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2007年8月 1日 (水)

郵便馬車の馭者だった頃

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


ロシア民謡、日本語詞:井上頼豊

1 郵便馬車の馭者(ぎょしゃ)だった
  俺は若くて力持ち
  そこは小さな村だった
  俺はあの娘(こ)に惚れていた

2 娘に不幸が見舞うなど
  俺は夢にも知らなんだ
  馭者の稼業は西東
  心はいつもあの娘

3 やすらいのない日々だった
  想いは深く胸痛む
  ある日頭(かしら)が手紙を渡し
  「早く頼むぞ、駅どめだ」

4 馬はいななき鞭が鳴る
  はやてのように野を走る
  だけど胸はつぶれそう
  あの娘とこんなに遠くなる

      (間奏)

5 風が悲しくほえていた
  ふいに馬めがあばれ出し
  おびえたように脇を見た
  俺にはわけがわからない

6 動悸(どうき)ははげしく高まって
  俺は見つめた雪の中
  あばれる馬から飛び降りた
  誰かが道に倒れてる

7 吹雪は渦巻き荒れていた
  俺は雪をばかき分けた
  血の気が失せて立ちすくみ
  寒さがシューバにしみた

8 皆の衆、あの娘が死んでいた
  茶色の瞳を閉じて
  酒をくれ早く酒を
  もうその先は話せない
  酒をくれ早く酒を
  もうその先は話せない

《蛇足》 ロシアの古い民謡で、作詞者・作曲者はわかりません。悲しい歌です。
 7番のシューバは、ロシアを含む東スラブ地域で、男女ともに用いられる毛皮の裏つきコート。

(二木紘三)

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コメント

典型的なロシア民謡でしょうか。素朴な愛の感情をうら悲しく歌っています。最後はこちらも酒を飲みたくなります^^。

投稿: 三瓶 | 2008年10月31日 (金) 08時25分

 本当に悲しい歌です。この歌をどこで覚えたか定かではありません。多分今から40数年前の若かりし頃、労働組合活動の一環ではなかったかと思います。
何故か当時よくロシア民謡を歌ったものです。ストーリーの最後が涙のうちに終わっているのが堪えられません。本当に悲しい歌ですね。

投稿: 清水 ひろし | 2009年4月 1日 (水) 11時20分

歌詞の内容にちょっと疑問点があります。4番では娘の住家とずいぶん離れたようですが、5番では愛する娘が雪道に倒れているのを見つけています。駅どめの配送を終えて、娘の住家近くまで帰ってからの出来事でしょうか。案外娘が雪道に出て、帰りを待っていたかも・・・。
二木先生はどう思われますか。

投稿: 三瓶 | 2009年4月19日 (日) 17時49分

三瓶様
ローラ・インガルス・ワイルダーの「プラム・クリークの土手で」に、わずか数メートル先の家畜小屋がまったく見えないという猛烈な吹雪の場面があります。これはアメリカ・ミネソタ州の話ですが、ロシアでも同様の吹雪は珍しくないでしょう。娘は「すぐそこまでだから」と外に出て、家を見失い、凍死してしまったのではないでしょうか。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2009年4月20日 (月) 21時16分

管理人様
早速ご回答頂き、有難うございます。多分猛烈な吹雪で、帰宅出来ないようになったのでしょう。
「歌物語」の中から、毎日5,6曲は歌わせてもらっています。

投稿: 三瓶 | 2009年4月23日 (木) 14時23分

ロシア民謡には歌詞に土地土地の違いがあるのではないでしょうか。昔覚えた歌詞には、娘は隣の村に住んでいたとあり、郵便物は駅留めではなく速達の小包だったと記憶しています。しかし行き倒れは二木先生のおっしゃるとおり家から数町の距離でも起ります。五十年前僕はオホーツクの漁村で電報配達をしていましたが、夜友人の父上の急死―三角水域での着氷転覆―を知らせる電報を一里離れた開拓地までスキーで配達したことがあります。帰り道に吹雪に遭い、方角を失い、三時間も彷徨した経験があります。風が止み、嗅ぎ取った友人の家の牛舎の臭いを手がかりに、配達をして悲嘆に暮れる農家にまで助けを求めてもどりました。彼の家にも、僕の家にも旧外地から持ち帰ったシューバがありましたよ。縁があってロシアで勉学できることになり、彼の地で身を立てんと学びました。週末の学寮は酒盛りでした。肴はサロという豚脂肉の岩塩漬と酢漬け胡瓜とライ麦パン、誰かが”カグダーヤナポーチチェスルジールヤミシチコム”(自分が郵便者の御者だったときのことだが)と歌い始め、次々を歌い継ぎ、”ナレイチェナレイチェスカレエヴィノー”(はやく酒を注いでくれ)ではもう泣き声をなり、”ラスカズィヴァチボーリチェニエットモーチ”(これ以上語る力がない)でグラスの火酒を飲み干すのでした。日本ではロシアに対し多くの非難攻撃が浴びせますが、僕は力の範囲で弁護と反撃に努めました。しかし空しいことの方が多かったように思います。

