Ekirinte al Bembaŝa(古き愛の歌)
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
ボスニア民謡、エスペラント訳:磯部晶策
1. Ekirinte al Bembaŝa, 2. Ĉiuj inoj de Bembaŝa, 4 祖国を守ろうと 銃を肩にして 5 川のほとりの 村の娘は |
《蛇足》 ボスニア民謡"Kad ja pođoh na Bentbašu"のエスペラント訳。1954年制作のオーストリア・ユーゴスラヴィア合作映画『最後の橋』(マリア・シェル主演)の挿入歌として使われました。
原曲は、ゆっくりしたテンポで歌われ、素朴な味わいの民謡です。詩の意味は次のとおり。
ベンバーシャへ、ベンバーシャの泉のほとりへ、私は子羊を連れていった。ベンバーシャの女たちはみんな、泉のほとりに立っていたが、ファティーマだけは窓辺のトルコ椅子に座っていた。私は、「こんにちは、こんにちは、愛しい人よ」と挨拶した。彼女は「今夜、今夜私のところに来てね」と答えた。私は、その晩行かずに、別の夜に行った。ファティーマは、愛しいファティーマは、ひとり淋しく結婚してしまっていた。
この曲は15世紀の終わり頃、スペインで吹き荒れた異端審問による迫害を逃れて、オスマン帝国治下のバルカン半島に移住してきたユダヤ人がもたらしたものといわれます。
ベンバーシャ(Bentbaša)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォ東郊にあるボスニアでは有名な地区です。ダムを意味するトルコ語ベントが地名の由来とされています。実際1462年から1875年まで、そのあたりにはダムがあったそうです。
写真は現在のベンバーシャで、サラエヴォを貫流するミリャツカ川が「く」の字型に曲がるあたりにあります。
私はこの歌を、昭和37年(1962)3月の春休み、奥浜名湖畔「三ヶ日青年の家」で行われた学生エスペランティストの全国合宿で、群馬大の医学生から教わりました。この歌を聞くと、この合宿で知り合った何人かの人たちの顔や声が鮮やかに蘇ってきます。
エスペラントでは、ĉはチ、ĝはヂュ、jはイ、ŝはシュと読みますが、あとはローマ字と同じように読みます。これらの文字はOSによっては文字化けするかもしれません。
みなかみさんとイワンさんのお知らせで日本語詞が見つかりましたので、上に掲載しました。
ボスニア語の原詞が見つかったので、下記に掲載します。「約束した夜に行かなかったら、彼女はほかの男と結婚してしまっていた」という内容。エスペラント訳としては、磯部晶策版が唯一のもののようです。
kad ja pođoh na bentbašu
1. Kad ja pođoh na Bentbašu,
Na Bentbašu, na vodu,
Ja povedoh bijelo janje,
Bijelo janje sa sobom.
2. Sve djevojke Bentbašanke,
Na kapiji stajahu,
Samo moja mila draga,
Na demirli pendžeru.
3. Ja joj nazvah: “Dobro veće
Dobro veće djevojče!”
Ona meni: “Dobro veće
Dođ’ doveče, dilberče!”
4. Ja ne dođu isto veče,
Već ja dođu sutradan.
Samo moja mila draga,
Za drugog se udala!
(二木紘三)
コメント
二木さんのなつかしい歌をたびたび聞かせてもらっています。なかでもこの曲は忘れもしない50年ぶりに邂逅した歌でした。
高校2年か3年でした。学校からではなかったかと思います。「最後の橋」というマリア・シェル主演の映画で、ユーゴーのパルチザンが夜のひと時車座になって歌う歌がこの歌でした。戦争のおろかしさ虚しさを身にしみて感じさせられる映画でしたが、この挿入歌も忘れがたい歌でした。メロディは忘れがたいものの、50年間、聞きもしなければわかりもしないままでしたが、それがめぐり合うことができたのです。感激としか言いようがありません。感謝、感謝、感謝です。
投稿: 奈良の熊さん | 2008年5月10日 (土) 21時33分
窓辺には光淡く」というロシア民謡があるのですが、
もし歌詞が分かりましたら教えてください。
この曲が気に入りましたら一覧に載せていただけると
なほありがたいと思います。
あつかましいお願いですが、よろしくお願いいたします。
投稿: 手塚 操 | 2009年11月10日 (火) 10時53分
曲名は知りませんでしたが「エスペラント訳」と書かれているのに気が付いてページを開きました。
素朴な雰囲気の、このメロディーは知っています。でもいつどこで覚えたのか…映画「最後の橋」は見ていませんし不思議に思っています。
大正生まれの父はエスペラントを話せました。不肖の娘は残念ながら少しも解らないのですが…。
「Bonan tagon 」=「こんにちは」と思ってもよろしいのでしょうか…。
歌詞の中に、ラテン語に似た単語があるような気がします。(気がするだけですが。)
投稿: 眠り草 | 2010年10月21日 (木) 11時32分
私は二木さんと同世代のエスペランティストなのでこの歌は知っています。学生時代だったか,ある手作り
の歌集に「古き愛の歌」という題名で日本語訳がでていたのを覚えています。いま,ふと思いついてこの題名で検索してみましたらここ:
http://bunbun.boo.jp/okera/z_kashu/ka_kachusha.htm
にありました。鶴岡冬一訳詩 となっています。
投稿: みなかみ | 2010年10月24日 (日) 14時00分
40年近く前、大阪府茨木市の中学連合音楽会に
合唱部員として参加した時、
市北部にある豊川中学校の3年全員が歌っていたこの曲が
なぜか今も忘れられず今日まできました。
二木様 ありがとうございます。
青春のほろ苦い思いがよみがえってきます。
投稿: おさんぽ♪ | 2011年10月22日 (土) 16時07分
「古き愛の歌」は、私が1960年頃に覚えた歌です。
でもここには、4番と5番が記載されていません。
4.祖国を守ろうと銃を肩にして
若者は戦いに出かけて行った
5.川の畔の村の娘は
今でも若者を待ちわびている
そして、「村の娘」ではなく「村の乙女」と記憶しています。
投稿: イワン | 2016年1月 5日 (火) 13時22分
知らない歌が世の中には沢山あることを知りました。今は良い歌がないと思いながら暮らしていますが、若い時にもっと行動的な暮らしをしていれば、このような歌を知りえたのにと残念に思います。二木様が合宿された「三ヶ日青年の家」のあたりは浜名湖の中でも景色が良く、若い時に素敵な人とそぞろ歩きをしていたらロマンチックな思い出が残ったのにと残念に思います。美しい景色もメロディも人生をどれほど豊かにしてくれることか、高齢になって知りました。三ヶ日ミカンを食べながら聴いています。
投稿: ハコベの花 | 2016年1月 7日 (木) 13時56分
古いものを整理していたら、もう一つ資料がでてきました。手書きのものですが、私が書いたのではありません。鶴岡冬一訳なのですが、違う点は
4.祖国をまもろうと銃を肩にして
にわかに戦争にでかけて[い]った
5.かわのほとりのやさしい娘
今でも[窓べで]まちわびている
です。
投稿: みなかみ | 2018年7月23日 (月) 22時58分
今朝、目覚めた時から頭の中で、この歌が繰り返し流れてきました。フェイスブックにその事を書いたら、エスペラントの仲間の一人がこのページを教えてくださいました。久しぶりに全部を歌えて嬉しいです!
投稿: Violeto | 2019年9月21日 (土) 10時03分