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2007年8月24日 (金)

北上夜曲

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:菊地規、作曲:安藤睦夫

1 匂い優しい白百合の
  濡れているよなあの瞳
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の月の夜

2 宵の灯(ともしび)(とも)すころ
  心ほのかな初恋を
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原のせせらぎよ

3 銀河の流れ仰ぎつつ
  星を数えた君と僕
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の星の夜

4 雪のちらちら降る夜に
  君は召されて天国へ
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の雪の夜

5 僕は生きるぞ 生きるんだ
  君の面影胸に秘め
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の初恋よ

《蛇足》 この歌は、昭和20年代の初めごろから、岩手県盛岡、宮城県仙台あたりから自然発生的に歌われ始めました。
 盛岡や仙台の大学・専門学校に各地から遊学していた学生たちが帰省の際に持ち帰って、後輩などに教えたことから、しだいに全国に広まり、昭和30年代初めには歌声喫茶の定番曲の1つとなりました。

  これに着目したレコード各社はレコード化を企画、作者を捜したところ、作詞者は岩手県江刺市出身の菊地規(のりみ)、作曲者はその友人の岩手県種市町出身の安藤睦夫と判明しました。
 菊地が詞を作ったのは昭和15年
(1940)12月、安藤が作曲したのは翌16年(1941)2月だったといいます。菊地は水沢農学校、安藤は旧制八戸中学の生徒で、2人ともまだ十代でした。

 昭和36年(1961)、各社競作が行われ、和田弘とマヒナスターズ+多摩幸子、ダークダックス、菅原都々子などが歌い、いずれもヒットしました。
 松竹・日活・東宝などの各社も映画化し、一大ブームとなりました。私は日活作品を見ましたが、どうしようもない愚作でした。

 長い間、作者がわからないまま歌われてきたため、いろいろな歌詞が生まれました。
 たとえば、私は高校時代、1番の最初の1行を「香りゆかしき白百合の」と歌っていました。
「見目うるわしき白百合の」としている歌集もあります。
 4番の最初の2行を「雪のちらちら降る宵に/君は楽しい天国へ」としている歌集もあります。
 また、3番のあとに次のような聯が入っているヴァージョンもあります。

「たそがれ河原に秋たけて/白いすすきの波の果て/想い出すのは想い出すのは/北上河原の秋の夜」
 「春のそよ風吹く頃に/楽しい夜の接吻(くちづけ)を/想い出すのは想い出すのは/北上河原の愛の歌」

 調べればどれがオリジナルかわかるでしょうが、あまりこだわる必要はないと思います。自分の好きな歌詞で歌うのがいいのではないでしょうか。

 なお、北上は「きたがみ」ではなく、「きたかみ」と読んでください。それが正しい地名だということもありますが、「きたかみやきょく」と読んだほうが、澄んだ感じがするからです。

(二木紘三)

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コメント

北上夜曲 良い歌ですね。
ありがとうございます。

投稿: はー | 2007年8月25日 (土) 01時01分

 曲の採用ありがとうございました。和田弘とマヒナスターズ・多摩幸子の組み合わせがぴったりの北上夜曲です。青春の思い出にふけります。

投稿: 野田 | 2007年8月29日 (水) 21時06分

二木紘三先生こんばんわ。
すばらしい抒情歌を有難う御座いました。
北上川のゆったりした流れが浮かんでまいります。
メロディーがまた素晴らしいです。

投稿: 波路 | 2007年9月20日 (木) 21時14分

小学生の時にバスガイドさんが教えてくれた歌です。
時々聞いています。私が体が弱くで修学旅行に初めて参加したときの歌ででした。

投稿: 太郎 | 2007年9月23日 (日) 21時10分

日課であるカラオケ・タイムの中の1曲でもあり私の故郷の曲でもあります。メロディだけでも歌詞を入れてもしっとりとしたいい歌です。
私が中学生の頃は北上川は松尾鉱山からの廃棄水の為に黄土色に濁った川でとても「北上河原のせせらぎよ~」という感じではありませんでした。
その後、浄化の努力のおかげで歌のようなイメージの川になりました。
多くの方々にすばらしい曲だと言っていただけるとうれしいです。

投稿: さりげなく | 2007年10月 4日 (木) 12時32分

さぎりなくさんへ
私は足尾銅山出身です。足尾鉱毒事件は有名だと思います。現在でも故郷に帰ることはないのですが、時々行きます。現在も黄土色の濁った川ですよ季節によっては汚い川のイメーイジが強いです。松尾鉱山にも同様な川だったのですね。治山事業がおくれていました。
足尾にも「足尾の四季」いうこれに似た曲があります。これを聞くと心が和やかになります。

投稿: onozaki | 2007年12月 6日 (木) 20時53分

初めてメールさせていただきます。25年ほども前になりますが、学生時代鉄道旅行が大好きで、各地で流れる駅に到着する前に流れるメロディーを楽しみにしておりました。この曲もその中の一曲です。本当に美しいメロディーだと思います。

投稿: ともとも | 2008年3月 9日 (日) 11時27分

この曲を聞くと昭和41年から2年間仙台に赴任していたころが懐かしく思い出されます。事務機の修理で仙台から秋田山形を列車で訪問していましたが、秋田行き急行「あけぼの」が北上駅に停車すると必ずこの曲がホームに流れて、旅人の耳に安らぎを与えてくれていました。駅弁販売のお姉さんも可愛かった。
今はもう流れていないそうですが残念です。
ただ、似たような話で、釧路駅が水森かおり版が発売されたのを機に「釧路の駅でさようなら」を特急「おおぞら」の際復活させたそうで、聞きにいってみたいと思っています。

