雨
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:北原白秋、作曲:弘田龍太郎
1 雨がふります 雨がふる 2 雨がふります 雨がふる 3 雨がふります 雨がふる 4 雨がふります 雨がふる 5 雨がふります 雨がふる |
《蛇足》 詩は大正7年(1918)9月、『赤い鳥』に発表されました。曲の発表は大正8年(1919)8月。
弘田龍太郎のほか、成田為三も曲をつけています。成田為三の曲は長調で、テンポもかなり速くなっています。
上の絵は、『「赤い鳥」童謡 第壱集』(ほるぷ出版刊)に掲載された清水良雄の挿画。
1番の「かっこ」は下駄の幼児語。木履(きぐつ)は古代~中世に履かれていた木製の淺靴ですが、のちにポクリという発音で下駄の類も指すようになりました。
ポックリという場合は、前後を丸くし、前の底部を斜めにした女の子用の下駄を指すのが一般的です。
(二木紘三)
コメント
今は梅雨時。『雨』―懐かしい童謡です。
小止みなく降り続く雨の中、「遊びに行きたし 傘はなし」「紅緒の木履の 緒が切れた」。ならば仕方ありません。イヤでも家に閉じこもって、「千代紙折り」「お人形遊び」などの一人遊びで過ごすしかありません。
この歌から見えてくるのは、大正時代のどちらかというと貧困家庭の女の子の姿です。当時の、雨に閉ざされた家の中のうす暗さと貧しさと。そのようすを、北原白秋の歌詞と広田龍太郎の曲調とが見事に描き出しており、この歌全体に何ともいえないもの悲しさ、哀感がただよっているように感じます。
ところで今ではこんな良い歌を、学校でもあまり教えなくなっているようです。理由はいろいろあるのでしょう。「今の時代にそぐわないから」「童謡にしては暗い歌だから」…。
以前『うれしいひなまつり』で、時代遅れ様がそのことについて大変意義深いコメントをしておられました。私も全く同感です。大人たちが「健全な明るい歌」ばかりをピックアップして、子供たちに与える。これで本当に、子供たちの豊かな情操が養えるのだろうか?私は大いに疑問だと思います。
とにかく、今後とも長く残っていってほしい童謡の一つです。
投稿: 大場光太郎 | 2008年6月23日 (月) 19時31分
私はこの歌が子供の頃から大好きでした。子供心でもセンチメンタルな情緒に包まれ、泣きたくなるような気分になりました。その頃は詩歌も北原白秋、石川啄木、若山牧水、吉井勇、室生犀星、宮沢賢治、などなどみんなセンチメンタルなものばかり。やはり時代が貧しかったからだと思います。だから、我々の年代のほとんどの人は、今でも明るい詩よりもセンチな感じの方が好きなのではないでしょうか。演歌を好きなのもつながると思います。
だから、今の若者が「暗い」と言って演歌を嫌うのは、よき時代の証とも言えますね。ある意味では我々の頑張りもあって喜ぶべきことだと思います。
でも、それと上記の皆さんがおっしゃる「暗いことは捨てて明るいばかり、難しいことは避けてやさしい表現ばかり」の現代の風潮をよしとしないことは言うまでもありません。
それと関連しますが、昔は大人の本にも振り仮名が付いていたので、子供たちも難しい本を平気で読みました。子供だって馬鹿にできない。色々な本を読んでいくうちにどんどん理解の幅が広がっていきました。だから、漢字も教わらなくたって自然に覚えてしまいましたね。現在もそうしてもらいたいと心から思います。
投稿: 吟二 | 2009年5月10日 (日) 00時02分
雨が降ると農作業に出られない大正生まれの母は、家の中にいて粉をこねて団子を作ったり、それが終わると針仕事の繕い物をしていました。幼い私は母が家にいるのがとても嬉しくて、団子を丸める母の手をじっと眺めたり、針仕事をしている母の傍で端切れなど貰って遊んでいました。そのときに母がなんとなく口ずさんでいたのを思い出しました。
