« 好きだった | トップページ | 東京の人 »

2007年8月17日 (金)

東京のバスガール

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:丘灯至夫、作曲:上原げんと、
唄:初代コロムビア・ローズ

1 若い希望も恋もある
  ビルの街から山の手へ
  紺の制服身につけて
  私は東京のバスガール
  発車オーライ 明るく明るく走るのよ

2 昨日心にとめた方
  今日はきれいな人つれて
  夢ははかなく破れても
  くじけちゃいけないバスガール
  発車オーライ 明るく明るく走るのよ

3 酔ったお客の意地悪さ 
  いやな言葉でどなられて
  ほろり落としたひとしずく
  それでも東京のバスガール
  発車オーライ 明るく明るく走るのよ


《蛇足》
昭和32年
(1957)の大ヒット曲。翌年、日活で映画化されました。

 この歌のバスガールは路線バスのバスガールですが、この時代、ニキビ盛りの田舎の中学生が修学旅行で出会う「東京のバスガール」は、実に心ときめく存在でありました。
 昨今、その価値が大幅にインフレ気味のスチュワーデス
(フライトアテンダント、キャビンアテンダント、客室乗務員など、名称までインフレ気味ですが)に匹敵する存在だったといっても過言ではありません。今はどうなんでしょうか。

 初代コロムビア・ローズは本名斉藤まつ江で、群馬県出身。コロムビア・レコードが催した都道府県対抗のど自慢大会の第1回大会で1位になってプロ入りしました。この歌のほか、『渡り鳥いつ帰る』『どうせひろった恋だもの』などのヒット曲があります。
 現在3代目のコロムビア・ローズが活動中です。

(二木紘三)

« 好きだった | トップページ | 東京の人 »

コメント

大変懐かしい歌です。昭和31年上京して真っ先に「はとバス」に乗りました。この歌は
32年のヒット曲ですから符合します。
バスガールは憧れの的でしたね。歌詞の「発車オーライ 明るく明るく走るのよ」が脳裏を離れません。メロデーも最高です。
二木紘三先生有難う御座いました。

投稿: 波路 | 2007年8月19日 (日) 20時18分

約50年前の中学生の頃、東京の路線バスに乗っていましたらガイドさんが些細なミスで運転手から怒鳴られていたのを思い出しました。子供ながらに嫌な気分になりガイドさんを見つめていました。でもガイドさんは何事も無かった様に明るく振舞いその仕草に感心を覚えた程でした。世の中で働くことは大変な事なんだと思いその後の私の人生での社会勉強になりました。それにしても何度聴いても心にしみるいいmp3を有難う御座います。

投稿: 62歳としお | 2007年12月 6日 (木) 20時11分

初代は歌と声質が合っていました。2代目は爽やかな声だったので知恵子抄がヒットした。3代目これと言った特徴が無い。

投稿: M.U | 2008年8月 4日 (月) 13時47分

一人になって10年、ここ2,3年偶然このサイトと出会い
淋しい時、いつも一人で声を出して歌っています。どれだけ励みになり、私を慰めてくれました。アメリカに旅行中にPCが壊れてしまい、なきながらHPをさがしました。まだPCに不慣れ時でしたので一生懸命さがしました、それからは、メモをとって保存しています。先生のお陰でどれだけの人がこのサイトで慰められている事でしょう、単なる音ではありません、いついつまでも このサイトが存続しますように、先生のご健康をお祈り致しております。
追伸 先生の説明の蛇足を必ず読み、侍ニッポンなどは、最初、それを読んでから、涙が出て歌えませんでした。

投稿: 要垣内 幸子 | 2009年11月13日 (金) 20時24分

飛行機には乗ることのない時代・・・・・

はとバス・修学旅行などバスガイドさんの制服姿に憧れたものです。
観光案内はもちろん歌謡曲、民謡まで素敵な声で歌ってくれました。
大阪で出会ったガイドさん今でも思い出しますよ・・
ステキな人でした。

投稿: はるちゃん | 2010年5月 3日 (月) 16時53分

はじめまして。鉄道とバスと懐メロが好きな高校生の、銀座線01系と申します。

唐突ですが、僕がこの曲を知ったのも、こちらのブログからです。

それ以来、「バス」というと必ずこの曲が頭の中を、流れるようになり、バスの模型を見ているときは、いつもこの曲を聴きながら見ています…。

それとは別に、去年の大震災の時に流れた、岩手県交通の釜石営業所を取材した映像で、所長さんの話を聞いたとき、この曲の「明るく明るく走るのよ」というフレーズを思い出してしまい、思わず涙が出てしまいました…。

最近は地方のバス会社の経営は苦しいと聞きますが、この歌の通り、いつまでも「明るく明るく走」っていてほしいですね…。

最後に、散文的な下手くそコメントになってしまい、申し訳ありませんでしたm(_ _)m

そして今後も、懐メロの興味深い記事に期待しています!!

