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2007年7月29日 (日)

高校三年生

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤 実、唄:舟木一夫

1 赤い夕陽が校舎をそめて
  ニレの木陰に弾む声
  ああ 高校三年生
  ぼくら 離れ離れになろうとも
  クラス仲間はいつまでも

2 泣いた日もある 怨んだことも
  思い出すだろ なつかしく
  ああ 高校三年生
  ぼくら フォークダンスの手をとれば
  甘く匂うよ 黒髪が

3 残り少ない日数(ひかず)を胸に
  夢がはばたく遠い空
  ああ 高校三年生
  ぼくら 道はそれぞれ分かれても
  越えて歌おう この歌を

《蛇足》 昭和38年(1963)にリリースされ、今日も歌われている超ロングヒット。『青い山脈』と並ぶ青春歌謡の代表曲です。

  『青い山脈』が軍国主義から解放された喜びと廃墟からの復活を歌ったマニフェストソングだとすると、『高校三年生』は民主主義教育の喜びと国民的自信の復活を反映したマニフェストソングだといっていいでしょう。
 このころから日本経済は離陸し、世界史上の奇跡とまでいわれた高度経済成長を成し遂げることになります。

 昭和38年は、『鉄腕アトム』のテレビ放映が始まり、坂本九の『スキヤキ』が全米ヒットパレードで1位になり、初の日米間テレビ宇宙中継でケネディ大統領の暗殺が伝えられ、力道山がヤクザに刺された年でした。

 私は、昭和38年(1963)8月、大阪から新潟へ向かう夜間急行「日本海」の車中で、同年配の若者のグループが歌っているのを聞いて、この歌がヒットしていることを知りました。

(二木紘三)

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コメント

お邪魔します。50代の男性です。素晴らしい演奏に感激しています。
特に、「高校三年生」と「北の旅人」は最高です。
全く私個人の勝手な願望としては、舟木一夫と裕次郎さんの曲をお願いします。個人的好みで失礼します。(笑)

投稿: まさお | 2007年10月15日 (月) 15時47分

現在55才、高校の同窓会の2次会での締めはこの曲です。
空で歌えちゃうのが愉快です。

流石に「友よ」は歌わないですね・・。(;^ω^)

投稿: konimo | 2008年4月 6日 (日) 01時36分

この曲は、私が高校時代の歌です。九州の田舎の男子だけの高校であり、フォークダンスはメッタできず、運動会等で他の高校との交流のときだけでした。好きな女子高生はあこがれであり、片想いの対象でしたが。その意味で、この曲はせつない私の青春そのものです。その後、就職、進学等と大半の級友は、青雲の志を持って?都会に出て行ったのですが--。61歳の年になると、何もできずに終わった仕事人生でしたが、この曲を聴いていると、この時代は希望もあっとように思えます。何れにしろ、わたしにとって故郷の両親も亡くなり、心の青春歌ですね。

投稿: 都会の田舎者 | 2008年5月31日 (土) 16時15分

私の高校生活は、越境入学でしたから寂しく悲しい思い出しかありませんが、この歌はなぜか当時の青春時代を懐かしく美しいものに変えてくれます。
 近々、観客1000人くらい入る会場で、この曲をハーモニカ合奏します。さてお客さんは曲に乗って”歌い出す”かどうか楽しみにしています。きっと・・・

投稿: 豊田 錫 | 2008年6月28日 (土) 16時21分

この曲・唄を聴きますと息子の姿に重なります。
大学受験の重圧の中に、仄かな異性への憧れをもった姿は格好良かったです。
息子の青春は私の憧れでもありました。
今では孫も出来て喜んでいる息子の若き日にタイムスリップして私は「高校三年生」の思い出に浸ります。

