赤い夕陽の故郷
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:横井 弘、作曲:中野忠晴、唄:三橋美智也
(おーい) 2 呼んでいる 呼んでいる 3 呼んでいる 呼んでいる |
《蛇足》 昭和33年(1958)リリース。
昭和20~30年代には、いくつものふるさと演歌が発表されましたが、これは、そのうちでもとくに多くの人たちに愛好された曲の1つです。
(二木紘三)
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:横井 弘、作曲:中野忠晴、唄:三橋美智也
(おーい) 2 呼んでいる 呼んでいる 3 呼んでいる 呼んでいる |
《蛇足》 昭和33年(1958)リリース。
昭和20~30年代には、いくつものふるさと演歌が発表されましたが、これは、そのうちでもとくに多くの人たちに愛好された曲の1つです。
(二木紘三)
コメント
お~い
ふるさとを思いだすな~・・・
親孝行したいのだが、やっぱり金が必要。
元気でいてや。もうすぐ帰る。
投稿: なんとかなるさ | 2007年9月 8日 (土) 12時07分
高校生の頃、勉強もせずラジオ作りに明け暮れていました。ある時、古い電蓄のモーターで、当時のLP、EP、そして元のSP盤をかけられる改造電蓄を作った事が有ります。
ターンテーブル二つで、元のやつに細く切った紙を貼って溝を作り、あとの一つはなんとこれが木製です。
二つのターンテーブルを凧糸をより合わせた物でドライブ、糸ドライブです。ピックアップを二つのターンテーブルの真ん中に置き、両方にかけられる仕組みです。回転数の目安はストロボスコープを置いての事でした。
テストはその時流行っていた三橋美智也のこの曲「赤い夕日の故郷」、なんどもなんども、擦り切れるくらいかけたものです。この曲を聴くとあの時の改造電蓄を思い出します。
投稿: Hikoさん | 2008年7月31日 (木) 05時20分
三橋三智也さんのあの郷愁おびた声にピッタリの歌でしたネ
もちろんすり切れるくらい何度も聴いていました。
当時のSP盤採って有ります。
未だに年に一度 おふくろの居る親元に行くときに車のカセット聴きながら・・・・・夕日を背にうけて
投稿: 当時ラジオ少年 | 2008年8月11日 (月) 16時37分
子供のころ、毎年冬(成人の日のころ)村の青年団が小学校の体育館で演芸会を催していました。当時、保育園の保母さんだった人がこの歌をバックに踊っていたことを記憶しています。私はそのころから三橋美智也のに惹き憑かれていったものです。
投稿: 堺 修介 | 2008年10月12日 (日) 22時37分
「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川…」は、故郷の鮮烈なイメージです。と共に、「赤い夕陽の故郷」も、確かに懐かしい故郷のイメージの一つですね。
投稿: 大場光太郎 | 2008年10月30日 (木) 22時42分
NHKのBS番組を見ていて「ざんざら真菰」の歌詞を調べていて偶然このブログを開きました。子供の頃から聞いていた三橋美智也の曲に出会い懐かしい思いがします。三橋美智也は同郷の先輩で心にしみるような歌声が好きで何故か子供の頃から口ずさんだものです。私も還暦を過ぎましたが時にはカラオケで歌ったりして昔を思い出しています。
投稿: てっちゃん | 2009年9月13日 (日) 20時19分
昭和34年初めてのったニューヨーク航路の定期船でパナマ運河を抜けて日本への帰りの航海中
メキシコ沖あたり 鏡のような静かな海に真っ赤な太陽が沈んでいく時 思わずこの歌を水平線に向かって歌ったことを今でも鮮明に思い出します。 以来50年 カラオケバーでは持ち歌の一つとして必ず歌ています。 特に最後のオーイが
何ともいえぬ良い気分ですね。
投稿: ハマの呑む兵衛 | 2009年11月14日 (土) 21時39分
明日は田んぼばかりの田舎の中学在京同級会。10名程度の参加。
この歌では高校入試に向けて、放課後2つのクラスが1つになって、補習を受けていたことを思い出します。(高校に進学しない)中学で終わりの人はどんな気持ちでいたのだろうか。
投稿: 千坂孝夫 | 2009年12月13日 (日) 00時07分
カラオケでよく三橋美智也を唄います。小生もトーンが高いので、三橋さんの歌が合ってるような気がします。 昨年母を亡くして、この「赤い夕陽の故郷」がいっそう泣けるものになってしまいました。いつまでも残したい望郷歌謡ですね。
投稿: かせい | 2010年1月21日 (木) 11時43分