投稿: イサコフスキー | 2010年12月31日 (金) 06時28分

歌詞の解釈に不安があり、調査の上再度投稿いたします。この歌詞原文の民俗学的報告があり、次のことが指摘されています:
1.歌詞はポーランド人のある詩人の「郵便配達夫」を下敷きにしている。
2.逓送ルートはワルシャワ・ペテルブルグ間で、このエピソードは帝政ポーランド領地でのこと―これは歌詞のなかで郵便配達夫が「馬に飛び乗る、馬から飛び降りる」ということからそう判断される。直乗りはポーランド逓送の特徴。ロシア逓送では馬車か橇が使われるのである。
 日本語訳の「局留め」は、二種類ある歌詞ともに「生きた状態で郵便局へ」となっておりました。’大至急’という意味であります。この珍しい表現は、歌詞の後半で娘さんが凍死して見つかることとの対句となっているのでしょう。娘さんの住む村は、二種類の歌詞ともに、「ある村の」となっており、郵便配達夫の住む村ではないようです。たぶん目的の郵便局の手前にある村であると推測されます。しかし歌詞は詩ですから、このような詮索は本来は意味のないことなのでしょうが。

投稿: イサコフスキー | 2011年1月 1日 (土) 04時05分

最近知人が10日後に川に浮く事件がありました
なぜかこの歌を思い出しました

投稿: TOMBO | 2012年5月21日 (月) 12時28分

つい先日、北海道で猛吹雪、車が雪に埋もれて何人もの方が亡くなりました。その報道を見てこの記事のことを思い出しました。
 私はうたごえの青年歌集第1~5集の頃大学のうたごえサークルに所属。時には指揮者とともに3人しか集まらないといった小さなサークルで2部合唱しかできないようなことでした。その後ずっと合唱とは無縁でしたが、1人で歌ってきました。
 99年から「つなごういのち守る手合唱団(略称 マ・モルテ)で毎週20人ほど集まって混声4部を楽しんでいます。いま歌うのはほとんど医療関係の創作曲ばかりですが…  86歳、3つ年上の姉も一緒に歌っています。

投稿: 大川浩正 | 2013年3月12日 (火) 20時59分

露西亜の歌は悲しく辛いのが多い…メロディーを耳に入れながらそんな印象を私は受けます。シベリア流刑の地獄物語や他民族強制移住、あるいは18世紀半ばのエカテリーナ時代の農奴の凄まじい悲惨の所為でしょうか。

現在の露西亜政権はドイツ貴族の娘から長期間君臨したエカテリーナの伝統を継いでいる…と、そして帝政も共産制も疑似民主の現政権担当者も、普通の愉快で善良なロシア同胞から乖離していると、隣人ロシア女性が静かに語ってくれます。

ロシア人は権力に近づくほど、良きロシア人から離れていくそうですね。イサコフスキ―さんが「弁護と反撃に努め」られたのは、権力と遠い大多数普通のロシアの人々なのではないでしょうか。

短い胡瓜の酢漬けと、皮をはいだ生ニシンを黒いライムギパンに乗せて、先の日曜、ある誕生会で舌つづみを打ちました。岩塩漬の豚ベーコンは堅いシンケン(ソーセージ)に近い感じながら、もっとぎらぎらして塩っ辛いと想像します。

イサコフスキ―さんの体験をお聞きして、普通のロシア人やポーランド人への氏の深い情を感じて感銘を覚えます。

投稿: minatoya | 2013年3月15日 (金) 09時38分

イサコフフキーさんは若いころロシアで勤務と勉学をされたようですね。道理でロシア国内の事情にお詳しい。
数十年前に松江市の旧公会堂でモスクワ女声合唱団を聞きました。最後に全員がろうそくを持って出てきて、ロシア正教の讃美歌を歌いました。雰囲気があり、大変良かった。またブルガリア男声合唱団も聞きましたが、これは全員が20代、30代の屈強な若者で、圧倒的な声量に驚嘆しました。

投稿: 三瓶 | 2013年8月20日 (火) 14時46分

時々の庭作業の際。別電源のステレオスピーカ―のボリュームを最大にして聞いています。でもステレオになっているのかどうか、片耳だけですから全く分りません^^;

