坊がつる讃歌
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:神尾明正、補作:松本征夫、
作曲:竹山仙史、唄:芹洋子
1 人みな花に酔うときも 2 ミヤマキリシマ咲き誇り 3 四面山なる坊がつる 4 出湯(いでゆ)の窓に夜霧来て 5 石楠花(しゃくなげ)谷の三俣(みまた)山 6 深山(みやま)紅葉に初時雨 7 町の乙女等思いつつ 8 白銀(しろがね)の峰思いつつ 9 三俣の尾根に霧飛びて |
《蛇足》 「坊がつる」は、大分県の竹田市久住町にあり、大船山・中岳・平治岳・三俣山・白口岳などの九重連山に囲まれた、標高1300m前後の小盆地です。
かつては天台宗の霊場で、本坊弘蔵坊があったところから、「坊がつる」と呼ばれるようになりました。「つる」は、水流のある平坦地をさすそうです。
以下の解題は、川原弘さん、および坊がつるにある法華院温泉山荘の主人・弘蔵岳久さんからの情報に基づいて構成したものです。
昭和27年(1952)8月、九州大学の学生だった松本征夫、梅木秀徳、草野一人の3人は、坊がつるの一隅にある「しんつくし山岳会」所有の山小屋「あせび小屋」の小屋番を頼まれて滞在していました。
悪天候が続いて宿泊者も訪れず、退屈だったため、3人は、山の名前を組み込んだ替え歌を作ることにしました。そのうちのいくつかは、当時流行していたヤットン節の替え歌で、そのほかに9連からなる『坊がつる讃歌』も作りました。
『坊がつる讃歌』は、梅木秀徳が葱花(ぎぼう)勲から教わった広島高等師範学校(現在の広島大学)山岳部の部歌がもとになっていました。
葱花は、昭和14年(1939)広島高師入学で、山岳部の部歌は翌年の8月に『山岳部第一歌・山男』として発表されていました。
葱花と梅木との関係が不明でしたが、かずあきさんからの情報により、梅木秀徳は葱花勲が高校の教員として初めて赴任した大分県立日田高等学校の生徒だったということがわかりました(下記コメント参照)。
3人が作った替え歌は、同年12月発行のしんつくし山岳会会報に発表され、翌年には『山と渓谷』誌上でも紹介されました。ヤットン節の替え歌は、『山行ヤットン節』として会員の間で歌われましたが、『坊がつる讃歌』は、メロディがわからなかったため、歌われることはありませんでした。
昭和29年(1954)になって、しんつくし山岳会会員の野田広一郎が『坊がつる讃歌』の本歌を捜し当て、譜面とともに発表しました。この歌は、九州の山男や山女たちの間に瞬く間に広まりましたが、全国に知られることはありませんでした。
昭和52年(1977)夏、阿蘇山麓で野外コンサートが開かれ、歌手の芹洋子も参加しました。
夜、芹のテントにギターを持った若者たちが遊びにきて、『坊がつる讃歌』を歌い、コンサートで歌ってみたらと勧めました。そのときの譜面には、作詞:松本征夫、梅木秀徳、草野一人の名だけが記され、作曲者は不明になっていたそうです。
芹はこの歌が非常に気に入ったことから、同年、NHK「みんなの歌」として放送されて、大ヒットしました。「みんなの歌」では、歌詞の一部を一般向きに変え、4番までの歌として放送されました。
これがきっかけとなって、本歌の作詞・作曲者捜しが行われました。広島大学に残されていた資料では「作詞:神尾明生、作曲:竹山仙史、編曲:芦立寛」の名前が記載されていました。
しかし、原爆で古い資料が焼失していたため、それ以上のことはわかりませんでした。
昭和53年、本歌について調べていた栃木県の杉山浩という人が、昭和15年(1940)ごろ、広島高師の地質鉱物学研究室の助手補に「神尾(かんお)」という人物がいたことを偶然知りました。
調べたところ、それは千葉大学名誉教授(調査当時)の神尾明正で、彼が作詞者の「神尾明生」であることが明らかになったのです。
神尾は、大山(だいせん)あたりの四季をイメージし、『もしもしカメよ』や『荒城の月』でも歌えるように作詞した記憶がある、と語っています。しかし、彼は、だれが作曲者なのかは知りませんでした。(昭和53年7月9日付、読売新聞)
その2か月後、宇都宮大学名誉教授(判明当時)武山信治が作曲者だとわかりました。「竹山仙史」は武山信治の書道の雅号で、このとき1回だけのペンネームだったそうです。
昭和15年の6月ごろ、武山は義弟(妻の弟)の芦立寛から、いい詞があるからメロディーをつけてほしいという手紙をもらい、一晩で作ったと語っています。芦立がそれを編曲して、山岳部の部歌を作り上げたわけです。
日本音楽著作権協会のデータベースで、補作者として松本征夫だけが登録されているいきさつについてはわかりません。
YouTube=https://youtu.be/eyqmwbZxKkU
(二木紘三)
« フランシーヌの場合 | トップページ | 地上の星 »
コメント
いつも 感服しております。
この歌は
大好きな歌の一つです
(少し言葉に ナルシズムが感じられますが)
芹洋子さん 最近 見ません
お元気でしょうか?
投稿: 二宮 博 | 2007年8月22日 (水) 02時16分
この歌、芹洋子さんが歌ってからとても知りました。
とても、いい歌で良く歌っていました~~
ムービにして、歌をムービしして残させていただきました!
