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2007年8月21日 (火)

われは海の子

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


文部省唱歌、作詞:宮原晃一郎、作曲:不詳

1 われは海の子 白波の
  さわぐいそべの松原に
  煙たなびくとまやこそ
  わがなつかしき住みかなれ

2 生まれて潮にゆあみして
  波を子守の歌と聞き
  千里寄せくる海の気を
  吸いて童(わらべ)となりにけり

3 高く鼻つくいその香に
  不断の花のかおりあり
  なぎさの松に吹く風を
  いみじき楽(がく)とわれは聞く

4 丈余のろかいあやつりて
  ゆくて定めぬ波まくら
  ももひろちひろ海の底
  遊びなれたる庭広し

5 いくとせここにきたえたる
  鉄より堅きかいなあり
  吹く潮風に黒みたる
  はだは赤銅(しゃくどう)さながらに

6 波にただよう氷山も
  来たらば来たれ 恐れんや
  海巻きあぐる龍巻も
  起らば起れ おどろかじ

7 いで大船を乗り出して
  われは拾わん海の富
  いで 軍艦に乗り組みて
  われは護らん海の国

《蛇足》 明治43年(1910)、『尋常小学読本唱歌(六)(6年生用)に掲載されました。

 多くの文部省唱歌と同じように、この歌も、作詞・作曲者は長い間不明でした。作曲者は今も不明ですが、作詞者はわかりました。発表当時、小樽新聞社(現北海道新聞社)の記者だった宮原晃一郎(本名:知久)です。

 明治41年(1908)、文部省は文部省唱歌とすべく新体詩を広く募集、宮原が『海の子』と題する詩で応募して佳作に入選しました。これが『われは海の子』と改題され、文部省唱歌に採用されました。

 平成元年(1989)、宮原の長女・典子さんが、保管していた文部省からの入選通知と著作権譲渡要請状を新聞に公表しました。文部省唱歌の歌詞校閲を務めた芳賀矢一の作とする説もありましたが、これにより、宮原晃一郎が作者であると確定しました。

 宮原晃一郎は明治15年(1882)、現在の鹿児島市で生まれ、北海道に移住する10歳まで、その地で過ごしました。
 詩に描かれた海の光景は、鹿児島湾のイメージだとされています。現在、桜島を望む祇園の洲公園に『われは海の子』の歌碑が建っています。
 彼は、新聞記者をやめたあと、文学者となり、北欧文学の翻訳や児童小説に多くの作品を遺し、昭和20年
(1945)に亡くなりました。

 詩は、雄大な自然の中で生まれ育つ男の子の姿を描いたものですが、7番に軍国調が出てくるのが何とも残念です。
 
人間が生い立つ本源的な姿を描いたみごとな詩が、体を鍛え、勇気を培うのはお国に奉仕するためという国家主義的なイメージになってしまいます。ほかのいくつかの童謡・唱歌と同様、時代の風潮からは逃れられなかったということでしょうか。

 第二次大戦後も、多くの音楽教科書に採用されましたが、昭和55年(1980)をもって、すべての音楽教科書から消えました。しかし、平成元年(1989)の「学習指導要領」改訂(同4年〈1992〉実施)で復活し、いくつかの小学校音楽教科書で採択されています。

 教科書に載っているのは2番か3番までですが、小学生にはむずかしい言葉が多いので、7番まで含めて説明しておきましょう。

いそべ……岩石の多い海や湖の波打ち際。
とまや……茅葺きの粗末な家。
潮にゆあみして……海水で産湯(うぶゆ)を使って。産湯は産まれたばかりの赤ん坊に入浴させること。
童となりけり……少年に生い育った。
不断……絶え間ないこと。
なぎさ……水ぎわ。
いみじき楽……すばらしい音楽。
丈余……丈は長さの単位で、約3メートル。したがって、丈余は3メートルあまりということになるが、ここでは非常に長いという意味。
ろかい……櫓(ろ)と櫂(かい)。舟を漕ぐ道具。
波まくら……舟の中で寝ること。または船旅。
ももひろちひろ……百尋千尋と書く。尋は長さの単位で、両手を左右に広げたときの一方の指先から他方の指先まで長さ。時代によって違うが、だいたい180センチ。ここでは非常に深いという意味。
かいな……腕のこと。
いで……「さあ」とか「いざ」というかけ声。