大学受験の頃,この歌を慰めの1つとして勉強に頑張っていた頃が想い出されます。俗に「歌は世につれ,世は歌につれ」とは言いますが,歌は人生の瞬間瞬間の心情を映し出してくれる触媒のようなものです。その意味で私には「歌は人生そのもの」のような気がします。地の底から湧き上ってくるような,高音で張りのある三橋美智也のあの歌声がどんなに励みになったことか。
投稿: nobuchan | 2010年1月31日 (日) 22時45分
横井弘は自然と人情をミックスした様な詞を書かせると
素晴らしいですね。過去の経験がそうさせたのでしょうか、それともこの方の素質なのでしょうか。
投稿: 海道 | 2010年2月 2日 (火) 15時29分
50年くらい前 学校を午後からサボッテ 日劇へ 三橋三智也 の 歌謡ショーを友達と観に行きました 僕は北海道 彼は岩手 出身 でした望郷の思いが たまらなくってね・・・ 懐かしいくもあり遠い思い出に浸ってます 今は はや 73才になりました。
投稿: どさん子 | 2010年4月10日 (土) 19時10分
夕焼けが真っ赤な幼いころの風景がうかびます
高音が鼻から抜ける声がなんともいえない郷愁をさそいます
投稿: おんなせんどううた | 2011年3月13日 (日) 02時34分
1958年当時、浪人時代の東京往復は、とにかく安さを優先したので、ほとんど八重洲口始発の桐生行き急行バスでした。乗るのはいつも午後だったので、熊谷を過ぎて利根川を渡る頃は太陽が西に傾き、バスの中には、当時大ヒットしていた三橋美智也の 『赤い夕陽の故郷』 がながれていました。バスが太田にさしかかると道の両側は一面の桑畑で埋め尽くされ 『あぁ・・・故郷に帰ってきたんだなぁ』 と胸が熱くなったのを思い出します。
投稿: 関口益照 | 2011年5月20日 (金) 01時51分
就職して2年目、名古屋の現場に転勤して毎日の輪番勤務、泊り明けで帰り支度をる時、相棒が決まってこの曲を口ずさんで居ました。ホームシックを感じたものです。あれからもう半世紀が過ぎました。
投稿: 石井 孝 | 2012年9月 4日 (火) 10時47分
最近両親が年老いてしまった(父96歳、母92歳)ので弟に引き取ってもらいました。家屋、田畑共売りに出しましたので、帰る故郷がありません。しかし昔の風景は脳裏に焼きついていますので、一生離れ無いでしょう。年に1度の中学同級会だけが楽しみです。
投稿: 海道 | 2012年9月 5日 (水) 07時46分
昭和35年高卒の仲間が年一度一泊旅行を開催している。 担任の先生は柏崎出身で初赴任地横浜に着任しました。 当時はやり始めていたこの曲をきかせてくれました。 涙目だったことを思い出します。 先生の名をとり吉田会として50余年、クラス会で天下国家の話が一段落の後カラオケで誰ゆうとなしに「よんでいる よんでいる・・・・・」の大合唱となります。58年に若死にした先生の分も元気で持続したい。
投稿: 河嶋 忠雄 | 2014年6月11日 (水) 17時22分
この歌を必ず最初に聞かせて頂いております。
昭和33年中学二年の時離れた故郷人吉で最後に聞いた、耳に残った懐かしい歌謡曲だからです。 それなりに落ち着いた生活でしたが母の突然の再婚、その後定職のない新しい父との不安定な放浪生活が続きました。広島 大阪 和歌山、どこにも居場所は無く一年近く経ってやっと東京三軒茶屋の今にも倒壊しそうに傾いたボロアパートの二階に住みつき極貧の暮らしが続きました。
母は再婚を悔やんで、帰れるものなら・・・、と。
この曲は57年前を、遠く縁の切れた故郷をいつまでも思い出させます。
投稿: はまのぼくちゃん | 2015年9月 4日 (金) 18時39分
「はまのぼくちゃん」タイムトンネルを潜って当時のご自分を励ましたい思いがするでしょう。私は折にふれ「拝啓15の私へ」語りかけています。「希望を持つんだよ。貴女よりもっと辛い人もいるんだよ。今日のご飯も食べらない人もいるんだよ」と。
皆さまのコメントはしみじみとしみじみと胸に沁みました。私は転勤生活の後に生まれ育った市街地に住んではいるが往時とはすっかり様変わり。居ながらにして望郷の思いに浸りました。
三橋美智也の再来ともいわれる福田こうへいさんの歌でも聴いています。福田さん自身の苦難の前半生にも共感、ディナーショーに一年間に四回も行きました。
この歌も必ずのように歌われます。涙ぐんでいる人、むせび泣いている人、もらい泣きのりんごです。
投稿: りんご | 2015年9月 5日 (土) 08時58分
台湾が元日本領だった事若い方はご存知でしょうか?
