三日月娘
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:藪田義雄、作曲:古関裕而、唄:藤山一郎
1 幾夜重ねて 砂漠を越えて 2 恋は一目で 火花を散らし 3 急げキャラバン 夜道を駆けて |
《蛇足》 昭和22年(1947)2月、コロムビアよりレコード発売。その前年に、NHK・ラジオ歌謡の1曲として放送されました。
ラジオ歌謡は、「家族みんなで歌えるホームソングを」という戦前の国民歌謡の精神を受け継いで、昭和21年(1946)5月から37年(1962)3月にかけて放送された歌のシリーズです。
太平洋戦争が激化すると、藤山一郎は南方慰問団に参加、2度南方に赴き、戦地で音楽活動を続けました。昭和20年(1945)、インドネシアで敗戦を迎え、インドネシア解放軍・イギリス軍の捕虜となりました。国内では死亡説が流れましたが、それは誤報で、昭和21年(1946)、航空母艦「葛城」に乗船して復員しました。生還後の初ヒットとなったのが、この歌です。
このオリエンタルムードは、久保田早紀『異邦人』の遠い先駆けと言っていいでしょう。
(二木紘三)
コメント
二木先生がしたためられた「二木紘三のうた物語」で、3年近くコメントを寄せられてないのが、この「三日月娘」です。どなたの目にも耳にもとまらなかったのでしょうか。イッポリトフ・イワーノフのコーカサスの風景、ビゼーの真珠採りなど、スラブ風のメロディに幼少の頃から親近感をいだいています。この唄をラジオで耳にしたかはいつの頃か定かではありませんが、慕情の念の芽生え始めは、この唄を聴いてからのようです。オリエンタルな雰囲気に気持ちが浸りたがるのは、遠い先祖の血(遺伝子)が騒いでいるからでしょうか。申し遅れましたが「二木紘三のうた物語」ページには、この2月から入らせてもらっています。
投稿: 山口 功 | 2010年2月25日 (木) 17時20分
山口様のコメントをクリックしましたら、生前母がよく口ずさんでいた懐かしいメロディが流れて、たちまち60余年前にフラッシュバックしてしまいました。わたしはメロディと歌詞の出だしの部分は覚えていましたが、「三日月娘」という曲名までは知りませんでした。お蔭様で曲名ともどもすべての歌詞を知ることができて感謝しております。二木様、山口様ありがとうございました。
そこで、「三日月娘」という聞き馴れないことばのイメージを知りたくてネットで検索していましたら、You Tube で藤山一郎がこの歌を唄っている懐かしい映像に行き着きました。そのなかで、かれはこの歌にまつわるエピソードも披露しています。この歌は解説にもありますように、かれが南方慰問団から帰国して最初の吹き込みだったことや、2番の「恋は一目で 火花を散らし」という歌詞にショックを受けたこと、そのとき平和を実感したことなどを語っています。わたしが下手なコメントをするよりも、まずはYou Tubeで正統派歌手が唄う『三日月娘』の歌唱とかれの懐かしい映像をご覧ください。
投稿: ひろし | 2010年2月28日 (日) 15時58分
三日月娘。僕にとってこれほど好きな曲好きな歌詞はありません 繰り返し繰り返し聴いても飽きがきません。寂しいとき悲しい時疲れたときもつぶやくと何かしらすがすがしい気分になり元気付けられます
この歌を何時までも愛していきます
投稿: 遠藤勇 | 2010年6月13日 (日) 12時00分
ひろしさん、遠藤勇さんこんにちは。「三日月娘」ファンができてうれしいです。今のところ3名ですが・・・少数精鋭というとろでしょうか。今年の二月に、実名の山口でこの歌にコメントを書かせてもらいました。そののち、「亜浪沙」に名を変えて好きな歌に思いをつづらせてもらっています。この歌に登場する娘さんは、作家、井上靖の「敦煌」に登場する目鼻立ちのすばらしく知的なウイグル娘に違いないと勝手な想像をしています。
投稿: 亜浪沙 | 2010年6月14日 (月) 16時41分
山口(亜浪沙)様
この度は同好の士としてご挨拶をいただきありがとうございます。
生前、母は、この歌をよく口ずさんでいましたが、その理由が分かって来ました。それは、この歌が戦後、最初のラジオ歌謡であったことももちろんですが、、それまでの歌謡曲にまったく見られなかった軽快なテンポと、山口様が指摘されたスラブ風の旋律にあったのではないか。さらには、洒落た歌詞のなかでも、とくに2番の「恋は一目で 火花を散らし」にぞっこんだったように思えるからです。戦前・戦中の退廃的なメロディや勇ましい軍歌に辟易していた一般庶民は、この歌の開放的な、明るい歌詞とメロディに戦後の解放感を味わったのではないかと思えてなりません。
