野菊
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:石森延男、作曲:下総皖一
1 遠い山から吹いて来る 2 秋の日ざしをあびてとぶ 3 霜が降りてもまけないで |
《蛇足》 作詞者の石森延男は名作児童文学『コタンの口笛』の作者。下総皖一(しもおさ・かんいち)が作曲した童謡には、この歌のほか、『かくれんぼ』『たなばたさま』『蛍』『花火』などがあります。
配偶者が私のアパートにやってきたのは、昭和40年(1965)の暮れも近いころでした。正確には、アパートにやってきてから配偶者になったわけですが。
そのころ、私はまだ新米の雑誌記者でした。雑誌の世界で12月は、2号同時進行で編集するので、1年中でいちばん忙しい時期です。そのため、私は連日朝帰りしていました。
ある朝帰ってみると、配偶者が涙ぐみながらこの歌を口ずさんでいました。「寒風にも霜にも負けず、気高く清く咲いていた少女時代」(だったかどうかは知るすべもありませんが)を愛惜する思いが、早朝の寒気に触れて、ついあふれてしまったのでしょう。
今でも、北風の吹く道を歩いているときなどに、そのときの光景がフラッシュバックしてくることがあります。
(二木紘三)
コメント
伊藤左千夫の「野菊の墓」の小説を思い出します。「野菊」の可憐さが主人公の政夫と民子の純愛を引き立てていますね。近年この可憐な花も少なくなっているそうです。
「けだかく清くにおう花 」がぴったりです。
一本の野菊を切るに野心あり 波路
投稿: 波路 | 2007年8月 7日 (火) 21時18分
小学校の運動会で野菊の音楽に合わせて遊戯(踊り)したことを鮮明に覚えています。
昭和20年代の戦後まもなくの頃で、衣食住にままならぬ中、この歌が心を豊かにしてくれました。
一緒に踊った女の子ももう少しで70歳に手が届く~何のことはない、自分もそうですね。
投稿: くろかつ | 2008年8月29日 (金) 12時58分
遠い子供の頃の、純粋で清らかな心を思い出させてくれるいい歌ですね。
二木先生のコメントを読みましたら、涙で字が滲みました。
投稿: 吟二 | 2008年9月23日 (火) 10時10分
8月29日くろかつ様 s22年、私もくろかつ様と全く同じ経験をしました。私が1年生の時の上級生への挨拶会での遊戯だった気がします。
その2ヶ月前に中国から引き揚げて来たばかりで、うすむらさき ってどんな色なのか不思議に思ってました。中国では白いアカシア花しか覚えてないので、カラーがついた花と暖かい春風は驚きでした。そんな私ももうすぐ70才です。
投稿: 連太郎 | 2008年11月 4日 (火) 01時25分
昭和21年、我が家族は北朝鮮から引き上げてきたものの、父の実家は祖父母のほかに矢張り外地から帰ってきた父の兄弟姉妹の家族がひしめいていました。私の家族はやむなく父の従兄の家に居候しました。親子6人6畳一間に2年間生活しました。
我が家族はそれでも父が健在なだけまだ恵まれていました。近所には子供を5、6人抱えた戦争母子家庭が2軒あり、誰の土地とも分からない山すその空き地に掘建小屋をたてて住んでいました。山の上のほこらには、片足を大腿部から切断した傷痍軍人が松葉杖をついて一人で生活していました。
この歌は、その頃覚えたと思うのです。
今から思うと、当時の人は貧しくともこの野菊のように、日本人の誇りを失うことなく頑張っていたと思います。
投稿: 周坊 | 2008年11月 4日 (火) 19時55分
現居住地の近くに、通りと通りの間に10m弱くらいの狭い水路があります。U字溝を通してその上にコンクリート蓋を被せ、人が通り抜け出来るようになっています。何年か前まで、その半分の数mほどの土の部分に野菊が群生していました。その季節、いつもその可憐な花を眺めながら通っていたものです。
この野菊に関して残念なことがあります。3、4年前、どんな人工的処置によるものなのか、野菊の宿根ごと皆掘り返したらしく、その秋以降その水路に、野菊は影も形も見当たらなくなりました。
現居住地は厚木市街でも外れの方です。私が当市に来た昭和40年代前半頃この辺は、見渡す限りの田畑が広がっていました。それがその後の開発につぐ開発で、今では住宅や店舗などがびっしりと建て込んだ大住宅街です。私が今の家に住んで十数年、その間にも身近な自然はどんどん狭められ…。子供の頃草深い東北で過ごした私は、そのつど心の痛みを覚えます。
投稿: 大場光太郎 | 2008年11月12日 (水) 19時29分
このサイトにアクセスさせて戴いていると年代の高い方々の多い事と戦争を知らない私達が感涙させられることが多々あります。若者のコメントはジョークと受け流し、感銘させるコメントをお書き下さい。いつかはこうなりたいと思ってはいますが。
投稿: 海道 | 2008年11月15日 (土) 21時58分