幌馬車の歌が唄われた昭和22年頃から38年間戒厳令と
いう悪法が発令されました、台湾の一番暗い悲しい時代
でした殺された人は3万近くと言われ主にエリ-ト台湾
人で未だに秘密にされています、中国国民党の許せぬ悪
行です、二二八事件と言われています。
赤い夕陽の故郷 は台湾を追われ国外で独立運動をして
いて台湾に帰れない志士達の心境を唄った歌でそして台
湾独立の悲歌また応援歌でも有りました、当時よく唄わ
れました。幌馬車の歌 赤い夕陽の故郷 ダニーボーイ
今でもカラオケで悲しく唄っています。 元学徒兵
投稿: 黄敬煕 | 2015年12月14日 (月) 18時45分
政治的なことは別として、ユーチューブなどで見ると、台湾の方々に日本の唄が今でも歌われていることに、親しみを感じます。
若い方はどうなのかは分かりませんが、歌を通じての
触れあいは大事にしたいものです。
この歌が、黄さんのコメントにあるような形で、
台湾で歌われていたとは知る由もありませんでした。
投稿: 山ちゃん | 2015年12月20日 (日) 19時54分
朝鮮の地で生まれ、終戦と同時に母親・兄たちと共に引き揚げて帰国したのが満2歳の時。生まれ故郷の記憶など全くない私に兄が観るように勧めてくれた映画の一つが壇一雄原作の東映映画「夕日と拳銃」でした。ロケーションはもちろん日本で撮影の映画ではありましたが、自分の生まれ故郷を想像した記憶があります。そんな折り、ラジオからこの歌が聞こえてきました。「ああ、そうだ、これが私のふるさとの歌だ」と思うようになりました。いまでも、この歌を聞くたびに何故だか涙がこみ上げてくるのです。
投稿: 前田隆司 | 2016年3月20日 (日) 09時51分
本曲は、二木先生の解説に「昭和20~30年代には、いくつものふるさと演歌が発表…そのうちでもとくに多くの人たちに愛好された曲の1つ…」とある通り、ふるさと演歌の代表曲です。東京で出生され佐賀にお住まいの一章様、東京にお住まいで熊本が故郷のけん様、奥州仙台が故郷で北関東在住焼酎・・・それぞれ故郷は別々ですが故郷(古里)はしみじみ良いものです。酒飲みのいつものワンパターンで申し訳ありませんが、それぞれの故郷に乾杯です!
