高原の駅よさようなら
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一、唄:小畑 実
1 しばし別れの 夜汽車の窓よ 2 旅のおひとと 恨までおくれ 3 わかりましたわ わかってくれた |
《蛇足》 昭和26年(1951)リリース。大ヒットしたので、同年、新東宝が中川信夫監督で映画化しました。
高原の結核療養所を舞台とした、若い植物学者(水島道太郎)と看護婦(香川京子)の悲恋物語です。
『懐かしのブルース』『月よりの使者』も、高原療養所が舞台になっていました。この時代、結核が人の運命さえ変えかねない重大な病気であったことがうかがえます。最近また、結核の蔓延が問題になっていますが。
いろいろな病気のなかでも、肺結核はとりわけ文学心を刺激する病気のようで、結核療養所(サナトリウム)を舞台とした小説がいくつも生まれています。文学史には「結核文学」というジャンルがあるほどです。
日本では『春は馬車に乗って』(横光利一)、『風立ちぬ』『菜穂子』(堀辰雄)、『草の花』(福永武彦)など、外国では『魔の山』(トーマス・マン)といった傑作があります。
(二木紘三)
コメント
まだ小学校に入る前の昭和20年後半だったと思います。当時、年末助け合い演芸会と名付けられた村の人達による歌あり踊りありの催し物がありました。そのなかで近所の床屋さん(男性です)が看護婦の白い服装で”しばし別れの夜汽車の窓よ~”と踊り大爆笑を誘っていたのをおぼえていますが、この部分の歌詞しか知らず、今までなんと言う歌なのか又、何で看護婦なのかわかりませんでした。ところがこの歌物語の歌謡曲を順に聞いていたら、何と、ありましたねー。
50年以上過ぎて二木さんの蛇足の解説のおかげでようやくわかりました。ありがとうございました。日課のカラオケタイムのレパートリーに加えました。
投稿: さりげなく | 2007年12月16日 (日) 12時54分
福永武彦の『草の花』をご紹介くださって有難うございます。高校生の時から50年、ずっとこの本に取り憑かれております。この歌が流行った頃は子供で、歌の意味がわかりませんでしたが、結核患者がいっぱいいたことは覚えております。結核と聞くとロマンを感じるのは、結核文学のせいでしょうか。本当は悲惨な患者を近所で何人も見ていたのに、恋と病に憧れるなんて、おかしいですね。何年か前に知り合いが結核になった時「ロマンチックな病気になったのね」と、つい言ってしまい、怪訝な顔をされてしまいました。
投稿: ハコベの花 | 2008年9月21日 (日) 23時48分
この歌は、ズンチャカズンチャカという、昔風の軽快なリズムでありながら、現在でも色あせることなく、飽きずに気持ちよく歌える日本流行歌の名曲のひとつだと思います。
小畑 実さんは、丸顔で頭はポマードできれいに7・3に分けて、やさしく歌う人だったと覚えています。「湯島の白梅」も大ヒットしましたね。
投稿: 吟二 | 2010年5月 2日 (日) 21時20分
投稿者同士で話し合うのはルール違反かも知りませんが、お許し下さい。ハコベの花さん、私は「草の花」についての記事をあなたが投稿される1ヵ月前(2008年8月20日)に書きました。別の作家のですが、彼にも触れてます。偶然ですね。今それを知って少し興奮しています。
投稿: Bianca | 2010年5月 3日 (月) 19時24分
Bianca様
旧友に出会ったような嬉しいコメント有難うございました。私がパソコンを買った理由は『草の花』の愛読者を探すことでした。福永武彦研究「夢のように・・」を見つけた時は、この「うた物語」を見つけた時と同じぐらい心が躍りました。同じ歌が好きな人、同じ本が好きな人と出会う事は人生最大の喜びです。
Bianca様のブログにお邪魔させて頂いて、またいろいろな思いをお話させて頂たいと思います。
投稿: ハコベの花 | 2010年5月 4日 (火) 10時53分
遠い昔の話で恐縮ですが、
京都は、四条河原町に歌声喫茶・炎というのがありました。
同じ下宿の人につれて行ってもらったわけですが、
そこでの事!、
なかなか、自分が知ってると云うか?、
歌える歌は、待てど暮らせど出てこず!。
みなさん、楽しそうに歌ってるのに、ただ、ひとり!、ぽつり!。
こりゃ?、無駄だ!、と思って帰ろうとしたら、
出てきたのが、
この〝高原の駅よさようなら〟
なぜだか?、歌えたんですね!。
(よく考えてみたら、
おじさんが、よく、口ずさんでいた歌でした!。
筑豊線の蒸気機関車の運転手でした。)
その時、もらった歌詞集、下宿に持ち帰り、
仲間と特訓。