投稿: 香西 千鶴 | 2008年7月18日 (金) 00時04分

この歌は映画になりませんでしたね。(数十年前の事なので
記憶が曖昧です)やはり絶唱の方が一枚上のように思えてなりません。

投稿: M.U | 2008年9月14日 (日) 14時21分

きっと・・・と上でいいましたね。9月に千葉市民会館でこの曲をハーモニカ合奏しました。歌の部分に入った時1人2人歌い出しました。指揮者が観客席の方を向いて指揮棒を振り出すと仕掛け花火のように会場全体に歌声が広がりました。大合唱です。私は演奏中でしたが熱いものを感じました。

投稿: 豊田 錫 | 2008年10月11日 (土) 17時08分

この歌は小生が高校三年生の時に流行したので、同窓会の時の定番になっています。昭和20年生まれのためにまるで作曲された歌の様です。みんなで歌えば、即高校時代に戻れる懐かしく便利な歌です。気分は高校生、詰襟姿の若い姿が思い浮かびます。

投稿: 高校三年生 | 2009年2月22日 (日) 20時28分

 きよし君の「……袖しぐれぇ♪」を聞き、ひばりさんの歌に「…袖しぐれぇー」があったのを思い出し、検索すると出てきました。それで、「…ざんざらまこもー」も何か意味があると思い、検索。そしてこのサイトに導かれました。管理者、二木紘三先生の仰る〝蛇足〟を楽しく、興味深く拝見し、どの歌も思い出が浮かびます。然し「高校三年生」は別格、一筆啓上仕ります。
この歌は、時、恰も高三の時、何かある時は皆でこの歌を歌っていました。僕の通った高校、入学式も卒業式にも、旧制中学の時の先輩が内閣総理大臣として祝電を下さりました。上位陣は東大を始めとする国公立大学に行くも、ビリッけつの僕はいつもあひるばかり。親に通信簿なんか見せたことがないし、見せられたものではありません。
 この歌の三番の歌詞、「残り少ない日数を胸に夢は羽ばたく…」と、小学校の時の先生の「虎、死んで皮す。人死んで名を遺す」の言葉が喉に突き刺さった儘です。


投稿: 高橋昌勝 | 2011年2月13日 (日) 18時19分

丘灯至夫と言う作詞名は新聞記者だった頃の「押しと顔」を逆から読んだ命名との事。「高校三年生、東京のバスガール、白いランプの灯る道、山のロザリア、高原列車は行く」などペーソスがあり、清楚、可憐、純心などの言葉を重ねたくなります。赤い夕日、紺の制服、白いランプ、青い牧場、明るい青空白樺林とシンプルな色を配したのが見事ですね。もともと昭和歌謡の好きな私ですが、昔の歌謡曲って深いなぁ〜なんて思います。今の若い子もJ-popと呼ばれる最近の歌を40年後に聞いて、「いいなぁ」と思うのかな、ちょっと疑問。

投稿: 海道 | 2012年7月25日 (水) 11時52分

おじゃましまーす。
私、38年生まれ、といっても西暦のですよ。

この歌は明るいリズムの中に哀愁がただようようなところがあって好きです。
我が3年に1回の高校の同窓会のフィナレーとして、ご多分にもれず校歌斉唱の前にあの頃を思い出し、蛮声を張り上げて歌います。その顔といったらオレ達が高度経済成長をやったんだぞー みたいなものです。その同窓会も半世紀、毎回人数が欠け淋しくなっていきます。

投稿: 旧太郎 | 2012年7月31日 (火) 06時57分

 県立高校卒業5年後にこの歌が発表されて50年、今でも同窓会の締めとして肩を組んで当時の校歌と共に歌っています。
共に学んだあの頃の熱い友情への思いは、過ぎて見なければわからないだろうものの今の時代に存在しているのだろうか?と気になりました。
 今、マスメディアから伝えられているS高校の勝ち組至上主義の風潮を善しとする方々に、この歌を聴かせ一緒に歌い天の風に届けたい!と一府民としての今の心境です。

