背くらべ
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 柱のきずは おととしの 2 柱にもたれりゃ すぐ見える |
《蛇足》 この歌は、詞が先に大正8年(1919)、雑誌『少女号』に発表され、楽譜は、同12年(1923)5月、童謡集『子供達の歌 第三集』(白眉出版社刊)に、詞とともに掲載されました。
作詞した海野厚(本名=厚一)は、明治29年(1896)、静岡県豊田村曲金(現在の静岡市駿河区)の旧家に生まれ、旧制静岡中学から早稲田大学に進みました。
童話雑誌『赤い鳥』に投稿した童謡が北原白秋に評価されたことから、童謡作家の道を歩み始めましたが、残念なことに、大正14年(1925年)、28歳10か月の若さで亡くなってしまいました。
彼が学んだ静岡市の西豊田小学校には、『背くらべ』の歌碑が建っています。『背くらべ』のほか、『おもちゃのマーチ』などの名作があります。
たいていの家では、幼い子どもたちの成長ぶりを知ろうと柱や壁につけた印があるはずです。この歌は、そういう暖かい光景を歌ったものです。
子どもの身長を測るのは普通は親ですが、この歌では兄で、それを弟の視点から歌うという設定になっています。
この歌でよく話題になることが2つあります。
まず、背くらべは普通毎年行うのに、去年ではなくて、おととしのきずと比べているのはなぜか、ということです。
もう1つは、「やっと羽織のひものたけ」の意味。ひもの長さしか伸びていなかったとする解釈と兄さんのひもの位置までしか伸びていなかったという解釈の2説があります。
このなぞを解くには、この歌詞がどういう状況で作られたかを知る必要があります。
厚は7人きょうだいの長兄で、末弟の春樹とは17歳の年齢差がありました。
弟の1人、欣也は後年、あるインタビューに答えて「あの歌はわれわれ兄弟姉妹のことを歌った生活記録だった」と語っています。ですから、この歌詞はきょうだいの交流から生まれたものと見てさしつかえないでしょう。
また、歌詞は厚が東京遊学中の23歳のときに作られました。
最初のなぞについては、「去年の」では音数が合わないため、あえて「おととしの」にしたという説もありますが、厚が何らかの事情で2年間帰郷できなかったからとする説が有力です。1年おいて帰郷して弟の背を測ったから、おととしのきずと比べることになった、というわけです。
2年間帰郷できなかったのは、病気療養中だったという説と作詞活動に没頭していたためとする説がありますが、正確なところはわかりません。
2については前者、すなわち「ひもの長さしか伸びていなかった」とする解釈が圧倒的多数です。童謡・唱歌の解説書やネット上の情報でも、ほとんどがそう説明されています。
確かに、平成17年度の男児の平均身長表を見ると、6~9歳児は1年平均5.5センチずつ伸びています。大正時代ですから、伸び率はもう少し低かったとしても、2年で10センチ見当は伸びていたはずで、これは子ども用羽織のひもの長さとほぼ一致します。
おととしのきずと比べると、ぼくの羽織のひもの長さほどしか伸びていないんだ、とちょっとがっかりしているわけですね。
しかし、もう1つの説も、それほど説得力がないわけではありません。
詩を作ったのが厚23歳のとき。背くらべがこの年だったとすると、末弟の春樹は6歳で、身長はおそらく110センチ前後。この高さはちょうど成年男子の羽織のひもの位置に当たります。
つまり、「ずいぶん伸びたと思ったのに、やっと兄さんの羽織のひもの位置に届いただけだった」と解釈できるわけです。私はこの説のほうが納得できます。
厚には弟と妹が各3人いました。ですから、この童謡の主人公が妹だった可能性もあります。しかし、厚がとりわけかわいがっていたのが春樹だったといわれているので、以上の記述はその視点に立って行いました。
(二木紘三)
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コメント
そう言えば、『背』 のふりがなは「せい」ですが、歌うときは「せえ」と発音するのが本当です、と言うのが話題になったと思い調べたのですが見つかりませんでした。
確か、古いレコードを聴くと皆「せえ」と発音し、最近の童謡では「せい」と発音していて違和感があるが、と言う質問に、アナウンサの小川宏氏からの回答だったと記憶しています。美空ひばりの越後獅子でも『芸がまずい』は「げい」ではなく「げえ」と歌っているとの指摘もあったように思います。
文字にしても発音にしてもだんだん変化していく、そういう時代の中にいるのだと、頭では分かっていても、私の名前を平坦に、は_ま_い_ ではなく、は~ま_い_ と、先頭にアクセントをつけて呼ばれると、少しムカつく今日この頃です。 愚痴りました、済みません。
話を戻しますが、『紐の丈』を「紐の長さ」とする説"だけ"を教わったため、歌詞を自分の行動に当てはめたとき、不自然さにどうしても納得できず、イメージが沸いてこなかったのです。だけど、『丈』本来の、高さを表わす発想が阻害されたため、ずっと中途半端な気持ちでいました。
