の頃に習いましたね。先生の歌に合わせて覚えたのでしょうか。まだ文字は読めなかった筈ですから…。
「憧れの郵便馬車」「高原列車は行く」、どちらも丘灯至夫・古関裕而の両氏に依る作品でした。明るく、伸びのある美声が思い出されて来ます。殊の外好きな二曲でした。 合掌
投稿: かせい | 2013年1月 8日 (火) 01時31分
定年退職をし、現在で友人が経営する「ディサービス」で送迎のアルバイト不定期でしています。
その利用者でチョッと痴呆になり足の不自由な女性がいます。その方の両手引いてサポートしながらご本人は『朝はどこから来るかしら~~・・・♪』と歌いながらソロソロと歩きます。
そして私も幼いころラジオより流れていたこの詩を一緒に歌ってサポートをします。
その時の彼女の顔たしかに楽しそうです。
私が覚えていたのは「一番の歌詞」でしたが、今回三番まで確認が出来、次回彼女のサポートのときは三番まで一緒に歌いたいと思っています。
その時の彼女はどんな顔をするかな??
投稿: M.masa | 2014年4月26日 (土) 12時04分
この歌は、亡くなった父が好きで、時々口にしていた。
ほのぼのとした歌だなあと子どもながらに思った。
気むずかしい父がこの歌を愛していたことが、なんとなくうれしかった。
「朝はどこから来るかしら」
(聞きようによっては、じつに世間離れした問いかけです)
「それは地球が自転しているから」
(無粋な答です)
「知らない、知りたくもない。忙しいんだ」
(忙しいという字は、心を亡くすと書きます)
司馬遼太郎のエッセイに、長州藩の大村益次郎は、あいさつをされても返事をしなかったと書いてある。
「こんにちは」や「いいお天気ですね」や「どちらへおでかけ?」には、黙殺したといことです。
緒方洪庵の「適塾」には秀才が集まったが、益次郎はとびぬけての秀才だった。
大秀才益次郎に「朝はどこから来るかしら」と聞いたらどうだろう。
「ばか者」と叱られるか、無視されるでしょう。
秀才の世界とはそういうものかもしれない。
しかし会話の中からあいさつの部分を完全にのぞいたら、味気ないものになるだろう。身もふたもない話に・・。
「朝はどこから来るかしら」を受け入れ、流行らせた昭和21年頃の人々の純朴な心根を思います。
投稿: 音乃 | 2014年7月31日 (木) 14時47分
娘の Face bookより
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My father sang this song mostly every morning when i was in Primary and Secondary school in Hawaii to wake us all up in the morning and to start each morning with a smile,and i didn't appreciate it so much then but actually miss it so much now that i am going to start singing this to my kids !! I love you daddy!!
「朝はど~こから来るかしら~。あの山超えて野を越えて~光の国から来るかしら~。いえいえ、そ~ではありません。そ~れは楽しい家庭から。朝~はくるくる朝はくる。おっは~よ~。おっは~よ~」
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投稿: 副田篤樹 | 2014年8月30日 (土) 11時21分
♪♪ 朝は どこからくるかしら ♪♪
首都圏の老人ホームをボランティアで訪問し入居者やディーサービスのお年寄りの方々と懐かしい歌や童謡を楽しんでいます。
私は約1年前から草笛演奏で主に「故郷、赤とんぼ、紅葉」などやや郷愁を帯びた童謡などを演奏しています。
或るホームで80歳代と思われるお年寄りから「明るく 元気になる歌・・」のリクエストがありましたので、私は「朝は どこから」を草笛で吹いてみました。
