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2007年8月29日 (水)

母恋吹雪

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:矢野亮、作曲:林伊佐緒、唄:三橋美智也

1 酔ってくだまく 父(とと)さの声を
  逃げて飛び出しゃ 吹雪の夜道
  辛い気持は わかっちゃいるが
  俺らばかりに ああ なぜあたる

2 こんな時には 母(かか)さが恋し
  何で俺らを 残して死んだ
  呼んでみたって ちぎれて消える
  星のかけらも ああ 見えぬ空

3 徳利かこった 凍(しば)れる指に
  岩手おろしが じんじと沁みる
  たった二人の 親子であれば
  涙ぬぐって ああ 戻る道

《蛇足》 昭和31年(1956)。三橋美智也全盛期のヒット曲で、この年、ほかに『リンゴ村から』『男涙の子守唄』『哀愁列車』など、連続してヒットを飛ばしました。

 私の幼馴染みにも、母親を早くに亡くして、大酒飲みの父親と暮らしている少年がいました。優しいおばあさんが救いになっていたようですが、そのおばあさんも、辛い目に遭っていたようでした……。

(二木紘三)

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コメント

なつかしい!なつかしい!歌です
昭和31年の歌だそうですね・私は昭和23年生まれです。8歳の時ですわ・・うちの母や父がよく紅白を見てましたのでナツメロはよく知ってます。おかげさんでギタ-を弾きながらこういう歌を慰問で歌ってます。ありがとうございました

投稿: ジョン・清水  | 2007年8月29日 (水) 17時06分

いいねえ。何度きいても。日本歌謡曲の名作だとおもいます。情景が浮かび涙がでます。

投稿: 野乃あざみ | 2007年8月30日 (木) 11時15分

 この歌を聴くたびに自然と涙がにじんできて胸がつまります。
 私の父と兄が早く亡くなって母子家庭であった頃に、隣村から母方の祖母が我が家にやって来ては『この歌のように世の中には辛い人がいっぱいいるんだから、母ちゃんに心配かけたり苦労かけたりさせちゃだめだぞ』と、いつも聞かされていました。祖母からみれば娘への思いやりのひとつだったのかも知れません。その祖母も他界し、母も晩年は童女になって、半世紀前に天国に旅立った父のもとに5年前に逝きました。89歳の母の棺に、若い父の写真を入れてあげたけれど、分かり合って再会できたかな。話が長くなりましたけれど、このサイトを開くと心が安らぎますので、これからも良い歌を掲載してください。有難うございました。

 

投稿: 松島 幸男 | 2007年11月21日 (水) 16時53分

私は息子が小学校5年のときに連れ合いを亡くしました。 家内が生前には良く言い合いもしました、しかし、妻が居なくなった時の何とも言えないやり場の無い感情を逆に息子に教えられた気がします。 弟夫婦が母親代わりとなって中学・高校と文句も言わずに弁当から洗濯物まで、感謝の言葉もありません、私は親らしいことをやってやれないまま私が再婚してその後息子も結婚、今では二児の父親になっております。 息子夫婦にはせめてこんな思いはしてほしくはありません。 私も酒を毎日のように飲んでおりますが飲んべではありません。 なぜか私の人生とダブって自然と涙が出てきます。 ありがとうございます、青葉茂れる桜井のも大好きです。

投稿: 戸倉 伸一郎 | 2008年2月11日 (月) 12時22分

この歌が流行ったころは丁度12歳ぐらいでしょうか。この歌
とは逆に、9歳ごろ父に死に別れました。
 母曰く「女の方が残っててよかったのだよ」と・・・
あまり酒には強くなかった父の記憶ですが、それでも連れ合
いを亡くせば、この様な場面もあり得るかと子供心に想像し
ました。
 目を閉じてこの歌(メロディ)を聞くと、田舎にある酒屋
の板戸を叩いている自分が浮かんできます。

