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2007年7月25日 (水)

雪の降る街を

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:内村直也、作曲:中田喜直、唄:高 英男

1 雪の降る街を 雪の降る街を
  想い出だけが通りすぎてゆく
  雪の降る街を
  遠い国から落ちてくる
  この想い出を この想い出を
  いつの日かつつまん
  温かき幸せのほほえみ

2 雪の降る街を 雪の降る街を
  足音だけが追いかけてゆく
  雪の降る街を
  ひとり心に充(み)ちてくる
  この哀しみを この哀しみを
  いつの日かほぐさん
  緑なす春の日のそよ風

3 雪の降る街を 雪の降る街を
  息吹(いぶき)とともにこみあげてくる
  雪の降る街を
  誰もわからぬわが心
  このむなしさを このむなしさを
  いつの日か祈らん
  新しき光降る鐘の音(ね)

 《蛇足》 昭和24年(1949)から昭和27年(1952)まで3年間放送されたNHKラジオ連続放送劇『えり子とともに』の挿入歌。

 ただし、この歌が入ったのは昭和26年(1951)12月26日です。このときの放送台本が短すぎて、時間が余ってしまうため、脚本家の内村直也が急遽1番だけ作詞し、中田喜直が曲をつけ、南美江が歌ったのです。
 この歌が好評だったので、2番と3番を追加し、昭和28年
(1953)2月2日からNHKラジオ歌謡として、フランス帰りのシャンソン歌手・高英男が歌いました。長い間、冬の定番曲でした。

 私は、長野県の松本で高校生活を送りました。高校時代は、よく映画を見ました。授業をさぼって見にいくこともあれば、下校後、街を少しばかりさまよったあと見ることもありました。

 高校2年の1月(昭和35年)のある日、帰宅前に街を歩いているうちに、急に映画が見たくなって、ある映画館に入りました。そのころ、映画は3本立て上映が普通でしたから、最終回が終わると、夜9時くらいになっていました。

 最終回を見終わって外に出ると、入るときには降っていなかった雪が降りしきっていました。
 人通りの絶えた道を駅に向かって歩いていると、3、40メートル先の横町から、私と同年輩かと思われる少女が出てきて、十字路の街灯の下に数秒間たたずんだのち、その先の横町に消えていきました。
 街灯の下を通ったとき、私は、オレンジか何か柑橘系の匂いが漂っているように感じました。匂いは、しばらく私についてきたあと、消えました。そこから駅まで歩く私の頭の中で響き続けていたのが、『雪の降る街を』でした。

 少女を見た場所は、上土町(あげつちまち)から縄手(なわて)通りに出るどこかだったと思います。映画館がいくつか、かたまってあったのは、そのあたりでしたから。

 上の絵は2012年の年賀状用にPhotoshopで描いたものです。

(二木紘三)

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コメント

前身の「midi歌声喫茶」時代からのファンです。
降りしきる雪の中での少女との一瞬のすれ違いが、一幅の絵画のように目の前に浮かびあがります。
わが街に雪が降るたびに、この光景が浮かんできます。私の経験ではないのに。

投稿: 札幌育ち | 2009年3月12日 (木) 02時33分

この感覚のみずみずしさは、どうしたって十代後半のものです。失礼ながら、お年が七十近い方とわかってビックリいたしました。

投稿: kawamoto | 2009年6月15日 (月) 22時41分

先生は1学年上ではなく2学年上でしたね。私も松本に
下宿していて、縄手通りはよく歩きました。但し残念ながら女性の匂いはいつも有りませんでした。「美ヶ原賛歌」と言う歌をこのサイトで教えて戴き練習中です。

投稿: 街道 | 2009年6月16日 (火) 06時49分

17歳の高校生です。親や学校で教わったいくつか以外は知らない歌ばかりなので、蛇足を読んでいます。とてもおもしろいです。映画が好きで好きで、よく授業をさぼって近くのシネマコンプレックスに行っています。
 映画を見ているときは夢中ですが、終わって外に出ると、こんな所を親が見たらどう思うかと苦しいし、自分は引きこもりみたいなものになるかもしれない、と辛かったです。でも、先生が授業をさぼって映画に行ったり、野山を歩いたりしていたと書いてあるのを見て、そういう人でも、こんなにいろいろなことができるようになるんだと、ずいぶん気が楽になりました。
 でもこれからはあまりさぼらないようにしようと思います。