それまで歌わなかった方たちが 大きな声で「朝は どこから~ ♪、昼はどこから~♪ 夜はどこから~♪」と元気良く明るい声を出されたので ビックリしました。
「歌の持つ力」を感じ感動しました。私はこの歌の選考過程や歌詞の狙いなどを考える能力もありませんし考えたこともありません。
しかし厳しい戦後を乗り越えられてきた方々を励まし元気づけてきた歌詞、メロディーであり、お年寄りの心や体に染み込んでいる歌だという現実を知りました。
歌の間に「ウンタカ タッタ ウンタカ タッタ・・」と間奏を入れる方もいらっしゃいました。
管理人にこの歌を掲載していただき感謝しています。
投稿: けん | 2016年9月19日 (月) 15時52分
この歌は国家が大事で家庭が犠牲になっていた戦争中より、家庭の幸せが何より大事だと作られた歌だと聞いたことがあります。
私が農家が多い田舎に越してきたとき、周りの人たちが早起きで、夜寝るのが早いのに驚きました。朝ご飯を食べている時に遊びに来られたり、夜8時頃に電話をすると、もう寝るからと言われたりで、驚きました。街中なら夕方からが人生みたいに映画や音楽会に行ったり、街ブラをしたり、10時過ぎに夜泣き蕎麦屋がきたりで、ずいぶん夜を楽しく過ごしていました。田舎で育った人に言ったら「貴女は不良だったのか」と言われました。ごく普通の生活だったのですが、育った環境によって考え方も違うものだと知りました。私は今でも夜になると頭が冴えてきます。夜型は働き者でないことは確かなようです。
投稿: ハコベの花 | 2016年9月19日 (月) 21時06分
一点の曇りもない穢れのないこの歌は私も大好きでした。
小学校の3~4年頃と記憶しています。
そろそろ朝霧のなかを栗拾いに裏山へと出かける時節。
時報の5時のサイレントともに薄暗い戸外へと飛び出したものです。母はかまどに火を焚いてました。
運不運を幼心にも知りました。
他人の通った後はわずかの収穫
思いがけない収穫に胸弾ませることもありました。
拾った栗は 栗ご飯にしたり
遠足まで貯めて物々交換をしたものです。
その頃は栗は拾うもので栽培はありませんでした。
貧しさのゆえに遠足のリュックには蒸かし芋、紅玉りんご、ザクロ
そして貴重な栗はお菓子と物々交換。
何しろ,行よりも帰りのリュックが膨らんでいたもの。
幼い弟が私の帰りを待ちわびていたものです。
その割に貯蓄も下手で無駄使いのまま古希を迎えようとしています。
投稿: りんご | 2016年9月20日 (火) 10時16分
2009年4月投稿された海道様
私も終戦1年前に東京で生まれ育った者です。小学校では複々式授業だったとのこと。3部の授業だったのですか。東京では2部学級と言っていました。午後の部の授業の時はとても厭だったのをおもいだします。午前中ひと遊びしてお昼ご飯を食べてから行くのが億劫だった記憶があります。2年生になると2部授業はなくなりました。
投稿: konoha | 2017年2月 1日 (水) 21時11分
継続しての 投稿 お許しください
りんご さまの
運不運を幼心にも知りました
他人の通った後はわずかの収穫 の言葉
深いですね そのとおりですね
皆が その意味を考え 公平に平等に過ごせる社会
惻隠の情 を常にもてる心
そう なりたいですよね
投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年2月 1日 (水) 21時56分
歌詞を無理やり要約すれば
希望の家庭から朝が来る
働く家庭から昼が来る
楽しい家庭から夜が来る
ですね。
昭和21年頃の人々は。じつに素直な気持ちで歌っていたことでしょう。わが父親も口ずさんでいました。
ところで、
仮面夫婦の家から朝が来ないんでしょうか。
ニートのいる家から昼は来ないんでしょうか。
倦怠期の夫婦の家から夜は来ないんでしょうか。
夫婦別姓の家、家事の役割分担ができない夫婦の家、年金生活者の老夫婦の家、さらに老老介護(介護者、被介護者双方が65歳以上)の家、認認介護(介護者、被介護者双方が認知症)の家などはどうなるのでしょう。
そこから朝、昼、夜が来るんでしょうか?
