さすらい
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:西沢 爽、補作曲:狛林正一、唄:小林 旭
1 夜がまた来る 思い出つれて 2 知らぬ他国を 流れながれて 3 あとをふりむきゃ こころ細いよ |
《蛇足》 小林旭主演による日活・無国籍活劇“流れ者シリーズ”の第3作目『南海の狼火(のろし)』の主題歌として作られました。
映画は昭和35年(1960)9月公開で、翌月にはレコードがコロムビアから発売され、大ヒットしました。
この歌には原曲があります。太平洋戦争中、フィリピン・ルソン島に駐屯・転戦していた兵士たちの間で歌われていた『ギハロの浜辺』です。ギハロ(Guijalo)は、ルソン島南東部の地名だそうです。
この歌は、いわゆる兵隊節の1つで、作詞者・作曲者は不明です。
歌詞もわかりませんが、メロディが寂しいことから、別れか兵隊生活の悲哀を歌った内容かもしれません。
兵隊節については、『ズンドコ節(海軍小唄)』の蛇足をご覧ください。
南方から復員してきた教師が生徒に教え、その記録をもとに狛林正一が曲作りをし、西沢爽が歌詞をつけたということです。詳しくは下記・考古学者さんのコメントご覧ください。
YouTube=https://youtu.be/im71JCqWrs0
(二木紘三)
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コメント
[さすらい」「さすらいの唄」
ただただ有難く、厚く厚くお礼を申し上げます
特に「さすらい」は、60余年前の過ぎ越しが昨日の如く思い起こされ、万感深く胸迫るものを禁じえません。
この歌を歌いつつ、望郷のの思いの中にむなしく朽ち果てて逝った20万の御霊に、ただただ、伏して涙するものです。
千鳥が淵い行く人なくしずかなり
一会の落花すでに見るなく
白髪の老翁ひとりみ社に
坐して動かずいく時か経つ
投稿: 篠崎信夫 | 2007年8月26日 (日) 14時38分
こんばんわ、今夜もうた物語を開いて、選曲しました。そして、聴いてます。
昭和35年のヒット曲ですかね。
中学のクラブ活動をおえて、山すそを仲間と帰る途中、大声だして夕日を浴びながら歌った。
その山間は、いまでも当時と同じですが、自分だけが時を重ねたようです。
投稿: 益子良夫 | 2007年11月 1日 (木) 23時24分
この歌はギターを持った渡り鳥シリーズと関係が有るような
気がします。高校生のとき掃除をしながらこの歌を歌っていて先生に無茶苦茶に怒られた経験があります。
投稿: M.U | 2008年6月13日 (金) 18時58分
『歌は心の走馬灯
人生 絵模様 歌舞台』…SHU-SHIN
うた物語の《蛇足》を読ませていただいて、はじめて歌の意味がより深く理解できるようになった気がいたします。
南方で辛い戦いを強いられていた兵隊さん達のつのる望郷の想い、その深さを改めて知ることができました。
さらにこの歌は、復員教師により広められたものでもあるらしいこと。
まさに、歌は歌い継がれ継承されていくべきであるということを私達に教えてくれています。
投稿: パンプキン | 2008年6月14日 (土) 13時38分
母が逝った頃を想い、我が心の歌です。
投稿: 浜の文吉 | 2008年9月21日 (日) 10時08分
当時、全くどうしようもない荒唐無稽な小林旭の無国籍アクション映画の主題歌でしたが、映画に似ず、唄はよかったので、ラジオからもよく流れており、みんな口ずさんでいました。
文学作品(石原慎太郎「星と舵」1965年)の中で、ヨットで航海中のクルーがこの唄を歌っている描写があったように記憶しています。
投稿: 前期高齢者 | 2009年8月14日 (金) 16時49分
「さすらい」と「ギハロの浜辺」について調べていたところ下記の通り判明しました。
東京丸高会・過去のニュース http://www.tokyo-marukokai.net/old-news.html
に下記の記載がありました。
■NHK「そして歌は誕生した」に丸高登場 (2003.12.29)