投稿: せつ子 | 2010年8月 2日 (月) 00時57分
単純な節回しです。わらべうた と言えます。ーー 古里まとめて花一匁 蓮華のお花や菫のお花 ーー安曇に 一にぎりの子供がうたっている ほんとうにみじかなものがありました。とっても忘れられないで いまもときどき 声にだして唄いながら朝早々と散歩にでます。古い童謡や叙情歌など小一時間くらいなら種切れしないですむくらいに数をため込みました 歳をとってからの楽しみになっています。これらも仲間にして。 けれどもこれからの時世の中でみんな滅びてゆくものばっかりでしょう。そうとしか判じられないのです。
投稿: 久保田甲司 | 2010年8月22日 (日) 23時09分
暮れの雨です。
窓の外を見ても何も変わらぬ景色。
句作の脳内吟行も黴が生えてきそうです。
みんな独立して独りでボロ屋を守ってます。
この歌を聴くと5歳ぐらいのたきちゃん(名前も曖昧)の物凄い分限者と貧しい河童の落差を感じます。
お袋が何時も雨の日は遊びに行っては駄目だよと叱っていました。そうだと思います。ゴム下駄で玄関に入るとたきちゃんのお母様が足を洗ってくださるのです。
たきちゃんの家は竜宮城みたいでした。卓上ピアノや見たことも無い絵本がたくさんありました。食べた事も無い羊羹や金平糖が美味しいでした。美味しい飲み物がカルピスだった事はもっと大きくなってからでした。
戦後のどさくさの頃にも金持ちはいたんだなあと思う次第です。雨の歌は河童にはほろ苦いけどいい歌です。
投稿: 藻川亭河童 | 2010年12月13日 (月) 11時38分
駒込のアパートで独り暮らしをしていた時のことです。
ある日銭湯に行くと、レコードからこの曲が流れてきました。どうしょうもなく涙があふれてきて、着衣を脱ぐ間に、顔はくしゃくしゃになっていました。
風呂から出ても、アパートに帰って布団に入ってからも涙が止まりませんでした。
とめどなくあふれる涙とは、こういうものかと、その時初めて知りました。
大正生まれの母が、学童前の私に、雨の日に足袋のつぎあてをしながらうたってくれた歌だったのです。
涙でぬれた枕は冷たくて、タオルをしいて・・・いつの間にか寝ていました。泣きはらした目で、会社に行きました。
母が92歳で亡くなった後、染井銀座に行ってみました。。
あの銭湯は見つかりませんでした。もうないのかもしれません。
私今、63歳です。
投稿: 里子 | 2012年3月26日 (月) 14時41分
里子さんのコメントを4年後初めて読みました。ある歌がきっかけで、あの時のことがフラッシュバックして、突然涙が溢れ出る、あの時が悲しく懐かしく思い出される、これはある意味では甘美な思い出ですね。特にこの歌は雨が哀切を誘いますね。
私も昔、母に先生から給食費がまだだからお母さんに言ってくれと言われて、家に帰って母に言った途端、母はくるりと背中を向けて、空いていた押し入れの布団の方で肩を震わせて泣きました。これは歌がきっかけではないけれど、それ以来、母が出てくる歌を一人で歌うと泣いて歌えなくなることが良くあります。
投稿: 吟二 | 2016年2月 1日 (月) 21時18分
昭和21年に小学校に入学したとき、学校の校舎が戦災で焼失してしまい、神社の庭で青空教室が始まりました。お天気の良い日は授業がありましたが、雨の日は傘のある子だけ来て出席だけ取ってお帰りでした。傘の無い子が沢山いました。私は15歳も年上の姉が使ったこうもり傘があったのでしばらくはそれを使っていましたが、2年生の時は子供用の唐傘をさしていました。それもなかなか手に入らずくじ引きで当たった物です。何でも配給でくじ引きでした。傘も粗悪品で強い風が吹くとすぐ壊れてしまいました。家庭訪問の先生が我が家に来られた時、父が「あんな日に学校なんて休みにしろ、傘が壊れてしまったじゃないか」と怒鳴りました。母はおろおろ、学校より、生きていく方が大切な時代だったと思います。皆、貧乏で汚い子供でした。今の子供には想像も出来ないでしょうね。
