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2007年8月11日 (土)

踊子

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:喜志邦三、作曲:渡久地政信、唄:三浦洸一

さよならも言えず 泣いている
私の踊子よ ああ 船が出る

天城峠で 会うた日は
絵のように あでやかな
袖が雨に 濡れていた
赤い袖に 白い雨……

月のきれいな 伊豆の宿
(べに)いろの 灯(ともしび)
かざす扇 舞いすがた
細い指の なつかしさ……

さよならも言えず 泣いている
私の踊子よ ああ 船が出る

下田街道 海を見て
目をあげた 前髪の
ちいさな櫛も 忘られぬ
伊豆の旅よ さようなら……

《蛇足》 昭和32年(1957)のヒット曲。ご存じ川端康成の『伊豆の踊子』をモチーフにした作品。
 歌詞が優雅ですねえ。日常語の散文のような歌詞が多い最近の歌と違って、ちゃんと「詩の言葉」が使われています。

 『伊豆の踊子』は、これまで6回映画化されています。最初が昭和8年(1933)の五所平之助監督作品で、主演は田中絹代と大日方傳(松竹)、続いて昭和29年(1954)の野村芳太郎監督作品で、主演は美空ひばりと石浜朗(松竹大船)、3回目は昭和35年(1960)の川頭義郎監督作品で、主演は鰐淵晴子と津川雅彦(松竹大船)、4回目は昭和38年(1963)の西河克巳監督作品で、主演は吉永小百合と高橋英樹(日活)、5回目は昭和42年(1967)の恩地日出夫監督作品で、主演は内藤洋子と黒沢年男(東宝)、6回目は昭和49年(1974)の西河克巳監督作品で、主演は山口百恵と三浦友和(東宝=ホリ企画)

 写真は吉永小百合・高橋英樹版の『伊豆の踊子』。

 伊豆には、いささかの思い出があります。

(二木紘三)

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コメント

三浦洸一さんが、直立不動で謹厳実直そのものに歌っていた姿を白黒テレビで見た記憶が鮮明に残っています。昭和32年3月、北海道函館市の我が家にもテレビがやってきました。1インチ1万円くらいしたでしょうか?当時の大卒初任給が1万円前後でしたから、テレビを買える家はお金持ち?でした。呉服屋を営んでおり、住み込みで働く店員さんが10数名おりました。夜、店がしまると、皆がテレビの前に集まって視聴していました。そのころから、映画館へ足を運ぶことが減っていったようです。後年、大学の部活の合宿で伊豆湯ヶ島へ行きましたが、この歌が頭から離れませんでした。天城峠でおうたひ~の♪ここの部分が一番好きです。

投稿: tomoe_saloon | 2007年8月11日 (土) 17時38分

母が三浦洸一さんの大ファンでした。
三浦さんは「懐かしのメロディー」でしか見たことはありませんが
実直な好青年という感じでした。
そんな三浦さんとこの踊子の歌詞とメロディーはぴったり合ってると思います。ヒットしたのもうなずけます。

私が好きなフレーズは

   ♪~ 赤い袖に白い雨~♪

 少女の姿とそれに惹かれる主人公の目線を ほんと絵のように 抒情的

 によく表現しているなあ~ 

投稿: ヤマホー | 2007年12月 1日 (土) 21時14分

昭和43年に入学した際の大学祭、田舎出の私は恐れることなく、学生のど自慢に出場し、鐘ひとつ貰ったのがこの歌です。
自分なりにうまく歌ったつもりが明治の板チョコ一枚でした。今なら出場は憚るであろう嫌な分別もできてしまったが
人知れず口ずさむ歌の一つです。

投稿: 榊 信乃 | 2008年5月12日 (月) 16時18分

伊豆の踊り子の映画の中で「いい人って良いね」この一言
に女子高生が酔わされて歓声が上がったのを憶えています。
名作はいつまで経っても名作であって欲しい。携帯メール
では得られ無い心に響く小説だと思います。

投稿: M.U | 2008年5月22日 (木) 13時04分

母親代わりのおっかさんが、兄にむかって、いつまでこうしておくんだと言った、解っているよおっかさん、ノーベル賞
作家の神髄ですね。

投稿: M.U | 2008年9月 8日 (月) 13時31分

明治生まれの父が生前、好きだった一曲です。

投稿: 水本爽涼 | 2008年10月11日 (土) 16時22分

この詩が好きです。
私の姉が結婚し伊豆韮山に所帯を持ったとき、なんといい所に住んだものと姉に感謝しました。私は早速伊豆に出かけ〔まだ故郷八戸にいた頃です〕〔伊豆の踊り子〕所縁の地を幾度か歩きました。この地が清らかな恋の舞台だっのかと思うと河原の石、何気ない木立まで特別のものに思えました。

映画は石浜朗が一番良かったのではないでしょうか。目元がこころなしか作家に似ているような気がしました。

投稿: おキヨ | 2008年10月12日 (日) 01時26分

私が「伊豆の踊子」を初めて読んだのは、中学三年生の時、高校受験勉強のさなかでした。美しい文章の中に、伊豆の旅情と淡い恋心が伝わってきて、深く感動したのを今でも思い出します。
湘南に住む私は、近くの浜辺に出ると伊豆が眺められます。晴れた日は相模灘の上に浮かぶようにくっきりと見え、雨模様の日には海と陸の境界線がぼんやり霞んでいます。
この歌を聴くと、なぜか胸にこみ上げてくるものを感じるのです。学生と踊子の出会いと別れへの哀愁なのか、遠く過ぎ去った青春時代への思いなのか、自分でもよくわかりません。

投稿: cosmosfish | 2008年11月13日 (木) 22時38分

二木さんのこのサイトで最高の音構成だと思います。何度も聴いています。
この曲は懐かしのメロディー番組などではさほどとは思っていませんでしたが、二木さんのmp3でたまらずこの曲が好きになり、あらためて「伊豆の踊子」の文庫本を買って読みました。
かつて、踊り子の歩いた道を辿ったこともありました。
恋する人と伊豆をドライブした若い日の記憶がよみがえり、切なくなります。