子供が身長を測るとき、羽織のひもで測るなんて面倒臭い事はありえない。どこそこまで届いたと、頭に手を置いてそこから水平に伸ばして比較するのが、私の中では常識だったからです。
作者の実弟である春樹氏は「紐の長さ」のように解説していますが、それはそれ、私には、「久しぶりに会った兄にじゃれつく弟の微笑ましさ」までが伝わってくる、
『兄の羽織の紐の高さまでとする解釈』が一番スッキリします。
管理人様、目から鱗が落ちる思いをしました。有難うございました。
---本当の蛇足---
『背くらべ』は『子供達の歌 第3集』白眉出版社 1923年(大正12年5月)に発表ですが、歌詞は、1919年に雑誌『少女号』に発表されたとするものがあります。ただし残念ながら確認できません。
また、平成3年を最後に教科書からは姿を消してしまったようです。残念です。
参考:http://www.miyajimusic.com/blog/cho/?p=151
http://www.maboroshi-ch.com/edu/ext_40.htm
投稿: 浜井 | 2010年3月17日 (水) 18時20分
童謡唱歌を歌おうとしていますが、どの歌も歌詞はうろ覚えが多く、2番3番は支離滅裂。メロディだけでなく歌詞にも興味が出てきました。
この「背比べ」は一番は兄弟での背比べの様子ですが
2番になると「一はやっぱり富士の山」となっており
柱のキズからはじまり富士の山に結んでいることに
なんだか、凄いなあと思いました。
投稿: kt | 2013年3月21日 (木) 22時27分
やっと羽織の紐の丈ですから、10センチも伸びればやっとなどとは言わないのではないでしょうか。背が伸びたと思っていたのに、お兄さんの羽織の紐までしかないとがっかりしている様子が窺えます。お兄さんは憧れの人だったのでしょうね。良い歌ですね。にぎやかな家族の様子が見える様です。小さいころ羽織の紐や寝間着の紐が結べるようになると大人になったような気がしたものです。今、私は結べるかどうか心配になってきました。
投稿: ハコベの花 | 2013年3月22日 (金) 20時42分
私はこの歌が好きで子供の頃よく歌っていました。愛らしく温かい家族の様子に魅かれていました。ですがそのとき私の家の柱に傷はありませんでした。
柱にきずをつけたのは中学三年生のときです。中学三年生ともなると級友たちの背がぐんぐんと伸び、見上げるようになりました。私はそれが羨ましくて悔しくて、私も背が高くなりたいという思いで、誰にもわからないように小さな傷を床の間の柱につけました。
初めのうちは毎日のように柱にもたれて背丈を計りました。日が経つにつれ僕の成長はもう止まってしまっているのでは、という不安と不吉な予感がしました。徐々に柱にもたれることもなくなり、高校三年生の頃になると柱に背を合せたのは年に1~2回くらいだったのではないかと思います。
高校を卒業し都会に出て、いつの間にか50年が過ぎ去ってしまいました。田舎の家は主がいなくなり明かりも消えましたが柱の傷はそのまま残っています。ちょうど私の背丈の位置に残っています。当時の日々が昨日の事であるかのように思いだされます。取るに足らない思い出ですが、柱の傷は私にとっての青春の痕跡でした。
投稿: yoko | 2015年10月21日 (水) 08時51分
羽織の紐の丈のことですが、私は、「一昨年測ったその印が、昨日そのそばに立ってみたら、なんだ、今着ている僕の羽織の胸ぐらいまでしかないじゃないか」という意味だと子供の頃から思い込んでおりました。このページで知った2説のことは考えてもみませんでした。
私の説は、皆様お考えになって成り立たないでしょうか。少年が一人縁側に立っていて、彼は遠くの山々を見ながら、山々が背比べをしているなと、ふと思います。昨日少年は今寄りかかっているその柱に古い鉛筆かなんかの傷(線)を見つけて、その傷が、一昨年、お兄さんが測ってくれた、自分の身長であることに気がついて、背比べをして見たのです。そうしたらなんと、一昨年の僕は、今の僕の羽織の紐のあたりまでしかない、随分チビだったんだなあ、と少年は思うのです。兄さんは都会に出てもう家にはいません。(羽織そのものも実はもう今の少年には小さすぎるのかもしれません。紐の位置も当時着ていた頃より、上になっていることも考えられます。) 私は甘えん坊の弟が小学校でももう高学年になって、身長もこの一年でグンと伸びて、そのことに戸惑いながら、懐かしく一昨年の頃を思い出し、兄さんを偲んでいるそういう歌だと思っておりました。羽織の紐の長さというのは変です。紐は羽織についていていつも結んであります。それを解いて長さと身長差を比べるというのは不自然です。またその羽織を着ているのはお兄さんではなくて自分です。自分が今お兄さんと背比べをしている場合以外、お兄さんの羽織の紐というのはありえないけれど、そうなると「柱の傷」はどうなってしまうのか、説明の足りない変な歌になってしまいませんか?