投稿: ハコベの花 | 2016年4月27日 (水) 14時50分
小学校の何年生だったか。自分と同じ年頃の女の子のいる母の友人の家に遊びに行きました。雨がしとしとと降っていました。外で遊べずにいたら、女の子がソースチャーハンを作ってくれました。二人きりだったのか、そうでなかったのか、覚えていませんが、降り続いていた雨と具のないチャーハンのソース味だけを覚えています。
投稿: omuraisu | 2016年6月15日 (水) 22時28分
ネットで歌を聞いていましたら作詞者が白秋でなく「江口章子」となっていました。アレッと思ってネットで調べてみましたら以下の紹介に行きあたりました。
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「江口章子」については種々の情報を見ることができる。
○白秋を恋した女「江口章子」
日本演出者協会正会員
大分県民演劇・会長 中沢 とおる氏
http://www.pref.oita.jp/10400/viento/vol02/p14_17.html
地図、写真ありの充実した内容である。
この中では「雨」の作詞は「江口章子」となっているが、確証もなく、推定の域を出ていない。
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江口章子氏、凄まじい運命をたどられた詩人だったんですね。驚愕しました。
投稿: yoko | 2016年6月16日 (木) 07時40分
この雨の詩は、幼い心に映る雨の様子を、天才詩人白秋の深い心でとらえ子供たちに残してくれた、童謡史上屈指の名作と思います。根拠無くこれを白秋夫人江口章子さんの作とする人がネットにあるようですが、白秋が人の作品を自分の作品と称する人とされて悲しみますし、白秋を愛した江口章子さんのお心にもそむくと思えます。白秋ほどの人なら、これが彼女の作ならこの詩のすぐれていることに心を打たれ、真の作者の名を出すと思います。
投稿: 加藤 | 2016年6月18日 (土) 11時54分
月の砂漠同様に涙が勝手にあふれてくる歌です。
里子様、ハコベの花様、取り分け吟二様のコメントには涙を誘われました。
雨と言えば、昭和33年当時(小5)一クラス50数名の教室に必ず傘を届ける一人の母がいました。
彼の家はクラスでも5番以内に学校から近い距離でした。
俊足の男児は濡れて走って帰宅してもたかがしれています。そっと遠慮がちに傘を差しだす母親からきまり悪そうに受けとるのでした。誰言うとなく他所村ながら義理の母であることが知れ渡っていました。一方、クラスでも遠距離の5番以内に入る私には、どんな土砂降りでも一度として傘は届きませんでした。
投稿: りんご | 2016年6月18日 (土) 15時37分
この歌はなぜこんなにも涙をさそうのか、その理由は最初’弘田龍太郎の曲’にあると思ったのですが、いやいや白秋の詩も十分に暗くて悲しいです。
千代紙を折り、お人形と遊び、紅緒(べにお)の木履(かっこ)をはく幼女は地方の豪商のもとで豊かに育った江口章子を彷彿とさせます。しかし次の句になんらかの将来への不安と不吉な予感を感じさせます。
雨が降り止まない、傘がない、木履(かっこ)の緒が切れた、小雉子(こきじ)が今啼いた、小雉子も寒かろ 寂しかろ、お人形は寝付いた、
当時の白秋と章子の結婚生活は貧乏のどん底であったそうです。そのようななか白秋は章子をこの詩のモデルにしたのかもしれないと想像します。