11月4日付け連太郎様
コメントありがとうございます。
久し振りに自分の書いた足跡を辿っていたら、応対してくださってる方がいらっしゃって心から嬉しく思いました。
歌が繋ぐ縁と申しましょうか、見も知らぬ方でも親近感が湧いてまいりますね。
今、宮崎市で自治会長をしていますが、親睦会の全体合唱で “野菊”“故郷”“朝はどこから”を取り上げたら年配の皆様が涙を流して喜ばれました。
ホントに歌は不思議な力があります。
あれもこれも二木先生のおかげです。
投稿: くろかつ | 2008年12月11日 (木) 09時54分
野菊への投稿が3年近く途絶えているようです。悲喜交々の想いがよみがえる名歌ですね。SLの蒸気と煙の臭いが漂うプラットフォームで受け取ったサンドイッチの包みを開くと、そこには白い野菊一輪が添えてありました。昭和35年の晩秋、卒業研究を仕上げるために広島から茨城県東海村の原子力研究所に旅立つ三等車の乗客となってしまっていた小生は、野菊のひとの心遣いとその人への思いをかみしめたものです。〔野菊の思い出、その1〕
投稿: 亜浪沙 | 2011年10月13日 (木) 17時03分
私の友人に明るくて派手で大きなひまわりの様な人がいました。少々苦手な人でしたが我が家によく遊びにきました。彼女がある日「いそみちゃんは野菊のようだ」と言ってくれるボーイフレンドが欲しいといいました。あまりに似つかわしくなかったので思わず大声で笑ってしまいました。彼女は悲しそうな顔をしました。切実な願いだったのでしょう。若くして亡くなってしまいましたが、野菊を見るたびに野菊とはほど遠かった彼女を思い出します。
投稿: ハコベの花 | 2011年10月13日 (木) 22時07分
「野菊」は少女時代によく歌った懐かしい歌です。そのころ身近だった野菊は、今は思い出の中に咲く花になってしまいました。ふるさとを離れて以来、同じ、と思える野菊に出会ったことがないからです。青みを帯びた薄紫の、まさに「けだかく清くにおう花」なのでしたが。
「野菊」をGoogleで画像検索すると、実に様々な色の、形も微妙に違う花があり、驚きます。この歌を聴いて思い描く花は、人それぞれの故郷の野菊なのかもしれませんね。
昭和20年代のまだ貧しかった時代に、このような歌によってどれほど励まされたことか…言い表せないほどです。
投稿: 眠り草 | 2012年9月20日 (木) 13時08分
この歌は国民学校3年生のときに習ったように思います。今からみると、戦時中の唱歌にしてはやさしく、当時の表現でいうと「女々しい」歌がどうして国定教科書に載ったのかと不思議に思っていましたが、やはり軍部からの横槍があったそうです。作詞した石森延男氏の「やさしさ」も「和」の精神であるとする抗弁で、日の目を見たとのことです。
今朝の朝日新聞の別刷りに「野菊」が取り上げられています。そして、この歌が今も歌い継がれているのは、「けだかく清く」などに戦時道徳の匂いはするが、それがあからさまに歌い込まれていないからであろうと、筆者は解説しています。また、伊藤左千夫の「野菊の墓」にも触れ、この作品にふさわしいのは、薄紫の野菊だろうとも言っています。
わたしも眠り草様と同じく、長い間「野菊」といえば薄紫のものとばかり思っていましたが、白や黄色などの色合いのものや、ヨメナやシオンなどを含めて広く「野菊」と称されていることを最近知りました。ただ、「野菊の墓」の民子の墓に手向ける野菊は、朝日の筆者同様、わたしも薄紫以外は似つかわしくないだろうと思っています。
投稿: ひろし | 2012年9月22日 (土) 12時11分
浅間連山の紅葉が標高1500メートルあたりに下りてきました。昨日の雨で浅間は初冠雪です。七回冠雪すると本格的な寒さが信州にもやってくると土地の長老は今年も口癖のようにつぶやくにきまっています。アトリエの入り口に朽ちた赤松の切り株。その洞に今年も野菊が黄色く開き始めました。白い野菊の花をサンドイッチに添えて見送ってくれたひと(女性)が今年もそこで迎えてくれているかに錯覚します。五十年経った今でも去来してやまない心の女性です。JRR1(日本研究用原子炉1号機)での実験を終えて学校に戻ったとき信じがたい光景を目にしてしまいまいた。赤レンガの校舎に通じる側道の茂みにわが身をかわし、夕闇迫るなかでふたつの姿をやりすごした悔しさは自業自得なのか、それとも、秋の空とはかく或るものか・・・と。〔野菊の思い出、その2〕
投稿: 亜浪沙(山口) | 2012年10月24日 (水) 15時36分
昨日なぜかしら、野菊の歌を口ずさんでいました、この歌は母からか、幼稚園の先生からか、詞があいまいなので、パソコンで調べていましたら、こちらのホームページに出会いました。母は昭和七年群馬県に生まれ幼い時に叔父が朝鮮総督府警察官として勤めていたので、叔父の子供の子守りとして
