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2007年8月21日 (火)

浜千鳥

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:鹿島鳴秋、作曲:弘田龍太郎

1 青い月夜の浜辺には
  親を探して鳴く鳥が
  波の国から生まれ出る
  濡れた翼の銀の色

2 夜鳴く鳥の悲しさは
  親をたずねて海こえて
  月夜の国へ消えてゆく
  銀のつばさの浜千鳥

《蛇足》 大正8年(1919)発表。

 歌詞もメロディも寂しくなる歌です。ごく小さかったとき、「親を探して鳴く鳥が……」というところが悲しくて泣いた記憶があります。

(二木紘三)

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コメント

早速、取り上げていただきありがとうございます。田端義夫がNHKテレビ、ビッグショーで泣きながら歌った感動の名曲です。

投稿: 野田泰弘 | 2007年8月29日 (水) 20時55分

 むかしプロレスで力道山が活躍していた頃、たしか鉄人という異名をもつアメリカのレスラーで、ルー・テーズという人がいました。
彼が来日していた時のあるエピソードを週刊誌で偶然目にし、それが今も強く印象に残っています。
 ある日ラジオから流れてきた日本の歌に彼が非常に胸をうたれ、その曲のレコードを手に入れようと、しきりに周囲のスタッフに尋ねまわりました。
その結果わかったのは、それが童謡「浜千鳥」だったという記事です。
 ごついプロレスラーと可憐な「浜千鳥」という組み合わせ。
それ以来ルーテーズのファンになりました。

投稿: くまさん | 2008年1月10日 (木) 00時14分

 この歌の浜千鳥はまるで、「波の国から生まれ出る」と共に、「親を探して鳴く」ことを宿命づけられているかのようなのです。「濡れた翼の銀の色」の、いたいけないひな鳥が…です。
 二木先生のおっしゃっている「寂しさ」「悲しさ」の源泉は、実にここにあると思います。本当に悲しいです。悲し過ぎます。

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月16日 (水) 19時15分

単純な曲で簡単に覚えられそうで
それでいて含蓄のある良い曲です。
母が歌が好きで小さい頃からこういう
歌を聴いて育っていたので、学校で
習う程度の曲はほとんど知っていたので
困った事がありました。
友人たちが楽譜を見ながら歌うのに
私だけ楽譜を見ながら歌うと言う
発想がなかったのです。

投稿: sunday | 2008年7月 5日 (土) 07時07分

作詞の鹿島鳴秋先生が幼いお嬢さんを亡くされたとき,その悲しみを詞にたくしたのがこの歌だそうです。師匠の海沼實氏と親交のあった関係で,1954(昭和29)年の鹿島鳴秋氏の葬儀に参列していた川田正子が,歌いながら泣けてきて,胸がいっぱいになり声が出なくなったそうです(川田正子著「童謡は心のふるさと」より)。さもありなんと思われる悲しい曲で,私もカラオケの生のピアノ伴奏で歌った記憶があります。

投稿: nobuchan | 2010年1月 1日 (金) 00時14分

 東日本大震災から一ヶ月が経ちました。
 親を亡くしたか親の行方が分からない震災孤児が何名になるか、何百名になるか未だに不明だという。
 「波になってママを探しに行く・・・」という記事が
浜千鳥の歌にも重って例えようもなく悲しい。
 
 いっぱい泣いて、大津波を押し返すほど涙を流して、
少しずつ元気を取り戻して欲しい。

投稿: かんこどり | 2011年4月11日 (月) 17時35分

5~6歳の頃にお袋が良く歌っていました。意味は理解できませんでしたが、本当に悲しくなる歌です。母子家庭で小生を育てるのに随分苦労したんだろうと、何の為にお袋は生まれてきたんだろう?と、思えるほど薄幸の人でした。

投稿: 赤城山 | 2013年5月26日 (日) 19時38分

この曲を最初に意識するようになったのは十数年前、浦安駅前の当時ダイエーで、ニューオーリンズからやってきた黒人中心のジャズバンドがアトラクション演奏をしたときです。最後に「浜千鳥」が演奏され、シンプルなメロディーをテーマにアドリブ演奏が延々と続き、日本の古い曲があたかも黒人霊歌のような印象を私に与えました。

投稿: 一床ひろし | 2014年6月 1日 (日) 04時47分

小学生の時、村の敬老会で「浜千鳥」を踊りました。
幼馴染みと姉と3人で踊る予定でしたが、
女の子はその日になって急に嫌だと言い、
踊りを教えてくださった小母さんと3人で踊りました。
踊りは今でも覚えています。

nobuchan さんが書かれている、
愛娘を偲んで作られた歌詞の説と、、
柏崎を訪れた時の歌詞と、2通りあるようで、
歌碑も千葉県と新潟県の2か所にあるようですね。