投稿: グ・グロリア | 2008年5月29日 (木) 22時17分

 今から40年ほど前でしょうか、自分の不注意で交通事故を起こし約一ヶ月ほど入院生活を余儀なくされました。入院中、八歳年下の女性と知り合いになり身の回りの話や、境遇を語った記憶です。
 彼女の生い立ちを聞いたところ、まったくこの唄と同じ境遇でした、病院の時間的に早い夕食を済ませ、屋上で語り合ったものです。酒乱の父親の話が出たときこの唄を小さな声で歌いました。切なかったのでしょう、自分の境遇とオーバーラップしたのでしょう彼女の顔が涙で濡れていました。

 私は足の怪我も治り退院しましたが、彼女はカリエスとかでまだしばらく長引くと聞いておりました。退院後、彼女に逢いに行くため私の病院通いが始まりました。五時に終業してから片道3時間掛けて逢いに行きました。午後九時の門限まで病室で過ごし、またトンボ帰りで寮に戻りました。
 本当に一緒になる積もりでした ・・・だが故あって別れることになり、この時ほど肉親の情を疎ましく思ったことはありませんでした ・・・。

 その後、15年ほどしたある日。会社へ電話が掛かって着ました。しばらく名乗らないで探りを入れる様な電話でしたが、会話の途中「○○です」と名乗った時思わず 「アッ」と声が上がりました。その後の病状を確認したら「カリエスは完治」との事で胸を撫で下ろした次第です。また結婚出来なかった事を謝ると「十八、九の小娘を騙しちゃって悪い人フッフ」と電話口で言っていました。私はその「フッフ」の一言に救われました。電話を頂いた理由を尋ねると「主人の浮気が発覚し思わず情けなくなり、ふと(私の)顔を思い出した」との事でした。
 それ以来、年賀状の交換が今でも続いております。あれ以降一度も顔は合わせていません。一度逢おうと言う事も話の中に出て来ましたが、「大切な思い出として天国に持って行こう」となり、そのままとなっております。今でもあの町のあの場所に住んでいるのだと判っています。年賀状の季節になると思い出す大切な人達の中の一人です。

投稿: グ・グロリア | 2008年10月19日 (日) 23時05分

カラオケでは私の友人の得意とする歌で、歌の素晴らしさ技巧に加え、情感が心の奥まで伝わる素晴らしい歌唱力です。その彼が酔いもあったのか、幼い頃この歌と同じ経験をしたと告白しました。
母と父親が離婚し、兄弟別々に引き取られ、長男である彼は父親に引き取られたそうです。父親は定職もなく、いわゆる当時のニコヨン生活で、飲んだくれた挙句酒が足りないと酒屋に良くツケで買いに行かされたそうです。その父親が亡くなると叔父に引き取られ私と同じ職場に就職。部長職まで上り詰めました。
父親が反面教師だったとも言っています。

投稿: タケオ | 2015年1月23日 (金) 22時07分

この歌が流行った31年頃は、私が未だ2才でしたので全く知りません。しかし私が19才の時に父が亡くなり、それからが、今ではこの歌が私の思い出の歌となっております。それは私が物心ついた時から父は仕事に就かず、貧乏のどん底で、一日に一度の食事にありつければという有様の生活でした。いつも腹をすかしていました。そんな中で、父は焼酎を飲んではくだをまき、母には手を挙げる人でした。何度も怖くなり母と兄弟そろって外へ逃げ、父が眠りに就くのを見計らって家に戻ったりしました。6才の小学にあがる前の頃ですが、初めて父を恨んだりしました。今思い起しても切なくなります。ただそんな父が亡くなった葬儀の時ですが、出棺前の棺桶の中に家族で花を入れ終わり棺桶のふたを閉じる直前に、母が、涙を浮かべ、お父さんよく頑張ったね!今まで本当にありがとうございました! と父に向ってつぶやきました。私には思いがけない、母の姿に、父に対する愛情と思いを初めて知った気がしました。その光景を見れて幾分か自分の心が救われました。幼い頃、父からよく五合瓶を手渡たされ、これに二合だけ、またある日には一合だけ買ってこいと言われ、子供の足で30分もかかる酒屋さんに嫌々行かされた事も多く、酒屋の方がめんどう臭そうにしており、子供心にも恥ずかしかった記憶が残っています。この歌詞の 徳利かこった凍れる指に とか 辛い気持ちはわかっちゃいるが とか 今では亡くなった母を偲んだりすることができる、私には忘れられない大切な 歌になっています。 

