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2007年8月17日 (金)

寒い朝

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田 正
唄:吉永小百合・和田 弘とマヒナスターズ

1 北風吹きぬく寒い朝も
  心ひとつで暖かくなる
  清らかに咲いた可憐な花を
  緑の髪にかざして今日も ああ
  北風の中に聞こうよ 春を
  北風の中に聞こうよ 春を

2 北風吹きぬく寒い朝も
  若い小鳥は飛び立つ空へ
  幸福(しあわせ)求めて摘みゆくバラの
  さす刺(とげ)いまは忘れて強く ああ
  北風の中に待とうよ 春を
  北風の中に待とうよ 春を

3 北風吹きぬく寒い朝も
  野越え山越え 来る来る春は
  いじけていないで 手に手をとって
  望みに胸を元気に張って ああ
  北風の中に呼ぼうよ 春を
  北風の中に呼ぼうよ 春を

《蛇足》 昭和37年(1962)リリース。

 吉永小百合の歌い方は素人っぽい感じですが、無技巧な分、かえって爽やかさが伝わってきます。ひたむき・健気(けなげ) ・清潔という少女像は、昭和30年代の吉永小百合を最後に、わが国では絶滅しました。

 昭和37年(1962)12月のある日、大学から下宿へ帰る途中、「稲穂」という定食屋の前までくると、街頭スピーカーからこの歌が聞こえてきました。
 この歌を聞くといつも、そのときのピーンと張った冷たい空気の感覚が蘇ってきます。

 佐伯孝夫・吉田正のコンビは、『東京の人』(三浦洸一)、『有楽町で逢いましょう』(フランク永井)、『哀愁の街に霧が降る』(山田真二)、『グッドナイト』(松尾和子・和田弘とマヒナスターズ)、『再会』(松尾和子)、『東京ナイトクラブ』(フランク永井・松尾和子)など、多くの都会派ムード歌謡をヒットさせています。

 作曲者の吉田正自身は、2400曲に及ぶ自分の作品のなかで、あえて最も好きな曲を挙げるとすれば、この曲だといってます。理由は、彼がシベリア抑留中に味わい続けた極寒の朝と、そのなかでも失わなかったかすかな希望を思い出すからだそうです。
 もちろん、伝説のデビュー曲『異国の丘』は別です。

 上の絵は、比較的若かったころの配偶者のイメージを描いたものです。こういう時代もありました。

(二木紘三)

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コメント

いつも聞いています。
私が実家にいたときにラジオでよく流れていました。
懐かしいです

投稿: onozaki | 2007年11月18日 (日) 22時08分

~~すばらしいコーナーですね。

>上の絵は、比較的若かったころの配偶者のイメージを描いたものです。こういう時代もありました。

~~奥様の絵に込められた愛情を拝見し「こういう時代もありました」の一言で切なさにおそわれました。胸が苦しいです。

投稿: 春平太 | 2007年11月18日 (日) 22時35分

吉永小百合さんのファン(サユリスト)として、この歌は大好きです。「冬来たりなば春遠からじ」ですね。「ひたむき・健気(けなげ)・清潔という少女像は、昭和30年代の吉永小百合を最後に、わが国では絶滅しました」という二木さんのコメントには、思わず笑みがこぼれます。
“大和撫子”が絶滅したとは思いませんが(どこかに必ずいると思います)、昨今の世の中を見ていると、大和撫子は消えてしまったのかと心配になります。
そうは言っても、男らしい日本男児の益荒男(ますらお)も影をひそめたかもしれません。優しい男はずいぶん増えましたが。
つい最近、たまたまインターネットを散策していたら、吉田正氏と小百合さんがこの曲をデュエットで歌っているビデオに出会いました(NHKのBS2のようですね)。懐かしいので何度も見ました。
小百合さんは歌は決して上手とは言えないようですが、その爽やかさで正に「やまとなでしこ」といった感じでした。
昭和37年・・・我々の青春時代を思い出します。

