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2007年8月30日 (木)

旅愁

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:ジョン・P・オードウェイ、日本語詞:犬童球渓

1 更け行く秋の夜 旅の空の
  わびしき思いに ひとりなやむ
  恋しやふるさと なつかし父母
  夢路にたどるは 故郷(さと)の家路
  更け行く秋の夜 旅の空の
  わびしき思いに ひとりなやむ

2 窓うつ嵐に 夢もやぶれ
  遥けき彼方に こころ迷う
  恋しやふるさと 懐かし父母(ちちはは)
  思いに浮かぶは 杜(もり)のこずえ
  窓うつ嵐に 夢もやぶれ
  遥けき彼方に 心まよう

  Dreaming of Home and Mother

1. Dreaming of home, dear old home!
    Home of my childhood and mother;
    Oft when I wake 'tis sweet to find,
    I've been dreaming of home and mother;
    Home, Dear home, childhood happy home,
    When I played with sister and with brother,
    'Twas the sweetest joy when we did roam,
    Over hill and thro' dale with mother.
    (*Chorus: )
         Dreaming of home, dear old home,
         Home of my childhood and mother;
         Oft when I wake 'tis sweet to find,
         I've been dreaming of home and mother.

2. Sleep balmy sleep, close mine eyes,
    Keep me still thinking of mother;
    Hark! 'tis her voice I seem to hear.
    Yes, I'm dreaming of home and mother.
    Angels come, soothing me to rest,
    I can feel their presence and none other;
    For they sweetly say I shall be blest;
    With bright visions of home and mother.
    (*Chorus: )

3. Childhood has come, come again,
    Sleeping I see my dear mother;
    See her loved form beside me kneel
    While I'm dreaming of home and mother.
    Mother dear, whisper to me now,
    Tell me of my sister and my brother;
    Now I feel thy hand upon my brow,
    Yes, I'm dreaming of home and mother.
    (*Chorus: )

《蛇足》 作曲のJohn P. Ordway(1824~1880)は、フォスターと同時期に活躍していた音楽家で、楽譜出版業も兼ねていました。
 “Twinkling Stars are Laughing,
Love ” “Silver Moonlight Winds” “Let Me Kiss Him for His Mother” など多くの作品を残しましたが、『旅愁』の元になった “Dreaming of Home and Mother”は、どういうわけか、アメリカではほとんど忘れられているようです。

 日本語詞を作った犬童球渓(いんどう・きゅうけい)は熊本県人吉市出身(明治12年~昭和18年)。本名は信蔵で、ペンネームの球渓は、人吉を貫流する球磨川(くまがわ)から採ったそうです(球磨川渓谷の意)

 苦学して東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)を卒業したのち、兵庫県の柏原中学に音楽教師として赴任しましたが、現地の西洋音楽排斥運動に出遭い、1年足らずで辞めて、新潟の女学校へ変わりました。
 この新潟時代に作ったのが『旅愁』と『故郷の廃家』です。『旅愁』の歌詞には、柏原中学で味わった挫折感と故郷人吉への郷愁が反映されているといわれています。

 『旅愁』は、明治40年(1907)に出版された『中等教育唱歌集』に掲載され、全国に広まりました。

(二木紘三)

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コメント

この歌と故郷の廃家をよく母と歌いました。母は、女学校のときを思い出しながら。S盤アワーという番組があって、かならず聞いておりました。電話リクエストもラジオの番組表を見ながら聞いたものです。テレビの時代になってもラジオのくせで、見るよりも耳で聞いているようです。ラジオを聞くと気持ちが落ち着き、テレビのない頃に戻れて懐かしい気がします。

投稿: 昔の少女 | 2008年6月 1日 (日) 22時33分

 小学校5年の秋に教わりました。その頃、しんしんと更けていく東北の秋の夜に、この歌の意味を考えてみたことがあります。
 『故郷を離るる歌』のあの日、『もう二度とここに住むことはないんだろうなあ』という予感と共に郷里を後にしました。以来40年余。その予感どおりずっと故郷を離れて暮らし、『旅愁』の歌詞の意味が今本当によく解ります。