投稿: アッキー | 2009年7月 8日 (水) 18時53分

アッキー様 
 おじさん、おばさん(いやおじいさん、おばあさんかな)の歌仲間によくぞ入ってくれました。あなたが高校生と知って最初は驚きましたが、どなたかが言っていましたが、このサイトは今や‘国民的’人気を得ていますから(アクセス数を見てご覧なさい!)、高校生はもちろん、小・中学生がアクセスしても驚くことはないのかも知れませんね。
 ところで、あなたは大切な授業をサボって、よく映画館通いをしているとか。誰でも自分が望まない状況下にあるとき、そこから逃げ出したい、脱出したいという願望があるものです。まして青春真っ只中の高校生では、つまらない授業など受けたくないという、その思いは一層強いでしょう。あなたの心情は理解できます。しかし、行為にはすべて結果が伴います。その結果を甘んじて受ける覚悟があるなら、今の行為を続けてもいいでしょう。ただ、今のあなたは縛られた不自由な生活から、ただちょっとだけ自由を求めて緊急避難をしているように見えます。「これからはあまりさぼらないようにしようと思います」という、あなたのコメントからそれは伺え、わたしもホッとしています。これから、あなたの周辺に面白くないことが起こったら、このブログにコメントしてください。二木様をはじめ、それこそ人生の大先輩が多数あなたを応援し、叱咤激励してくれると思いますよ。お説教調になってごめんなさい。

投稿: ひろし | 2009年7月12日 (日) 17時08分

アッキーくんへ
元高校教師の立場からは授業をサボってよいとはいえませんが、親の気持ちを気にかけているような人は、まず心配いりませんよ。
二木先生も教室より街や野に青春を見出した方のようで、そういう青春の姿もありかと思います。私の学生時代(1970年代)にはやった寺山修司の「書を捨てよ、街に出よう」をちょっと思い出しました。

投稿: Kawamoto | 2009年7月12日 (日) 18時59分

ひろし様/Kawamoto様
ありがとうございました。ぼくはだいじょうぶです。
少しオーバーにいいすぎてご心配かけました。
そろそろ受験勉強に没頭します。

投稿: アッキー | 2009年7月14日 (火) 23時46分

アッキー様
 よくぞ言ってくれました。わたしの心配も少々オーバーでしたね。あなたのコメントから心配しなくても大丈夫だとは思いましたが。
 これから受験勉強に拍車をかける訳ですね。多分、あなたは来年大学受験をするんでしょうから、競馬に例えると、第4コーナーに差し掛かる頃ですね。これからが勝負です。この夏休みの過ごし方で結果が分かれますよ。頑張ってください。志望校合格を祈っています。
 受験勉強に疲れたら、ときどきこのサイトを覗いてくださいね。受験に必要な知識は得られないでしょうが、これからの人生を生きて行く上でのヒントやアドバイスは、数々の歌やコメントから得られると思います。

投稿: ひろし | 2009年7月15日 (水) 17時03分

昨年の夏、授業をサボって映画ばかり見ていると書いたアッキーです。ご心配かけましたが、東大文3になんとか滑り込むことができました。これも二木先生の「蛇足」で「Take it,easy!」をいただいたおかげと思っています。将来は映像関係の仕事をしたいと思っていますが、どうなりますか。
このサイトで自然に覚えた歌を友達に歌って聴かせて「昭和20年代の歌だ」というと、「お前はシーラカンスか」と言われています。

投稿: アッキー | 2010年3月12日 (金) 21時51分

わたしは新潟の高田平野のド真ん中に生まれ、一時期を除いて少年期、青年期をこの地で過ごしました。今は温暖化の影響でしょうか、降雪量がぐんと減ったようですが、わたしのこどもの頃は2~3mの積雪は普通でした。12月頃から根雪になると、雪国に住む人々はそれを宿命と諦め、春の雪解けが来るまでじっと耐え忍ぶ生活を余儀なくされていました。近年は小雪のせいもあるのでしょうが、冬季の生活は快適とは言えないまでも、大分楽になったようです。
 この歌が流行り出したのは、わたしが高校生の頃でした。生真面目で少々片意地をはっていたわたしは、当初この歌に反発を覚えたものです。多分、この作詞家は雪国の生活の厳しさを知らないんだろう。だから、こんなロマンチックな、甘い詩が書けるんだ。何が「温かき幸せのほほえみ」だよ、と。内村直也氏が新潟出身だと知ったのは、ずっと後のことです。今では、わたしも老境に入ったせいか、好々爺になったせいか、こういう歌もありかと、突っ張っていた頃を懐かしく思い出しています。
 
アッキー様
 やりましたね。東京のサクラが咲く前に、一足早く「サクラサク」になりましたね。東大合格おめでとうございます。去年、このブログで愚痴をこぼしていた頃が心理的には最低の状態だったのかな。でも、それからのあなたは心機一転、受験勉強に猛進して栄冠を獲得したのだから、このサイトも意味があったんだろうね。これからもこのサイトに寄り道をしてくださいね。お友達に「シーラカンス」と言われようともね。

