花嫁人形
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:蕗谷虹児、作曲:杉山長谷夫
1 きんらんどんすの帯しめながら 2 文金島田に髪結いながら 3 あねさんごっこの花嫁人形は 4 泣けば鹿の子のたもとがきれる 5 泣くに泣かれぬ花嫁人形は |
《蛇足》 大正13年(1924)、『令女界』の2月号に発表されました。
蕗谷虹児(ふきや・こうじ)は、明治31年(1898)、新潟県新発田(しばた)町(現在は市)に生まれ、13歳のとき、同郷の日本画家・尾竹竹坡の内弟子となって上京しました。
21歳とき、竹久夢二の紹介により『少女画報』に挿し絵を描き、画家としてデビュー。以後、『令女界』『少女倶楽部』などに独特の抒情画を描き、一世を風靡しました。
彼の絵には、12歳のとき死に別れた母親の面影が投影されているといわれます。絵のほか、数多くの童謡を作詞しています。
蕗谷虹児は『花嫁人形』の装画を何度も描いていますが、上の絵は『少女の友』(実業之日本社刊)の昭和26年(1951)3月号に掲載されたものです(部分)。
それにしても、この詞の花嫁は、ほんとうになぜ泣くのでしょう。さまざまに想像をかき立てられる歌詞です。
(二木紘三)
コメント
「花かげ」と「花嫁人形」は共に花嫁さんを題材にした歌で、両者とも私のセンチメンタリズムを大いに刺激してくれ大好きです。前者は花嫁さんは別に悲しんではいないが、妹または慕っていた後輩がお姉さまとの別れを悲しんでいるのに対て、後者は第三者からの目で言ってはいるが、花嫁御寮さんは嫁に行く事をとても悲しんでいるようですね。
好きな人がいるのに貧乏ゆえ金持ちとの結婚を強いられたのか、政略結婚か、あるいは病弱や若輩の家族を残して、自分だけ結婚のために家を出て行く身勝手さを自身に責めているのか。二木先生言われたように、色々考えさせられますね。作詞家は巧みにその辺をぼかして我々に想像させようと思ったのでしょうね。上記ふたつの歌に加えて「雨」も好きですが、これらを海外へ行ったとき聞いたら、涙が出るような気がします。
投稿: 吟二 | 2008年10月 4日 (土) 17時02分
男性は嫁になる女性の気持ちがわからないものだとつくづく思いました。この歌が作られた時代はまだ嫁の権利など認められない時代でしたから、他家へ嫁ぐという事はどのくらい自分をなくす事か、若い娘にもわかっていたと思います。現代でも相当な決心がいります。親元を離れる娘の不安と緊張、おわかりになりますか。いったん嫁げば女三界に家なしなのです。涙なくしては嫁に行けません。もし、吟二様に奥様がいらしたら、お大切になさってあげてください。大変な決心で嫁がれた事でしょうから。
投稿: ハコベの花 | 2008年10月 4日 (土) 19時27分
山里の夏の雨降る淋し日よ
花嫁御寮はなぜ泣くのだろ (拙歌)
私がこの歌を知ったのは、小学校5年の夏だったと思います。当時は既に町場に越しておりましたが、夏休みは決まって、母の実家である(私の生家でもある)山の中の「水林(みずばやし)」という七軒部落に寄越されておりました。短期的な口減らしということだったのでしょう。
この部落は、江戸中期かの上杉鷹山公治政下、米沢藩領だった「宮内(みやうち)」という町場の水源確保と管理のために、原野を拓いて造られた部落と言い伝えられております。
晴れていれば、山に囲まれた里中を、部落の子供たちと好き勝手に遊び回れます。しかしその日は朝からあいにくの雨。昭和30年代半ば頃の山の農家とあって、日中は照明など灯さず、家の中は薄暗く。そんな中昼過ぎ、部落の子供の何人かが母の実家に集まってきました。
座敷で輪になって遊んでいると。その中の同じ年頃の女の子が、「こんな歌あんなだげど、知ってっか?」と言って、ゆっくりとある歌を歌い出しました。薄暗い家の中で聴いたその歌の、何ともの悲しかったこと。それが、この『花嫁人形』でした。
なお、山の中の七軒部落が、昭和40年代半ば頃廃村になった次第は、『帰ろかな』で既に述べさせていただきました。
投稿: 大場光太郎 | 2008年10月 5日 (日) 19時04分