投稿: syou | 2008年3月 9日 (日) 22時27分

「北上夜曲」も、時と場合お構いなく我知らぬ間に、メロディが口をついて出てくるというか、頭のなかで流れ出すというか、小生にとり最も親しみ深い曲の一つです。マヒナスターズのロマンチックな演奏が忘れられません。
 しかし、僕にとっての北上川のイメージは、このロマンあふれる「北上夜曲」ではないのです。数百キロの流れの、ある一点だけが北上川なのです。それは、義経自決の地といわれ、弁慶の立ち往生の場ーーー高館ーーから束稲山を望むと、その前方を悠然とくの字形に流れるその北上だけなのです。
 歴史大好きの子供が、とくに義経にひかれ、どうしても行きたかったところだったのです。大学2年の夏、四人でリュックとシュラフをかかえての貧乏北海道旅行の帰り、他の奴らは嫌というので仕方なく、一人で平泉へ。リュックは駅に預け登山靴のままで、駅から 中尊寺・毛越寺・無量光院・高館 これだけは観ておきたかったので、歩いたり走ったり 若かったですーーーその頃は。ただ、見てきたというだけでしたが、その達成感がうれしくて。 もうそれ以前から、義経ジンギスカン説
に傾倒していたり、変わった餓鬼だったんでしょうね。
 その後も何度か高館に立ちましたが、いつ行ってもすごい充実感があふれるのです。前世に何らかのつながりでもあるのでしょうか??鎌倉宮もそうですが、惨殺の場、自決の地ーーー何故ひかれるのでしょう。
  歴史に泣き、わが姿に涙し、大きく深呼吸をして前に向かっていこう、何があっても。ーーー

投稿: 能勢の赤ひげ | 2008年3月26日 (水) 22時08分

多摩幸子は菊地章子の妹ですよね。最初なんでこんな澄んだ
声で歌えるのかと思っていましたが、姉妹と聞いて納得しました。この曲は彼女の歌唱力で何倍もの魅力が増したと思います。

投稿: M.U | 2008年6月 6日 (金) 12時28分

太平洋戦争激しき時期、南方へ派遣された一人の士官が、北上河原で別れた恋人を思い詩を書いたところ、一緒に派遣されていた友人の安東睦夫が、手にしていた得意のギターを持って曲を付けたのが元曲となっています。その証拠に菊池は僕は生きるぞ 生きるんだ と生還の想いをつづっています。彼ら二人は無事に復員出来ましたが。不幸にも恋人は病死していたそうです。

投稿: 楽研同好誌編集一員 | 2008年7月13日 (日) 22時37分

八戸に本社のあるデーリー東北新聞社の記事に「安藤睦夫氏は旧制八戸中学校在学中の一九四一年、十七歳の若さで一夜にして「北上夜曲」を作り上げた」(http://www.dailytohoku.co.jp/news/2007/10/22/new0710221603.htm)というのがあります。

投稿: なとりがおか | 2008年7月14日 (月) 00時15分

私は八戸出身で 長兄は八戸旧制中学でした。
この歌が流行ったときに兄が自慢げにこの歌の出来た過程を話してくれましたが、いつも大げさなことを言う兄の話を信用しませんでした。
ほんとだったんですね!

投稿: おキヨ | 2008年7月14日 (月) 01時45分

いまヘッドホンで「北上夜曲」と「青葉城恋唄」を交互に聴いています。この二曲は東北を代表する抒情歌の双璧でしょう。メロディーといい歌詞といい、甲乙つけがたい名曲だと思います。
北上川と広瀬川の違いはありますが、初恋の人への想い・・・叶わぬ恋心は同じ歌のように響いてきます。東北の人の情感はこんなにも豊かなのでしょうか。
ヘッドホンで交互に聴いていると、贅沢と言うか邪道と言うか知りませんが、いま法悦の極致に達した感があります。(もちろん、晩酌の酒も入っていますが)
これからも“東北の地”を思う時、この二つの名曲を愛し続けていきます。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年7月14日 (月) 21時44分

私がこの歌をはじめて聞き、かつ覚えたのは昭和32年の夏、支笏湖畔のキャンプ場ででした。その後、就職して仙台に来たのですが、そこで歌われていたメロデーも当然同じでした。ところがその後、レコードがいくつか発売されましたが、そのメロデーは私が歌ってきたそれとは一部異なっていました。

どこがどう違うかというと、私楽譜が書けないので詳しく説明することはできませんが、今でもその最初に覚えたメロデーで歌うこともできます。

ところが、最近、ダークダックスの喜早哲氏がそのご著書の中に、盛岡ではじめてこの曲を聞き、かつ採譜したメロデーとレコード化するにあたって作曲者の菊地氏から示されたメロデーが違っていた旨の記載をみつけました。
もしかしたら、上記のことが関係あるのではないかと考えた次第です。

これもメロデーが口から口へ伝えられ行く中で変化したものなのでしょうか。

投稿: Y.K | 2008年11月15日 (土) 18時30分

私の初恋の思い出がよみがえります。彼女とはデパートの冬休みのアルバイト仲間だった。その時同じ地下食品売り場にいた男友達にから、「山のロザリア」と共に、この歌を教わりました。

二つの歌は、まだ純粋だった私の心を揺さぶりました。彼女とは、グループ交際で池袋のスケート場に行ったり、喫茶店に行ったりしました。とってもかわいい彼女でした。

数年後、電話があって銀座で会いました。日比谷公園などに行きました。その数日後電話があって「事情があって、お金を貸して欲しい」と言われました。友達に借りたりもして貸してあげました。

でも実は、彼女はその時、妻子ある男と駆け落ちの真最中でした。それは、私が彼女の両親宅へ電話したのでわかりました。お金は最初の2度だけ、小額を返しただけでした。私は怒るより哀れさを感じました。彼女が俺だったらと思うと、恨めませんでした。

実は、2年後、バッタリ日暮里駅のホームで会ってしまいました。彼女はびっくりオロオロして「すみません、必ず返しますから」と言いました。私は、「いや、君に上げたんだから返さなくていいよ」と言い、その時来た電車にすぐ乗りました。