投稿: 銀座線01系 | 2012年1月 8日 (日) 22時36分

バスガールは路線バスでバスガイドは観光バスだったと思いますが、今では運転手一人の対応になってしまいました。田舎でも車社会になってバスの運行が成り立たないので廃止され、自治体自身で年寄り向けマイクロバスを赤字で運行せざるを得ないとの事。この歌の頃は田舎にも活気があった。

投稿: 海道 | 2012年1月 9日 (月) 17時00分

 バスガール~なつかしい言葉です。

 紺の制服~りりしいですね。思わず見とれます。

 酔ったお客の意地悪さ~酒飲みの風上に置けない奴。セクハラという味気ない言葉もなかった時代ですね。

 いやな言葉でどなられて~いたいたしいです。目にするほうもつらい。負けるなよ!

 最後に これは仕事の歌、職業へのプライドを感じる歌。いいですね。
 亡くなった女房と楽しんだはとバス半日コースを思い出します。二人とも50を過ぎていたが、お上りさん丸出しで喜んだなあ。

投稿: 越村 南 | 2012年11月 9日 (金) 13時11分

東京がとても遠かった(今でも)ころ、小学校6年のころでした。私たちの地域にも流行ったんです。
 機会があって近くの観光バスに乗りました。ガイドさんが「何か歌ってほしい歌はないですか。」と言われて、子どもながら流行り始めのこの曲を言ったら「最近のことなので、まだ覚えていません。」と言われたことを覚えています。
 なまいきな子どもに見えたことでしょう。コロンビア・ローズという人はよく覚えています。いい歌です。

投稿: 今でも青春 | 2014年7月 5日 (土) 17時48分

小学校一年生のとき、汽車やバスを利用して離れた学校に通っていました。ある日、家まで歩いて帰ってみようと思い立ち、田舎の山道をてくてく歩いていたら、後ろから来たいつものバスが「乗りなさい」って止まってくれたことがありました。また、時間に遅れて一列車逃してしまい、次の列車を待合室で待っていたら、駅員さんが後続の貨物列車と交渉してくださり、その蒸気機関車に乗せてもらったこともありました。一瞬の夢のような日々だったと思えます。バスの運転手さんも、車掌さんも、駅員さんも、乗客一人一人の顔を知っていた時代ではなかったかと思えます。

ある日バスの車掌さんが男の人から女の人に変わったのにも驚きました。そして、中学生になった頃には「ワンマンバス」と表示されているバスが走るようになりましたが、最初はその言葉の意味もわかりませんでした。

「運転手は君だ、車掌は僕だ♪」なんて童謡もありましたが、もうずいぶん昔ですね。

投稿: yoko | 2014年7月 6日 (日) 00時23分

 この歌は、すばらしい仕事の歌です。「喜びも悲しみも幾年月」「若いおまわりさん」「北の漁場」「ヨイトマケの歌」、みんな仕事の歌です。「唐獅子牡丹」も、極道という名の仕事の歌といえるでしょう。恋の歌は多すぎて、食傷ぎみ。仕事の歌は少ないが、特有の味わいがあります。

 上の写真のバスガール、清楚な美しさがありますね。高峰秀子に似ているような、そうでないような・・今では絶滅してしまった美人のように思います。
 最近は、ほとんどがワンマンバスで、じつに味気ない。こんなバスガールに会えると、なんとなく人生が楽しくなり、長生きできそうな気がする。いや、おばさんでもいい、ぜいたくは言いますまい。

投稿: 越村 南 | 2014年7月 6日 (日) 07時11分

年末で昔のアルバムを整理していました。

57年前の私たち高校時代の修学旅行の行き先は憧れの東京でした。初めての上京で興奮していました。
東京に行ったことがある友人は「東京の言葉は 最後に〝○○よ、○○さ、○○ね”と使う人が多い」とか「東京のバスガイドさんは美人ばっかり」と吹き込んでくれました。

