十五夜お月さん
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:野口雨情、作曲:本居長世
1 十五夜お月さん 御機嫌(ごきげん)さん 2 十五夜お月さん 妹は 3 十五夜お月さん 母(かか)さんに |
《蛇足》 大正9年(1920)9月号に児童文学誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に発表されました。
写真は9月号の表紙。
父親は破産、母親は病死し、一家は離散といった状況です。この歌が作られたころには、こうした旧家の没落が珍しくなかったのでしょう。この幼い姉妹の行く末を思うと、何度聞いても、切なさがこみ上げてきます。
(上の絵はPhotoshopで描いたものです)。
(二木紘三)
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コメント
中学生の同級生に同じ様な境遇の女性がいて、クラス会で打ち明けてくれた話です。父親が事業に失敗して、やむなく母親は離婚、中学生の彼女は親戚の家に預けられました。学校から帰ると、月夜の晩に、その家の田圃で、彼女の分だけ残されている稲を1人で刈り取りしたそうです。「母さん、頑張るね」と月誓いながら。その話を聞いた時、この歌と絵を思い出しました。60年近い昔の話です。いつの時代にもあることなんでしょうが、今は彼女は幸せに暮らしています。
投稿: ティ・ウッズ | 2007年11月19日 (月) 12時40分
私は古稀を迎えた者です。
しかしながら、小学生の時に聞いたこの歌が今でも歌えません。
それは、3番の歌詞になると悲しくて鼻がつまり、涙ぐんで声が出ないのです。
かといって、私はこのような境遇ではなかったし、親類縁者・知人友人にもこのような状況になられた方もおりません。
やはり、感受性の高い作詞者・作曲者がおられたからこそ、このような素晴らしい曲が出来たのでしょうね!
投稿: 柴田煉太郎 | 2008年1月 5日 (土) 20時14分
僕もこの歌を子供の頃から知っていましたが,その歌詞の意味は今晩このサイトでの解説を読むまで知りませんでした。今晩、この曲を聴きながら,僕のワイフにその歌詞の内容を説明したのです。僕の母も丁度その時代に育って、にた様な境遇にありました。その彼女も5年程前に亡くなりました。
僕はこちらアメリカ、オレゴン州へ来てから丁度40年経ちます。この季節になると家の屋上から満月が見られます。この歌のように,そのお月さまには母の笑顔や懐かしい昔の思い出がいっぱい限りなく見られます。
岩谷博 2010年10月1日
投稿: Hiroshi Iwaya | 2010年10月 2日 (土) 17時11分
私の幼い頃、今は亡き父が、この歌をよく歌っていました。
父は8人兄弟の末っ子で、早くに母を亡くしていましたが、それにしても、「大人なのに、お母さんに会いたい、なんておかしいなぁ」と思っていました。
今、その頃の父の年齢を超えて、初めて、幾つになっても親が恋しいことを知りました。
若き父の心中にどれ程の哀しみがあったのか、今度、会ったら、聞きたいです。
投稿: ハープ弾き | 2010年10月 5日 (火) 21時52分
解説と似たような経験を持つ60才です。当時としては少し裕福であった家に生まれましたが、小学生の時破産一家離散。私は電車に乗って伯父の家に行き、置いて下さいと頼みましたが拒否され、次にバスに乗って伯母の家に行った。すぐには追い返されはしなかったが一週間後「世間体が悪いから面倒見れない」と児童相談所へ連れて行かれました。両家とも裕福だった。
児童相談所で1ヶ月過ごした後、ある日突然里子に出され田舎の里親の元へ。
高校出るまでそこで育ちましたが、農作業の手伝い、牛の世話、洗濯(川で手洗い)、料理、何でもしましたので今も役立っていますが、性格が捩れたのではないかと。とはいえ、中学2年の頃、真面目で良い里子 として県知事から表彰されましたがどういう基準で選ばれたのかはわかりません。
当時のことを思い出すと切なくなります。
投稿: 昔 里子 | 2010年10月 7日 (木) 08時48分
小学校6年生の時、隣の席の女の子が「今の私のお母さんは7番目のお母さん」と言いました。色白でうりざね顔の綺麗な子でした。敗戦後で皆ぼろ服を着ていましたが、赤い色がすっかりさめて裾がボロボロになったスカートを毎日穿いていました。ボロの限度を超えていました。中学時代は救護院に入っていて、18歳の時自死したそうです。18年の人生をどんな思いで過ごしたのかと思うと目が潤みます。1番目のお母さんに会いたかったでしょうね。今夜は素晴らしい月夜です。