投稿: 吟二 | 2009年2月14日 (土) 18時45分

小学校のときに親が買ってくれたレコードの中にこの曲がありました。歌っていたのは、ロイヤルナイツというコーラスグループです。この曲は純粋で哀しい初恋を歌っていますが、特定のモデルはなかったのだと以前きいたことがあります。だとすれば、すごい創作力だなと。

投稿: ひろ | 2010年2月11日 (木) 17時59分

目を閉じてこの歌を聴いていると、人の持つ愛情や哀しみがしみじみと感じられて、涙が浮かんできます。多くの歌手に歌われた曲ですが、私は芹洋子さんの優しい歌声が好きです。

仕事や私事のために、北上川は新幹線や車で何度も渡りましたが、河原へ降り立ったことは一度もありません。夕方の北上河原へ立ち寄って、澄んだ空気の中でこの歌を口ずさんでみたいと思います。

投稿: cosmosfish | 2010年3月30日 (火) 03時57分

北上夜曲の碑は北上市展勝地にあるものが有名です。
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/iwate/image/kitakamiyakyoku.jpg
しかし、本来は水沢市(現奥州市)にあるものが歌の誕生地にふさわしいのです。
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/iwate/image/2004_0606-0030.jpg
作詞者の菊地規は、大正12年、江刺郡田原村原体(現奥州市江刺区)に生まれた。
水沢農学校在学中に詩作をしたり、友人たちと同人誌を発行するなど創作活動をしていた。
当時、水沢農学校には安藤という配属将校がいて、菊地規と安藤とは同じ下宿に住んでいた。
この将校が安藤睦夫の叔父にあたる。

旧制八戸中学の生徒であった睦夫は、叔父の下宿を訪れて規と出会い、二人は意気投合した。
こうして、規は昭和15年12月に「北上夜曲」の歌詞を作り、翌16年2月、睦夫は規から渡された歌詞に曲を作ったのだった。

菊地規は農学校在学当時、通学に北上川に架かる小谷木橋を利用していた。
したがって、この小谷木橋のたもとの公園に歌碑を設置したのは、きわめて妥当なことなのである。
小谷木橋は東北新幹線水沢江刺駅から近いです。

北上市は1953(昭和28)年に合併の結果できたので、北上駅も以前は黒沢尻駅という名前でした。
横手と北上をつなぐ北上線も昔は横黒線といっていたのです。
新しい名前北上市をPRするには、この歌は効果的だったのです。

なお北上市展勝地にはサトウハチロー記念館があり、あの「ちいさい秋みつけた」のはぜの木の子どもがあるそうです。今度行って確認してきます。

投稿: みやもと | 2010年3月30日 (火) 21時05分

>なお北上市展勝地にはサトウハチロー記念館があり
>あの「ちいさい秋みつけた」のはぜの木の子どもがあるそうです。
>今度行って確認してきます。

行ってきたら
はぜを植えたが、北上は寒くて
根づかなかったそうです。
したがって、北上のサトウハチロー記念館にはありませんでした。
「ちいさい秋みつけた」のはぜの木は、地下鉄後楽園駅のそばの礫川公園に移植されました。

投稿: みやもと | 2010年8月22日 (日) 21時52分

この歌は聴くたびに・ハーモニカで演奏するたびに
胸が痛くなります・色々な事が浮かび駆け巡ります
いい歌ですね!ジーンときます!
北上夜曲・これからもハーモニカで演奏します!

投稿: 田中喬ニ | 2010年10月21日 (木) 10時33分

今度一度・北上に行きたいと思っています
北上川の河原に寝転んでみたくなりました。

投稿: 田中喬ニ | 2010年10月21日 (木) 10時40分

東日本大震災の被害者・関係者の方々に心からお見舞い申し上げます。70歳になる兄が仙台で暮らしておりましたので私も心配しておりましたが、大丈夫であったので安心しました。被災者並びに親戚縁者の方々のご苦労・御心労などを思うと心が引き裂かれる重いです。

歌詞の5番、「僕は生きるぞ生きるんだ」という言葉に明日に向かう強い気持ちを、歌い上げて勇気を与えられるようです。

半年以上前に、春には良い便りを送れるでしょうと書いた再三病気で入院手術を繰り返しているものです。

下の息子も4月から社会人となりました。
本人が頑張ってアルバイトをしながら大学院まで終了しました。
会社が倒産した上の子も、派遣から正社員に採用されました。
あとは、私が健康で働ければと思うのですが・・
今は元気で働いています。

「僕は生きるぞ生きるんだ」を励ましとして。

投稿: PURATON | 2011年4月 5日 (火) 14時52分

最近、このHPを見つけました。
北上市出身の私には何回も何回も聴いていると、いろんな風景が連想されます。今は東京に住んでますが、3・11の震災以降故郷を思う気持ちが強くなったのでしょう。

震災された皆様の早い復興と、お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。
「僕は生きるぞ生きるんだ」胸を打ちます。

投稿: こうき | 2011年5月14日 (土) 21時06分

北上市出身、現在大学生です。
北上夜曲に昔から興味があった為に、研究室にて教授から「何でも良いので調べて提出」と言われ、北上夜曲について調べることにしました。
安藤睦夫の随筆集を読んでいたところ、オリジナルであると思われる歌詞が掲載されていたので、ご報告がてらコメントさせていただきます。

一、匂い優しい 白百合の 濡れているよな あの瞳
想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 月の夜

二、宵の灯(あかり)を 点すころ 心ほのかな 初恋を
  想い出すのは 想い出すのは 北上河原の せせらぎよ

三、銀河の流れ 仰ぎつつ 星を数えた 君と僕
  想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 星の夜

四、春のそよ風 吹く頃に 楽しい夜の 接吻を
  想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 愛の歌

五、雪のチラチラ 降る宵に 君は楽しい 天国へ
  想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 雪の夜

六、僕は生きるぞ 生きるんだ 君の面影 胸に秘め
  想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 初恋よ


