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2007年8月10日 (金)

籠の鳥

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:千野かおる、作曲:鳥取春陽

(女)
  逢いたさ見たさに 怖さを忘れ
  暗い夜道を ただ一人

(男)
  逢いに来たのに なぜ出て逢わぬ
  僕の呼ぶ声 忘れたか

(女)
  あなたの呼ぶ声 忘れはせぬが 
  出るに出られぬ 籠の鳥

(男)
  籠の鳥でも 智恵ある鳥は 
  人目忍んで 逢いに来る

(女)
  人目忍べば 世間の人は 
  怪しい女と 指ささん

(男)
  怪しい女と 指さされても 
  誠心(まごころ) こめた仲じゃもの

(女)
  指をさされちゃ 困るよ妾(わたし) 
  だから妾(わたし)は 籠の鳥

(男)
  世間の人よ 笑わば笑え 
  共に恋した 仲じゃもの

(女)
  共に恋した 二人が仲も 
  今は逢うさえ ままならぬ

10(男)
  ままにならぬは 浮世の定め 
  無理に逢うのが 恋じゃもの

11(女)
  逢(お)うて話して 別れるときは 
  いつか涙が おちてくる

12(男)
  おちる涙は 真か嘘か 
  女心は わからない

13(男女)
  嘘に涙は 出されぬものを 
  ほんに悲しい 籠の鳥

《蛇足》 大正末期から昭和にかけて一世を風靡した大ヒット歌謡。

 作曲者は天才的演歌師と呼ばれた鳥取春陽。彼は、ヴァイオリンの弾き語りをしながら全国を回る街頭演歌師でしたが、この作品がレコード会社の目にとまり、大正11年(1922)にレコードに吹き込みました。

 歌いやすいメロディのため、すぐに多くの人びとに愛唱されるようになりましたが、とくに大正13年(1924)に大阪の映画会社・帝国キネマ演芸が悲恋物語『籠の鳥』として映画化すると、爆発的な流行となりました。
 小学生や舌のよく回らない幼児までもが歌うようになったので、歌唱禁止運動まで起こったと伝えられています。

 上の写真はその映画で主演した澤蘭子。

(二木紘三)

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コメント

私は大正11年生まれの爺です。二木先生の蛇足にあるとおり、二、三歳の頃この「籠の鳥」をよく歌っていて、母親から「子供の歌う歌じゃありません!やめなさい!」とよく叱られたことを、思い出しました。
記憶にはありませんが、母の話によると当時家の前をこの歌を歌いながら通る人があると、私が母親に向かって「なぜあの人を叱らないの?」と文句を言ったそうです。
今まで80年ほどこの歌を思い出したことは無かったのですが、4番までの歌詞は正確に覚えていました。我ながら驚きです。
これも楽しい思い出です。有難う御座いました。

投稿: K.Kondo | 2008年2月20日 (水) 01時46分

大正4年生まれの母の3回忌を今月22日に迎えます。
母を送る際葬儀屋さんに「お母様のお好きな曲を流しますが
何かご希望の曲はありますか?」と聞かれ
即思いついた曲がこの曲でした。
残念ながらその時は二番の歌詞だけしか覚えておらず
曲名を調べて頂いたのですが分らず諦めました。
母は女一人で姑に仕えながら私達子供を育ててくれましたが
何時もこの曲を鼻歌で口ずさみながら台所に立っていたので
今もその時の姿が目に浮かび母に会えた感がします。
今日こちらでこの曲に出会い歌にまつわる物語も知れ
何時も気になっていたので胸のつかえが下りた気がし喜びと感謝で一杯です。

投稿: N.Titose | 2008年11月10日 (月) 13時13分

そんなに昔に流行った歌だったとは知りませんでした。

私は、私の6歳上の兄貴が高校生の頃よく歌っていたので覚えました。私が小4くらい、昭和25年くらいだったのでしょうか。今思えば、兄貴も明治生まれの母親が歌っているのを聞いて覚えたのだと思います。

こうやって歌い継がれて行ったほど流行った歌なんですね。

投稿: 吟二 | 2009年5月30日 (土) 21時56分

 こんばんわ。
 この唄のオリジナルは-----大正11年に「歌川八重子」がオリエント・レコードに吹き込んだ------ものです。
 収録されている音源は-----日本コロムビア創立60周年記念、オリジナル盤による-明治・大正・昭和-日本流行歌の歩み--(昭和45年発売)---です。この全集(LPレコード10枚組み)は、昭和45年のレコード大賞「特別賞」に輝いています。この全集は、明治・大正時代のSP盤を、たくさん(45曲位、復刻)収録しており、貴重な音源です。