投稿: もりやす | 2008年7月 5日 (土) 16時42分
早世した山登りの好きな友がこの歌を教えてくれました。その頃は精力的にネパ-ルまで行って山に登っていました。
二木先生の曲でなら歌いやすそうですが…多くのカラオケではこの曲は歌いにくい伴奏だけになっています。
投稿: sunday | 2008年7月 7日 (月) 06時42分
大好きでよく歌っていました。が、9番まであったのを知りませんでした。いつも教えていただいています。
ダークダックスの歌う「山男の歌」、「雪山賛歌」も大好きです。
近くの山にしか登ったことはありませんが、足を止め振り返ったときに、汗ばんだ肌に爽やかな風が心地よかったことを思い出します。
投稿: 高木ひろ子 | 2008年7月 8日 (火) 19時37分
私は九重には毎年行っていますが、最近出来た九重”夢”大吊橋のすぐ近くに、「山里の湯」と言う温泉場が有ります。(オ-ナ-は元「すがもり小屋」の経営者の奥様)
そこに暖簾が掛けてあります。かっての「すがもり小屋」のお土産だったらしく、「坊がつる賛歌」の歌詞が染めこまれています。
芹洋子の唄ったそれとは、少し歌詞が違っていますが、私が若い頃には、この暖簾の歌詞を歌っていたものです。
参考に暖簾の歌詞の写しを紹介します。
1.人皆花に酔う時も 残雪恋し山に入り
涙を流す山男 雪解の水に春を知る
2.石楠花谷の三俣山 花を散らしつ藪分けて
湯沢に下る山男 メランコリ-を知るや君
3.ミヤマキリシマ咲き誇る 山はピンクに大船の
段原さまよう山男 花の情も知るものぞ
4.四面山なる坊ケツル 夏はキャンプの火を囲み
夜空を仰ぐ山男 無我を悟るはこの時ぞ
5.深山紅葉に初時雨 暮雨滝の水音を
佇み聞くは山男 もののあわれを知る頃ぞ
6.7.8.9.は省略します。
投稿: Hikoさん | 2008年7月29日 (火) 18時35分
とても好きな歌です。
この山は、若いときに随分と登りました。
勝手ながらリンクさせていただきました。
投稿: 香知柊桜 | 2009年9月 2日 (水) 11時37分
こんばんは♪
私は山歩きをこよなく愛する者で、この歌は
涙が出るほど好きな曲です。
「山」の良さを、そして山を愛する者の心情
を曲想・歌詞から共に表現されているように
感じます。
カラオケでは「希望」と共に必ずこの歌を歌
います。
いくつになっても夢や希望をもって生きてい
きたい!そう思わせてくれる歌です。
投稿: やまゆり | 2009年9月 2日 (水) 21時37分
名前だけは聞いたことがありますが、どんな歌か知りませんでした。久しぶりに寮歌風の懐かしいメロディーと詞ですね。大好きになりました。
このサイトでよく覚えて、カラオケで歌って見たいと思います。有難うございました。
投稿: 吟二 | 2009年9月 2日 (水) 22時18分
わたしが初めてこの歌を知ったのは、かれこれ40年以上も前のことです。したがって、芹洋子さんの『坊がつる讃歌』が唄われる前になります。当時はカラオケなどない時代ですから、行きつけの飲み屋で、突然僚友のS君が酔いにまかせて唄いだしたのです。美声の持ち主でもないかれが切々と唄うこのメロディに、思わず惹きこまれてしまいました。わたしもS君も、旧制高校の寮歌などに言い知れぬ懐旧の情を抱いていた世代ですから、この歌の歌詞やメロディが心の琴線に触れたのでしょう。S君はこの歌を広島高師出身の先輩から教わり、そのときは「広島高師山岳部の歌」と言われたそうです。
後年、芹洋子さんの『坊がつる讃歌』がリリースされたとき、世の中には似た歌があるものだな、と思いましたが、二木様の解説で、この歌の由来を知ることができました。ただ、わたしがS君から教わったメロディも、歌詞も、何か所か異なっているのですが、それはかれが酔っていたためだったのか、あるいは広島高師出身の先輩が間違って教えてくれたためなのか、今では確かめようがありません。S君は働き盛りの50歳代前半に、この世を去っているのですから。
投稿: ひろし | 2009年9月 3日 (木) 16時27分
小さな情報提供です。「葱花(ぎぼう)と梅木の関係は不明です。」とありますが、FM大分の社長をされていた梅木秀徳氏は、葱花勲が高校の教員として初めて赴任した大分県立日田高等学校の時の生徒さんです。当時は若い先生であり、生徒達とよく山登りをしていたようです。
投稿: かずあき | 2010年3月 1日 (月) 16時37分
45年ほど前のことです。
しんつくし山岳会に所属して、この歌の拠り所となった「あせびび小屋」に屯していました。
小屋の露天風呂から眺める大船山は、いつも季節の色を映していました。
春の新緑、初夏のミヤマキリシマ、秋の紅葉、冬の雪景色・・・
小屋の改増築のため、諏峨守越を下った所より50kgの建築資材を何度もボッカさせられた青春の日々が、つい昨日のように思い起こされます。
3年前、数十年ぶりにこのあせび小屋を訪ねてみましたが、昔の面影は無くなって、さびしい思いをして帰りました。
そう言えば、現在歌われているぼうがつる賛歌の歌詞も変わってしまいました。
メロディも一部変わりましたね。
投稿: コーデリア | 2010年3月 1日 (月) 21時42分
かずあき様
貴重な情報をありがとうございました。さっそく付け加えました。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2010年3月 1日 (月) 22時01分