菊地さんは本当に素敵な歌詞を作られたなと思います。そしてその歌詞にぴったりな雰囲気の作曲をした安藤さんも素晴らしい方ですね。

時代が変化しても、初恋の見せる表情は同じなのだなと若者ながら考えさせられました。

投稿: おばら | 2012年1月 7日 (土) 18時29分

 この間、北上展勝地の桜を訪問しスライドショーにしてみました。そこで、貴ホームページの北上夜曲に出会い、この音楽ファイルをスライドショーのBGMとして使わせていただきたくよろしくお願いいたします。この北上夜曲は私にとっても忘れられない曲の一つで、聴くたびに胸が熱くなり、初恋の思い出がよみがえってきます。

投稿: 栗原 敬 | 2012年5月18日 (金) 13時56分

この唄が流行っていたころは、私か川崎の高校2年生17歳の時でした。群馬の中学校から転校、好きだった初恋の人はそのまま群馬の女子高生、修学旅行でたまたま北上川へ行く事になり、彼女に告白の手紙を出そうと何回も書き損じ、結局出さず仕舞いでした。我が身の気の弱さと口下手を、これほど後悔した事はありませんでした。それから半世紀、何処でどうしているやら見当も付きませんが、この曲を聴くたびに胸に込み上げてくるものを押さえる事が出来ません。懐かしさが沁みます。

投稿: 赤城山 | 2013年6月26日 (水) 16時40分

この歌は小生は神奈川県生まれ東京育ちですが、小学校のときにはやり、以来一番好きな歌で、50年たった今でも歌詞を覚えていて、時々口ずさみます。数年前仕事で北上市出身の若い人と知り合い、1番だけ歌ったのですが、驚いていました。作詞された菊地規氏、作曲された安藤睦夫氏は当時ともに10代だったとのこと、すごいことです。当時の殺伐とした時代にもこのようなすばらしい感性を持った2人偶然であってできた名作、日本の宝物ですね。「私は日活作品を見ましたが、どうしようもない愚作でした。」とのことですが、小生も数年前スカパーで観ましたが、まったく同感です。最悪でした。

投稿: 相模屋斎藤隆 | 2013年8月15日 (木) 10時15分

 ずばり、純情可憐な歌ですね。小学校6年生の頃、年上の姪に連れられて映画を見に行きました。熱狂的な観客だったような記憶があります。満席のため、立ち見です。ホレタハレタに興味のない小学生ゆえ、退屈でしょうがない。売店で買ってもらった酢昆布の味だけは覚えています。
 聞けば映画は駄作であったとか。ああ見なくて良かった。

 それにしても、2009年の吟二さんのコメントは秀逸です。プライバシーがどうのこうのとうるさい時代です。自分から言う分には問題なしです。コメントはかくありたいですね。(梵天丸はかくありたい・伊達政宗)

投稿: 紅孔雀 | 2013年8月15日 (木) 15時50分

この歌を友人から教えて貰った時は19歳でしたので、死というものに憧れがあり、「君は楽しい天国へ」に違和感がなかったのですが、年を経るにつれて楽しい天国へはおかしいのではないかと思うようになりました。「君は召されて天国へ」だったのですね。54年経ってやっと納得できました。最近、死というものが身近になってきた様に思います。

投稿: ハコベの花 | 2013年8月15日 (木) 22時15分

最近読んだ本です。

 赤坂 憲雄 (著)  北のはやり歌 (筑摩選書)  2013/10/15

人はなぜか失恋すると北に行く。
「津軽海峡・冬景色」も恋に破れ北に帰る女の気持ちを熊本出身の石川さゆりが歌う。

この本には「北上夜曲」にまつわる話が当然書かれていた。
そして、次の本が資料として載っていた。
 三好京三、北上川神楽囃子、チクマ秀版社、2003(平成15年)

直木賞作家三好京三は岩手県の小学校教師として昭和31年に赴任した種市町立宿戸小学校で、PTA会長の安藤睦夫に会い北上夜曲のいきさつを知る。

水沢農学校の生徒だった菊池規を甥の安藤睦夫に紹介したという配属将校は安藤清蔵という名前だったことも三好京三の本に出ています。

配属将校というと、当時は「雨に咲く花」が軟弱だとして歌詞を変えさせられた時代だから、甥の安藤睦夫や友人の菊池規たちの作った抒情歌など顔をしかめるのではないかと思ったら、三好京三の本には、配属将校の安藤清蔵は現役に戻りビルマ戦線で戦死したという。そして、壮行会の席で甥たちのつくった北上夜曲を歌ったという。もっとも、この話は小説北上夜曲の中にあるので、どこまでが真実かはわからないが、文学とか音楽が好きだった菊池規と安藤睦夫を引き合わせた叔父だから理解はあったのだろう。

裏話として、別の本で配属将校の安藤は酒好きで、酒代が多くそのため下宿代がなくなって、八戸の甥に頼んで下宿代を水沢まで持ってきてもらったそうである。岩手の美味しい酒が名曲北上夜曲を生んだことになる。

菊池規は岩手師範に進学し、中学を落第しながらなんとか盛岡高等農林に入ることができた安藤睦夫と盛岡で一緒に学んだという。ならば彼らは岩手大学の学生だったということになるだろう。戦後に岩手師範は教育学部に、盛岡高等理農林は農学部になったのだから。

なお、赤坂 憲雄「北のはやり歌」には、何カ所か、このサイト「二木紘三のうた物語」が紹介されています。

投稿: みやもと | 2015年2月16日 (月) 12時48分

私事で恐縮ですが若くして女房に先立たれて一人身の私は、「雪のチラチラ降る宵に君は楽しい天国へ、想い出すのは想い出すのは北上河原の雪の夜」の「北上河原」を「京都賀茂川」に置き換え「僕は生きるぞ生きるんだ君の面影胸に秘め」のところで、まだ生きながらえている孤独な自分に哀しくて泣きながら歌うのです。

