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2007年8月15日 (水)

誰もいない海

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:山口洋子、作曲:内藤法美、唄:トワ・エ・モワ<

1 今はもう秋 誰もいない海
  知らん顔して 人がゆきすぎても
  私は忘れない 海に約束したから
  つらくても つらくても 死にはしないと

2 今はもう秋 誰もいない海
  たった一つの 夢が破れても
  私は忘れない 砂に約束したから
  淋しくても 淋しくても 死にはしないと

3 今はもう秋 誰もいない海
  いとしい面影 帰らなくても
  私は忘れない 空に約束したから
  一人でも 一人でも 死にはしないと

  一人でも 一人でも 死にはしないと
  ルルルールルルル……

《蛇足》 昭和45年(1970)に、トワ・エ・モワ(山室英美子と芥川澄夫)の歌でヒットしました。

 トワ・エ・モワは昭和44年(1969)、『或る日突然』でデビュー、その後『空よ』『誰もいない海』『初恋の人に似ている』『虹と雪のバラード』などのヒットを飛ばしました。
 昭和48年
(1973)、山室英美子はソロに転じ、芥川澄夫は音楽プロデュースの世界に活動の場を変えました。山室英美子は昭和50年(1975)、結婚して白鳥姓となり、夫とともに渡米。

 ユニット結成から30年目の平成11年(1999)から、それぞれの活動と並行して、トワ・エ・モワとしての活動も行うようになりました。

 作詞者の山口洋子は現代詩畑の詩人で、『よこはま・たそがれ』など数多くのヒット曲を作詞した山口洋子とは別人。

(二木紘三)

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コメント

秋の海は人の心を癒してくれる場所なのでしょう。そして
歌が生まれ所かも。

投稿: M.U | 2008年6月11日 (水) 13時21分

♪ たった一つの 夢が破れても
  私は忘れない 砂に約束したから
  淋しくても 淋しくても 死にはしないと ♪

・・・つらかったとき慰められた曲です・・・

投稿: エスペロ | 2009年10月 6日 (火) 10時04分

しみじみとこころに染みる曲です。人は失意に落ち入ったり、失恋したり、絶望の淵に立たされたりしたとき、なぜ海を思い、海に憧れ、海に癒されようとするのでしょう。若い頃読んだ三好達治の詩に、『海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がいる。』という一節があったことを思い出しました。確かに「海」という漢字の中には、「母」という字があります。「母なる海」とも言い、海は人のみならず、あらゆる生命を生み、育ててくれた源です。だから人は自分の生命が危機的状況に陥ると、「母なる海」に優しく抱かれ、再び命の息吹を吹き込んで欲しいと願うのでしょう。
 この歌がリリースされた昭和45(1970)年は、政治的には第二次安保闘争が終結した年です。この闘争のクライマックスは前年で、東大紛争や新宿駅乱闘事件など世情騒然としていた記憶があります。この闘争は、学生(全共闘など)主体の激しい運動でしたが、結果的に日米安全保障条約の改訂を阻止できず、挫折感や絶望感を体験した若者が多かったのではないでしょうか。さすがは山口洋子さん、鋭敏な感覚で、この時代の若者の心を読み取り、詞にしたんですね。
 あれから40年、湘南海岸は“秋”にもかかわらずサーフィンに興ずる若者で大賑わいです。今の若者にも、当然失恋や挫折はあるのでしょうが、一体彼ら、彼女たちはどこでそのこころを癒しているのでしょう。

投稿: ひろし | 2009年10月13日 (火) 15時44分

この歌は日本人が作ったシャンソン(と断定できるのかどうかは別にして)では屈指の名曲だと思います。
しかし、その誕生には不思議なものを感じます。
先ず、作曲があのシャンソンの女王越路吹雪の夫君内藤法美であるのに、最初のレコードは当時まだ若手であった大木康子が吹き込んだこと。
次に、作詞がかの名作詞家山口洋子ではなく同姓同名の詩人山口洋子によること、です。

投稿: 周坊 | 2009年10月15日 (木) 17時45分

周坊様
 この歌の作詞家山口洋子さんは、銀座のマダムで『よこはま・たそがれ』など多数のヒット曲を手がけた彼女ではなかったんですね。銀座マダムの彼女も才人なので、わたしはてっきり彼女の作品と勝手に決めていました。同姓同名の方だったとは、寡聞にして知りませんでした。ご教示いただきありがとうございました。この歌の作詞家山口洋子さんは、『誰もいない海』を作詞するにあたって、どのようなイメージをお持ちだったんでしょう。わたしは昭和40年代に吹き荒れた学生運動がそのモチーフになったものと、勝手に決め込んでいたのですが。