投稿: こうちゃん | 2009年11月26日 (木) 21時11分

このメロディを聞くと、ただ懐かしさだけではなく、無性に悲しくなって泣きたい心境になります。大仰に言えば、日本人の“民族的郷愁”を掻き立てられる感じなのです。歌詞もしがらみに泣く悲恋をうたっていますし、その意味で、この歌は演歌の草分けではないかと思います。ただ、ポップス調に馴染んでいる今の若者達が、わたしと同じ心境になるかどうかは、保証の限りではありませんが。
 このメロディも、歌詞も、馴染みやすく覚えやすいので、K.Kondo様のように、2,3歳の幼児にも唄われたのでしょう。わたしも正確に5番くらいまでは唄えたので、得意になって唄っていて父親にこっぴどく叱られた覚えがあります。また、わたしが生まれ育った新潟の片田舎では、この替え歌がこどもの遊びにまで取り入れられ、とくに女子が地面に棒切れで人の顔などを描くときに、多く唄われていた記憶があります。テンポもリズムも、遊びのリズムに合っていたんでしょうね。その歌詞はほとんど忘れてしまいましたが‥‥。
 二木様の解説にもあるように、当時、この歌の歌唱禁止運動までおこったそうですから、大きな社会現象にまでなったわけです。その意味で、この歌は日本の流行歌史において、特筆に価する位置を占めているように思います。

投稿: ひろし | 2009年11月29日 (日) 17時22分

以前私が勤めていた特別老人ホームでのことを思い出しました。暴力や暴力のひどい認知症のおばあさん、私が、この歌を歌えば怒っている時でも急にニコニコとして”あんたの歌へんやなでも歌詞は合ってるけど”と言いながら手拍子で歌ってくれました。リズム感があってとても上手で職員の間では大変人気がありました。職員みんなこの歌彼女の口ずさんでるのを聞きて覚えました。 懐かしい楽しかった痴呆棟での五年間。私達は残り少ない人生おんなじ一日なら少しでも多く楽しく過ごして貰おうを合言葉に介護しました。

投稿: ようちゃん | 2010年6月21日 (月) 08時34分

〝愛の灯かげ〟を聴いておりましたら、なぜか〝籠の鳥〟を思い出し、ここにきてしまいました。ひろし様のコメントにございます「民族的郷愁」の存在を僕も感じております。僕の場合ウラル地方の俗謡Страдание Stradanieスタラダーニエ(’相聞歌’)の旋律と〝籠の鳥〟のそれとが重なって聞こえるのです。ソ連邦当時、イグラーイ・ガルモーニという、主にウラル各地のボタン式アコーデオンのメロディーを探索する番組がありました。決まってその土地のスタラダーニエが奏でられました。〝籠の鳥〟は主旋律の間に挿入された、大正琴の爪弾きがいいですね。こぶしの多用ににより、俗っぽく、抑制されてはいるが、生々しい情念を掻きたてるように感じられます。ウラルの相聞歌の方は、風琴の揺曳する音色で、洗練された哀愁というか郷愁を感じさせます。イグラーイのアルヒ―ヴをyoutubeで探しましたが、似たもの―Частушки Chastushki―はあっても、あれほど感動させたものはついに発見できませんでした。

投稿: イサコフスキー | 2011年6月14日 (火) 18時55分

老人ホームで働いている者です。
今年100才になるおばあさんがいつも口ずさんでいますその方が11才頃の流行歌ですね
その方は認知症が進んでいて会話の受け答えがままならないのですが、その歌だけは歌える、と言ったら失礼ですが、いくつになっても忘れないほど記憶に深く刻まれている名歌だと知り感銘を受けました

投稿: かず | 2011年12月17日 (土) 01時03分

1番「逢いたさ見たさに 怖さを忘れ 暗い夜道を ただ一人」は女性が女性言葉で男性の心境を歌っているような気がします?。一方(愛の灯かげ)の3番も「主ある君は 垣根の花よ」と女性が男性の心境を歌っていると思えば自然ですね。曲解でしょうか?。

投稿: 海道 | 2011年12月27日 (火) 15時31分

昔、小学校のころによんだ日本史の副読本にこの曲の歌詞が掲載されていました。その中に、「籠の鳥より監獄よりも、寄宿舎暮らしはなおつらい。こんな会社へ来るのじゃないが、知らぬ募集人にだまされて。」というのがありました。その本にはこの歌は、口減らしのためにつらい労働を強いられた女性を歌ったものだというような記載があったように記憶します。本当にそうなのかどうか、この歌詞があとでつけられたものなのか、つまりいわゆる替え歌だったのか、今となってはわかりませんが。。。。

投稿: ひろ | 2012年3月30日 (金) 19時30分

明治生まれの母が、昭和二十五・六年頃、意味も分からない小学生の私に歌ってくれていました。今考えれば、母子家庭で母と二人だけの生活に、何かと寂しい思いをしていたのでしょう。暗い裸電球の下で、割り箸の袋貼りの内職をしている後姿が浮かんできます。悲しく・虚しい歌です。

投稿: 赤城山 | 2013年4月27日 (土) 11時29分

 何人かの方が認知症関係の施設のことを書かれています。私もときどき母がお世話になっているホームに行きますが、そこで、知らない方ですがよくテーブルについて歌っておられます。スタッフの方が「今日もじょうずだね」とおっしゃいます。
 目を閉じたままで、うれしそうにしておられるのです。きっとこの歌も心に残っていると思います。
母は大正8年生まれです。その方はわかりません。