投稿: ひろし | 2010年3月16日 (火) 00時00分

どうでもいいことかもしれませんが、タイトルの「まち」は、最初、街ではなく、町ではなかったのかな。「街」と「町」を、私はうまく使い分けられませんがw

投稿: nemukin | 2012年1月 1日 (日) 18時27分

やはりこれは街灯の灯る街ではないかと思います。街は商店などが並ぶ賑やかな所、町は一区画を区切る呼び名ではないでしょうか。50数年前、恋した美しい青年の進路が全く私の想定外の所でしたので、哀しみと虚しさと怒りをぶつけた事があります。青い街灯の光に粉雪が舞い彼の顔も怒っていました。商店の並んだ大通りの舗道を歩くと今でも高校3年生の時の哀しみが胸を過ぎります。彼は防衛省で偉くなったと聞きました。まだ一緒に歩いた時の夢をみます。たったの300メートルでしたけれど・・・私は街が好きです。

投稿: ハコベの花 | 2012年1月 1日 (日) 23時24分

町と街の違い、Numukinさん仰るように私にも不明。単なる家並び/家の集まる場所を町として、小説や話に仕立てられる/情緒あるのを街とする個人的勝手な使い分けをしております。これですと、遠い昔に二木さんが少女をご覧になられた場所は街にふさわしい。ですからお話も、真の味わいが迫って感じられます。

小さな区画を町と言うのは都市部の"町名"で納得です。偶然HNと同じTango町と言う行政区があります。○○郡○○町アザ○○の場合の町ですね。こうした町はかなり広域だと思われます。都市部の町が田舎に適用された結果の不整合なのでしょうか?

ハコベの花さんの哀しみにつられ… 40年ほど前、雪の降る松本に三度降り立ちました。いずれもスキーの帰りで、三度目の松本は白馬で知り合った女性と粋なレストランに。厚いレバーステーキを彼女が薦めてくれたのを覚えています。紬の街・結城から八方の上までこられるスキー達者な素敵な女性でした。なぜ、それきりになったのでしょう? 今も元気な彼女がどこかに… 雪の降る街の淡い思い出。

投稿: TangoMInato | 2012年1月 2日 (月) 07時19分

半世紀以上もたつのに、街灯と少女に雪の降る絵を見ていたら何故かロマンティックな感傷が胸にあふれて涙がこぼれました。彼は兄の友人でしたので、喧嘩の後も大学が休みになると我が家に遊びにきました。思想的には合わない人でしたが、じっと見つめられると身のすくむ思いがしました。純粋で真っ直ぐだった17歳の私がこの絵の中にいる様な気がします。二木様、思い出の絵有難うございました。

投稿: ハコベの花 | 2012年1月 2日 (月) 23時42分

 二木先生の辰年の年賀状のメルヘンチックでしかもレッド・フィールドの『クリスマスの朝』を彷彿とさせるような絵に、遠い日を思い出して微笑んでいるのは私だけではないかと思います。
先生や皆さんは美しい影絵のような少女が思い出されるようですが、食堂も喫茶店も理髪店もない山陰の山奥での冬は暗いものでした。
 しかし、この歌がラジオから流れていた中学生の頃ある雑誌で知り合った静岡県駿東郡湯川の同学年のK.Wさん(女性)と文通が始まり高校時代に1度だけ写真を交換したのみ、以後は年賀状と暑中見舞いハガキで現在はお中元・お歳暮は受け取ったほうが電話して2~3分の会話だけの交際(?)、まだ1度も会っていないので夫婦共々で会いましょうと言っているうちに現在に至っています。
 皆さん、このような交際もアリですね。

投稿: 尾谷光紀 | 2012年1月 3日 (火) 16時04分

50年も前の思い出です。曇り空で底冷えのする、風花の舞う日になるといつも思い出す。中学校の教室は寒く、風花の舞う窓の外を「雪じゃ。積もったらええのになあ」などと思いながらながめていた。理科の授業だった。そんな教室の生徒の空気を見て先生は、ぱっと授業をやめた。怒られるのかなと、一瞬緊張したが「よし歌を歌ってあげる」と言って「雪の降る町を」を歌ってくれた。背が高くハンサムだった先生は、伴奏などなかったが教室に響くような声で歌って下さった。
理科の先生とともに必ずもう一人、音楽の、女の先生のことが浮かんでくる。授業中に英語の単語カ-ドで“内職”をしていたのがいた。それを見つけた先生は、「そんなに英語がしたければ教えてあげる」と毅然として言った。五線譜の黒板にささっと英語で歌を書いて教えて下さった。それは初めて英語で歌う「ジングルベル」だった。先生の迫力と機転に圧倒された。その歌は今も歌える。
恩師の目に私達生徒はどのように映っていたのだろうか。教育者の使命と誇りの中に教育の根幹となる師弟のぬくもり、すべてを包み込む大きな大きな慈愛があったに違いない。「歌謡曲」「英語の歌」。大人になりかけた青臭さの残る中学生の私達に残してくれた感動はいつまでも新鮮で消えない。そんな先生に巡り会い、本当に幸せだったと感謝している。思い出すたび胸が熱くなります。

