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2007年7月31日 (火)

赤いサラファン

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


ロシア民謡、作曲:A.ワルラーモフ、日本語詞:津川主一

赤いサラファン縫うてみても
楽しいあの日は帰りゃせぬ
たとえ若い娘じゃとて
何でその日が長かろう
燃えるようなその頬も
今にごらん 色あせる
その時きっと思い当たる
(わろ)たりしないで母さんの
言っとく言葉をよくお聞き
とは言え サラファン縫うていると
お前といっしょに若返る

《蛇足》 アレクサンドル・E・ワルラーモフ(1801~48)の作曲ですが、すっかりロシア民謡として定着しています。ウィニアフスキーのバイオリン曲『モスクワの想い出』のテーマにも使われています。

 サラファンは、帝政ロシア時代の農婦が着たワンピースドレスで、シンプルなデザインの野良着と豪華な刺繍を施した晴れ着の2種類があります。 

(二木紘三)

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コメント

○山○子さんが 歌声喫茶で よく聞いたそうです。

投稿: 棚橋 | 2008年9月 4日 (木) 10時11分

いつも 聞くばかりが多い ですが
 中学校に入った頃
わからぬ楽譜を見ながら
 ハーモニカで 試してみました
  不思議に メロディが 出てきたような
 錯覚があります。

投稿: 二宮 | 2010年3月16日 (火) 03時55分

昭和27年、中学に入って一番困ったのが音楽の授業でした。先生がコールユーブンゲンばかり名指しして歌わせるのです。私たちは戦後の混乱期に小学校に通ったので音楽教育をロクに受けていなかった為、音階など全くわからなかったのです。本当に名指しされるのが恐怖でした。音楽の授業は苦痛でしたが、唯一、教えて貰った覚えがあるのが赤いサラファンでした。歌詞は「赤いサラファン 誰のため 母さんいそいそ縫いなさる 娘よわけをお聞きなさい 開いた花なら散るさだめ」というものでした。良い歌詞だと思いましたが殆ど忘れてしまいました。音楽は楽しく習いたかったですね。

投稿: ハコベの花 | 2011年7月29日 (金) 20時56分

カルパチア山地にルシンという少数民族の住む村(町かな)があります。そこの民俗博物館で同様の胸当て付のスカートを見つけました。第一次欧州大戦のころの写真もあり、このスカートを纏った女性たちが裸足で写っておりました。晴れ着に裸足とは似合いませんね。しかしこれらの民俗映像を記録した学者ご自身と助手の青年を写したものを見て驚きました。白の山高帽を被り、ネクタイを締め、正装したお二人もやはり裸足なのです。写真機はゴルツというガラス乾板を使う、ドイツ製の高級品だと思います。裸足は決して貧乏人の風俗ではないようです。日本の草鞋に似た、ライ麦(燕麦、カラス麦、オート麦のこと)の麦稈を編んでつくった履物もありますから。オホーツク海岸の僕の故郷の村の白系露の家族の女性たち(お母様と娘さん)は、外地から履いてきた羊毛製の長靴を常用しておりました。靴下は履かず、ネルの布を足に巻きつけて靴下代わりにしておりました。日本人が三頭の馬印のついた修繕痕の甚だしいゴム靴を履いている、汗でぬるぬるするゴム臭い靴に比べ、あの方々の暖かくいつも乾いた長靴の履きやすさを思い出します。
二木先生はロシアの民俗にもお詳しい。そしてロシア好きのご様子。僕もそうなのです。

投稿: イサコフスキー | 2011年7月30日 (土) 23時31分

サラファンはずっと肩掛けだと思っていました。赤い胸当てスカートをはいた白系ロシアの美少女が目に浮かびます。こんな少女に出会ってみたいものです。地域によって履物はそれぞれでしょうが、日本の桐下駄も良い物です。暑い夏は足裏の水分を吸収し、冬は木肌にぬくもりがあって、素足で履いていたいのですが、鼻緒が切れ易い事と、歩き方に注意しないと挫くのが欠点ですね。洋服に合わなくなってしまって残念です。私が子供の頃、お正月に着る晴れ着を嬉しそうに縫っている母の姿を思い出しながらこの歌を聴いています。