投稿: 尾谷光紀 | 2013年1月30日 (水) 10時45分

昭和21年生まれです。この歌はちょうど高校2年生の時にはやった歌でした。青春真っ只中でした。青春ソングがぞくぞくと発表されましたね。この歌の他に修学旅行、学園広場、西郷輝彦の君だけを、チャペルに続く白い道、三田明の美しい十代、みんな名もなく貧しいけれど等の歌が好きで動画サイトで検索し、聴いています。
二木先生のうた物語を見つけ、うれしく思います。ありがとうございます。

投稿: ナツメロ好 | 2013年5月16日 (木) 20時52分

昭和三十八年六月、史上最大のデビュー曲となる高校三年生が発売された。最終的に二百三十万枚の数字に驚く。前のコメントの中に映画が無かった、絶唱なら。とあるが、発売から二ヶ月後に映画の撮影が始まっている。映画は高校三年生、続高校三年生と二本ある 高校三年生は永遠の青春歌謡として五十年後の今も歌い継がれ、日本の歌百選にも堂々と耀いている。弱冠十八歳、詰め襟の学生服で歌う舟木一夫に日本中が注目した。一夜にして舟木一夫はトップ歌手になる。次の修学旅行、学園広場、仲間たち、と快進撃でヒットと映画化。デビュー半年で紅白出場は今も破られていない。同時に翌年の大河ドラマにも出演が決まる。以来五十年。今も新橋演舞場や大阪新歌舞伎座で座長公演で喝采を浴びる舟木一夫。昨年は舟木一夫芸能生活五十周年公演や全国ツアーで盛り上がる。それも始まりは高校三年生と云う三分数秒の名曲と舟木一夫、本名、上田成幸の類い希な歌唱力と人徳からである。私は五十年余舟木一夫のファンである事に誇りと高校三年生の曲と舟木一夫に敬意を表します。

投稿: 西園寺公彦 | 2013年10月 8日 (火) 21時14分

昭和40年41年42年と高校生活を離島で送りました。
一学年200人、男女半々の共学校で、黒潮の匂いと清かな風が澄み渡る、環境の面では申し分の無い校風でした。
 ただ校則は厳しく、男子は丸刈り女子は肩に髪が届かぬ程度の長さ、もしくはお下げ。原則、男女交際禁止。夜間外出禁止、
映画は日時指定の許可映画のみ。喫茶店出入り禁止…etc,
色んな面で厳しい規律の学校でした。映画館なぞ3館もあるんですよ。1年に2本立てが4回程。都会で学校生活を送る若者には信じられない事かもしれませんね。 オムニバス映画「怪談」の
1エピソードに「雪女」がありますが、濡れ場シーンになると、
映写の光を遮るように黒い手の影がニュッと出てくるのです。
 生徒は「ワーッ、ワーッ!」とブーイング。
なにやら、のんびりした田舎の高校生活だったですねー。

投稿: かせい | 2014年5月29日 (木) 00時23分

50年振りに再会した高校時代の同級生が歌ってくれたこの歌、62年に日本を離れ ともに歌う友人もなかった私に、それは高校時代の様々な思い出を蘇らせてくれました。胸が熱くそして友人達の優しい気遣いに思わず涙しました。つい昨日まで逢っていたかのように受け入れてくれた友、
去年、再会も叶わず旅立ってしまった友。
この歌を口ずさむ事は今暫く出来そうもありませんが、この歌に出会えた事に心から感謝しています。
                  しのぶ   カナダ在住
                      しのぶ

投稿: yumiko suzuki | 2014年9月 5日 (金) 13時16分

50年ぶりに聞きました。10代のあの頃に一瞬のうちに戻りました。高校を卒業できずに中退して、川口の鋳物工場の住み込みの寮で、小さいテレビにかじりつく様にして何回も何回も唄いました。涙が止まりません・・・。有難うございました。