幼少期の思い出は父母とか故郷への思いを連想させるものです。私はこの歌は童謡『故郷』と対極にあるかのようにとらえました。陰と陽です。『故郷』では父母も友達も健在で故郷に錦を掲げて帰り、暖かく迎えてくれる人と自然が描かれます。しかし、章子のたどったその後の生涯は白秋とも対極的に痛ましく不遇で薄幸なものでした。このような章子を哀れんだ人が世間に章子を知ってほしいと願いをこめ、章子への手向けとしてyoutubeに江口章子作詞と偽っての『雨』を載せたのではないでしょうか。その意図は私には伝わりました。
『雨』とは直接関係ないのですがこの詩から私に連想でき哀れみを誘う章子の句を三首知りました。
ふるさとの
香々地にかへり 泣かむものか
生まれし砂に 顔はあてつつ
なにゆゑに
うらぶれはてて
故郷へはかへり来し
いまさらにうらぶれの身の
かへるまじきは
ふるさとと
砂白き浜にしるさむ
投稿: yoko | 2016年6月19日 (日) 08時56分
yoko 様が挙げられた歌の他に、江口章子さんの歌
ひとときの君が友とて生まれ来て女のいのちまことささげつ
は、白秋が亡くなったことを新聞で知って詠んだ歌だそうです(笹本正樹「北原白秋の童謡とその深層心理」)。別離の痛みをしのばせる「ひとときの」から「まことささげつ」への気高い調べに感動いたしました。(この歌は中沢とおる氏の文章はじめいろいろなブログで、最後が「ささげつ」でなく「ささげん」となり、挽歌でなく恋の歌とされています。どちらが正しいのか私には確認できません。ただ、「ささげん」という恋の歌だと「ひとときの」の意味がとれなくなりそうに思えます。)
りんご様の言われるように、この二木先生のブログへのご投稿の人生経験を拝読し涙が出る事がよくあります。ことに吟二様のご投稿に涙があふれ落ちました。
投稿: 加藤 | 2016年6月25日 (土) 03時29分
5番の
雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる
同じ言葉のくり返しに、催眠術にかかったような、陶然とした気分になってきます。
三好達治の『草千里』の最後も
雨が降ってゐる 雨が降ってゐる
雨は蕭々と降ってゐる
というくり返しです。「雨が降る」という言葉は、なぜか心の深淵部に強く響いてきます。
吟二さんの給食費のお話、まったく同じような思い出があります。昔は、先生が集金をしていました。今では振込みの支払いでスマートですが、人の営みが見えにくくなっているように思います。当時の心ある先生は、子どもに(間接的に)お金の督促をするのはつらかったでしょう。私の場合は、給食代がすぐには払えないことを知って、大人の世界にすこし近づいたような気がしました。正しくいえば、井原西鶴の『世間胸算用』の世界です。(笑)
投稿: 音乃 | 2016年6月25日 (土) 07時28分
最近の子供は幸せですね。雨の朝,色とりどりの傘をさして登校する子供たちを見ていると楽しくなってきます。「雨に唄えば」という歌が思い出されます。「シェルブールの雨傘」という映画もありましたね。哀しいけれどほのぼのとした余韻が残る映画でした。傘がなくて子供たちが学校に行けない時代に戻らないようにと願うばかりです。
投稿: ハコベの花 | 2016年6月26日 (日) 21時47分
なち様の、あじさいの紹介に感謝していると、梅桜の季節ながら司茜氏の詩、梅雨、を思い出しました。
やっと
梅雨らしくなった
しとしと降りはじめた
紫陽花が
全身を洗っている
あの日も
しとしと雨が降っていた
アパートの軒先に咲く
紫陽花をみながら
男を待っていた
ずっと待っていた
二日後
雨が降り続くなか
郵便が届いた
紫陽花やはなだにかはるきのふけふ
ただそれだけだった
わけもなく好きな男だったが
涙はでなかった
玉子かけご飯を
お腹いっぱい食べて
町へでかけ
欲しかった真っ白いブラウスを買った
あれから
ふられるほど
ふるほどの恋もなく
紫陽花をみている
投稿: 樹美 | 2019年3月 5日 (火) 17時20分