馴染みのない作詞家の薮田義雄について、検索してみました。北原白秋の弟子であったこと、教科書向けの作曲や課題曲、校歌つくり、外国歌謡の翻訳詞などで活躍された方のようです。面白いのは、最初のラジオ歌謡『三日月娘』がヒットしたにもかかわらず、かれは流行歌の作詞家に転進せず、純粋詩(詞)つくりに生涯を終えられたようです。わたしがれの名を初見だったのもむべなるかなです。
投稿: ひろし | 2010年6月16日 (水) 23時22分
戦後すぐのころ、ラジオでこの曲を聞きながら「この歌のフシは月の沙漠によう似ちょるのう」と母に言いました。私は童謡・唱歌はみんな母から教えてもらいましたが、そのとき母は「どっちも沙漠やら駱駝が出ちくるからじゃろう」と笑いました。「オリエンタルムード」という言葉を知っていたら母もそう言いたかったのでしょう。
投稿: 林 一成 | 2010年7月10日 (土) 09時58分
三日月娘のファンが徐々に増えてきてうれしいです。林一成様のご母堂がおっしゃった「この歌のフシは月の沙漠によう似ちょるのう」には懐かしさで感動しました。実は、「・・・よう似ちょるのう」は私の郷里の言葉づかいにそっくりです。記憶にはありませんが、私の母もそのように言ってたのかもしれません。
投稿: 亜浪沙 | 2010年7月11日 (日) 11時06分
藤山一郎さん戦後復帰第一弾の歌という事でエキゾチックなメロディながらその歌詞に私は遥か昔 遠くにいた初恋の人に久しぶりに会いに行った時のドキドキときめいたあの時を今思い出させます。好きな歌の一つです。カラオケにあまりないのが残念です。
投稿: たそがれの夢 | 2010年10月20日 (水) 07時02分
NHKの連続ドラマ「おひさま」を観て居ていたら、女学生のヒロインが兄の友人を一目見て玄関で立ち尽くすシーンがありました。50数年前の自分を見ているようでした。初対面の彼を見つめたまま私も立ち尽くした思い出があります。この歌の歌詞の様に「恋は一目で火花をちらし」たのです。彼は19歳、私は16歳でした。ただ見つめるだけで、終わってしまった恋でしたが、友人から「貴女をモデルにしたドラマみたい」とメールが来ました。一目惚れってあるのですね。夢の様な女学生時代があって良かったと思っています。ところで三日月娘ってどういう意味なのでしょうか。
投稿: ハコベの花 | 2011年4月19日 (火) 23時32分
聞き慣れないことば「三日月娘」私見
三日月が西の空に姿を見せているのは夕方の短時間です。満月のように一晩中は見られません。歌詞にある通り、「宵にチラと見た」だけなので、「三日月娘」と形容したものと想います。その娘に一目惚れしたという訳なのでしょう。
投稿: 槃特の呟き | 2011年5月16日 (月) 00時19分
私はほっそりした美しい娘さんのことを三日月娘というのかと思っておりました。何しろ太陽と月と金星しか天体のことは知らないのですから、考えようが無かったのです。どっちにしても美しい娘には違いないのでしょう。今度三日月をしっかり観察してみますね。
学校時代「花王石鹸」という綽名の女教師がいました。三日月と付けなかった上級生のセンスに感心しました。美しいとは正反対だったからです。
投稿: ハコベの花 | 2011年5月17日 (火) 21時09分
「三日月娘」再考。
三日月形の眉をした美女を指すのでは、と云う愛らしい解釈も出来そうですが、「チラと見た」だけで蛾眉の判別は難しいと思います。
なお、病み上がり(闇あがり)のほっそりした身体の譬えに用いるのは三日月より新月の方でしょう。三日月形の「花王石鹸」は「しゃくれた顔」の称として使われたと記憶します。
投稿: 槃特の呟き | 2011年5月18日 (水) 22時48分
槃特の呟きさんの言われるとおり、その女教師はしゃくれた顎の持ち主だったので「花王石鹸」という綽名がついたのです。「三日月」では美女を連想させますからね。綽名はひとひねりしたものがいいですね。良い綽名の先生が何人かおられました。頭のよい上級生に感心したものです。三日月娘はこの歌の作詞者にお尋ねしないと本当の事はわからないと思います。今となっては楽しく聴く事が一番でしょう。