投稿: 芳勝 | 2017年11月 6日 (月) 19時22分

17~18年くらい前のことです。 田舎へ帰っていたとき母がふいに「お婆さんの里に行ってみよう」と私を誘いました。数駅列車に乗り、少し山の方に歩いて入りました。母は田んぼと山に囲まれたいかにも農家風の構えの一軒家を指し、「あれがお婆さんの生まれた家だ、でもわからなくなった、たぶんそうだと思うが・・・」と迷っていました。そのうち「もう帰ろう」と諦めました。母はその時80才を超えていて、記憶も薄れていたようです。

里の中央には小川が流れており、その川向うの山裾に石垣のある白い土塀に囲まれた大きな家がありました。母はその家を指して「お婆さんは子供の頃お父さんに頼まれていつもあの家にお酒を買いに行っていたそうだ。お婆さんは"勘定を間違えない賢い子だ”とお父さんに褒められていたそうだ」と話しました。

いつかもう一度あの里を訪れてみたいものと思っています。とっくりを抱えてお酒を買いにお使いしている幼い祖母の姿が目に浮かぶようです。

母からはもっとたくさん昔の話を聞いておきたかったと今更ながら悔やみまず。

投稿: yoko | 2017年11月 6日 (月) 22時50分

三橋美智也・・・懐かしいですね!
焼酎さま、yokoさま、konohaさまのコメント楽しく拝読いたしております。ありがとうございます。
三橋美智也の高音の張りと伸びのある声量には感服あるのみです。
昭和31年、三橋美智也のヒット曲の中でも、特に「リンゴ村から」「哀愁列車」と並んでこの歌「母恋吹雪」も連続ヒットした名曲だと思います。
この歌を聴く度に、私が結婚当初から母と同居し、いわゆる「嫁姑」問題で幾多の困難を乗り越えて、今日に至っておりますが、今現在、当時のことを振り返ってみますと、やはり母の存在は有難いものだとつくづく思っている次第です。
これまで、かみさん(妻)には苦労のかけっぱなしで、日を追って償いをしたいと思っている今日この頃です。
私事で失礼いたしました。
それにしても、二木オケの演奏はともかく、心に深く染み込みました。
休日明けの月曜からは~宅配が始まります。
安全運転で頑張ります!

投稿: 一章 | 2018年6月17日 (日) 00時09分

岩手颪(おろし)
ごうごうと
枯野傾けり    高橋青湖                     


 雪をともなっての岩手おろしはとても厳しいものなのでしょうね。
矢野亮の詞には泣かされます。
まるで映画を観ているかのように情景が浮かんできます。
この歌の主人公である少年は幾つなのでしょう。
 私は10歳ぐらいと頭に描いています。 くだをまいてる父親は40歳ぐらいでしょうか。 父ひとり子ひとりの父子家庭。父親の生業は? 食事の支度は? 学校はどうしてる? 色々考えると、可哀想でなりません。 抱えてる徳利は、いわゆる「通い徳利」でしょう。ですから量り売りですね。陶製なので手袋を使うと滑って落としてしまいます。              その両の素手に岩手おろしが容赦なく吹雪くのです。辛いですねぇ。お店は少年の家からいか程離れているのでしょう。
 私も小さい頃、父の晩酌の焼酎を買いに行かされました。 抱えていたのは徳利ではなく、ウィスキーの角ビンです。お店はほんの10mの鼻の先。
父は6・4のお湯割りでしたので、買う焼酎の量は1合でした。
 この『母恋吹雪』の少年に比べると、私の酒買いのお使いなんてとるに足らないことだったなぁ…とつくづく思います。 戦後10年、当時はこのような境遇の子供は、全国にたくさんいたのでしょうね。