ある雨の日が思い出されます。
私は畳の上にゴロンと横になっていて開け放たれた障子から雨が降り続けている外を眺めていました。障子の外には縁があってその向こうにはブドウの棚がありました。
外の通りを歩く人もなく風も雨の音もなく雨は真っすぐに天から地に静かに降り注いでいました。葡萄の若葉に受け止められた雨がポタリポタリと滴っていました。雨どいを伝って流れ落ちる雨水がゴボゴボとかすかな音を立てていました。
私はその雨を眺めながらなんて静かで美しい不思議な日なんだろう、と感じていました。そしてもしかしたらこの日のことを将来もずっと忘れないでいるかも知れないと思ったのです。まさにその通りになりました。
中学生の頃だったと思います。
話しは変わりますが、幼稚園のころ近所にタカちゃんという女の子がいました。2~3才年上の子です。彼女が「遊びましょう」と誘ってくれたことがありました。彼女の家の縁でおはじきをしてあそびました。おはじきにあきて彼女はお手玉をして遊び始めました。私はその日のことが嬉しくてその後もずっと、彼女がまた遊びに誘ってくれるのを期待して待っていたのですが、その後彼女からの誘いはありませんでした。
大人になってから母に、「昔近所にタカちゃんていう女の子がいたよね」と問うたことがあります。「大阪に行った子だよね、死んだと聞いたが・・・」と母は答えました。
彼女のお父さんには私に竹馬を作っていただいとことがあります。彼女の家族が皆いなくなって、家は永く空き家のままでしたが今では更地になっています。彼女の顔も思い出せません。
タカちゃん、死んでしまったのか・・・
会いたいなぁ・・・と思います。
投稿: yoko | 2019年3月13日 (水) 23時15分
yokoさまの本格的な書き出し、何かが始まる予感、久しぶりの掌編ノンフィクション投稿文ですね。
投稿: konoha | 2019年3月14日 (木) 08時54分
「雨」今でこそ、何と素晴らしい童謡だろうかと私に思わせてくれるこの楽曲ですが、その傍らで今をもってしても、忘れられない幼少のころの体験が思わずフラッシュバックしてしまう、私にとってこの童謡はそんな作品です!
絵空事のように思われがちな話ですが、私の記憶に今も根強く残っているのは、物心ついたころから小学低学年のころまでの我が家は、事情が重なりその日の飯にさえありつけるかどうかという、そんな極貧生活でした。
振り返れば、当時の我が家には骨がへし折れた、父用の大きな黒い傘が一本あるだけでしたので、雨が降ると学校までは濡れていくしかなく、駆け足登校が日常で、濡れたまま授業を受け、時には風邪をひいて寝込んだこともありました。
小学三年生のとき、学級費の15円が払えず、担任の先生が弱った顔をしながらも、我が家の事情を察してか私の頭をやさしく撫でてくださったこともありました。
そして、ある雨の日の職員室でのこと、その女先生は、この傘はうちのお兄ちゃんのお古だけど、よかったらあなたが使う?と言ってその傘をさりげなく私に手渡してくださいました。私にはそのことがまるで夢のようで、幼心にもあまりの嬉しさで胸がいっぱいになったことがありました。
あれから60年の月日が流れましたが、私は雨の日に人が傘をさして歩く姿を車中から眺めている時でさえも、ふとあのころの、とても美しいお顔で、私にやさしく接してくださった先生のことが想い出されます。
昭和5年にお生まれの『K・N』先生、お元気でしょうか。10歳当時、一方ならぬお世話になったそんな私も、今年は無事に古希を迎えます。先生から私が受けた思いやりの心配りには、未だ足下にも及びませんが、先生から学んだ『親切心』、私の胸に深く刻み込まれたその教訓は、今も私の心の支えであり宝物となっています。最愛のこの場を借りてここにご報告いたします。
投稿: 芳勝 | 2024年1月20日 (土) 14時51分