ハコベの花さんに叱られてから、もう8ヶ月が経ってしまいました。あの時、「ああ、確かにそうだろうなあ」と反省しましたが、「でも、みんなそうだったわけじゃないんじゃないか」という気持ちもありまして、気持がまとまらず、返信コメントをすぐ出せませんでした。
今も、ハコベの花さんのご意見がおおむね正しいと思っております。女心がわからなくてどうもすみません。でも、わが家の現状は「男三界に家なし」のほうに近いのです。
わが家は娘ばかり3人ですが、婿三人ともに女上位です。婿がかわいそうで、「もっとびしっと言ったらんかい」という場面もあります。先輩!どうしたらよいのでしょうか。
投稿: 吟二 | 2009年6月10日 (水) 22時32分
私たちの年代の親は明治から大正にかけて生まれています。封建制度が色濃く残っている時代ですから、嫁に行ったらあちらの人、どんな苦しい事があっても実家に戻ってはいけないと嫁ぐ娘に言い聞かせました。
今はイヤな事があったらいつでも戻っておいでと娘に言います。挙句に嫁いだ娘にお手伝いさんの様にかしずきます。婿のやるべき事まで母親が手をだします。ですから、今の花嫁は泣かないのでしょう。実に羨ましい花嫁たちです。皆、そうではない事もわかっていますが、近所にもこんな家が沢山あります。婿殿はひたすら嫁の母親の顔色を気にしています。我が息子はそれがイヤなのか結婚はする気が全くありません。それも悩みです。
投稿: ハコベの花 | 2009年6月12日 (金) 00時29分
私が小学校の頃です。同級生の友達のおねえさんが隣村に嫁いで行きました。友達は、いっちゃあイヤだと泣き、花嫁姿のおねえさんも泣いていました。それを見て私ももらい泣きしたことを思い出しました。50年も前の話です。
投稿: だいこんの花 | 2010年5月26日 (水) 00時40分
ここをいつも見ています。
本日はコメントをなんとなく書いてみたくなりました。
私が過去何とか出席した結婚式で
花嫁が泣いていたことがありました。
ひとつは、数年間がんばり、親の反対を押し切って遠いところに嫁いでいく花夢でした。
念願がかなったという満足かと考えました。
彼女は今たぶん幸せになっていると思います。遠いといっても日本国内ですから。
もう一つは、あきらかに嬉し泣きです。
遠いところに嫁ぐわけでなく自宅からそう離れることもなく
自分の希望が実現したという嬉し泣き。彼女は新郎が好きだったということが私にも感じられました。
あと、笑ってばかりいる花嫁もありました。
嬉しくて、嬉しくて。とまらない。
正直ではありましたが。
投稿: みやもと | 2010年8月23日 (月) 22時33分
終戦の前年だったか、学童疎開で田舎の伯母のところにおりました。伯母も従姉も大変可愛がってくれましたが、その従姉が嫁ぐ日、結婚の意味もわからなかった5年生の私は「今度いつ戻っち来るん?」と訊きました。伯母も従姉も苦笑していましたが、勿論従姉は戻ってくることはなく、幸せな結婚生活をおくり、今も85、6歳で元気にくらしております。
投稿: 林 一成 | 2010年8月24日 (火) 10時04分
今の小学生以下の子供達でこの歌の歌詞を理解出来る人が何%いるのでしょう。やがて忘れさられようとした時、天才が現れて似たような名曲に書き換えるのでしょうか。
投稿: 海道 | 2010年8月27日 (金) 10時37分
今、姉様人形を売っている所がありませんから、若い人たちは全くこの歌が理解できないと思います。私も最後に見たのは、戦争中にお土産で貰った姉様人形です。戦後は紙の着せ替え人形しかありませんでした。本当の姉様人形は首から上が雛人形の様になっていて、首の部分が裂いた竹の棒でした。きれいな千代紙が何枚かついていて、それを竹の部分に着物のように折りたたんで着せるのです。なにぶん4,5歳の頃の記憶なので顔や頭が何で出来ていたのかわかりません。胡粉を固めたもののようでした。千代紙も本当にきれいで、着せ替えて遊ぶのがとても楽しかったです。
投稿: ハコベの花 | 2010年8月27日 (金) 17時41分
曲とともに解説も楽しみです。
投稿: 関口 昌司 | 2011年10月23日 (日) 18時48分
先日ガラクタ骨董市で未開封のLp3枚(1,000円)を買い聴いたところ、何んといきなり「花嫁人形」らしいメロディが流れてきました。