(二木紘三)

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コメント

 こんな良い歌を文部省唱歌から外したようですが審査会の委員たちは何を考えているのですかね、また、何を基準に文部省唱歌を決めているのですかね。 昔、テレビの題名のない音楽会で薫敏郎さんが言っていたのには、言葉が難しいからだそうですが。
 スキーの歌も沖縄が返還され沖縄には雪が降らないから。
沖縄の人間が本土の方にも多数来ておりスキーやアイススケートだってやります、オリンピックの種目にもあるんですよ。
 村祭りと言う歌は住宅地になって鎮守の森がなくなってきたから?日本は古来からの農業国であり五穀豊穣を祝って祀ってあるんです、一部ではそうかもしかし全国いたるところに鎮守の森は残っております、こんな愚にも付かない理由で簡単に変えてしまう、あなたの生活も政治を簡単な発想でコロコロ変えられてしまってはいませんか。
 ちなみに今の小学校の音楽の中にはわからない歌がたくさんあります、はっきりとは覚えておりませんが確か「日本国民が誰でも知っており、口ずさめるような」が唱歌の基準だそうなんですが。

投稿: トクラテス | 2008年5月11日 (日) 13時13分

我が生まれ故郷には海が有りません。海を見ることが願望でした。泳ぎは川で教わっていました。就職してまっ先に行ったのは海です。民宿にも何度か行きました。それなのに息子
はプールの無い高校に行かしてくれと母親に頼んだらしい。
泳げる人から、見れば何でも無い事が逆の立場からみれば恐怖になるのですね。

投稿: 中井 | 2008年9月22日 (月) 08時38分

昭和33年、小学校6年生の修学旅行で新潟県の柏崎に行きました。私は長野県なので、それまで一度も海を見たことが無いのです。最初に海を見たときの感動はそれはもう大変なものでした。当時は男子も女子も海水着なんてものはありません、下着のままで海辺で遊び、眠るときは波の音、船の灯りに感動して、なかなか寝つかれなかった事を覚えています。
楽しい思い出を残して帰って来て音楽の授業で、われは海の子を歌ったときは、皆で目頭を熱くしておりました。
あれから50年余り、その時の同級生を妻に迎え、ドライブに出かけては、現場に立ち寄り、当時の思い出に浸っております
最近は思い出ばかりに振り返る毎日ですが、人生だけは前向きに過ごしております。

投稿: s.hujisawa | 2009年11月25日 (水) 12時23分

 今から、40年くらい前。
 テレビから流れてきた言葉「竜巻」が、この歌の歌詞に入っていた。
 しかし、どの歌本を調べても、「竜巻」が入っていませんでした。
 そして、たどりついた、このサイト。なんと、6番目に「竜巻」の言葉を見つけました。
 40年の懸案が解決しました。
 ありがとうございました。

投稿: こうちゃん | 2009年12月18日 (金) 20時00分

この歌に7番まで歌詞が付いてたなんてここで初めて知りました。 驚きです。 しかも戦時色を強く反映したものである事も併せて、「蛍の光」に3番4番が在ったのを知った時と同じ想いです。時々童謡を口ずさみたくなった時、このsiteにaccessします。 二木さんありがとう。 

投稿: yoshinogari champloo | 2010年4月12日 (月) 22時08分

鹿児島湾、桜島、祇園之洲!毎年7月の初め、小学校の授業でクラスごとに歩いて海に行ったのに、とうとう泳げるようにならなかった「我は山の子」の私にとっても、懐かしい名前です。しかし「我は海の子」の作詞家が鹿児島出身だということは当時も教わらず、今始めて知りました。

投稿: Bianca | 2010年4月13日 (火) 18時36分

あくまで主観ながら、この歌の歌詞でもっともすぐれているのは4番かと。「丈余の櫓櫂あやつりて 行く手定めぬ波枕」の詞章は、いささか「弁天小僧」の南郷力丸じみますが、そのスケールの大きさ、大らかで健康なたくましさ、抒情の豊かさとで、明治の擬古文体の白眉でしょう。バラード全体の中心であって、この部分とそれに続く5、6番を切ってしまっては、この歌の価値はありません。戦後の文部省の役人だか学者だかが、いかに何も分かっていなかったかの証左と思います。