投稿: なち | 2014年6月 1日 (日) 08時44分

『浜千鳥』の歌碑は各地にあろようですが、なち様が指摘された2か所の歌碑について、コメントを付け加えます。歌詞の舞台は、わたしの郷里である柏崎の番神海岸です。歌碑はそれを記念して、昭和35年に建てられました。現在は「みなとまち海浜公園」にあります。
 この歌は、作詞家の鹿島鳴秋が大正8(1919)年6月頃、柏崎の友人を訪ねて来た折、この友人ともども海岸を散歩していたときに出来たそうです。このことは、友人が明言していますから、この事実は間違いないでしょう。鳴秋の略歴はよく分からないところもあるのですが、愛娘の昌子が亡くなったのは昭和6(1931)年ということは判明していますから、「愛娘を偲んで作られた歌詞」でないことは確実です。しかし、南房総市(旧和田町)に作られた歌碑(昭和41年建立)の経緯について述べられた中に、「愛娘を偲んで云々」のことばがあるそうです。ここの海岸に歌碑があるのは、愛娘昌子が結核にかかり19歳で亡くなるまで、ここで療養にあたっていたからです。
 事実が混同しているのはどうしてでしょうか。単純に言えば、鳴秋の思い違いでしょうが、若くして亡くなった愛娘への哀切の想いが、時間の経過とは関係なく詞に託されていると、かれ自身思ったのかも知れません。

投稿: ひろし | 2014年6月 3日 (火) 17時14分

いつも聴かせていただき、感謝申し上げます。
平成2年だったか、弘田龍太郎の故郷安芸市に住んでいました。安芸の海側には広い砂浜が隣の安田町境の大山岬の方に綺麗に続いています。晴夜、大山岬の端に立つと、見おろす静かな海には、波の上を月光が照らして、星だけの夜はなおさら、浜千鳥の曲調の世界が現出します。
世事で市役所を訪ねたとき、郷土の偉人の額写真が飾ってあって、中に一つだけ大きいのが弘田龍太郎のそれでした。あの岩崎弥太郎はその他の先人と同寸だったと思います。安芸は、お年寄りや子供たちにやさしいまちだったなと思い出します。

投稿: 樹美 | 2014年6月 4日 (水) 09時36分

 地元町内会の老人クラブに2年前加入しました。2か月に1度の会合ですが、合唱の時間にこの曲が各自の歌集の中からえらばれます。70過ぎの80名くらいの会ですが終わった後静寂がはしります。 いい歌ですね・・・と。発声は体に良いと、1回でも多く健康で参加できることをお互いに言い聞かせています。

投稿: 河嶋 忠雄 | 2014年6月12日 (木) 21時18分

古い和歌には千鳥が親を探して鳴くという詩想はありませんが、群れからはぐれた千鳥が友を捜して鳴くという歌はいくつもあり、共通理解となっていました。作詞者はそのことを知っていたのかもしれません。

投稿: みるく3 | 2015年9月16日 (水) 12時35分

私達の町では冬の夕方5時に「浜千鳥」の曲が比較的大きな音で流れます。その悲しい響きが心に残り、小さな頃うろ覚えであった歌詞をこのコーナーで確認し、あらためてその悲しさを考えさせられるこのごろです。おそらく童謡や小学唱歌の中で一番悲しい曲ではと思う次第です。心を込めて、できるかぎりゆっくり歌うほど、涙がにじむほど悲しくなる歌ではないでしょうか。 
 ゆっくり悲しく歌うと、反戦の心を奥に感じる歌として「露営の歌」などはどうでしょうか。ゆっくり悲しく小さな声で歌ってみましょう。今の時代の大きな問題をこの歌の歌詞の中からも感じるのは私だけでしょうか。

投稿: 長島 彬 | 2015年10月10日 (土) 19時20分

もう、何十年も昔ですが、NHKの朝の番組で(鈴木健二アナウンサーが司会をしていました)日本に住んでいる外国の女の人たちに「貴女が日本らしいと思う歌は何という歌ですか」と聞くと浜千鳥が1番でした。今はもうこの歌を知っている日本人も少なくなっていますから全く違う歌になっているでしょうね。
終戦直後に近所でオルガンを買った家があり、みんなで弾いて遊びました。音符など分かりませんでしたが、浜千鳥を黒鍵だけで弾いていたように思います。音は正しくないと思いますが簡単に弾けました。楽しい思い出です。