そのおかげか?、
だれか故郷を思わざる。
赤と黒のブルース。
あざみの歌。
ゴンドラの唄。
きたかみ夜曲
・・・・。
ずいぶん、歌えるようになりました。
そのきっかけになった、懐かしい曲です!。
投稿: 寂心 | 2010年11月16日 (火) 18時34分
先生のコメントにあります、
>・・・同年、新東宝が中川信夫監督で映画化しました。
で、映画か?、と思い web で調べてみました。
な~んと!、動画投稿サイトと云うんですかね?、
アクセスし〝高原の駅よさようなら〟と入力すると、
映画のラストシーンの抜粋ですが、
2~3、投稿されてるんですね!。
香川京子さんの若い時、すばらしいもんですね!。
田崎潤と馬の背に乗り、駅に着いた時は、列車が出るところ!。
豪快に動き出す蒸気機関車の動輪、
高原の駅よさようならの曲をバックに、
きっと、待っててくれよ!。
えっ!、
きっとだよ!、
えっ!、
すぐ、迎えにくるからね!、
えっ!、
いぬい君!、
野村さん!。
さようなら!。
なんか?、数分間なのに、映画の全てを観たような感じがしました!。
それに、こんな別れはいいな~!とつくづく思いました。
(若い時、一回、してみたかった)
ますます、〝高原の駅よさようなら〟好きになりました。
投稿: 寂心 | 2010年11月22日 (月) 22時35分
おはようございます。
先生のお陰で、本日も4時半より、楽しませていただいています。
いいもんですな~!。
私、音楽的才能も知識も、恥ずかしいレベルなれど、
楽しむ事だけは、一人前???。
ありがとうございます。
今朝も、一通り、聴いて、最後に残ったのが、
○ 誰か夢なき・・・昭和22年
○ 月よりの使者・・・昭和24年
○ 啼くな小鳩よ・・・昭和22年
○ 高原の駅よさようなら・・・昭和26年
○ すきな人(藤本二三代)・・・昭和33年
最後の〝すきな人〟を除き、
私、幼少のころ、熊本のいち山村で、
我が責任にあらずとは言え、生きるか死ぬるかの
貧乏一筋!、
瀬戸際人生だったハズ!!!。
さて、どこで、覚えたものやら、謎?ですな~!?。
最後の〝すきな人〟は、
高校2年生の年末に、彼女から、レコードのプレゼントを受け、有頂天になってた記憶あり!。
(昭和29年に、福岡市内へ引っ越し!。)
古き良き時代?ですかな?。今となっては???。
最後は、すきな人!!!。
これは、you tube で、お世話になってるが、
先生に、早く、お願いしたい!!!。
(わがままのみにて、申し訳ありません)
投稿: 寂しい寂しい心 | 2010年12月15日 (水) 07時21分
小畑 実といえば、いい歌をたくさん歌った歌手でした。
ある本を読むと
歌手にしきのあきらは父の代から帰化しているが
自分は韓国人の血を引いていることを隠そうとしない。
だが、芸能界には隠す人が少なくないという。
「『紅白歌合戦』はわれわれがいなかったら成り立たないんですよ」
にしきのの父は、日本に帰化した小畑実の歌が好きだった。
韓国の人は演歌の心を知っていますね。
歌謡曲を歌わせたらうまい。
しかし
韓国の文化人も、演歌を純音楽より一段低いものと考えているようです。
日本の音楽関係者にもそういう考えの人が多いようですが
古賀政男はそれはいけない、音楽に差別はいらないと主張していました。
西條八十も文学的な詩を書いていましたが、大衆に愛される歌謡曲の作詞もどっさりつくりました。
投稿: みやもと | 2010年12月15日 (水) 20時50分
> 日本の音楽関係者にもそういう考えの人が多いようですが・・・
私がよくアクセスする曲に対するコメントです!。
見まいと思えど、見えてしまい!。
つい、しょんぼり!。
表現の自由か?。
唄ってる人は、れっきとしたプロ!。
名誉棄損では?。
内容は、 ↓
『なんと品のない歌にしてしまったことか。』
『あなたの歌うべき歌じゃない。』
ただ、ただ、寂しい!!!我が心。
投稿: 寂しい寂しい心 | 2010年12月16日 (木) 07時06分
《蛇足》の《蛇足》
《蛇足》で紹介されている5つの小説は1冊も読んだことはありませんが、石原慎太郎が、福永武彦の「『草の花』だけは戦後の日本文学の中で最も美しい青春小説」で感動させられたと三島由紀夫にいったところ、三島は「あんなもの肺病病みの文学だといい捨てた。」のは心外だったと書いています。
---『三島由紀夫の日蝕』あとがき(石原慎太郎著・新潮社・1991.3)
投稿: 蘊蓄博士 | 2011年2月19日 (土) 16時41分