投稿: 大橋 郁 | 2017年5月15日 (月) 00時30分
大橋 郁様
興味深い問題提起をいただき、ありがとうございました。
歌詞の解釈に計算を持ち込むのは無粋ですが、参考になるかもと思って書いておきます。
文科省の『学校保健統計調査』によりますと、1925年(大正14)における6歳男児の平均身長は107.6センチです。これを計算しやすいように108センチとし、ぼく(春樹)が6歳で、5月5日における身長はこれと同じだとします。
6歳の男の子が着る羽織の紐の位置がよくわかりませんが、床からの高さが70センチと80センチの2ケースで見てみましょう。大橋説に拠りますと、これがぼくの2年前の身長ということになりますね。
(1)紐の高さが70センチの場合には、108-70=38センチ
(2)同じく80センチの場合には、108-80=28センチ
で、これがこの2年間に伸びた分となります。1年あたりにすると、(1)は19センチ、(2)は14センチ伸びた計算です。
ところで、文科省の同じ統計データを見ますと、2014年(平成26)における6歳男児は、前年より平均5.8センチ伸びたとなっています。これから推測すると、1925年あたりでは、前年より5.5センチぐらいの伸びということになるでしょう。大橋さんの説では、ぼく(春樹)は、平均の2.5倍または3.5倍も伸びたことになります。
一時期に急激に伸びる子どももいるでしょうが、この場合はちょっと疑問ですね。イメージとしてはおもしろいと思いますが。
P.S. 春樹6歳という設定は、「蛇足」に書いたように、作詞者の厚と春樹は17歳の年齢差があり、厚が23歳のときに作詞された、といことからです。
(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2017年5月15日 (月) 06時33分
懐かしいこの童謡。兄弟愛、家族愛。ほのぼのとして体が温かくなる歌です。管理人様の詳報充分納得がゆきました。ですが頭の悪く感性も鈍い私ですがこの歌の気持ちから大橋様のご意見に全面的に賛同です。大橋様ほど的確に書けませんが、私も兄さんが測ってくれた柱の傷跡に自分の成長に併せて今は家に居ない兄さんを懐かしがっている。むしろその方を歌った歌と思います。
管理人様ご無礼ご容赦ンがいます。
投稿: 林 滋 | 2017年5月15日 (月) 09時57分
羽織の紐の長さを計る時に「丈」は使いませんから、紐の長さではありませんね。私は一昨年を思い出している歌ではなく、今、兄さんに計って貰っていた歌だと思います。可愛がってくれる兄さんに背丈を計ってもらう嬉しさがにじみでている歌ではないでしょうか。背が伸びたと思っていたのに、目の前にいる兄さんの羽織の紐までしかない自分、静岡ですから目の前に大きな富士が見えていて、優しいもう大人になっている兄さんに甘えている姿が思い浮かびます。兄弟が多いと喧嘩もしますが上の兄は親代わりという思いもあってか、後期高齢者になっている私たち弟妹にまだお小遣いをくれます。普段は集まってべたべたしませんが何か事ある時にはとても助かっています。年の離れた兄は優しいのです。
投稿: ハコベの花 | 2017年5月15日 (月) 16時40分
大橋様・林様
数値的なことだけ書けば、反発を受けるだろうと懸念していましたが、お二人以外にも、歌は数字ではないだろうと違和感を感じた方が少なくないかもしれません。
わたしは、大橋様がお書きになった温かい感想をけっして否定しているわけではありません。ただ、その情緒的な解釈が例外的な事実から発現している、ないし事実を顧慮していないように見えるが、それでよいのだろうか、と思っただけだけです。