二木先生の「蛇足」末尾に、「日本音楽著作権協会のデータベースで、補作者として松本征夫だけが登録されているいきさつについてはわかりません。」と記しておられます。このメロディーは私が大学(旧広島文理大)に入学した当初、佐賀県人会の席で先輩たちが唱和していたのを耳にした記憶があります。この歌に再会?したのは、2010年の始めのころ大分県に因んだ歌としてNHKラジオイベントカーの巡回放送からながれていたのを耳にしたときでした。熊本に在住の同級生に「広島高等師範云々・・・」の二木先生のHP情報を知らせたところ、松本征夫氏の実兄で熊本大学の地学の松本教授と面識(約30年前ごろ)があったとしらせてきました。松本教授はそのとき、弟の松本征夫(当時、山口大学教授)が作ったと仰っておられたそうです。同級生の記憶からの情報ですが、何かのためになればと思い投稿しました。
投稿: 亜浪沙(山口) | 2012年10月27日 (土) 15時05分
四十数年前、若かりし頃、四季折々に九重におとづれていました。現在では老いて昔の思い出にふける日々です。そのさい求めたCDをなくして、さびしい思いをしていました。ふとしたことから、本サイトにたどりつき、おおよそのことは知っていましたが、詳しい故事来歴は知りませんでした。法華院や坊がづるの詳しい歴史にも触れて癒されています。ありがとうございます。感謝、感謝です。
投稿: nobusan | 2013年6月 8日 (土) 12時04分
45年ほど前、「坊がつる賛歌」と同メロディの「なため」という歌を知りました。「青春のうたごえ」(矢沢保編)の中の一曲だったと思います。てっきり「なため」が「坊がつる賛歌」の元歌と思っていましたが、「なため」が替え歌だったんでしょうか。「青春のうたごえ」は故郷を出るとき後輩に譲ってしまったため手元になく、確認することができず、残念です。
投稿: 烏 | 2013年11月 1日 (金) 18時19分
小生は山が好きでこのメロディーを聞くたびに何か心の琴線に沁みるものがあります。75歳で北鎌尾根を単独縦走して山人生を終りにしました。座右の銘ならぬ座右のメロディーです。ですから日の3度、今はブログに頂き友して癒されております。我が逝く時の別送の曲にきめました。もう何百回クリックしたことか、今日もくりっく、明日もクリック、ですね。有難う御座います。
投稿: 権兵衛 | 2014年3月22日 (土) 17時10分
権兵衛さま
75歳で北鎌尾根を単独縦走とは、立派なものです。
私は定年60歳で山は自粛しましたが、未練はあります。
登った山の、ワンカットシーンが次々目に浮かびます。
家族が心配するのであきらめるという部分もあります。
本人が行きたいのに、家族が心配してとめるとなると、こっそり出かけるということになる。
昔、大台ケ原(奈良)で遭難した人がいて、家族に内緒で登った商家のご隠居さんで、神戸の人だった、
家族も行方を全く知らなかったので、捜索がずいぶん遅れたそうです。
見つかった時は、しゃれこうべ状態になっていた。
「さすが神戸の人だ。しゃれこうべで戻ってきた」と・・
山小屋の人から聞いた実話です。笑うに笑えない話でした。
投稿: 越村 南 | 2014年3月22日 (土) 22時57分
ハノイにお住まいの
越村 南様
異国の地で枕を濡らすことも在ろうかと。
二木先生の、うた物語は慰めと勇気を
与えてくれますね~ほんとに!
あとは日頃のご健康を祈るのみです。
有難う御座います。
投稿: 権兵衛 | 2014年7月16日 (水) 10時24分
権兵衛さま
枕を濡らすとは、今やおそろしいほどの古典的表現ですね。ありがとうございます。
今、ハノイ(ノイバイ空港)ー大阪(関西空港)間を約5時間で飛んでいきますから、望郷の念やみがたしということもありません。(笑)
阿部仲麻呂は、かつてベトナムの総督をつとめたこともありますが、彼の歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる・・」も、今は昔の感慨であります。
クリックしましたら、北鎌尾根の朝の風景、じつに美しい。ご高齢で登山して、自ら撮影したとか。お宝映像ですね。
北鎌尾根といえば、加藤文太郎の遭難したところですね。「孤高の人」を読んだ時、なんとも無念な気持ちになりました。こんな生き方をしてみたいなという意味で、影響を受けた人物です。
この『坊がつる讃歌』のメロディ、しんみりと心に響き、全ての山にぴたっとくるように思います。
投稿: 越村 南 | 2014年7月16日 (水) 19時28分
この曲、いつ聴いても心が和みます。20数年前までは良く山に登ったものです。特に懐かしく想い出されるのは、九重連山の「坊がつる」近くの山小屋で、この曲を「ハーモニカ」で吹いた時です。近くで聴かれていた若いカップルからリクエストを受け、暫くの間時を忘れて吹いた記憶があります。
投稿: あきら | 2015年1月29日 (木) 15時07分
NHK第二放送は【坊がつる】を5分間番組「音の風景」でこのところ何回かながしてくれます。風の音、せせらぎの音、鳥たちのさえずりに冒頭の写真を彷彿とさせるナレーションが耳に心地よく入ってきます。・・・坊がつるは標高1200メートルの湿原。2時間ほど登ってくると山々に囲まれた窪地が眼前に。遊歩道をたどるとさまざまな生き物に出会う。かま蛙(?)の泣き声。ぐぁーぐぁー・・。午後の冷たい風が吹き抜け、鳥たちの声。湿原に降り注ぐ春の雨。風雨強くなり嵐の夜となる・・・。♪ホーホケキョ♪翌朝5時空が明るくなるとホージロ、イカル(?)なども、せせらぎの音と共演。これから秋にかけて多くの登山者が。豊かな自然と多くの生き物たちが人々の心を癒す・・・。ラジオから聞きとどけたナレーションをそのまま記しました。足腰を鍛えなおして一度は行ってみたい憧れの山地です。(?)はよく聞き取れなかったものです。