投稿: ハコベの花 | 2011年5月18日 (水) 23時17分
「三日月娘」ファンがこの1年あまりで7名となりました。ペンネームで、ひろし、遠藤勇、林一成、たそがれの夢、ハコベの花、槃特の昡の方々です。つらい年となりましたがエキゾチックな雰囲気にしたるのも天は許されますかね・・・。ところで三日月娘なる人はどんな人なのかと瞑想するのも閑居人の楽しみですね。小生の三日月嬢は、井上靖の「敦煌」に登場するウイグル娘であり、奈良高等女子師範出の若き日本史の先生でもあり、そこへ「いしだあゆみ」さんを重ね合わせての虚像となっています。
投稿: 山口(亜浪沙) | 2011年8月24日 (水) 15時48分
このオリエンタルムードは、久保田早紀『異邦人』の遠い先駆けと言っていいでしょう。いい解説ですね。
残念ながら彼女にはこれを越える曲は無かったような。
投稿: 海道 | 2011年8月28日 (日) 11時43分
古関メロディー名曲解説によれば「詩の内容から(三日月)のようなほっそりした娘と答えたが、果たしてどうであろうか」とコメントが出されています。
昭和22年に恋という字を初めて使ったラジオ歌謡ですから美しくて細身の娘であって欲しい。
投稿: 海道 | 2011年10月30日 (日) 07時59分
♪三日月娘♪のタイトルを見つけた時、幼い頃から月が大好きだった私は、興味が強く湧き、早速聴いてみました!
この曲のイントロが流れ出すと、すぐに自分の好きなメロディだと解りました。そして何度も繰り返し聴き入りました。さらに藤山一郎さんの原曲も聴きました。
蛇足にオリエンタルムードの先駆け!とありますが、この曲を聴くと本当にその通りで、古代文明すら想像します。
幼い頃、アラビア系の女性の顔写真を初めて目にした時、その表情の美しさの中に、瞳の鋭さと何ともいえない神秘性を不思議に感じていました。それは今でも同じです。
この曲の背景を思うと、やはり♪月の砂漠♪が想い浮かび、あえてスローテンポでフランク永井が歌う♪月の砂漠♪を聴いてみましたが、これも独特の雰囲気があり、♪三日月娘♪とは対照的な良さを楽しめました。
1992年38才の時に購入した、福田俊二編著・写真で見る昭和の歌謡史・戦前戦中編・戦後編では、これまで2冊の本の中での写真と数少ない解説で多少は楽しんできました。
しかし私は、昨年10月に運よく♪二木先生の歌物語♪に巡り合えた事により、戦前・戦中・戦後・また高度成長への過程を大人として体験されてこられた尊敬してやまない年長者の方々の貴重なコメントを拝読できる事で、この分厚い本もようやく本当の意味で役立てる事ができています。
投稿: 芳勝 | 2018年1月11日 (木) 23時32分
芳勝さまの真摯なコメントが胸に染みました。
私もシルクロードを連想致しました。
一昨年は弾けたピアノ「月の砂漠」が昨日はしどろもどろでした。70の手習いの悲しさです。
芳勝さまは私の甥 と同年です。私より8歳下です。
この甥の母 つまり私の長姉21歳の時の子供です。
「有楽町で逢いましょいう」でもコメントしたが
姉の青春は青年団活動が関の山でした。
学制の過渡期で中2が最終学歴。農作業の担い手として
早退、欠席が常体化の当時。昭和15年生まれの兄も15歳で畜産農家へ奉公。
障害の姉、養女に貰われたすぐ上の姉。次兄と弟、農作業に明け暮れる母、飲んだくれの父。(嫁した長姉と奉公に出た長兄の穴埋めは 賃払いの農夫,農婦~その方たちへの支払いの為謝金がかさむという悪循環)かつて耕作地の乏しかったその方たちは時代の変遷で裕福な家庭となったのは皮肉です。土地を守りとおした長兄は過労がたたり60歳で車椅子となりました。
話変わりますが、
10年ほど前さとうむねゆきさんのコンサートで「母は音楽の教師で、夕食後母のピアノ伴奏で家族が歌うような環境でした」と言われたことが衝撃的でした。
彼と私はほぼ同い年、」夕食は何時も酔った父の怒声と」反抗する兄の声、ある吹雪く夜は包丁を片手に「おれば殺して」と泣き縋った無力な母でした。その日から一気に党員教師への傾倒が深まり校内文通が始まり高校1年でオルグされました。
思春期に敬う先輩〈両親、姉の資質を鑑みて
)に恵まれなかった寂しさが今 二木先生のサイトで埋められます。
二木先生や同好の同輩、先輩方にお会い出来、含蓄に富むコメントに接する事を生きる縁とする日々です。
投稿: りんご | 2018年1月12日 (金) 11時18分
リンゴ様
いつもお心配り、有難うございます!