大橋説をもう一度まとめると、「おととし兄さんが測ってくれた柱の傷を今と比べると、今のぼくの羽織の紐の位置と同じだ」ですね。そうすると、紐の位置から頭のてっぺんまでがこの2年間に伸びた分ということになります。これは、前のコメントにも書いたように、例外的ともいえる伸び率です。
背が大幅に伸びることは、子どもにとっても親にとっても大きな喜びです。
ところが、2番の歌詞の終わりの2行に、「なんのこと」と「やっと」の2語が出てきます。
「なんのこと」は「なんのことはない」の省略形で、「大したことはない、期待していたほどではない」という意味であり、「やっと」は、「ようやく、かろうじて」といった意味です。
大橋説によると、ぼく(春樹)は平均をはるかに上回る伸び方をしているのに、それを打ち消すような言葉が使われているのは変ですね。実際には、期待したほど伸びていなかったから、このような言葉が出てきたのではないでしょうか。大橋説について、私がひっかかっているのはこの点です。
「蛇足」本文中で、羽織の紐のたけ」について、(1)羽織の紐の長さ、とする説と(2)羽織の紐の位置(床からの高さ)、とする2説があると紹介しました。私は、(1)もあり得なくはないが、(2)のほうが納得できる、と述べました。
そこで、その羽織がだれの羽織かが問題になります。大橋さんは、ぼく(春樹)の羽織と取っていらっしゃいますが、私は、ぼくの身長の伸び方が平均値から大きく外れていることから、ぼくではなく、兄さんの羽織だろうと解釈しました。
もう1つ、ぼくが背比べをしたときに、兄さんがいたかどうかですが、大橋さんは「東京の大学に行っていていなかった」と解釈しています。
一方、「柱のきずはおととしの」となっていることから、毎年帰省していた兄さんが、春樹が5歳のときには帰らず、翌年は帰省したとする説もあります。これに拠ると、6歳のときの5月5日には、兄さんは家にいて背を測ったくれたと考えることができます。
どちらの説も、想像の域を出ませんが、6歳児の平均的身長が成年男子の羽織の紐の位置(床から高さ)とほぼ一致することから、私は兄さんはその場にいたと考えます。
(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2017年5月15日 (月) 17時00分
この歌の作られた時とか作詞者の家族構成等を知らないので出鱈目な解釈をしてしまい恐縮しております。すみません。でもそんな解釈をした理由にもう一つ2番の歌詞に富士山が出てくることです。大橋様の豊かな想像力には頭が下がりますが他の唱歌にも富士山は日本そのものとして扱われています。そこから連想して去年も今年も何故大好きな兄さんがいないのか。日本を守るため徴兵されて兵隊にでている、戦地に居るなどのように考えたのです。この歌の明るさ爽やかさは少年を前提にしているからで、たぶんこの時代、この年齢の少年にとって強く頼もしい兵隊さんは憧れの的です。だから優しかった兄さんがいないのは寂しいけど兄さんは立派な兵隊さんとして任地に赴いている。誇らしいのです。僕も早く大きくなって兄さんのように立派な兵隊さんになりたい。そんな気持ちが底にあるような気がします。ますますひんしゅくをかう意見ですね。見当違いしようね。
投稿: 林 滋 | 2017年5月16日 (火) 09時40分
私はこの詩からお兄さんがそばにいるとは思えません。
「 粽(ちまき)たべたべ 兄さんが はかってくれた・・・」
もし兄さんがそばにいたらこのような懐かしい回想はしないのではないでしょうか?