投稿: 矢嶋武弘 | 2007年11月23日 (金) 19時41分

ひさしぶりにウクレレを持ち、今冬は「寒い朝」が弾けるようにと練習していました折、明治一代女のキーワードから貴ホームページに出会うことができました。
mp3の曲をカラオケにして、合奏できますので大変うれしくおもいます。
「稲穂」の近くに湯麺のおいしい「一楽」という店があったように記憶しています。そのころの小生は中学三年生で、北風の中を通学していた想い出はいまでも新鮮です。

投稿: 小泉 茂 | 2007年12月 9日 (日) 22時16分

二木先生のおっしゃる通り、吉永小百合は品のある美人です
よね。歌い方は素朴ですがなぜか、聞いていると引き込まれてしまいます。泥だらけの純情、伊豆の踊り子、若い二人の心斎橋皆良い歌ですよね。

投稿: M.U | 2008年5月22日 (木) 07時23分

小百合は奈良光枝の後を追っかけた、女優として、歌手として。潮騒という映画が有りましたが、この映画を無難にこなしてやっと一人前。

投稿: M.U | 2008年8月17日 (日) 07時30分

上記のコメントから、”男らしい日本男児の益荒男(ますらお)も影をひそめたかもしれません。優しい男はずいぶん増えましたが。”
 大和撫子激減はあっも、女の立ちションは聞いた事が有ませんが、住宅事情があるにしろ、座りション男が増えた話にはガッカリです。

投稿: Hikoさん | 2008年8月17日 (日) 14時43分

本当に「寒い朝」が続いています。
以前のコメントで、吉永小百合さんを「歌は決して上手とは言えないようだ」と言いましたが、それは撤回します。サユリストの一人として慙愧に堪えません。大勢のサユリストの心を傷つけたかもしれません。解説にもあるように、素人っぽくてもかえって爽やかさが伝わってくるのですから。それが彼女の持味です。
そう思ってこれからの寒い朝、できるだけこの歌を思い出し 元気と勇気をもらっていきましょう。

投稿: 矢嶋武弘 | 2009年1月 4日 (日) 17時03分

忘れられない歌。
「吉永小百合の歌い方は素人っぽい感じですが、無技巧な分、かえって爽やかさが伝わってきます」→ テレビで初めて見たときの印象がまさにこれでした。
二木さんの絵、この歌のイメージそのものです。
解説も絵もすばらしいと思います。

投稿: FT | 2009年3月 3日 (火) 00時47分

この曲を聞くたびに、広島市郊外の母親の実家とその周辺を思い出します。昭和37年当時自分は7才でTVからこの曲が流れ、またその後実家の台所に吉永小百合のポスターのような大きな写真が貼ってありました。また冬に車窓から自宅近くのある風景をみるたびに、この曲を強烈に思い出します。二木さんの絵に当時の雰囲気がつまっていると思うのは自分だけでしょうか?

投稿: 藤井貞信 | 2009年6月27日 (土) 15時20分

高校時代によく聞きました。いい歌ですね。

1962年春に始まり、64年秋公開の「愛と死をみつめて」までのわずか2年半の短い全盛期の62年4月にレコーディング。"62年6月『赤い蕾と白い花』の主題歌として作中で歌われると、じりじりと売り上げを伸ばした。"
映画とは関係なく62年9月に橋幸夫とデュエットの「いつでも夢を」が大ヒットし、レコード大賞を受賞したが、"62年に11枚、64年には9枚"、"日活を去る67年までにさらに20枚出したが、どれも当たらなかった"。"その頃日活で、歌えるスターは石原裕次郎、小林旭、吉永小百合の三人"といわれたが、"他のふたりは歌手としても永い命を保ったが、吉永小百合の場合結局、・・・・『寒い朝』と『いつでも夢を』以外は一曲も残らなかった"
という。-----関川夏央「昭和が明るかった頃」(文春文庫)より

"多少のおかしみに彩られた、可憐で健気な物語"とともに残された「サユリスト」にとっては記念すべき歌ですね。

投稿: 考古学者 | 2009年8月12日 (水) 17時42分

こんばんは♪
日々寒い朝を迎える季節になりました。

「寒い朝」、本当にいい歌ですね。
吉永さんは若い時もそうですが、数年前
の歌っていらっしゃるお姿も一層好まし
く、ついつい背筋を伸ばして聴き入って
しまいました。