投稿: SK2 | 2015年11月26日 (木) 11時33分

かおりもやさし白百合の ぬれているようなあの瞳
想いだすのは、想いだすのは
北上川のせせらぎよ
この歌詞は、終戦直後昭和21年ころから旧水戸高等学校の暁鐘寮の中で、寮歌とともに愛唱されていた歌である。食べるものも着るものまない、貧しく厳しい寮生活の中で、階段を上る体力もない。そんな環境の中で唯一の慰め、希望であった。
それから10年過ぎて昭和30年代、TVなどを通じて「北上夜曲」という曲名で。全国に愛される歌になっていった。歌詞は多少違うが、メロデーはほとんど同じ。作詞、作曲者も特定された。
なんで今頃になって。10年前の歌ではないか。それにしても、あの終戦当時。どのようにして、どこから、誰が水高の暁鐘寮に持ち込んだのか。もちろん、ラジオもTVもノートもペンもなく不自由な時代に。
この疑問が今までこの歌を歌うたびに、聞くたびに浮かび、未解決のままだった。
それが、
二木紘三さんの歌物語によると
昭和20年の初めころより、盛岡、仙台あたりから自然発生的に歌われだした。
昭和30年の初めころから、歌声喫茶の定番曲になった。
昭和36年、和田弘とマイナスターズ、多摩幸子がうたい大ヒットした。

上記の記事で多少明らかになってきたが、未だ、不明な点も多い。
70年以上も過去のこと。知る人もなくなってきた今。解決しておきたい問題の一つである。

投稿: 伊藤昭一 | 2016年11月 1日 (火) 12時08分

ソプラノの鮫島由美子さんがこの歌を、情感たっぷりに歌い上げています。感動しました。

投稿: 長沢 徳 | 2016年11月24日 (木) 21時40分

訂正です。ソプラノの鮫島さんは、由美子が有美子でした。
申訳ありませんでした。
別件ですが目下ロシア民謡の(白い)鶴にはまっています。ソロ、合唱などで、子供から大人まで歌われているようです。

投稿: 長澤 徳 | 2016年11月25日 (金) 09時06分

偶然 見つけました♩『えっ北上夜曲って曲あるの?』と言う娘の言葉。「ら?名曲よ」教えていない私も悪い。すぐ様歌いました😄 『歌詞あんの?』と(^o^) 娘は専修大学附属北上高等学校吹奏楽部卒業生で、この部では唯一 [北上幻想曲]という 北上夜曲を交響曲にして演奏しております。日本全国の皆様どうぞ聴きにいらしてくださいませ。とってもいい曲です⭐️。この場をお借りして宣伝させていただきます。毎年定期演奏会のラストを飾る曲です。また北上市では夕方5時に流れる曲(大概ドボルザークの新世界ですよね)は北上夜曲ですよ。原曲を知らないで演奏していた平成生まれの娘の話でした(笑) あんべ

投稿: 安部 潤子 | 2016年12月23日 (金) 16時47分

この曲でフォークダンスのワルツを踊った方はいらっしゃいませんか。「山のロザリア」も同様です。曲が発売された昭和36年に東西の大学ユースホステルクラブの連絡協議会が設立されユースホステル運動は一段と盛んになりました。ホステルでのミーティングやラリーで、歌とゲーム、ダンスは必須でした。いつまでも高校生のようなオクラホマミキサーではと、フォークダンスもワルツやタンゴを踊っていました。クラブの資金集めのダンスパーティーでも大半はボックス位しか踊ってない昔の話です。YHもある意味の役目を終えました。学生のダンスパーティーなどまだあるのでしょうか。

投稿: しょうちゃん | 2016年12月23日 (金) 22時45分

北上夜曲発祥地の奥州市江刺区愛宕の北上川、桜木橋の入り口に北上夜曲発祥の看板を建てていますので見に来て下さい。此の近くの下宿先で菊地と安藤が知り合い名曲が生まれました。その後、歌碑を建てる話が有ったのですが地元にはお金が無く没になりました。隣の北上市が曲の名前と同じと云う事で歌碑を展勝地に建立したそうです。桜木橋の看板には二人の写真が載っています、文面は私が携わりました。

投稿: 熊谷史夫 | 2017年3月20日 (月) 17時10分

北上夜曲が流行った時は中学3年生でした。
恋に恋する少女の胸に響きました。
星を数えるような恋に憧れました。
しかし遠距離交際の為に夕刻には汽車に乗って帰らなければならないので「星を数えた君と僕」の場面はついに訪れませんでした。結婚してからはすぐに酒を召し上がる方だったので~残念ながら~星を数えることは叶いませんでした。せめてもの、憧れの、又は憧れだったスターのお顔でも思い浮かべることにしましょうかね。
今は亡き 児玉清さん。14年前?寂聴の青空説法(同じ岩手ですね。北上夜曲と)に随行なされた榎孝明さん。榎さんの深いまなざしに吸い込まれそうでした。スターにときめく心は50年ぶりでしょうかね。
罪がなくていいものです。

投稿: りんご | 2017年3月23日 (木) 20時42分

世情を鑑み 気分不良のまま

 鎌倉から 平泉へタイムスリップしました

 高館から臨む 束稲山の桜の盛りは 今頃でしょうね
 
 義経も 見られたであろう満開の束稲

   ながめてみたいものです

   歴史の残酷さ 人間社会の愚かさ 馬鹿さ

 生きているかぎり 頭の上からギューギュー何ものかで
 おさえつけられているような そのような異常な社会
 
 21世紀になると もっとよい時代がくるーー との期待 は 飛んでいってしまいました

  しばらく 叙情的な旋律をききながら
     こころの平静を保つことといたします

 りんごさま
  私事は つつしまねばと思うのですが

 以前 書かれていた 
  水村美苗氏の 日本語が亡びるとき 
 今 ほぼ 読み終わりました   全く自分では手をださないジャンルの本でした  
 新鮮で 感慨深く読ませていただきました     有り難うございました 
 

