金色夜叉
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作詞・作曲:後藤紫雲・宮島郁芳
1 (男女) 2 (男) 3 (女) 4 (男) 5 (男) 6 (女) 7 (男女) |
《蛇足》 キンイロヨルマタではありません、コンジキヤシャと読みます。キンイロヨルマタは、昭和30年代までは漫才のネタでしたが、近年は、書いておかないと、ほんとうにこう読む若い人たちがいますからね。
『金色夜叉』は、明治30(1897)年1月1日から5年半にわたって読売新聞に連載された尾崎紅葉の代表作で、単行本化されるや、たちまち大ベストセラーとなりました。泉鏡花の『婦系図(おんなけいず)』、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』とともに明治の三大メロドラマと呼ばれています。
第一高等中学校(旧制一高の前身)の生徒・間(はざま)貫一と鴫沢(しぎさわ)宮は相思相愛の仲で、婚約していました。
しかし、宮は正月のカルタ会で銀行家の息子・富山唯継(とみやまただつぐ)に見染められ、結婚を申し込まれます。富山家の莫大な財産に目がくらんだ宮の両親は求婚を受け入れるように宮を説得し、宮も貫一を外遊させることとひきかえに承知します。
貫一は本心を確かめようと宮を熱海の海岸に呼び出しますが、意外にも宮の心が富山に寄っているのを知ります。絶望した貫一は、取りすがる宮を足蹴にして立ち去ります。写真はその場面を表した銅像で、熱海の名所の1つです。
すっかり金銭の鬼となった貫一は、高利貸しの手代になり、さらに独立して高利貸しを営む守銭奴の生活を送ります。
いっぽう宮は、唯継と結婚したものの、その冷酷な性格によって虐げられ、とうとう捨てられてしまいます。後悔した宮は、許しを乞う手紙を何度も貫一に送りますが、貫一は開封もしません。
しかし、ある日たまたま1通の封書を開くと、そこには死を願う哀れな宮の現状が記されていた……といったストーリーです。
ここまで書いて紅葉は病死したので、作品は未完になりましたが、腹案を紅葉から聞いていた門下生の小栗風葉が『終編金色夜叉』を書き、さらに話をドラマチックに展開させました。
熱海の海岸の場面で貫一が宮にいう言葉は、次のとおりです。この血を吐くようなセリフは、『金色夜叉』の演劇や映画では必ず使われて、大向こうをうならせました。
「一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此の月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いて居ると思ってくれ」
『金色夜叉』の歌は大正7年(1918)に、後藤紫雲・宮島郁芳という2人の演歌師によって作られました。
演歌は自由民権運動を歩調を合わせて生まれました。当初は政治風刺や権力批判をテーマとしていましたが、日清戦争が終わると、政治性は薄れ、次第に恋や世相を歌うようになってきました。硬派が軟派に変わってきたわけです。
演歌師たちは、街頭や芝居小屋でバイオリンをギーコギーコと弾きながら、小唄・端唄調の発声で歌い、歌本の代金や観客の投げ銭で暮らしを立てていました。
『金色夜叉の歌』は、演歌師の添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)が明治42年(1909)に作っていますが、こちらはあまり流行りませんでした。風景描写が長々と続き、ヒロインのお宮がなかなか出てこなかったからです。
これに対して、後藤紫雲・宮島郁芳版では、前置きなしに「熱海の海岸を散歩する貫一お宮」が登場するので、大衆受けやすく、大ヒットすることとなりました。
(二木紘三)
コメント
母は明治35年生まれ、大正中期三菱のサラリーマンだった父と結婚、上京、関東大震災にもあっています。その後京都に移り住み2女、1男を儲けました。その1男が現在76歳の私です。金色夜叉の話はよく聞かされました。母は本当に1月17日の月は曇るものと信じていました。お宮は嫌いだったようで、姉たちに乗ってはならない玉の輿を盛んに説教していました。もちろん姉たちに玉の輿が来るはずもなく、結婚相手の男性はすべて戦争に連れて行かれていたのですから・・・。
投稿: 三宅正瞭 | 2007年10月29日 (月) 23時56分