また、
「柱にもたれりゃ すぐ見える 遠いお山も 背くらべ・・・」
お兄さんがいればきっと嬉しさにはしゃいで再び二人で背比べしているでしょう。一人で山をながめている様子に、お兄さんがいない一抹の寂しさが感じられます。
「柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ・・・」
これは誰と誰の背比べでしょうか?私はもちろん作詩者とお兄さんの背くらべだと思います。したがって、柱には作詩者とお兄さんの両方の背の傷が残っているのではないかと思います。そしてお兄さんの羽織の丈の傷も残っているのではないでしょうか・・・。
作詩者は現在の自分の背の丈と二年前の背の丈を比べて、「やっと羽織の紐の丈」といったのではなく、柱に残された二年前の(僕とお兄さんの)背比べの傷を見て、あの時はやっと兄さんの羽織の紐の丈だったんだ、とお兄さんを懐かしんでいるのではないでしょうか。
投稿: yoko | 2017年5月16日 (火) 11時44分
この詞が作られたのが大正8年ですから作詞者が兵隊に行っていることはないでしょう。こんなに兄弟仲良く楽しんでいる歌に淋しさを感じる方が居られるとは思いませんでした。
ちなみに私の父は作詞者と同じころ生まれていますが父が兵隊になったことはありませんでした。まだ日本がゆったりした良い時代だったと思います。私は昭和15年生まれですが、17年、18年ごろはおもちゃもお菓子も沢山あって夜店にも電気がついていて不自由なく暮らしていました。ぼんやりですが覚えています。
投稿: ハコベの花 | 2017年5月16日 (火) 12時17分
私はこの歌のシーンを次のように描いています。
主人公の男児が、富士山や他の山々(赤石の嶺々でしょうか)が望める縁のそばの柱にもたれて立っています。周りには誰もいません。昨日2年ぶりに背を測ってくれたお兄さんは、今朝方早く東京へ発ちました。「来年も帰って来てくれるかなぁ…」
もう、やさしい兄を偲ぶ想いが湧いてきているのでしょう。
「羽織のひものたけ」は2説のどちらとも獲れそうな気がしますが、私は「紐の長さ」のほうをえがいています。羽織の紐の長さは子供の場合凡そ片側12、3㎝ほどですね。「きのうくらべりゃ」とありますから、おととしのキズとの「差」を意識してるような感じがするのです。
いずれにしろ、決着は着けかねますね。 大橋様の説は数値的に考えると失礼ながら違うかな…と。
明らかに間違った解釈でなければ、歌う人それぞれの世界があっていいのかな…。
投稿: かせい | 2017年5月16日 (火) 12時17分
弟の口を借りたといえ、兄が弟を思い出し想像しながら歌ったもので、少し誇張が入っているのだろうと思います。
一昨年からはきっと驚くほど大きくなっただろうな。あの時の柱のきずは、今じゃ羽織の紐の位置ぐらいじゃなかろうか。
「なんのこと」「やっと」は、2年前に対しての修飾語で、2年前を否定的に扱うことで現在成長した喜びを表しているのではないでしょうか。
投稿: marverick | 2017年5月16日 (火) 12時33分
marverick様
「『なんのこと』『やっと』は、2年前に対しての修飾語」だとすると、それに続く「羽織のひものたけ」は2年前の身長を示していることになります。これは、大橋さんの考え方と同じですね。
前のコメントの繰り返しになりますが、文科省『学校保健統計調査』によると、大正14年における6歳男児の平均身長は108.7歳。これは、成年男子の一般的な羽織のひもの位置(床からの高さ)110センチ前後とほぼ同じになります。
これから推測すると、柱のきずはおととしの、すなわちぼくが4歳のときの身長で、それから2年たっているから背もずいぶん伸びているはずと思っていたのに、何のことはない、やっと(兄さんの)羽織のひもの位置に達したけだ」ととるのがいちばん矛盾がないと私は考えています。
(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2017年5月16日 (火) 22時34分
管理人様 この結論は15日の管理人様のコメントでもう明白です。充分納得がいっております。我々は多少疑問があってもこんな解釈もあったらもっと歌に愛着が持てるかなと思って投稿しております。決して冷やかしなどではございません。もうこの辺で幕引きと行きませう。「湯島の白梅」とか「短くも美しく燃え」に移りましょう。
追伸:ハコベの花様 お父上が戦争にゆかれなかったのは幸いでした。この歌が作詞された大正8年だとお父上は23,24歳くらいかと思います。社会人としても兵隊さんとしても働き盛りですね。前年の大正7年に日本はアメリカと共にシベリア出兵をしております。派兵は7万3千名。半端な兵数ではありません。イルクーツク辺りまで展開したようです。6年に帝政ロシアが崩壊し混乱状態に陥ったロシアに第1次大戦で疲弊したイギリスもフランスも手を出し切れず、無傷のアメリカと日本が派兵したわけです。外国人居住者(日本人等)の保護と赤化阻止が大儀で、日本はそれに加ええげつない目的もありました。絶好のチャンスとして派兵したものです。結果は何も得られませんでしたが戦死者は5,000人。統計に載らない民間人死者も多数あります。