朝鮮に一人渡りました、母は二年前に他界し葬儀の時に初めてその事を父と私は知りました、明るくおしゃべりな母でしたが家族の私たちにも話さなかったことは辛い時代のことと思うと、父が悔しがり涙します
コメントを拝見すると母と同じように時を過ごされてきた
方々がこの野菊の歌を好きなように、私も同じです
二木様、お変わりなくおすごしでしょうか、野菊の歌と出会いにありがとうございます。
投稿: えけいえあ | 2013年5月 2日 (木) 14時53分
野菊の香りが今年も信州に漂いはじめました。昨年は浅間に初冠雪を見ましたが、今年はまだのようです。「野菊」を聞きながら薄茶をたてて小休止しています。小ぶりの茶碗は40年も前に能登の羽咋に旅行した時に買い求めたものです。木の葉の葉脈が見事に焼き付いている珍しい茶碗です。いまは「真葉手(しんようで)」としてネットで紹介されています。窯元の奥さんに「真葉手」茶碗を入手した経緯を話した(電話で)ところ親しみ深く気品あふれる応対をしていただきました。電話の向こうのお姿を想像しながらの・・・。この季節、もちろんそれはかつての「野菊」の女性としてです。いい歌は何とも魔物です。〔野菊の思い出、その3〕
投稿: 亜浪沙(山口) | 2013年10月22日 (火) 15時50分
最近、新聞紙上で 「・・・やさしいのぎく 薄紫よ」
を読み、後日散歩の途中で野菊を目にし、全体の歌詞
を思い出しました。
「とんぼを かろく やすませて・・・」と口から自然に
出た時は、自分でもびっくりしました。
かるく じゃなくて 「かろく」なのを覚えていて、感激。 新潟県 66歳。
投稿: 雪椿 | 2013年11月 8日 (金) 13時22分
昭和20年代後半、小学校の運動会で同期の女性たちがこの歌に合わせて踊っていたのを思い出します。
横浜の磯子区にある小学校ですが、なぜかこの歌が好きで口ずさむと当時を思い出して胸がきゅんとなります。
二木さん元気で頑張って下さい。目の具合が進まないといいですね。私も緑内障と言われてもう3年、眼鏡をしても何となく文字が見ずらくなました。
投稿: 栗さん | 2014年7月 8日 (火) 17時12分
二木先生のコメントを読みながら ジーンときました。
私は昭和18年満州奉天市生まれ、昭和21年9月に博多に引き揚げ。その間 父の自叙伝によれば 死の逃避行、略奪・暴行やり放題のソ連軍からの脅迫・暴行、餓え、仲間との別れなど経験していたようです。
父の故郷熊本に引き揚げたら、どなたかもお書きになっているように私たち引揚者は住むところもない、食べ物もない、父の働く場所もない・・。しかし 父は日本に住んでいるということで喜々としていたようです。
両親と2つ違いの妹の4人っは毎日を元気に過ごせたら「しあわせ」だったように思います。花の名前は知りませんでしたが野菊などを摘み取って 母にあげたら「いい子だね。優しいね」と頭を撫でられたことを覚えています。
就職して福知山に勤務。3歳を過ぎて父を亡くし、働きに出ている母の愛を知らずに祖母に育てられた配偶者と見合いしました。小さい頃からいつも一人で遊んでいた彼女は花が大好きと云っていました。「私はなにも要りません。花一輪だけでうれしいです。」と云いました。
あまりお金もないので道端で摘み取った野菊の花を渡したことがあります。映画「野菊のごとき君なりき」を見ていたからでしょうか・・。
草笛を覚えました。「野菊」の曲を草笛で吹いてみるとジーンときます。
投稿: けん | 2016年3月27日 (日) 11時04分
懐かしい歌ですね。小学校何年生で習ったのでしょうか。”遠い山から吹いて来る・・・”この出だしを見ただけでメロディも浮かんできます。”けだかく清くにおう花・・・”これも懐かしいですね。
私は学校では小さな声で歌っていたと思います。かって「わんぱくでもよいたくましく育って欲しい」というCMがありました。私はこのコマーシャルが嫌いでした。小さい頃から大人はそのように男の子を評価するものだということが分かっていましたし、私はわんぱくでもないし、たくましくもないことがわかっていました。
元気で勇ましい歌は自分にふさわしくないと自覚していましたので恥ずかしくて歌えませんでした。大人から”だめだな、女の子みたいだ”と言われたこともあり、そのように思われるのも嫌で優しい歌も歌えませんでした。
それで今に至るまで人前で歌えず、カラオケでも聞き役です。退職した今では他人の視線や評価を気にすることなく外を歩きながら口笛を吹いて楽しんでいます。うた物語はその選曲に助かります。もちろん”野菊”も奏でました。
一緒に歌ってくれるような優しいお母さんがいたらもっと違った人間になったような気がします。
投稿: yoko | 2016年3月29日 (火) 16時28分
今から20年前東京本社から札幌支社に転勤し、西区琴似に3年間在住したことがあります。