東京タワーや皇居見物などの時もバスガイドさんを囲んでの写真がほとんどです。都会的に洗練され、笑顔の美しいバスガイドさんで同級生から人気がありました。車中では歌を披露してくれました。ガイドが終わる頃 その人の住所、名前を聞いてる者もいました。

はとバスに乗ったり、皇居前広場などに行くとバスガイドさんに心をときめかせた高校時代をふと思い出します。

投稿: けん | 2017年12月28日 (木) 22時36分

 一般的には、路線バスの女性車掌は「バスガール」、観光バスの女性車掌は「バスガイド」でしょうか。
東京におけるバスガールの業務は、朝の通勤ラッシュ、終バス、そして休日の乗車業務と、結構ハードなお仕事だったのでしょうね。
 黒い大きなガマ口みたいなバッグと笛を首から下げて、忙しくも溌剌と働いたことでしょう。
 今は殆どの路線バスが「ワンマン」になり、バスガールは見なくなりました。 昭和32年頃は、私の田舎町ではボンネットバスでしたが、東京はどんな形態のバスだったのでしょう。
 バスガールを演じた女優は多いと思いますが、高峰秀子、倍賞千恵子、松原智恵子、酒井和歌子らの映画を観た憶えがあるのですが……。

投稿: かせい | 2018年2月 2日 (金) 00時39分

東京のバスガール♪を聴く度に、私は中学時代の同級生TYさんという女の子を想い出します!
小学生の頃から中学卒業まで仲よしでした。私は小学5年生の時、昼休みに学校の運動場で足を挫き、痛くてうづくまっていた時、TYさんは少し離れた保険室まで、私を負んぶして連れて行ってくれました。
中学3年になり、受験を控えた頃、何処の高校を受験するの?とTYさんに私が尋ねると、すぐさま、私バスガイドになるから、と彼女は笑顔を見せて、明るく答えました。
その時、彼女の家は、母子家庭で、お母さん一人が働いて、TYさんとその弟と妹も養っているという家庭事情を知っていたので、私にはとても素直には笑えませんでした。
それでも、地元佐賀県内にある昭和バスという、大手バス会社に就職するものだと思っていましたが、彼女から聞いたのは、佐賀県からは、はるか遠く離れた、岐阜県大垣市にある観光バス会社だと聞いた時、私は驚きと同時にショックを覚えました。
でも、TYさんは、明るい性格で歌も上手く、綺麗な顔立ちとスタイルも抜群で、それに思いやりをあわせ持った素敵な女の子だったので、バスガイドの仕事はきっとTYさんの天職になり、大勢のお客様を楽しませ、喜ばせる、ナンバーワンの花形バスガイドになっただろうと思います。
東京のバスガール♪を聴いていると、私は、未だ一度も見たことのない、TYさんの活躍をしているバスガイド姿を想像します。

投稿: 芳勝 | 2018年2月 3日 (土) 12時54分

 こんにちは、この歌は心に残っています。最後にお世話になったところでこのバスガールになった方のお話を聞きました。

投稿: 今でも青春 | 2018年2月 3日 (土) 18時28分

 この歌に投稿するのは3回目です。何回でも投稿したいほど、好きな歌です。この歌ほど人生と仕事を肯定的にうたった歌は、あまりないように思います。しかも、きれいごとの人生でなく、人生の醜い部分もしっかりうたわれています。
 今回、気づいたのは、1番2番3番とも歌詞の最後に「明るく明るく走るのよ」とくり返していることです。丘灯至夫さんは「人生は辛いことも多い。だけど一番大切なのは、明るさを失わないことだ」と言いたかったのではないでしょうか。
 もしそうなら、私の人生観と一致しています。以下、手前味噌の話で恐縮ですが、聞いていただきたい。私は初めて生まれた男の子に名前を付ける時、自問しました。「人生に最も大切なものは何か?漢字1字で何か?それを名前にしよう」愚考の末に「それは明るさではなかろうか、明るければ何でもできる、何度でも挑戦できる」
結局明(あきら)に決めました。(笑)
例えば、一人の女性がどんなにつらい目にあっても、思い切り泣いて、泣くだけ泣いた後、きりっと口紅(ルージュ)でもさして、明るく明日に立ち向かっていくという姿には聖女のような尊さを感じます。ジャンヌ・ダルクだけが聖女じゃない。