投稿: 遠木 道程 | 2012年1月29日 (日) 00時04分

寒波襲来ですね。寒い日の夕方はこの歌が口をついてでてきます。この歌は1番は幸せのほほえみ、2番3番は哀しみとむなしさ、矛盾しているようですが、なぜかすんなりと理解できます。甘やかな哀しみ、初恋の感覚でしょうか。心に満ちてくる春の日の優しさ、遠いあの日のロマンティックな哀しみに浸ることができます。17歳のほっそりした私が懐かしい・・・ああ 無情!

投稿: ハコベの花 | 2012年12月11日 (火) 23時14分

 内村直也と雪の降る街―――実業家の御曹司として東京に生まれ、小学校から大学まで16年間、青山通りを経て学校の在る三田まで徒歩通学をしたと伺いました。大正時代のことですから、今よりは積雪も多かったでしょうが、鈴木牧之の「北越雪譜」に描かれた世界では有り得ないロマンチックな雪道の描写ですね。「雪の降る街を通り過ぎて行く想い出」失恋か片思いの想い出でしょうか、直也40歳頃の作詞ですから、甘い懐旧の情が雪の上に漂っているように受け取れます。

投稿: 槃特の呟き | 2012年12月12日 (水) 23時07分

[えり子とともに」の うた がどうして世の中に懐かしくでてこないのかと、、思っていますので 「雪の降る街」を懐かしくうれしく拝見しました 中学生のころラジオで毎週?たのしみに イメージをひろげ聴きました あのイントロのメロデイーが心に残っています
歌詞がないので 世に想い出されないのでしょうか
             北島 ひろ子    

投稿: 北島 洋子 | 2014年5月23日 (金) 00時01分

また12月の28日が巡ってきます。その人から電話が掛かってきた時、家族と夕ご飯を食べて居ました。ご飯を食べかけで、急いで仕立ておろしのツイードのコートを羽織り外に飛び出し電車の駅に行きました。その人が待っていました。「歩きましょう」と言われましたが何を話していいのかわかりませんでした。防衛大に進学した彼を非難した小説を書いて、彼に読ませた後でした。17歳の私は21歳の彼を不愉快にしたことだけはわかりました。10分ほど歩いて別れ、私は家に帰りました。家人は誰も何にも言いませんでした。寒い夜でした。あれからもうす60年になります。思い出を捨てるには彼は美し過ぎました。あの歩道には今夜も青い街灯が灯り私たちの影が歩いているように思います。淡い悲しみが空から降っています。

投稿: ハコベの花 | 2016年12月25日 (日) 23時03分

ハコベの花さん

17歳と言えば高校2年生ですか
高校生で小説を書かれるハコベの花さんって素晴らしいです。私の高校の同級生にも高校2年で小説を書き、同級生のみんなから尊敬されていました。
美しい思い出を60年間も秘めていらっしゃるお話素敵だと思います。その時「家人は私に何も言わない」のはご家族の方が察知されていた気がします。
21歳と言えば防衛大学の上級生の方でしょう。年下の下級生の恋の悩みの相談に乗っている頼りがいのある方だったかもしれませんね。ハコベの花さんの気持ちを優しく掴める爽やかな青年だったかもしれませんね。

12月28日、冬休みが始まってすぐ帰省し、真っ先にハコベの花さんにお会いされたのでしょうか。たくさんお話をする機会があったらお互いの気持ちがわかり合えるような気もします。その防衛大学生も今は 人生の成熟期をすごされていらっしゃるでしょう。
お二人に雪の降りつもった街で 「温かき幸せのほほえみ」が訪れることを祈っています。

投稿: けん | 2016年12月26日 (月) 16時00分

けん様 優しいお言葉ありがとうございます。私も何回か恋をしましたが、こんな強烈な印象を残してくれた人はありませんでした。彼が防大に入った年の夏休みにまっすぐ白い制服姿のまま我が家にやってきた時は本当に驚きました。その頃、60年安保の初め頃で私もあの運動の仲間に入りたいと思っていましたからちょっと思想的に合わない人だとは思っていました。ですから私は思い出だけで充分だと思っていました。でも恋心とは複雑でぱっと断ち切れるものではないのですね。歩いた歩道を見るたびに元気をもらい、まっすぐだった青春の入り口に返ることができます。彼に出会って良かったと思っています。人との出会いには無駄なものはないのですね。ここで出会う人達にもどれほどの恩恵を受けている事かと思います。今年も良い年でした。