はじめまして。突然ですがお願いがあって連絡を取りたく、こちらのコメント欄を利用させていただきました。こちらに掲載されております「金色夜叉」の楽曲をテレビ番組内で使用したいのですが、mp3制作の二木さまのご承諾をいただけるか、ということです。もちろんJASRACにはテレビ局経由にて使用申請をいたします。該当番組など詳しいことについて、またお聞きになりたいことなど当方のアドレス宛に連絡いただけるとありがたいのですが。公開されるコメント欄ということもありハンドル名にて失礼しておりますが、メールをいただければ氏名、連絡先など明らかにいたしますので、どうかよろしくお願いいたします。
投稿: ぽちお | 2007年11月29日 (木) 07時51分
松竹版『金色夜叉』 1932年 監督:野村芳亭
林長次郎・田中絹代コンビの映像が、以下のページに公開されています。
一見の価値あり。
http://jp.youtube.com/watch?v=xEVpNomqjis
投稿: あいちゃん | 2009年1月18日 (日) 18時20分
今から30年以上前、三鷹のアジア・アフリカ語学院で、「熱海の海岸」をやりました。主役はインドからの留学生でしたが、長身に黒いマント、見事な台詞回し、実にわたしの人生で見た最高の間貫一でした。インド人恐るべし、こんにちの印度映画の席捲を見るにつけ、それを予感させる出来事でした。
投稿: Bianca | 2009年1月20日 (火) 00時25分
初めてお便りさし上げます。二木さんとほぼ同じ時期に東京で学生時代を過ごした私にとって,お書きになっているコメントに共感を覚えること多々あり,このブログに感謝しております。
さて,あらすじの最後の一節「それを知った貫一は金まみれの生活を捨て、宮と再会する」というのはいかがなものでしょうか。紅葉自身はこの小説を完結させないまま世を去りました。構想をいろいろ想像することはできるかもしれませんが,現存する「金色夜叉」はこのようなハッピーエンドではないと思います。時間があるときにでもご確認いただけたらと思います。
投稿: soejima | 2011年7月10日 (日) 16時39分
soejima 様
弟子の小栗風葉が書いた続編では貫一は高利貸しをやめて開拓事業に携わっていますし、何度かお宮と再会しています。それらを1行に凝縮すれば「貫一は金まみれの生活を捨て、宮と再会する」となると思います。けっして想像で書いたわけではありません。
が、ご忠告を容れて、紅葉の絶筆までの部分と風葉が書いた続編および終焉編との境目がわかるように加筆しました。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2011年7月10日 (日) 17時58分
二木様,
早速にご対応いただきましてありがとうございます。私もこの小説に,貫一が宮を許すようになるという筋の,他人の手になる続編があることを知っており,それを念頭において先の投稿をしたのですが,書き方が悪くて二木さんが想像したと受け取らてしまったようです。申しわけありません。
二木ファンとしてはご解説の正確さを図る上で少しでもお役に立ててよかったと思います。微意をおくみいただければ幸いです。
投稿: soejima | 2011年7月12日 (火) 21時26分
昭和30年代後半 私は県立高等学校の3年生でした。
在校生の9割以上が大学・短大を目指す進学校でした。
男子9割、女子1割で同級生500名のうち女子50名は2クラスに分けられました。
私の願いは大学に入学するより女子の入るクラスにはいることでした。3学年になって運よく男女混成のクラスに入ることができ友人から羨ましがられました。
その頃の高等学校の運動会の名物はクラス全員が出場する「仮想行列」でした。
各クラスは「仮想行列実行委員会」を編成し、数か月前から仮装行列の出し物に頭を絞ります。
私達の出し物の目玉は「熱海の海岸」でした。そしてなんと私は「お宮」に、男子に人気のある洋子さんが「貫一」に選ばれました。
私は着物を母親から、日本髪のカツラをパーマ屋さんから借り、メイクをしてもらいました。はじめて口紅を付けました。(気持ち悪いと男子に冷やかされながら・・)
学生服、マント姿の洋子さんは、高下駄を履き得意げでした。
グランドを一周しながら 貫一さんに足蹴りされる私・・
「金色夜叉」の音楽が流れると蹴っ飛ばされました。
高等学校3年間で最大の思い出になりました。
他大学に進学した洋子さんは、お医者さんと結婚、二人のお子さんもお医者さんになられたそうです。
数年に一度のクラス会では50年以上たった今でも「蹴られるお宮」を演じています♪♪
(演技とはいえ転び方が悪いと 加齢によりほんとに骨折するので転び方に気をつけています)
投稿: けん | 2017年3月16日 (木) 21時38分