投稿: 秋 太郎 | 2014年9月14日 (日) 16時54分

 昭和38年のリリースなら、ラジオからテレビに移行する時代だった。皇太子御成婚が昭和34年、東京オリンピックが昭和39年、その間、テレビは爆発的な勢いで普及した。
わが家は、裕福でなかったので、テレビはなく、ラジオでこの歌を聞いた。中学2年の頃だった。
「赤い夕陽」「ニレの木陰」もいいけれど、「フォークダンス」「甘く匂うよ黒髪」が、私にとってはキーワードだった。
今でも「フォークダンス」「黒髪」がなかったら、この歌の価値はグンと落ちるのではないかと思っている。
<蛇足>にあるとおり、男女共学に代表される民主主義教育の喜びをあらわす歌です。
当時、先生方もなにやら恥ずかしそうにフォークダンスの指導をされていたのをおぼえている。
女性徒の指に触れるとき、わが心臓は早鐘を打った。
 今、高校生のフォークダンスなんて、どこへ行ってしまったんでしょう。
まがいものだったんでしょうか、あのころの教育は。
でもそれだから、よけいになつかしい。同時代人以外にわかってたまるかという思いとともに。

投稿: 紅孔雀 | 2014年9月14日 (日) 22時26分

作詞の丘灯至夫は自分が高校に進学できなかったので、この唄には自分のそんな気持ちを込めて作ったと何かで読みましたが、本当でしょうか。私は毎日風呂の中で、この唄を歌います。最近インターネットで、日本の歌を北朝鮮でカラオケにしているのを聞きましたが、残念乍ら、この歌はみつかりませんでした。舟木一夫の「修学旅行」や「青い山脈」等がありました。日本語と朝鮮語で歌っています。朝鮮語にはカタカナで、発音が書いてありました。恐らく海賊版でしょうね。

投稿: 城 保 | 2014年11月 3日 (月) 01時15分

大阪からの放送で、名曲高校三年生誕生秘話をしていました。
デビュー曲の8年?前に、幻の「高校三年生」の歌詞を作られたそうです。
♪紺の制服ギャーザーのひだに・・?
夕食の用意をしていたので、ちらっと覗いただけですが、
4番まで書いてあったかな?。
しんみりした「定時高校生」が好きです。

投稿: なち | 2015年8月 7日 (金) 19時14分

 この歌の流行ったときはちょうど高校3年だったと思います。というのは卒業式の茶話会(クラスのみの)があり、そこで知りました。それまでは下宿にこもっていましたのでTVも見なかったし仙人のような暮らしをしていたと思います。
 後年、クラスのマドンナと思われる方が、この地で流行った別の歌を歌われたとか、それも忘れていました。
 舟木一夫は実家に帰ってから毎日のようにTVで見ました。

投稿: 今でも青春 | 2015年8月 9日 (日) 12時45分

昭和20年代生まれの私は、今思えば勉強嫌いな頭の悪い子供でした。朝起きると自宅近くの浅川でハヤ魚釣り等に、夢中になり、勉強も嫌いなこともあり、通学さえ忘れて遅刻・遅刻の毎日でした。でもそんな時、舟木和夫さんの高校三年生という歌を聞いて感動し、この歌に人生の希望を持つようになりましたむ。こんな馬鹿な人間も高校に行きたくなり、自分なりささやかな勉強をしました。2×5÷3位の程度ですが。我が家族は両親と兄弟姉妹七人の九人の貧しい家庭でしたが、両親はこんな私に快く受験をさせてくれました。三流高校ですが合格できました。人生とは
ちょつとしたきっかけで人生を変える事が出来るのですね。正に、赤い夕陽が心を支えてくれました。
三流高校ですが合格出来両親も喜んでくれました。

投稿: チャーリー君 | 2015年8月27日 (木) 21時44分

高校一年生(昭和39年)のバス遠足でバスの中で皆で歌いました。そのときペギー葉山の「学生時代」も皆で歌いました。青春っていいですね。

高校一年は皆それぞれ異なる地方の中学から集まって来るので皆初顔合わせです。そんな中、同じクラスのK君と最も打ち解けで話し始めました。彼は肌の色も浅黒くたくましいスポーツマンでした。スポーツがからきしだめな僕に、「僕はタイヤをゴムチューブで木にくくりつけ、毎日、バット振って叩いているんだ、これやるといいよ」、と助言してくれました。