投稿: ハコベの花 | 2012年10月29日 (月) 20時47分
「十五夜お月さん」
不幸のオンパレードですね。、悲惨な歌の内容に、陰々滅々の気分になり、満月の光だけが救いです。こういう時代もあったんだという 時代を証言する歌としては理解できますが、やはり 苦手な歌です。心を明るくしてくれる歌、人生にエールを送る歌に出会いたいです。
「ティ ウッズ様のコメント」
月光に照らされた刈り残された一群の稲田。「ようし やるわよ」とばかりに鎌を持って夜の稲刈りに立ち向かう少女。感動的な風景ですね。
これは冷たい仕打ちじゃないです。家の人たちが全部刈り取った後に、恩着せがましく「やっといたよ」と言われて「すみません」と気を使うより良いではないですか。
アメリカの大規模農家にホームステイした知人が言ってましたが、ある人が何らかの事情で仕事が滞った場合、その人の分は残して本人にやらせるそうです。同じです。
その少女が 今幸せにしていると聞いて 安心しました。
投稿: 秋山 小兵衛 | 2012年11月 1日 (木) 15時01分
秋山様
貴方が仰るとおりです。でも私の世代はあの悲惨を伝えておく義務があると思います。空爆で焼死んだ者、孤児になった者、飢え死にした者、沢山見ております。
不幸はいつの時代にもありますが、子供の不幸は作ってはいけません。大人は子供だけは不幸にしてはいけません。大半が男性の責任だと私は思います。男性諸氏は心して美しい月を眺めて欲しいと願っております。
投稿: ハコベの花 | 2012年11月 1日 (木) 16時25分
ハコベの花様
こんにちは。ハコベの花様の「スカートのすり切れた女の子」の話にも大きな感銘をうけました。しかしあまりにもかわいそうな、救いのない結末に感想をのべるのは難しかったですね。
ハコベの花様のいう、戦争体験や苦しかった体験を次の世代に伝えていきたいのことばは 立派な心がけだと思います。私の父母も戦争中の苦労について話をし、最後は戦争の愚かしさについて語っていました。
さらにハコベの花様のいう、日本は男中心社会だったから戦争などの過ちも男の責任だった。これもそうだと思います。
今夜も丸い月がきれいです。今東の空、仰角45度の位置にあります。話を延長します。
アウンサン スーチーさんをテレビで見るたびに思います。ああこんな人が日本にいたらみんなついていくのになあ。こんな人とは、聡明で、信念があって、人望があって、笑顔がほんもので、タレントでもなく選挙の時だけのマドンナおばさんでもない女性政治家のことです。
男性中心のシステムをこわすのは何百回、何千回の女性の権利拡張の会議ではなく、魅力的な女性政治家の登場だと思います。女性に参政権が付与されてもう60年が過ぎたんです。男社会のプレッシャーが強すぎてできないなんて泣き言をいわないでください。スーチーさんはあの軍事国家のミャンマーで戦っているんです。
私はいつも日本の女性の応援をしているつもりです。それゆえに魅力あるほんものの女性政治家の登場を期待します。女性政治家というのは象徴的存在です。
投稿: 秋山 小兵衛 | 2012年11月 2日 (金) 00時36分
かつて、さる著名な作曲家が、「日本の童謡は、どうして哀しく、暗いものが多いのか。これでは、幼児や児童の情操教育によからぬ影響がある。もっと明るく、楽しい童謡をつくるべきだ。」と発言して、音楽教育界に大きな波紋を呼び起こしました。さしずめ、この歌などは、まっさきにやり玉にあげられた歌だろうと思います。
その後、彼の発言があったからかどうか、門外漢のわたしには、よくは分かりませんが、新しい童謡はポップス調の明るい、軽快なリズム感のある歌が多くなった来たようです(わたしには、明るく楽し過ぎて、はめをはずした歌のようにも感じられるのですが、これは年寄りの僻目でしょうね)。
「歌は時代を映す」と言われます。この歌のように、涙が枯れるくらい哀しい童謡が出て来たのには、それなりの時代背景があったからです。しかし、その時代背景を知らなくても、この歌のもつ歌詞とメロディの不思議な魅力が、1世紀近くも愛称されて来た所以のような気がします。
新しい、明るく、楽しい童謡が、果たしてどのくらい長く命脈を保てるのか。わたしは、その行く末を見ることは出来ませんが、後世に託すことにします。
秋山 様
