(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞・作曲:寺島尚彦、唄:森山良子 他<
1 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 今日も見渡すかぎりに みどりの波がうねる 夏の陽ざしのなかで
2 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 昔海のむこうから いくさがやってきた 夏の陽ざしのなかで
3 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしのなかで
4 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ そして私の生まれた日に いくさの終りがきた 夏の陽ざしのなかで
5 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 風の音にとぎれて消える 母の子守の歌 夏の陽ざしのなかで
6 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 知らないはずの父の手に だかれた夢を見た 夏の陽ざしのなかで
7 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 父の声をさがしながら たどる畑の道 夏の陽ざしのなかで
8 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ お父さんて呼んでみたい お父さんどこにいるの このままみどりの波に おぼれてしまいそう 夏の陽ざしのなかで
9 ざわわ ざわわ ざわわ けれどさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 今日も見渡すかぎりに みどりの波がうねる 夏の陽ざしのなかで
10 ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない悲しみが ざわわ ざわわ ざわわ 波のように押しよせる 風よ悲しみの歌を 海に返してほしい 夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ 風に涙はかわいても ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは消えない
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《蛇足》 沖縄返還の5年前、昭和42年(1967)に作られました。
声高な反戦歌ではなく、非戦・鎮魂の思いがひたひたと伝わってくる歌です。
ただし、こういう静かな反戦メッセージは、もしかしたら日本人以外にはあまりアピールしないかもしれません。
森山良子のほか、ちあきなおみ、新垣勉など多くの歌手が歌っています。長く歌い継がれるだろうし、歌い継がなくてはならない歌です。
(二木紘三)
コメント
昭和42年の夏、この歌の作詞・作曲家である寺島尚彦さんが沖縄を訪れたちょうどその頃、私も友人と二人で初めて沖縄を訪れました。
その当時の沖縄はアメリカ軍の管理下に置かれていたため、パスポートや検疫証明書などが必要で旅行前にずいぶん手間がかかりました。東京・晴海埠頭から船で丸二日(二昼夜)かかって、ようやく那覇にたどり着いたものです。
すぐに摩文仁(まぶに)の丘、ひめゆりの塔などの南部戦跡を訪れましたが、バスで向かう途中は、この歌にもあるように「さとうきび畑」が延々と続き非常に印象的でした。灼熱の太陽のもと、さとうきびが「ざわわ ざわわ」と揺れていたので、寺島さんはそれに感じてこの曲が出来上がったのですね。
この曲はたしかに非戦・鎮魂の歌ですが、その当時もベトナム戦争に赴くアメリカ兵が沢山いました。コザ市(現在の沖縄市)のスナックバーで、ある黒人米兵とビールを飲みましたが、彼も「もうすぐ、ベトナムに行くよ」と言って、サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』をリクエストし、静かに聴いていたのが忘れられません。あの黒人米兵はベトナムでどうなったのでしょうか・・・
投稿: 矢嶋武弘 | 2008年6月25日 (水) 16時15分
第10節を除き「風が通りぬけるだけ」というフレーズがこの歌の心を引き立てているようです。
サトウキビ畑の隙間を貫ける微風が悲惨な戦争の出来事を全て知り尽くしているかのように。
一句:寂しさの摩文仁の丘の蛙かな 波路
投稿: 波路 | 2008年8月31日 (日) 17時17分
今日慰霊の日。去る64年前、太平洋戦争末期の沖縄戦で、日本軍の組織的戦闘が終わった日とされています。‘鉄の雨、鉄の暴風’とも形容される米軍の圧倒的武力・火力にも耐えて、約3ヶ月も果敢な抵抗を続けた日本軍を支えたのは沖縄の島民であり、県民でした。鉄血欽皇隊の中学生やひめゆり部隊の女学生の悲劇は余りにも有名ですが、その他の島民も積極的に軍に協力したといわれます。沖縄守備隊海軍司令官太田実中将は最後に、「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ後世格別ノ御高配賜ハランコトヲ」と悲痛な電文を打って自決しました。
沖縄は37年前に漸く返還されましたが、太田司令官の遺された悲願は果たされているでしょうか。遺憾ながら沖縄は、未だに基地の島として、その悲劇的運命を引きずっているように見えます。いつになったら、さとうび畑を渡る風が「ざわわ ざわわ」でなく、爽やかな「さわわ さわわ」と奏でるようになるのでしょうか。
投稿: ひろし | 2009年6月23日 (火) 12時04分
毎朝 二木さんのこのページにおジャマさせてもらっている。ずいぶん前からで、今のような作りではなかった頃からのことだから、10年以上も経つだろうか。これだけいろんなことを教わっていながら、お礼の一言もせず今日が初めてのメール。我ながら全く失礼な奴である。改めてお詫びするとともに、これまでのお礼を申しあげます。