投稿: jyaku-hai | 2012年7月13日 (金) 20時25分

私が生まれたのは横浜市中区の海の近く。間門という、今は埋め立てられて石油コンビナートになっているあたりが、砂浜の海岸でした。歌が好きだった父が、そこでこの歌を歌ってくれたものです。
7番の歌詞が軍国調で残念とのことですが、自分の国を守るという当然の気概を示したものとして、これはこれで良いと思います。

投稿: 川口雄二 | 2014年6月20日 (金) 22時30分

この歌、好きな人多いですね。私の家の前には広い砂浜があり海がありました。だけど、私は真っ黒に日焼けしてたくましく海で遊ぶ少年ではありませんでした。あまり外には出ませんでした。そういう自分が分かっていましたから、「われは海の子・・・」なんて恥ずかしくて歌いたくはなかったです。

泳ぎもできませんでしたが、高校にはプールがあり、体育では水泳の時間もあります。一念発起して、泳ぐ練習をすることにしました。しかし高校生ですと、もう恥ずかしくて人前では練習できません。家の前に海があるにも関わらずそこでは練習できません。

そこで、山を越え、岩場を上り下りして、岬の先の人っ子一人いない小さな入り江に毎日通い、一人で泳ぐ練習をしました。もしその入り江の岩場で怪我をして、動けなくなったら、何年か後に、白骨で見つかっていたかもしれません。

当時は岬の岩場など飛び跳ねて移動できていたことを思い出します。今は都会に住む身で、交差点を急いで渡ろうとし、いざ、走ろうとすると体が動かないことに気づきます。
あれっ、こんなはずじゃなかったのに・・、と思います。
歳とってしまったんですね。

投稿: yoko | 2014年6月21日 (土) 00時14分

川口雄二さん、間門ですか。投稿されたその日にバスで間門を通り本牧まで用事で行きました。
私は磯子区なので子供のころは磯子の海岸で泳いでいましたが、時々三渓園の海水浴場へ遊びに行きました。
今は海の世界は遠い思い出の彼方で、本牧の岬から金沢まで石油コンビナート、工場地帯へと様変わりしてしまいましたね。
その工事の始まった時代に本牧の高校へ通学してました。
市電が間門のカーブに差し掛かると正面に夕方の富士山が大きく見えていたのを思い出しました。

投稿: 栗さん | 2014年6月23日 (月) 15時47分

栗さん、コメントありがとうございました。三渓園とか磯子とか、懐かしい地名が登場して、嬉しかったです。
市電のことも思い出します。間門へ行くのは、5番の電車でした。
またよろしくお願い申し上げます。

投稿: 川口雄二 | 2014年6月24日 (火) 07時05分

わたしは、10歳までまったくの“かなづち”でした。運動神経がそれほど発達していなかったこともありますが、“かなづち”の最大の要因は、(海)水に対する恐怖心でした。それが、戦後、一家が朝鮮からの引揚げで新潟の漁村に転住することによって、一転「海の子」に大変身したのです。初めは、村の子たちと仲良くなっても、泳ぎの達者なかれらと一緒に行動できない悔しさと不甲斐なさで、情けない毎日でしたが、「習うよりも慣れろ」で毎日海に入ってバタバタやっているうちに泳げるようになりました。今でしたらインストラクターが初歩から教えてくれるのでしょうが、その当時は教えてくれる者など誰もいません。自ら勇を鼓して海水との恐怖心と闘うしかありません。その過程で嫌と言うほど潮水を飲みましたが、その苦しみは泳げるようになった感動と快感で綺麗に消え去りました。一度自信がつくと、どんどん泳ぎが上達します。中学2年生のときには、1.5kmの遠泳が出来るまでになりました。もっとも、わたしの泳法は自己流ですが。
 こういう成功体験は、後々成長してからも役に立ったように思います。

 この歌詞は、最初は題が「海の子」となってなっていたものを、佳作として入選してから、文部省が「我は海の子」に改題したようです。わたしは1番~6番までの歌詞は自然児としての「海の子」を謳っていていいと思いますが、7番は?と疑問符が付きます。木に竹を接いだような感じなのです。しかし、考えてみれば、作詞家の宮原晃一郎が応募したときの日本は、日清、日露の戦争に勝利して、西欧列強に伍して往く時代背景がありますから、7番の国家主義的な歌詞を入れなければ入選しないと、かれ自身が思っていたのかも知れませんね。