12月29日に放映されたNHKの「そして歌は誕生した」で、 小林旭の昭和35年のヒット曲「さすらい」の原曲を巡る秘話として、 丸高の故 山上正雄先生を中心とした物語が紹介されました。
さらに、渡三郎さん(coolman@8107.net)主宰の「帰ってきた渡り鳥」のサイトのなかで、NHKの「そして歌は誕生した」の内容をまとめられていますので、こちらで要約・引用してご紹介します。なお、このページには原曲の歌詞も紹介されています。http://www.8107.net/akira/sasurai.html
香川県の旧丸亀第一高校の英語の先生が生徒たちに歌って聞かせた「ギハロの浜辺」が「さすらい」になったというもの。作詞:西沢爽/補作曲:狛林正一/採譜:植内要(にわうち かなめ)とあるが、植内要とは、当時コロムビアの文芸部長をしていた方のペンネーム。学生時代、丸亀高校出身の友人が、丸亀高の英語の先生に聞かされていた哀愁あるメロディーを、寮の友人であった植内氏に採譜を依頼した。植内氏は後に小林旭の歌に相応しいと思い、コロムビアの当時の名ディレクター・馬淵玄三氏に託した。馬淵氏は作詞家の西沢氏に「深い陰影のある男の寂しさを表現する詩に変えて欲しい」と依頼した。
一方、丸亀の地元では別の教え子であった方が、瀬戸内海放送の番組制作時のBGMに相応しい曲を探しているうちに恩師に教わった「ギハロの浜辺」を思い出し、当時の音楽の先生に編曲を依頼した。「ギハロの浜辺」はラジオ放送として流れた。そして、その歌を戦地から持ち帰られた先生はカセットテープに録音。これは先生の遺品として譜面と共に発見されてる。「ギハロの浜辺」を持ち帰られた先生は大ヒット曲「さすらい」に生まれ変わっていたことも知らずに亡くなられたそうだ。
「ギハロの浜辺」は英語の先生がフィリピンの収容所に抑留されていた際に京都の第十六師団の将兵から聞いたものではないかと関係者が証言した。先生の譜面の記録には、作詞 第十六師団将兵 作曲 大西嘉武とあった。編曲は後の上記の音楽の先生の名前が記されていた。
投稿: 考古学者 | 2009年8月14日 (金) 19時38分
いつも見たり聞かせてさせていただいてます。特に学校の部活で(当時辞達学会といった)なにかとうたう歌が後にアキラの「惜別の歌」だった訳は、誰も知りませんでしたので感激しました。私MIDI作成セットは買ったものの投げて「お蔵入り」してます。幼い孫が大きくなったらやらせようと思うがそのころはもっと便利になってるでしょう。そこでやはりアキラのs62年北国の春コンビが作った「早春情歌」をリリース願えないでしょうか?これマイナーの為カラオケもなく今秋の小学校同窓会のテーマ曲と考えているのです。
投稿: itiyounosato | 2010年4月18日 (日) 10時27分
後にアキラの「惜別の歌」だった訳は、誰も知りませんでしたので感激しました。
とのことですが、このページは「惜別の歌」ではなく、「さすらい」なのですが・・・・
「惜別の歌」については、該当のページがありますが、勘違いされていませんか?
投稿: 老婆心ながら | 2011年6月28日 (火) 19時20分
「ギハロの浜辺」についての考古学者さんのコメントと管理人さんに触発され、感じたことを書いてみます。このコラムは最近、拝見するに至った偶然のほかに、2つのことを偶然に知ったことが重なっています。
このコラムを知った直後に偶然、澤木興道(さわき こうどう)老師1880年6月16日 -1965年12月21日)は日露戦役において、1904年(M37年)8月31日に首山堡の戦闘において口から喉に抜ける銃創を負われたのですが、当時は、津の歩兵第33聯隊の伍長でいらっしゃいました。
歩兵第33聯隊と言いますと、「ギハロの浜辺」歌詞に出てくる2つの地名のGuijalo(鄙びた港)とMayon (火山)はいずれも、Legazpi付近のものですので、 第16師団将兵の作詞とされていますが、1941年12月にLegazpi飛行場を占拠・使用するために同地に上陸した同師団歩兵第33聯隊にまつわる方の作であるように思われます。