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年4月20日 (木) 15時13分

いつ聞いても甘く切ない思いに
浸れる良い歌ですね。

この場をお借りして能勢の赤ひげ様
水村美苗氏の著書、もう一冊お勧め致します。
この歌のような甘く切ない思いに浸れる本でもあります。
甘く切ないだけでなく内容の深い骨太な小説です。
「本格小説」モデルもありなかなか読ませます。

投稿: りんご | 2017年4月21日 (金) 13時00分

東北新幹線が開通して間もなくしてから乗車し、当時は各停車駅でご当地ソングが流れていました。終点の盛岡駅の手前の北上駅に到着間際で北上夜曲が流れて来ました。うっ、心に染み渡る何ていい曲なんだろうと強く思い、それからこの曲が好きになってしましました。時々時間がある時は北上夜曲を詩の情景を思い浮かべながら聞いています。

投稿: あつし | 2017年8月27日 (日) 13時38分

あつしさまのコメントに共感しております。
情景の浮かぶ名曲ですね。切ない思いがあふれて涙ぐんでしまいました。

赤子が夕方意味もなく泣くように老人にも黄昏泣きがあるとは
二木先生の蛇足だったのかエムズの片割れ様のblogであったか失念。
東北地方に降り募った雨もやみ
大曲の花火、当県の新庄まつりもぶじ終わり
本日この時刻は寒さのために網戸も閉める程。
秋の気配 老いの気配に 寂しさが募ってきます・
二木先生の「北上夜曲」を聴いていると寂しさが懐かしさに変わります。いつしか日はとっぷりと暮れました。皆様今宵も良い夢をみてください。

投稿: りんご | 2017年8月27日 (日) 18時50分

昔流行りました。そう、高校生のころでしょうか。東京であった高校の同窓会で、ある方が歌を披露されたそうです。
 私は後日の報告誌様のもので知りました。「北上川」はまだ見たことがありません。一度訪問したいところです。

投稿: 今でも青春 | 2017年8月28日 (月) 17時18分

何気なく

  夕食のできるのを待って
 リビングのソファーに横になって テレビに目をやった

 背の高い 品のいい方が話している
  丁度 今 始まったばかりの番組のようだ
    七時 一分 くらい

 最近は リビングで寝そべってテレビをみる 習慣はなく  
 また  チャンネルを適当にまわして 適当にみるだけで  
   すきそうなものでも 開始から
  しばらく経ったものは あまり見ないようだ

 少々の完璧主義が災いしているのかーーー

 しかし この村上弘明さんが語り導く このBS番組には
  気持ちが動いた

 奥州 藤原清衡の治世 宗教観  「仏国土」を目指した史実と 
  それに連なる 現在にいたる伝統 習慣 祭り
  などが ちりばめられながら 心地よく場面は
   展開されていく

 僕の 大いに心惹かれる地 平泉 が主題である
  (大学時代から 五回訪ねている)

 平安時代中期からの 坂上田村麻呂に代表される
    朝廷の奥州への勢力拡大  
   その後に続く 
    前九年の役  後三年の役
  そして 平泉を中心とした 奥州藤原三代の繁栄

 清衡が陸奥守として奥州を治めるまでの 数百年
 殺略 殺戮されていった 数多くの奥州人 蝦夷 を
 憂い 祀り  平安な国家を築くためにまい進する
   清衡  基衡  秀衡 
 
  そのため 建立された 
 中尊寺 (金色堂)  毛越寺  無量光院
  東北に生きる人々のための 国の建設

 仏教を元として 金鶏山におちる夕日が
  西方浄土であるとの 信仰から
   無量光院を つくる 秀衡

 素晴らしい 精神的充足のため ものはつくられていく
 
 
 また さいごには  

 束稲山からの 平泉全貌が映像としてながれてきた

 以前から  高館からの束稲山の満開の桜が観たいと
 かいたが  
  今回は 束稲頂からの 平泉
  もちろん 眼下にたゆとう北上の流れを越え
   金鶏山を真ん中にしての三つの寺 がながめられ
   
    至福の ひと時であった

 この 荒々しい時代に 民衆の安逸をねがっての
   国家建設と 運営  
  よき歴史 よき人の知恵を見せていただき
    
    目から鱗であった

 現在の ちっぽけな心しかもたない者どもに
  支配された薄汚れた社会  
    どうにかならないのか
      どうしよう
 
  の一念に集約されている 

 そう思いながら  名曲  北上夜曲

  の名演奏を聴いている  

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年6月 3日 (日) 19時56分

 旅行が好きな性分で、学生時代からのケチケチ旅行、仕事の出張、道楽の登山などで、47都道府県のうち、足をつけていないのは、茨城、宮城、岩手の3県になりました。外国に住んでいるので、どうやら3県は未踏の地として、終わりそうです。
 北上夜曲を聞くと、宮城、岩手はとうとう行かずに終わるのかと、少し未練な気持ちになります。とくに岩手は行ってみたいところです。
 私の場合は、岩手県水沢出身の蘭学者高野長英の故郷ということで、その山河のたたずまいを見て「ここで生を享けたのか、ふ~ん」という、独りよがりな感慨のために行くのですが・・