投稿: 健児 | 2009年2月10日 (火) 02時09分

幼少期に耳にしたきりのはずなのに、記憶に深くとどまる曲のひとつです。
歌詞をみていると、50年近くを経ても三浦洸一さんの端正な歌声がよみがえってくるようです。それに、歌詞の詩情の豊かさ、構成の巧みさを感じさせられます。
 ♪天城峠で逢うた日は
 ♪絵のようにあでやかな
 ♪袖が雨に濡れていた 
 ♪赤い袖に白い雨
天城雨中紅一点、まさに一幅の絵をみるようですね。

2番 ♪紅いろのともしびに
  ♪かざす扇 舞いすがた
  ♪細い指のなつかしさ
踊子が現前するかのよう。最後に視線をとらえた「細い指」のなんて清冽で官能的なことか。

最終節♪下田街道海を見て
   ♪目をあげた前髪の
   ♪ちいさな櫛も忘られぬ~
遠景の伊豆の海、目前の踊子の「前髪」、さらには「ちいさな櫛」へという視線の移ろいに旅情、淡い恋情を込めて巧みだなぁと思います。

♪赤い袖に白い雨~ ♪紅色のともしびに~ 
といった色調の鮮やかさもこの歌詞の特長ですね。

ちなみに、作詞家の喜志邦三さんは何冊かの詩集を残した詩人であったことを初めて知りました。原作の抒情感を、限られた歌詞のなかにより鮮烈に転置したともいえる技はむべなるかな。

投稿: ひだまりくん | 2009年5月14日 (木) 23時47分

伊豆に、行ったことは、ありませんが、学生時代を
無為に送った、若かりし自分を想いだします。

投稿: T.Fujii | 2010年2月11日 (木) 20時46分

小説「伊豆の踊り子」の中で、踊り子が学生のことを言った「良い人は、良いね」の言葉が強く印象に残っています。
川端康成さんは嫌いなのですが、「伊豆の踊り子」は大好きです。
新婚旅行は、修善寺~下田まで歩きました。
もう40年ほど前のことです。

投稿: コーデリア | 2010年2月12日 (金) 11時36分

 二木先生が《蛇足》の末尾に、行間を空けて、「伊豆には、いささかの思い出があります。」とむすんでおられます。先生には、伊豆には万感の思いがあるのではと、共感しています。踊子に寄せられている方々のコメントを拝読しますと、いずれ劣らぬ詩ごころ豊かな方々のようです。わたしにも、「伊豆にはいささかの・・・」ものがあり、筆?をとりました。「踊子」のコメント欄に何回かに分けて書かせてもらえたらと思います。西伊豆を舞台の連続ラジオドラマ(昭和31年ごろ)、ラジオからの歌声で脳裏をよぎる伊豆の情景、西伊豆の停車場まで送ってくれた宇久須の娘さん、堂ヶ島の猿にメガネをとられこと、などなど、九州で育った私にとって、もっとも親近感をおぼえるところは伊豆です。また、南信濃に伊豆木(いずき)という集落があります。ここの人たちとのふれあいの一端もぜひ紹介できたらと思います。

投稿: 山口 功 | 2010年2月24日 (水) 13時03分

 細かな言葉遣いの違いが気になる質で、いつも周りから嫌がられていますが、この曲の一番を三浦洸一は「絵のようにあてやかな(=貴やかな)」と歌っているように私には聞こえるのです。「て」の濁点が聞こえないのです。調べる術を持ち合わせませんので、敢えてお伺いする次第です。

投稿: 槃特の呟き | 2010年3月14日 (日) 23時56分

大阪、朝日放送の「甦るABCホームソング」を聴いています。
1月26日は「喜志邦三特集」で次男の喜志房雄さんがゲストでした。
昭和32年2月に放送されたオリジナルを流された後の解説(略)です。

「一般には“あでやか”と唄われるのですが、元の歌詞は“あてやか”です。
“あでやか”は、“つややか 少しなまめかしいさま”を言ってます。
「あてやか」は「貴やか」と書いて“上品で美しいさま”を表しているそうです。
『三浦洸一さんはどっちともとれるように上手く唄っているなー』
と言ってた記憶がございます。

同じ年に出た手元のレコードも「あてやかな」になっています。

投稿: なち | 2010年3月15日 (月) 07時58分

「あてやか」について
『踊子』をラジオで初めて聴いたのは中学2年か3年の頃だったと思います。そのとき三浦洸一は「あてやか」と歌っていたのでしょうが、私はそんな言葉を知らなかったので、頭の中で「あでやか」に置き換えて記憶したのでしょう。私だけでなく、ほとんどの人が「あでやか」と聞いていたと思います。
『さむらいニッポン』や『旅の夜風』など、まちがった歌詞が定着してしまった例はいくつもあります。時雨音羽編『日本歌謡集』、古茂田信男他編『新版日本流行歌史 中』、毎日新聞社編『昭和流行歌史』などでも「あでやか」で収録されています。
うたの雰囲気からいうと「あてやか」のほうが合っていることは確かですが、当サイトでは定着を尊重して「あでやか」のままにしておきます。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2010年3月15日 (月) 14時32分

「艶やか」or「貴やか」? 迷いが晴れました。
茶店の婆さんが「あんな者」と「甚だしい軽蔑を含んだ」言葉で表現した旅芸人には「貴やか」より「艶やか」がより相応しいかなとは思いますが、湯殿の奥から突然走り出して、脱衣場の突端に真裸のまま日の光の中、爪先きで背一杯に伸び上がる踊り子の姿は、自分のお腹が膨れてきてもその意味が分からないお姫様が描かれた古典の世界に通じるような気がして、「貴やか」も有り得るかなと思った次第です。

投稿: 槃特の呟き | 2010年3月15日 (月) 17時02分

私も、失礼ですが管理人様と同じく、「貴(あて)やか」と言う言葉があることを知らなかったので、当初から「あで(艶)やか」と思って聞いていました。

「貫やか」を手元の「例解古語辞典」でひくと、「多く若い女性に用いられる。古風で魅力のない貴婦人と比較して、その娘のみずみずしい美しさを強調したもの」とありますから、元は「あてやか」で何の問題もないし、むしろこれのほうが良いようですね。

でも、管理人様の言われるように、一般人はその言葉をほとんどの人が知らないと思いますし、あまり女性と付き合ったことのない若い男子学生には、若い可愛い「踊子」を見れば眩しいくらい「あでやか」だと思っただろうことも十分に考えられますから、管理人様の言われるように、世間で定着している歌詞の「あでやか」でよいのでしょうね。