投稿: 亜浪沙(山口) | 2015年5月 9日 (土) 17時22分
定年になり時間が出来た今、久しぶりにテレビで芹洋子さんのこの歌を聞き、若き日を思い出しています。あらためていい歌だと感心しています。
どのようにしてできたのかを知りたいとき、二木さんのページを発見し、良く調べられるものだと感服しながらありがたく拝見しております。ありがとうございました。
坊ガツルには行ったことがないので、ぜひ行ってみたいと思うこのごろです。
投稿: 川人 道善 | 2015年5月15日 (金) 08時36分
この「坊がつる讃歌」のメロディーを聞きながら今は「涙を流す山男」とは言えない歳になってしまった。
そこで此の部分を「涙を流す中高年」だと勝手に思(笑)。此の歌詞の様に山に入りて涙を流すとは可笑しな事だ。
昭和一桁の山を越えて世に出て馬車馬の如く過ぎて終た。還暦過ぎてからも2,3年会社に居座った。窓際族、そんな言葉が生まれた。そんな風潮から逃れたが何もなす術もなかった。近所の田んぼ道を歩くとふらついた。足腰はかなり弱っていた。引っ越しの時代でもあった。幸いにして山塊の麓に棲み着いたので徹底的に足越を鍛えた、最初は頂上まで喘ぎながら4時間は有に掛ったが、お百度参りするうちに2時間で登り切ることが出来た。歳をとっても足腰を鍛えることが出来るとおもった。山人生の始まりである。66才の頃で、早月尾根、槍穂高縦走も難なくできた、そして75才で北鎌尾根に挑戦した。中高年の単独行は世間から揶揄されるが、これこそが中高年者の生甲斐だと思う。乾き張った涙腺は、その偉大さと果てしない空間の中で被写体に対峙するとき、止めども無く、自然に涙がながれる。人生逆も真なりか。
涙を流すほどのメロディー、音楽、感動、これも又同じあろうか。有難うございました。
投稿: 権兵衛 | 2015年9月29日 (火) 09時43分
立て続けての投稿をお許しください。
昨日、今年度最後の2泊三日の六甲山荘管理人の仕事を終え下山してきました。あいにく山頂は雨でしたが、いつも雨上がりの朝は見事な雲海で山荘のテラスからの眺めは絶品です。
私は登山の経験はありませんが、山は大好きで信州に入れ込んでいた10数年前までは、車で山道を走り回り、ミノルタアルファ7000で山の写真を撮りまくりました。山の歌は どれも好きですが、芹洋子さんのCDで覚えたこの歌が、広島高等師範学校の西洋史の教授で若干42才の若さで原爆死した私の親父の山岳部の歌だということを知ってからは、事あるごとに歌いました。
今頃になって、若いうちからもっと足腰を鍛えておけばよかったのに・・・と、山男達を羨望の眼差しでみています。
投稿: あこがれ | 2016年11月21日 (月) 21時28分
古い話ですが五十数年前の高校生時代登山部でした(学校の規約で山岳部の呼称は許されませんでした)、山でテントを張り、自炊で食べたカレーライスの味が今も忘れられません。
夕食後仲間たちとよくこの歌を歌いました、今でもこの歌を聴くと多感な時代を思い出しウルウルします。
心臓に疾患があり十数年前より登山は自主退学をしましたが、苦しみながら登った後の頂上から眺める景色の爽快感は今も記憶に残っています。
あこがれ様
お父上が広島高師の教授をされていたとか、原爆で若くして亡くなられたのは本当に残念でした、あこがれ様が何歳のときか解りませんが、小生(昭和19年生まれ)とほぼ同年代だと推察いたします、小生も幼くして父を失い母一人の手で育ちました、同じ境遇だったような気がして共感を覚えます。
小生の大好きなこの歌を、コーラスグループ「フォレスタ」が歌っています↓ よろしければご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=2h_sg9y5gDw
投稿: nonnta | 2016年11月22日 (火) 17時25分
nonnta さま
ありがとうございます。
広島に原爆が投下されたのは、私が満6才の誕生日を迎える一ヶ月前のことでした。当時私と妹二人は、母方の祖母の田舎(山口県玖珂郡南河内村)に疎開しておりましたが、原爆投下の数日前に父が尋ねて来てくれ、一緒に川遊びに連れて行ってもらった記憶がかすかに残っています。
今年の4月に姉の葬儀に帰広した折に偶然にも父が疎開先の母に宛てた最後の手紙が見つかりました。B5版くらいの父親の名前入りの専用の原稿用紙(一舛5mm程度)20枚にびっしりと書かれていた生まれて初めて見る父の肉筆に接し、涙に咽びながらよみました。
山口県の田舎からの帰途、乗り物も途絶えて約40kmも歩かされたことや、私達幼い子供の食料のことを心配して広島に帰ってからすぐ調達して送ってくれたことや優しく生真面目な父の姿が偲ばれるものでした。
戦後の母親の苦労は、ここで語りきれるようなものではありませんが、nonntaさまと同じような母子家庭で育った境遇の方達には言わずともお判り頂けると想います。
はこべの花さまも仰っておられたように、“当時の日本人のすべてが貧しかった”そんな時代をnonntaさまも殆どの同年輩の方々も味わってきた…それだけに二木先生の素晴らしい「蛇足」と「演奏」に感動し涙するのでしょうね。 大勢の方々と接することができて感謝しています。 ありがとうございました。