こちらで聞くのは殆ど知らないメロディーばかりです。それでも聞きながらフット皆さん書き込みに眼を通すのが愉悦になっています。イサコフスキ―さんは二木さんご知り合いのジャーナリストでソヴィエトで学び働き、今は奥さまの故郷ポーランド、クラカウあたりに悠々お住まい…とそんなイメージを浮かべます。再び元気な氏の書き込みを楽しみにして待っています。

投稿: minatoya | 2013年8月21日 (水) 09時12分

譜面を入手するにはどうすれば宜しいのでしょうか

投稿: 阿部義行 | 2013年9月 7日 (土) 14時24分

阿部義行 様
私は40年も前に発行されたポケット歌集『青年のうた』(野ばら社)の簡単な楽譜を使いました。今入手できるものがないかとネット上の楽譜販売サイトを捜しましたが、見つかりませんでした。
アマゾンで「ロシア民謡 楽譜」で検索してみてください。いくつかの楽譜集がヒットします。ただし、そのなかにご希望の曲があるかどうかはわかりません。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2013年9月 7日 (土) 19時04分

この歌は学生時代購入したロシア民謡集に載っていた。音楽部の1人が歌っていた。ダークダックスが灯火やトロイカなど歌ってた。 その30年後、私は妻を車庫の雪かきで脳梗塞が原因で亡くした 妻は平壌の満鉄鉄道病院の医師の娘で私と見合い結婚し3人の子に恵まれていた。妻の姉達は引き揚げ帰国する時、泣き声を聞かれないように妻の鼻をつまんだそうです。朝鮮半島は略奪が横行。夜間朝鮮人に見付からないように大きな建物を選び徒歩で38度線を越えて、医師数家族で逃げ延びた。妻は1歳半で母乳も飲めず、栄養失調だった。51歳で救急病院で死亡した。
 これから先はつらくて話せない。以上

投稿: 濱崎 和郎 | 2014年3月 1日 (土) 20時48分

この歌は50数年前、高校時代に学校の先輩が歌っていたのを、いい歌だと思って覚えました。当時新宿の歌声喫茶(”ともしび”とか言ったと思います。)で聞いたもののようです。文化祭の控えの時間に何度も歌っていました。私も今でも歌えますが、ずいぶんメロディーが違っていていい加減に覚えてたんだなと思います。しかし歌うとこの先輩のことよりあの頃のあの同級生のことがはっきり思い出されてしまいます。医科歯科の大学に行き、歯科の女医になり、きっと優秀なお医者さんと結婚して幸せな人生を過ごしていると思います。

投稿: 林 滋 | 2014年3月25日 (火) 17時35分

千葉に住んでいますが・新宿ともしびの歌声会が

近くによく来ます・・必ずリクエストして歌うのが

この・郵便馬車の馭者だった頃・です

若かりし頃に歌声喫茶に通った想い出が浮かび・・

切なくなる私の大切な曲です 

投稿: 田中 喬二 | 2014年4月 3日 (木) 09時25分

田中さんの投稿読みました。今でも”ともしび”があるんでしょうか。新宿といえば紀伊国屋書店にはあまり行かなかったですが、思い出すのはあのガード下の焼き鳥屋さんです。金のない我々貧乏学生、バイト帰りにバス代をケチって酒を飲み串を2~3本食ってまた歩いて帰りました。加藤登紀子さんの歌のように貧しさが明日を運んだのは事実です。あの店、壁のレンガがむき出しで雰囲気がありました。老齢の今はもう出かけませんが”新宿駅裏赤とんぼ”なんて歌もあって思い出だけ縦横に頭をかけめぐります。

投稿: 林 滋 | 2014年4月 3日 (木) 10時39分

林さん・・ありがとう
新宿のともしびは今でもあり昔のように人気店です
ただ私が行っていた頃は伴奏はアコーデオンでしたが
今はピアノです
小さな歌本のページを開きアコーデオンの伴奏で歌った
若かりし頃がソーダ水と共に思い出され感無量です
林さん・・新宿駅裏赤とんぼ・私もよくカラオケで
歌います 懐かしい想い出をありがとう

投稿: 田中 喬二 | 2014年4月 3日 (木) 21時02分

田中さんこそ感謝します。貴重な情報有難うございます。
今はもう時効でしょうが「小さな歌本」といえば歌声喫茶の歌本に似せてガリバン刷りで作ったのを仲間に配ってくれた友人がいました。表紙は「因人の唄」となっていました。「囚人の唄」の間違いでしょう。いまでもそのことを思い出し一人クスクスすることがあります。その友人も鬼籍に入りそんな思い出話を交わす仲間もいなくなり、そして大事にとっておいたあの歌本もいつの間にか紛失して今はありません。