蘊蓄博士様 同じ穴の貉だと思っていた慎太郎と三島がこんなに違うのかと思った覚えがあります。昭和32,3年頃の週刊朝日が裕次郎特集をしたとき、裕次郎が兄に勧められて読んだ『草の花』に感動したと書いてありました。不良だと思っていた裕次郎がちょっと違ってみえました。お暇がありましたら一度『草の花』お読みくだされば嬉しく思います。
投稿: ハコベの花 | 2011年2月21日 (月) 00時01分
高原の駅よさようならの歌碑が、浪江駅前にあります
が、原発事故で今は行けません。
作曲した佐々木俊一の出身地がここなので宿泊した
旅館も知っています。
お姑さんが旅館の手伝い(親類だった)をしてた時の
作曲家の先生の印象が最悪だったようで、わたしの様
な評価はしてくれませんでしたね。
投稿: のんのん | 2013年5月25日 (土) 11時06分
古い歌ですが、最近、このブログで知った私には新しい歌です。私が2歳の時にできた歌です。
なんとも、たまらん歌ですね。なんというか骨董品に似た魅力があります。
歌詞に「云わず語らず 心とこころ」とありますが、古いですねえ。
気持ちはわかりますが、鎖国はとっくに終わってますし、その考え方は、外国人には通用しません。ディベートや自己アピールができないとダメな時代です。夫婦も家族も会話が大事とエライ先生が言ってます。以心伝心はもはや難しい。
しかし、言葉では伝えきれないのがこころですから、その意味で正しいと思います。正しいというより、なつかしいこころの構えです。
この映画のラストシーンは印象的で、YOU TUBEなどで見られます。信濃追分駅に入る汽車と、それを追って併走する馬上の田崎潤と香川京子の姿。感動的ではあるんですが、なにかそこだけ西部劇みたいで、私には浮いたシーンに見えるんです。真昼の決闘か、なにかのシーンと重なってしまうのです。率直に言って可笑しい。
当時の観客は、香川京子と水島道太郎の駅での別れが間に合いますようにと、手に汗を握ったんでしょうね。うーむ、というほかないです。
今ならケータイがありますから、「じゃ、今日から毎晩電話は忘れないでね。駅の見送りは無理みたいだから」ぐらいのものですね。そうなると馬を走らせる理由がなくなります。味気ないじゃないですか。
もしも、その頃、ケータイがあったら、当時の名作映画の多くの情緒は失われているだろうなあと、さらに妄想が広がったしだいです。ケータイって怖いですね。
投稿: 越村 南 | 2013年6月 3日 (月) 20時09分
小学生だった私の大好きな歌でした。
映画は見ていません。
ラストシーンに馬が出てくると知り、なるほどと思いました。
この頃には、もう、バスもトラックも走っていました。
この歌が流行る少し前までは、バスもトラックも小型車も無く、道路の中央を通るのは荷馬車でしたから、、。
通学中に、通りかかった馬車に腰掛けようとして、見つかって逃げた事が何度もあります。
少し前までは、馬は、町中で毎日見かける動物でした。
町中で馬車を見る事が無くなっても、まだ高原に馬はいたでしょうね。
市の外れに有った「馬市」も、まだ廃止されていなかった時期です。
馬と関連して、懐かしく当時を思い出し、感無量です。
投稿: やちねえ | 2013年12月26日 (木) 05時06分
上記コメントに刺激されて・・
馬車の荷車、神戸育ちの私は見たことがないです。
通勤・通学用のボンネットバスが二車線の道路を走っていましたから、馬車が走ると邪魔だったでしょう。
ただ「ロバのパン屋」というのが、小学生の頃、流行り、音楽を流してやってきました。「ロバのおじさん、ピンカラリン・・」とかなんとかいう曲で、それを聞くと、パンのショーケースをひっぱるロバ見たさに、子どもたちが集まってきました。今でいうふれあい動物園みたいなもので、ロバにさわった感触は今も覚えています。
馬に荷車を引かせるのは、大阪でも昭和30年代前半頃までみられたと、本で読みましたが、馬のフンの始末はだれがしたのでしょう?おそらく家の前にフンを落とされた人たちでしょうね。現在は、散歩の時の犬のフンのことで近所ともめるわけですから、大きな馬のフンは、今なら裁判沙汰になるかもしれません。馬車の主が袋を持って拾えばよい!いやあ、それでは仕事になりません。
西部劇などでもたくさんの馬が疾駆した後、たくさんの馬糞が残されるでしょう。(そんなことを考えるのは私だけかもしれませんが)町の人々が愚痴もいわずにかたずけたのでしょう。そういう意味では、馬が町に出歩いた時代は、お互い、ぎすぎすせずに生きていたということでしょう。
投稿: 越村 南 | 2013年12月27日 (金) 04時04分
上記の馬の話に関連して、
神戸の町というより、時代のせいではないでしょうか?