投稿: ハコベの花 | 2015年10月11日 (日) 00時50分

弘田竜太郎の故郷と私の故郷佐喜浜とは数10kmしか離れていません。安芸市の各所に弘田先生の歌詞が建立され、まさに安芸市は童謡の町として有名です。浜千鳥の歌詞は、同市大山岬にあります。また同市では、毎年12月には「安芸タートルマラソン」が開催され、お昼のアトラクションでは浜千鳥他弘田先生の作詞された歌を聞くことができます。時には、弘田先生の子孫も来られて浜千鳥他の歌を晴唱されたこともあります。

投稿: wada kikou | 2016年4月30日 (土) 20時39分

鹿島鳴秋、本名は佐太郎。明治24年東京市深川区で生まれました。6歳のとき父が家出、母は再婚し、鳴秋は祖父母に育てられます。苦学して夜間の商業学校を卒業、明治43年、「毎日電報」に自作の童話が当選し、児童文学にすすみました。大正5年、小学新報社から発行されることになった少女雑誌「少女号」の編集長として迎えられます。浜千鳥が作詞されたのは大正8年(1919 年)、弘田龍太郎が作曲し大正9年「少女号」新年号に掲載されました。お嬢さんが亡くなったのは昭和6年(1931年)、曲が作られて12年後です。この曲の成り立ちや、歌碑の説明の由来は<ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』>に詳細があります。
浜千鳥の親を探して鳴く鳥は、幼い頃に両親と生き別れた作詞者自身とのことです。
私ごとですが、4歳のとき母が他界し、弟と二人、叔母の家に預けられました。浜千鳥は、あの頃の寂しさや悲しみを昇華してくれるやさしい子守歌に聞こえます。

投稿: 原晶子 | 2018年7月29日 (日) 17時01分

「浜千鳥」二木先生の蛇足>歌詞もメロディも寂しくなる歌です。ごく小さかったとき、「親を探して鳴く鳥が・・・」というところが悲しくて泣いた記憶があります。

大好きな「浜千鳥」このページを開いて、二木先生の蛇足を目にした瞬間、私は思わず胸が熱くなりました!

幼い頃はたとえ両親が健在であったとしても、ふと親を探すことがあります。私は母親を訳もなく探していた記憶がありますが、そんな頃を思い出してしまいました。
作者鹿島秋鳴が6歳の頃、両親と生き別れになったという、その胸の思いを歌詞にしたことは資料にて存じておりましたが、その主人公を「親を探す千鳥」に、また情景を「夜の静かな浜辺」を用いているところに、より深い切なさや寂しさを感じさせます。

「浜千鳥」「うみ」「つき」、短い歌詞の中に人の心情が見事に表現されている、この3曲が私の最も好きな童謡唱歌です。
今日はLPレコード「マコの想い出の歌」の中から当時14才の森昌子が歌う「浜千鳥」を聴いてみました。

投稿: 芳勝 | 2018年9月11日 (火) 18時54分

8年前の自分の投稿を読み、喜寿を迎えた今も
又泣きました。「生まれた環境で人生のほとんどは決まってしまう」という話を聞いた事がありますが、いまでも同じ事がいえるような時代です。悲しすぎます。

投稿: 上州 赤城山 | 2021年4月16日 (金) 15時12分

上州 赤城様
交流掲示板にコメントしました。

投稿: りんご | 2021年4月17日 (土) 06時44分

「最近のコメント」欄により、ここ暫くこの歌を幾度も聞いていました。 古き懐かしい歌です。 いつ頃覚えたのかは記憶にありません。 多分国民学校入学の頃か、幼い頃とて歌詞の本意は理解できてはいなかったでしょうが、ただ親をたずねる幼子の悲しさが感じられていました。
メロディーが素晴らしいですね。 蕭條という言葉が正しいか、悲しさがしんと心に迫ってまいります。

昭和21年、まだ小学校ではなく国民学校といっていたと思いますが、私が三年生のとき、担当が旧陸軍大尉の山田先生でした。 旧軍人らしく規律正しく厳しい先生でした。 あるとき、山田先生が校庭の隅で、同級の女生徒十名ほどに囲まれて歌を唄っていたのでしたが、私が気が付いた時の歌がこの「浜千鳥」なのでした。 はっきり言って先生の歌はしどろもどろなのです。 それを生徒たちが盛んに教え込んでいる恰好でした。 いい姿でした。 厳しい旧陸軍将校の先生が女の子たちと和気あいあいと、、、