蛇足:この混乱期ロシアの旧体制派も後にボルシェビイキになった連中も無政府状態をいいことに悪逆の限りを尽くしたようです。目を覆う残虐な蛮行が繰り広げらたようです。その凄惨な死体の写真が残っており、なんとそれが南京虐殺で日本兵が中国人に行った蛮行として記念館に掲示してあるそうです。
投稿: 林 滋 | 2017年5月17日 (水) 17時36分
この歌とは関係のない話なのですが、多分父が映画館で観たニュースは林さんの仰ったこの時代の戦地であったことだと思います。「大きなお腹の妊婦の足を2頭の馬に片足ずつ縛って走らせると、お腹が裂けて赤ん坊が地面に転がった」と嫌な顔をして話してくれました。よほどショックを受けたのだと思います。穏やかな家族団欒がどれほど幸せな事か、最近の世の中を見ると考えさせられます。父は家族だけは大事にしてくれました。
投稿: ハコベの花 | 2017年5月18日 (木) 20時11分
学校ではシベリア出兵のことを教えませんでしたね。作詩の海野厚より幾つか年下の私の父はシベリアへは行きませんでしたが、ちょうどその時期に新兵さんとして入営しました。当時は国民皆兵制で、男子は満20歳で徴兵検査を受け、合格すると(身体能力別に甲乙丙丁戊の5段階に分けられ、甲種乙種丙種までが合格)2年間現役兵として訓練を受けます。2年間の兵役が済むと予備役になります。甲種合格だった父は、予備役になって20年ほど後、盧溝橋事件が起こると、すぐ赤紙が来て中国華北の戦線へ動員され、2年間で復員しましたが、太平洋戦争の末期、敗戦の前年に今度は華中へ老兵再度の応召、この時も生きて帰れたのですから、幸運と言えましょう。海野厚は夭折していますが、20歳ですでに病身だったなら徴兵検査は不合格だったでしょうか。そうでなければ2年間兵役についていたので背比べをしてやれなかったのかもしれませんね。
投稿: dorule | 2017年5月18日 (木) 21時31分
話が外れますが、林様、ハコベの花様に続けてシベリア出兵について少し捕捉させていただきたいと思います。お許しください。
シベリア出兵の日本軍の出動については、ポーランド人孤児救出の話が有名です。この救出は日本軍なしには不可能であったと言われています。
1920年、1922年の二回にわたってシベリアの町、村から計765人のポーランド人孤児が日本軍の支援のもとに救出されました。このことはポーランド人の心を揺るがす出来事としてポーランドでは今に語り継がれているそうです。
せめて親を失った孤児だけでも救わねば――1919年には、シベリアにおけるポーランド人のあまりに悲劇的な状況を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、「ポーランド救済委員会」を設立します。
当時、シベリアにはアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そして日本が出兵していました。ポーランド救済委員会は、まずアメリカをはじめ欧米諸国に働きかけ、ポーランド孤児たちの窮状を救ってくれるよう懇願しますが、その試みはことごとく失敗してしまいます。最後の頼みの綱として彼らがすがったのが日本でした。
詳しくは、『ポーランド孤児を救え!~日本とポーランドの友好を育んだ物語を多くの人に伝えたい』、兵頭長雄(元ポーランド大使)のネット記事をご参照ください。
投稿: yoko | 2017年5月18日 (木) 23時28分
しばらくぶりにこのページを開いてみましたら、こんなにもたくさんの反響があったことにびっくりいたしました。
歌詞に関する思いは、やっぱり自分が初めに感じたのを捨て切れません。作者の家族構成とか年齢とか考えもしない、ただその歌を聞いた頃の自分の思い、たいていの歌はそういう思いで、人さまざまに受け取られ歌い継がれるものだろうと思います。
羽織の紐の長さとか、兄さんの羽織の紐の高さとかは 歌だけ聞いてそんなこと考える人がいるということは、私にはちょっと思いつきませんでしたので、投稿してみたのでした。
作者は家を離れていて、妹か弟かが手紙をよこす。その中に例えば「春紀も随分背が伸びて、以前測っていただいたのと自分で比べて、えー僕こんなに小さかったのーなんて騒いでいましたよ」なんてことが書いてあればこういう歌ができて不自然ではないと思います。弟の視点で書いても、書いたのは作者ですから、作者の年齢とか思想とか、そういうものはおのづと歌に現れます。弟の実年齢より年上の少年の歌になることだってあり得ます。