私が初めてバスを見たのが、小学校2年(昭和22〜23年)頃でした。
バスとトラックの登場と共に、荷馬車は姿を消しました。
自動車と馬車が同じ時期に道路を通った事は、ほとんど無いのではないでしょうか?
馬の糞はよく見かけました。
(最近は見かけなくなりましたが)段ボールの一種に馬糞紙という物があって、色合いと見た目の質感が馬糞にそっくりで、それを使うたびに命名に感心していました。
馬糞の後始末は、道路の近くに住む人がしていたと思います。
投稿: やちねえ | 2013年12月27日 (金) 08時44分
「高原の駅よさようなら」の軽やかなメロデイーに惹かれて、映画を二度見ました。ラストシーンは四度ほど。そして発見したことを書きます。文学にしろ映画にしろディテールが命と思っている私には、おどろきの場面がありました。
ラストシーンですが、戸田(田崎潤)は、ユキ(香川京子)を後ろに乗せ馬を走らせ、駅のホームで上り列車をまつ野村(水島道太郎)と最後の別れをさせようと、駆けつけます。
その信濃追分駅と馬の走る道は隣り合っていて、しかも上りホームと馬の走る道は、それこそすぐ隣で、木の柵で区切られているだけ。その水島の傍を通って改札口にすべりこみ、「泉くん・・」「野村さーん」のあの有名な別れになるわけです。
改札口に到る前に、二人は木柵をへだてて4~5mの距離、ニアミス状態になっている。馬が爆走すると、あの巨体、ひずめの音も高いはず。なのに野村は背中をむけたままでそちらを見ません、なぜその時だけ耳が聞こえなかったんでしょうね。野村の横には将来の妻になる恩師の娘、啓子(南條秋子)がいますが、彼女もこの時ばかりは耳が悪いのです。
それは最後までじりじりとして、汽車が動き出してから、「やっぱり来てくれたんだ」というクライマックスをつくりたかったんでしょうね。
映画は何度も見ないとわからないといいますが、たくさん見てもいけない場合もありますね。
投稿: 越村 南 | 2013年12月27日 (金) 16時21分
初めてお便りさせていただいています。
今後ともよろしくお願いします。
小畑実の名曲中の名曲ですね!
小生、以前より蓄音機の虜になり、SP盤もこの曲を含め400枚を超えました。
でも、蓄音機の音ってほんとに良いですね!
投稿: 宮原 章 | 2015年1月19日 (月) 21時04分
こんにちは
いつもお世話になっています。
>韓国の文化人も、演歌を純音楽より一段低いものと考えているようです。
>日本の音楽関係者にもそういう考えの人が多いようですが
>古賀政男はそれはいけない、音楽に差別はいらないと主張していました。
これは古賀政男の本に書いてありますが、西條八十も同じようなことを書いていますね。
古賀政男も西條八十もアメリカで認められています。
本人たちもそういう体験をして自信を深めています。
高校生の時に英語の先生が一言もらしていましたが
欧米には日本のように純文学と大衆文学というような分け方はない、
よい文学作品は面白くて感動があるものです、との言葉は忘れられません。
テキストに「モンテ・クリスト伯」に載っていたときの言葉でした。
「レ・ミゼラブル」も「風と共に去りぬ」もそうですね。
音楽でも日本では、映画音楽とか流行歌にかかわる人たちを過小評価する傾向のあるのは、正統派の音楽学校関係者のようです。
正式な音楽教育を受けていなかった古関裕而やゴジラなど多くの映画音楽をてがけた伊福部昭は、実は外国でもその音楽性を高く評価されています。
「パン売りのロバさん」(豊田稔作曲、矢野亮作詞、近藤圭子歌)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%B3%E5%B1%8B
これはラジオ深夜便で聞いたことがあります。
https://www.youtube.com/watch?v=3Ck5JKVaGRM
投稿: みやもと | 2016年4月14日 (木) 20時03分