支社が時計台の近くでしたので会社の帰り道、当時札幌駅前通り(北1西3)にあった「***書房」によく立ち寄り、美人の店長代理の気を引くために我が財布の許す限り微力ながら売上に協力した想い出があります。
私も読書好きだったのでそれはそれで一石二鳥だったのですが、中でも嬉しかったのは、子供の頃出会い、未消化のままであった「コタンの口笛」と云う本に目が止まり「えっまだこんなのが-懐かしい、北海道ならばこそですね‥」と店長代理に本棚から取り出してもらい、直ぐ全巻を買い求めました。
こうして、この「コタンの口笛」の著者が、あの私の大好きな唱歌「野菊」の作詞家・石森延男先生と同じだと言うことにたどり着くまで、時間は掛かりませんでした。
(石森延男先生は札幌ご出身です。詳しくお知りになりたければインターネットをどうぞご覧あれ・・)
野菊はすずらん同様清楚で凛としています。♬ 野菊だけど江梨子よ~♬「江梨子」で橋幸夫の大フアンになり、同映画の内容も伊藤左千夫「野菊の墓」に似ております。また、前述唱歌「野菊」と「コタンの口笛」が石森延男の同じ作者であることをと知り、アイヌ人の苦悩を知り、そして、今でも「NHKあさイチ」を見ると有働アナ似の「***書房」美人店長代理を思い出します。お陰で胸きゅんの「老いらくの恋の町札幌」を経験しました。 (唱歌“野菊”の想い出)
投稿: 迷える古羊 | 2016年8月22日 (月) 01時27分
浜名湖畔のほとりにあるお寺の山道を登りながら,彼が「君は何の花が好き?」と訊きました。「アザミが一番好きです」「僕は菊の花が好き」と彼が言ったとき、私は大きな白や黄色の菊の花を思い浮かべてちょっと趣味があわないかもと思ってしまいました。私はひまわりとかユリとか、アマリリスみたいな大きな花が好きになれませんでした。彼が菊といったとき、野菊を身近に見たことがなかったので花屋で売っている大輪の菊を思ったのです。40歳近くなって郊外に住み、道端に咲いている野菊を見て、やっと気が付きました。彼が好きだと言ったのはこの薄紫の菊だったのだと、可憐で優しくすこし淋しい薄紫が好きだった人、繊細で優しい人だったのだと気が付きました。
私が植えた可憐な草花を雑草だと言って根こそぎ抜いてしまう夫が悪魔のように思える時があります。怒りがこみあげてくると座っている夫の後ろを通るとき、頭をひっぱたいてやります。昨日濡れた手で思い切り叩こうと思ったら、先に手から水が頭に落ちて気づかれてしまいました。優しい野菊に相応しくない自分に笑ってしまいました。
投稿: ハコベの花 | 2016年8月22日 (月) 21時56分
思春期のころはこの歌が大好きで
口ずさんだものです。
清冽な小川の辺に、無人駅の線路の傍にこの花を
見るとき、口ずさんだ頃の少女の自分に還れます。
秋の日差しや群れ飛ぶ赤とんぼの情景が浮かんできます。
記憶は貧しささえも美しく染め上げてくれます。
ハコベ様
笑をありがとう。
ひっぱたかれているご主人は
ハコベ様をとても愛していらっしゃるのですね。
これもまた 微笑ましい夫婦の情景です。
残暑 ご自愛のほどを。
投稿: りんご | 2016年8月23日 (火) 10時43分
ハコベの花様
そのおかたはハコベの花様を菊の花のようにお感じになったのだと思います。先週館山寺のあたりを歩き、入り江の多い浜名湖の美しい景色を見ました。浜名湖の近くで育ち浜名湖を愛された、作詞家の清水みのるさんをしのびました。大変なご無礼をいたしますが、かのおかたが思い出の湖畔を歩かれたような気がして、お心を拝察しへたくそな歌を作りましたのをお許しください。「浜名湖の浦ごとに青き愁いあり 白きハコベの花恋い行けば」「湖を見つめけだかく清く咲く 野菊のごとき君なりしかな」ハコベの花様は少女の頃「孝女白菊」の本を読まれたとのことですので、「本棚に少女の日あり 君に似てまなざしやさし孝女白菊」私事になりますが昔、愛する人の実家に行き本棚を見せてもらったことがあります。ご無礼を重ねますが、ハコベの花様のような、文学の素養のある、ハコベ野菊白菊のようにすてきな女性でした。後日ふられました。
投稿: 加藤 | 2016年9月20日 (火) 10時06分
加藤様のお話で54年前の6月が今日のことのように思い出されました。舘山寺は当時、遊園地などはなく静かな湖面が広がっているだけでした。ボートに乗っているのは私たちだけ、今、振り返れば何とロマンチックな状況だったことか。加藤様は振られたと言われますが、彼女のほうに何か理由があったのではないかと思います。私も今の夫に付きまといされていて、逃げ場がなかったのです。両親が学校時代に亡くなって居りましたので、兄嫁の進めたとおりに結婚してしまいました。アメリカに商社マンとして行く彼の夢を結婚で砕かせることはできませんでした。お互いに22歳は微妙な年齢だったのです。別れを告げた時の彼の目に浮かんだ涙を忘れずにいます。