↓三橋美智也歌唱(SHYOWA_KAYOさん提供)
http://www.youtube.com/watch?v=0tvzMs4iNzs
ところで今月11日は7年前、東日本大震災が発生した日ですが、犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、故郷から避難されている被災者の方々のご苦労をお察し申し上げます。
投稿: 焼酎 | 2018年3月 8日 (木) 14時01分
これは良いですね。
今年の夏古希のお祝いで故郷の級友が関西に集まることになりました。
カラオケではこの歌を歌ってみたいです。
曲のご紹介ありがとうございました。
投稿: yoko | 2018年3月 8日 (木) 17時29分
連投で大変失礼します。
「歌は世につれ世は歌につれ」という諺とは裏腹に、昨今の“作詞・作曲界”は「流行歌の世界が全くダメ。紅白もみんな昔の歌を歌っている…演歌なんて何も新しいものがない…作曲家、作詞家がいけない…何とか船とか何とか道中とかまだ作っている」(某スポーツ紙掲載・作曲家小林亜星氏の談話)という有り様です。
本曲を含め、うた物語所収の各曲は往年の各作詞家・作曲家の渾身の作品です。東京にお住まいで山陰ご出身のyoko様(過去のコメントから推測させて頂きました)は関西で同級会だそうですが、「赤い夕陽の故郷」を熱唱されてきて下さい。差し出がましいコメントで失礼しました。
投稿: 焼酎 | 2018年3月 8日 (木) 22時05分
焼酎 様
往年の名作詞家:横井弘について、
あの星野哲朗氏が、
♪西条、佐伯と言わないまでも、せめてなりたや横井まで・・・志得ぬころの星野らは、新宿の夜にそんな ざれ歌を歌ったという。 西条八十や佐伯孝夫は目標とするには大きすぎて、畏敬の念を持って追おうとしたのが横井だったらしい。(小西良太郎 酔酔独歩 横井弘は歌社会の文学者だった! 2015.12.29 より)
あざみの歌 や 哀愁列車、達者でな、山の吊り橋、夕焼け雲、下町の太陽 等々 横井弘が歌社会の文学者といわれる所以が、よくわかりました。
投稿: あこがれ | 2018年3月 8日 (木) 23時09分
「三橋三智也」さんのこの歌は随分聞きました。2016年の「前田様」のコメントにあるように、朝鮮や満州からの引き揚げは困難を極めたとききます。私は満州からの引き揚げだったようですが、あまりに幼く(数えの4歳)だったとききますが、何一つ覚えていません。
又聞きですが、NHKで引き揚げのドラマがあるというこですが、見たいと思います。
三橋三智也さんの歌は何度聴いても心に響きます。
投稿: 今でも青春 | 2018年3月11日 (日) 21時11分
あこがれ様 >西条、佐伯と言わないまでも、せめてなりたや横井まで >横井弘が歌社会の文学者と言われる所以・・・作詞界(歌謡界)の秘話・裏話をご紹介頂き有難うございます。
カラオケは音痴で楽器演奏もできない音楽ド素人の感想ですが、昔の名曲の焼き直し・二番煎じが多い?作曲界も“古賀政男、𠮷田正と言わないまでも、せめてなりたや中野忠晴まで”といったようなザレ歌があってもよいところです。
投稿: 焼酎 | 2018年3月12日 (月) 12時48分
焼酎さん
大好きな歌です。
↓三橋美智也歌唱(SHYOWA_KAYOさん提供)へのご案内を有難うございます。
検索しているうちに美空ひばりの再来(?)素晴らしい歌唱力の「東あき」さんの歌を聴くことができました。
私は「二木紘三先生のうた物語」を教えてもらうまで、童謡・唱歌、歌謡曲などラジオやTV等から流れる曲を聴いているだけで音符も読めません。
恥ずかしながら二木先生の歌の解説で初めてそれぞれの曲の作られた背景や作詞などに関する皆さんの深い思いなどがあることを知りました。
あこがれさんの>せめてなりたや横井まで<など、始めて耳にする知識で勉強になりました。これからの歌謡曲を聞く楽しみが増えてきました。感謝します。
前田隆司さんは朝鮮生まれ。私は満州奉天市生まれ、3歳半の時博多港へ引揚げました。
3歳を超えていたと思いますが、満州で兵隊さんが隊伍組んで街を歩いていた事、引き揚げ船の中で知らないおばさんから「コーリャンのお握り」を貰った事、引揚港の博多港で沢山の日の丸が降られていた事、日本でしばらくロシア語・中国語などで数えていた事、父から満州の夕焼けは赤く大きかったと何度も何度も聴いた事など 覚えています。
東京の夕焼けも綺麗です。しかし故郷の夕焼けは懐かしい自然や幼友達がも重なり、思い出が呼んでいる気がしてきます。「今でも青春さん」の紹介された引揚のドラマを楽しみにしています。
投稿: けん | 2018年3月12日 (月) 14時08分
焼酎 様
仰る通り、同感です!