クラシックでも歌謡曲でも人の心を打つものが音楽だと思います。昔、クラシックの高名なヴァイオリンニストの音楽会に行った事があります。シーンと静まりかえった会場で神経が張り詰めた様な音色は音を楽しむ雰囲気ではありませんでした。それからしばらくしてデパートの片隅でスイスの村の人たちのヴァイオリンの演奏を聴きました。とても楽しく美しい音色でした。これぞ音楽だと思いました。日本の音楽家は几帳面に演奏する人が多い様に思います。それよりも聴いている人が楽しめる音楽を演奏することが大事ではないかと私は思います。
投稿: ハコベの花 | 2016年4月14日 (木) 23時36分
小畑 実の歌もいいですけど、前奏 間奏がいいですね~。
私も高校時代の「風立ちぬ」以来、結核文学の影響で見たこともない八ヶ岳山麓の原村に対する憧れで、ポカポカ陽気の国語の時間などには窓越しのグラウンドを眺めながらぼうーっと夢見ていたものでした。
40年位前から、学生時代の友人が八ヶ岳山麓の甲斐大泉にペンションをオープンしてからは、堰を切ったように信州通いが始まり積年の想いは果たされましたが、高原と聞くだけで私はすぐ小海線の野辺山駅を思い出します。標高1345mJR線の中では、日本一高い高原駅で、10年くらい前までは無人のプラットフォームだけで、目の前に大きなログハウス風のレストランと踏み切りの反対側のテント市場では、高原野菜や(甘甘娘)かんかん娘と名づけた、めちゃ甘いとうもろこしなどが売られていました。線路沿いのコスモス街道と雄大な八ヶ岳を眺めながらの山菜そばの味は絶品でした。
この頃は、もはや結核文学は死語化して、猛烈社員の間では「憧れの十二指腸潰瘍」が、課長昇進の合言葉でした。
投稿: あこがれ | 2017年3月 6日 (月) 18時47分
上記コメントの内、一部 訂正させて頂きます。
① 信州原村(ペンション村) → 富士見高原
② 積年の想いは果たされましたが…(仇討ちじゃありませんので)→長年の想いは満たされましたが…
② この頃は、もはや結核文学…→ あの頃は
投稿: あこがれ | 2017年3月 8日 (水) 16時48分
わたしの父は洋服の仕立屋でした。父は古いシンガー・ミシンを踏むとき、この『高原の駅よさようなら』を唄いながら調子をとっていました。哀愁を帯びたその歌声は今も脳裏に残っています。わたしにとっては特に思い入れの強い一曲です。
わたしは富士見高原病院(昔の高原療養所)へときどき仕事で行くのですが、富士見駅に降りると、この歌と『月よりの使者』を想い起こすことが多いです。映画は場所が違っていますが、正木不如丘(療養所の開設者で文学者)の活躍した当地こそが歌のイメージにふさわしいなあ、と思ってしまいます。
木造の富士見駅は白樺が似合います。鄙びた味の駅蕎麦もわるくはありません。病院には、この曲とは無関係ですが、いくつかの映画の撮影場所が一部残されています。夏の小旅行にいかがですか(そのほうの回し者ではありません)。
投稿: ザジ | 2017年3月 9日 (木) 03時36分
本曲に直接関係ない投稿で失礼します(二木先生解説に「高原療養所」の記載があるので間接的には関係しているかと)。ザジ様の投稿文に「富士見高原病院」の記載があったので、昭和33年の「点と線」以来の松本清張ファンとして“ハタと思いあたることがあり”投稿したような次第です。
松本清張著「聞かなかった場所」(黒の図説シリーズ第7話:昭和46年光文社カッパノベルス)は、農林省(当時)課長補佐が長野県富士見町の高原療養所で療養中の病妻を見舞いに行った帰り道で、妻の不倫相手に復讐するという筋立てでした。清張氏はどういうわけか療養所に関心?があるようで、療養所が登場する作品が多数あります(「眼の壁」「聞かなかった場所」…)。
投稿: 焼酎百代 | 2017年3月 9日 (木) 15時17分
連続投稿で大変失礼します。
「聞かなかった場所」の結末は、高原療養所帰り道の復讐劇の後、課長補佐氏が長野県へ農業指導に行く出張業務が発生したため、復讐劇の後の現場で車に乗せてもらった富士見農協職員と会わないようにするため職員を特別に海外旅行に招待してやれやれと思ったところが、農協職員がそのお礼で長野から農林省に出向いてきたため、驚愕した課長補佐氏が奇声を発しながら脱兎のごとく走って行く後ろ姿が、復讐劇の後の現場の課長補佐氏の後ろ姿と同じだったというオチでした。
投稿: 焼酎百代 | 2017年3月 9日 (木) 16時01分