 高野長英の晩年の生き方は、日本人離れした壮絶なものです。
彼は優秀な蘭学者でシーボルトの鳴滝塾の塾頭を務めたほどでしたが、江戸に戻った後、幕府の鎖国政策を批判したのが災いし、保守派から不当な弾圧を受け獄につながれます。(蛮社の獄)
 長英のすごいのはこれからです。
彼は、江戸伝馬町の牢屋に出入りする者を買収して、牢に放火させて、規定によって3日の期限付きの放免措置を受けますが、牢に戻る気は初めからなく、そのまま指名手配のかかった逃亡生活に踏み切ります。
蘭学、西洋医学の探求がしたかったために、死刑覚悟の逃亡生活を決めたのでした。
顔を硝酸で焼いて人相を変えたという。
およそ6年間の逃亡の末、密告され、奉行所に踏み込まれ、奮戦して自害します。(死に方に異説もある)
学問の研究の末に、理性的判断から反権力の道を進まざるをえなくなって、入獄。その後たった一人で脱獄、死ぬ間際まで、しぶとく権力に抵抗しました。
「群れず、騒がず、尻馬に乗らず、たった一人で静かに権力に抵抗した漢」を感じる人物です。
この人は、もっと評価されていい人だと思います。

投稿: 越村 南 | 2018年6月 4日 (月) 00時30分

渡辺崋山や高野長英のことは、とっくの昔に忘却の彼方にありましたが、越村南様のお話に触発されて、今まであまり縁のなかった吉村昭の「長英逃亡」を読んでみたくなりました。
先日、能勢の赤ひげ様から吉村昭 掌編集「天に遊ぶ」をお借りして、彼の死生観 人間の生と死、愛と憎しみをとらえる心の目の鋭さに魅かれ、はまりそうな予感がしていたところです。

二木先生 越村南様、 能勢の赤ひげ様 他の先輩諸氏からは、いつも多くのことを学ばせて頂き感謝です。

投稿: あこがれ | 2018年6月 4日 (月) 08時41分

これからの季節は「北上夜曲」が特に懐かしく思えますね。
岩手には4度行っております。平泉中尊寺、県立博物館、イーハトーブの丘、浄法寺町、天台寺にての寂聴の青空説法といずれも記憶に残る心の旅となっております。
当県、新庄終点のミニ新幹線なれば同じ県内の日本海側、地図で見ると一跨ぎの岩手県は東京に行くよりも難儀です。(尤もマイカー運転の技量があればその限りではありません)


吉村昭は亡夫が愛読していたので50代に「長英逃亡」も読んでいるが岩手県水沢の出身とは存じませんでした。現在は奥州市水沢ですね。
越村さま、あこがれ様、能勢の赤ひげ様ほかの皆様方には
いつも多くの気付きを頂き感謝しております。

投稿: りんご | 2018年6月 4日 (月) 09時13分

二木先生
  今日は 暗さ 悲しみとの付き合いで
   何を書くのやら お許しください

  不適切との判断のときは どうぞ お消しください

  この 北上夜曲 に歌われているのは 現代の男女
    義経のころではないでしょうね

  12世紀半ば 平泉の古図を眺めると 北上は束稲山近くにあり 
   現在の高館近くを流れていたのではないのですね

  義経 成吉思汗説    義経北行伝説は
   この 北上川をどう渡って 宮古 八戸への逃避行
  が始まるのか ここからがスタートです

  もちろん 高館に泰衡にせめられ 万事休す 
   正妻子供を刺し殺し 自刃したと成書には書かれてはいますが 
   希代の英雄 義経が 泰衡程度の攻め
     に謀殺されるはずがない ( 判官びいき )
   弁慶の立ち往生は 弁慶の衣装をきせた藁人形
     いくら矢があたっても 倒れないはず

    などなど 疑問が残っています

  やはり 義経は成吉思汗なり はロマンです

  シベリア出兵時 沿海州 シベリア 蒙古を
    調査された 小谷部全一郎氏の足跡をたどり
   義経は成吉思汗なり をいろいろな方面から
   研究したいと思うこの頃です

  義経も見ただろう 高館から望む 束稲の桜
    臨み見ることができれば 義経北行の
   何らかのヒントが得られるのではないだろうか

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年12月 6日 (木) 00時25分

能勢の赤ひげ 様

 いつも、思いの籠った投稿を読ませていただいております。お医者様の様ですが、あなた様の様な医者に、最後を看取っていただきたいものです。
 
 私もこの歌は、好きです。自分の忘れられない思い出と共に・・・。
 最近、北陸、中部方面への「終活旅行2」へ行って来ました。その中で、(岐阜県郡上市白鳥町)石徹白と言う地区に行きました。そこは、昭和30年代前は、福井県大野郡石徹白村でした。
 そこの、あるお堂に銅造「虚空蔵菩薩坐像」(1.5m立方位の大きさ)が保存されていました。堂守の方のお話では、昔、岩手県平泉から、運ばれて来た物だそうです。運んで来た人々の一部が、その地に定住し、堂守の方の姓「上村」なのだそうです。
 私には、その真贋は判りませんが、「石徹白」は白山登山の美濃禅定道の起点であり、昔の人の信仰心の厚さに、それも有かなと感じました。
 もし、本投稿に、ご返事頂けるならば、私信になるでしょうから、「うた物語」交流掲示板の方に、お願いします。 お元気で。

投稿: 竹永尚義 | 2018年12月 6日 (木) 17時46分

一般的には4番として歌われているものは本当は6番で、その前に4番、5番があるのですね。ところで原曲のメロディは少し違っていて「思い出すのは思い出すのは」のところが「ミミラ#ソシラミレミファラ#ソファミ」ではなく「ミミラ#ソシラミレミファラ#ソ#ソミ」で一部のレコード、CDでもそう歌っています。歌碑の楽譜もそうなっています。30年位前、「アコーディオンジャーナル」という雑誌に安藤さんが書いた楽譜が載っていました。

投稿: 関口邦行 | 2019年2月15日 (金) 10時35分

通りがかりですが。
小さいころから好きな歌でしたが、そんなに古くに作られたものだとは、知りませんでした。
以前、盛岡を訪れたとき、北上川の橋の上から北の方に高い山が見えましたが、あれは岩手山だったのでしょうか。

それにしても、お二人で肩を並べて星を数えられるような河原は、北上川のどのあたりなのでしょうか。やっぱり、作詞者のご出身の江刺あたりなのでしょうか。 今は奥州市になっているようですが。 中尊寺のあたりものんびりして、いいところだなあと思った記憶があります。