私は昭和13年生まれです。老人会の行事の「歌の広場」で司会をすることになった時友人がこの歌物語を教えてくれて、いつ頃、誰が歌った歌だとか歌の紹介をするのに利用させていただきました。ついでに、懐かしい歌にまつわることをいくつか読ませていただき楽しい時を過ごさせていただきました。ありがとうございました。これからもまだまだ読んでいないページがありますので、大いに楽しませていただくつもりでおります。宜しくお願いいたします。
投稿: 大橋 郁 | 2017年5月31日 (水) 08時13分
管理人様のご指摘のとおり、論理的な考察としては「にいさん」が一昨年と今年の節句に背をはかってくれた結果について歌っていると考えるのが自然でして、また私も過去にこの「羽織の紐の丈」について解説したものを目にしたことがあります。
しかし丈が何を指すかという問題の以前に、何となく私は違和感がぬぐえませんでした。というのも、この歌詞を注意深く読み返すと、やはりどうしても今年の節句には、「にいさん」が居るとは思えないのです。
最初から四行目まで、「はかってくれた背のたけ」というのは、間違いなく一昨年の出来事であり、だからここは過去形なのですが、それに続く「きのうくらべりゃ~」以下の部分には、にいさんの影がどこにもありませんし、そもそも「くらべる」は自動詞であって、自分でくらべるものです。一昨年からどのくらい背が伸びたかを、一昨年にいさんがはかって印をつけてくれた柱の傷と比較して、自分なりに背が伸びたと思ったけど、あまり伸びていないという現実に、ちょっとしょんぼりしている様子からは、やはりここには「にいさん」がいないという気がしてなりません。(ちなみに、二番の歌詞にも「にいさん」をうかがわせるような部分はまったくありません。)
ここで「丈」に戻るのですが、もしにいさんが目の前に立っていて、それにじゃれついた弟が、自分の頭の位置にある羽織の紐を目の前にしているなら、管理人様の解釈は自然なのですが、もしここに「にいさん」が不在だとすると、羽織の紐の位置を想定するのは、ちょっと不自然になります。
さらに「くらべる」のは、何と何をくらべたのでしょうか。もし今の自分の背丈と、にいさんの羽織の紐の位置をくらべたとすると、そこには一昨年にいさんがはかってくれた「柱の傷」が、まったく意味をなさなくなってしまいます。ここはやはり、一昨年の自分の背丈(柱の傷)と、今の自分の背丈をくらべて、その「差」(=自分の二年間の成長)について言及していると考えなければ、どうも辻褄があいません。
それで、こちらについて、何か参考にならないかと調べてみたところ、服飾の分野において着物の「丈」といった場合、地面からの距離ではなく、その着物そのものの各部分・部位の長さを指すということを発見しました。着丈、身丈、袖丈、裄丈、等は、すべて着物の各部分の長さを表していて、地面からの高さなどではありません。明治に生きた海野厚が「紐の丈」といった場合、当然に紐そのものの長さをイメージしたと考えるのが自然であり、羽織の紐がついている部分の地面からの高さというのは、「丈」という漢字が持つ高さ方向の長さの単位という現代の(和服をあまり着なくなった)感覚に引っ張られているのではないでしょうか。
以上、私のイメージとしては、この歌の情景として、今年もにいさんは戻ってこなかったけど、一昨年はかってくれた傷があり、二年間でかなり背が伸びた(と思った)弟が自分でそれとくらべたところ、せいぜい四分か五分しか背が伸びていなかったという事実を発見し、それを自分の身の回りのもので表現しようとして、自分の羽織の紐とちょうど同じ長さだった、と言っているように思います。(だから、二番の歌詞に自然とつながり、自分もはやく大きくなって、富士山=にいさんを表している=のように一番背が高くなりたい、という願望となってくるのではないでしょうか。)
以上、あくまで歌の歌詞を基に私が推量したものです。そもそも創作された詩である以上、現実がどうだったかをここで議論しても、あまり意味がありません。ただ、このような状況をいろいろと考えて、当時の様子とか、詩に込められた作者の心情に思いを馳せるのは、知的な議論として実に楽しく、わくわくします。
管理人様をはじめ、他の皆様の考えを否定するということではありませんので、どうか気を悪くなさらないで下さい。
あくまで私は歌詞からこういう情景を思い浮かべたというだけです。
投稿: 「もう戦後ではない」と言われた時代に生まれたおっさん | 2017年6月 3日 (土) 22時40分
「もう戦後ではない」と言われた時代に生まれたおっさん様
>「丈」という漢字が持つ高さ方向の長さの単位という現代の(和服をあまり着なくなった)感覚に引っ張られているのでは…。
↓
おっしゃるとおり広辞苑・新明解国語事典・大辞泉など、現代の国語事典はいずれも「高さ、縦方向の長さ」を第一義としています。