ザジ様
『高原の駅よさようなら』を歌いながらミシンを踏んでいたお父様の人柄が偲ばれます。
働き者の父親、慎ましく平和な家庭が偲ばれます。
少し 羨ましく思えました。
飲んだくれの父親の歌らしきものを聞いたのはただ一度
、やはりさんざん飲んだくれて帰宅「月が出た出た月が出た三池炭鉱の上に出た~」でした。不断に何か口ずさむような父親だったら家庭は明かるかったはずと詮無い事を考えます。当然~党員教師にオルグもあり得ず屈折のない暢気な少女に育ったであろう~。直接歌に関係のないコメントをお許しください。
投稿: りんご | 2017年3月 9日 (木) 16時24分
7月の下旬にツアーで、「今の福島」を見てきました。その見学先の一つJR浪江駅の駅前に作曲家の佐々木俊一氏の立派な歌碑が建っていました。2013年5月25日の「のんのん」さんの記事の通りです。
浪江駅~小高駅間が来年の2018年4月1日に運転再開されるとのこと。「ここは、高原の駅では、ありませんが・・・」とツアーのガイドさんが断っていました。昭和23年生まれの私でも、この曲は、聴いたことがありましたが、映画化など詳しいことは、知りませんでした。
郷土の英士を大切にする福島の人々の温かさに触れる思いでした。福島のみなさん、がんばってください。
投稿: けんけん | 2017年8月14日 (月) 22時21分
けんけん 様
「今の福島」ツアーと言うのがあったのですね。
現地を見ていただき、有難うございます。
私は、福島県いわき市のすぐ南、茨城県日立市で、定年有機農業を営む者です。昭和22年、今の北九州市生れです。
私も、国道6号が車での通過が許可されてすぐ(2、3年前の9月末)、軽トラで、南相馬市まで往復しました。当時は、交差する道は全て、バリケードが設置され(信号は全て黄色の点滅)、入れませんでした。
当時、未開通であった「常磐高速道」は、工事を急いでいち早く全通したのに、JR常磐線が未だに未開通である事を怪訝に思っています。超豪華観光列車なぞを走らせる場合ではないと思います。某電力会社に補償を求める資格は十分にあると思いますので。
放射能事故後、改めて、福島県には、歌謡曲の関係者が多い事を知りました。浜通りから会津へ、佐々木俊一、霧島昇、古関裕而、野村俊夫、丘灯至夫、春日八郎、猪俣公章さん等々。
あの世の彼らは、故郷の現状をどのように思われているのでしょうか?
投稿: 竹永尚義 | 2017年8月16日 (水) 17時19分
物語が見えてくるようなこの歌、好きな歌の一つです。私はキーが高すぎて歌えませんが亡母がよく歌っていたのを思い出します。ところで水島と香川の映画の方ですが、確かにラストシーンは駅(信濃追分駅といったでしょうか)で二人は別れますが、二人の恋は当人同士はもちろん周りも既に認めていてなにより許婚者の恩師のお嬢さんまでが認めているので、いったん水島が東京に帰っても「必ず迎えに来るから待っていてくれ」、「待っています」ということで別れます。したがって映画では悲恋でなく恋愛が成就するハッピーエンドの物語だったと記憶していますが、そんなことを言ったら歌の趣がだいなしになるでしょうか。
蛇足ですが香川を水島の乗る汽車に間に合うよう馬の後ろに乗せて駅まで届ける青年の純なダンディズム
の方が胸にじんときます。この青年は香川に心を寄せていて周りも二人はよいカップルだと思っていたのです。
投稿: 林 滋 | 2017年8月18日 (金) 18時16分
昭和の20年代、「高原の駅よさようなら」の唄が流れ始めたころ高原の駅がなくなると言って、近所のおばあさんたちが危惧していたとの噂を聴いたことがありました。事実だったのか笑い話だったかよくわかりませんが・・・。まだ、情報の少ない時代のことです。高原を「たかはる」と読み違えてのことです。
私の故郷を走るJR吉都線の一つ駅名が高原(たかはる)です。廃線の危機に直面しています。本当に「高原の駅よさようなら」にならないように祈るのみです。
私の数少ない愛唱歌です。
鐵哉
投稿: 岡元鐵哉 | 2017年11月13日 (月) 21時45分
岡元鐵哉様
新燃岳の降灰はいかがですか?
稲刈りはいかがでしょうか?