 バスガールの価値が下落したのは、人々がマイカーを持ちはじめたからではないでしょうか。乗り心地がいいとか悪いとか言い出したら、バスの値打ちは下がっちゃいます。あこがれの乗り物じゃなくなってしまいます。
YOU TUBEで見る当時のバスガールの表情には、時代の波に乗った職業に就いた女性特有のプライドが、ひしひしと伝わってきますね。

投稿: 越村 南 | 2019年5月19日 (日) 22時21分

「東京のバスガール」丘灯至夫と上原げんと、この名称と云われる二人が作った、この素朴で純粋な詞と哀愁漂うそのメロディの魅力は何度聴いても最高です!

上の写真を観て、一瞬、きっと高峰秀子さんだと私は思ったので、検索したところ、昭和16年の作品で「秀子の車掌さん」という白黒映画がありました。私はその動画を視聴しましたが、その映画の内容というよりも、幼い頃から田舎育ちの私には懐かしい田園風景のオンパレードで、バスが走るとホコリが立つ道路、また当時のどかな時代の暮らしを感じさせるその映像シーンの数々に惹かれ、結局私は夢中で最後まで観てしまいました。

そして、私が興味本位で「バスガール」の歴史を調べたあるコラムによると、その歴史は思ったよりも古く、そんな中に、>東京遊覧バスのバスガールはこんな採用条件がありました。「東京の女学校卒業であること」「東京在住であること」「容姿端麗であること」また、一時は応募の倍率が100倍を超えることもあったそう。今でいうキャビンアテンダントのような存在だったのです。
また、開襟シャツに紺の制服と帽子、白い手袋でビシット身を固めた姿は当時の女性の憧れでした。と記してありました。

私は、仕事上では東京の山の手線に乗り、恵比寿・五反田にある取引先へ何度も行っていますが、この曲を聴く度に必ず頭を過るのは、当時いつでも行けると思っていて未だ行けていないプライベートでの「東京見物」です。「はとバス観光」はその当時からの私の願いでした。そして一番は、幼い頃からの夢でもある「東京タワー」だけは絶対に昇りたいという思いに駆られてしまいます。

この唄のヒットで人気を呼んだ東京のバスガールも、中卒者の求人難のため、昭和41年を最後に求人をあきらめ、ワンマン化に進んでいったそうです。

投稿: 芳勝 | 2019年5月22日 (水) 20時53分

 芳勝さまのコメントとから、007のボンドガールになった浜美枝を思い出しました。彼女もバスガールをしていてスカウトされ話題になったことがありました。遠ーい昔でしたが、さもありなんと思いました。個性的な顔立ちの上、スタイル抜群でした。

 二番の歌詞に 「昨日心にとめた方、今日はきれいな人つれて・・」 これはバスガールの片思いですが、逆もありで片思いの男性客、また通勤で乗っていたバスのバスガールに思いのたけを告げて、結婚したカップルもいたでしょうね。どの位恋の花が咲いたでしょう。
 
 小学生の時、中村メイコの「田舎のバスはおんぼろ車」をよく歌っていました。きっとあのコミカルさが好きだったのでしょうね。
      「田舎のバスはおんぼろ車 タイヤはつぎだらけ 窓は閉まらない 
      それでもお客さんがまんをしているよ それは私が美人だから 
      田舎のバスはおんぼろ車 でこぼこ道を ガタゴト走る 発車オーライ」
 牛も出てきました。懐かしいですね。

投稿: konoha | 2019年5月23日 (木) 11時24分

 現在、全国の路線バスにおいては、車掌の乗務は皆無でしょうね。
しかし、観光バスのガイドは今でも人気の職業の一つだそうです。
 先日、テレビを観ていたら、東京の「はとバス」が男性ガイド2人を採用したことが報じられていました。 そのうちの1人長崎出身の若者は、口下手であがり症。 研修期間中もミスを連発し、どうなることやらと思いましたが、先輩ガイドの熱心な指導の甲斐もあって、なんとかデビューに漕ぎ着けました。 乗務デビューの日には、郷里から駆けつけた母親と2人の弟たちの見守る中、無事にガイドの務めを果たしました。
 乗務の締めとして、この『東京のバスガール』を唄ったのですが、 ♪わた~しは東京の バス~ボーイ~♪としっかり歌詞を替えていました。歌唱力は正直なところ及第とは言えません。『東京だよ おっ母さん』ともども、カラオケでしっかり練習を積んで欲しいと思います。
 しばらくは、若さと、たどたどしさと、懸命さで「はとバス」の人気ガイドになるかもしれませんね。