投稿: ハコベの花 | 2016年12月26日 (月) 21時41分

2016年12月のハコベ様
 「真っ白な制服姿の防衛大の彼・・・」のコメントで蘇ってきたものがあります。少し時代が下がりますが、私も17歳のときに同じ思いをしました。56年前、同じ高校の一年先輩バスケット部員で防衛大に行った彼です。背が高く、いまでいうイケメンで女子生徒たちにもてていました。私もその一人で、友達からもらった「出雲大社の縁結びの赤い糸」をセーラー服の上着の目立たない場所に5センチほど縫い付けていました。
 夏休みのある日、地元の商店街でばったり彼と出会い、まさか同じ地元に住んでいるとは思いもしませんでしたので、とてもびっくりしました。

 それからお付き合いがはじまりました。彼はパイロットになりたくて防衛大に入学しました。その頃の私は文学部に入っていて、部員の一人がプロレタリア文学を好んで小林多喜二を取り上げたり、また関連の集まりにも部員を誘ったりしていました。その時代は60年安保があり、都立大付属高校に入学したS君からデモの話を聞いたりしている時に、樺美智子さんが犠牲になったニュースが流れてきました。また社会党の浅沼委員長が壇上で刺されて亡くなる事件もありました。
 いつの間にか私の中に反体制、反権力が芽生え始めていました。ですから彼が防衛大に入学したのには少なからずショックを受けました。優しい人柄の彼が「どうして?」と強く思いましたが、家庭の事情で防衛大を選んだそうです。
 
 防衛大に入ってからも文通は続きました。夏休みには横須賀の防衛大の広い敷地内を案内してくれ、秋の体育祭にも呼んでくれました。その中に「匍匐前進」の競技がありました。防衛大だったら当たり前のことかも知れませんが、私は「なんで今時匍匐前進なの?」と強く思ってしまいました。
 それから私の中で少しずつ気持ちが、彼にというより「防衛大」というものに離れていきました。私が留守のとき彼から電話があり、電話をかけてほしいとの言付けを聞きましたが、しませんでした。またまた私が留守のときに再度電話があり、「奈良へいくので電話ほしい」との伝言がありました。でもしませんでした。このまま彼と交際を続けていくと、自分自身を押さえ込んでいくような気がしたからです。彼とはそれっきりになりました。
 
 テレビで横須賀の映像を観たり、防衛大の名を聞いたりすると懐かしさとともに、あの真っ白な制服が似合う彼を甘酸っぱく思い出します。そして彼のモットーである「為せば成る、為さねば成らぬな何事も」を折にふれ新しくして私の机の前に貼っています。
 

投稿: konoha | 2017年2月10日 (金) 12時33分

konoha様、思い出は沢山あったほうが老後が豊かに暮らせますね。思い出すと甘酸っぱい花の香りに心が満ちてきます。悲しい時も思い出が癒してくれます。少女だった日々が何と美しかったことか。私は子供ながら戦争の悲惨を知っています。父母の苦労、父親が戦死した知り合いの家庭、それを思うとこの70年戦争がなかったことは何と幸せだったことか。恋した人も81歳、まだお元気で活躍されて居られるようです。偶然にパソコンの中で彼の今の写真を見ることが出来ました。本当に偶然でした。まだ昔と変わらず美しくて嬉しかったです。青春万歳と友人がメールをくれました。青春は素敵です!あの世に逝くまで心は青春です。

投稿: ハコベの花 | 2017年2月10日 (金) 15時18分

この歌は小学校六年生の時、学芸会の練習で遅くなった帰りの大雪の日にラジオから流れてきたこの歌を聞いていい歌だなと今も思い続けています。
コメントに初恋のひとがたまたま防衛大生であり離れていったお二人の思い出がありますが、安保騒動にも関係がありそうです。
私は早稲田の一年生の時、六月十五日の女子大生が亡くなったその日に国会前のデモに参加していました。あのデモに参加して、学生が長い竹竿を持ったり、小石を拾いながら警官隊に向かっていく様を見て、これが学生のやることかと疑問に思い途中で抜けて帰宅しました。楽しそうに運動会でもやっているように思えました。
後日学校で安保のクラス討論があり、挙手をして皆さんデモに参加しているがこの条約を読んだものがいるか質問したら誰もいませんでした。私はざっと読んだ程度でしたが、良い方向ではないかと考えました。
それ以来安保騒動は左翼思想家、マスコミの焚き付けに多くの学生がだまされていたと思っています。
後年出勤途中で早朝にも関わらず元気に行進してくる若者たちがいて、尋ねたところ防衛大の学生で学校から靖国神社まで行くところだと聞きました。まだ半分程度の所でもあり思わず頑張れよと声をかけました。
以来私は防衛大生が好きになりました。