タイトル『SOUL TRAIN』(ds:E.ジョーンズ、ts:A.ホワイト、ts.ss:A.ブラウン、g:M.ホーン、b:A.マクロウド)のA面№1;“DOLL OF THE BRIDE”で、ジャズ超名ドラマーのエルヴィン・ジョーンズが〔ジャズ・マシーン〕というグループで1978年4月に来日した際、長崎出身の奥さんのケイコ・ジョーンズが編曲したものでした。
そして嬉しかったのは、スタンダード・ジャズもいいがもっと日本の曲を、つまり何時もバカの一つ覚えで言っている<ジャパニーズ・ジャズ=J・J>でジャズ・ファンを増やしたいと・・・それを33年前アメリカのジャズ・プレヤーが既に先取りしていたということにも感動しました。
二木先生をはじめコメンとされた皆さんから「花嫁人形」の当時の背景やイメージ等を知り、今まであまり気にもしなったこの歌が心のプログラムにくっきりと記録され、またひとつお宝が増えました。
投稿: 尾谷光紀 | 2011年10月25日 (火) 22時52分
お久しぶりです。ブログ名を「恋愛もいろいろ」から「懐かしの歌とともに」に先月から変えました。今、来月の下書きをしています。六月はジュンブライトです。そこで思いついた歌が、唱歌の花嫁人形です。私も真剣に詩を読みまして、悲しい内容を知りました。皆さんのコメントを読んで、作られた当時を教えていただき、とても勉強になりました。ありがとうございました。
投稿: セレナーデ | 2012年5月23日 (水) 11時43分
昔流で言うと90歳になります。何時のころ科、この歌が僕の心に沁みこんでいました。今や言葉もありません。 懐かしいなどというものではありません 豊田市 老医
投稿: 久保田甲司 | 2012年11月30日 (金) 20時57分
もうじき夜中の1時になります。頭痛で眠れず今痛み止めを飲みました。薬が効いてくるまでと思って「うた物語」を開いたら、「花嫁人形」でした。(パソコンをちゃんとおとしていなかったのですね)この「花嫁人形」は48年前に亡くなった父を思い出させます。
母は19歳で嫁いでいるので、長女である私にも早く結婚させたがっていました。しかし父は「あの子は自分で納得した人物じゃないと駄目だよ」と母に言っていたそうです。
お陰さまで、夫と初めて会ったとき「あ、私はこの人と結婚するんだ」と直感しました。一ヶ月後プロポーズされ八ヶ月後挙式でした。(因に私24歳)
大きな鏡の前でどんどん花嫁姿になっていく自分を見ていたら、なぜか涙がにじんできてしまいました。すっかり花嫁姿が出来上がったら涙がこぼれ始めてしまいました。美容室から出てきた私を見た父は「花嫁御寮がなぜ泣くのだろうって本当なんだね」と母に言っている言葉が耳に入ってきたら、大粒の涙になってしまいました。
記念写真の花嫁さんの顔はブッスと撮れていました。実のところ私もなんで涙が溢れてきたのかわかりませんでした。
投稿: konoha | 2017年2月15日 (水) 01時25分
私が1月に結婚して3月に父が外出先で亡くなりました。亡くなる1週間前に私の新居に連絡なしに訪れて、にこにこと「お酒がおいしいね」と飲んで帰って行きました。母は父がわたしの所へ行ったことは知らなかったと言っていました。
投稿: konoha | 2017年2月15日 (水) 01時36分
konoha様はお父様の愛情をいっぱい授かりながら育って来られたんですね!文面を拝見しながら私はとても羨ましく思いました。お父様が亡くなられる一週間前に連絡なしで貴女にお逢いに来られたのは、理屈ぬきでどうしてもkonoha様のお顔が見たかったのでしょう。お酒がおいしいね!と言って飲んで帰られたご様子にそれが感じられます。konoha様もお父様が大好きだったのですね。それとご結婚式の日に貴女の花嫁姿を見たお父様はどんなお気持ちだったのかと考えてしまいます。
投稿: 芳勝 | 2017年11月 9日 (木) 19時25分
芳勝さま
ありがとうございます。熱燗で一杯やっていました。何か気になりパソコンを開いたら、芳勝さまのコメント、涙が出てきました。今日、父母のお墓参りに行ってきました。久しぶりに父に会いました。涙が滲みます。ありがとうございます。
投稿: konoha | 2017年11月 9日 (木) 19時48分
konoha様
お便り嬉しく拝見しました!