投稿: かせい | 2019年5月23日 (木) 14時15分

昭和33年4月、学校をさぼってだか、連休中だったか忘れましたが、新潟の、かの北方博物館をを訪ねたのでしたが、そのあと佐渡へと足をのばしました。
翌日の観光バス、ガイドさんが二人乗っておりまして、年上のほうの方が(こちらも十分若い人ですが)、若いほうの方を、今日初めての案内業務でございますと紹介なさいました。 
その春学校を出たてなのでしょうか、まことに初々しくほんのり赤みをおびた頬に緊張が感じられました。
その佐渡案内、まことに一生懸命、ほんとに心をうたれました。 私とはほぼ同じ歳ごろだったでしょうか、なにか惹かれるところがあり、失礼ながら職務中の写真を幾枚か撮らせていただきました。 こういう若々しい方の仕事に懸命な姿、実に魅力的です。
佐渡のバス会社の住所も、ご本人の名前も控えてはおきましたが、その写真、ご本人宛に送るのも恥ずかしい感じで、会社宛てに送りましたが、同乗されていた先輩の方から丁寧な返事を頂きました。「本人、大変よろこんでおります」と。 勇気のない私にはそのあと、なんにもできませんでした。
曰く、「女に歳を問うなかれ、男に勇気を問うなかれ」

激しくも悲しい、、、もとい、激しくも悲しいというのではなかったけれど、しかしなんとなく淡い、佐渡でのほのかな恋の物語でした。

だけどどこででも、バスガイドの方々、実に素晴らしく魅力的だと思います。実にお仕事に熱心で、乗客をなんとか楽しませたい、飽きさせることのないようにと、健気な気持ち、心をうたれます。 少なくとも高慢なスチュアデスよりははるかに魅力的ですね。

東京に居ながらまだはとバスに乗ったことがありません。この項を見て、先の短い私、今生の思い出に一度はとバスに乗ってみようと思いたちました。

投稿: 田主丸 | 2019年5月24日 (金) 00時06分

東京で生まれ育ち、まだ一度も「はとバス」に乗ったことがありません。いろいろなコースがあり結構楽しめるとの話を聞いたことがあります。私も一度は乗ってみたいと思ったりするのですが、機会がありません。
 なんで「はと」バスというのでしょうね。

投稿: konoha | 2019年5月24日 (金) 06時24分

「東京のバスガール」konoha様のコメント、>二番の歌詞に「昨日心にとめた方、今日はきれいな人つれて・・」これはバスガールの片思いですが、逆もありで・・・から!

私が通学していた定時制高校4年生の秋、3泊4日の修学旅行がありました。同学年には18才の生徒もいれば40才の生徒もいましたが、高校生活初めての楽しい旅行でした。
そんな中に同じクラスのMという21才の生徒は修学旅行の初日から私のクラスが乗った、担当バスガイドさんに一目ぼれをしました。確かに愛くるしい可愛いガイドさんでした。その日の夜、宿泊するホテルの部屋で、彼は旅行が終わるまでに絶対彼女に交際を申し込むと、真剣な顔で私たちに断言しました。
そして旅行も終わったある日、その彼はガイドさんが二才年上だとわかった、そして住所を教えてもらったと一人興奮していましたが、教室でそれを聞いた私たちは、いつの間にそんな話をしたんたんだろうとか思い、ふーんと笑っている感じでした。
しかし彼はその後そのガイドさんに一生懸命に手紙を書き続けたそうで、卒業間際には交際することにこぎつけました。それを聴いた時、私は一途な彼をちょっぴり見直した憶えがあります。そして数年後に逢った友人に聞いた話では、二人はその後も遠距離恋愛を続けながら、卒業から約2年後に、めでたく結婚をしたそうです。このクラス仲間の実話は「東京のバスガール」二番の詩の逆バージョンになるような私はそんな気がします。