投稿: 今でも青春 | 2014年7月10日 (木) 11時07分

昨年96歳で亡くなった母が口ずさんでいたのを思い出し、法要の挨拶の参考にと思いアクセスしました。この歌にはいろいろな人のそれぞれの思いがコメントされており、興味深く拝見しました。その後母は戦争未亡人となり、婚家を出て二人の子供を抱えての生活は歌どころではなかったのでしょう口ずさむことはありませんでした。生活に追われ、働き続けだった母にも、流行(はやり)歌を楽しんだときもあったのだと、心が一瞬でしたが安らぎました。  法事では戦争についての母の心境を詞にして、お客様にできたらと考えています。        えんちゃん。

投稿: 遠藤秀夫 | 2014年7月11日 (金) 10時18分

今夜は冷たい風が吹いています。こんな夜に窓の外からこの歌の口笛が聴こえてきたらうっとりするでしょうね。
残念ながら私の世代ではこの歌を知ってはいても歌った人は少ないでしょう。究極の恋の歌の様に思われます。携帯やスマホの時代ではこの切なさはわからないでしょうね。会いたくても会えないロマン、若い人に切ないロマンを味わって、大人になって貰いたいと思うのですが、現代の文明は人間の究極のロマンを奪ってしまっているのではないかと思います。どこかからこの歌の口笛が聴こえてこないかなあ・・・

投稿: ハコベの花 | 2017年2月 7日 (火) 22時55分

 高校時代、「倫理社会」という教科があり、その
授業で『葛藤』という言葉の説明ということで、教科担任の先生がこの「籠の鳥」を唄ってくれました。 まさか旧い流行歌を教室で授業時間に……と私は少々驚きました。何しろその先生は『生活指導』の先生でもありましたので…。40代の男性教師で、一寸怖がられていた先生でした。 粋なところも有ったんだなぁ…と今となっては懐かしい思い出となりましたね。
 兵隊に行った経験があったような…。

投稿: かせい | 2017年2月 8日 (水) 01時33分

私は老人介護の仕事をしています。ご利用者のお一人が元刑事で、生れが千葉の繁華街の燃料屋で、近くにカフェーがありメロディーと一部の歌詞を幼少期に聞いて覚えているという大正10年生れのお爺ちゃんがいました。私が歌詞を覚えて一緒に唄ったら、本当にうれしそうな笑顔を浮かべていました。そして気難しい計算高いじいさんでしたが、私の言葉には素直に従ってくれるようになりました。

投稿: 北狐のみっちゃん | 2017年9月 1日 (金) 07時22分

正にこの場は人生劇場ですね。
皆様のコメントを読み返しては感慨にふけっています。
謹厳な ひろし様まで幼少のころに口ずさみ母親に叱られたというのも面白く感じました。
村一番の鬼姑(寡婦であった)に仕え、マザコンの夫には庇って貰えず、老いては息子夫婦に遠慮。小さく小さく生きた母の慰めは歌謡曲でした。きれいな声で父のいない時に(姑  つまり祖母は私の生まれる6年前に他界)口ずさんだ歌に「籠の鳥」がありました。幼い私も覚える程に歌ったものです。
生きていれば109歳です。
その母の人生に比べれば有り余るほど幸せです。
カタカナしか書けず、新聞も読まない母を恥じていた私でした。あの母の半分の忍耐力もない自分を今恥じています。

投稿: りんご | 2018年8月31日 (金) 14時50分

「籠の鳥」この唄は幼い頃に母がよく歌っていた唄なので、幼かった私もこのメロディと、この歌詞の4番まではハッキリと、いつのまにか自然に憶えていました!

しかし、「籠の鳥」のレコードを吹き込んだ年、大正11年と言えば、私の母が生まれた年で、こんなにも古い唄というのには驚きました。
2009年11月29日ご投稿、ひろし様のコメントにもありますが、私が育った佐賀の田舎でも、「籠の鳥」の替え歌を使って姉たちが友達と一緒に、地面に絵を書いて遊んでいたことを、わずかながら憶えています。

幼かった私は歌詞の意味など気にせずに歌っていましたが、この唄の持つ、もの悲しく切なそうなメロディには、何となく惹かれるものがあったようなそんな気がします。
そして現在「籠の鳥」この唄を改めて聴いていると、ここで初めて知った5番から13番までのこの歌詞の持つ意味も良さも、メロディとともに心に沁みてくるものがあり、この唄は秀作だと実感できる自分がいます。

映画が爆発的に流行っていた大正時代その当時なら、蛇足>小学生や舌の回らない幼児までもが歌うようになったので、歌唱禁止運動まで起こったと伝えられています!、という意味も理解できるような気がします。

投稿: 芳勝 | 2018年8月31日 (金) 18時47分

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