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2007年8月17日 (金)

好きだった

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:宮川哲夫、作曲:吉田 正、唄:鶴田浩二

1 好きだった 好きだった
  嘘じゃなかった 好きだった
  こんな一言あの時に
  言えばよかった
  胸にすがって泣きじゃくる
  肩のふるえを ぬくもりを
  忘れられずにいるのなら

2 好きだった 好きだった
  俺は死ぬ程好きだった
  云っちゃならない「さよなら」を
  云ったあの日よ
  笑うつもりが笑えずに
  顔をそむけた悲しみを
  今も捨てずにいるくせに

3 好きだった 好きだった
  口にゃ出さぬが好きだった
  夢にまで見たせつなさを
  知っていたやら
  馬鹿な男の強がりを
  せめて恨まずいておくれ
  逢える明日はないけれど

《蛇足》 昭和31年(1956)リリース。

 鶴田浩二は「歌う映画スター」のなかでも、歌のうまさには定評があり、哀愁を帯びた甘い声で多くのファンを獲得してきました。ほかに『街のサンドイッチマン』『赤と黒のブルース』『傷だらけの人生』などのヒット曲があります。

 大正13年(1924)、兵庫県西宮市で生まれましたが、父親の実家の反対で入籍することができなかったため、母親は鶴田を連れて静岡県浜松市に移住、別の男性と入籍しました。母親の仕事の都合で鶴田は母方の祖母の手で育てられました。たまに母親が会いに来るのが楽しみだったそうです。

 大戦中は学徒出陣兵として横須賀の武山海兵団に入団、特攻攻撃に向かう多くの仲間を地上で見送るという辛い経験をしたといいます。彼がもつ独特の陰翳は、こうした生育歴や経験から生まれたものかもしれません。

 高田浩吉の付き人を経て松竹入社。
 松竹時代に、同じ松竹の岸恵子と激しい恋に落ちました。しかし、彼がすでに結婚していたうえ、当時は会社の方針で、スター同士の結婚は御法度だったため、二人が結ばれることはありませんでした。

 岸恵子は、この恋を清算するためパリに移住、映画監督のイブ・シャンピと結婚しました(のちに離婚)
 鶴田浩二の死後、岸恵子は「心の奥に癒しがたい哀しみを抱えている人という感じがして、そこに惹かれました」と語っています。

 この歌は、こうした経緯とは関係なく作られたものですが、このエピソードを知ったうえで歌詞を読むと、また違った味わいがあるように思われます。

 昭和62年(1987)没、享年62歳。

(二木紘三)

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コメント

残暑お見舞い申しあげます。次々と名曲が掲載され、毎日夢中になって拝聴拝読しています。暑さも忘れ幸せな時間を過ごさせて頂き感謝です。習った覚えもないのに唄える歌ばかりで、胸いっぱいに懐かしさが広がってきます。又選曲や曲のアレンジが美しく心癒される思いです。まだまだ暑さ厳しい中どうぞご自愛くださいませ。ありがとうございました。

投稿: 大原女 | 2007年8月17日 (金) 08時00分

 素晴らしい歌ありがとうございます

投稿: 広島健児 | 2007年8月20日 (月) 23時15分

好きだった。と言う前に好きですといってしまえば展開も
変わったかも。この時代の男はこのように皆不器用だった
のですよね。詞が言いたい事は「チャペルの鐘」に似ています。

投稿: M.U | 2008年6月 8日 (日) 09時00分

カラオケ好きの先輩が暇があるとカラオケメンバ-を募ってスナックへ行くので。。。。この歌も古かったけれど私のレパ-トリ-に入れました。
歌うと先輩が「えっ」と言う顔で
「これって。。。”番頭はんと丁稚ドン”の歌ちゃう?」と笑う有様。。。。
M.U.様。。。。男の人って今もあまり変ってないような。。。
その人によるんだろうけど。

投稿: sunday | 2008年7月20日 (日) 08時14分

2年くらい前私がこの唄を歌い終わった時、ダンスをして
くれたカップルの女性からさっきから「好きだった」とばっかり言っているが、好きな人どこかにいるのと聞かれ、言いようが有りませんでした。

投稿: M.U | 2008年9月13日 (土) 16時45分

いい歌ですね。鶴田浩二が歌うと特に男の哀愁を感じますね。彼も岸恵子との悲恋をきっと思い出しながら歌ったのではないでしょうか。「役になりきる」といわれる彼のことですから。