で、先日森山良子のコンサートに行ってきて、久しぶりにこの「さとうきび畑」を聴き、あらためて感動してきた。還暦を過ぎた自分が最初に行ったコンサートが森山良子で45、6年も前のこと。その時初めてこの歌を聴き、感涙し、すぐにレコードを探し回ったのだが、これだけ長い歌、まだLPも出ていなかった。まだ彼女が人気が出始めようかという時だったし、その上
さとうきびを知らなかった自分が訊ねた曲名が「森山良子の『とうもろこし畑』はありませんか?」だった。でも、どの店でも間違いを指摘されたことはなく、ただ「ありません」だけ。こんなこともあり、自分にとってこの「さとうきび畑」は、特別の思いの歌でもある。
今久しぶりにこうして聴き、声高の反戦歌ではなく・・・<蛇足>を読ませてもらい、ある歌を思い出した。それが「戦争は知らない」。リストアップをみたがこの歌がない。自分はこの歌もとても感じる歌で、今でも口ずさんだりする。なんかオカシな方向へ進もうとしているニッポン、このような歌を思い出し、儲けとか損得だけじゃない、数字では表わせないけどとても価値のある何かを、この国が大切にする国になって欲しいな・・・と聴きながら思いました。
という訳で、「戦争は知らない」がこのページに加えてもらえたらなぁと思い、メールしました。
(長文、ゴメンナサイ)
投稿: 時化も凪も 海 | 2014年10月14日 (火) 09時38分
サトウキビは、沖縄だけでなく、奄美群島、種子島・屋久島でも穫れます。沖縄ではサトウキビのことを『ウーヂィ』というそうです。 私の故郷・種子島では『オーギ』といいます。
子供の頃から何で『オーギ』というのかなぁと不思議だったのですが、沖縄からの流れだったのですね。確かに『オキナワ』を『ウチナー』ですものね。 沖縄占領の後は南西諸島が跳び石的に狙われていたのかもしれません。
投稿: かせい | 2014年11月24日 (月) 21時55分
「オーギ」という言葉は種子島に行ってはじめて知りました。私の小さい頃は大隅半島ですが、「サトウキビ」を作っていました。方言でしょうか。「さときっ」と言っていました。冬になると伐って、少し離れたさとうきび絞りの機械のあるところに持って行き砂糖を作っていました。
この歌は六〇歳前にはじめて聞きました。森山良子のコンサートに行ったときです。そんなに昔に出来ていたとは今知りました。以前NHKTVで「そし歌は生まれた」でもやっていました。いい歌です。
投稿: 今でも青春 | 2015年8月10日 (月) 18時11分
「ざわわざわわ」というオノマトペで始まる歌詞は新鮮でした。森山良子はやっぱりセンスがありますね。いとこのかまやつひろしも息子の森山直太朗も、やっぱり音楽の才能は、先祖からのDNAの中にあるのでしょうか。
政治的なことは別にして、この歌には哀しみがあります。戦争なんか二度としたくない。けれど、そのためにはどうしたら良いかを考えることが一番大切じゃないでしょうか。
投稿: 吟二 | 2017年12月 7日 (木) 20時51分
↑吟二様
作詞は(作曲も)寺島尚彦ですが。
投稿: 五鉄 | 2017年12月 7日 (木) 21時34分
長く歌い継がれるだろうし
歌い継がれなければならない歌です。
二木先生の蛇足に共感しきりです。
昨日のせいぜい40席のカフェコンサートで若いメゾソプラノ歌手が二木先生と同じ事を仰っていました。
私の好きな落葉松に続けて歌われました。
もちろん さとうきび畑も好きな歌です。
この歌は全編ではなく短くまとめて歌われました。
以前別の会場で知人である美貌のソプラノ歌手は
さとうきび畑全編に挑戦しました。
「あの時は感動したわ、今日の彼女も素晴らしかったけど。
全編歌い通すのは体力を消耗するでしょうね」と聞いたら、「否、気力ですね」と即答。普段の会話でも一回り下の彼女から学びや励ましを得ています。
昨日の余韻に浸りながら二木先生の演奏に耳を傾けるのは贅沢な朝のひと時です。
投稿: りんご | 2019年8月26日 (月) 07時35分
「さとうきび畑」終戦記念日を間近にした、今朝の中日新聞の紙面には、シンガーソングライター森山良子の対談・(聞き手・越智俊至氏)・「癒えぬ悲しみを歌う」という題目のコラムが載っていました!
夢中で読んだその記事にはこの唄にひたすら向き合ってきた森山良子のその思いの丈が綴られていました。
『・・・作詞・作曲の寺島尚彦先生からこの曲をいただいた時、私は21歳でした。のほほんと育った私にとっては、全く知らない世界です。分かったような顔をして歌うのは、沖縄の人に失礼なのでは?とても私には歌えないと思いました。』
『・・・2001年に再録音し、ライブのために訪れた沖縄で、ある女性と出会いました。私と同年代の方です。「良子さん、「さとうきび畑」を歌ってくれてありがとう」と涙を流しながら言ってくれました。その方のお父さんの時代は、きっと苦しく、悲惨な時代になったでしょう。もしかしたら彼女は、この曲に出てくる少女の一人かも知れない。そう思うと胸が痛み、抱き合って泣きました。』
『・・・「さとうきび畑」は、こんな言葉で終わります。「風に涙はかわいても・・・この悲しみは消えない」。大切な人の死は、心の奥深く、悲しみとして残ります。戦争で奪われた命なら、なおさらでしょう。戦争は悲しみしか生みません。癒されることのない悲しみです。この曲が、いつまでも歌い継がれるよう願います。あの戦争を「忘れない」ことにつながると思うからです。』
『蛇足』に記された
>「声高な反戦歌ではなく、非戦・鎮魂・の思いがひたひたと伝わってくる歌です。」
私はこれまでにも森山良子が歌うこの唄を聴く度に感動しそしてまた感情移入させられてきましたが、私も上記の『蛇足』での解説に全く同感です。
「さとうきび畑」この度のコラムの記事を読んだことで、森山良子の沖縄の人たちへの強い慈愛の心を知り、彼女が如何にこの唄を心を込めて歌ってきたのか、そして彼女の歌声がどうしてこんなにも人々を感動させるのか、その理由が私にはようやくすべて解った気がします。
今日もyoutube動画で森山良子がフルバージョンで歌うギターの弾き語り(10分間強)を視聴しましたが、彼女のその歌声はやはり素晴らしいの一語でした。
投稿: 芳勝 | 2021年8月 9日 (月) 16時42分