ちなみに私の手元にある全音楽譜出版社の「流行歌2100曲集 日本の旅情」も、成美堂出版の「ポケット版 演歌大全集」も「あでやか」になっています。

でも、世間には良く知っている方がいらっしゃるなあと感心するとともに、みやびな言葉を一つ知ることができて嬉しいです。このサイトは、その他でもいろいろなことでとても「ためになる」サイトだと思います。

管理人様の言葉で一件落着なのに、つまらぬ蛇足を申し上げました。ありがとうございます。

投稿: 吟二 | 2010年3月16日 (火) 00時57分

三浦洸一はこの部分をちょっと低く歌うので「あてやか」と聞こえる場合がありますが、あきらかに「あでやか」と歌っていますね。文章的にも「あでやか」だと思われます。You Tube で確認しました。

投稿: 海道 | 2010年8月27日 (金) 14時33分

津川、鰐淵コンビの「伊豆の踊子」の映画をみて感激したのは50年前。踊子の可憐さはたとえようもなく。
この曲を聴くとその頃ことが懐かしく想い出されます。

投稿: jiro.sakata | 2010年9月 6日 (月) 14時36分

8年前91歳で帰天した母の好きな歌でした。”貴やか”は最近になって勉強を始めた漢字検定1級の参考書に仮名付け問題として出ており懐かしく思うと共に1級問題に出る位だから殆どの方がご存じないのだと知りました。”綰(わが)ねる”や”儷(な)らぶ”など難しい漢字はムリだと思いますが、”黙(もだ)す”など常用漢字でありながら読めない字だって沢山あり、読むことから見ることへ生活環境の変わった現代人が如何に漢字と縁遠い存在になったかを思い悲しく思いました。

投稿: y.okamoto | 2010年9月 8日 (水) 07時41分

3年前に投稿したヤマホーです。
歌と三浦光一さんが大好きだった母が先月永眠しました。
去年、孫の結婚披露宴で歌を歌いました。
車椅子でしたがびっくりするような声量で大受けでした。
たくましくて叙情的な歌が好きな女性でした。


投稿: 内倉功 | 2010年11月27日 (土) 21時26分

「あてやか」云々の御見解には、感服した一人です。
そこで、驥尾に付してお聞きしたいのですが、
「私の踊り子よ・・・・」という歌詞は
本来、「渡しの踊り子よ・・・」なのではないか
いう点です。場面からいっても、其の方が遥かに
しっくりすると思うのですが。

昔はすべて耳からのものが多く
歌詞が誤って定着することが多いのは
「管理人」さんの御指摘どおりです。
今更ですが、諸賢の感想をお聞きした存じます。

投稿: ikutahide | 2011年10月30日 (日) 00時05分

この歌全体の内容を読めば、渡しでは無い事がお分かりいただけるのではないでしょうか。まだ幼い少女への思い、それが、私の踊子と呼ばせたのではないでしょうか。渡しでは踊子への思いが伝わりません。貴方は恋人に僕の○○子よ・・と思った事はありませんか。もう一度若くなって僕の○○子よと書かれたラブレターを貰ってみたくなりました。嫌いな人からだったらゾーッとしますが・・・メールでは風情がないですね。この歌が流行った頃は高校3年生でした。英語の時間に歌謡曲の好きな友人に歌詞を書いてもらった事を思い出しました。

投稿: ハコベの花 | 2011年10月30日 (日) 12時25分

私もハコベの花様と同意見です。
広い視野の考え方として〔渡しの上に佇む踊り子〕と解釈できないこともないと思うのですが、詩の美しさがこの場合淡泊〔味気なく〕になってしまうような気がします。

相手に対する深い想いが凝縮された〔私の踊り子〕が的確だし、詩の流れとしても美しいと思います。

今の時代ならさしづめ〔君は僕のもの・・・〕という感じでしょうがどちらが詩的かということですね。

投稿: おキヨ | 2011年10月31日 (月) 11時49分

学生時代、周遊券で、寝袋を背負い各地をよく旅をしました。建築だけでなく「野菊の墓」「伊豆の踊り子」「夜明け前」などを読んで出かけました。鰐淵晴子の「伊豆の踊り子」の映画を見て伊豆の旅をして鄙びた温泉宿を、川端康成の気分での懐かしい旅でした。踊り子に憧れて大島まで懐かしい青春の日・

学生時代には、周遊券で、寝袋を背負い、建築だけでなく、野菊の墓などを読み、文学青年気取りで各地をよく旅をしました。昭和40年代、小説を読んだり、鰐淵晴子の「伊豆の踊り子」の映画を見て伊豆の旅をしました。鄙びた温泉宿を、川端康成の気分での懐かしい旅でした。

三浦洸一の「踊子」を聞くとき、歌うとき、当時を想いだし、懐かしい気分になります。カラオケが好きで歌う時は、学生時代、踊り子に合えるような気持ちでの伊豆の旅を想いだして、下手でもその中に入り込んで歌うようにしています。カラオケは安物の趣味だと批判されますが、ナツメロは、元気の元

投稿: ナツメロ太郎 | 2011年11月 3日 (木) 11時55分

先生、はじめまして。
メールアドレスも踊り子な私ですが、ボンネットバスの「伊豆の踊り子号」からの入りです。
はたちそこそこの私が、ようやくバスガイドの仕事が、おもしろくなりかけたころ、地震の風評被害に悩んでいた伊豆の救世主として、「伊豆の踊り子号」が、デビューしました。
今でこそ、人気がしょんぼりな彼女ですが、当時は、「行列のできるボンネットバス」でした。
余談中の余談でした。
失礼いたしました。

投稿: 山江まろん | 2012年5月28日 (月) 13時10分

しつっこくて申し訳ありません。最近手に入ったCDを聞いたら「あてやか」と三浦洸一は歌っていますね。「あてやか」とは竹取物語にも使われている古語で、優雅、上品、美しいと言う意味を持つそうです。また「あてやか」という意味が変化して「あでやか」という言葉ができたそうです。親戚ならどちらで歌われても本望でしょう。

投稿: 海道 | 2012年5月31日 (木) 13時07分

 『伊豆の踊り子』を読んだのは高校1年の時かと記憶している。最後の下田の別れの場面では 思わず泣いてしまった。なんという純情だった若き日の私。昔のことを書いたととはいえ、 恥ずかしく 今ちょっとした カミングアウトの気分です。 
 