話は変わりますが、上村松園の「青眉抄」
の中にこのような文章があります。

・・・私はたいてい女性の絵ばかりを描い
いる。しかし女性は美しければよいという
気持ちで描いたことはない。一点の卑俗な
ところもなく、清楚な感じのする香高い珠
玉のような絵こそ私の念願とするものであ
る。芸術をもって人を済度するくらいの自
負を画家は持つべきである。
良い人間でなければ芸術は生まれない。こ
れは絵でも文学でもその他の芸術全体に言
える言葉である・・・

吉永さんは私とは世代が少し違いますが、
あの美しさと生き方の感じ良さをずぅー
っと見つめて歩いてきたように思います。

女優として多くの人々に身をもって清く
薫り高い生き方を示すことができるって
本物の女優なんですね。
このような女優さんと共に今を生きてい
ることをとっても幸せなことなんだなぁ
と思っています。

二木様が「寒い朝」「野菊」に登場させ
ていらっしゃる奥様にも真の”聡明さ”
を感じました。


投稿: やまゆり | 2009年11月18日 (水) 18時55分

いつも二木先生のコーナーで楽しませていただいております。
私は65歳になります。高校卒業後、家業の農家を継ぎ、冬は名古屋の蒲鉾屋さんへ出稼ぎに行きました。朝3時に起きて大八車で冷蔵倉庫へ魚を持ちに行く作業は大変でした。
そんな時、決まって「寒い朝」を聴きました。春が待ちどうしくて、何回この歌に元気づけられたか知れません。
この歌を聴きますと、名古屋の頃が思い出されます。

投稿: たかねまい | 2009年12月30日 (水) 11時04分

私は大学時代に、冬の朝代田橋の下宿から歩いて登校する途中に、どこかの家からラジオで(多分)よく聞こえていたのを思い出します。以来「寒い朝」は逆境の時とかってに解釈して、私の愛唱歌となりました。

投稿: くんくん | 2010年1月 1日 (金) 19時59分

 20代前半の頃、田舎のいとこが上京した際、銀座を案内しました。デパートの松屋か松坂屋か記憶が確かではありませんが、そこで吉永小百合を見かけました。いとこと二人でエレベーターに乗っていると、清楚な美しい人が乗ってきました。あまりの美しさに呆然としてみとれ一瞬、吉永小百合とは気づきませんでした。映画やテレビでみるよりもずっ~とにきれいでした。サユリストとしては、ほんの一瞬ではありますが、同じ狭い空間で時間を共有できたことは私の人生の楽しい思い出です。
 吉永小百合の歌ではこの「寒い朝」と「愛と死のテーマ」が好きです。高校を卒業して翌年その母校の文化祭を訪れた際、「愛と死のテーマ」の曲が流れていました。まさに、ひたむき、健気、清潔な歌い方で、このときから吉永小百合が好きになりました。昭和39年の秋でした。

投稿: 荻原 敏章 | 2010年1月 2日 (土) 17時30分

吉永小百合が急に有名になったのは赤木圭一郎の助演
をやった頃ですね。私は男子高だったので学校中彼女
の噂でもちきりになったのを覚えています。・・・・
彼女を最後に我国では絶滅しました。そう思うしかあり
ませんですね。

投稿: 海道 | 2011年11月28日 (月) 19時11分

吉永小百合の影に隠れていたが松原智恵子も魅力があった女優ですね。全盛期のプロマイドの売れ行きは吉永を抜いていたとか。相手役に恵まれませんでしたが、ご良家のお嬢様のようでした。二人は同学年ですね。私は両方のファンでした。

投稿: 海道 | 2012年6月 6日 (水) 11時39分

 昭和38年春上京し市川で新聞を配りながら、よく歌っていました。江戸川?を望む公園で昼間よくぼーっとしていました。巡回婦警になんで働かないの、と行き合うた度に言われた事や、式場病院のばら苑(満開時の品種の多さと美しさとその広さには本当に驚いた)等、この歌と一体のおもいでになっています。
 