そりゃ、来るに決まっています!この歌の雰囲気より、シビアにリアルな雰囲気でやってくると思います。
この素直すぎる歌詞をみると、昭和21年の人に73年後の令和の時代の家庭事情などは及びもつかなかったろうと想像し、歴史の歯車の速さを思います。今の日本で進行しているのは、少子高齢化だけではなくて、価値観の多様化、人々の生活実態の多様化も進行していると思います。
いいか悪いかを別にして、日本のみんながバラバラになっていったのが、昭和の後半、平成であったような気がします。
いずれ外国から移民がたくさん入ってきて、多様化は進むでしょう。いろんな朝、昼、夜がやってくるでしょう。柔軟に立ち向かっていくしかないと思います。
でも多様化ってやっかいな問題ですね。何も考えずにこんな歌を歌っていた時代が懐かしいです。
投稿: 越村 南 | 2019年5月13日 (月) 18時36分
私は移民政策について理論的にはその反対論に多く共感するものですが、心情的には別です。もう永らくコンビニなどはほとんど外国人の若者たちで占められています。そんな中で以前気になる女性がレジをされていました。私は買い物では彼女のレジが空くのを見計らって彼女のレジに行ったものです。そして二言三言声をかけました。そんな彼女と街の通りで偶然出会い、ほんの少しですが並んで歩き話もできました。嬉しかったですね。いまではもう彼女を見かけることはないのですが、どうされているのかなぁ、と思い出します。
youtubeでも中国人留学生の日本での生活ドキュメンタリーをよく見ました。どれにも感動しました。
「小さな留学生」「中国からの贈りものー若者たち」「泣きながら生きて」「日本には来てみたけれど」などです。
彼ら、彼女らがこの歌を聞いたり歌ったりして元気をだすことあるといいなぁ、などと思います。
投稿: yoko | 2019年5月15日 (水) 09時14分
越村様のコメント(5/13)を興味深く拝見しました。
”歌は世につれ…”と言われますが、今思えば、「朝はどこから」は、当時、敗戦で打ちひしがれた多くの人々を勇気づける応援歌だったように思います。
昭和21年秋、私の一家は、旧・満洲から、父の郷里である、北陸の一寒村に引揚げてきました。両親と、12歳の長男を頭に4歳の二女まで、5人の子供でした(私は8歳)。その頃、戦時中の”産めよ増やせよ”の国策のもと、どこの家も子だくさんでした。本家でも子供が5人、大阪で焼け出され戻っていた父の兄の一家でも子供が4人、また、近隣の家々の子供たちを含めると、多くの子供たちがいました。
このような、育ち盛りの子供たちが多い世相のなか、希望の持てる将来を描くことが最も重要であるという認識のもと、歌詞1番の♪…希望の家庭から 朝が来る来る…♪と、元気づけたのであろうと、私なりに受け取っています。
歌詞2番では、♪…働く家庭から 昼が来る来る…♪と、昼間は、復興に向けて、大人たちは働き、子供たちは勉学に勤しむことが大事と、後押ししているように思います。
そして、夜になると、今と違ってテレビやインターネットなどによる分散・多様化要因もなく、楽しい憩いの一家団らんのひとときを過ごすことが、新たな明日への活力に繋がるであろうと、歌詞3番では、♪…楽しい家庭から 夜が来る来る…♪と、謳っているのではないでしょか。
今思い返しますと、当時は、マイ・カー、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、パソコン、インターネットなど、現在享受している文明の利器は身近にはありませんでしたが、何物にも代え難い、家族の強い絆が醸成されたように思います。
投稿: yasushi | 2019年5月15日 (水) 14時14分
小さい頃、この歌が流れていました。どこからだったのでしょう。もう良く覚えていませんが、朝はどこからくるのか、考えたこともなく一日を過ごしていたと思います。でも、認知症のテレビではないですが、懐かしいです。
投稿: 今でも青春 | 2019年5月17日 (金) 21時40分
この歌を聴くと幼稚園時代を懐かしく思い出します。
母が病気で半年ほど入院することになり、妹と2人、田舎の親戚に、弟は別の親戚にそれぞれ預けられ、父が1人で家から勤めに行くというように家族別々に暮らすことになりました。
私は当時、地方都市の街中に住んでいましたが、私の預けられた家は硫黄島で有名な栗林中将の実家の近くの村で農業をやっていました。
その村には有線放送があって毎朝その有線から「朝はどこから来るかしら〜 」