投稿: ハコベの花 | 2011年7月31日 (日) 11時49分

中学時代に教わったのは「♪赤いサラファンを私に見せて 優しく母さん諭すよう 楽しい春は幻の 虹ともすぐに消えるもの…」という歌詞でした。間も無く「津川主一」の日本語詞が主流になり、最初に覚えた歌詞は歌われなくなったように思います。
イサコフスキーさんの長靴のお話、オーストラリア土産のムートンブーツを見たことがありますが、内側がフカフカの羊毛でした。あのような造りなら厳寒の地でも暖かいことでしょうね。そしてお陰さまで長い間忘れていた「ミツウマ」のゴム長靴を思い出しました。終戦後は一時、ゴム製の短靴もありましたね。「少年時代」に添えられた二木先生の絵の少年は、黒いゴム製の短靴を履いているように私には見えます。歌と共に、最初に聴いた頃のあらゆる思い出が蘇り、懐かしさで一杯になります。

投稿: 眠り草 | 2011年7月31日 (日) 13時41分

失礼いたしました。「短靴」は北海道方言のようです。北海道は広く、寒くてもそれほど雪の積もらない所もありますが、札幌はほとんど半年近くが雪の季節で、昔はゴムの長靴が必要でした。長靴に対して、くるぶしまでの靴を「短靴」と言ったのだと思います。
今は優れたデザインの、滑り止めがついたブーツなどが沢山売られている事と思います。

投稿: 眠り草 | 2011年7月31日 (日) 15時41分

いつの日からか、緋色が赤いに変化しています!津川主一さんご本人でしょうか?又は編集者でしょうか?

投稿: ヤナガワ ヨウスケ | 2013年1月31日 (木) 10時04分

もう五十年余り前の昭和35年頃の話です。武蔵野の片隅の三畳の下宿で、NHKラジオのロシア語講座を半年ほど聞いていました。確か早朝(6時かそれ以前)の番組でした。半分眠っている耳に開始のテーマ曲「赤いサラファン」が遠くから近づいてくるのです。今でも、この曲を聴くたびに半世紀前にタイムスリップしてしまいます。十年ほど前にロシアを旅したときに何人かに尋ねたのですが、この曲を知らない人ばかりでした。日本ではこんなにも愛されているというのに。

投稿: 前田 悠 | 2015年5月24日 (日) 23時03分

酔っぱらってソファーに横になり ふと中学時代に習った「赤いサラファン」という曲を思い出し、歌詞を思い出し合っているのか確認したところ覚えていたのとは違っていました 私がうろ覚えしていたのは 「赤いサラファン仕立てながら しみじみ母さん語るよう 私もいつかこのこのサラファン 祭りの時に着たものを せめてまとえよ若い日は まとえよ肩にこのサラファン」 というふうに記憶しているのですが何しろ半世紀以上前のことなのでどうですかね

投稿: 鈴木晴也 | 2018年4月30日 (月) 22時06分

老境の今、歌詞の世界に共感しきりです。
教科書ではなく歌声喫茶?の本で覚えました。
ハコベの花様同様にサラファンは肩掛けとばかり思っていました。十代の私は「笑(わろ)たりしないで母さんの言っとく言葉をよくお聞き
とは言え サラファン縫うていると
お前といっしょに若返る」という歌詞に理解が及びませんでした。今、切々と胸に迫ります。

正に、サンライズサンセット
陽はのぼり陽は沈み時は行くですね。

私は、ここに集う仲間では若輩の方かもしれません。
福祉施設の利用者は90歳を超えた方も多くいます。
様々な人生を背負ってる方々に敬意を込めて紙芝居を演じています。私も間もな客席の仲間みなるやもしれないと自らに言い聞かせる日々です。

投稿: りんご | 2018年12月 9日 (日) 08時51分

そこはかとなく寂しい時ふとこの歌が思い浮かびます。そして今日ここを訪ねたら、何とまあ私のコメントが最後にあってビックリ。
誤字脱字御免なさい。
コロナ禍で二倍速三倍速で老けてゆく気分です。
この歌が前にも増してしみじみと胸に沁みます。

皆様  ご自愛ください

投稿: りんご | 2021年4月12日 (月) 16時12分

緋色と紅と赤どれが本当ですか??

投稿: サンダーチーフ | 2023年11月 2日 (木) 17時37分

眠り草さんの投稿(2011年7月31日 )でやっと見つけました。私の記憶の中の「赤いサラファン」です。小生80歳になりますが、兄弟(1つ上から4つ下まで3人います)にきいてもこの歌詞は知らないと言っています。
津川主一さんの歌詞が今はスタンダードですが、私としては「縫うて」「帰りゃ」「娘じゃとて」などの言葉が年寄くさく田舎くさくわざとらしいと感じてあまり好きでありません。でも歌声などでは津川さんで歌うしかなくて残念です。

投稿: 迷子の子猫 | 2023年11月27日 (月) 20時43分

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