 なぜあんなにも あの小説の世界に入り込んでしまったかを考えてみる。 主人公の一高生という超エリートと しがない、最底辺の旅芸人の娘との 淡い思いのやりとりというテーマが 伊豆の旅の同行という設定と相まって 実にうまい話の運びになっている。

 一高生と旅芸人、社会的階層の頂点と最底辺の交流といえば、なんとなくマーク トゥエインの『王子と乞食』を思いだす。瓜二つの乞食の少年と入れ替わってみてはじめて 王子が人生の真実を知るという話です。一高生の主人公も 淡い失恋に似た思いとともに 薫たち、底辺に生きる人々の善良さ、たくましさ、あっけらかんとした生き方などを知ったはずです。

 今は あの頃のような皆から敬われるエリートなどいない、卑しめられる旅芸人もいない。国民全体が均質化してしまったからです。 
 首相だってスッカラカンとかルーピーとか呼ばれる時代です。旅芸人もいるけれど テレビで 24時間密着取材とか称して 一日の生活が明るく紹介され、卑しめられるイメージなど もはやない。
 社会の階層のボーダーがなくなってきた上に すさまじい勢いで情報化が進み、秘密めいたもの、、あやしいもの、いかがわしいもののベールがはがされ、一掃されていった。 

 今時の伊豆の旅は バスの時間 旅館の予約状況、料理の良し悪しまでもあらかじめ知ることができる。もはや 薫と出会ったような のんびりとした伊豆の旅など 遠い昔の話だ。思えばさびしい限りだ。
 いかがわしいものの好きな私は、時々、あやしい裏町の赤提灯で ニヒルに? 渋く?? 一人飲むだけです。

投稿: 秋山 小兵衛 | 2012年10月23日 (火) 16時02分

伊豆の踊り子に関する歌は沢山ありますが、明日は東京へ帰る人(藤本二三代)、伊豆の踊り子(美空、吉永、山口)。皆良い曲ですが敢えて選べと言われれば藤本二三代を選びます。ファンだから。

投稿: 海道 | 2013年7月31日 (水) 15時50分

双子でいらっしゃり、お母様を亡くされた海道さんの数行の音楽酔狂話に、「よう知ったはるな~」といつも感心します。カラオケバーのカすら経験しなかった右ツンボに入る旋律が、聞き覚えあるのがうれしい。

>まちがった歌詞が定着してしまった例はいくつもあります

今、とある植物尋ねサイトで、菩提樹は欧州に自生も存在もしない樹種である。ほぼ150年、間違った名前が定着した状況を憂え、独り奮闘しています。何世紀も間違い例はいっぱいあるだろう…150年くらい吹っ飛ばさなイカン。すると音楽ファンの方が「シューベルトの菩提樹」が間違いなら、天下がひっくり返るのでそれはそっとしておいてほしい。 御意に候。

投稿: minatoya | 2013年8月 1日 (木) 11時34分

父が好きだった曲です。小説「伊豆の踊子」を題材にした曲だそうですが、私も昭和49年制作の映画を当時の有楽町・日劇で観た記憶が残っております。

投稿: 水本爽涼 | 2014年8月 9日 (土) 21時49分

45年以上も前のことですが、学生時代、郷里の先輩と酒の席で話したことがあります。先輩は、「友達がうらやましい。僕も恋愛がしたいんですよ、しかし、僕は女性と迂闊な交際はできないんです。家があるから・・・」、と話されていました。先輩がお見合いで結婚された時、周囲のささやきを漏れ聞きました。「お金持ちだそうだよ。釣り合いが取れてて良かったね」、「商売で成功した家だそうだよ、うまく行かないんじゃないか?」結婚後しばらくして、先輩は奥様と別居されることになりました。家風が合わなかったんだろう、という噂も耳にしました。先輩はすでにお亡くなりになりました。人里を少し離れ、森と渓流に挟まれ、大きな石垣の上に建つ立派な旧家も空き家となりました。私も何度かお邪魔させていただいた者であり、往年のにぎわいを知る者ですから一抹の寂しさを感じます。伊豆の踊子と著者の淡い恋は、いつの時代も恋する青年の心を捕えて離さないものとと思います。伊豆の踊子、もう一度読んでみたくなりました。

投稿: yoko | 2014年8月11日 (月) 12時23分

ここ10数年、旅らしきものはしてないのですが、二木先生の歌物語に誘われて、先日伊豆へ旅しました。近くの図書館で「伊豆の踊子」を借り、マクドナルドでコーヒー一杯を注文し、ひと時の幻想に浸りました。

時は大正7年の秋、私も旅芸人の一座を追って天城峠へと急ぎました。一座と出会い、最初の温泉宿に泊まった夜のことです。襖一つを隔てた隣の部屋にも客がいる気配を感じました。襖の隙間からそっと覗きますと、仄暗さの中に身なりの整った若い夫婦と、まだ二歳に満たないであろう幼子が浮かび上がりました。貴賓のある美しい家族だなぁ、と感じつつしばらく目を凝らしていましたが、ハッと息を飲み込みました。その若い夫婦は在りし日の私の祖父と祖母です。そして傍らの幼い子は私の母に違いありません。私はそっと目を外し、「そうか・・、お婆ちゃん、昔鎌倉に住んでいるとき伊豆の温泉に行ったことがあるって言ってたなぁ・・」と思い出しました。祖父は東北のある町で教師をしていましたが、私の母が生まれた頃から精神を病み、職を辞しました。そして、祖父と祖母、幼い私の母、三人の家族は祖父の兄の援助を得て、鎌倉の海岸に家を借り、療養生活を送っていたと聞いていました。それにしても・・、垣間見た若き祖母の美しく上品な姿は私の覚えている祖母とは全く違っていました。私の知る祖母は着古したボロのモンペをはいて、背負いかごをしょって、肩かけの帯も片方はずり落ちて、体も曲がって、ヨロヨロと畑仕事に出かけていた老婆です。無事に畑から帰ってくるかどうかいつも心配していました。「お婆ちゃん、もう畑はやめてよ。死んでしまうよ。」と何度も頼みましたが聞きませんでした。