北上川、ときくと、なんとなくロマンチックな思いがしますが、この歌のお蔭でしょうか。

投稿: 金木犀 | 2019年2月17日 (日) 16時41分

やはらかに 柳青める 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けと如くに(啄木)
北上夜曲のコンクールが毎年開かれていると昔聞いたことがあります。

投稿: 樹美 | 2019年2月17日 (日) 19時21分

青春を偲ぶ歌は、と訊かれるなら、「あじさいの歌」を挙げたいと思います。1960年高知県宿毛高校生だった宮本偉(スグル)氏が作詞、担任の柳井卓先生が曲をつけられた歌で、小生らのころ県下の女子高生の間で静かに歌われていました。全国には広がりませんでした。
(一番)雨に濡れてる手の中で ひとり泣いてるあじさいの
   うるんだ瞳の せつなさが ここまで二人をつれてきた
(四番)波のよせてる砂浜に うちよせられたあじさいの
   静かな寝顔のやすらぎが ここまで二人をつれてきた

若いときにしまいこまれた歌は感性が薄れたころになっても懐かしいですね。
北上夜曲のコンクールは二三回で幕を下ろしたとパソコンでみました。     

投稿: 樹美 | 2019年2月19日 (火) 10時01分

高校の時「北上夜曲」を良い歌だからと、従姉妹に教えていました。
間違うと「頑張って全部覚えよう」と何回も教えていたので、
母に「無理に教えるな」と。

樹美さん紹介の歌は「あじさい」のようです。良い歌ですね。
http://www.utagoekissa.com/utagoe.php?title=ajisaimiyamoto
JASRACでは「柳井卓」で検索すると数曲ありました。

投稿: なち | 2019年2月19日 (火) 14時21分

5月の東北ツアーの際にバスガイドさんから、作詞者の菊池規さんは10代の時、初恋の相手と心中事件をおこし彼女のみ亡くなったと聞きました。その後、教職に付き最終は高等学校の校長となり63歳で彼女の元へ旅立たれたと。
僕は生きるぞ 生きるんだ 君の面影 胸に秘めの人生を全うされたんですね。

投稿: Hana | 2019年6月22日 (土) 14時26分

「北上夜曲」日本の数ある抒情歌の中にあって、いつまでも人の心に残って離れない、まさに名曲とも云えるこの唄を作詞した菊地規とその詩にメロディをつけた安藤睦夫の二人が、当時まだ十代だったことに私は驚かされます!

この作品は5番までありますが、そのすべてに、詩の中にあるその情景が脳裏に浮かび、またその切なくも悲しげなメロディが心に深く沁み込んできます。
最近では時代の流れもあり、あまり聞かれなくなってしまった言葉ですが、この作品には若者の純愛の尊さが私には強く感じられます。

昭和35年にダークダックスが盛岡へ演奏旅行をした時、盛岡在住の慶応大学出身者の宴会に呼ばれ、その二次会で4人はこの唄を知ったそうです。早速、その席で採譜し、持ち帰ったところ、レコードの企画が持ち上がりました。「精選盤・昭和の流行歌・森田潤氏解」

「北上夜曲」少年のころは特にこのメロディが好きで、よく口ずさんでいましたが、歳を経て行くうちに自然に詩が心に沁み込むようになり、現在ではこの作品はより私の心に響く唄になりました。


投稿: 芳勝 | 2020年1月15日 (水) 18時42分

 先日私が卒業した高等学校の音楽のU先生の追悼コンサートが開催されました。この先生の前任者K先生にこの「北上夜曲」を教えていただいたことを思い起こされました。
 K先生は入学したばかりの音楽の時間に、北上夜曲を黒板に書き始めました、確か6番くらい迄あったと思います。
 そして「この歌はいま全国の若者の間で流行っている歌で、高校の教科で教えるのは憚られるが良い歌は覚えておいた方が良いので、今日はこの歌を覚えましょう」といってみっちり指導されました。
 そしてとくに『‥楽しい夜の接吻を‥』やさしく
「口づけ」と歌うよう」と強調され田舎町の当時初心な私など目を輝かせたものでした。
 以来、何かにつけこの曲を一人ごとのように歌ったものでした。
 当時はあのような教師もいらしゃったんです
ネー。

 

投稿: 伊勢の茜雲 | 2020年1月24日 (金) 22時50分

昭和30,40年代、いろいろなバンドやグループの演奏で覚え、よく歌いました。
当時の自分たちの伴奏楽器はウクレレかハーモニカでした。
クロマチックハーモニカで吹いてブログにアップしてみました。
演奏使用、ありがとうございました。

投稿: ゆるりと | 2021年5月 3日 (月) 11時17分

今でもカラオケスナックでよく唄っています。カラオケのリクエストが多い曲の一つですが、採点で高得点が出やすいのもあるみたいですね。昔昔、テレビで確か新東宝の「北上悲歌(えれじー)」という映画でこの曲がうたわれるのをを観た覚えがあります。

投稿: ターちゃん | 2021年8月23日 (月) 16時46分

昔昔純真無垢な13歳の乙女を妻にと追いかけて来た、人がいました。
12歳も年上の教師でした。唯一その彼は、私に「この歌知っている?僕の友人が教えてくれた歌」私は初めて聴くその歌に、思わず「あと?年待ってください」などと口走ってしまいました。
(北上夜曲)その詩、その曲でした。けれど大人になった私には到底受け入れる事の出来ない人でした。歌だけを抱いて私は去りました。「僕は生きるぞ生きるんだ、、、」と後ろから聞こえました。60年以上流れた今その人は召されて天国へ旅だったそうです。パソコンの画面に映る彼は若かりし頃の「北上夜曲」を唄っていたその人でした。

投稿: かずえ | 2022年4月 8日 (金) 23時07分

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