高校二年でクラスも変わりその後会うこともありませんでした。昨年の暮れ高校の同窓会があり、「K、あいつ死んだらしいよ」という話が耳にはいりました。

K君、死んだのか・・・
もう一度会いたかったなぁ、早すぎるよ。
もっと人生頑張れよ。
K君がバットを振っている精悍な姿が目に浮かびます。
悲しいです。

投稿: yoko | 2016年1月31日 (日) 22時19分

二木先生はじめ同好の皆様
暑中お見舞い申し上げます。

間をおかずのコメントをお許しください。
鮮度の落ちぬまに間に、涙の乾かぬ間に~。

陰のある美貌の文学少女であった亡き親友が偲ばれてなりません。(38歳で他界)
クラスは違うのにいつもいつも一緒にいました。
昼の弁当も校庭の木陰で一緒に食べました。授業の合間のトイレさえ、彼女が迎えに来て腕を組んでご一緒したものです
彼女は私の読書の水先案内人でもありました。還暦も過ぎてから彼女と同じ中学だった友人から「中学時代彼女は壮絶ないじめに遭っていた。ボスの女子がにらみを利かし、彼女と口を利いたものが順次ターゲットにされた」との内容でした。
その時に初めて長年の謎が解けました。
寂しく辛かった中学時代、普通の女の子の友達同士の触れ合いの疑似体験を私に求めたのです。
2年生の夏休みまえに彼女から突然の手紙をもらいました。きれいな文字、知的で文学的な内容でした。
成績も上位で地方の名家の子女でもあった彼女。
父母の会の折に彼女の母は担任から「4組の◎子との交際はやめた方がよい」と言われたと後に報告。苦笑。田舎の高校の期待の星が不良少女と交わって成績がさがるのを危惧したのでしょう。しかし意思の強い彼女は担任の忠告に背きました。中学時代の淋しさの穴埋めをしたかったのだと還暦を過ぎて思い当りました。誰がみても違和感のある私たちでした。
舟木さんのこの歌を「こんな程度が低いわね。NHKの中学生日記のほうがずっと内容が充実してるよね」などと批判する供に生意気な高校生でした。
あれから半世紀以上、今ではこの歌を聴くたびに
涙のスイッチが入ります。

彼女が存命であったなら、
必ずや「芥川賞」を受賞していたでしょう。


投稿: りんご | 2016年7月25日 (月) 10時46分

この歌は私が心から尊敬する御方の十八番です。いつも😄で人に接していらっしゃいました!その御方がお酒が入れば必ず歌っていた曲です。まだガラケーしか無くて年末の片づけが終わり。良き時代でしたので打ち上げにチャンポンを食べながらあいしょうがよい冷や酒を飲んでいたら、皆さんから長○郎さん、そろそろ歌ったらと言われて長○郎さんがガレケーの着メロをバックに歌い始めました!しかし、二番目も、一番と同じ歌詞。傍にいたMさんが、たいへん得意で、巧いと聞き及んでいたがそんなに無いんだ!と呆れていました。先日書き込みました、長崎のザボン売りの左官のISさんとは世間一般では犬猿の仲でしたが本当は左官さんは互いに悪口を言い合うのを楽しんでいらっしゃいました!本当に素敵な長○郎さんの十八番でしたよ!