投稿: ひろし | 2014年6月25日 (水) 12時04分

海なし県生まれの私でも、この歌は学校で歌った覚えがあります。1番2番の歌詞にはよく親しんでいたと思うのですが、当方の教養の無さから言葉の意味が難しくて、3番4番辺りは私には馴染みが薄かったような気がします。
今般、5番から7番の歌詞を知ることができました。
1番から6番までの歌詞は、すべて7番に帰結収束するように思います。私は、改めて明治日本の空気の匂いの一端に触れる事が出来るような気がして、7番を声に出して歌う時心が震えます。

投稿: 慎兵衛 | 2016年7月 2日 (土) 22時45分

素晴らしい曲の数々、いつも聞いております。
さてこの曲の作曲者はいまだ不明のままですが、ある方の投稿を読んでみますと、この曲をアメリカで聞かれたようです。
高校生のコ-ラスグル-プが歌っているとも書かれています。
明治期に、アメリカから日本に大量に導入された唱歌のひとつではないでしょうか。
仰げば尊しと同じく、我は海の子のオリジナルがアメリカの歌曲集のどこかに入っているような気がします。

投稿: Yoshikatsu Okuno | 2017年3月 8日 (水) 20時17分

何年も前から、このブログを見ていますが、この歌の作者はどなたかが書いておられるように新聞社の方だったらしいですが、北海道に異動された後、発表があったそうです。四番 「丈余のろかい操りて」とありますが、「ろかい」という言葉をある講座で聞きました。作者「宮原氏」はやはり南国の育ちだったのかもわかりません。舟の「櫓櫂」と理解しています。当地の「いろは歌」に出てきます。

投稿: 今でも青春 | 2018年3月21日 (水) 10時40分

高校の期末試験にこんなのがありました。
  古文文法:係り結びの法則
   の例を、知っている歌の歌詞の中から探し出せ。
わたしは、次の二例しか思いつきませんでした。
  煙たなびくとまやこそ
  わがなつかしき住みかなれ
そうか「こそ」があると最後は已然形の「なれ」になるんだ。だから「住みかなり」じゃないんだ。
 「さくら、さくら」の
   においぞ いずる
も「ぞ」があるから終止形の「いず」じゃなくて、連体形の「いずる」になっているんだな・・・
 ほかの例をご存じのかた、お教えください。

投稿: 江戸 | 2018年8月11日 (土) 17時25分

歌詞のなかの係り結びの法則
仰げば尊し
のなかの
「今こそ別れめ」
がそうでした。

投稿: 江戸ふうりん | 2018年8月13日 (月) 11時18分

江戸ふうりん様
「蛍の光」の1番「明けてぞけさは別れゆく」もそうだと思います。中学生の私たちに先生はここに面白い歌詞があると言いました。考えたのですが、わかりませんでした。「すぎの戸を 明けてぞ」意味として「過ぎ去った年月(戸)を明けて」とある今にして思えば掛詞ですが、その当時知らないことを教えて下さいました。

投稿: 今でも青春 | 2018年8月13日 (月) 12時38分

今でも青春様。ありがとうございました。

浜辺の歌にもありました

あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ しのばるる

「ぞ」があって。連体形「しのばるる」で受けられています。

投稿: 江戸ふうりん | 2018年8月13日 (月) 17時14分

上のコメントでご指摘されていることについてですが、われは海の子のメロディーをアメリカで聞いたことを、確かどこかに投稿したと思います。留学していた2000年頃、自宅でローカル局のテレビをなんとなく見ていたときに、高校生くらいの少人数の女声合唱で、何か聞いたことがある旋律だなあ、と思っていて、あっ、と気づいたのですが、その頃は特に深く考えず、帰国して月日が流れました。2011年になって、仰げば尊しの原曲がアメリカで発見されたニュースを見て、記憶が甦ったわけです。証拠を示せないのでここまでですが、この曲が戦時に好んで歌われていたとすれば、歴史の皮肉ですね。