何年か後に奥浜名湖のミカンで有名な三ケ日へ遊びに行ったとき、この海岸端を彼と歩きたかったとどれほど悔やんだ事でしょう。今、高校時代に読んだ有島武郎の『星座』を読み直しています。彼も当時感動したと言っておりました。私にボロボロに馬鹿にされて暮らしている夫が気の毒になることがありますが、今更仕方がないことです。美しい歌、ありがとうございました。野菊は花は優しいのですが、根は結構強くて丈夫です。優しく強く長生きしましょうね。
投稿: ハコベの花 | 2016年9月20日 (火) 21時55分
舘山寺・・・
30数年前ですが、子供が3才頃のとき舘山寺の遊園地に遊びに行きました。その時の写真があります。子供は宝石のように美しく可愛らしい男の子です。妻も若くて美しい。私の写真は一枚もありません。なぜなら写真はいつも私が撮りますので・・・。でもそれでいいのです。自分の姿なんて見たくないのです。昔からそうでした。
遊園地は都内にもあるだろうに、なぜ舘山寺まで?子供を新幹線に乗せたかったのです。
数年前近所の小学校で学校公開がされていました。ふらふらと校舎に入りお母さん方と並んで授業風景を見学させていただきました。小学一年生、元気で輝いていますね。可愛らしい。先生の質問に手を勢い良く上げて全ての動作が楽しそうです。座るのも楽しい、立つのも楽しい・・・。これが、6年生ともなるとガラリと変わります。動作はゆっくりで、背中もこころなしか丸まって。先生は一生懸命かみくだいて説明しているのですが、生徒はおとなしくなんだかつまらなさそうです。成長したんですね。これだって喜ばしいことなんですね。
と、私はある教室の前で足が止まりました。教室はガランとしていて、授業はされていません。壁にいくつかの作文が貼り付けてありました。「お父さんと一緒にしたこと」という題の生徒の作文です。どの作文の字もたどたどしく歪んでいました。学級の標識もありませんでした。何年生なんだろう?といぶかりながら私は、「お父さんと水ぞくかんにいきました」という作文をじっと見つめて読んでいました。読みながら胸がつまっていました。
通りかかった女性の職員の方が、「いかがですか?このクラスは学習障害児のクラスなんです。今日はお休みなんです。」と話しかけられました。私はその言葉をきっかけに気持ちを抑えることができなくなり、涙があふれ出しました。泣き出してしまいました。「どうされました?」「いえ、子供のことを思い出したんです。いまではもう大きいんですけど・・・」と答えて、学校を後にしました。
息子とは一緒に住んでいます。健康で長生きしたいです。まだまだ死ねません。
投稿: yoko | 2016年9月22日 (木) 10時46分
ハコベの花様
私の差し出がましい投稿に丁寧なお返事をありがとうございました。舘山寺がお二人の思い出の場所と全く存じておりませんでしたが、私が一路そこを目指したのは、お二人が残された思いが私を呼び寄せたのだと思います。男性が心から愛する女性をお連れしたくなる場所だと感じました。西行法師も愛した場所だとか。湖の遠くの山を(ご無礼にもかのおかたのお心にふれたくて)見ておりますと、その山裾に若い日が今もいて、ハコベの花様が待っておられるような気持ちがいたしましたが、そこがハコベの花様が思いを残された三ケ日だったのですね。恋の心は長い年月を経てもその場所に残るのだと思います。いつまでもお元気でとお祈り申し上げます。
投稿: 加藤 | 2016年9月26日 (月) 13時25分
今は、まさに野菊の季節です。
先日ラジオ深夜便からこの歌が流れてきました。
甲高い童女の声にただ懐かしく心洗われる思いが致しました。真っすぐに響く旋律に同じく童謡の「花火」を連想致しました。二木先生の蛇足を読んで作曲者が同じと知り
我ながらの感性に自己満足~などと嫌味な書き方をお許しください。
投稿: りんご | 2016年10月25日 (火) 16時30分
ふと小説「野菊の墓」を読みたくなり読んでみました。図らずも涙を流してしまいました。以下、山の畑へ行く道すがら民子と政夫の会話です。
「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好このもしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」
・・・・・・・
田舎生まれで田舎育ちの私は子供の頃家の手伝いで、おいこ(注;農具:背負い籠)をしょって山道を往復していたことがあります。私にはこのように女性と話す胸のときめくような経験はなかったのですがその山道の情景を思い浮かべそのような場面に浸ることはできます。都会生まれで都会育ちの僕の妻はこの場面どうなんでしょうね。きっとわからないんじゃないかなぁ。
投稿: yoko | 2017年6月10日 (土) 16時14分