 しばらくして小百合嬢を学校で見かけるようになり、随分と小柄の人なので、驚いた記憶があります。
 それにしても彼女は、美しく歳を重ねているなぁ、と時折見かける画像や写真を見ては感心しています。
 
 お化粧に金をかければ私だってそれなりにと、天に唾する様な事をかみさんはノタマウけれど、そりゃいくらなんでもあんまりだ、と言うわけにいはいかず、内心密かにつぶやくばかり。
 
 つい最近行き逢ったこの{うた物語}のおかげで、懐かしい歌を探し出し聴いていると、その時々の諸々が思い出されてきます。

投稿: Mr.Kanagoe | 2013年3月18日 (月) 01時09分

 今からちょうど13年前(H15)、小生59歳で10月11日のこと、当時NHKで山根基世アナが担当されていた「土曜ホットタイム」というラジオ番組に、私の投稿文が多くの投稿者の中から取り上げられ、山根さんに私の拙文を読んで頂いた後、リクエスト曲-吉永小百合さんの「光る海」が全国に流された・・という経験があります。
 投稿文作成の折り、リクエスト曲は何にしようかと随分迷いましたが、どうせ放送されるはずがないので、まあ、私の好きな吉永小百合さんか、橋幸夫さんの中からと思い「泥だらけの純情」、「光る海」、「青いセータ-」、「すずらん娘」の四つに絞り、結局、明るい曲で「光る海」にしてしまい・・全国にこの歌が元気良く流れたという訳です。 今から思えば「すずらん娘」が良かったかなあと思います。一番好きな歌を選曲と言うことは出来ませんね。
 山根さんは声がとても素敵で、容姿も大変美しく、その上同郷(山口県)とあって、即フアンになりました。
 紅白の司会もされ、NHKの理事にもなられ、定年後は今も多方面でご活躍のご様子に嬉しく思っております。

投稿: 迷える古羊 | 2016年10月 5日 (水) 20時32分

「うた物語」にすっかり夢中になっています。順々にクイックしてはこの曲は知っている、これは聞いた事がないけれどいいなあと思ったりしています。「寒い朝」は北高の杜の石のベンチで仲良し4人でよく歌いました。ニセアカシアの樹々の中、昼休みの時間「雨が真珠だったら・・・」等々合唱していたのを懐かしく思い出します。すでに半世紀以上経ちますが、いまだにあだなを呼び合い交流が続いています。

投稿: konoha | 2017年1月30日 (月) 21時20分

吉永小百合が「寒い朝」で歌手ビューした、当時17才の頃の映画では、彼女のかけっこするシーンが多く見られます!
実は、映画での吉永小百合の走る姿を見ると、その走り方には独特な特徴があり、私はそれも魅力に感じていました。
この歌を主題歌とした映画「赤い蕾と白い花」でのラストシーンでは、岩淵とみこを演じている吉永小百合は、三輪重夫役の浜田光夫と二人で、堤防の土手を走って行きます。
この前作品「キューポラのある街」では、鋳物工場を舞台とした、貧しい家の娘役、石黒ジュンを演じましたが、やはりラストシーンでは「川口陸橋」を、弟タカユキ役の市川好郎と元気に走って行きます。
特に、彼女の走って行く「後姿」には、独特な特徴があり、ファンの私には、それも大きな魅力に感じてきました。
そして、私の一番好きな映画と言えば、レコード大賞を取った主題歌の「いつでも夢を」です。この映画の特に印象に残る想い出のシーンと言えば、町医者の娘で、夜学に通うピカちゃんを演じた吉永小百合が、学校の帰り道でクラスメート役の浜田光夫や松原千恵子、そして他の生徒たちが、大きな煙突のある工場のそばの暗い道を、自転車を押し「寒い朝」をみんなで明るく歌いながら、歩いて行くシーンが、いつまでも心に残っています。
「寒い朝」を聴いていると、朝は早起きして働き、夕方から夜学に通っていたその頃の自分を想い出し、そして今でもこの歌に、私は励まされています。