投稿: あこがれ | 2016年11月22日 (火) 21時08分
私は山口県出身で昭和19年生まれです。前記のnonntaさん(失礼ですが貴兄は山口県のご出身ではとご推察いたします。と申しますのも、ご存じの通り「ノンタ」とは、「のう、あなた」と相手に同意を求めたり、念を押すときに使う山口県の方言だからです。間違っていたらすみません。)並びに、広島の高校を卒業しましたので、広島ご出身の あこがれさんにも何か親しみが涌きます。あの頃の広島で初めて「原爆を許すまじ」を知り-覚えましたが、隣の県に住んでいて原爆について何も知らなかった自分が恥ずかしい高校生活でした。広島復興に命をかけられた浜井信三広島市長様、田淵実夫広島市立浅野図書館長様ごめんなさい。田淵先生には特にお世話になり有難うございました。 さて、『坊がつる賛歌』ですが、福岡勤務時代の57歳の時、山登りの苦手な私に、久住山に登らないかと先輩から誘いが掛かり、芹洋子さんのこの美しいメロデイと深山霧島(ミヤマキリシマ)にひかれてOKを出してしまいました。もう、かなり昔のことで、しかもついて行くのがやっとの登山でしたのであまりコースなど覚えていませんが、『長者原登山口』から入山したこと、『法華院温泉山荘』で一泊したこと、ここが『坊がつる』かと感動したこと、『ミヤマキリシマ』は少し早かったこと、大船山など九重連山の三つ四つの山をヒイヒイ!!ゼイゼイ!!言いながら縦走したこと等を思い出します。(迷える古羊)
投稿: 迷える古羊 | 2017年2月17日 (金) 13時37分
二木先生の解説をまとめるまでのご苦労を偲んで
頭の下がる思いです。
先生の演奏が胸に切々と迫ります。
「人みな花に酔うときも
残雪恋し山に入り
涙を流す山男
雪解(ゆきげ)の水に春を知る」
心洗われる歌詞です。
昭和36~38年。当時高校の山岳部に入部できるのは
選ばれた生徒だけでした。経済的に恵まれた家庭の子女のみが、装備の負担金を調達できたからです。(親の金)
私は 進学できただけでも 御の字
山岳部は夢にも見てはいけない存在でした。
ついでに冬期間 校舎裏でのスキーの授業がありました。
勿論 親にねだることはかなわず 寂しい見学者の一人でした。長じて娘二人は スキー教室に入れ
蔵王のゲレンデの全てを制覇~といっても国体コースや上級者コースは迂回。夫と活発な長女は全山を制覇
夢をあきらめずいるといつか叶うものですね。
世界に誇るパウダースノー 樹氷原を駆け抜けた爽快さが心の財産になっています。
夏山登山の経験者も同じ思いと思っております。
あこがれ様
ご心配に感謝いたします。
当方、雪国なれば雪との格闘が日課となっております。
例年よりは少ないながらも 降れば何度も外に出ての作業です。これからは三寒四温、「早春賦」さながらの日々となります。
投稿: りんご | 2017年2月17日 (金) 14時16分
りんご 様
お元気そうでなによりです。
雪かき大変でしょうが、頑張ってください。
投稿: あこがれ | 2017年2月17日 (金) 15時49分
迷える古羊 様
初めまして、nonnta と申します。
「ノンタ」が山口県の方言だとは初めて知りました、小生は神戸生まれで生後すぐ母の里である愛媛県に疎開しそこで育ちました、山口、広島の方とは、瀬戸内海を挟んでお向かいどうしと言う事で大変親しみを感じます。
nonntaの謂れは、娘が飼っていた猫の名前なんです(3年前17歳で亡くなりましたが)、娘がnonnta を置いて嫁ぎ、我々夫婦が面倒を見る羽目になりました。
このブログの趣旨とは別の話になるので、この辺で終わりにしたいと思います、本来の歌の話でまたお目にかかる機会が有りましたらうれしいです。
りんご 様
初めまして、nonnta と申します。
このブログへの“りんご様”の投稿を、よく読ませて頂いております、心のこもった暖かい文章に大変僭越ですが拍手を送りたいと思います。
今回の投稿を読ませていただき少し異論があります、
>山岳部に入部できるのは選ばれた生徒だけでした。
>経済的に恵まれた家庭の子女のみが、装備の負担金を調達できたからです。(親の金)
前述しておりますが小生は母子家庭で育ちました、決して裕福な家庭ではありません。山が好きで登山部(山岳部ではありません)に入りました、装備は先輩から受け継いだ部の備品ばかりです、唯一登山靴だけが個人の持ち物でした。
りんご様も言われるように、夏山、冬山を問わず山の持つ爽快さは素晴らしい物です、多感な時代にこの経験が出来たのはこの上ない喜びでした。
またまたブログの趣旨を逸脱してしまいました、後日本来の歌の話でお目にかかりたいと思います、その節はよろしくお願いいたします。
投稿: nonnta | 2017年2月17日 (金) 22時00分
しみじみと胸に染みる演奏を聴いては
あれこれと記憶を辿るのもいいものですね。
悲しみと社会への恨みでいっぱいだった高校時代。
党員教師にオルグされたのは高校に入ってからでした。
流石に中学生の私をオルグは記憶違いでした。
彼も山が好きでした「朝日連邦に登って来た」というのを聞いて一気に遠い存在に思えたのも今は昔。
あの夏の日の寂しさは忘れられません。党員教師に恋をしていたのでしょうね。
登山はブルジョアの趣味と思っていた私なのです。
nonnta様
感想、ありがとうございます。
そう当時は「山岳部ではなく登山部」でしたね。
共学(男3、女2の比率)男性の登山部員は一名の記憶