なお、商標登録されている「はとバス」の名前については、定期観光バスの車両に平和のシンボルとして鳩が描かれていたことから、役員会において「はとバス」の愛称を決定し、鳩マークの横に表示したとWikipediaに載っていました。

投稿: 芳勝 | 2019年5月24日 (金) 15時04分

田主丸さんの心に沁み込む感想本当に素晴らしですね。読んでいて、健気に仕事に取り組んでいるガイドさんの一途な気持ちが伝わりました。
この歌もよい歌すね。私は佐渡にはいったことがありませんし、はとバスにも乗ったことがありません。
やはり一度は載ってみたいと思っています。

投稿: 栗さん | 2019年5月24日 (金) 15時16分

佐賀のバスガール
 50代の頃、職場の同僚と総勢7人で、佐賀・長崎の小旅行に行きました。佐賀空港を出ると、お迎えのバスが待っていて、佐世保、平戸(泊)、伊万里、呼子、唐津と同じバスで2日間回り、最後は新幹線の博多駅に着きました。
 博多駅が間近になった時、バスガイドが「皆様、この2日間、至らぬ私に温かく接してくださって本当にありがとうございました」と挨拶をしました。「私事でまことに恐縮ですが、このたび結婚のため、本日をもってバスガイドを辞めます。皆様が、私にとって最後のお客様になりましたから、何か特別なご縁を感じます」と涙ぐんでいました。
乗客からいっせいに拍手が湧いて「寿退職、おめでとう」「お幸せに」と声があがった。旅の疲れが出て眠ったような車内だったのに、急に華やいだ空気になりました。

 その時、私の後ろの席から「結婚しても亭主の収入が少なかったら、ガイドに戻ってくるかもしれないよ。離婚して、またガイドで生活していくかもわからんよ」という小さな声が聞こえました。私の友人のOさんでした。
彼は女性不信が強いのです。その理由は奥さんのようです。奥さんは、結婚前は女らしく、ひかえめに見えたそうですが、結婚後、見るも無残なものにに変わったとか。家事は嫌いで、いつもやっつけ仕事、エアロビクスに狂って全国のイベントに出るそうです。「女なんて表裏の差が激しい、女は皆そうだろう」と十把一からげで言う。
 女運が悪かったようでその点は同情するが、若い女性の門出は素直に祝ってやればいいのにと思ったが、口にはしなかった。
人生、先のことは誰にも予知できないという意味では、彼の意見は正しい。
そして、皆が酔いしれたようにひとつの方向を向いている時、あらぬ方向を向いている彼の天邪鬼的性格は好きでしたから。

投稿: 越村 南 | 2019年5月24日 (金) 22時03分

この歌に対する同好の皆さんのコメント楽しく拝読させていただきました。ありがとうございました。
東京のバスガール・・・ほんとに懐かしく心に沁みるいい歌ですね!
明るく軽快なリズム・・・曲の素晴らしさとともに、元気を奮い立たせるような詞の見事さには感服あるのみです。

この歌が流行った頃、私は高校2年の時で、この歌を聴くにつけ、私の生まれが東京なので、より身近に感じるようです。

バスといえば、戦後、私の住む佐賀では、バスの燃料も今とは違って木炭車・・・その後、石炭車の時代があったことを懐かしく想い出しています。
当時は、車掌さん時代で首から大きな財布を腰の辺まで下げて、料金を取りきっぷにパンチを入れて返されたのを想い出しています。
一方、観光バス事業では、ガイドさんが乗務、名所・旧跡案内等、手馴れた口調でのご案内・・・さすがプロと感心・・・
そして、ガイドさんお得意の歌のご披露・・・この「東京のバスガール」も定番の一曲だったと思います。

バスガールといえば、現職の頃でもう30年も前のこと・・・
東京出張の折、念願の「はとバス」に初めて同乗しました。
私が同乗した夜の夜景コースでは、東京タワー・ロシア料理店・キャバレー「ミカド」などで、街並みを含めさすが大都会東京だと目を見張るものを感じた次第です。
途中、ガイドさんが数曲歌われた中では、やはりこの「東京のバスガール」が印象に残っています。

Konohaさま お便り拝見いたしました。お元気の由、嬉しく思います。
佐賀地方では、連日30度前後の真夏日ですが、安全運転で宅配業務に励んでいます。
切り干し大根・・・如何でしょうか! 最近では私もゆずポン酢で美味しくいただいています。
「はとバス」ご同乗なされては如何でしょうか!