高原の皆さま方が予期せぬ降灰の被害に遭っていらっしゃる報道番組を観ました。
高千穂の峰の山頂の逆鉾の所有は霧島東神社ですよね。
今は御池付近も紅葉が綺麗な時期でしょうね。
JR吉都線の高原駅は高原を愛される皆さまのシンボルの駅ですね。是非 残して欲しいですね。
20数年前 都城でお世話になり穏やかな田園に恵まれた高原を何度か訪ねた者の一人です。
投稿: けん | 2017年11月13日 (月) 23時23分
岡元様、JR吉都線の高原駅はそういう話があったのですね。貴兄の故郷の近くですか。まだ、行った事はありません。
学生時代、近くの京町にいきました。友人が近くの著名な高原に連れて行ってくれたのです。今で言う草スキーをしたようです。どうも記憶があいまいです。
投稿: 今でも青春 | 2017年11月16日 (木) 21時11分
2017年8月14日 浪江駅の歌碑を紹介した者です。コメントの多くが、映画についてのため、私もこの映画を観てみたくなり、レンタルなどで捜して見ましたが、見つけられず、アマゾンで、1480円のDVDを購入して、観ることができました。
看護婦の泉ユキ(香川京子)と植物学者の野村俊雄(水島道太郎)が最後に周りの温かい援助で結ばれるというハッピーエンドの物語。
馬車や馬は、西部劇を連想しましたが、俳優の若い頃の田崎潤を見ることができました。駅はいつ出てくるのかと思っていましたが、ラストシーンで 「しなの追分」駅がでてきました。現在は、しなの鉄道で無人駅ですが、この場所にも歌碑があったら…と思いました。
投稿: けんけん | 2017年12月 3日 (日) 15時31分
小畑実さんの歌声は、力みを殆ど感じさせることなく、甘く、軽く歌うところが、大きな魅力だろうと思います。
「高原の駅よさようなら」は、私の青春時代に流行った、思い出に残る歌です。当時、石川県小松市の高校2年生だった私達一行は、修学旅行で九州地方を旅しました。阿蘇、雲仙、長崎と廻ったと記憶していますが、旅も押し詰まったころ、バス・ガイドの美しいお姉さんが、バスで移動中に、この歌を歌ってくれたのです。大変印象的で、特に♪またの逢う日を目と目で誓い…♪の部分は、旅するものにとって、心に響くものでした。
小畑実さんの歌で、私のお気に入りで、最近、カラオケでよく歌う歌は、♪小鳥さえずる 森蔭すぎて…♪の「アメリカ通いの白い船」(石本美由起 作詞、利根一郎 作曲 S24)、♪静かに静かに 手をとり手をとり…♪の「星影の小径」(矢野 亮 作詞、利根一郎 作曲 S25)です。いずれも、詩情あふれるか歌詞と長調の美しいメロディが一体となって、心地よい境地に誘ってくれます。
投稿: yasushi | 2018年1月29日 (月) 13時45分
この唄にご投稿の皆様
この唄の映画に出演の香川京子さんは、私の住む茨城県のご出身(麻生町)、作曲者の佐々木俊一さんは、常磐線のさらに先、福島県浪江町のご出身。放射能事故で、仙台までまだ未開通です。
私は、北九州市の生れ育ち、今、茨城で定年有機農業をやっています。「けん」様、「今でも青春」様の話題に出ているJR吉都線、高原(たかはる)駅は行ったことはありませんが、茨城に就職した後(若い時分の)、気の迷いで、日豊本線、都城駅経由で鹿児島に行った思い出があります。九州方面では、「原」を「はる」、「ばる」と発音する事を思い出しました。
「中原」は「なかばる」、「原田」は「はるだ」といった具合です。
何とか、廃線の危機を乗り切って欲しいですね。
投稿: 竹永尚義 | 2018年1月29日 (月) 18時08分
竹永尚義様
「私は、北九州市の生れ育ち、今、茨城で定年有機農業をやっています」の自己紹介、親近感を感じます。
私は満州・奉天市生まれ、昭和21年9月(3歳半)コロ島から博多港へ引揚げ、父の故郷熊本へ、高校卒業までは熊本で育ち、首都圏大学卒業後は転勤族でした。
先輩から「仕事に惚れろ、土地に惚れろ、女房に惚れろ」と教えられました。
鹿児島・宮崎・熊本など南九州での仕事をしたので高原(たかばる)、都城(みやこんじょ)、鹿児島(かごんま)には友人もいます。友人で竹永さんのように有機農業をしている人もいます。頑張って下さい。
二木先生の「高原の駅よさようなら」を通じて、茨城出身の香川京子さん、佐々木俊一さんのことを知ることができ嬉しく思います。
茨城はNHK朝ドラ、大相撲、観光などでも話題が多くありますね。これからもどうぞよろしくお願いします。
投稿: けん | 2018年1月29日 (月) 23時33分
けん 様
満州・奉天⇒葫蘆島経由博多港に引き揚げられたとの事。
私は昭和22年生れですから、人生の先輩ですね。
田端義夫さんの「帰り船」に込められた気持ちも理解できる世代です。
私が今、定年農業をやっているのも、幼い頃、食糧を手に入れる為の親の苦労を長男として、見聞していたからです。
けん様のご家族も難民として、筆舌に尽くしがたい大変な苦労をして、帰国されたのでしょう。私の親戚にも、中国・上海方面から引き揚げた方がいました。「ほとんど無一文で」と言う様な話は聞いていました。
当、日立市は、昨夜、少し降雪があった様ですが、陽が昇ったら圃場へ出かけます。
お元気で。
投稿: 竹永尚義 | 2018年1月30日 (火) 06時49分