のうたが聞こえて来ました。それを聴くとなぜか明るく楽しい気持ちになったのを思い出します。
その親戚には幸い私と妹とそれぞれ同じ年の従兄弟がいました。また、農家での生活は私には目新しいことが多く、妹は少し家が恋しかったようですが、私は特にホームシックになることもありませんでした。彼らと桑の葉を摘んで来てお蚕さんにやったり、稲藁で縄を編んだり、稲刈りや、稲のハゼ掛けなど、半分遊びながら農業の手伝いらしきこともしました。
臼と杵での餅つきや味噌玉造や干し柿作りも初めてでした。山に落ち葉を拾いに行ったり、田んぼの川で魚をとったりして元気に遊んでいました。当時(昭和28年頃)はまだ農薬があまり使われていなかったのでしょう、小川に入り両岸の草むらをザルでザクザクと漁るとフナやハヤ、時にはコイが入って来ます。ザリガニやドジョウも何匹も入って来ますが、それらには見向きもせずひたすらコイやフナを捕まえて、その家の池に逃がすのです。朝起きて池の水面にパクパクと口を開けて空気を吸っている様子を見るとなんとなく嬉しくなりました。(後年、その池浚いをした時には100匹以上のフナやコイが上がりました。)
私がこの田舎の生活で特に思い出すのは、秋の稲刈りが終わり、その田んぼの中に立つ4〜5段くらいの稲のハゼかけをバックに山の端に太陽が沈んでゆく光景を見ながらこれから先、きっと明るい良いことがあると自分の将来、あるいは世の中に大きな希望を感じていたなあということです。
それに引き換え、大学、大学院時代は何となく自分の将来や世の中に希望が持てず悶々としていたことを思い出します。
昭和20〜30年代は国民が将来に希望を持ち、世の中が希望に満ちて前に進んでいたのだと思います。
投稿: まっしゃん | 2020年6月 3日 (水) 18時10分
この歌を大切にされているかたはどうかお読みにならないでください。読んでしまわれたらどうかお忘れください。申し訳ないことですが、私はこの歌が好きになれません。いやなのは「光の国から来るかしら いえいえそうではありませぬ」のところです。この文の後半は人間にとって大切な詩心というものを否定しています。子供の頃からこの前半を聞いて心が潤い後半を聞いて心が暗くなりました。今日は心が暗い日なので書かせていただくなってしまいました。二木先生が蛇足でご理解をお示しくださっているように思え嬉しいです。
投稿: kazu | 2020年9月13日 (日) 16時28分
私はこの歌好きですね。明るいリズム感が良いです。そしてなんといっても女性の明るい声が好きです。私は子供のころから可愛い妹か優しいお姉さんが欲しかったのですが・・・
朝、起きるのは辛かった。学校に行くのも嫌で特に冬は寒くて布団の中でじっと丸くなっていると母が布団を引っ剥がして早く起きて学校へ行け、とたたき起こす。嫌だったなぁ・・・
投稿: yoko | 2020年9月14日 (月) 14時46分
yoko 様のご投稿はいつもありがたく拝読いたしてまして、たとえ当方への否定的なご反応でもうれしくありがたく感じます。私も曲はいいと思うのですが、歌詞の方は、光の国を否定する、子供が愛するおとぎの国を否定する、夢を見る心を否定する、そうやって人間の自由な精神活動を否定するだけ否定しておいて、では肝心の家庭について詩として素敵な1行があるかと言えば、概念的なお題目スローガンを挙げるばかりです。曲は素敵だと思います。この歌詞が否定する遠い光の国と交信するような心を大事にする家庭が素敵だと思います。
投稿: kazu | 2020年9月14日 (月) 22時22分
私はこの歌のどこがスローガン的なのか分かりません。
私はこの光の国、ねんねの里、おとぎの国が黄泉の国のような気がするのです。
そしてそこには、もう会えないお爺ちゃん、お祖母ちゃん、お父さん、お母さんがいらっしゃるような・・・
懐かしくて悲しくなります。
そして、「おはよう」、「こんにちは、「こんばんは」、は
黄泉の国に向かっても声かけているような気がします。
投稿: yoko | 2020年9月15日 (火) 06時13分
Yoko 様 ありがとうございます。Yoko 様がお示しのような黄泉の国にまで通じる深い精神性をこの歌詞が有しているなら、私がケチをつけたのはとんでもないことで、自分の感受性の無さを恥じ入るばかりです。ただ、もうこれ以上書くつもりがありませんが、Yoko 様の深い精神性をこの歌詞が見せているかについては私にはなお疑問があり、黄泉の国のおじいちゃんおばあちゃんやおとぎの国を思う年少の人の心とは離れた歌詞のような気がしてしまいそういう年少の人の心を(教育者の端くとtして)大事にしてあげたいです。
