柿の木坂の家
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:石本美由起、作曲:船村 徹、唄:青木光一
1 春には柿の花が咲き 2 春には青いめじろ追い 3 春くりゃ偲(しの)ぶ馬の市 |
《蛇足》 昭和32年(1957)。ふるさと演歌の代表曲の1つ。青木光一には、もう1つ、『早く帰ってコ』というふるさと演歌のヒット曲があります。
3番の「機織りながら暮らしていてか」が時代を感じさせますね。
そういえば私の亡母も、昭和20年代の半ばごろまで、農閑期には機を織っていました。6、7歳ごろ、母が織る機の脇に立って、杼(ひ)が左右に飛び交うのを飽かずに眺めていた記憶があります。
YouTube=https://youtu.be/z5aQyaRoqxM
(二木紘三)
コメント
青木光一は4行目を感情こめて歌いますので、ここで田舎を
思い出します。機織りは祖母がやっていたのを、見た事を憶えています。この方は歌手協会の会長をやられたと思いますが。(不確かな記憶ですので違っておれば、すいません。)
投稿: M.U | 2008年6月29日 (日) 13時00分
この歌に”乗合バスの悲しい別れ”とありますね。四国の草深い田舎に育った私にも、ひとつの思い出があります。
街道を走る乗り合いバスが、隣村の停留所に着いたとき、田舎にしては清楚な乙女が乗り込んできました。程なくして外を見やると、青年が一人見送りに来ていました。彼女の手には当時流行った赤いビニール(細い細い管状の)で角に編んだ腕輪が。その手は私の席の直ぐ横のつり手にあり、ブラウスは微かに私に触れているのでした。
二人は少し離れて窓越しに顔を見合わせていました。バスが出掛かると二人は手を振りあうこともなく、それは目でするだけの静かな別れでした。チビの私は未だ見ぬ大人の世界への憧憬をかきたてられて、胸がドキドキしたものでした。
投稿: 雲居逢月 | 2008年7月14日 (月) 16時05分
青木光一はこの曲を思い入れたっぷりに歌いますね。噂によると、あるやくざの親分がこの曲を歌って(聴いて?)泣いたとか。昔はふるさと演歌が多かったですね。
また、青木光一はステージ前には、必ず入念に発声練習をするそうですね。昔の人はまじめですね。それとも、プロ歌手なら、みんなそうするんでしょうか。
投稿: 吟二 | 2009年3月 6日 (金) 18時57分
青木先生はシベリアに抑留され大変に苦労された方ですね。この歌は受刑者が必ず泣く歌としても有名です。
歌ってみますと、キーが高い上に語る様に外さず歌わなければならないので、相当難しい曲だなと感じます。
投稿: カト | 2009年11月20日 (金) 08時58分
今日、NHK-BSで青木光一と田端義夫のショーを観ました。
“柿の木坂の家”を聴くと、両親と一緒に暮らした、楽しかった子供の頃を思い出して思わず涙が出ました。
貧乏だったけれど楽しかった。
HMVにいつもはクラシックばかり注文していますが、今日は青木光一の演歌“柿の木坂の家”も注文しました。
投稿: 阪口 義夫 | 2010年1月20日 (水) 19時05分
私の叔父は、戦後シベリアに抑留されていましたが、トランペットが吹けたのを買われて、収容所仲間の青木光一さんらとバンドを組み、演奏会などで活躍したそうです。青木さんはあちらでもスターだったようです。
叔父は、昭和26年にようやく解放されて帰国しましたが、しばらくは共産思想にかぶれて、人を集めて演説したり青年団のリーダーとして走りまわっていました。そんな叔父が酔うと必ず歌ったのが、この「柿の木坂の家」で、歌い終わると必ず「青木が、青木が」と、しきりに青木さんの思い出話をしました。
この歌のリリースが昭和33年ということは、叔父が引き揚げてきてから5年目のことだったのですね。それからもう半世紀、青木さんはまだお元気にステージで歌っておられますが、その姿をテレビなどで見るたび、叔父のことや自分の幼かったころのことを思い出します。