一方、Sulu諸島の玉砕地Jolo島で停戦も知らずに飢えと寒さの中で山中をさまよい、現地住民の襲撃に僅かに生き残った80余名が来島した米軍に救出されたのが1945年9月下旬ですが、この時にJolo島生き残りの方が一時期収容されていたのがレイテ島パロ高地にあった収容所です。 ここは、1944年10月に米軍上陸後4日目に歩兵第33聯隊が軍旗を焼き玉砕した場所として、1945年当時から収容者にはよく知られていたと聞いています。
つまり、16師団全体としてはレイテ島でそのような過酷な状況で壊滅したのであり、16師団将兵であられた方全員としても、戦中・戦後に米軍に収容・救出された方はきわめて少なく(1000名程度?)と思われます。 まして、さらに歩兵第33聯隊がLegazpiに上陸した1941年当時から1946年以降まで生き抜かれた部隊の関係の方は、在比収容所の中でもごく少数であったと思われるのです。
以上のことを考え合わせて、「ギハロの浜辺」は、戦中に兵員の間で謡われたというよりも、むしろ、その悲しい曲調から、「異国の丘」同様に、収容所の中で作られ、謡われ、収容されていた方々の共感を得たことにより、内地にもたらされた曲ではないかと思えるのです。
また、歌詞の中で帆船のことをバラオとしているようですが、これはスペイン語のveleroのことと思います。ヴェレロという音ですが、タガログ語などで言うビンタという言葉を使わずに、veleroを使われたところに、作詞者の方のお人なりが偲ばれます。
長くなりましたが、この曲の旋律と言葉には、はほぼ全滅した人間集団の中で、辛うじて生き残られた方の悲哀、死者に対する思いがまざまざと感じられる、ということを申し上げたかったのです。 拙いながらも、こうして偶然をまとめてみて、改めて茫然とする思いでいます。
参考とした資料です:
1. 澤木興道聞き書き 年譜、 酒井得元、 講談社学術文庫。
2. 敗残の記、 藤岡明義、 中公文庫他。
3. レイテ戦記 全3巻、 大岡昇平、 中公文庫。
<この書込みは、先の19時39分の投稿の書き損ないを訂正したものです。 恐れ入りますが、先の投稿とこの但し書きの削除をお願いします。>
投稿: 有谷謙橘 | 2011年11月30日 (水) 19時59分
二木先生の解説にあったように、昭和30年代の小林旭のヒット曲には『さすらい』『ズンドコ節』『ダンチョネ節』など兵隊節を原曲にした曲が多いですが、『さすらい』は旋律・歌詞ともに特に好きな曲です。
映画『南海の狼火』は、共演が宍戸錠、浅丘ルリ子、白木マリ、金子信雄、内田良平・・・と、他作品(『南国土佐を後にして』『ギターを持った渡り鳥』・・・)と似たような顔ぶれの出演者と地方ロケ(この映画では宇和島)が特徴の日活無国籍アクションの一つで、主題歌『さすらい』がぴったりマッチしていました。
投稿: 焼酎百代 | 2014年10月 9日 (木) 20時04分
本サイトに長年アクセスしている者として実に迂闊な話ですが、本サイト掲載曲の演奏に際しては二木先生が一声かければ“同好の士”が何人か集まって“二木紘三楽団”を編成して演奏するのかと長年想像していたんですが、『ダンシング・オールナイト』記載の管理人コメント欄で、すべて二木先生がパソコンで作られたものと知り驚いているしだいです。
日活無国籍アクション全盛期の代表曲『さすらい』を聴くと、伴奏・間奏ともに“二木紘三楽団”の“複数のメンバー”が演奏しているとしか思えないくらいの臨場感がありますが、二木先生単独による演奏とは恐れ入りました。尚、特に『さすらい』の「間奏」(1番-「間奏」-2番)は素晴らしいの一言です。
投稿: 焼酎百代 | 2015年7月18日 (土) 22時16分
定年後に勤めた職場で、誠実な青年と出会いました。私が疲れていると、そっとチョコレートなどを差し出してくれるような若者でしたが、3月で退職します。スキルアップのできる仕事を見つけて故郷に帰るそうです。同僚として、私の愚痴も聞いてもらったし、彼の悩みも聞きました。しばらくは、彼の思い出を連れて淋しさがやってくるだろうと思います。
投稿: omuraisu | 2019年3月 9日 (土) 21時24分
少し前に老人は悲しい歌、淋しい歌が好きです、という投稿がありましたが私もその例にもれません。この歌に魅かれて何度も繰り返して聴いています。この歌とともに父が思い出されます。