翌朝、旅芸人一座と学生さんとの影と一緒に旅を続けました。学生さんと踊子、薫さんの心の内(仲の良さ)はすでに知っていましたので、私は遠慮して少し離れて歩きました。薫さんの学生さんへのかいがいしいしぐさは微笑ましくもあり、嫉妬しました。裾を払ったり、履きものを揃えたり・・。私の祖母と全く同じだなぁ、と思いました。祖母は私が出かける前にはいつも靴を磨いて揃えてくれました。ご飯のお替わりをよそうのが大好きで、私が一碗を食べ終える前から今か今かと待ち構えていました。食べ終えるとサッと手を差し出す祖母に対して私はときどき「お婆ちゃん、もう食べたくない!」と意地悪をしました。このようなかいがいしさはきっと彼女の夫(私の祖父)や若くして亡くなった彼女の長男(母の弟)に対してもそうであったのだろうと思います。片や、私の母にはそのようなかいがいしさは見受けらませんでした。

旅の最終日、東京に出立する下田の船着き場では、乳児を背中にくくりつけ、幼い女の子二人を両手につないで郷里の水戸に向かうお婆さんと一緒になりました。私はお婆さんの哀れな身の上に涙しました。背中の乳児は、もしご健在であるなら、今ではもう98才くらいになっていらっしゃるでしょうか。しかしこの世代の男子であれば、多くの方が戦争でも命を失くされているはずです。人間の運命は不公平です。情けある人がお婆さんと彼女の幼いお孫さんたちに手を差し伸べられたであろうことを祈りました。

祖母のことが再び思いだされました。私の母は時に祖母に対して辛辣でした。いつだったか、祖母が土間でつまずいて転んだとき、それを見ていた母は、一言、「ボヤボヤするな!」と言い放ちました。祖母はうなだれて何かに耐えているかのように立ち上がりました。祖母は何も言いませんでした。その日、祖母と二人きりになった時、私は「お婆ちゃん、辛かったね」と祖母を慰めました。祖母は私の前で堰を切ったように泣き崩れました。「私の娘なんだ。私が育てたんだ。私が悪いんだ。」と言って泣きました。祖母は嬉しいに付け、哀しいに付け、感情が高ぶった時にはよく泣きました。私にしがみついて泣きました。

さて、船が出港しました。花のように笑っていた薫さん。しゃがんでしょんぼりとうつむいていた薫さん。伊豆の旅よ、さようなら・・。さようなら、薫さん・・。さようなら。

投稿: yoko | 2014年8月19日 (火) 22時15分

ikutahide さんの "渡しの踊り子" 説に賛同なさる方は居られないようですが、私は、むしろ、この方が詩人の感性の理解としては自然なのではないかと思います。理由は以下の二点です。
①「泣いていた」なら、心象風景の想起と考えられますから、「私の心の宝物」という意味で「私の踊り子」が正解だろうと思いますが、この作詞家は、詩集まで出している優れた感性の持ち主ですから、そんな生の表現をするとは思えません。この唄がヒットした頃、私は高校2年生でしたが、私たちは当然のように「泣いていた」と歌っていました。「泣いている私の踊り子」では即物的で詩にならないことを無意識に感じ取っていたのだと思います。今回、ikutahide さんの指摘で、これは心象風景ではなく眼前の情景描写だったのではないかと思った次第です。いま当に岸を離れようとしている渡船に立ってこちらを見上げて目に涙を浮かべている踊り子の姿、・・この方がずっと万感の思いを堪えた切ない気持ちが胸に迫ってきます。
②私たち戦前の日本を経験している者にとって、「別れ」と「渡船」の結びつきは、ごく普通のことでした。
私の祖父母は利根川を横断する「赤岩の渡し」の両岸にある群馬側の萱野村と埼玉側の俵瀬村の出ですが、祖母は渡し舟で嫁入りしたそうです。俵瀬を振り返ったときの祖母の目には涙が浮かんでいたに違い有りません。
佐田啓二・高嶺秀子主演の映画、「喜びも悲しみも幾年月」の中にも、渡船で島を離れる青年が、目を潤ませながら見えなくなるまでじっと立っている場面がありました。
恐らく、喜志邦三氏は、両者を掛けていたのではないでしょうか。

投稿: 関口益照 | 2015年4月29日 (水) 00時40分

子どものころから本好きだった私は、たぶん十代で川端作品を読み漁ったような気がします。「雪国」は内容に入りこめませんでしたが、「踊り子」は何度も読みました。
映画も「高橋秀樹」と「石浜朗」の二作品映画館で観ました。
当時の差別観の描写に反発しましたが、作者の【優しい視点】が伝わりました。踊り子の悲しい境遇の中にも家族間の「温かさ」が表現されていて、その部分に少しほっとしたのを、憶えています。
その部分が印象に残ったのが私は「川端」に対して好意的な評価が高かったんだと思います。
40代のころ、あの猪瀬直樹氏が「三島作品」と人物を描いた「ペルソナ」を読んで、猪瀬氏の書いた評伝にひかれた時があります。そのなかに「マガジン青春譜」だったとおもいますが、川端の生い立ちと境遇・・・・それは彼自身が小説の主人公のようでした。父母とは早く死に分かれて祖父母に育てられます。それも複雑な境遇の祖父母でした。最後は小学生の「川端」が老祖父の下の世話までしていたのです。そのころから「大宅壮一」と人生が交錯して、対照的な二人が所帯を持って隣同士に住むようなめぐりあわせが起こります。
あのみじめな少年期を過ごしていながら、大作家になれたのがほんの少し理解できました。今高校3年で受験勉強に必死な孫に「時間が出来たら、読んでほしい本」それはこの【踊り子】です。今思い出してもあの映画に出ていた【小百合さん】素敵でした。今もきれいに年を重ねられていて、今も素敵な方です。

投稿: mitsuko | 2015年5月 4日 (月) 05時24分

出張で蓮台寺の木賃宿に泊まった時、隣の部屋に入った大島からの旅芸人一座と親しくなりました。「踊子」を想い出すと同時に一座の明るさに心安らぎ、和やかに一夜を明かした想い出があります。

政経40年卒 燕雀坊 村上圭三

投稿: 村上圭三 | 2015年8月28日 (金) 14時29分

 高校生のころ、この歌が好きできれいな声の持ち主でもあった同室の大学生がよく歌っていました。それまでは歌だけの世界だと思っていた私は後年同名の小説があることを知ったと思います。
 まだ、伊豆には行ったことがありません。行けるでしょうか。

投稿: 今でも青春 | 2015年8月29日 (土) 18時34分

高校生の頃、映画でみた鰐淵・津川の「伊豆の踊り子」をもう一度みたいとずーっと思っていましたところ、先日、YouTubeで見ることができました。
嬉しくて再び投稿させていただきました。