投稿: 待宵 | 2010年7月31日 (土) 09時34分
四国で高校時代に恋に落ち、遠距離恋愛を持続していた彼女と3年後の正月、彼女の家に歓迎されたのに、社会的に不安定だった私の身勝手のために別れる羽目になりました。職場へ去る私を「また、いつでも帰っておいで」と手を振る彼女の両親のそばで私の乗った乗合バスの停留所でいつまでもお辞儀をしたままだった高校3年生の彼女の姿を、この歌は思い出させます。
投稿: Y.O | 2011年4月27日 (水) 21時08分
作詞家の石本美由紀さんの生まれた大竹市に長く住んでいました。
石本先生の生まれた家は大竹駅のみえる小高い所にあり、柿の木があったそうです。東京へ行かれた先生が故郷を偲んで作詞されたと聞いたことがあります。
投稿: QRAcyan | 2014年1月18日 (土) 16時00分
昭和21年に八王子の田舎で生まれた私は、小学生の頃童心山とういう山の手前に柿の木があり、友達とよく木に登りました。柿をもぎ口にほうばっていると、山影から夕焼けに染まった空が見えました。この歌は正に私の幼いころの光景を思い出してくれます。
投稿: 浅川煙夢 | 2015年7月28日 (火) 17時33分
懐かしい「柿の木坂の家」私の詩吟の先生がいつも口ずさんでいました。
お亡くなりもう20年以上たちます。
この曲を聞くたびに先生の横顔を思い出します。
大きな目玉の酒好きの先生でした。
今も天国で杯片手に口ずさんでいることだろう。
投稿: 中島 豊 | 2015年10月30日 (金) 16時15分
私の実家は海岸沿いで民家もまだまだ多いのですが少し山の方に入るといたるところ里山です。
民家はポツリポツリとまばらになります。
今頃ですと山々はところどころ紅葉し秋の日差しを浴びて赤く輝く柿の木にも出会います。
私の祖母はそんな山里で育ちました。里の中を流れている小川を指して祖母は「子供の頃この川で泳いで遊んだ」と話していました。
それはもう百年以上も昔の事になりますが時を越え故郷の懐かしさを感じます。この穏やかで美しい里がいつまでこのまま残せていけるだろうか、と心配です。
投稿: yoko | 2015年10月30日 (金) 22時13分
「柿の木坂の家」私がもの心ついた頃から好きだったこの歌は、聴けば聴くほど、故郷の佐賀に住んでいた当時のことを懐かしく思い出させます!
私の故郷には、上の写真のような部落や、この歌に出てくるような風景がいたるところにありました。今は禁止かも知れませんが、その頃は木々などに、家でこさえた鳥もちを塗って小鳥を捕まえたり、細長い竹棒に塗ってトンボなどをとったりして遊びました。
小学生の頃に、一度だけメジロを一羽つかまえて、家でしばらく飼っていたこともあります。
私は、学校の行き帰りによく見かけた、秋になると稲穂が育ち、一面が黄金色になっていく、稲刈り前の田んぼの景色も大好きでした。
私が通っていた中学校では、秋になると年間行事の一環として、全校生徒による、校外での写生大会があり、その日は各個人が、描きたい場所を探し、近場や遠方各地に徒歩で散らばり、絵を描いて夕刻までに学校へ戻るというものでした。
私はいつも描く場所として、山の方へ出向き、必ず柿の実がなっているところを見つけ、その風景を描きました。
その写生大会で想い出すのは、中学3年生の時に描いた私の絵が、運よく学校で特選に選ばれ、そして東松浦郡の審査でも特選になり、その後、佐賀県の審査でも特選になりました。その時は通常の賞状とは違い、県のマークが入ったとても大きな賞状が、県から学校へ送られてきました。そして近日、学校の講堂で全校朝礼が開かれ、全校生徒が集まる中、私は檀上へ行き、校長先生から額に入れてあるその賞状を受け取りました。
こんな事は母校では初めてだと言って、クラブ顧問をしていた美術の先生は、とても喜んでくれました。