投稿: 大場光太郎 | 2008年9月20日 (土) 19時49分

そうでしたか。

排斥された者の寂しさ、身の置き所がなくなった者の侘しさがこの歌詞の真実でしたか・・・。
それを知ってこの歌詞を改めて読みますと、これは身に沁みます。
人は 長い人生こういう目に一度は遭うはずです。
自分に置き換え歌ってみました。メガネが曇ります。

ただの望郷の歌にしては感傷に過ぎるかな・・・故郷が家路がそんなにも・・・とは思っていましたが。

犬童先生の故郷人吉は九州のまるで別天地のような小さな町ですが、期待され故郷を出た人には,いや誰にでも 故郷とはそうなった時は夢の中で帰れても、現実には失業食い詰めた者が帰れる所ではありません。

「犬童先生、新潟に行けてよかったですね。新潟の女学校はどうでしたか、排斥運動など無く受け入れて頂けましたか、今度はやさしい人達に会えましたか。」

投稿: 人吉の「浜っこ 」 | 2011年1月12日 (水) 12時45分

犬童さんの歌詞は大変良く、3番は無いかと思っていました。
この欄でオードウェイの曲はちゃんと有るので、勝手に3番の
歌詞を作ってみました。とても犬童さんの歌詞のようには行き
ませんがオードウェイの曲では父が登場してないのは何故でし
ょうか?

3。懐かし幼い日 夢に母の手
 やさしき想いに ひとり傷む
 恋しや我が家  懐かし兄妹(あに妹)
 夢路に辿るは 故郷(さと)の自然

投稿: 二松五男 | 2011年11月30日 (水) 18時35分

この曲は秋になると定番としてピアノで弾いています。
2番三番は歌いながら弾きます。少し、改訂します。

3。懐かし幼き日 夢に母の手
  やさしき想いに ひとり傷(いた)む
  恋しや我が家  懐かし兄妹(あにいもうと)
  夢路に辿るは 故郷(さと)の自然(しぜん)
  懐かし幼き日 夢に母の手
  やさしき想いに ひとり傷(いた)む

投稿: 二松五男 | 2011年11月30日 (水) 18時47分

 この歌を聴くと、故郷を離れて暮らしていた、37年間を思い出します。
 6歳の時から、親元を離れて、長崎の盲学校、広島、福岡、神戸の治療院と、何回か引っ越しを繰り返しました。
 特に、もっとも苦しかった、神戸にいた時の、部屋に一人で寝ていた時の事は、鮮明に思い出されます。
 CDグラフィックスの画面を見ながら、何回も繰り返し聞きました。
その度に、古里、壱岐の里山を思い出していました。
今は、故郷の壱岐に返り、治療院を営んでいますが、障害者故に受けた差別は、一生の心の傷になっていますが、今ではそれを肥やしにして、毎日がんばっています。

投稿: 殿川 | 2012年10月 9日 (火) 15時18分

 「旅愁」は中学校の時に音楽で習いました。この歌で最も強く印象に残っているのは「窓うつ嵐に 夢もやぶれ」というくだりです。中学生の頃は(あまり真面目に考えていなかったのでしょうが)、幾多の苦労の末に夢が破れ、その失意が故郷と結び付くのかと解釈していました。今歌を聴いていると、そうではなくて窓を打つ強い雨の音で目が覚めたということなのですね。夜中に目が覚めて眠れぬままに思い出すのが故郷であり、父母だと言うことなのでしょうね。12, 13才の田舎の中学生の心に「犬童球渓」という名前は印象的でしたが、人吉の出身だとは知りませんでした。ちなみに小生は70才の霧島生まれです。

投稿: 有村兼彬 | 2016年12月 9日 (金) 22時40分

「しんしんと」というくだりがありますが、あるとき一人の部員が「寒さがしんしんと」というのは実感があると言っていました。そこは寒いところだったのです。犬童球渓は人吉のかたと聞いていましたが、挫折があったのですね。人は挫折がないと成長できないのだというところは同感です。
 「球磨川下り」を体験したのは30代でした。渓流を行く船を操るのはベテラン船頭でした。いいところです。、

投稿: 今でも青春 | 2017年9月15日 (金) 17時54分

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