冬の夜
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
文部省唱歌
1 ともしび近く 衣(きぬ)縫う母は 2 囲炉裏のはたに 縄なう父は |
《蛇足》 明治45年(1912)発表の文部省唱歌。作詞者・作曲者は不明。
2番の「いくさ」は、日清戦争(1894~1895)か日露戦争(1904~1905)でしょう。今の感覚では、子どもに戦場の血なまぐさい話を聞かせるのはどうかと思いますが、この時代には、昔話か講談でもするような感覚で話題にしたようです。
メロディからも歌詞からも、一家団欒のほかほかした暖かさが伝わってきます。それが、この歌が今でも好まれている理由でしょう。
上の絵は、2002年の年賀状用にPhotoshopで描いたものです。
(二木紘三)
コメント
この歌を聴いていると、亡き母を思い出します。母が生まれたのは明治37年末の日露戦争の真っ最中でしたが、子供のころ「父(私の祖父)からずいぶん日露戦争の話を聞いた」と語っていました。
また、子供の間で流行った尻取りの“手まり唄”をよく歌っていたので、私もほとんどそれを覚えてしまいました。『冬の夜』が出来たころの女の子の歌ですが、これも「文化」の一つだと思うので、紹介させてください。
『にっぽんの 乃木さんが 凱旋す スズメ メジロ ロシヤ 野蛮国 クロパトキン 金の玉 負けて逃げるはチャンチャンボウ 棒で叩くは犬殺し 死んでも命があるように・・・・・』
最後の方は少し卑猥な表現になるので、省略します。乃木さんはもちろん乃木大将のこと、クロパトキンはロシア軍のクロポトキン総司令官のことで、チャンチャンボウはたしか、当時の中国人を蔑視した言葉です。
母たちは『冬の夜』を歌いながらも、こうした時代背景がすぐに分かる手まり唄も歌っていたのです。
昭和も遠くなりにけりですが、明治はさらに忘却の彼方へ去っていきますね。長い駄文、大変失礼しました。
投稿: 矢嶋武弘 | 2008年10月 4日 (土) 15時15分
たいせつなうただとおもいます。
NIPPONN no bunka ya jidai wo tutaeru taisetu na uta desune.
投稿: 欽次 | 2008年11月25日 (火) 22時11分
私が聞いたこの歌の歌詞は「乃木さんが 凱旋す スズメ メジロ ロシヤ 野蛮国 クロパトキン 金玉 マグローフ、褌、しめた、たかじゃっぽん,ポン槍、陸軍の,乃木さんが、・・」となります。ロシアを野蛮国と揶揄しているのが、先勝を祈願した現れが出て興味深いです。マグローフはロシアの将軍だったと思う。この歌は、ほのぼのしていていいですな。私はよくピアノで弾いてます。「ポン槍」ってどんなやりですか?
投稿: 二松五男 | 2009年2月19日 (木) 23時35分
23日(日)のファミリー・コンサートで、じいじ・ばあば合唱団は子供たちと一緒に、”小さな四季”の一曲として、「冬の夜」を歌うことになっています。
私はやはり2番の歌詞にひっかかります。「過ぎしいくさの手柄を語る」の所ですが、日清・日露戦争時は手柄を語ったでしょう。しかし第2次大戦の生き残りの帰還兵は”黙して語らず”の状態が殆どだと思います。
殺人は言いたくないのが本音です。
現在、この歌が小学校の音楽教科書で採用されているかどうか知りませんが、作詞者が不明なので、1番だけ歌うか、または2番は誰かに依頼して作詞したらどうかなと思います。
私はこどもには歌わせたくないですね。
投稿: ,三瓶 | 2011年1月20日 (木) 15時07分
三瓶様;
私が初めてこの歌を聴いたときの2番の歌詞は「…過ぎし昔の思い出語る」でした。
学校で習ったわけではなく、当時小学生だった甥っこが歌っていたのを聞いていい歌だなと思い、おぼえたように記憶しています。当時の小学校の音楽教科書がそうなっていたのかどうかは定かではありませんが、ご参考になれば幸甚です。 なにぶんにもはるか昔(昭和40年頃?)のことなので、正確ではないかもしれませんが…。