投稿: ひろし | 2009年10月15日 (木) 23時17分

ひろし 様
 私も彼の有名な作詞家の山口洋子だろうと思っていました。
 実は、動画サイトでナツメロを聴いていて、そのサイトの訪問者の投稿のコメントで偶然知っていたただけで不思議だなと思っていました。ですから詩人の山口洋子について何も知識はありませんし、何故越路吹雪が最初から歌わなかったのかも知りません。

投稿: 周坊 | 2009年10月16日 (金) 23時01分

周坊様
 この歌について、ちょっとネットで調べてみました。内藤法美(つねみ=越路吹雪の夫)が、なぜ妻である彼女に歌わせずに若手の大木康子(シャンソン歌手)に歌わせたのか、という疑問ですが、どうも越路吹雪自身の依頼みたいですね。年上女房の彼女は、結婚によって夫の作曲活動が制約をうけないようにいろいろ気を使っていたようです。そこで自分だけでなく、他の歌手にも曲を提供するように仕向けたのではないかと思われます。何といっても、二人のおしどり夫婦振りは芸能界でも有名で、とくに年上の越路吹雪の夫法美に対する献身的な愛は、特筆すべきものだったそうです。もっとも、彼女もトワ・エ・モアと同年にレコーディングしていますが、ご承知のようにヒットしたのはトワ・エ・モアの方でした。このあたりはフォークソングブームを予感させますね。因みに、コーちゃん(越路吹雪の愛称)のものも聴いてみました。これはこれでシャンソン風にシャレているように聞こえましたが、わたしの耳の錯覚かもしれません。他にも、たくさんの歌手がカバーしています。布施明の歌い方はカンツォーネ風で、これも捨てがたいです。
 作詞家の山口洋子についてですが、よくわかりません。ただ、学生運動との関わりはないようです。これはわたしの早トチリでしたが、結果として、この歌が昭和40年代後半の学生運動に挫折して、傷ついた若者のこころを癒したであろうことは間違いないように思います。

投稿: ひろし | 2009年10月19日 (月) 00時25分

ひろし様
なるほど、歌の誕生には様々な経緯があるものですね。
いろいろとありがとうございました。

投稿: 周坊 | 2009年10月19日 (月) 22時59分

この曲がヒットした年は大阪で万国博覧会が開催されました。会期が終わって、パビリオンの解体工事が行われている会場を背景に、トワエモアの二人がこの曲を歌っていたのが印象に残っています。夏の喧騒が去った場所でこの歌を聞かせるなんて、この番組を企画した人はきっと叙情的なセンスがある人だったのでしょう。
同じようなモチーフで書かれ、トワエモアが歌った曲に『季節はずれの海』があります。こちらの方ははっきりと、“あの人の思い出が忘られず”、海を訪れていますが、『誰もいない海』の主人公が海を訪れた理由は必ずしも恋だけではないようです。我が国には海を見ると心が落ち着くという人が多いですが、海洋民族の血でしょうか。

投稿: Yoshi | 2011年6月12日 (日) 20時13分

海には美しさと同時に底知れない恐れを感じるので、遠くから眺める方が好きです。体質的なことから真夏の紫外線を浴びることを禁じられて、海水浴の経験がないからでしょうか・・・。
進路を途中で諦めざるを得ず、苦しかった頃の若い私は、トワ・エ・モアの「誰もいない海」に慰められました。「白鳥英美子&トワ・エ・モア」のCDを一枚持っていますが、「誰もいない海」は年老いた今も、辛い時に聴きたくなるようです。
同じCDに「虹と雪のバラード」が収められています。作詞者の、医師であり詩人であった河邨文一郎先生には何度かお目にかかったことがあり(父の所にお見えになったので)、高校生だった私は詩集を一冊頂いた思い出があります。後に「虹と雪のバラード」が札幌オリンピックのテーマソングになったときは嬉しく思いました。


投稿: 眠り草 | 2012年8月16日 (木) 13時47分

傷ついても、挫折しても、死なないで生きていくんだ。生きるよりほかにどんな手があるんだ。あの時代から遙か後に、左様な思いにとらわれたことがあるのを思い出します。人の生に於いて、若い時だけでなく様々な場面で起こり得る…。

眠り草さん、お元気でいらっしゃり何よりです。「底知れない恐れ」は私の幼児風景です。カッと照る夏陽の海原に育ちながら、海に潜る度に遠く深い青さが怖くてなりませんでした。風景としての海と、潜って内にいる海とは私には大違いでした。 肉体感覚的なその怖さは年齢と関わりなく今でも抱いています。

詩作に籠められた語りと、心が癒される綺麗な調べとを、巧みな二木さんの演奏で楽しむことができ、有難うございます。
尚ラップトップに小型スピーカーを取り付け、MP3ながら臨場感あふれるようになりました。右耳だけなのが残念。ステレオ仕様ならば家族知人に素晴らしいです。