あるとき、私たち大勢が、なにか悪さをしているところへ(何をしていたかの記憶がありませんが)、山田先生が通りかかりました。 「ここに横一列に並べ!」
ピシりピシりと、すさまじいビンタでした。 これは利きます。 痛いのなんの、、、
でも、先生は始めから柔らかい表情、「なぜビンタなのかわかっているだろうな」と言って立ち去っていきました。 子供が悪さをするのは当たり前、ただ見つかったらビンタを食らうのも当たり前ということです。
私たちは勿論先生を恨むことはありませんでした。  「見つかっちゃったな、アハハ」と笑って済ませるだけ。 今なら暴力だと大騒ぎでしょうけれど、私たちは当然の指導としか思いませんでしたが。

山田先生からは、一年間いい教育をして頂きました。
教科のことは何も覚えていませんが、ただ一つ「男は強くなければならない」ということが一貫した指導方針でした。 武道的にも精神的にも。 それが私の人生にどれほど力を与えてくれたことか。

今このメロディーを聴きながら、あの強さの漲った山田先生が女の子たちと楽し気にと言ったらおかしいけど仲良く歌っていた姿を思い浮かべます。 悲しいメロディーながら、、、

この悲しい歌のページに男っ気の話しばかりですみません。


<蛇足>
ここで私が意味する「つよい」の漢字が変換ででてきません。 「頸」の右の旁が「力」なのですが。
この漢字で、私の意味する「つよい」がいかなる意味かご理解いただければ幸甚です。

投稿: 田主丸 | 2021年4月23日 (金) 22時08分

「浜千鳥」この唄を聴く度にあえて私は「お家わすれて」のページに記された『蛇足』を読み返すことがあります!

>『どうしてこの時代の童謡には、こうもの寂しい歌やうら悲しい歌が多いのでしょう。乳幼児の死亡率が高い、いいかえると早く愛児を亡くす人が多かったり、苦しい生活を送る人が多かったりした時代の反映なのでしょうか。』

上記『蛇足』を読むことで「浜千鳥」の唄について、私が資料で知りえた、鹿島鳴秋が辿ったであろうと思われる、その寂しい心情により深く寄り添えるような気がするのです。

そしてこの曲を聴く度に、私は最初から皆様がこの唄に寄せられた貴重なコメントを読み返しています。

2011年4月11日・かんこどり様ご投稿コメント
>「波になってママを探しに行く・・・」という記事が、浜千鳥の歌にも重なって例えようもなく悲しい。

>いっぱい泣いて、大津波を押し返すほど涙を流して、少しでも元気を取り戻して欲しい。

特にかんこどり様の、東日本大震災に触れておられる、上記コメントを拝読する度に、私にもまさに同じような感情が芽生えてきてつい胸が熱くなります。

「浜千鳥」「お家わすれて」この二つの作品は、幼いころに両親と生き別れたと云う悲しい境遇を持つ、鹿島鳴秋ならではの作品で、これからも永遠に愛され続けられて行く、私はそんな唄だと思います。


投稿: 芳勝 | 2021年4月25日 (日) 22時44分

 5年前に投稿したものです、やはり一人寂しくなると、この歌が出てきます。5年前に妻に先立たれ、月日の経つのが急流のように過ぎました。今日、京都5山の送り火もテレビではコロナウイルスの影響で、簡略され寂しい限りです。8月は日本にとって忌まわしい月です、被爆広島、長崎、終戦の日、世界でゆういつの国として、核禁止条約に早急に加盟をするべきと祈るばかりです。

投稿: ワダタカユキ | 2021年8月16日 (月) 21時54分

母を思い出したい時は、ひとりヘッドホーンでこの歌を聴きます。そして一人涙を流します。還暦を迎えず僅か58才で不治の病にて泉下の客となりました。50年以上前の話なのに忘れることが出来ません。母の歳をとっくに超えたのに、いまだに鮮明に覚えています。小さい背中を丸め針仕事をしながら、独り歌う悲しい声を。

投稿: 赤城 太郎 | 2021年11月 4日 (木) 14時47分

父が風呂に入れてくれていた時必ずこの歌を口ずさんでおりました。貧しい家庭で唯一のひと時であったろうと思います。浜千鳥なんてどういうものかも知らず聞いていましたが、菊が浜の浜崎寄りにでも来るのかしらと思ってはいました。

投稿: さっちゃん | 2023年10月 5日 (木) 20時11分

私は、幸い両親に恵まれ、この歌のような、悲しさに会わずに済みましたが、ウクライナや中東の大勢の子供たちが、現実に今でも、声をあげていると思うと、身を割かれるお思いです。
また、天災と云え、地震や台風大雨等でも同じです。
「親を探して泣く鳥が」「月夜の国へ消えていく」情景を思い浮かべると、これからもどこでも、繰り返される光景ですね。
せめて、人災だけでもこの世から無くなり、浜千鳥の鳴き声が、楽しく聞けると良いですね。

投稿: 築地武士 | 2024年10月13日 (日) 14時50分

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