柿がことのほか好きな私は、秋になると、東三河で栽培の次郎柿や、西三河で栽培の筆柿などを買って食べますが、佐賀の田舎に住んでいた頃は、山へ登っては、木になっている、少し小さめな柿をちぎっては食べていました。色は青いのですが、かじると中にはゴマのような黒い点々が一杯で、田舎ではゴマ柿と言って、わりと美味しかった気がします。
今日は、動画にて、ちあきなおみ・森山愛子・船村徹の歌を視聴してみました。
「柿の木坂の家」この歌は、子供の頃に育った故郷の情景を、懐かしく想い出させてくれる、いつまでも心に残る歌です。
投稿: 芳勝 | 2018年5月13日 (日) 16時43分
「柿の木坂の家」や「早く帰ってコ」「赤い夕陽の故郷」・・・ふるさと演歌を聴くにつけ、全国津々浦々、古里に人それぞれ思い出ありです。昭和は遠くなりにけりで、佐賀県唐津市出身青木光一は今や歌謡界の重鎮と言われ御年92歳です。
昭和40年代初頭の昭和風景(東京の家族の日常、通勤ラッシュ、第一京浜(国道15号)、首都高・・・)http://www.youtube.com/watch?v=qvoZjbp9R1w
(青木光一歌唱)http://www.youtube.com/watch?v=CtIwNiWeMuo
投稿: 焼酎 | 2018年8月23日 (木) 07時01分
「柿の木坂の家」 昭和の流行歌精選盤・野村耕三の解説書では、この歌を作詞した石本美由紀の広島にある生家には、樹齢200年を超える柿の古木があって、子供時代、夏はセミ取りで登り、秋には実った柿を食べていたという、その頃の郷愁を、いつか詩にしたかったという念願を叶えた唄で、その古木も不思議なことにお父様が亡くなられると同時に枯れてしまい、また高台にあったその生家から一望できる、瀬戸内海の海を眺めていて書いたのが、岡晴夫のヒット曲「憧れのハワイ航路」だったそうです。
私の故郷、佐賀県唐津市出身で、現在日本歌手協会名誉会長の青木光一は92才で今だ健在というのも、同県民には嬉しいかぎりです。
またこの歌と同年に青木光一が歌った、高野公男作詞・船村徹作曲「男の友情」という歌もなかなか聴き応えがあり、私の好きな一曲です。
焼酎様がUPして下さった動画で観る「昭和の風景」高度経済成長真っ只中の東京、まだ超高層ビルがなかった、情緒のある景色の数々を観て、東京にもこんな時代があったんだとしみじみ感じさせられます。
昭和41年の家族の団らんの動画映像で、着物に白い割烹着をして台所に立つ奥様を観ていると、昔の母の姿が浮かんできました。
食卓を囲んでいる二人の少年少女は、ちょうど私と同年齢位だと思います。そしてその食事場面で、流れ出すBGMに、私が幼少の頃からの大ファンで憧れていた童謡歌手、今は亡き古賀さとこさんが歌う「証城寺の狸囃子」の歌声を聴いた時、何故だか胸が熱くなりました。
故郷を離れて48年になりますが、私は一度も故郷へ帰る機会がありませんでした。「柿の木坂の家」この歌を聴く度に、幼い頃に育った頃に観ていた風景がそのまま懐かしく想い出されます。
投稿: 芳勝 | 2018年8月23日 (木) 16時02分
芳勝様にはネット検索「昭和の風景」に感動して頂き恐縮しています。
音楽無知が大口叩くと、青木光一の声質が船村徹の曲にピッタリです。芳勝様ご紹介「男の友情」をネットで聴いたところ、まさに船村徹&青木光一の世界です。蛇足ですが佐賀代表は夏2回優勝しており(佐賀商、佐賀北)大したものです。
投稿: 焼酎 | 2018年8月23日 (木) 21時29分
子供の頃から歌い続けて彼是七十年近くなるでしょうか。
私の家には、富有柿と大きな渋柿の木がありました、
早い時期に富有柿をおやつ代わりに、秋も深まったころには渋柿が熟し甘くとろっとした実を味わったものでした、
今思い返せば 小鳥の分は残してあげてね と言った優しかった母の面影・あの声が無性に恋しい。
その我が家は、駅まで峠を越えて三里と言われていた。