お墓参りに行かれたとの事、さぞかしご両親も喜ばれた事でしょう。季節がら日を追うごとに益々寒くなってまいりますので、どうかくれぐれもお身体にはご慈愛下さいますよう、心よりお祈りしております。
投稿: 芳勝 | 2017年11月 9日 (木) 21時17分
konoha様はご自分の感覚と相性の良い方と巡り合えて本当にお幸せなお嫁さんになられて良かったと思います。私の結婚式は最悪でした。美容院で花嫁の支度をして婿の迎を待っていたのですが、時間が迫っても迎えが来ず、仕方なく婿の家に一人でハイヤーで行きました。何と婿の身内と一緒にお酒を飲んでべろべろに酔い、その日のスケジュールを全く覚えていないのです。「この家は親も息子も馬鹿なのだ」とその時やっと気が付きました。神前で榊を挙げる時、神主さんが根元を神様のほうを向けてと言ったのに婿はかみさんと聞き間違えて私のほうに向けたのです。それ以来私が夫の神様だと思って暮らしています。一事が万事すれ違いで愛想も尽き果てて55年も暮らしてしまいました。もうこんな花嫁はこりごりです。落語のハッツあんと一緒ですね。子供可愛さに我慢しましたが、幸せに涙を浮かべる花嫁さんはどのくらい居られるのでしょうか。お酒のお好きなお婿さんの皆様、奥様はお幸せでしょうか。
投稿: ハコベの花 | 2017年11月10日 (金) 22時16分
新發田の蕗谷虹児記念館に行ったことがあります。
この花嫁人形をつくったのは
おそらく
蕗谷虹児が父を安心させるために
近所の娘に花嫁になってもらった頃なのでしょう。
そこで
うまくいけばよかったのですか
この花嫁の女性を連れてフランスに渡り
ある程度有名になるのですが
留守宅の借金のために日本に戻ってきました。
そして
離婚してしまいました。
蕗谷虹児記念館の受付にいた女性が言うには
この妻であった女性は、蕗谷虹児の絵に理解がない
だから離婚したのだと説明してくれました。
その後
再婚するのですが
新しい妻 龍子は 松本かつぢの妹でした。
松本かつぢ は画家で漫画家なので
妻龍子も蕗谷虹児の仕事には理解があったようです。
松本かつぢ は
田村セツコ、上田トシコの先生です。
花嫁人形の曲は、蕗谷虹児が外国に行っているときに作られたのですが
帰国した蕗谷虹児に、有名な作曲家に頼んだ編集長が どうだいいだろうと言ったら
勝手なことをしたと怒った蕗谷虹児はつかみかかろうとしたのだそうです。
それでも
蕗谷虹児が妻子を抱えて経済的に苦しかったとき
この花嫁人形の歌の印税が時々振り込まれると
妻の龍子は喜んだそうです。
晩年には
蕗谷虹児もこの花嫁人形を代表作として認めたことを
息子が述べています。
投稿: みやもと | 2019年10月10日 (木) 14時22分
ご質問なのですが、4番の歌詞で「泣けば鹿の子のたもとが切れる」となっており、殆どの歌手もそのように歌っています。しかし、作詞の蕗谷虹児の歌碑には「泣けば鹿の子のたもとがぬれる」と刻んであります。
何方が正しいのでしょうか。歌詞の流れとしては泣く涙で袂がぬれるが自然のようにも思えます。なみだできれる、確かに紙なので切れるかも知れませんが。差支えなければ教えてください。
投稿: 新間満 | 2024年7月24日 (水) 19時23分
「きれる」と「ぬれる」につきまして、無知な私がでしゃばるのは良くないですが、池田小百合さんの「なっとく童謡・唱歌」に、
『令女界』掲載の初出詩は、「泣けば鹿の子の たもとがきれる」でしたが、結婚式で歌われるようになり、「きれる」では縁起が悪いので変えてほしいと言われ、晩年の色紙には、「ぬれる」と書くようになりました。
とあり、「きれる」になっている直筆の詩の写真と「ぬれる」になっている自筆のその歌碑の写真が出ています。新間様のご投稿に刺激され、この歌を改めて聴きその美しさを味わうことができました。
投稿: kazu | 2024年7月25日 (木) 12時00分
補足です。作者蕗谷虹児さんの地元の「新発田市西宮内・佐々木家のブログ」を読むと、晩年の自伝小説「花嫁人形」に掲載の「花嫁人形」の詩は、「ぬれる」となっており、作者は「ぬれる」に変えたかったのではないか、とあります。新間様がおっしゃる通り、歌詞の流れとしては「ぬれる」が自然かと思います。
花嫁人形の涙について想像することを書きます。作者の父母は Wikipedia によると、「番台に座っていた京人形のような美貌の看板娘・新保エツと傳松が恋仲になり、水原町へ駆け落ち」「傳松19歳、エツ15歳の時に水原町にて虹児を出産」とありますから、盛大な結婚式を挙げられなかったのではないかと想像します。作者は人形に、若くして亡くなった母を感じ、着ることがなかった花嫁衣装を(人形の)母に着せてあげる気持ちになった時、悲しいことの多かった母の人生が思われ、人形が涙を流しているように感じたのではないかと想像します。母がその両親を思う涙も、作者を慈しむ涙もあるかと思います。
花嫁衣装という人生の結節点で、世代から世代へと引き継いでいく命が流す涙かと思われます。
投稿: kazu | 2024年7月26日 (金) 15時53分