「過ぎしいくさの手柄を語る」という歌詞はむしろずっと後になって知り、“へえ、そうだったのか”と思った次第です。でもYahooで検索してみると、ほとんどが「過ぎしいくさ」なっていますね。あのダークダックスもこの歌詞で歌っていたようなので驚いています。
現在小学校でこの歌がうたわれているのかどうか、歌われているとしてどのような歌詞なのかは知る由もありませんが、“子供には歌わせたくない”との三瓶様のお気持ちには私も同感です。
投稿: 中嶋 毅 | 2011年1月20日 (木) 18時12分
音楽の教科書をすべて保存して置けば良かった…と時々思います。
もう、教科書は手許にはないのですが、懐かしいこの歌はよく小学校でも合唱しましたし、ラジオからも流れていました。
三瓶さんが書いていらっしゃる部分の歌詞は、昭和20年代に「過ぎし昔の思い出語る」と私は習いました。そのころ父母は、この部分の歌詞が昔とは違うと言っていました。
そしていつの間にか、また本来の歌詞に戻ったのですね。
それでもyoutubeでいくつか聴いてみた中に、一つだけ「過ぎし昔の思い出語る」と歌っているものがありました。
投稿: nemurigusa | 2011年2月 6日 (日) 22時27分
どのような理由があるとしてもオリジナル作品を変更するのは大変な間違いで、変更した人の思い上がりでしかありません。勝手に変更することは、作者、作品に対する冒涜であると思います。内容に問題がある場合はその問題について論じる事は問題を覆い隠すよりずっと効果がある事だと思います。人が命を掛けた思いはどんな作品であれ絶対に改造してはならないと思いますし、その作品を守っていくのが残された者の使命だと思います。歴史はオリジナルからしか学べないのです。
後になりますが、私は八島秀章の作品が最も好きです。
二木紘三先生の心の篭ったご解説も感動的で大変素晴らしいです。
投稿: 岡村健治 | 2011年9月24日 (土) 12時40分
以前、どこかで読んだ記憶があるのですが、「過ぎし戦の手柄を語る」というのも、既に後世の修正であり、元歌は「過ぎし日露の手柄を語る」だったということです。それが、昭和に入り日ソ不可侵条約を締結する段になり、このような歌詞は具合が悪いといって文部省により修正されたのだとか書いてあったように記憶します。
事実かどうか、私には確かめる手段がありませんが、歌が最初に出た時期からして、いくさとは、具体的に日露戦争であることは間違いなく、またこの歌の風景は、多分雪深い東北地方の冬の夜だとすると、ロシア軍との戦い以上に、冬の寒さとの戦いだった日露戦争を歌うのに相応しいように感じます。
話は飛びますが、今から50年程昔、私の子供の頃には、母方の実家(東北地方ではなく茨城県でしたが)では、まだ囲炉裏もカマドも現役で、煮炊き・炊事は全部薪でした。当時小学生だった私も、土間のカマドでお米を炊き、囲炉裏で汁物を作るのを手伝ったものです。囲炉裏は本当に温かく、また照明と暖房をひとつに兼ねる優れた装置で、まさに一家の中心でした。
投稿: 「もう戦後ではない」と言われた時代に生まれたおっさん | | 2012年10月12日 (金) 02時39分
私の出身の地方では囲炉裏のある家は見かけません。いつか囲炉裏のある家に住んでみたいと囲炉裏を羨ましく思っていたのですが、この歳(67才)になってもまだ囲炉裏を見たことはありません。
私の家はかまどでした。食事をする板間から一段下がって土間があり、かまどがありました。土間の片隅には洗い場がありもう片隅には漬物の壺などが置いてありました。天井はなく屋根裏には蜘蛛が巣を張っていました。
いつもは静かで暗い土間でしたが賑やかに活気づいたこともありました。近所のおばさんたちが駆けつけて忙しそうに動き回っていました。「何かあるの?」と聞いたら、「田植えが済んだから皆さんにお礼の会をするのよ」と母は言っていました。