投稿: 林 滋 | 2014年4月 4日 (金) 09時44分

戦後、間もなく、私は中学生。電力会社勤務の父を、若い復員兵の方が、訪ねて見えました。父がまだ帰宅していなかったので、私がお相手をつとめました。 テーブルに「赤旗」がおいてありました。私は思わず、「赤旗!」と、つぶやきました。「悪い?」「……。」 その事は、父には話しませんでした。
昭和27年に高校を出て、大企業に就職。数年前には、レッドパージで多くの方が離職なさったことを知りました。会社のコーラス部では、美しいロシア民謡も歌いました。神田の古本屋で、歌集を見つけました。ある時、知人にお貸ししたものの、手元には戻りませんでした。80才の現在でも、残念で仕方ありません。
20歳の頃、初めて、白樺合唱団の演奏会を聴いて、感動。団員募集も知りました。試験会場に向かいましたが、辻辻に、私服刑事らしい方が、立っておられました。なにか、恐ろしく感じて、踵を返しました。ネットで調べましたら、現在も活動されているのですネ!

投稿: 井尻 賤子 | 2014年4月 8日 (火) 04時53分

胸を切られるような悲しい、そして美しい歌と言えば、私はいつもこの「郵便馬車の御者だった頃」を真っ先に挙げていました。60年以上昔のことで、まだそんな痛切な人生経験はなかったのですが……。「皆の衆、あの娘が死んでいた」のは、確かにやや唐突ですが、井上頼豊訳は長い原詩を要約してあるのだそうです。恋人と会う約束をしていたが親方に早く頼むぞと命じられて娘に告げる暇がなかった、娘は相手がいつまでも来ないので様子を見ようと雪道へ出て……、と山本直哉が説明しています。19世紀ロシアの詩人トレフォエフの詩にプリゴジイが曲をつけたという記事が正しければ、民謡と言うよりも歌曲なのですね。聴きながら書いているちに、三瓶さんや清水ひろしさん同様、こちらも「酒をくれ、早く酒を」と呻きたい気分になりましたのでこの辺で。

投稿: dorule | 2017年11月16日 (木) 23時17分

 昔この歌を最初に聴いたのは、やはり新宿の歌声喫茶「ともしび」でした。こんな悲しい物語性のある民謡がうまれる過酷な風土や文学に登場する人々を思い出しながら、みんなの歌声を聴いていたような気がします。
 
 それから数年経って、銀座7丁目か6丁目あたりにあるビヤホールの5階(?)にある歌を聴ける小ホールがありました。(今もあるのかしら?)そこは客のリクエストで、声楽の勉強をしている若者たちが歌っていました。なんとそこでこの「郵便馬車の馭者だった頃」が歌われました。ビールなど飲んでいる中で歌われました。バリトンだったかバスだったか忘れてしまいましたが、それも最後まで歌ったかどうかも忘れました。

 ビールを飲んでいるのになんだか私はしんみりしてしまい、「のみの歌」をリクエストしました。歌ってくれるかなと思っていたのですが、歌ってくれました。この歌はロシア(ムソルグスキー)の歌で、ある王様がのみをすごく可愛がる話の歌です。途中笑い声が入り、風刺のきいた内容ですが、面白い歌です。

 そんなことを思い出しました。

投稿: konoha | 2017年11月17日 (金) 11時43分

ロシアの曲と言えばフォークダンスで流れるコロブチカが大好きでしたが、私はロシアの楽曲の知識はほとんどなく、あとはカチューシャとトロイカを口ずさんだ程度でした。
しかしここで郵便馬車の馭者だった頃の歌詞と曲を初めて知り、コメントを拝読しているうちに、一気に興味が強く湧いてきてユーチューブを通してソロから合唱にいたるまで幾通りものこの曲を夢中で聴きあさりました。
その中でも特にこれは凄いと私が思った動画がありました。作詞レオニートニコラーイエヴィチトレフォーリエフとなっておりロシア語版で、ロシア発音と日本の字幕がふってあるモノクロ動画でした。素晴らしい声量で吸い込まれていくような雰囲気のある老齢のプロの方が歌われており、名前はわかりませんでしたが、この曲の愛情と悲しみの情景を抜群に醸し出していました。
これ程に悲しく、また淋しい楽曲には滅多に出会えそうもない気がしています。

投稿: 芳勝 | 2017年11月28日 (火) 02時17分

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