(名門のお坊ちゃま)しか定かでないのに、女子部員は鮮明なのです~。
会社経営者の娘2名、医師の娘、僧侶兼高校教諭の娘)の
計4名でした。男子は多かったはずです。
男子の方ではnonnta様のようなか例もあったのではと言われてみれば~。現に3歳下の弟は 登山部に入りました。
周りを気にしない彼は 見劣りする装備も何のその登山を楽しんだようです。末っ子でもあり 次兄の仕送りなども
私への負担が減った分弟のお小遣いに回ったものと考えられます。
投稿: りんご | 2017年2月18日 (土) 18時25分
nonnta様ご丁寧にご返事下さり有難うございました。 楽しく拝読いたしました。nonnta様のご出身地は神戸でしたか、見事に外れてしまい大変失礼いたしました。私も神戸に長らく住んだことがあります。広島が第二のふるさとなら、神戸は第三のふるさと、19歳から10年間を灘区篠原中町で過ごしました。 震災後はさっぱりですが震災前の神戸は結構詳しいと自負していました。
まあ、いろいろな思い出の中でも、六甲山に何度かハイキングに行ったこともその一つです。これも牛に引かれてできつかったですが、終わった後の有馬温泉の一風呂は極楽でした。また、石原裕次郎さんの主演映画『黒い海峡』のロケが三宮で行われていると聞き、近くなので仕事を放ったらかしにしてロケ現場に駆けつけ、初めて裕次郎さんを直接見ました。この後「黒い海峡」の封切映画を見たのは勿論のこと、同名の主題歌のレコードも買ってこの歌は私の18番になり、裕次郎さんの歌では「世界を賭ける恋」と1・2を争う好きな歌になりました。等々神戸にはいろいろな思い出があります。話は尽きませんが本来の「坊がつる讃歌」の話題とどんどん外れて行きますので、この辺りで失礼いたします。 (迷える古羊)
投稿: 迷える古羊 | 2017年2月22日 (水) 14時42分
迷える古羊 様
2017.2.17のコメントで、広島の高校を卒業されたことを知りました。私はS14年(1939年)生まれでS33年に広島のF高校を卒業しました。
母子家庭の為、贅沢することも許されず、温和しいまじめ?な学生だったように思います。私の妹は 迷える古羊様と同じS19年生まれですが、高校時代から陸上競技が得意で5種競技で中国地区NO1となり、東洋工業(現マツダ)の陸上部で活躍しましたが、私の高校時代は体育会系は苦手でどちらかというと文系で、肝心な部活(音楽部)もそこそこに、イカレた級友達のラブレターの代筆屋(ゴーストライター)みたいなことに明け暮れていました。お陰で自分のことはさっぱりの いまだに無我の悟れない ストレイシープで日曜日には真面目に神戸の教会(プロテスタント)に通っていますが、4月から11月までは週末・祝祭日は殆ど六甲山頂にある山荘の管理人(50人宿泊可能)としての仕事がありますので、のんびり出来るのももうじきです。
私は登山は出来ませんが、山の歌は好きで、ことに坊がつる讃歌は大好きです。二木先生の「蛇足」と名演奏でいつも感動してます。 これからもよろしくお願いいたします。 有難うございました。
投稿: あこがれ | 2017年2月23日 (木) 11時27分
あこがれ様 ご丁寧にご返事いただき有難うございました。東洋工業など懐かしく拝読いたしました。あの頃は洋工のお陰で府中町も大いに潤ったと聞いています。貴兄は疎開を覚えておられたようですので私より先輩だとは思っていましたが、5つも年上だったのですね。失礼いたしました。妹様は19年生まれですか、nonnta様や私と同い年ですね、妹様を大変可愛がられたのですね。「火垂るの墓」とは違って妹様は大変元気にご成長されて何よりに存じました。お母様もさぞご苦労されたこととお察し申し上げます。
19年生まれの異性と言えば、広島市内のF高校(イニシャルは貴兄と同じですが、貴兄はもしかしたら府中高卒かも知れませんが、この人は某舟入高校)出身で同い年のOL(S.H)に恋をし、打ち明けたのですが振られてしまいました。得意先で彼女は私を見るとほほ笑みを投げかけてくれるので私は勘違いしたようです。未練はおおいにありましたが私も未だ若く、まもなく大阪勤務を命ぜられ転居と共に自分から身をひき、現在は29歳の時、福岡県の人と結婚し愛知県に住んでいます。今でも彼女と結婚していたらどうなっていただろう・・と思うことがあります。孔子のようには行きませんね・・私もいつまで経ってもStray sheepです。
(迷える古羊)
投稿: 迷える古羊 | 2017年2月24日 (金) 20時57分
迷える古羊 様
S.Hさんとの思い出、楽しかったでしょうね。
私の後輩にしては人を見る目がなかったのかも知れませんね。 名古屋時代は熱田区に住んでいました。
なにか不思議な感じがします。
投稿: あこがれ | 2017年2月24日 (金) 22時04分
迷える古羊 様
私の後輩にしては・・SHさんのことです。
投稿: あこがれ | 2017年10月 7日 (土) 21時00分
本日はこの「坊がつる讃歌」を聞きながら別の意味で涙を流してしまった。さる21日、"奥穂男女3人遭難1人死亡"の
ニュ-ス、西穂から奥穂へ向かった。屈指の難関コ-スで夏山でもどちらかから登るかを計画を練りに練ってトライする。普通ならこの逆行でトライするはずなのだ。
相当の山ベテラン者だと推測する。ツェルト無しでの登坂
しかも厳冬のこの時期なのでやんやの批判を浴びている。
しかしこの瓦礫の尾根縦走でツェルトを持ったとしても張る場所などない。瓦礫の尾根の尾根を上ったり下っり連続