それにしても、中里恒子の「時雨の記」にしても、映画「マディソングンの橋」にしても、既婚者が陥ってしまった命がけの純愛は、世間からは「不倫」の一言で蔑視されるけれど、切なく美しい大人のメルヘンですね。

投稿: 吟二 | 2008年9月14日 (日) 12時16分

鶴田浩二(好きだった)山田信二(哀愁の街に霧が降る)三浦洸一(東京の人)フランク永井(有楽町で逢いましょう)松尾和子(再会)橋幸夫(江利子)吉永小百合(泥だらけの純情)三田明(美しい十代)この方々は吉田学校の門下生なので、唄は上手で、唄に歌手としての気持ちがのっていた。

投稿: 海道 | 2008年10月26日 (日) 08時26分

鶴田浩二には
「名もない男の詩」曲あるのですが
ご無理を申しますが掲載をお願い出来ませんか

投稿: 工藤 吉隆 | 2010年8月16日 (月) 04時59分

この歌は、私の初恋を失敗したときを思い出させる歌です。特に3番の馬鹿な男の強がりは、身につまされます。
結局それで5年の付き合いを別れることになり、その後歌詞通り会える明日はないということで60年が過ぎました。
年寄りの繰り言です。

投稿: 遠藤雅夫 | 2010年8月16日 (月) 07時08分

男も女も見目良く生まれた者は異性から過剰にもてちゃうんですよね。鶴田浩二、哀愁のある甘いマスク。子供心にも惹かれたものです。日経「私の履歴書」の佐久間良子さんを連想致しました。何はともあれ素晴らしい歌です。曲も歌詞も。

投稿: りんごちゃん | 2015年1月22日 (木) 20時58分

何故かこの歌をふっと口ずさんでいる自分に驚いています。鶴田浩二が好きになれなかったのであまり聴いたことがなかったのですが、いつの間にか覚えてしまっていたようです。「夢にまで見た切なさを 知っていたやら」
本当に切ないですね。「顔をそむけた 悲しみを 今も捨てずにいるくせに」あの人の悲しみを時々思い出して心の中で泣いている人がここにいることを知らせたいような気持になる晩秋の夕暮れです。「腕ずくでも取りたい」と言ってくれた人・・無言電話が掛かかってくるたびにドキッとしていました。遠い若い日の悲しみがまだ消えません。

投稿: ハコベの花 | 2017年11月17日 (金) 17時19分

ハコベの花さま 切な過ぎます。無言電話へのお気持ちは切な過ぎます。

投稿: konoha | 2017年11月17日 (金) 19時51分

konoha様 その人は夫の友人でした。20歳にもならない頃の事でした。その人を夫(まだ他人でしたが)が殴って怪我をさせたと思います。勤めていた会社も辞めたようです。本当に申し訳なくて困りました。無言電話が掛かってきたのは10年ぐらい経ってからでした。夫が電話に出た以後、掛かって来なくなりました。私の実家には来ることがあったようですが、兄は事情が分からずその人が来た時は、私に報告がありました。他にも心を寄せてくれた人が若くして亡くなったこともありました。人生はわからないものです。私が愛した人も亡くなられたと思います。再会を願って別れたのに果たせませんでした。夢はシャボン玉のようなものですね。でも生きているかぎり心の中には存在しています。青春は哀しいけれど、それ以上に美しいものだったと思います。


投稿: ハコベの花 | 2017年11月17日 (金) 21時26分

S31年当時はこのような男性が多かったのでしょうか。「胸にすがって泣きじゃくる」「肩のふるえを」こんな状態があったのならそこで抱きしめて「すきだ」と言ってしまえば「さよなら」なんて言わずに済んだと思いますが、しかし冷静さを失った自分を置いて見ると口で言うほど簡単ではないですね。恋愛の達人の皆さんどう思われますか。

投稿: 海道 | 2021年6月17日 (木) 12時17分

 青年の頃、ある大きな会社の招待旅行でかなりの数の会社が参加しました。宴会が終わってお開きになりましたが、私は一人の芸者と差しでその後も飲みました。二人でこの「好きだった」を歌いました。酒の力のせいなのでしょうか、何か恋人と歌っているような気分になったことを覚えています。私は鶴田浩二が好きでした。軍歌も好きで、特攻隊の方々の心情を思うと胸が震えます。