最近、コンビニなどで、吉永小百合主演の映画「北の桜守」のポスターをよく見かけますが、出演するキャスト名欄に、人気俳優を従えて、一段と大きな活字で載っている彼女の名前を見ると、改めて小百合さんの女優としての存在の大きさと、その凄さを感じます。

投稿: 芳勝 | 2018年3月 3日 (土) 18時07分

二木先生、ご投稿の皆様、

私の今住んでいる日立市は、作曲家・吉田正さんの生れた町です。JR常磐線の日立駅近くの丘の上に、日立市立「吉田正音楽記念館」と言う施設があります。日立市内のJR常磐線各駅(南から、大みか駅、常陸多賀駅、日立駅、小木津駅、十王駅)の発車メロディーは、上り、下り別に、吉田正作曲の「吉永小百合さん」の歌です。因みに、「寒い朝」もあります。
 私は北九州での小学生の頃、彼女の「赤胴鈴之助」の歌を聞いていました。2歳年上の方ですが、しっかりした信念をお持ちの女優さんです。全国のファンの皆さん、日立市へもお出掛け下さい。

投稿: 竹永尚義 | 2018年3月23日 (金) 18時27分

 「寒い朝」は中学校か高校の頃、聞いていました。吉永小百合さんは橋幸夫さんとデュエットで歌っていました。この歌は元気が出る歌です。自分を奮い立たせるような力があります。
 母はどうも吉永小百合さんが好きだったようで、この人の話をしていました。私はあまり関心がなく母の話をただ聞き流していました。どういうことを言いたかったのか、聞き直そうとしても他界したため、もうかないません。

投稿: 今でも青春 | 2018年3月23日 (金) 21時34分

私には、吉永小百合さんの数ある歌の中に、特に強く、心に残っている歌が、二曲あります!
その一曲目は、昭和37年、彼女のデビューシングル「寒い朝」で、私が小学2年生の時でした。
もう一曲は、昭和41年、彼女の36枚目のシングル「勇気あるもの」で、私が小学6年生の時でした。

「寒い朝」

1 北風吹きぬく 寒い朝も

  心ひとつで 暖かくなる

「勇気あるもの」

2 友とかなしみ語るとき 明日のたのしさ語るとき
  
  このくちびるに 勇気が湧いてくる 湧いてくる

強く胸を打たれた上記の歌詞は、メロディとともに、少年の頃から私の頭に叩き込まれており、これまでを通しても、何かある毎に、私は幾度となく励まされ、そして勇気も貰って来ました。

いずれも、佐伯孝夫・𠮷田正の作品ですが、私にとって、「寒い朝」と「勇気あるもの」、小百合さんが歌ったこの二曲は、今までも、これからも、変わることのない、私の心の中の名曲です。
  

投稿: 芳勝 | 2018年3月24日 (土) 01時08分

この歌が流行った頃を懐かしく想い出しています。
社会人となって三年目で、仕事と職場の雰囲気にも慣れ、少しは心に余裕が出た頃でした。
早速、ドーナツ盤を買い求めレコードプレイヤーで何回も繰り返し聴いた記憶が蘇ってきます。
今でも青春様同様に、お二人の素敵な歌声に、元気とともにやる気をもらったように思います。
もう暫くは、「寒い朝」が続くようですが、この歌に背中を押されながら、お客様のもとに「弁当・食材等」の宅配に元気を出して頑張ろうと思っています。