投稿: 栗さん | 2017年2月10日 (金) 16時53分

美しい歌です。美しい思い出です。雪のひとひらは美しいのです。konoha様大切にしまって置きましょうね。

投稿: ハコベの花 | 2017年2月10日 (金) 20時52分

ハコベの花様、涙が止まりません。

投稿: konoha | 2017年2月10日 (金) 21時22分

71歳です。現役のころから、ここには寄せてもらいました。中学生の頃でしょうか。NHKのドラマで、川合伸旺さん、河内桃子さんが主演されていて、台所で河内さんが洗い物をしながら、この歌を口ずさんでいました。そのドラマが何だったのか、思い出せません。どなかかご存じないでしょうか。

投稿: 江尻陽一 | 2017年6月26日 (月) 21時22分

「隣りも隣り」1957/11/07 ~ 1960/04/01

「テレビドラマデータベース」です。
違っていたら詳細検索をしてみてください。
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/drama_info.htm?id=1152

ラジオ・テレビ同時放送の公開番組だそうです、
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040039_00000

投稿: なち | 2017年6月27日 (火) 05時57分

ここ数年間は、忘年会等で街中に出かけることも少なくなり、夕暮れの街中をコートの襟を立てながら降りしきる雪の中を歩くということもなくなりましたが、この曲を聞くと何故だか「カサブランカ」のハンフリーボガードを思い浮かべます。粋なソフトをちよっと斜めにかぶり、バーバリーのコートの襟を立て、くわえたばこで しとしとと降る雪の中を(カサブランカでは、雪のシーンは無かったと思いますが・・)歩く姿を勝手に想像しています。
やはり、名曲にはそれにふさわしいシーンが欲しいものですが、残念ながら私の体験には それらしいものはありません。なによりもバーバリーのコートがありません。

ところで、いつも思うことですが、このサイトの魅力は、二木先生の名演奏と「蛇足」という名の名解説+「文芸サロン?」にあるような気がします。上東門院サロンのようでもありacademicでもあり、すごく勉強になります。

投稿: あこがれ | 2017年12月21日 (木) 14時04分

この雪はどんな雪なのでしょう?
何雪でしょう。
大別して 粉雪と牡丹雪がありますが、若いころから
ここに歌われているのは「牡丹雪」と思っていました。粉雪は気温が低い時に降ります。恐ろしいほど積もるのは粉雪です。雪女や雪の女王には粉雪以外は似合いません。
私が「雪の降る町」の心地よい感傷に酔えるのは春気配が感じられる頃の牡丹雪です。
尚、作曲者の中田喜直さんが山形県、日本海側の鶴岡市に友人を訪ねた折に見かけた降雪風景がモチーフになっていると言われています。現在も毎年2月に行われる「鶴岡音楽祭」でこの歌が歌われ存命中は作曲者自身没後は夫人がその任を果たしていると~ウイキぺデア~
中田喜直さんが見た雪は粉雪だったのか牡丹雪だったのか
?曲想からしてゆっくりと降る牡丹雪ではと思う私です。

あこがれさま
私推奨の水村美苗さんお御著書をリストに加えていただけて光栄です。
なお、  今回直木賞にノミネート(二回目)された澤田瞳子さんの御著書もお勧めです。主に京都を舞台とした時代小説を書いています。

投稿: りんご | 2017年12月21日 (木) 16時59分

りんご 様

NHKラジオ深夜便のトークエッセイ「歌の旅びと」で五木寛之さんが“山形と聞いただけで、ぽっと胸に灯がともり、頬が緩んでくる心持ちがします“。また豊かな自然や修験道の修行の場となる由緒ある寺社が点在して、豊富な穀類や果物。山の幸、海の幸に恵まれた土地だと述べています。暖かい県民性がうかがえますね。

澤田瞳子さんの「若冲」や「仏師・ 定朝」には、興味関心がありますが、天智天皇以前の歴史は弱いです。庭園を見るなら京都・仏像を見るなら奈良・・クリスチャンとしてのこだわりがあるとも思いませんが・・・。

投稿: あこがれ | 2017年12月21日 (木) 19時27分

 この歌は私が中学校の生徒だったとき、先生達が何かの行事で歌われたのです。なぜかそのことだけを良く覚えています。きっと珍しいことだったのでしょう。途中で転調するのがこの歌の優れたところだと思います。難しいのですね。