投稿: jiro.sakata | 2015年12月16日 (水) 11時57分

この歌には思い出がたくさんあります
① 野路由紀子さんがこの歌をrecoverしています
  あの美声で酔わせてくれますよ 
 一面、ひばりさんより上手いとも言われます
  “野路由紀子・踊り子”で検索   ぜひお聴き下さい
② 昭和50年代前半に東京出張の帰りに伊豆旅行しました   独り旅が好きでした   河津駅に伊豆の踊子の映画用ポスターでしょうか、貼ってありました   その踊り子姿の女優がなんと可憐で美しかったか、今でも心に焼き付いています   その後、あの女優は一体誰なんだろうと疑問に持ち続けていたのです
今になって作品の制作前後の年代から考えると、百恵さんに間違いなしですね   彼女のファンではありませんが、あの踊り子姿には今となって友和氏に嫉妬しますよ

投稿: くろかつ | 2016年6月 2日 (木) 08時49分

初めてコメントを書き込ませていただきます。

素晴らしいサイトだと思います。きちんと演奏と歌詞があり、「蛇足」と謙遜されている解説も非常に行き届いていて、感服するものが多いです。そして皆さんが寄せられているコメントも読ませるものが多くて、これも感心するばかりです。

やはり音楽と記憶の結びつきは非常に強力なのだと思います。選曲の素晴らしさとも相まって、集団の記憶と個人の記憶が重なり合って共鳴しているのがコメントからも読みとれます。

さて、「踊子」ですが、1956年の歌ということは、1948年生まれのわたしが8歳のときの歌ということになります。間違いなくラジオで聞いており、はっきりと記憶があります。ただ小学校の2年生ぐらいですから、これが『伊豆の踊子』と関係があるとはまったくわかっていなかった。川端康成の小説を読んだのは中学生ぐらいだったと思います。

今回、手元にあった原作を読み直してみたのですが、ずいぶん短い小説なんですね。もっと長いと思っていたのに。それで、この歌詞と原作は相当に違うこともわかりました。

「天城峠で 会うた日は 絵のように あでやかな 袖が雨に 濡れていた」とありますが、小説では冒頭で「私」は峠にさしかかるところで激しい雨に追いつかれてしまいます。そして駈け登った茶屋で旅芸人の一行と遭遇します。そのときには「私」はびしょ濡れになっていて、茶屋の婆さんが火のそばに来るように誘ってくれます。

「袖が濡れていた」のは踊子ではなく私なんですね。踊子たちは早めに茶屋で雨宿りをしていたのです。少しは濡れたかもしれませんが、踊子の「赤い袖に 白い雨」という描写はありません。

「紅色の 灯に かざす扇 舞いすがた」という踊子の踊る姿を美しく描いた歌詞があります。これも原作でそれに当たるようなところを探すと、「湯ヶ島の二日目の夜、宿屋へ流して来た。踊子が玄関の板敷きで踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下ろして一心に見ていた」という部分しかないんですね。踊子が舞う姿の描写はありません。

「下田街道 海を見て 目をあげた 前髪の 小さな櫛も 忘られぬ」はもっとおかしくて、「踊子は道にしゃがみながら、桃色の櫛で犬のむく毛を梳いてやっていた。……湯ヶ島にいる時から私は、この前髪に挿した櫛を貰って行くつもりだったので、犬の毛を梳くのはいけないと思った」とあって、クスッと笑ってしまいます。

「さよならも言えず 泣いている 私の踊子よ」も、別れの場面で踊子が涙を流しているという叙述はありません。逆に「私」が「涙をぽろぽろ」流している。「私は涙を出委せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった」というのが結びです。

ですから、原作は歌の骨格になっていますが、この歌詞は詩人のイメージを通過して綴られているのでしょう。

それにしても美しい歌だと思います

投稿: Francalanza | 2017年12月30日 (土) 18時57分

渡久地政信は本曲を始め「上海帰りのリル」「お富さん」「東京アンナ」「池袋の夜」・・・ヒットメーカーでした。なお本曲に2014/8/19投稿のyoko様の幻想物語は素晴らしいの一言です。
サユリスト けん様、 「寒い朝」投稿の芳勝様、下記↓は吉永小百合の歌声です(なお焼酎は名門商業高校出身ではないので念の為。うた物語「星落秋風五丈原」で校歌紹介した名門商業高校は元ヤクルト八重樫捕手やサンド伊達富澤の母校)。
(隆哉月生田さん提供)http://www.youtube.com/watch?v=K7gUdZqgCJY

投稿: 焼酎 | 2018年8月25日 (土) 11時10分

朝日ラジオ放送のホームソングとして作られ、三浦洸一が歌ってヒットしていた「踊子」は、3年後の昭和35年に3回目の映画化、鰐淵晴子・津川雅彦主演「伊豆の踊子」の主題歌として使われたそうです。(精選盤昭和の流行歌・森田潤解説)
それにしても「踊子」の曲を手掛けた渡久地政信のメロディは、本当に素晴らしいの一言ですね!

焼酎様がUPして下さった動画、紅白初出場で「いつでも夢を」を、橋幸夫とのデュエットで歌う、淡いピンクのドレス姿の吉永小百合当時17才「芳紀」の頃の、可憐な彼女を観ていて、私は感じたことがありました。

「寒い朝」のページにある蛇足、>ひたむき・健気(けなげ)・清潔という少女像は、昭和30年代の吉永小百合を最後に、わが国では絶滅しました。
私は、このユーモアセンス抜群の、究極のコメントをされた二木先生に、その感性の凄さを感じました!


投稿: 芳勝 | 2018年8月26日 (日) 00時27分

 焼酎さん、芳勝さん、若い頃憧れた「踊り子」へ誘っていただき有難うございました。胸の奥にしまい込んでいたその頃のトキメキを思い起こしました。
 
 時代や価値観も変化し、その頃の「ひたむき・健気・清潔という少女像」に出会う機会が少なくなりました。
 あの頃「清潔、公正、正義感、責任感」にあふれた同級生がいました。弱い人を助け、無理難題を持ちかけてくるものには男らしく立ち向かうので結構もてていました。あの頃の女性側が求める少年像は?