長兄様また長姉様のご苦労されたご様子が、伝わってきます。有楽町で逢いましょうでのコメントも再読させていただきました。リンゴ様のお気持ちも伝わってきました。
この♪うた物語♪を通して、どれだけの人たちが癒され、そして心に光を灯す事ができたのか、はかり知れないと感じています。
私事で大変恐縮ですが、思うところがあり、二木先生にあやかりたく、私も、昨年末より、先生の顔写真と同じように髭を生やしました。
日頃の感謝を申し上げるとともに、先生のご健勝と、このサイトの存続を心より祈ります!
投稿: 芳勝 | 2018年1月12日 (金) 18時01分
芳勝様
二木先生に肖っておひげを蓄えられたとの由
微笑ましく存じます。二木先生もそこまで私淑されて
先生冥利(人生の先輩)に尽きますね。
訂正
長姉の最終学歴は中学1年でした。台所の洗い場の小窓から
通学する仲間へ羨望の眼差しを向けていたそうです。
想像するさえ胸が痛みます。
投稿: りんご | 2018年1月12日 (金) 19時44分
私はS.25年生まれで、懐メロは大好きでしたが「三日月娘」は聞いたことがありませんでした。東京大衆歌謡楽団の街頭演奏で初めて聴き、いっぺんで好きになり、でも「三日月娘」ってなんだろうとおもい調べるうちにここに来ました。三日月が少しの時間しか姿を見せないなんて知りませんでした。今度確かめてみたいとおもいました。博識の皆さんのお陰で興味は尽きません。ありがとうございます
投稿: すみれ | 2019年12月26日 (木) 19時41分
三日月娘は,私の考えでは黒いベールで顔を隠したその下から、白い顔がのぞく。それが三日月にみえる。そのことではないかしら。
投稿: 田代直樹 | 2020年4月16日 (木) 17時32分
これはまた、随分懐かしい歌があらわれました。
終戦後まもなく、筑後のうちの近所で、ラッキー・フラワー楽団というバンドが結成されました。 終戦後のこと、田舎の人々にはこのようなバンドは非常に珍しいものでした。 なんにもない頃で、演奏の稽古用の特別な場所があるわけでもなく、稽古はいつもマスターのご自宅の、庭に面した八畳間で行われ、近所の子供たちがいっぱい庭の中に入り込んで、ドンチャカ、ドンチャカを楽しんでいたものでした。 そのお家がしょっちゅう静かになっていたのは、多分久留米とか佐賀とかの街中へ、仕事に出かけていたのでしょうか。
昭和23年のことだったか、秋祭りで村の神社の境内に舞台が設けられたとき、このラッキー・フラワー楽団が登場いたしました。 その時、稽古のときには見かけなかった若い女性の歌手が、いろいろ歌謡曲を披露されましたが、その中で、私にとって一番印象にのこったのがこの「三日月娘」なのでした。 いい歌っだなあ、と思った記憶があります。
後日、姉(中学3年生)が、歌詞とメロディーをどこで覚えてきたのか、うちの中で盛んに歌いだして、私はそのあとを懸命についていったのでした。 その後しばらくは、この歌ばかりを口ずさんでおりました。 メロディーがいいんですよね。
今再びこのメロディーに接して、あの頃のことをいろいろ思い出してしまいました。 これから暫くは、またこの楽しい曲を口の端にのぼせていきそうです。
これを思い出させて頂き、上記の田代さん、ありがとうございました。
投稿: 田主丸 | 2020年4月17日 (金) 11時30分