投稿: 一章 | 2018年3月24日 (土) 09時21分

 本欄(寒い朝)2009.8.12(水)に投稿されておられる考古学者様の文章を拝読して懐かしさを覚えました。
 今は2018年ですから投稿されて9年経つのですね・・ひょっとしたら考古学者様は小生と同い年
(1944年生)かも知れませんね。『赤い蕾と白い花』は当時小生は広島に住んでいまして、八丁堀のデパート、福屋劇場でこの映画の封切を見ました。本当に最近のことは覚えていないのに、半世紀以上前の事は昨日の事のように思い出すのはどうしてでしょうか。
 この『赤い蕾と白い花』は石坂洋次郎原作「寒い朝」を映画化したものですが、1962年の6月の公開になってしまい、もう夏なのに冬の題名ではまずいだろうと言うことで急遽映画名を「寒い朝」から「赤い蕾と白い花」に変えた・・と聞いたことがあります。日活さんも、そう気を遣わなくても《寒い朝》の方が涼しくて良かったのに・・とも思います。まあ冗談はさておき、この、《赤い蕾と白い花》というタイトルは前に季語を付ければ素敵な俳句が出来そうでいいですね。早速、一句頭に浮かんだのが、「ひめさゆり 赤い蕾と 白い花」― 吉永小百合さんのお名前も掛けてみました。姫さゆりは6月が見時のようです。
 (♬その小百合・・)は吉丸一昌の作詞で「故郷を離るる歌」の出だしですが、(早春賦—寒い朝)と接点がありそうで、これも気に入りました。でも、すべてが盗作ではまずいですよね・・・
 肝心なことを申し忘れましたが、考古学者様の仰るとおり、彼女の代表曲は「いつでも夢を」ですが、私の№2は「泥だらけの純情」№3が「光る海」№4が「寒い朝」№5が「若い東京の屋根の下」№6が「そこは青い空だった」上げると切りがありませんのでまたゆっくりと・・途中話が横にそれ失礼しました。
         2018.5.28    迷える古羊

投稿: 迷える古羊 | 2018年5月28日 (月) 00時39分

 ――追伸―― すみません。前述〔投稿: 迷える古羊 / 2018年5月28日-00時39分]でうっかり忘れ物をしました。
それは、『あすの花嫁』を№5にすることです。、『あすの花嫁』は壺井栄の原作を映画化した主題歌ですが、映画もとても面白かったですが、歌も吉永小百合さんの乙女らしい美しい歌声で心が洗われます。ぜひ、ベスト5に加えてください。     2018.5.28  迷える古羊

投稿: 迷える古羊 | 2018年5月28日 (月) 11時37分

Konoha様
 当欄「寒い朝」で小生と貴女は、投稿文が直ぐお隣同士(上から19-20番目)で既に袖すり合っていた、というのも不思議な縁ですね。

 貴女が書いておられる、うら若き頃唄っておられた♬雨が真珠だったら・・♬という歌は、よくご存知で略されたのだとは思いますが、橋幸夫さんの「雨の中の二人」ではありませんか。お任せください《橋フアン》の私は知っています。要らぬお世話ですが一番だけ正確に書いてみました。
もし違う歌ならごめんなさい。
1.雨が小粒の 真珠なら 恋はピンクの バラの花
 肩を寄せ合う 小さな傘が 若いこころを 燃えさせる
 別れたくない 二人なら 濡れてゆこうよ 何処までも・
 ・・
 恥ずかしいながら小生この《寒い朝欄》では結構書いてしまいました。貴女に読まれるのなら消してしまいたいぐらいです。

         2018.8.16 迷える古羊

投稿: 迷える古羊 | 2018年8月17日 (金) 13時31分

 迷える古羊さま
 いえいえ、どうしてどうしてです。拝読しているうちに、コーヒーの香りが漂う喫茶店で(今は外までコーヒーのいい香りが漂ってくるお店がなくなってきたような気がします。)同級生と話し込んでいるみたいです。私も19年生まれです。私こそ右手の一本打法なので、キーが押し切れず誤字脱字が散在しています。それでもいいやと開き直っています。それよりも「うた物語」で過ぎ去った遠い時間に戻れるのが嬉しいし楽しいです。

 ご指摘ありがとうございます。「寒い朝」とは別に書いたつもりでしたが、文が至らなかったのでしょう、私も今、改めて読み直してみて間違われてもしかたがないなと思いました。それでも恥をかきかき楽しんでいます。それこそ恥のかき捨てです(笑)。どうぞお付き合いください(笑)。

