遠い道を
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
日本語詞:飯塚 広
1 トロイカの鈴がなる 2 むなしく夜に燃えた 3 新しい道を行く |
《蛇足》 ロシア革命が勃発した1917年に発表された曲で、原題は『長い道を通って(Дорогой длинною〈Dorogoi dlinnoyu〉)』です。
日本語詞としては、上記のほかに、兵頭ニーナ訳による下記のものがあります。また、『花の季節』(芙龍明子訳)というタイトルで中学の音楽教科書に載ったことがあります。
長い道 1 青い月影の道 あなたを追いかけて 2 別れの夜を思い 酒におぼれたとて |
ボリース・フォミーンは1900年にサンクト・ペテルブルクの名家で生まれ、17歳のとき、モスクワに出て作曲活動を始めました。その最初の成果がこの曲で、革命騒ぎの最中にもかかわらず、大ヒットとなりました。
厳密にいうと、この曲はフォミーンの完全なオリジナル曲ではありません。ロマニー(ジプシー)の間で歌われていた原曲を下敷きにしたもので、フォミーンの役割は、どちらかというと採譜・編曲に近かったというのが実態のようです。
といっても、それでフォミーンの功績が減るものではありません。熊本県山間部のごく狭い地域だけで歌われていた『五木の子守歌』が、古関裕而の採譜・編曲によって、民謡に関心のない人たちにまで歌われるようになったのと同じように、フォミーンの力がなければ、この歌も世界中で歌われるには至らなかったでしょう。
1917年の十月革命でソヴィエト政権が成立すると、その支配を嫌った人びと、いわゆる白系ロシア人たちが主として欧米に大挙して亡命しました。その数、数年で200万人以上。
彼らが亡命先で歌うことにより、この歌が西側でも次第に知られるようになりました。1960年代後半のヒットソング『Those were the days』(邦訳題名『悲しき天使』)も、この流れから生まれたものです。
さて、フォミーンは、最初の数年間こそ花形作曲家で、人気歌手たちが競って彼の歌を歌いたがりました。しかし、ソヴィエト体制が固まるにつれて顧みられなくなり、『長い道を通って』もほとんど歌われなくなりました。
その理由は不明ですが、フォミーンが名家の出身だったことが災いしたかもしれないし、共産主義の宣伝に協力的でなかったせいかもしれません。
また、フォミーンがよくロマニー音楽特有のメロディーラインを使ったことと関係があるとも考えられます。ソヴィエト政権下では、ロマニーやユダヤ人は非共産主義的に見なされ、弾圧を受けました。
フォミーンは次第に音楽活動がしにくくなり、1940年代に入ると、とうとう音楽活動を禁止されてしまいました。1948年、48歳のとき、薬も買えないという極貧のなかで、その生涯を終わりました。
ソヴィエト政権が崩壊したこと、彼の作品が今なお歌われていることがわかれば、いくぶんかの慰めになったでしょうが……。
(二木紘三)
コメント
化粧水をパタパタつけながら「ライライライライラライ~」と歌っていましたが過去の恋愛を顧みる女性のうただったのですね。CMのイメージにぴったりです。CMを創る人もちゃんと考えていらっしゃるのですね。ロマニーの間でうたわれていたとのこと、女の情念を感じます。3番で「新しい道を行く」となったのだからそのあとは「新たな人生を~・・・」みたいに前向きになってほしかったですが、仕方ありません。
投稿: ぽん | 2015年4月15日 (水) 19時53分
コメント欄の「遠い道を」という曲はどんな曲なんだろうと思って聞いてみました。どこかで聞いた記憶が・・・「悲しき天使」にたどりつきました。若いころたくさん歌いました。原曲がロシアとのこと、いい曲がたくさんありますねえ。
投稿: 里子 | 2015年4月18日 (土) 12時08分