一日はかかる。ジャンダルムは越えたけれどもロバの耳で遂に力尽きた。5センチの積雪ではアイゼンあってもあの一枚岩の完璧は上り切れなかったか。後ウマの背を越えれば今少しで奥穂高岳、下って山荘だった。女性が亡くなった
男達よ、その責任は重い。お亡くなりなられた方のご冥福をお祈りする。
投稿: ごん | 2018年10月23日 (火) 20時06分
9年前に「初めて聞いて大好きになりました」とコメントを書きました。
その後色々な所で「こんないい歌がある」と知らない方に教えました。特に、シニア世代の「ハイキングクラブ」の方々に知ってもらいたくて紹介しました。知っている方も知らなかった方もいましたが、みんな「いい歌だよね」と言っています。何か青春の日の純粋さを思い出させてくれますよね。逝く日まで青春の中で終わりたいと思います。
投稿: 吟二 | 2018年10月23日 (火) 21時25分
50年以上山をやっている私からみると何故この季節に一般登山者からみると屈指の難コースをトライしたか。10月下旬の北アルプスは冬装備が必要です。このコースを両方からやりましたが季節は夏です。ベテランの登山者でしょう。夏なら問題なかったでしょう。山は遊びの一環です。山に余りに魅せられると向こう岸に持っていかれる可能性があります。有名な登山家は向こうに行ってしまいました。山は自分の体力と知識の範囲で一般登山者はやるべきと思います。
それにしても亡くなる必要はなかった。只々冥福を祈るのみです。
投稿: akichan | 2018年10月23日 (火) 21時41分
そうですね、現実はさておいて
彼岸に行くのは早すぎですね。何時までも
この歌詞、メロディーのうに憧れたい、逝く日まで青春
の中で終わりたいですね~。一寸お茶を濁しましたね~。
投稿: ごん | 2018年10月23日 (火) 22時51分
私は、山は出来ませんし、やったこともありません。
しかし、いつの頃からか(50才を過ぎた頃からか?)山岳小説の魅力にとりつかれて片っ端から読み漁り(いつかある日でコメント)テレビでも田中陽希さんのグレートトラバースは、大好きで必ず見ています。
山の怖さは、実際に山を経験された人にしか判らないことだと思いますが、孤高の人、青春を山に賭けて、遥かなる未踏峰、剣岳(点の記)、神々の山嶺 等々からでも、十分に伝わってきます。
ごん様の すごい山岳写真からも覗える北アルプスの偉容は、とても人間の力の及ぶところではないと思いますし、冬山の怖さは想像を絶するものだと思います。
このサイトでも、かって北大山岳部の 「雪の遺書」 の遭難者と学生時代同級生だった方(nobaraさんだったか?)のコメントも掲載されていました。
今回の「奥穂男女3人遭難 1人死亡」も、痛ましい限りですが、山は生きて帰ってこそ!!と、願わずにはいられません。 (山を知らない山男の述懐??)
投稿: あこがれ | 2018年10月23日 (火) 23時30分
長崎のsitaruです。芹洋子さんの歌唱は、たくさんの童謡・唱歌・抒情歌で楽しませていただいておりますが、芹さんの持ち歌では、その内容の深さから、大ヒットした「四季の歌」より、この「坊がつる讃歌」の方を、好んで聴きます。
「坊がつる讃歌」が親しく感じられるのには、もう一つ理由があり、毎年夏、坊がつるの近くの、筋湯温泉という所の研修所で、研究会の二拍三日の研修を行なっているからです。今年はコロナのために中止となりましたが、私は学生生活の直後の1980年代前半から、この研究会に参加していますので、もう40年近く通っていることになります。研修が終わると、有志で九重登山をする習慣になっており、登山道から坊がつるが望めたものと思います。思いますというのは、実は私はその登山には一度も参加したことが無いからで、九重に行くと「坊がつる讃歌」を必ず思い出してはいたのですが、いつも早く家に帰ってゆっくりしたいという気持ちが先だってしまったからです。それと、子供の頃さんざん山歩きをしたから、もういいやという理由にもならない理由をつけて、大人になってからはほとんど登山をしたことがありません。唯一例外となっているのは、結婚一周年を記念して、1981年の12月に、宮崎県と鹿児島県にまたがる霧島連峰の主峰韓国岳(標高1700m)に、妻と二人で登ったことです(その頃私たちは宮崎市に住んでいました)。その頃の私は、登山に関する基本的な知識も無く、二人とも軽装で、誰にも登山することを告げないままに登りました。幸い天候の急変も無く、無事下山できましたが、山頂付近は風が強く、猛烈な寒さでした。あとで考えると、無謀な登山でした。ついでながら、登山から帰って、年賀状を書きましたが、一部の友人に対しては、「二人の絆をより確かなものにするために登りました」とうっかり書いてしまい、「あの二人は離婚の危機にあるのでは」と勘ぐられることになりました。
昨年の6月に、高校の同期同窓会「緑寿同窓会」がありました。65歳(数えでは66歳)を緑寿ということを、初めて知りました。そこで、ほぼ50年ふりに、1年の時の同級生の女性とも話しました。その中の一人は、高校時代山岳部に所属していて、卒業アルバムには、登山服、リュック姿の凛々しい姿が載っており、「かっこいいなあ」と思った記憶がありました。そんな話がはずみ、1年のクラス同窓会もやろうということになり、10月に実現することが出来ました。その女性は、後に、登山がきっかけとなって、今のご主人と結ばれたとも話してくれました。