はこべの花様が、いつも言われてますように、メロデイーが美しいのは無論ですが、問題は「詞」です。
古いやつだとお思いでしょうが・・・「詞」は「詩」であって欲しいと思いますし、特に歌にあっては 散文よりも韻文調のほうが、我々世代には 美しく心地よく感じられます。
中野忠晴の「山の人気者」、初めて聞きましたが、ウイリー沖山とは違って、ファルセットもなく新鮮で良かったですね。
投稿: あこがれ | 2018年3月12日 (月) 14時15分
望郷の思いも何もかもががコロナの為に台無しですね。東北新幹線乗車率〇もあったの報道に胸が痛みました。
我が県も、他県への入出を固く禁じています。不要不急を除いて。
望郷の歌と言えばこの歌です。
二木先生の蛇足が短いのは寂しい限りです。
ラジオ深夜便 4時からのシンガーソングライター特集。今朝は、小椋圭さんでした。
意外だったのは彼が三橋美智也さんにゾッコンだったことです。彼の言葉に心が和みました。繰り返し二木先生の演奏を聞いています。
投稿: りんご | 2020年4月26日 (日) 19時03分
又々お手つき
小椋さん名前を小椋佳に訂正。
ラジオ深夜便今朝4時も誤りでした。
昨夜11時から本日26日1時迄の2部構成でした。
投稿: りんご | 2020年4月26日 (日) 20時14分
上手ですね。
8歳の少女が歌で140万回突破「赤い夕陽の故郷」
https://www.youtube.com/watch?v=CvZwH8FmHFI
投稿: yoko | 2020年10月18日 (日) 23時46分
故郷は遠くにありて思うもの とはよく言ったものと思います
昨年 老朽化した生家を取り壊しました その後の”悔恨”というか やっぱり故郷には思い出のある生家を残しておけばよかったと悔やんでいますが、後ㇸ何かを残すことに考えを切り替えている所です
投稿: 和田貴行 | 2021年4月 6日 (火) 20時20分
「赤い夕陽の故郷」これは幼いころの名残なのでしょうか、私はこの曲を聴くと瞬く間に郷愁を誘われてしまいます!
今思えば、私が物心ついたころは三橋美智也の全盛期だった気がします。当時この唄とともにラジオからいつも流れていた「夕焼とんび」が好きで、この二曲を幼いながらも私はよく口遊んでいだ記憶があります。
私は生まれ故郷の佐賀を離れて52年が経ちましたが、この唄を聴いていると、幼少のころに眺めていた山や川、そして田畑だらけだった田舎の風景がいつのまにか脳裏に浮かんできます。
今思えば、私が幼いころに眺めていた故郷の夕焼の空は格別で、それは現在此方では見ることのない、山と山の間に浮かぶ美しい茜雲、まさにそんな絶景でした。
「赤い夕陽の故郷」今日は久しぶりに『三橋美智也全集』を取り出しては、往年のヒット曲の数々をつい先ほどまで聴いていました。特にこの唄の出だしと結びの『お~い』という三橋美智也のその声を聴いたとき、私は何故か胸にジーンとくるものがありました。
投稿: 芳勝 | 2022年7月28日 (木) 16時55分
高校卒業後、首都圏に出てきて60年を超えました。
芳勝様の「この唄を聴いていると、幼少のころに眺めていた山や川、そして田畑だらけだった田舎の風景がいつのまにか脳裏に浮かんできます。」の言葉が心に響きます。
私の場合は 昭和21年9月満州ハルピンから熊本県北東部の山村に引揚げました。当時の村に小学校が2校、東部小学校の全校生徒は約180名、西部小学校は約100名位で農家の子供がほとんどでした。
段々畑や狭い田んぼの間に藁屋根が数軒。母屋の横に牛小屋、端に汲み取り便所、玄関の前には庭があり、そこで米や麦を干したり、摘んだ茶の葉を揉んだりしていました。
家の背後の竹林は小高い山に連なり、目下の小川で小魚を獲っていました。遊ぶ場所は山の中腹にあるお宮や小学校校庭。子供で時計を持っている人もいなかったので、狭い空が夕焼けになる頃、遊びをやめ家に帰っていました。弟妹の手を引き「夕焼け小焼け」を歌った事もありました。赤い夕陽を見たこともあります。
そんな村にもお盆や正月になると都会で仕事をしている若者が土産話を持って帰ってきます。その話を聞きながら都会の生活に憧れました。
憧れの都会の生活が出来るようになって故郷の同級生会に参加しました。同級生のほとんどは当時の村周辺に残り結婚や仕事をしていました。そして 同級生から「私たちの分まで頑張れ」と励ましてくれました。
赤い夕陽の故郷の「お~い」という歌詞を聞くと、私には幼友達や田畑、山川、お宮・校庭の呼ぶ声に聞こえる気がします。
投稿: けん | 2022年7月28日 (木) 23時27分