アウン・サン・スーチー女史にふれられましたね。彼女がミャンマーの軍事政権に抗して、民主化運動の先頭に立って頑張って来た功績は、わたしも高く評価し、敬服しますが、今の日本の女性政治家に、彼女のようなカリスマ性のある人物が必要とされているか、どうか、は疑問に思います。日本はある程度成熟した民主国家であり、ミャンマーはまだまだ発展途上の国です。民主政治には、カリスマ性のある、大衆を引っ張っていくような魅力的な政治家は、必要ないように思うのですが。ヒトラーのような人物が出ないとも限りませんからね。アウン・サン・スーチー女史が政権を握れば、そうなると言っているわけではありません。
投稿: ひろし | 2012年11月 5日 (月) 12時35分
歌詞は四行一連で、第三連までの構成。「貰(も)られて」「母(かか)さん」と書いてある。「貰(も)られて」は、「貰(もら)われて」を意味する言葉。歌詞の「貰(も)られて」を「貰(もら)われて」、「母(かか)さん」を「かあさん」と編集の際、勝手に変えた歌詞集、楽譜集もたくさん出版されています。勝手に変えると元の歌詞がわからなくなってしまいます。また、「母(かか)さん」を「かあさん」と思い込んで歌っている人も多い。それは間違いです。【出版【詩の背景】
「十五夜お月(後改題)」の詩の背景について、野口雨情の長男の雅夫は、雑誌『太陽№128』(平凡社)で、次のように説明しています。
「家庭の事情で父母が少しの間別れて暮らすことになり、父と私と妹が水戸の駅前の宿屋で母と別れました。母は、栃木県の実家に帰って行ったのです。その時は明るい月夜の晩でした。私は、父 の着物の袖をしっかり握り締めて、母の後ろ姿を見送ったものです。その時の心境を歌ったものだと思います」。茨城県北茨城市磯原の野口雨情の生家を守る雨情の孫の野口不二子さんによると次のようです。あの歌は、大正四年に雨情が先妻ひろさんと離婚し、残された長男雅夫と長女美晴子が母を恋しがる心情を歌ったものでしょうね。その後大正六年頃、雨情はひろさんの実家がある栃木の喜連川まで行き子供たちのために野口家に戻ってほしい、と頭をさげました。大正八年、ひろさんは磯原のこの家に戻りました。九代続いた廻船問屋の野口家を守り、二人の子の母としてだけの復縁。商才に乏しく、家を空けがちだった雨情をカバーする、それがひろさんの一生でした」。(池田小百合 なっとく童謡唱歌より)
投稿: 海道 | 2012年11月 7日 (水) 15時50分
はじめまして
すてきHPですね。ありがとうございます。早速ですがリンクを貼らせていただきます。
たまくし歌ひろばで検索していただくと拙いHPが出てきますので、よろしくお願いします。
投稿: さわだよしお | 2015年6月15日 (月) 07時53分
哀しい歌ですね。なんとかお母さんに会わせてあげたいですね。
僕は気付かれないようにそっと影で見守りたいです。
昔、近所に小さな双子の姉妹がいました。
いつもおそろいの服を着て手をつないでいました。
その可愛らしい様子を見て僕も妹が欲しいなぁと思っていたものです。
ある日、母と祖母が彼女たちのお父さんが事業に失敗したらしいという話をしていました。
しばらくしてその二人の女の子を見かけることもなくなりました。
もう遠い遠い昔のことです。
この歌で思い出しました。
投稿: yoko | 2015年6月17日 (水) 10時22分
たまたま10月15日は満月。この秋久しぶりの澄み切った夜空、十五夜お月さんをしみじみと眺めて、ごきげんさんと声を掛けてみました。
投稿: dorue | 2016年10月15日 (土) 22時18分
現代語に直して・・・と言うのを゛見て今やっと意味か゛わかりました。おばあさんは亡くなってしまったんですね!妹はもられて・・・と言うのは貰われてだった。かかさんに会いたいな!と言うのはもう母親は死んでしまった!という意味。こうして意味を知るとものすごく良い歌だ!と思いました。私はボランティアで歌を歌っています
ので大変役にたちました。有難うございました。ジョンと言うのは芸名です。名前はシミズといいます。
投稿: ジョン | 2018年8月 2日 (木) 13時30分
日本に生まれ育ったにもかかわらず60になるまでこんな悲しい童謡があることを知りませんでした。事業の失敗、病気と離別、人の世の常ですね。雨情の作詞の背景についてのお教えをありがとうございました。コメント欄でやはり悲しみを担って生きてこられた方々のお話を拝読し慰められています。
投稿: 小西宏明 | 2018年8月15日 (水) 15時41分