投稿: TangoMinato | 2012年8月16日 (木) 18時23分

この歌は今の私の心象風景そのもです。
ひろし様はじめ  皆様の秀逸なコメントとは異なる
感性です。
30代の私もこの歌は好きでした。好きな余りに  当時中学生の長女のクラス対抗の合唱コンクールの自由曲に「誰もいない海」を選びました。長女がピアノ伴奏で自由曲を決める権利があったのです。教育ママの私は自分が好きな曲をいつも決めてあげ?ていたのでした。(中学時代の各学年)それがトラウマとなった長女からは今も恨まれています。
当時は青春の歌とも思えたこの歌が今では
老境にふさわしい歌に思えるのです。
「今はもう秋  誰もいない海~
今はもう人生の秋 大切な人 親しい人も遠く
手の届かない世界に旅立ってしまった
淋しくても  辛くても  死にはしない」

浅はかで自分勝手だった 母親業をやり直せるものならと思うにつけ涙が込み上げてきます。
同じ歌でも聞く年代によっても受け止め方が異なるものですね。

投稿: りんご | 2017年7月31日 (月) 20時10分

先日、この曲が偶然ラジオから流れてきた。
車の中で何故か涙が溢れ出てくる。
20代30代の頃には気にも留めなかった曲なのに。

帰宅してから、早速ピアノで弾いてみた。
シャンソンぽい曲調だと感じ、検索したら、
このサイトにたどり着きました。

この素晴らしい曲を生んだ詩人の山口洋子さん、
作曲の内藤法美さん(故人)には深く感謝申し上げたい。

投稿: 知秋 | 2017年10月24日 (火) 00時42分

美しくて淋しく悲しい曲ですね。
一人で引きこもって聴いたりつぶやくようにして歌う曲ですね。

今年の夏釧路市の海岸で亡くなられた中国人女性、危秋潔さんが思い浮かびます。
たった一つの夢が破れたのでしょうか・・・
いとしい面影が帰らなくなったのでしょうか・・・

写真では私の故郷の海岸と日本海が思い出されます。
いとしい面影が思いだされます。

投稿: yoko | 2017年10月24日 (火) 15時34分

「誰もいない海」トワ・エ・モアが歌うこの素敵な曲を、私が初めて耳にしたのは高校生の頃で、当時ラジオで毎週日曜日に放送されていた、ロイジェームス司会の人気番組・『不二家・歌謡ベストテン』でした!

デビュー曲「或る日突然」を聴いた時から、なんとも云えぬその新鮮さとさわやかさを感じてはいましたが、次に出たこの「誰もいない海」を聴いたあたりから、私はトワ・エ・モアの大ファンになっていきました。また山室英美子さんの透きとおるような、それでいてやわらかさを感じさせるその歌声が当時から私は大好きでした。

秋の風を少しずつ感じはじめるこの季節・・ここで大好きなこの曲を聴きながら私が思わされるのは、『海』に『砂』に『空』に・・『私は死にはしない・・』と固く誓ったこの主人公女性の身には、いったい何があったのだろう・・いったいどんな体験を経てきたのだろう・・きっと『やさしさの中に芯の強さを秘めた女性・・』ここで二木先生が奏でるメロディを聴いていると、私の脳裏にはそんな女性の姿が浮かんできます。

投稿: 芳勝 | 2022年9月21日 (水) 16時03分

 夏のあの風の中に、秋の訪れを感じさせる風の肌触りを感じる時期になると、夏の名残り惜しさからいつもこの歌を聴いています。
 
 それもトワ・エ・モワの歌声ではなく、石原裕次郎が歌う『誰もいない海』なんです。石原裕次郎は昔から好きになれずにいたのですが、たまたまyouiTubeで聴いて「いいなあ」と思いました。女声は傷心そのままが聞こえてきますが、裕次郎の声の柔らかさは歌詞の悲しみを包み込んで癒しているように聴こえてきます。

 考えてみると春の海、夏の海、冬の海には行っていましたが、なぜだか秋の海だけは行ったことがないんですね・・・

投稿: konoha | 2023年9月 7日 (木) 10時15分

 いい歌ですねえ…。この曲は記憶が確かであれば、70年代の初め頃、TVの木島則夫モーニングショウの「今月の歌」としてジェリー・伊藤さんが歌い、その後、シャン歌手の大木康子さんがレコード化したという流れではなかったかと思います。確か、大木さんのヴァージョンは、バックに効果音として波の音が重なっておりました…。       

 大木さんも素敵な歌手でしたね。その昔にNHK・TVの音楽番組(ザッツ・ミュージック)で聞いた「パリ祭」は忘れ難いです…。これも録画しておいて良かったあ…

投稿: ジーン | 2024年7月18日 (木) 21時30分

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