しかし、明治24年(1891)発行の大槻文彦著『言海』では、「丈」を{(一)上ニ長キコト。立テル高サ。}とし、『(類聚)名義抄』『古事記』『伊勢物語』などの例文を挙げ、そのあとに、{(二)転ジテ長サ。}と記しています。
私が見ているのは、この初版本ではなく、昭和7年(1932)に冨山房から発行された増補改訂版『大言海』の復刻版ですが、和服が一般国民の主要な服装であった時代における権威ある国語辞典の定義です。
『蛇足』をもう一度よくお読みください。服飾用語を持ち出すまでなく、「平成17年度の男児の平均身長表を見ると、6~9歳児は1年平均5.5センチずつ伸びています。大正時代ですから、伸び率はもう少し低かったとしても、2年で10センチ見当は伸びていたはずで、これはとほぼ子ども用羽織のひもの長さ一致します。
おととしのきずと比べると、ぼくの羽織のひもの長さほどしか伸びていないんだ、とちょっとがっかりしているわけですね。」とはっきり書いてあります。「羽織のひもの長さ」説を否定しているわけではありません。
ただ、私は「兄さんの羽織のひもの位置まで」説のほうが納得できるといっただけです。
つまらない文章だと思っても、『蛇足』や投稿コメントをよく読んでから、ご意見をまとめるようにお願いします。
ついでながら、「比べる」は他動詞です。
(二木紘三)
(追記:もう止めようという林さんのお言葉にもかかわらず、またレスポンスしてしまいました。困った性格です。私は、これで打ち止めにしますが、このテーマについての投稿はご自由に)。
投稿: 管理人 | 2017年6月 4日 (日) 00時15分
はっきりしましたね。それでは皆さんでこの爽やかでほのぼのとした歌を聞きましょう。なんと心地よい歌でしょう。
私は次男ですが、この歌のように兄に背比べをしてもらっとことはありません。戦後になったのに、あるいは戦後になったからか兄さんは幼少の頃他家へ養子に行ってしまったのです。普通は養子に行くなら次男の方と思うのですが。理由は亡母から聴きませんでしたが、兄は放蕩三昧で家財を全て失い早世した色男の父に似ていて、母似で無粋・醜男の私の方を亡母は信用していたのかもしれません。その後兄とは疎遠のまま今に至っております。
もう一度この爽やかな歌を聞きましょう。この歌を聞いて寂しい思いをするというコメントの方もおられましたが私も同じです。
投稿: 林 滋 | 2017年6月 6日 (火) 16時22分
端午の節句に訪ねてきました。
「粽たべたぺ」とありますが、片手がふさがってしまい、背の高さをはかれなくなるのではないかと思います。
投稿: Hurry | 2020年5月 5日 (火) 12時58分
この詞は作者の望郷の詞です。そしてそれは久しく会えずにいる愛する末弟の眼を通して、あの懐かしい家のあの柱を中心に描かれています。
1番は、ひとり一昨年のことを思い出しながら柱を見つめる弟です。私が付けた背のたけの記録、今は弟の今着ている羽織の紐の位置になっている・・・・。(こんなにも背が伸びている、という前向きの話でないとここは収まらない。作者の想像だから、結果として現実離れの誇張であっても一向にかまわない。)
2番。その柱にもたれて私がいつも眺めていた景色を、弟も同じ思いで同じ風景を見ているのだろう・・・・。
投稿: maveric | 2020年5月 5日 (火) 16時54分
こどもの頃を思い出す懐かしい歌です。
ハーモニカで吹いてブログにアップしました。
伴奏に使わせていただきました。ありがとうございました。
投稿: ゆるりと | 2021年4月17日 (土) 15時27分
長崎のsitaruです。この歌は、子供の頃、五月五日の端午の節句前後にラジオからよく流れていたようで、メロディーはしっかり記憶に刻まれています。しかし、私自身は柱に印をつけて身長の伸びを測るということをした経験はありません。私には一人の姉と二人の兄がありましたが、誰もそんなことに関心はありませんでした。大人になって、父母と同居する長兄夫婦に女の子が出来た時、父が大いに喜んで、台所の柱に傷をつけて、毎年の身長の伸びを測っていたことを思い出します。
この歌の歌唱は意外に多く無く、特に名の通った児童合唱団のものがほとんど見つかりません。私がほとんど唯一繰り返し聴いているのは、石井圭子さんの全編ソロの歌唱です。90年代初めの頃、通信販売で買った「抒情愛唱歌大全集 心のうた日本のしらべ」というCD全集に入っていたもので、私はその子どもらしい素直で愛らしい歌唱に十分満足しました。石井圭子さんという方がどんな方なのか、当時から気になっていたのですが、以前唱歌「冬の夜」のところで紹介した増永郁子さん以上に情報が乏しく、今もって満足する情報を持っていません。どなたかご存じの方にご教示いただければ幸いです。
(以下、補足を掲示板に載せましたのでご覧ください)
投稿: sitaru | 2021年6月13日 (日) 16時32分