駅の近くの高校まで自転車通学していた、小・中学校もそれなりの距離を歩いた訳だがその三里のおかげで基礎体力が付き現在持病もなく感謝しながら八十歳近くまで元気に毎日を過ごしています。
春には、質の良いおとりのメジロを入れた鳥篭・椿の花・とりもちの三点セットでメジロを追いかけた、当時は
規制など考えもしなかった時代であったが今思えば可哀そうな事をしたものだと思います。
馬の市は無かったが、父が手塩にかけて育てた牛を手放す時、藁で体中をこすり念入りにブラシをかけてやり特上の食事を与え行く末を案じて何かを話しかけていた、その牛の澄んだ目が潤んでいたように感じた、その場に居合わせた私は涙で背を向けた、決して手放したくはなかったであろうその時の心情と優しい心を秘めた父、見送ったあと父は言葉を発することなく黙々と主人のいなくなった牛具をかたずけていた、その日は殆ど声を聴くことはなかった、
その姿が今でも鮮明によみがえるのです。
その父が亡くなり早六十年余り天国で母と仲良く暮らしているだろうか、無性に会いたくなってきた。
投稿: 石田 | 2020年8月22日 (土) 13時41分
ふるさとのことを又あれこれ想い出していました。
♪お使いは自転車に乗って ♪達者でナ も読み返していました。
ふるさとの村には何処の家にも柿の木が何本もありました。
学校から帰ると柿の木に登って木の上で柿をかじり乍ら、
篭に10個位は採って一度に食べていました。弥平柿は美味しかったです。
冬に吊るし柿の揺れる影が障子に映り、何故か炬燵の中で寂しさを感じました。
冬になると弟たちは “こぶつ” と言って、山に小鳥を捕る仕掛けをしていました。
松に出来る “松ぐみ” を庭の竿にくっ付けていましたが、
鳥を捕まえるような強いものではなく、女の子はガムのように噛んでいました。
♪水道の水温かき今朝の秋
冷たい井戸水を釣瓶のままガブガブ飲んで、お腹がチャプンチャプン鳴ったあの日。
ふるさとは無くなりましたが、遠い日の思い出はいっぱいあります。
投稿: なち | 2020年8月26日 (水) 14時31分
二木先生が出された youtube の「柿の木坂の家」を拝見致しました。田舎の景色がとても美しいです。木の高さより少し高い空中を移動しながら田舎の景色を見る場面に、ことにジーンとしました。ふるさとに帰りたい魂が空を飛んでいって、ふるさとの田舎を見ているようでした。亡くなった父祖が空から、子供の頃を振り返っているようでした。亡くなった父祖が空から子孫の生活を見守っているようでした。ふるさとというものに人間が持つ心をとても美しく表してくださいました。
投稿: kazu | 2021年5月 1日 (土) 09時00分
「柿の木坂の家」今や私の心の中の名曲でもあるこの歌のメロディは、私の脳裏を一瞬にして五歳のころの光景へとタイムスリップさせてしまいます!
この歌のページに皆さまから寄せられた貴重な御文は、どれも皆私の胸を打つものばかりで、思わず冒頭文から夢中で読み返しては郷愁心に浸ってしまう自分がいます。
私は五歳のころ佐賀県東松浦郡(現在は唐津市)相知町というところに半年間ほど住んでいたことがありますが、そこは見渡す限り山と田圃にかこまれたのどかな田舎でした。
2020年8月26日ご投稿・なち様の御文
『・・・冷たい井戸水を釣瓶のままガブガブ飲んで、お腹がチャプンチャプンなったあの日、・・・』
このページでなち様のコメントに触れる度に、私も何かにつけて井戸水を汲んではお腹がチャブンチャブンなるまで飲んだりしました。
またあるときはあちこちの畑になっている柿の実を見つけては、人様に見つからないように素早くちぎってはこそっと食べながら空腹感を凌いだりもしました。そんな五歳当時の卑しかった自分の想い出の数々が私の脳裏には今も鮮明に浮かんできます。65年前のこれらの私の行動は当然御法度ですが、どうか時効ということでお許し願えれば幸いです(笑)
投稿: 芳勝 | 2024年6月22日 (土) 15時57分