投稿: 吟二 | 2023年5月30日 (火) 19時32分

(文中一部敬称略)
sunday様

『番頭はんと丁稚どん』(1959~61、毎日放送・東海テレビ・NETテレビ(現・テレビ朝日)など)…私は同番組の本放送当時は生まれていませんでしたが、三宅裕司(1951~)司会の『三菱タイムトリップ・テレビ探偵団』(1986~92、TBS・CBCテレビ・毎日放送系)では主演の大村崑(岡村睦治、1931~)の回をはじめ前川清(1948~)や逸見政孝(1945~93)など本放送時に小中学生だった「団塊の世代」の芸能人がゲストの回でもその映像(大村所有の白黒キネコ版)が流れたので私もどんな番組だったのかは多少は理解できました。
オープニングでは「七ふくテレビ劇場『番頭はんと丁稚どん』、提供は七ふく製薬でございます。」の女性ナレーションとともにタイトルが表示され、画面が当時大阪・なんばの高島屋本店かつ南海難波駅(現存)の北向にあった映画館「南街劇場」(現存せず、現在は○I○I(マルイ)が建っている)のステージに切り替わると緞帳が下がったままのステージ上に崑松:大村、一松:茶川一郎(藤田昌宏、1927~2000)、小松:芦屋小雁(西部秀郎、1933~)の3人の丁稚が観衆に「おいでやす~」と挨拶しながら登場、『好きだった』の替え歌(補作詞:花登筺(川崎善之助、1928~1983))によるテーマソングを歌い出して(マヒナスターズ風に)番組が始まるという構成ですが、うろ覚えで申し訳ないですがこんな歌詞だったと思います(オリジナルの1番からの改変部のみ記載)。

好きだった→丁稚だって(3ヶ所全て)
嘘じゃなかった→夢があるんだ
あの時に→何度でも
胸にすがって→尻を叩かれ
肩のふるえを→胸の七ふく(ここで大村が懐から便秘薬「七ふく」(※)を取り出す)
※「七ふく製薬」は現在は製薬業を廃業し、「七ふく商事」に社名変更して不動産業に転業した(同類の企業にかつて自転車製造業者だった「ツノダ」がある)。なお便秘薬「七ふく」の商標権・製造権は小林製薬が引き継いだ。

提供スポンサーの製品「七ふく」を出すところなんかは、同じ大阪発コメディーの後輩格『てなもんや三度笠』(1962~68、朝日放送テレビ・CBCテレビ・TBSなど)におけるあんかけの時次郎:藤田まこと(原田眞、1933~2010)の「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」に通じるような気がします。
さて、その主演俳優である大村崑は今年11月1日で93歳の誕生日を迎え、先月行われた大相撲九州場所でも元気に観戦する姿がテレビ中継に映し出された一方で、昨年2歳年上の犬塚弘(1929~2023、享年94)が死去した際に「もう僕より年上の男優はいないんです」(女優であれば、楠トシエ(楠山敏江、1928~)が存命中で、年明けに97歳になる)と嘆いていましたが、演出する側ならどちらも100歳ちょうどで旅立った新藤兼人(1912~2012)や橋本忍(1918~2018)のように百寿を迎えた人物はいても、演者側では島田正吾(服部喜久太郎、1905~2004、享年98)や森繁久彌(1913~2009、享年96)が百寿を目前にして旅立っており、「百寿を迎えた芸能人」というのは聞いたことがありません。
大村や楠と世代的に近い喜劇俳優では渥美清(田所康雄、1928~96、享年67)、フランキー堺(堺正俊、1929~96、享年66)、初代三波伸介(澤登三郎、1930~82、享年52)、ハナ肇(野々山定夫、1930~93、享年63)、若水ヤエ子(鏑木八枝子、1927~1973、享年45)といった方々が夭逝し、またあとの時代でも江利チエミ(久保→小田→久保智恵美、1937~82、享年45)、深浦加奈子(1960~2008、享年48)、そして記憶に新しい中山美穂(中山→辻→中山美穂、1970~2024)などが若くして天に召されました。
往年の出演CMではございませんが、大村には(楠にも)天国に旅立ったかつての仲間たちの分まで「元気ハツラツ!」でいてもらいたいことを、そして島田正吾や森繁が果たせなかった「俳優としての百寿」を迎えてほしいことを願います。

投稿: Black Swan | 2024年12月15日 (日) 13時32分

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