私は、生まれも育ちも横浜。横浜の真ん中、中区伊勢佐木町でした。国民学校2年の時、横浜大空襲に遇い、野毛山の崖に刳り貫いた横穴の防空壕で、命だけは助かりましたが、祖父は逃げ遅れて焼死(父は出征中)、家財等全ては焼失しました。食料もない中、親戚の好意で何とか食いつなぎ、命だけは長らえることができました。まもなく終戦。占領軍(GHQ:実質は米軍)が焼け野原だった中区を占領し、かまぼこ兵舎を敷き詰め、伊勢佐木町の野沢屋百貨店は米国の第八軍(日本の占領軍の主部隊)の司令部にされていました。そして、末吉町には、飛行場まで作られました。昭和25年サンフランシスコ条約によって、日本が、占領状態から解放され、中区も次々と接収解除されましたが、昭和30年頃までは、空き地のままでした。飛行場にされた末吉町一帯は、広大な空き地。中学生だった私たちが草野球をしたりする場所でした。盆踊りやのど自慢演芸会の会場にも使われました。
そののど自慢演芸会で、しばしば唄われたのが、「高原の駅よさようなら」でした。私が、中学3年のときハーモニカでこれを吹いた人が居て、それが素晴らしく上手で、観衆をシーンとさせ、圧倒的支持を得て優勝しました。
私もハーモニカは少しやっていましたので、あの人のようにうまくなりたいと思って練習したのですが、教わる人もなく、一人でやっているのでは、時間もないので(夜は吹くと怒られるので)、あの名演奏の足下にも及びませんでした。
この曲は、メロディーが素晴らしく、前奏、間奏もよいし、私の一番の成長期に出会った歌なので、今でも私の心に残る重要な歌となっています。
投稿: 雛十四 | 2018年4月20日 (金) 06時05分
偶然にも、福永武彦「草の花」の記事を見つけました。学生時代から50数年、今も最も好きな作家と作品です。どうもありがとうございます。
投稿: 神野弘 | 2021年6月 8日 (火) 21時07分
子どもの頃、ラジオからよく流れていました。
私にとっての「高原の駅」は、長野県南牧村にあるJR小海線の「野辺山駅」です。隣の清里駅はペンション群で賑わっていますが、野辺山駅は高原野菜や牛の放牧されてる高原にありやや寂しいところです。この駅の近くにJR(旧国鉄)最高地点があります。
1975年(昭和50年頃)少し前にこの駅から少し上った八ツ岳高原で3年ほど仕事したことがあります。10人くらいの同年代の仲間と合宿状態で泊まり込みでした。
夏は避暑地で快適なのですが、冬は凍結状態でとても寒い思いをしました。しかし、今となっては楽しい思い出です。
ブログ・ハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。ありがとうございました。
投稿: ゆるりと | 2024年7月18日 (木) 06時11分
懐かしい歌が出てまいりました。
昭和27年、私が上京した頃盛んに聞こえていた歌でした。
そのころは高校受験準備の頃、高校に入ってからは英語の歌ばかりを覚えようとしていた頃。 それでもこの歌はなんとなくいいなと思って歌詞も覚えこんだのでした。 まだ歌詞のほんとの意味は分かってはいなかったんでしょうけど。
この歌については別な思い出があります。
昭和35、6年、ロスアンジェルスに居た頃、なんとなくある日本の宗教団体と知り合い、その現地支部(教会宿舎)にときどき遊びにいくようになりました。 私はその宗教には関係が無いのですが最初に日本人街で出会ったそこの青年と気が合ったんですね。 教会の人たちは信者でもない私にもとても親切でした。 (ロスには二世の人たちはかなりいましたけれど、日本からの渡来者は、企業領事館の駐在員、学生ぐらいで少なかったし、その人たちはまず宗教団体には来ません)
そこに出入りするようになった最初の頃、私の歓迎会だというパーティーを開いてくれました。 そのとき若い事務長さんが唄ってくれたのがこの「高原の駅よさようなら」でした。 それも唄うだけではなく振附つきなのです。 勿論本式ではなく冗談的に。 しばし別れの、、では後ろ向きで振り返って手を振ります。 またの逢う日を、、で両手を膝にあてて開いている膝をチョンと閉じます。 目と目で誓い、、で人差し指をチョンチョンと目にあててその指を十字に組んでゲンマンみたいにきゅっと締めます。 それが言葉が悪いのですがまことにぶきっちょなのに懸命にやってくれて、おかしいというよりも、胸が熱くなってしまいました。
その後ときどき日本食を食べにおとずれましたが、二世の人々たちを含めみんな優しかったですね。
一年半過ぎ、帰国する時に送別会をしてくれて、そのときに事務長さんがまたあの振附つきでこの歌を唄ってくれました。 その時はもうほんとに涙がとまらなかった。
今、このメロディーを聴きながらあの頃のことを懐かしく振り返っています。
投稿: 田主丸 | 2024年7月18日 (木) 19時30分
もう何年も前のことですので、記憶は定かではありません…。信州はドライブ旅行でよく出かけておりましたが、ある時、たまたまJR中央線の富士見駅周辺をぶらぶらしておりましたら、国道に面した(と記憶します)場所に「高原の駅よさようなら」の石碑を発見し、ちょっとした感動を覚えたことがありました…。
投稿: ジーン | 2024年7月21日 (日) 21時39分