投稿: sitaru | 2020年8月21日 (金) 19時53分
昭和41年広島市立牛田中学3年のとき、修学旅行が北九州でした。久住高原を貸切バスで横断した記憶があります。その時のバスガイドさんにこの歌を習いました。クラス全員が同じバスだったので帰校後の報告会で保護者にこの歌を披露しました。バスガイドさんの説明では、元歌は広島大学山岳部で歌われている歌で、学生が山で遭難した後に創作されたものだということでした。その後、昭和40年代の後半に広島大学の尚志会館でこの歌を偶然耳にしたのですが、それは学生が歌いながら階段を上がっているときでした。歌の名前は覚えていませんでしたが、今でも懐かしく口遊んでいます。
投稿: 泉田 浄明 | 2020年10月24日 (土) 16時44分
2012年と2015年に投稿させてもらった亜浪沙(山口功)です。泉田さまの投稿を懐かしさで拝読いたしました。広島の牛田では山手の旧家で昭和34年から2年間下宿しました。尚志会館に付設されていた尚志寮は夜な夜なのたまり場でした。今では東広島(西条)に移ってしまって、東千田も一変しましたね。はるか昔の記憶を呼び覚ましていただきありがとうございました。九重の坊がつるに一度は行ってみたいと念じながらも、かなわぬ年となりました。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2020年11月 4日 (水) 14時32分
詩情豊かな歌詞と哀愁のメロディ、いつ聴いても心洗われます。
特にこの時期に聴くと殊更に胸に沁みます。高い山々は雪に覆われているが低山歩きには又とない季節です。蘇る思い出も多々あります。
夢見る薔薇様
掲示板にコメント致しました。
投稿: りんご | 2021年5月 5日 (水) 08時40分
「坊がつる」このメロディーは4分の2世紀以上のかなたにわが身をタイムスリップさせる不思議さをもっています。その頃のことが鮮明に脳裏に去来します。「・・・残雪恋し山に入り・・」を口ずさみながら卒業アルバムをやっと探し出しました。このアルバムはクラス全員の力で3年がかりで自作したものです。部数は20部、現像・焼きつけはアルバム委員、製販は広島刑務所、製本・装丁は大学の図書館といった具合に貧乏学生の知恵を結集したものです。今はすでに物故者が半数近くとなりました。同級生の面々がこのメロディーにのって語りかけてきます。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2021年5月 6日 (木) 12時11分
この歌を知ったのは、比較的最近です。といっても10数年前ですが。
ブログ・ハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。
それを見た友人(島根県出身)が「これは広島の歌だ」と言っていました。島根は広島の隣接県ですが、広島高師の歌として、芹洋子さんよりもずっと前から、広島・島根あたりで歌われていたものと思われます。伴奏への使用、ありがとうございました。
投稿: ゆるりと | 2021年12月 1日 (水) 16時13分
この唱こそ郷愁を誘ってくれる詩です。「信濃恋歌」もさることながらどうしてこんなにすばらしい歌を紡ぎだしてくれるのでしょうね。信州は昨今、小春日和です。浅間も真綿のベールをいただいています。今年最後の窯出しを終え、素晴らしい什器にもてれて、公の展示場で今、陶たち(作品)は集(つど)っています。「下宿屋」も耳にしながら至福の時を過ごしています。午後から録画しておいた「誰がために鐘は鳴る」を鑑賞します。では、これで!
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2021年12月 3日 (金) 12時20分
いつ聴いても心洗われます。
ハノイの越村南様のコメントに思わず笑ってしまいました。
商家の旦那様御免なさい。
流石神戸の人。しゃれこうべで見つかったは確かにシャレにはなりませんね。
それでも笑ってしまった私は愚か者ですね。
投稿: りんご | 2021年12月 6日 (月) 16時55分
坊がつるを聞く度28歳で亡くなった兄を思い出して寂しい気持ちになります。兄も富士山や四国の山々を登山。将棋と山を愛する優しい兄でした。そんな兄が思い出されますこの歌と芹さんに感謝申し上げます。私のお経も兄への気持ちで観音経守り本尊のご真言です。癒されてほっとします。
投稿: 細川 和代 | 2022年8月17日 (水) 15時40分
初めてこの曲を聴いた時は是非自分で弾きたいと思いました。
優しい曲ですね。兄は高校生の登山部で愛媛の笹が峯と瓶ケ森に登りました。どちらも1800m程もある山頂からは美しい瀬戸内海が眺望出来ます。会いたいと思うと涙がこぼれます。昨日もイギリスから八十八か所詣りに来た女性が雨の中遍路道で出会いました。雨具と傘をお接待させて頂きました。綺麗なお顔と爽やかさが印象的でした。一期一会に触れて心温かくなりました。
投稿: 細川 和代 | 2022年11月 2日 (水) 16時42分
3年ぶりに「坊がつる」にアクセスしました。ここしばらく聞く耳を失していました。良い歌です。「うた物語」もいよいよ大台に達してきました。明日明後日には50000000回のアクセスまちがいなしですね。祝杯を挙げさせてもらいます!!
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2024年1月15日 (月) 15時40分