投稿: kazu | 2020年9月15日 (火) 07時42分
kazu様のコメント(9/13他)、yoko様のコメント(9/14他)を興味深く拝読しました。
私は、前に投稿しましたとおり(’19-5-15コメントをご参照)、終戦後1年を経ずして作られた、このホームソング「朝はどこから」は、敗戦で打ちひしがれた多くの人々を、復興に向けて元気づける応援歌だったと受け止めております。
作詞者が、復興の主役たるべき大人達に向かって呼びかけたかった思いは、♪希望の家庭から … 朝が来る ♪(歌詞1番)、♪働く家庭から … 昼が来る♪(歌詞2番)、♪楽しい家庭から … 夜が来る♪(歌詞3番)から、”元気に働いて、将来に希望を持てる、楽しい家庭を築こう”、ということではなかったろうかと、私は想像します。
そして、”押しつけがましさ”を多少とも和らげるため、♪光の国から来るかしら…♪(歌詞1番)、♪ねんねの里から来るかしら…♪(歌詞2番)、♪おとぎの国から来るかしら…♪(歌詞3番)と、メルヘンチックな表現で、遊び心を盛り込んだのではないでしょうか。
投稿: yasushi | 2020年9月15日 (火) 15時55分
私の文が誤解されてしまったと思い、もう一度だけ、書かせていただきます。度重なる投稿を深くお詫びします。この歌詞は Yasushi 様がおっしゃるメルヘンチックな歌詞ではなく、メルヘンを軽蔑する歌詞です。「朝が光の国から来ると言うやつがいる。馬鹿なことを言うんじゃない」「朝がおとぎの国から来ると言うやつがいる。馬鹿なことを言うんじゃない」と。私はそれを問題にしております。「光の国とかおとぎの国とか、そんなくだらない目に見えないものは相手にするな。目に見えるものだけを大事にしよう」という形の歌詞です。Yoko 様の目に見えない黄泉の国を大切にされるお心と正反対です。金子みすゞさんの「昼のお星はめに見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ」と正反対です。私の曲解だと受け取られるかもしれませんが、光の国やおとぎの国を大事にする人なら「いえいえそうではありませぬ」という尊大な響きのある書き方はできないと思います。私は、金子みすゞさんの詩が真理だと思いますし、親も子もメルヘンを大切にするような家庭が明るい家庭に思えます。
投稿: kazu | 2020年9月16日 (水) 08時31分
こ半年ほど前から朝の散歩は5時から始めています。45分ほど歩くだけですが、体調は大変良いのです。家の前の細い道を東に向かって行くと小川があって行き止まり、引き返しになりますが、小川の向こうは広い空き地で雑草と雑木林。向こうに朝焼けの空が見えます。5時15分頃のハノイの太陽です。
その時「♪朝はどこから来るかしら」と思わず口に出ます。ここはベトナムなのに・・でも太陽の訪れは日本と同じ。続いて「あの空超えて雲超えて 光の国から来るかしら」と小さくつぶやくと、不思議に今日もやるぞという元気が出てきます。
{蛇足}を見て国の「健全な家庭を築こう運動」のキャンペーンだったと知り、えーそうだったのと気づきました。いやあ知りたくなかったという気持ちです。
だから「いえいえそうではありません」という丁重な言葉で、しかし厳然と全面否定しているのですね。健康な家庭、働く家庭というのは犯罪率の低下につながりますものね。
それでもこの歌はメロディもいいし、歌詞も上に述べたこと以外は素晴らしいと思います。
それに昭和20年代のラジオは戦後の人々を慰めた娯楽品で,歌も浪曲もドラマもこれ一つで楽しめた。この歌も国民が、富んだものも貧しいものも、老いたものも働くものも小さなものも、一つになって聞き、覚え、口ずさんだ歌だったと思います。だから私の父母も好きな歌として私に教えてくれました。歌には歴史があるといいますが、本当にその通りです。
投稿: 越村 南 | 2023年9月22日 (金) 11時41分
(文中敬称略)
ことし2025年はちょうど戦後80年になりますが、本項の『朝はどこから』を筆頭にその80年の間にも「○○はどこから来るかしら?」的な歌詞が含まれている曲はいくつか存在しましたよね。
ちなみに私が独断で挙げたいTOP3は次の3曲です。
及川恒平(1948~)『面影橋から』↓
(1972、共同作詞:及川・田中伸彦(生没年不明)、作曲:及川)
https://www.uta-net.com/song/205898/