いえいえyokoさん、奥方を侮ってはいけません。私も東京生まれで東京育ちです。日本の殿方は絶対しないだろうと思っている女に連れの男が一輪の花を差し出してごらんなさい。田舎だろうが、都会だろうが、まあ舞台としたら自然の中がいいかもしれませんが、受け取った女性の目の輝きが違うとおもいます。
ぜひ奥方に差し上げてみてください。花束より「一輪の花」です。これに心を動かされない女性はいないと私はおもうのですが。野の花でもよいのです。摘み取ってプレゼントしてくれたというだけで、女心に響いてきます。
夫からの贈り物の中で、私は一番心に残っています。
投稿: konoha | 2017年6月10日 (土) 21時45分
野菊といえば撫子同様、見た目に美しく内に芯の強さを隠した日本女性を代弁する花だと思います。私を柄にもなく清純な気持ちにこの歌はさせてくれます。
皆様のコメントのように私も伊藤佐千夫の「野菊の墓」を自然と思い出します。何回か映画化されていて、山口百恵さんや松田聖子さんが民子を好演していますが、最初の「野菊のごとき君なりき」の有田紀子さんの民さんが最も素晴らしかったと思います。確か有田さんの初演で先入観のなかったことが返って民さんとして印象深くさせてくれたのだと思います。管理人様や皆様のようなロマンチックな思い出は全くありませんが往時は自分んもりんどうになりたいと真剣に思ったこともありました。なれるはずもないのに。歌詞を借りれば、いまだに霜が降り続ける毎日ですがあと何年か子寒い風に揺れながら残り少ない生涯を全うしたいと愚かにも考えております。
投稿: 林 滋 | 2017年6月11日 (日) 14時20分
幾度聞いても感動する。名曲です。
伊藤佐千夫の小説をまた読み返しました。
民子の墓に野菊が添えられたいます。
向かいには青い峰々が連なっていました。
投稿: 波路 | 2017年11月28日 (火) 16時38分
2016.9.22付 yokoさんのコメントを拝読して、思わずもらい泣きしてしまいました。
実は、私の長男の子供(男の子:8才)も発達障害で、未だ言葉を発することが出来ません。滋賀県に住んでいますので、事あるごとに訪ねてきますが、こちらの話すことは殆ど理解できているようで言葉もたった一言「パパ」だけは言えますが、ママは言えません。
長男は子供と一緒に遊びながら “ヒロキはまだあかちゃんだものな~“と、ふっと 寂しそうな感じで語りかけることがあります。2才違いの次男(47才)は、しんみりと兄ちゃんは なんであんなに苦労しなければいけないのかな~と、誰にともなく語りかけることもあります。
長男も、忙しい身ですが 健康に気を配って長生きするように心がけているようです。
yokoさんが、女性かと間違われるほどの優しさをお持ちの意味がわかりました。
投稿: あこがれ | 2017年11月28日 (火) 19時03分
あこがれ様
私の次男は今46歳になります。発達障害で施設に通っております。小さいころ、言葉が遅いと思いましたが、こちらの言うことはわかりますし、本も4,5回読んでやると1冊丸暗記をしてしまいました。天才児だと思いました。でもほかの子供とのコミニケーションがとれません。周りの無理解で幼稚園などは大変苦労しました。小学校も中学も近くの学校へ通いました。私の子供ではないほど素直で優しく育ちました。障害があっても不幸ではありません。理解して可愛がってやればいいのです。叱っても反論することが出来ないことに気が付いて、叱ることを一切やめたのです。優しくしてやればいいのです。大きくなると社会のルールも覚えます。やってはいけないことも覚えます。暴力で教えないことです。今、次男は我が家の神様です。
次男を見ていると、皆が優しくなります。優しく育ててください。良い歌を一杯歌って上げて下さい。神様の様に優しい大人に育ちます。先日亡くなってしまった私の兄は「この子は福の神だ」と言っていつも1万円くれました。福の神なのです。勉強など無理強いしないでください。大きい、小さい、多い、少ないが分かれば生きてゆけます。損はしません。それが生きて行く基本です。参考までに私の育て方でした。
投稿: ハコベの花 | 2017年11月28日 (火) 23時14分
追伸
こういう子供を育てるより不良の夫を育てるほうが100倍も難しいと私は思います。
投稿: ハコベの花 | 2017年11月28日 (火) 23時49分
あこがれ様
ひと昔前は自閉症と呼んでいたのを今は発達障害と呼んでいるようですね。言葉の発達が遅れて、応答も会話もできない、私の息子もそうでした。言葉の発声は三歳と八か月のときでした。それからしばらくして”パパ”と呼びました。”ママ”と呼ぶのはその後数週間かかりました。妻には可哀そうなことでした。おそらくママが”パパ、パパ”と呼んでいる回数のほうがパパが”ママ”と呼ぶ回数よりも多くて、それが子供の言語機能により刺激を与えていたのではないでしょうか。