投稿: かせい | 2019年2月 3日 (日) 22時25分

「母恋吹雪」やはりこの唄を聴くと、幼かった昔を思い出してしまい胸にせまるものがあります!
幼い子にとって、母を亡くすことほど辛いものはありません。~「何で俺らを残して死んだ」~幼い子の気持ち、また酒に逃げて愛しい息子にあたってしまう不器用な父親の気持ちは如何ほどだったのか、どうしようもない怒りと哀しみを持った親子の心情と情景が「母恋吹雪」には見事に表現されています。
それにしてもいつもながら、かせい様の鋭い分析力には感服します!
この唄がヒットした昭和31年当時の背景は、今では及びもつかないような暮らしをしていた人たちが大勢いたと思います。また暮らしに荒れてはいても、親子の情だけは相当深いものがあったような気がします。~「たった二人の親子であれば」~親が子を愛しみ子が親を思う心、そしてその絆は、今より遥かに強かったのではないでしょうか、ラジオから流れてくる三橋美智也の「母恋吹雪」この唄が、当時の全国の人たちには、より心に響いてきて、また胸に沁みていたのではないかと思う時があります。
今はおかげ様で、何不自由のない満たされた生活をしていますが、この唄を聴くと、五合瓶を持って酒屋さんに1デシリットルの焼酎を買いに行っていた、60年前当時の自分を想い出してしまいます。「母恋吹雪」は、懐かしい心の中の名曲です。

投稿: 芳勝 | 2019年2月 4日 (月) 17時53分

 この歌から「なんで父ちゃん、そうなんだ!」という子どもの叫び声が聞こえてきます。岩手おろしがいっそう沈痛さを増します。
 酒乱の親父と親孝行な息子の対比は、昭和30年代頃までの風景のようです。通い徳利もなくなりましたね。自動販売機ができましたから・・使い捨て文化の侵食が始まりました。
 世の中には、酒乱の親父が当り散らした息子が立派に育ち、分別ある立派な両親が大事に育てた息子がバカ息子になっちゃった~という話は、ざらにあります。<酒乱の父>や<貧しさ>は、子育ての敵ではないようです。子育ての敵は<快適な生活>と<躾の甘さ>だったようです。自省の念をこめてそう思います。

 酒呑みに対して「大酒飲み、のんだくれ、酔いたんぼう」など非難の表現が数々あります。酒や酒飲みを嫌う人に、アメリカ合衆国が1920年から1933年にかけて実施した禁酒法をぜひ知ってほしいです。宗教的理念に基づいたこの崇高なる法律はわずか13年で廃止されました。この間、酒が大量に密造され、ギャングたちが大いに儲けました。人間の欲望は力づくで禁止してもおさまるものではありませんでした。
私は禁酒法の存在を知って以来、アメリカ人(アングロサクソン)は、あまり賢くない連中だ、勢いで動く単純な人々だと思っています。アメリカ人の独りよがりの単純さは、アメリカ人の怖さでもあり、彼らの国際外交のスタンスの底流に流れているように思います。

『母恋吹雪』からアメリカの国際外交へ・・・酒つながりとはいえ、妄想が膨らみすぎました。ご容赦ください。

投稿: 越村 南 | 2019年2月 6日 (水) 15時43分

私は昭和33年ブラジル生まれでこの曲がヒートした二年後です。2021コロナで世界が未だ混乱している時このような懐かしく又はちょっぴり寂しい歌を聴いて子供の頃が再び蘇ります。父も飲んでくだまいてそして眠りに落ちる事が毎晩の事でした。しかし今では父のくだまく存在が懐かしくてとても恨む事や悩む事はもう無いです。父は一人の男、良い所もあれば良く無い所もあった一人の人間でした。

投稿: 山本アルベルト五郎 | 2021年1月24日 (日) 09時44分

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