 今朝6時過ぎNHKTVで「目撃にっぽん」で「配属先は応援団」という番組をやっていました。自分の得意な技術を活かすため技術部所属になった新入社員が会社の応援団に回されます。「自分がやりたい技術でなく都市対抗野球の応援団員として未経験の応援をやらねばならぬ葛藤、深夜近くまでの練習、都市大会本番での応援などをドキュメントで放映されました。
 
 練習後のミーティングで「声が小さい。移動がもたもたしてみっともない。ヘラヘラしない」と先輩女性社員から注意されていました。営業部の新入社員はあがり症で「未経験なことをやるとストレスや疲れ」が出るとぼやいていました。

 週3回の練習の間、会社の伝統である応援の意味を先輩から教えられ「腑に落ちた」新入社員は深夜や休日の自主練習をして応援技術を向上させます。応援団の練習や本番の応援を通じて「人づくり・・社員同志の絆つくり」や「責任・率先・協力から挑戦力、リーダーシップ」、「社会人になったらやりたくない仕事でも自分の目標をたてて行動する」ことを自覚してきます。

 焼酎さんが情熱を傾けられた応援と重なりました。
芳勝さんの草笛演奏の挑戦素晴らしいです。私は 9月の敬老の日関連で横浜、練馬等から草笛のボランティア演奏を依頼されています。時間をみつけて近くの公園に行き練習をしています。上手くはありませんが「聴いてる人の心に響く」ように練習しています。本日の応援団や甲子園で感動した大阪桐蔭・金足農の日頃の練習、努力を参考にしています。頑張りましょう。

投稿: けん | 2018年8月26日 (日) 10時29分

いつ頃のことだったか、昭和32年の初春の頃だったか、ラジオから流れてくるこの歌の、三浦洸一の声の美しさに驚嘆し、幾度か聞くうちそのまま覚えこんでしまいました。歌詞もきれいだったし、メロディーの流れも覚えやすく感じました。特に、「さよならも言えず・・・」というリフレインのところがいいですね。
その春大学に合格し、母からご褒美に旅費をだしてもらって、伊豆旅行に出かけました。天城峠にも行きましたけれど、それより石廊崎と修善寺のほうが印象に残っています。
その年の夏休み、所属したクラブの合宿先がなんとまあ、また伊豆の、南の方の温泉地でした。最初の夜の宴会で、私はこの歌を歌い、ナントカ賞をいただきました。
「伊豆の踊子」の本は入学匆々に読みましたけれど、映画の方はどれも見ていません。DVDをツタヤで探してみようと思いますが、やはり高橋英樹のがいいのでしょうね。

しかしまあ、伊豆はいいところですね。私はそろそろ運転免許を返上しなければならない歳、最後のドライブに、富士山から伊豆の方をまわってみようと思っています。

投稿: 田主丸 | 2018年10月 8日 (月) 22時48分

この歌も好きな歌の一つです。
小説も今年に入ってからの三度目くらいの読み返しになりましたが、最近テレビで見た吉永小百合の踊り子がすごく可愛らしく感動しました。
三浦洸一の歌はどれも気に入っています。

投稿: 栗さん | 2018年10月10日 (水) 09時32分

「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい速さでふもとから私を追って来た。」
有名すぎる『伊豆の踊子』の書き出しです。しかし、峠の雨脚といえば思い出す別の話があります。江戸時代の本(書名は忘れました)にある話です。

 江戸から来た商人が、伊勢・桑名近くの峠の茶屋で、お茶のアテのハマグリの煮つけを食べた。初めて食べたが、あまりの美味しさに「ばあさん、この煮物の名前はなんというの?」ときいてみた。
めちゃくちゃ耳の遠かったばあさんが、天気の事でも聞かれたのかと思い、ちょうど降り始めた雨に「はあ、時雨ですわ」と答えた。
 その商人が、江戸へ帰ってから「伊勢の時雨煮が、ことのほか美味しかった」と言い広めた・・時雨煮の名前の由来の一説です。

 まあできすぎた話ですが、茶店の風景がありありと目に浮かぶ、いい話です。『伊豆の踊子」も好きですが、この年になってみれば、しょせんは若者、学歴エリートの呆けた話ともいえる。時雨煮の話は、生活感において川端康成をこえていると思います。

投稿: 越村 南 | 2018年11月21日 (水) 23時49分

突然ながら、二木先生にお尋ね致したく思います。

今日車の中で、私の好きなこの「踊子」を聴いていましたら、ふと三浦洸一が「月のきれいな」を「キレイナ」と発音しているのに気がつきました。
日本語の文法では、エイの連母音は、エ列長母音の原則で発音すると習っております。つまり、「例、仮名書きで れい、発音では レー」「綺麗、きれい・キレー」「丁寧、ていねい・テーネー」「命令、めいれい・メーレー」「経営、けいえい・ケーエー」etc.
たしか森昌子は、「センセー、センセー それは センセイー」と歌っていたようですし、、日野てる子は、「キレイナ 月が」と歌っていたような記憶があります。
記憶が薄いのですが、昔、川田正子は「トケーダイだよ」と歌い、別の人が「トケイダイ」と言っていたような記憶もあります。

文法書によれば、エ列長音の原則には多少の例外もあるとか。しからば一体歌唱の世界では、このエ列長音の原則はどのように認識、ないし解釈されているのでしょうか。
二木先生、よろしければご説明頂ければ幸甚に存じます。

まあ、「センセイー」と歌った方が、歌の終わりとして締まっているようですし、「キレイナ月が」と歌った方がリズムに乗っているような感じではあります。 つまらない質問ですみません。

投稿: 田主丸 | 2019年2月27日 (水) 23時42分

田主丸様
恐れ入りますが、交流掲示板のほうをご覧ください。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2019年2月28日 (木) 15時25分

わたしも「貴やかに」が正解だと思います。少なくとも、作詞家のイメージした踊り子は気品のある無垢な美少女だったはずです。ただ世人にはこの作詞者の感性が理解できなかっただけだと思います。同じことは吉永小百合を持てはやし、鰐淵晴子や山口百恵に触れない低俗な美意識にも言えます。私は大学生の時、吉永小百合主演の看板を見て、踊り子に対する冒涜だと興醒めしたことを覚えています。その後山口百恵主演の広告を見て納得した次第です。
あの頃から、メディアが担ぐスターの基準ががらりと低俗化し始めたような気がします。