 「ひめさゆり 赤い蕾と白い花」吉永小百合さんに似合いますね。あの頃、男の子はサユリスト、コマキストのどちらかでしたね。懐かしいです。

投稿: konoha | 2018年8月17日 (金) 14時50分

本サイトは多彩な掲載曲と名演奏、二木先生の明快な根拠に基づいた名解説(8/14あこがれ様の投稿)、本曲の二木先生夫人のイメージ画等も醍醐味の一つです。
芳勝様は本曲が心の中の名曲だそうで(3/24投稿)、一章様は本曲ヒットが社会人三年目だったそうですが(3/24投稿)、あまりヒットしなかった?大阪ご当地ソング「若い二人の心斎橋」も茨城出身・𠮷田正の作曲です。↓
colocolococoloさん提供http://www.dailymotion.com/video/x2ijxbh
(参考)blog.livedoor.jp/yousayplanet/archives/8563451.html

投稿: 焼酎 | 2018年8月17日 (金) 21時06分

焼酎様

懐かしい動画をUPして下さり有難うございました!

少し驚いたのですが、「美しい十代」でデビューした時から大の三田明ファンだった我が家の姉が、この「若い二人の心斎橋」のレコードを持っていました。動画に出ている三田明と吉永小百合が写っているレコードジャケット写真も覚えています。
昭和39年、当時姉は毎朝4時半からの豆腐売りのアルバイトをしていましたが、その貯めたお金で小百合さんの「愛と死をみつめて」の映画に私を連れて行ってくれました。私は小学4年生でしたが、この映画を観て感動したことを憶えています。
「寒い朝」を作曲し、私の一番好きだった歌手、フランク永井の一連のヒット曲をはじめ、これまで数えきれないほどの素晴らしい曲を世に送り出した作曲家𠮷田正は偉大ですね!

投稿: 芳勝 | 2018年8月18日 (土) 00時55分

 私もサユリストでした。小百合さんに関する写真や文章、沢山集めました。歌いました。同じ世代で「吉永小百合さんのひたむき・健気(けなげ) ・清潔という少女像を持ったおさげの似合う同級生がいました。

 2016年の熊本地震で同級生の彼女の自宅が全壊し長崎県佐世保市に約1年避難しました。毎日寒い朝を迎えていたと思います。彼女は「震災で被ったピンチをどうやったらチャンスに変えられるかな」と思ったそうです。「体調を崩して動けないけど時間はある。水彩画をやってみるか。目の前の里山の緑を表現できたら嬉しいね」と描き始めました。

  続けて水彩画を描いているうち画に透明感が出るようになりました。「個展をやってみようか」と思い立ちました。家族の支えで1年後、お礼の作品展「みんな みんな ありがとう」を画家の従兄と熊本で開催しました。

  彼女の水彩画集の中に 次の文章がありました。
・・「絵を描くことを通じて、一途に道を求めている方に声をかけられました。
『アウシュビッツに行った時、案内人から聞いたよ。食べることばかり考えている人は どんどん亡くなっていった。
 絵を描いたり鳥のさえずりに 耳を傾けたり 雲の流れに心を寄せたりしている人は生き残ったんだって。その案内の人もアウシュビッツで 生き残った人だよ』

『~つらさを 心のなかに落とし込んでしまわないように~』 佐世保に来て (彼女が)一番に聞いた言葉です。
 大変な応援歌になりました。 と結んでいます。

 人生100年とも言われる時代 これから寒い朝が何度か訪れるでしょう。それらを乗り越えながら最後は「ありがとう」と感謝の言葉で人生を締めくくれたらと思います。
 
 

投稿: けん | 2018年8月18日 (土) 15時35分

「寒い朝」一番好きな歌です。吉田正先生がシベリア抑留中に頭の中に浮かんだ歌だと伺っております。
「北風吹きぬく寒い朝も心ひとつで暖かくなる」至言です。一番大切にしている詞です。