投稿: 長○郎 | 2018年6月 1日 (金) 20時58分

「高校三年生」この歌が爆発的にヒットした昭和38年は、私が小学校3年生の時でした!
当時、ラジオから毎日のように流れていたこの曲を好きになった私は、学校の帰り道などにも一人でよく口ずさんでいました。
またデビューした年だけでも「修学旅行」「学園広場」「仲間たち」「君たちがいて僕がいた」など、たて続けにヒット曲を連発させていた舟木一夫のその人気がもの凄ったことだけは鮮明に憶えています。
その頃、我が家にはまだテレビがなく、舟木一夫の姿を初めて知ったのは当時の人気雑誌、平凡・明星などに白い詰襟をした学生服姿で写っている彼のスナップ写真を見た時でした。その雑誌の写真や記事を読みながら、中学生だった姉たちが燥いでいたことを懐かしく想い出します。

舟木一夫がデビューして55年の月日が流れ、73才になった現在も各地で開催するリサイタル会場を、デビュー当時からの熱狂的ファンで常に満席にするという活躍を見せる舟木一夫が、某番組で「現在も今なお応援してくれる有難いファンの方たちは、私の歌の中に当時の自分たちが生きてきた残像を重ねているのではないかと思う!」舟木一夫の発したこの言葉には説得力があり、ここで二木先生が演奏する「高校三年生」を聴きながら、皆様のコメントを読んでいると、まさにそんな思いがします。
幼い頃は観ることが出来なかった映画ですが、日活映画館ビデオシリーズで発売された時、舟木一夫の出演映画は全巻揃えました。また「高校三年生」で共演していた女優高田美和が歌手デビューしてヒットした「十七才は一度だけ」私はこの歌も好きで、今でも口ずさむ時があります。

1992年に発売された舟木一夫30周年記念「陽射し・旅人」CD10枚組を購入した時の感激は今も忘れられません。
戦後の青春歌謡を語る時、蛇足にもあるように「青い山脈」と並んで「高校三年生」この歌は昭和を生きてきた全国民に愛されるまさに代表曲だと思います。

投稿: 芳勝 | 2018年10月15日 (月) 00時12分

本曲ヒットの昭和38年は予備校に通っていた頃で、毎週何曜だったか夜8時ともなると下宿屋の仲間の部屋にみんなで集まって文化放送「全国歌謡ベストテン」を聴いたものです(“北は北海道から南は沖縄まで全国民間放送31社の集計による全国歌謡ベストテン・・・”司会アナ名文句)。
当時は本曲を始め「長崎の女」「赤いハンカチ」「星屑の町」「白い制服」あたりが常連曲でした。各県から集まっていた当時の下宿屋仲間(予備校仲間)とはその後音信不通ですが、当時を思い出すと懐かしいです。

投稿: 焼酎 | 2018年10月15日 (月) 08時41分

 高校卒業後、不惑の歳になったときから4年に一度の同期会が古希になった年まで、持ち回りの幹事役で続きました。会の終わりには必ず校歌とこの「高校3年生」を大合唱しました。誰もが校歌より「高校3年生」を大きな声を張り上げてうたっていました。きっと誰しも胸に去来する高校生活があったのでしょう。同期会では男女とも誰かに「実は好きだった」と告白する景色が見られました。現在はそれぞれ個々に会っていますが、なにかの呼びかけで会うことのない同期生は今はどうしているかしらと思っています。

投稿: konoha | 2018年10月15日 (月) 09時41分

この曲を聴くとうらやましくなります。とても充実した良い高校3年を歌ったのだと思います。
一方、小生の高校3年(昭和34年)は、好きな女子高生がアメリカに留学し、虚脱感に陥った自分は全学連の過激な闘争に参加したため、クラスからまったく浮いた存在になりました。また、難癖をつけて修学旅行をボイコットしたため、担任教師とも不和になったのです。
したがって、この当時の「クラス仲間」は誰一人いません。もう一度 高校3年に戻れるなら、今度こそ充実した楽しい学園生活を送り、クラス仲間といつまでも交友したいものだと思います。
しかし、過激な安保闘争に加わったことは、決して無意味だったとは思いません。それも人生の一つの通過点だったのでは・・・ 今ではそう思うしかありません。