言葉はしゃべれませんでしたが言っていることは分かっているようでした。小さいとき、子供の輪投げのおもちゃを離れた部屋に置いて「赤い輪をもってきて」と頼むと赤い輪を、「黄色い輪をもってきて」と頼むと黄色い輪をもってきました。この遊びが好きでダッシュして走り、はしゃぎながら持ってきました。このときは私ももう嬉しくて嬉しくて子供を抱きしめました。”言葉を理解している”、と・・・
徐々にではありますが、30歳も過ぎ、他人との応対も会話もぎこちなさはあるけれどできるようになりました。私が妻と言い争いをしますとかならず妻の味方をします。そんなとき彼は一言私に嫌味とか捨て台詞を言って怒って自分の部屋に閉じこもってしまいます。ですから迂闊に妻とは争えません。
ここ数年、彼の誕生日には都内のホテルでランチしています。私と妻は一緒に歩くのは互いに遠慮していますのでホテルにはいつも現地集合、現地解散です。もうじき彼の37歳の誕生日です。
彼の知能も知識も生活態度も十分であると思います。本も読んでいます。何らかの職が得られればと思うのですが、彼の人生、私が焦ることはないようにしています。
つまらない例ですが、ご参考になればと思います。
投稿: yoko | 2017年11月29日 (水) 00時15分
yoko様、あこがれ様、ハコベの花様
私の長女は西日本の公立中学教諭です、
本来の教科ではそれなりの実績と知名度がありましたが
越えられない心の闇を抱えながら「特別支援学級担任」を志願して10年以上なります。部活や大会,校内イベントの際は本来の特技が買われて中心的な役回りをあてがわれています。肉体も精神も限界の中で「日本の教育界では発達障害に対する理解度が低いこことを日々に実感」私の反対を押し切って 遠隔地の専門学科のある夜間大学に通っています。大金を先払いしているのでやめればゼロになるので無理をして週2度?通学との事です。学割が聞くのがメリットです。
昨今の エリート子女 偏差値の高い人間の犯罪の報道があるたび彼女は憤怒しています。
現場にいればこその悩みも生き甲斐も大きいい娘です。
ハコベの花様の「優しく育てれば優しい人間になる」に涙が込み上げました。
yoko様の優しい心、あこがれ様の慈愛は、ハコベの花様同様、ご本人に良い影響を及ぼすと信じます。
親として、祖父母としてご自愛なされて長生きしてください。社会全体の理解度が深まることを祈っております。
投稿: りんご | 2017年11月29日 (水) 09時56分
ハコベの花様のご投稿に気付かずに私のコメントを投稿しました。我が家もハコベの花様のおっしゃる通りでした。ハコベの花様に全く同意いたします。
投稿: yoko | 2017年11月29日 (水) 10時00分
私には男2人、女3人の5人の孫がいます。
長男49才には、発達障害の8才の男の子が1人、次男47才には、男の子1人と女の子3人の子供です。
長いこと子宝に恵まれなかった長男から嫁が妊娠した、と嬉しそうな報告を受けた時の感動は今でも忘れません。
でも、やっとの思いで妊ったにもかかわらず10ヶ月目に帝王切開で早産、その上心臓に何らかの障害がありそうで定期的に検診が必要との診断でした。発達障害の疑いに気づいたのは、まもなくのことだったようですが、例えどんなことがあっても夫婦2人で守り通してみせると、2人で誓い合ったそうです。
私達の兄弟姉妹は、皆元気でなんの障害も持たずに育ってきましたから、それが普通のように思って生活してきましたが、いざ身近にそんな問題が発生しますと、あらためて普通に健康に生きるということが、いかに凄い恵みであるか実感できました。
「野菊」から、かけ離れた話の方向に進んで、いつもながらご勘弁を願うばかりですが、このサイトを通じて又今日も生きる勇気と人の優しさを頂きました。
はこべの花様、yoko様 貴重なご体験話を有り難うございました。そしてりんご様の暖かい眼差しに感謝いたします。
投稿: あこがれ | 2017年11月29日 (水) 11時04分
あこがれさま
47歳の娘が3人の子連れでシングルマザーとなって実家に戻ってきています。その娘が2人目を妊娠して8ヶ月目にお腹の子が心臓やほかの臓器などに疾患があり、水頭症の重度で生まれても寝たきりになると言われました。娘夫婦もあちらのご両親、私ら夫婦も悩みました。娘は出産する事に決めましたので、私たちも覚悟を決めました。
出産は帝王切開となり、分娩室に入りました。
娘の話ですと直前子供の心音が聞こえなくなり、結果陣痛促進剤で自然分娩で死産でした。パパだけが赤ちゃんを見ました。可愛い顔した男の子だったそうです。
その後数年の間、娘夫婦は子供をつくることに躊躇していましたが、一人っ子では可哀想だからと夫婦揃って遺伝子検査を行い、問題がないことが分かり、あと二人の子供を授かりました。