投稿: 江戸川散歩24 | 2020年6月11日 (木) 21時35分

「寒い朝」は名曲だと思います。

作曲者の吉田正自身がベストワンに挙げているとは知りませんでした。
解説で述べておられるように、吉永小百合の清楚な歌声がこの歌にピッタリだったと思います。

ところで、この歌ものがたりブログ愛好者の皆さんは、1番目の歌詞の中の次のフレーズに何か違和感を感じられないでしょうか。

  緑の髪にかざして今日も ああ

年配の方はともかく、若い方は「緑の髪なんて、アニメの世界か?」と思ってしまうのではないでしょうか。

実は私も、この点に確信がなかったのですが、一応、「緑の黒髪の略」と考えてごまかしてきました。ただ、なぜ緑なのかは、よくわかりませんでした。ところが最近、「漢文の素養 誰が日本文化を作ったのか」(加藤徹、2006年)を読んでいて、上記の疑問が氷解しました。

上記の本の第1章は「卑弥呼は漢字が書けたか」というなかなか興味深い章で、古代日本人の色彩感覚についての説明があり、大分省略して言うと、「古代日本人は、ほとんどモノクロの世界に暮らしており、カラー色の概念は中国から漢字を輸入して初めて学んだ」ようです。

つまり、「赤=明し」、「青=淡し」であり、日本の古代は色彩感覚に乏しいモノトーンの世界だったようです。この名残は現代にも存在しており、例えば今でも「真っ赤に燃えた太陽」とか、「月がとっても青いから」と歌っていますが、実際に太陽が赤いとか、月が青いとかではなく、明るいとか、淡く澄んでいるとかを表現しているに過ぎません。

そんな古代日本に中国から記録文字として漢字がもたらされると、古代人はその色彩表現の多様さに驚いたのではないでしょうか。例えば、日本語のミドリに対応する漢字は「緑」、「翠」、「碧」など何種類もあるのです。

緑は、光合成をする草木の色。碧は、宝石のような透明な色、そして翠はカワセミのような輝き光沢のある色です。ここから、「緑の髪」とは実は「翠の髪」、すなわち「ツヤのある髪」、さらに「若い乙女の艶のある黒髪」という意味へ転化していくわけです。やっと「寒い朝」の歌詞につながりました。

ちなみに、上記の本の第1章「卑弥呼は漢字を書けたか」の結論は(ネタバレになりますが)、「卑弥呼は漢字の読み書きはできなかった」です。卑弥呼に限らず、当時の日本人にとって、漢字は恐ろしい力を持ったもの(言霊)として受け取られていたようです。未開民族がカメラの写真撮影を嫌がるようなものです。

エジプトのピラミッドには 埋葬された王の名前が明瞭に残されているのに、日本の巨大古墳には埋葬者の記載が全くみられないのも、漢字という文字に対する日本人の素朴な恐怖心から来ているのではないかとのことです。何しろ、世界遺産である、あの大山古墳がいったい、どの大王の墓なのか、わからないと言うのですから残念なことです。一時、仁徳天皇陵とされていましたが、古代史学会ではほぼ完全に否定されているようです。なぜかは、ここではスペースがなく詳述できません。

「寒い朝」の歌詞の詮索から、日本古代史の謎まで脱線してしまい、申し訳ありませんでした。
ご寛容ください。


投稿: 遊心 | 2021年1月 5日 (火) 13時32分

昔、「小百合さんは、歌は上手ではない。」と私が言ったら、サユリストの兄は大変立腹した事を思い出しました。
私は、今でも、上手ではない、と思っておりますが、彼女の歌唱は好きです。
上手・下手を超えた素敵さがあるからだ、と思います。
それは、映画の中だけではない実生活の彼女の生き様から來るもの、かも知れません。
社会的な問題にも関心を持ち続けている彼女の健気でひたむきな生き様に共感します。

投稿: 白鳥 絵梨香 | 2021年1月25日 (月) 13時56分

最近同学年の吉永小百合の「この夕空の下に」と言う歌を発見して楽しんで
います。下手でも何でもいいのです。吉永小百合であれば。

投稿: 海道 | 2022年10月16日 (日) 11時30分

能登沖 大地震で苦しんでいる多くの罹災者の皆様の為に60数年前に歌われ、多くの人に勇気と元気を与えてくれた、この曲をお届けしたいものです。

投稿: いえのマル | 2024年1月11日 (木) 13時15分

迷える古羊さま
掲示板に返信しました。どうぞご覧ください。

投稿: konoha | 2024年12月28日 (土) 18時58分

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