投稿: 明治維新 | 2018年12月17日 (月) 01時33分

その昔、私もいっぱしの愛国少年(幼年?)でした。いつの頃からか海軍に入るんだと、海軍士官学校に入るんだと叫んでいました。(海軍は、海軍兵学校だなんてまだ知りませんでしたから。)
だから遊びにも泳ぎにばかり熱心で、国民学校一年生(昭和19年)のときにはすでにカッパ同然で、近くの筑後川をしょっちゅう泳ぎ渡っていたものです。(当時は遊泳禁止なんてありませんでした)。時には、仲間と一緒に、カマやナイフを持って対岸へ渡り、河原のサトウキビ畑を荒らしていたこともあります。ものの不足していた時代、サトウキビは絶好のオヤツでした。
その冬の頃、戦況も怪しくなってきていたせいか、国民学校生徒にも、低学年生も含め、厳しい訓練、稽古が課せられ、雪やみぞれの中での、水泳、武道。愛国少年たちはよく頑張ったものです。
昭和20年夏終戦、海軍軍人の夢は消えてしまいました。

この歌は、そのころいつの間にか覚えこんでいて、しょっちゅう歌っていたものです。ただ、記憶にあるのは、4番までで、5番以下があるとはこのたび初めて知りまた。 今よく歌詞を読んでみると、5番以下は4番目までとは、なんとなく雰囲気というか、表現というか、感じが違うように思われます。幼いころ、おそらく7番まで耳に入ってはいたのでしょうけれど、気分的に5番以下は敬遠していたのでしょうか。周りの仲間たちも5番以下を歌っているのを聞いた記憶はありません。

二木先生は上記で、言葉の説明をなさっておられますが、私たちは幼いころでも、歌っているうちに、いつの間にかそれぞれの言葉の意味は分かってきておりました。歌詞、和歌などを理解するのが、国語の勉強になるものだとよく言われますが、その通りだと思います。
上記で、古文の文法をお話しされていられますが、高校で古文を学ぶ最初に、古文を理解する基本として、ぞ、なむ、か、や、こそ、を学びましたよね。懐かしいですね。

どこぞやで、二木先生もおっしゃってたと思いますが、昔の歌曲や歌謡曲の歌詞はほんとに美しいですね。その頃の作詞家たちは、万葉集や古今和歌集などや、古典を本格的に勉強していられた、日本語の文章の専門家なのですね。
今時の叫び声をあげる歌?はいけません。


投稿: 田主丸 | 2018年12月18日 (火) 10時37分

田主丸 様

 一昨日のご投稿を読んで、投稿しています。この歌は、九州、小倉市、昭和22年生れの私も、小学校で習った記憶があります。「ペンネーム」から、福岡県南部
ご出身の方と推察いたします。私の亡き父の祖先は、漁師だったようですが、私は、20歳近くまで泳げませんでした。必要にせまられて、やっと泳げるようになりましたが・・・。年に1度位、山口県日本海側の海水浴場に連れて行ってくれました。当時市内の海では、汚染で、泳げなかったものと思われます。今は、茨城県で定年有機農業をしています。

投稿: 竹永尚義 | 2018年12月20日 (木) 17時04分

 『われは海の子』は、小学6年時に二部合唱曲として習いました。
大概の二部合唱曲は、主旋律が高い音階で、副旋律が低い音階なので
すが、この『われは海の子』は主旋律が低い音階で、副旋律が高い音
階という珍しい曲です。 壮健で雄々しい歌であるがゆえんかもしれ
ませんね。 作詞をした宮原晃一郎は、故郷鹿児島の『磯海水浴場』をイメージして作ったのでしょうね。 『磯海水浴場』はその名のとおり、砂浜の海岸ではなく、丸い石がゴロゴロある磯辺の海岸にあります。 子供頃、ここで小学生が遠泳大会を行っている映像をテレビのニュースでよく見ました。 現在歌碑が建っている祇園の洲公園が、磯海岸辺りなのでしょうか。
 子供にとっては少々むずかしい言葉が使われている歌ですが、これからも永く唄われ続けていって欲しいです。

投稿: かせい | 2019年4月21日 (日) 15時11分

松風の音を美しい音楽と聴くということについて、ネット上には正しく解説してあるものがないのが残念です。松風の音は琴の音に喩えられ、またその逆に琴の音は松風の音に喩えられるのは、古歌の世界では知らない者はいない常識中の常識でした。この歌の作詞者も当然のことながら知っていましたから、「いみじき楽」と表現しています。ただ古語辞典とにらめっこして、逐語的に現代語訳にするので、作詞者の心を理解し切れていないのでしょぅ。

投稿: 阿倍泉 | 2021年9月 2日 (木) 20時00分

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