投稿: 矢嶋武弘 | 2019年11月26日 (火) 12時11分

作曲された遠藤実は、高校へ行っていませんで、同級生をいつも羨ましく思っていた思いが凝縮されて、曲を作ったと語っていました。
人生の半分は「赤飯あらうが如し」の生活を送っていました。
大衆食堂の店員だった奥さんと結婚しても、収入が乏しく、ひとり分のカレーだったか、二人で分けて食べたと語っています。
日経新聞に「私の履歴書」で連載されています。

投稿: 崇 | 2020年3月22日 (日) 05時14分

崇さま
失礼ながら
赤飯→赤貧
ではないでしょうか

投稿: hurry | 2020年3月22日 (日) 15時16分

hurryさんへ
ご指摘有難うございます
ユーザー辞書に登録しておきます
POBox plusという変換アプリを使っていますが、この字しかでませんで、安易に書いてしまいました
有難うございます

投稿: 崇 | 2020年3月22日 (日) 19時52分

こちらのコメント欄も、Youtube の舟木さんの動画のコメント欄でも、舟木さんもファンも年配になって、コメントに人生を感じます。「舟木一夫さんは私が初めて好きになった人です。13 歳の時でした。」との女性の微笑ましいコメントを今日見ました。46 歳の不遇時代の舟木さんがデパートのエスカレーターのそばで歌っている動画も素敵で、私も舟木一夫さんが好きです。今日感動したコメントに(色々略しながら写します)「高校三年生を聴いて、涙が溢れて来ました。最愛の父を病で早く亡くし、そのため15歳で社会人となり、63歳まで働きました。定時制高校は、4年生までありました。私にとって歌の題名は、「高校四年生」です。」とありました。9年間働きながら学んで、夢だった中学校の数学の先生になられたそうです。読んでいて涙が出ました。

投稿: kazu | 2021年2月12日 (金) 13時16分

日頃、「高校三年生」を聴いたり、口遊んだりすることは余りありません。この歌が作られた時期が、私の高校時代より、少し後だったからかも知れません。
でも、高校の同期会では、お開きの前に、全員で、この歌を歌ったものです。

思い返せば、昭和20年代後半、私は、郷里・石川県のK高校に入学しました。1クラス約50人、それが10クラスで、1学年約500人の、いわば、マンモス高でした。
普通高(進学校)であったせいか、今と違って、部活などでの交流も経験せず、同じ進学コースの数人の友人を除いては、付き合う友人もなく、あっという間の三年間でした。この歌にありますような、甘酸っぱい思い出などありませんでした。 

その後、社会人になって関西の地に住み、ずっと時が経ち、定年が間近に迫ったある日、突然、”K高校3年のとき同じクラスだったNだけど、同期会を時々やっているので、参加したら”と電話で、勧誘がありました。同窓会名簿に居所不詳となっていた私の居所をどこかで見つけて、電話してくれたのでした。正直、N氏のことは直ぐに思い出せませんでしたが、謝意を伝え、これを機に、関西K同期会に、参加するようになりました。
郷里・石川県は、意外に、関西とのかかわりが深く、関西には数十人のK高校の同期生が居住していたのでした。
初めて、同期会(大阪・心斎橋にて)に参加したとき、女性はいうに及ばず、男性も、殆ど顔を思い出すことは出来ませんでしたが、しばらくしたら、旧友に会ったかのごとく、楽しく談笑している自分が居ました。高校3年間、同じ学び舎で学んだという共通項しかないのに、これほど気を使わず、楽しく集まれる会は、他にありましょうか。

今は、コロナ禍で中断していますが、ほぼ年2回(夏、忘年会)の同期会には、欠かさず、参加しております。
ただ、病いに倒れたり、足腰不調などで漸減して、参加者は、今では、10人程度(ほぼ男女半々)になりました。寂しいですが、致し方ないことです。

投稿: yasushi | 2021年2月15日 (月) 13時36分

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