ジョンさん、コメ欄の皆さま、管理人様、戦前に書かれた唄のことですから ところどころ現代語訳が必要になりますね。ばあや なんてもう使われなくなりましたが これは年をとったお手伝いさんにしたしみをこめてつかう言葉だそうです。お暇(ひま)をとりましたというのは ふつうは一時的にお休みをとったということなのでしょうが 家業が傾いたという背景を考えるとやめざるを得なかったのかもしれません。ほかのサイトでは血のつながったおばあさんが亡くなったというふうに解している方もおられるようですが。まちがっていたらどうぞご教示願います。ジョンさんの歌声が多くのひとびとの慰めになりますように。
投稿: 小西宏明 | 2018年8月15日 (水) 21時44分
毎日投稿を見ているわけではないので、ジョンさんのコメント見落としました。
婆やをおばあさんととる人がいるなんて、お爺さんは、まさか!と思いましたよ。時代でしょうかね。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2018年8月15日 (水) 22時34分
二木様 読者の皆様、残暑お見舞い申しあげます。最近ネットを視聴するようになって たとえば文語文の讃美歌には現代語訳が必要になっていることを知り驚いています。書かれて100年もたつものがあれば当然といば当然のことですね。かくいう私も小学生のころは いかなる折りにも愛なる神は と母がうたうのを聴いて いかなる檻にも と思いこんでいたことがあります(笑)。だからこそ 二木様やコメ欄の皆さまのように 歌の心をかたりつぐ仕事をしてくださる方々がおられるのは うれしいかぎり。
投稿: 小西宏明 | 2018年8月17日 (金) 15時54分
二伸 1980年代の東京には家政婦紹介所というのがあったようですが今はどうなっていることでしょうか。ばあや が死語になったのはいいことなのかわるいことなのか わかりませんが、大家族制が崩壊してしまった昨今、子育ての経験豊富なばあや もと調理師のじいや を共働きの核家族に低料金であっせんするサイトがあれば 老後貧困や少年非行の防止にもなるのでは。。。すみません、蛇足でした。
投稿: 小西宏明 | 2018年8月17日 (金) 16時17分
戦後生まれのもうすぐ70歳です。実家は田舎の大地主でしたが戦後の農地解放で没落。生まれてすぐ母が入院して祖母に育てられたので、ばあちゃんこになってしまった私を母は可愛く思ってくれず、嫁姑の確執の中で次女の私は寂しい子供でした。
あの頃の子供は色々な事情で心に寂しさを抱えていた子も多いと思います。心が寂しいのに楽しい歌なんて歌えません。寂しさに寄り添ってくれる様で、この歌がやっぱり私の好きな歌でした。
夜道を歩いていると、お月様が何処までもついて来てくれます。
満月はポッカリ明るく優しく、心を慰めてくれました。
幸せな人生を歩んできた子には分からない、でも、こんな子もいるんだよ。寂しい子もいるんだよ。
雨情はそういう子にお月様のように寄り添ってあげるために、この歌を作詞したのではないでしょうか。
「いつもそばで見守っているよ。」と。
投稿: おはるさん | 2019年1月26日 (土) 03時59分
昨日私も70才になりました。
そうですね。そんなことありました。
夜道を歩いていると、月明かりに照らされた雲がどんどんと後ろに流れ去って行くのに白く光るお月さまはどこまでもどこまでも雲から顔を出してはついて来ると感じたことがありました。不思議だなぁと思っていました。澄んだ寒い冬空の夜でした。
父が亡くなった後の日のことでした。
投稿: yoko | 2019年1月26日 (土) 08時10分
「十五夜お月さん」二木先生が奏でられるこのメロディを聴く度に、私は堪らなく切なさがこみ上げてきます!
上の絵のように、暗い空にひとつだけぽつんと浮かんでいる満月を見て、自分の「独り!」を実感させられ、はなればなれになった家族のことを想い出して偲んでいる、この幼い少女の胸中を思うと胸が締めつけらます。
またこのたった二行の詩に、こんなにも悲しさと切なさを表現できた野口雨情には、自分との境遇がきっと重なっていたのではないのでしょうか!
「十五夜お月さん」この唄はいろんな方が歌唱されてますが、その中でも特に童謡歌手の浮島康子さんと田中由紀子さんの歌唱動画を私は好んで視聴していますが、その度にここへ戻ってきては、皆様から寄せられた貴重なコメントを読み返しています。
今更ながらですが、本居長世のこのメロディは本当に琴線に触れてくるものがあります!
投稿: 芳勝 | 2019年1月26日 (土) 17時00分