娘夫婦は離婚しましたが、もともと保育士の仕事をしていました。娘は自分の経験から子供の発達心理学など諸々の資格を取得し、現在は保育園で子供たちをみて、またその親たちの相談を受ける仕事をしています。
障害のあるなし、見える見えないことに拘らないあたたかく包み込むような世の中になってほしいとねがっています。
投稿: konoha | 2017年11月29日 (水) 14時00分
konoha 様
みなさん 普段は二木先生の名解説と演奏に酔いしれながら、青春を謳歌(?)されてますが、一歩心の内をのぞいて見れば本当に色々なことがあり、それを抱えながらも懸命に人生を歩んでおられるのだな~と、しみじみと感じさせられました。konoha様も 私が想像していた通りの方で、今日は心安らぐ一日となりました。有り難うございます。
りんご様
今日やっと京都検定の受験票が到着し、会場は同志社大学新町キャンパスと決定しました。一応 やるべきことはやりましたが、記憶力がどの程度持続するかが問題です。100問正解を目指してますが、それほど甘くないかも知れません・・。
投稿: あこがれ | 2017年11月29日 (水) 15時46分
「霜がおりても負けないで」という歌詞には、古代中国の菊の花に対する理解が潜んでいます。漢詩では「傲霜」(ごうそう、霜に傲る)と表記され、晩秋まで霜にも負けずに咲く花と理解されていました。このような理解は、そのまま日本人の菊理解隣となり、明治時代まで伝えられましたことは、唱歌『庭の千草』の「霜におごるや菊の花」にも表れています。
投稿: milk3 | 2021年7月24日 (土) 16時16分
「信濃恋歌」、メロディー&歌詞とも、私の無二の友となりました。浅間山には二回ほど冠雪をみましたが、今は山頂あたりは黒い姿をしています。初冬の紅葉で浅間は素晴らしい裾模様です。今年はもう仕事場の入口には野菊は姿を見せなくなりました。「浴衣の君は手を振った・・・」。遠い昔、プラットフォームで手を振って見送ってくれたひと(女性)は、一昨年、他界したとの知らせをうけました。「信濃恋歌」にかさねて今は想いを募らせています。窯づめを終え、明日の夜半から西洋式薪窯(リーチ原案)を焚きはじめます。窯には「野僓(のえ)」と銘を刻んだ茶器を一碗入れました。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2021年11月 7日 (日) 16時02分
我家には近くで採って来た(抜いて来た)野菊が咲いています。
ブラームスの♪折ればよかった 遠慮がすぎた」にならないように、
野の花は遠慮なく戴いています。
平井堅くんのお母さんは、葉に穴が空いているとそのまま描かれます。
散歩で採って来た色んな花を、帰りに寄るとご主人だけ。
名前を言わなかったのに「な・・さんでしょう」とお礼の電話。
ふるさとにも野菊がたくさん咲いているかなぁー。
実家で貰った小菊もぼつぼつ咲きかけています。
投稿: なち | 2022年10月30日 (日) 14時16分
「野菊」ジャンルを問わず『シンプルイズベスト』という言葉がありますが、この唱歌に私はその極みを感じている一人です!
極論になりますが、私はずいぶん昔にこの唱歌を知って以来、これまでこの簡素な詩とそのメロディに、何故かしらいつも心を打たれ、そして感情移入させられてきました。あれから長年経った現在では、この唄に愛しさを憶えるようになりました。
『・・・小寒い風にゆれながら
けだかく清くにおう花・・・』
「野菊」私の最も共鳴する上記の詩は、これから先もその感性だけは、失わずに生きて行けよ!と、いつも私にささやきかけているような、そんな気がするのです。
投稿: 芳勝 | 2023年11月 4日 (土) 17時31分
まったく、シンプルイズベストですね。同感します。そして「純真」に勝るものはありませんね。
管理人さんがまだ新婚時代の思い出「そのころ私は仕事で連日朝帰りしていました。ある朝帰ってみると、配偶者が涙ぐみながらこの歌を口ずさんでいました」。このくだりに私は思わず眼がしらが熱くなりました。奥さんは心優しい方ですね。そして、その光景を衝撃をもって今でも心にフラッシュバックすると言う旦那さんのナイーブさが素敵です。
投稿: 吟二 | 2023年11月 4日 (土) 19時41分
この歌への最初の投稿者は、「 投稿: 波路 | 2007年8月 7日 (火) 21時18分」です。この歌に20年近くコメントが寄せられていることに感慨あまたです。波路さんのコメントに俳句が一首添えてありました。「一本の野菊を切るに野心あり 波路」。かかる俳句を私も詠めたらとおもいました。波路さんご健在でしようか。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2024年5月31日 (金) 14時27分