押入れからは新聞紙にくるまれたお皿がたくさん取り出されました。こんなにお皿が隠してあったんだ、と驚きました。客間には新しい座布団が積み重ねてありました。かまどには木の枠の棚が何段か重なっており湯気が登っていました。土間ではもちつきもされました。女性たちは慣れた手つきでおもちをちぎって仕上げていきました。
思い出はつきないそんな土間とかまどでしたが、ある日都会から帰ってみると土間もかまどもすっかり無くなっていました。そこにはモダンなダイニングキッチンが・・・
母が土間を改造してしまったのです。「ああ~、なんてことしてしまったんだ」私は悲しくて嘆きましたが後の祭りです。時間はもう戻せません。母はトイレも和式から洋式に変えていました。私が子供の頃いつも井戸水を汲んで沸かしていた五右衛門風呂も無くなって、シャワー付きのバスタブに変わっていました。
川辺の草を刈って鶏の餌にしたのも、風呂の焚きつけをしたのも、田圃や畑の仕事も、私の思いででは、皆、土間とかまどとセットだったのに・・・ 残念です。
母としては、この改造で、子供たちもお嫁さんも孫たちも嫌がらないで都会から遊びに来て欲しいという気持ちもあったのだと思います。母はその後30年近く一人暮らしを続けました。母の電話機の前には私の電話番号が貼ってありました。しかし私も母も互いに電話することはほとんどありませんでした。親不孝な息子でした。母が偲ばれます。
投稿: yoko | 2016年5月 1日 (日) 23時53分
40年くらい前でしたら、郊外で囲炉裏とか見られたと思います。祖母の実家で囲炉裏とか土間の調理場とかありましたね。
ヤギの乳とかもご馳走でした。
投稿: moto | 2017年6月18日 (日) 23時01分
長崎のsitaruです。この曲を聴くと、寒さに震えた子供時代を思い出します。長崎は、全体として見れば温暖の地ですが、私の子どもの頃、特に小学校時代の1960年代前半の冬はかなり寒かったようです。童謡「雪」の所でも触れましたが、いわゆる「三八(さんぱち)豪雪」(昭和38年(1963年))も小学二年生で経験しました。当時、私の家は、地方の零細農家の典型的な造りである、藁葺き屋根の粗末な家で、板戸の引き戸の入口を入ると、硬く踏み固められた土間があり、すぐ右に何も仕切りの無い畳敷きの居間がありました。土間の左前方には、カマドやそれに使う薪などが置いてあるカマヤという空間があり、そこも土間と一続きでした。土間には、小型の農機具や、麦藁・稲藁、収穫した穀物類が置いてありました。土間から居間へ上がったすぐの所に、この歌に出て来る囲炉裏がありました。冬の暖房具は、この囲炉裏と複数の火鉢、それに何個かの湯たんぽだけでした。南国の長崎は、極寒の北国に比べて暖かいイメージがありますが、北国では薪や木炭、石炭などを使った火力の強いストーブが備え付けられているのが普通だったのではないかと思います。それに比べ、囲炉裏や火鉢は、その周辺だけを温める力しか無く、ストーブの比ではありません。案外、粗末な家では、長崎の方が北国より厳しい冬を耐えなければならなかったのかも知れません。
この歌の歌詞にある通り、母は囲炉裏の近くでよく針仕事をしていました。父は土間に座り込み、藁仕事をしたり、農機具の手入れをしていました。囲炉裏は、1m数十センチ四方の、あまり大きくないもので、天井から下がった、いわゆる自在鉤に鍋を掛けて、煮物を作ることもありましたが、薪や木炭の火力が強くないので、あまり使ってなかったように思います。囲炉裏を囲む家族の楽しみは、四本の足が付いた焼き網で餅を焼いて食べることでした。餅は、十二月の末に大量に搗き、正月で餡餅を食べ尽くした後も、大きな水瓶に餡子の入っていない餅(カラ餅と言っていました)を入れて水餅とし、一月末近くまで食べていました。