投稿: 今でも青春 | 2017年12月22日 (金) 21時02分

子供の頃雪が降るのは待ち遠しいものでした。雪が降ると喜んで反射的に「雪が降る街を~♪」とつぶやいて歌いました。しかしその時思い出なんて考えることはなかった。

今、田舎の家は無人です。障子を張り替え、廊下を拭き、炭火の炬燵を出して再び住み、降る雪と通りを行き交う見知らぬ人々を眺めればきっと私の幼稚園から高校までの思い出が一挙に押し寄せて来て通り過ぎてゆくだろうと思います。田舎でそんな感傷に浸ってみたいです。

投稿: yoko | 2017年12月22日 (金) 22時57分

朝、一番でこの歌を聴きました。出だしのベルの音を聴いただけで目が潤んできました。玄関に高校生の私が街灯の下に立たずんでいる絵を張りました。きれいなベルの音が60年前の自分のこの時の気持ちを誘い、嬉しさと、哀しさで一杯になりました。お下げが髪とほっそりした自分が愛おしくなります。初めて彼と歩いた道、その人が「歩きましょう」と言った言葉だけ覚えています。返らない青春の一瞬の時間がそこで止まってしまっています。

投稿: ハコベの花 | 2017年12月23日 (土) 09時32分

 住まいの都市部でも雪が降っています。庭の50センチほどの石灯篭の傘に雪が降り積もり始めています。なんだか3番の歌詞はコロナで鬱々している気持ちを表しているみたいです。

 雪がしんしんと降り積もっているさまの「しんしん」という音はあるらしいですね。いつだったか何かの番組で聞いたようななかったようにな気がします。雪国の音のない世界に思いを馳せます。

いい歌ですね。現実には冷たい雪なのに暖かさを覚えます。

投稿: konoha | 2020年3月29日 (日) 10時47分

”冬来たりなば春遠からじ”と言いますが、まだ春は遠く、ここのところ、冬型の気圧配置で、日本海側は雪、太平洋側は晴天と、真冬の日々が続いています。

社会人になって以来、私は雪が殆ど降らない関西の地に住んでいますが、「雪の降る街を」を聴きますと、少年時代を過ごした、北陸・加賀の田舎の冬のことが思い出されます。
どんより曇った冬空が何日も続き、一面真っ白に積もった雪のなか、人が通る分だけ踏み固められた一条の道を、歩いて町の学校へ往復したものです。(車社会の現今では、想像できないことかも知れません。)
このような気象状況ですから、自然と、気持ちも、重く、塞ぎがちで、この歌の歌詞とメロディ(短調)が、その情景をよく映しているように思います。
とは言え、歌詞の最後の1行、つまり、♪温かき幸せのほほえみ♪(歌詞1番)、♪緑なす春の日のそよ風♪(歌詞2番)、♪新しき光降る鐘の音(ね)♪(歌詞3番)では、さっと明るい陽射しが差し込んで、”希望なきにしもあらず”と、救われた気持ちにさせてくれるようで、ことさら心に響きます。

投稿: yasushi | 2021年1月 5日 (火) 11時42分

帰る事の出来ない青春を思い出してこの美しい歌を聴いています。心はずっと青春なのに身体はいつの間にか黄泉の国に近づいています。思い出だけが通り過ぎていきます。
でも、この歌を口ずさむと心は17歳に帰っていきます。
街灯の灯りの下で私を待っていてくれた彼の美しい姿は永遠に忘れることが出来ません。65年が流れるように過ぎてゆきました。この歌だけがあの街灯の下に今でも残っている様な気がしてなりません。

投稿: ハコベの花 | 2022年2月 9日 (水) 23時36分

 この歌はいつの間にかハコベの花さまと防大生だった彼と私の17歳から18歳が結びついてしまいました。

 今朝はみぞれ模様です。そのうちに本格的に雪空になるそうです。曲をリターンしながら聴き始め『蛇足』から各コメントの情景に浸り読み耽りました。2010.3.12アッキーさま、お元気ですか。「シーラカンス」達は様々な彩りを身につけながら、うた物語を泳ぎ続けています。(笑)また遊びに来てください。

投稿: konoha | 2022年2月10日 (木) 11時20分

 天気予報は都心でも雪だったのに窓から見る外堀通りはいまだ霙状態で、せっかく重装備で出勤したのにと思う。不思議なことに夕刻が近づいて街灯が灯ると、半世紀以上も昔の故郷のほんの小さな情景を思い出したのです。

 補習を終えた高校からの帰路、降りしきる雪の中バスを降りると、小さな商店街が肩を寄せ合い、その先に自宅へ続く細い通りが続いている。前方に数人の塊だけしかない100メートル足らずの直線。
バスを降りるまでずっと参考書やら文庫の文字を追いかけていて、くたびれた視線を夜空に向けると視野一杯の雪が寸断なく降りそそいでくる。
道々の電柱の上部にくくりつけられた、小さな傘を被った電球が朧に辺りを照らしている。
 志望大学は東京にあってこの季節いつも天気予報は晴れ。僕は人気もない暗い道端で、小さな雪だるまのような電球越しに、夜空から落ちてくる雪をぼんやり眺めている。
しんと静まり返り、吐く息は白くすぐそこに見える我が家の明かりは橙色に揺れている。
何を考えているわけでもなかった。足元が震え、雪が当たる頬は痛いほど冷たいのに時間も忘れて見上げていた。