投稿: 一章 | 2019年5月24日 (金) 22時12分

交流掲示板1028にコメントを寄せております。

投稿: konoha | 2019年5月26日 (日) 20時08分

まだ小さい頃、いつになく母が上機嫌で、「昨日あんたたちバスの中で何話してたのよ」と聞きました。”別に何も・・・”と思ったのですが、どうやら近所のおばさんが昨日のバスの中でのこと母に告げ口したようなのです。

私の父は小さな岬の峠を越えた隣村に住んでいて、私と一歳年下の弟は時々父の家に遊びに行っていました。昨日は弟と二人でバスに乗って帰って来た日でした。同じくバスに乗っていた近所のおばさんの話によると、・・・お宅の坊や二人の会話が面白くておかしくてバスのお客さんみんなが聞き耳を立てて楽しんでいたそうなのです。

そういえばその時バスの中で僕は「ねえ、ねえ、〇〇ちゃん、大きくなったら何になりたい?」と弟に聞いていました。弟は「おまわりさん!」と答え、僕は「僕はバスの運転手さん!」と言いました。僕は運転手さんの真後ろに座っていたので運転手さんにも聞こえていたに違いありません。
バスの中でどっと笑い声が挙がりました。

その当時はまだ車掌さんは男性だったですね。しばらくして女性の車掌さんが登場した時は驚きました。でもバスの後ろから笛をピッピッと吹いてバスを誘導しているところなどカッコいいなぁと思いました。


投稿: yoko | 2019年5月26日 (日) 21時02分

 みなさんの「東京のバスガール♪」にまつわる思い出話、楽しいですね。私の初めて上京は高校の修学旅行でした。清楚で美人の「はとバス」のガイドさんに秘かに憧れたことを思い出します。
 制服、明るい言葉、笑顔が印象に残っています。皇居の二重橋前、銅像やはとバスをバックにガイドさんを囲み記念写真を撮りました。ガイドさんの隣で撮りたかったのですが、ガイドさんと私の間には同級生が入っておりました。男子校だったのでそれでも私には嬉しい写真でした。

 60歳の「還暦祝い」は在京の隈府中学の同級生が企画しました。2日目は「はとバス」で昼食付の東京見物でした。昼食は 皇居を眺めながら帝国ホテルの食堂でバイキング料理を頂きました。記念写真をみると両隣は同級生の女性でガイドさんは入っていません。孫や介護、中学生時代の思い出話に花が咲きました。「けんちゃん」と呼ばれ、お互い中学生当時に還りいい思い出ができました。

 その後何度か「はとバス」に乗って東京見物をしました。歌うガイドさんはいなかったです。ガイドさんの洗練された上手い説明を聞きながらの東京見物も楽しいですね。
記念写真はあまりありませんが、私の隣に写っている人は毎日顔を合わせる妻がほとんどです。
 
 

投稿: けん | 2019年5月27日 (月) 15時24分

今は、この歌のような路線バスのガイドさんは無くなりましたね、昔は鞄を肩から下げて切符を切ったり「次はどこどこです」などと伝えていたと思います。でもまだ、観光バスのガイドさんは健在ですね。

15年前くらいだったでしょうか。私たち趣味仲間は4人で九州旅行に行きました。熊本だったでしょうか、バスのガイドさんは若い娘さんでした。若いにもかかわらず、時折年寄りの好みそうな民謡を歌ったり、九州地方の方言を解説したり、台本をちらちら見ながら、時々間違えて謝ったりして、一生懸命ガイドをしていました。最終地に来た時、彼女は「実は、私は高校を卒業して会社に入ってから、今日が初めてのガイドでした。皆様の温かい励ましのお声に助けられて何とか無事に終えることができました。皆様のおかげです。ほんとうにありがとうございました」と言って号泣しました。抑えていた感情が堰を切ったようでした。バスのお客さんは皆一斉に「よくやった、上手だったよ、有難う」などと口々に言い大拍手が沸き上がりました。ガイドは泣きながら「有難うございました。一生忘れません」と言っていました。バスの中の人たちが正に一体になったようでした。あの娘は今どうしているだろうかとふと思う時があります。

投稿: 吟二 | 2022年2月 2日 (水) 22時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 好きだった | トップページ | 東京の人 »