囲炉裏を囲む家族の団欒は、しかしあまり楽しいものではありませんでした。母が春の遊びを語ることも無く、父は無口で、戦争に行った経験を子供たちに話して聞かせることは、ほとんどありませんでした。しかし、父はこちらから尋ねると、静かに自分の体験を聞かせてくれることがありました。海軍航空隊の整備兵だった父は、色んな軍艦に乗り、北はアリューシャン列島、南はソロモン海周辺まで行ったそうです。敵と遭遇したこともあったようですが、お互いを殺し合う所までは行かなかったと言っていました。終戦はラバウル基地で迎え、一年余りの捕虜生活の後、無事復員することが出来ました。家には、家族写真がほとんど無かったのですが、父の軍服姿の写真や、海軍の写真帖はかなりあり、私はよくそれらを見ていました。昭和30年代は、戦後ながら、一種の軍国主義復活の風潮があり、当時の「少年」「少年画報」「ぼくら」「冒険王」などの月刊誌や、「少年マガジン」「少年サンデー」などの週刊誌には、戦前の戦闘機や軍艦の特集がよく載っていました。中でも私は、戦艦「大和」に魅せられ、その主砲の口径が46センチで、世界最大であったことに、興奮しました。当時の熱狂ぶりを、後に振り返って、自らを「戦後軍国少年」と呼んだりもしていました。大学生になり、左翼思想に共感した私は、父の前で戦前の軍国主義を批判したことがあるのですが、普段は無口で大人しい父が、その時だけは烈火の如く怒りました。自らの青春を賭けて戦ったことを否定されることは許せないと感じたのだと思います。
夕食が終わると、囲炉裏の周りでしばらく時を過ごした後、早めに眠りに就きました。父母は最も奥の部屋で、祖父母は居間に近い四畳半ほどの狭い「納戸(なんど)」と言っていた部屋で眠り、一番年上の姉は、父母の所へ行ったり、祖父母の部屋へ行ったりして寝ていました。その下の男兄弟三人は、囲炉裏の近くで寝ていましたが、蒲団は二つで、私は必ずどちらかの兄と一緒に寝ていました。体が冷えるので、いつも背中を合わせて、お互いの体温で寒さをしのいでいました。火鉢は、寝る時にはほとんど役に立たず、湯たんぽは、父母と祖父母の専用で、子供が使うことは許されませんでした。小学四年の秋、ちょうど東京オリンピックが始まった頃、ようやく瓦葺の家を新築し、初めて掘り炬燵という暖房具を経験した時は、「何て暖かいものなのだろう」と感動しました。
後に、子供の頃のことを思い出し、
背を合はせ 寒夜を忍ぶ 兄弟(あにおとと)
荷の重き 夜の仕事ぞ 小囲炉裏
つれづれに 灰に文字書く 囲炉裏かな
水餅の 数を気にして 小正月(こしょうがつ)
などの句を作り、昔を偲ぶよすがとしています。
また長くなりましたが、この「冬の夜」の歌唱については、NHK東京放送児童合唱団などによるオーソドックスな名唱がありますが、私の好きな歌唱は、増永郁子さんのソロ歌唱です。増永さんが、現在も二期会で活躍中のオペラ歌手であられる方なのかはっきりしませんが、小学高学年か中学生の頃の美しい歌唱が印象的です。同じ年頃の増永さんが歌われたと思われる歌唱には、他に「どこかで春が」「りんごのひとりごと」があり、これらもよく聴きます。そして、最近発見した印象深い歌唱に、熊本県で活動されている曽我実磨子(そがみまこ)さんのものがあります。曽我さんは、元々「DOYO組(どうようぐみ)」という童謡歌手デュオのお一人でしたが、現在はソロで活躍中です。その、聴く人を優しく包み込むような歌唱に、心が癒されます。YouTubeにもたくさん上がっていますので、是非ご視聴下さい。
投稿: sitaru | 2020年12月24日 (木) 05時02分
田舎の冬の夜の家族団らんを歌った懐かしい曲ですね。
夕飯後、床に就くまでの間に、囲炉裏火のまわりに集まり暖を取りながら時を過ごす家庭の様子が目に浮かびます。
子どもたちは暗い夜に外に出ることもなく、寝るまでの時間を家族団らんで過ごします。
私の育った群馬の戦後は、農家であってもさすがに囲炉裏で暖を取ることはなく、こたつでした。関東平野のど真ん中で、外では雪ならぬ「赤城おろしの空っ風」がごうごうと吹いていました。春が来るのが待ち遠しい子どもたちでした。
ブログ・ハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。ありがとうございました。
投稿: ゆるりと | 2022年2月 9日 (水) 05時49分