投稿: 関口益照 | 2019年11月22日 (金) 14時24分

先日、NHKのBS2で「伊豆の踊子」の映画を鑑賞しました。山口百恵$三浦友和版です。小説は一度読んだ記憶があります。いつの頃か定かではありません。図書館に駆け込んで川端康成の伊豆の踊子を借りました。映画の場面をたどりながら改めて読みました。意外と短い小説でした。読み終えて録画しておいた「伊豆の踊子」を再鑑賞しました。この映画で川端小説とは内容の違ういくつかの名場面をみました。病に倒れ湯ケ野温泉街のはずれの小屋で息を引き取る、以前、旅仲間だった踊子が慕うお姉さんの死、下田街道の間道で髪に刺したかんざしを学生さんに所望されて踊子がうつむき加減に差し出す場面、下田港の別れの場面の設定など、小説には語られていない名場面を観ることができました。この映画の締めくくりとして大林宣彦監督が伊豆の旅に出て小説「伊豆の踊子」をトレースされる番組をみることもできました。コロナ禍のさなか、ありがたいひとときを八十二路の身にいただきました。

投稿: 亜浪沙(山口功) | 2020年6月25日 (木) 15時00分

美しい歌詞に感動いたします。「天城峠で会うた日」の「会うた日」という言葉に、その出会いをいとおしむ心を感じます。伊豆は半島なので他の土地から離れた不思議な世界のようで、伊豆の美しい景色が踊り子の美しい物語を引き立てているように思います。そこにいる人々も、「南伊豆の人は泥棒にお土産を持たせる」と聞いたことがあり、真実の人間という感じの人が多いようです。

投稿: kazu | 2020年11月16日 (月) 15時23分

このサイトは本当に勉強になります。
皆さん色んな事を知っていらして、私の無知さをいつも思い知らされます。
この歌は知っていましたが、「踊子」の歌だなんて知りませんでした。
「踊子」が6回も映画化された事も、ここで初めて知りました。
私が知っているのは、小百合&英樹版と百恵&友和版だけです。どちらもとっても心を集中して観賞した記憶があります。
いつか、6つの映画 全部を比べて観賞したいと、強く思いました。小説も読み直したいと思います。

小百合さんについては、芳勝様のコメント(以下)の通り、私も同感です。

「寒い朝」のページにある蛇足、>ひたむき・健気(けなげ)・清潔という少女像は、昭和30年代の吉永小百合を最後に、わが国では絶滅しました。
私は、このユーモアセンス抜群の、究極のコメントをされた二木先生に、その感性の凄さを感じました!

それに、今でも彼女は社会的な問題にもとっても関心があるし、ルックスだけではない、彼女の生き様にも私はとっても共感しています。
私の兄は昔からずーっと、熱烈なサユリストです。

投稿: 白鳥 絵梨香 | 2021年1月25日 (月) 13時34分

「伊豆の踊り子」が好きです。川端康成さんは伊藤初代という人と、彼が 22 歳彼女が 15 歳の時に婚約し、しかし彼女の方から婚約を破棄され、それは川端さんの心の大きな傷となって川端文学に強い影響を与えたそうです。「伊豆の踊り子」が素晴らしいのも、この心の傷が、踊り子さんに軽薄に惚れましたというのでない、深みを与えているからかと思えます。初代さんは貧苦の少女時代を過ごし、その彼女の境遇は孤児である川端さんの心には合っていたと思われます。この婚約破棄事件について、理由は「女心と秋の空」ということだろうと理解されて来たらしいのですが、近年理解が進んだということを最近初めて知りました。2014 年にわかったこと、それを彼女の息子さんも「姉から聞いた」と認めていることは、彼女が身近な人に(ひどい意味で)暴行されたということです。そのため当時の時代のことであり、彼女は川端さんの所に行く資格を失ったと考え、「(理由を)話すくらいなら死んだほうが」「私の様な物は此の世にいないと思ってくださいませ」と別れの手紙を死ぬ思いで書いたようです。息子さんは川端さんに愛された母を誇りに思うと言っています。この歌の踊り子の美しい姿は、作詞作曲のかたの美しいお心から来ていると思い、また「伊豆の踊り子」の踊り子さんが実際に素敵な人であったことの反映でもあると思いますが、この初代さんの面影も「伊豆の踊り子」を通して投影しているかもしれません。

投稿: kazu | 2021年2月18日 (木) 10時32分

交流掲示板にてyasushi様の
三浦洸一  桜の園に誘発されてYouTubeで踊り子を聴きました。

美声にに酔いながらふたつのことを思い出しました。
15年程前でしょうか、当地のJA収穫祭のゲストが彼でした。僕、当時は北島三郎より売れてたんですよとの言葉が寂しく胸に響きました。
直近では先日の徹子の部屋で
神津善行親子がゲスト。黒柳徹子さんが、音大では三浦洸一さんと同期でだったこと。シャイな方で卒業式の日に初めて言葉を交わしたこと。
素晴らしいバリトンで今にオペラ会のスターにになれると思ってた事。

この言葉にほっとした私なのでした。

二木先生の蛇足、皆様のコメントにも
踊り子への愛着が偲ばれました。
三浦洸一の歌の数々は日本歌謡界の宝です。

投稿: りんご | 2021年4月 2日 (金) 17時26分

映画化6回目の「伊豆の踊子」昭和49年(1974)、西河克巳監督作品、主演は山口百恵と三浦友和(東宝=ホリ企画)を鑑賞しました。挿入歌の歌詞は若々しく、可憐な二人の出会いと別れを原作を踏まえながらも見事に映像化されていて、わが身にかえて何回も再生しました。聞き取れなかったフレーズもありましたが三浦洸一の「踊子」とは違ったものを感じました。歌詞をご存じの方がいらっしゃいましたらこのコメント欄で教えてください。なお、メロディーを二木先生がアップして下さればこの上もない喜びです。物語の中では結ばれることのなかった山口百恵さんと三浦友和さんは浮いた話など全くなく現実には固く結ばれておられるのに感服しています。
 

投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2021年4月 5日 (月) 17時43分

 このページは三浦洸一さんの「踊子」ですね。
トップ面の左下に「うた物語交流掲示板」があります。
https://9216.teacup.com/duarbo/bbs/

「 伊豆の踊子 山口百恵 歌詞  」 で検索してください。
https://www.google.co.jp/
歌詞サイトで動画サイトの歌が聴けます。

投稿: なち | 2021年4月 5日 (月) 18時57分

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