たったそれだけの記憶。
何かしらのわだかまりがあったのだと思うな。立ち去れない自分が不思議だった。

投稿: 日月 明 | 2022年2月10日 (木) 16時53分

なんとなく温かみがでてきたこの頃、鶯ももうそろそろかなと思っていることであろう。
ベランダからまだ薄い雪が残る眼前の山並みを眺めていて、ふとこの歌を思い出しました。

筑後育ちの私にとって雪というものはあまり縁がないものでした。 南国筑後では冬に降るのはだいたいミゾレ、雪が降るのも決して少なくはなかったけれど積もることはなかった。 本、雑誌では北国の雪合戦やスキーの話し、こちらは雪ミゾレが融けたべちょべちょの中での剣道の寒稽古。 いつかは、話に聞く北日本の豪雪地帯を訪れることもあるのかと思ったりもしました。

この「雪の降る街を」を知ったのは中学生だったころ、姉が何処で覚えたか、多分ラヂオで知ったのだろうけれど、しょっちゅうこの歌を唄っていて、私もいつの間にか覚えこんでしまったのでした。 それまで聴いていた軍歌、流行歌とは随分感じが違うけど、なんとなく静かな穏やかな気分になれる曲だと感じました。 私は音楽の理屈を知らないから、なんとも言葉にしようもないし、ただいい曲だなとしか言いようもないが。 高英男の歌い方がいいですね。 このメロディーにピッタリ。 作曲家ははじめっからこの歌手をと想定して作曲するのだろうか。

昭和27年春から、東京の生活が始まりました。 しかし東京も筑後と同じ、冬にも殆ど雪が降りません。 ただ寒風吹きすさぶばかり。 東京生活2年、高校一年を終わった昭和29年の2月末、日曜日だったと思うけど、朝起きたら大層な雪が積もっていました。 家の前の道路上で30センチほど、これが私の本格的な雪との出会いでした。 (雪国の方、たったそれだけの雪でと笑わないで下さい)

朝食後勇躍外出、上野の山へ。(我が家は鶯谷) 雪道を愉しみながら、博物館、芸大前を通って我が高校へ。 狭いけれどグランドが真っ白に広がっていて美しかった。 屋上に上った。 視野は狭いけど周りはずっと真っ白だった。 一段と高くなっている天文室の屋上へ。 狭いところで雪が吹き溜まりになっていて 1メートルほどの深さ、その雪の中にドンと寝転がった。 雪に囲まれ、真上は雲一つない青空。 何の音もしない。 隣の動物園からも物音ひとつしない。 
いい気持ちだった。 自然に歌が出てきた。 この「雪の降る街を」をおおきな声で唄った。

上記の<蛇足>によれば、この歌はラヂオドラマ「えり子とともに」に使われた曲とのこと、ちっとも知りませんでした。 ただこのドラマ自体はよく聴いたものでした。 内容は子供にはどうでもよかったのかなにも覚えてはいませんが、ただドラマ始めの、”えり子とともに”というアナウンサー(男性)の、題を読み上げる声色というか語感がとても素敵だった。 えり子と父親の家庭の優しさが表現されているような柔らかい言葉つきだった。 これだけの言葉を声に出すのでも、プロのアナウンサーは随分努力するんでしょうか。
母と姉がこのラジオドラマをずっと楽しみに聴いていて、私はお相伴で聴いていただけなんだけれど。 姉がこの歌を覚えたのは、つまりはこのドラマからなんだろうかと思う。

「えり子とともに」は映画化されました。 山村聡のお父さん、娘が角梨枝子。 角梨枝子は同じころの映画「山の彼方に」にでていて、私が一番好きな女優さんでした。

投稿: 田主丸 | 2023年2月20日 (月) 22時11分

田主丸さん、雪の降る街からえり子と共にまで幼いころの懐かしい思い出がよみがえり有難うこざいました。
横浜の磯子区の下町に住んでいますが、雪の降る街は小6の学年末に学芸会の練習を終えて小雪の舞う暗い道を家に帰りながら聞きました。
えり子と共にはラジオから聞いており、北澤彪さんと阿里
道子さんが親子で話していたのを覚えており、そのメロディーは今でも口ずさむことがあります。

投稿: 栗さん | 2023年2月22日 (水) 10時03分

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