父と母は別居していて小さい頃私は時々父の家に遊びに行き父と一緒の布団で寝るのが楽しみでした。父は布団の中でいつも戦争の話をしてくれていたのですがあるときパタリと話さなくなりました。何度も「話して!」と要求したのですがだめでした。
父は支那のある町の警備隊長をしていて町を去るときその市長から贈られたという書が田舎の家の掛け軸にかけてあります。達筆で何が書いてあるのか分かりませんがいつか解読してみたいと思っています。
スポーツマンで怖い存在の父を私は子供の頃ずっと超えられない壁と感じ、いつしか憎しみも感じ遠ざけていましたが、人づてに「戦争で友達は皆死んだんだから俺もいつ死んでも良いんだ」と呟いていたと聞き、また玄関に並べてある父の靴をみてずいぶんと小さいんだな、と感じその超えられない壁がガラガラとくずれて行くような気がしました。
父もこの曲を寂しく聞いていたのかも知れない、などど思って聴いています。私も戦争の経験はないのに戦友の気持ちが乗り移ったかのように感じています。
本曲に焼酎様が二度続けて投稿されていますね。お体の具合はどうでしょうか。一章様もお元気でしょうか。
投稿: yoko | 2019年3月10日 (日) 23時05分
この映画が出たころ吉永小百合と言う美人で可愛い女優がいると校内でもちきりになりました。それ以来のファンです。
サユリストの好みそうな歌リストです。
若い東京の屋根の下、そこは青い空だった、若い二人の心斎橋、キューポラのある街、勇気あるもの、いつでも夢を、伊豆の踊子、光る海、草を刈る娘、泥だらけの純情、寒い朝、愛と死のテーマ、奈良の春日野。You Tube には全部ありますね。吉永小百合の歌い方は素人っぽい感じですが、無技巧な分、かえって爽やかさが伝わってきます。だそうです。
投稿: 海道 | 2021年5月 9日 (日) 12時20分
新婚旅行の思いで
小林旭の「さすらい」を聞く度、新婚旅行での恥ずかしい思いが甦ります。ほぼ50年前、新婚旅行で行ったハワイでのこと、新婚カップルばかりのツアーバスで、ガイドさんから各組1曲歌を歌う様所望されました。
歌謡曲は聞くのは好きでも歌うのはカラッキシ駄目な私は「さあどうしよう」と困り果てましたが、当時覚えやすい曲で口ずさんでいたのが小林旭の「さすらい」でしたので、深く考えず「さすらい」を無心に歌いました。
歌い終えた後、「どうせ死ぬまで」「いつになったらこのさびしさが」などおよそ新婚カップルの歌には不向きだと分かり、恥ずかしい思いにかられました。
後々、家内とその話をすると「とても聞くに堪えない下手な歌で私も恥ずかしかった」とのことでした。
恥ずかしい思い出とはいえ、懐かしい、良い曲だと思っています。
投稿: 伊勢の茜雲 | 2022年5月30日 (月) 11時48分
「さすらい」実はこの唄の原曲が太平洋戦争中、兵士たちの間で歌われていた「ギハロの浜辺」だったことも、そしてまたこの唄が、小林旭主演の映画「南海の狼火」の主題歌だったことも、私はここで初めて知りました!
今も大好きなこの唄がヒットしていた昭和35年と云えば、私はまだ6歳でしたが、ただ当時、あちこちの家のラジオからこの曲が頻繁に流れていたことだけはハッキリと覚えています。
また、この唄の他「ダイナマイトが百五十屯」「ダンチョネ節」「ズンドコ節」「アキラのツーレロ節」なども、私はよく口遊んでいました。
幼かったころの当時のインパクトが今も根強く心に残っているせいなのか、私は現在、小林旭を最後の大物映画スターだとの思いがあります。
そしてまた、小林旭が歌った数多くのヒット曲の中には、22歳のころに私の窮地を救ってくださり、後も私の生きる道しるべとして永遠にお慕い申し上げている恩師が、孤独で苦しんでいた私のために、当時あえてアコーディオンを弾きながら聴かせてくださった「落日」という、生涯忘れられない大切な唄もあります。
昭和時代において、スーパースターの石原裕次郎と並んで、小林旭の存在感は当時から圧倒的なものがありました。
よくよく考えてみれば、1938年11月3日生まれの小林旭は、現在満83歳になるんですね。今私が正直に思うのは、持ち前のその雄姿をこれから先も我々にずっと見せ続けて欲しいと、私は今切に願うばかりです。
投稿: 芳勝 | 2022年8月31日 (水) 16時33分