※小金沢昇司(1958~2024)の歌唱による『面影橋から…』(2020、作詞:伊藤美和(生年非公表~)、作曲:弦哲也(田村正稔、1947~)/小金沢の事実上の遺作)とは同名異曲。
hitomi(古谷仁美、1976~)『LOVE2000(ラブ・にせん)』↓
(2000、作詞:hitomi、作曲:鎌田雅人(1971~))
https://www.uta-net.com/song/12436/
※安室奈美恵(1977~)の歌唱による『LOVE2000(ラブ・トゥーサウザンド)』(2000、作詞・作曲:小室哲哉(1958~))は同字異音の別の曲。
ボーカル・ショップ(セリフ:小林修(1934~2011/「黄金バット」役声優))『黄金バット』↓
(1966、作詞:第一動画(現・ADKエモーションズ)、作曲:田中正史(1928~2010))
https://www.uta-net.com/song/11235/
※東映映画『黄金バット』(1966、監督:佐藤肇(1929~95)、主演:千葉真一(前田禎穂、1939~2021))ならびにテレビアニメ『黄金バット』(1967~68、よみうりテレビ・名古屋テレビ・日本テレビなど)主題歌。
まあ「(朝、昼、夜、春、愛、黄金バットetc.)はどこから来るかしら?」の答えは、風とか自分の胸とかこうもりに問いかけてもわからないと思うので、私はこの論争には加わらないでおきます。
【蛇足】
上記の及川恒平とhitomiはどちらも「小室」姓のミュージシャンとつながりがありますが(及川は小室等(1943~)と同じくフォークグループ「六文銭」のメンバーで、hitomiは1994年に小室哲哉のプロデュース・作曲(作詞はhitomi)による『Let's Play Winter』でCDデビューした)、『朝はどこから』をはじめとする朝日新聞(のちに朝日放送(現在は法人としては朝日放送グループHD、放送局としては朝日放送ラジオ)に移管)ホームソングの選考に関わった一人に当時朝日新聞の文芸部長でのちにプロ野球の近鉄パールス(→大阪近鉄バファローズ、2004年に球団消滅)の監督に就任する芥田武夫(1903~87)がいたという話を聞いたことがあり、「芥田の旧姓も『小室』だったような気がする」と思いましたが、こちらは「小室」ではなく「氷室」でした(苦笑)。
【更に蛇足】
私は昨日『名古屋ウィメンズマラソン2025』をスタートから1kmあたりの沿道とゴールのバンテリンドームナゴヤ(以下「ドーム」)で観戦しましたが、青空のもと素晴らしいレースになりました。
ドームでは当日の東海テレビ・フジテレビ・関西テレビ系の生中継で中継車内の解説を担当した高橋尚子(1972~/2000シドニー)、野口みずき(1978~/2004アテネ)の両オリンピック金メダリストにお会いでき、また午後3時すぎのアフターステージではドーム駐車場でのスタート前セレモニー(私は沿道応援場所確保のためその場所にはいなかった)で国歌を斉唱したhitomiのミニライブが行われました。
高橋がシドニーのレース前にヘッドホンステレオでhitomiの『LOVE2000』を聴いてそれが金メダルに繋がった話はあまりにも有名ですが、あれから四半世紀、私は同じ日に同じ空間で戦後80年の日本スポーツ史に名を刻んだ人物に会い、そして戦後80年の日本歌謡史に名を連ねた曲のひとつを生で聴いてとても感動した一日になりました。
投稿: Black Swan | 2025年3月10日 (月) 08時31分
これは私の父母も口ずさんでいたなつかしい歌です。朝、昼、晩と3番あって、「お早う」「今日は」「今晩は」とあいさつもていねいに添えられていて、外国人に教えてあげたいような歌です。
一番いいと思うのは、1番の歌詞ですね。
あの空越えて 雲越えて
光の国から来るかしら
いやあ、ロマンチックだ。
朝はどこから来るかしらと時々今でも思いますね。朝の散歩の時に。私の定年後の唯一の仕事は、朝夕の散歩です。それぞれ40分間の運動です。仕事をしていないから、そんな夢みたいな疑問を持つのでしょうね。現役の時は朝はただ忙しいだけだった。生きる厳しさから離れた子どもや老人の感慨なのかな。
私の父はタバコの「光」を吸っていて、日曜日の朝など、よく買いに行かされました。タバコ屋まで片道30分ほどでしたが、喜んで行ってました。光の国とタバコの光とは無関係だけど、そんな子どもの頃のことなど、つながって思い出させてくれる歌です。
投稿: 越村 南 | 2025年3月10日 (月) 16時33分