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2007年8月10日 (金)

元寇

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:永井建子

1 四百余洲(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)
  十万余騎の敵
  国難ここに見る
  弘安四年夏の頃
  なんぞ怖れんわれに
  鎌倉男児あり
  正義武断の名
  一喝して世に示す

2 多々良(たたら)浜辺の戎夷(えみし)
 
 そは何蒙古勢
  傲慢無礼者
  倶(とも)に天を戴(いただ)かず
  いでや進みて忠義に
  鍛えし我が腕(かいな)
  ここぞ国のため
  日本刀を試し見ん

3 こころ筑紫(つくし)の海に
  浪おし分けて往(ゆ)
  ますら猛夫(たけお)の身
  仇(あだ)を討ち還(かえ)らずば
  死して護国の鬼と
  誓いし箱崎の 神ぞ知ろし召す
  大和魂(だま)いさぎよし

4 天は怒りて海は
  逆巻く大浪に
  国に仇をなす
  十余万の蒙古勢は
  底の藻屑と消えて
  残るは唯三人 (ただみたり)
  いつしか雲はれて
  玄海灘(げんかいなだ)月清し

《蛇足》 文永11年に続き、弘安4年(1281)に九州北部に来襲した元軍を日本がよく防ぎ、いわゆる神風の助けによってこれを撃滅した故事を歌った作品。
 明治27・28年の日清戦争の折、戦意高揚のために盛んに歌われました。

 上図は『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』の一部。鎌倉時代後期の作で、肥後国の御家人・竹崎季長(たけさき・すえなが)が、元寇における自分の戦いぶりを鎌倉幕府にアピールするために描かせたものとされています。

 永井建子(けんし)は広島県に生まれ、明治11年に上京。陸軍軍楽隊幼年軍楽生となり、明治13年に首席で卒業。日清戦争には軍楽次長として従軍。明治36年、フランスその他に留学、帰国後、帝劇洋楽部部長などを務めました(1865~1940)。

(二木紘三)

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コメント

九州の博多湾には未だに蒙古襲来の遺跡が有ります。日本がかって外国の侵略を受けた生々しい史実ですね。敵を撃退したのは神風(台風)と言われています。が。当時防衛に当たった武士団の団結と力がものをいったに違い有りません。博多湾の防塁を思い出してはこの歌を口ずさんでいます。二木紘三先生ありがとうございました。

投稿: 波路 | 2007年9月25日 (火) 19時42分

 「軍歌」という問題についていうと、この 元寇 などは、唱歌でもあり軍歌でもあり、ジャンルを区別するあたわず、ということになるのでしょうね。

 もちろん、戦後生まれの小生は、学校で教わった記憶はありません。元々、父が3才の時になくなったこともあり、母が働くに忙しかったのもあり、父方の祖父母と触れ合う時間がながく子供に向くような??歌が耳からはいってきたのでしょう。
 軍歌を含めて、その当時の子達なら知らないようなメロディーが頭の奥底に沈みこんでいったのです。元々僕自身も変わった子だったからでしょうね。
 乃木大将  広瀬中佐  などなど
 軍歌でないものなら
  天国に結ぶ恋  琵琶湖哀歌  など
 そのかわった子に、中学に入ったころ 何かのプレゼントだったのか?? 母が追い討ちをかけました。歴史を題材にした唱歌を集めたレコードでした。(金次郎・秀吉・正成・高徳・義経・道真などの歴史上の人物が題材でした。)そのときから、この軽快なリズムの「元寇」は、完全に頭に収納され、時と場合により突然口ずさんでしまう何曲かの一つとなっています。
 これらも影響したのでしょうか??高校の頃には大の寮歌好きとなり、また一人で京都の寺めぐりをしていました。
 高山寺、神護寺、常照皇寺、円通寺ーーーいいですね、時間さえあれば、その静寂のなかにいたいものです。またまた、勝手な文になってしまいました。申し訳ありません。

投稿: 能勢の赤ひげ | 2008年3月23日 (日) 20時40分

昭和20年8月15日、私は北朝鮮の安岳という日本人世帯60あまりの小さな町で終戦を迎えました。夏休みなのに学校に集められ、運動場に整列して玉音放送を聞きましたが、国民学校2年生の私には何があったのか全く判かりませんでした。家に帰ると父が恐い顔をして「日本が負けた」といいました。それまで私は、神風が吹くから日本は絶対に負けないと本気で信じていました。
この歌を聴くとその頃のことを思い出します。

投稿: 周坊 | 2008年3月24日 (月) 11時08分

この歌は戦前といっても敗戦間近のころ「東宝映画・一番美しく」の中で、主演は多分高峰秀子だったと思います。勤労動員に行った女学生が歌う光景を思い出します。今となって別段戦意高揚にも思いません。ただ懐かしい限りです。

投稿: 三宅 | 2008年4月17日 (木) 16時03分

この歌は調べてみると、日清戦争の直前(明治25年)に作られたものですね。したがってタイミングが良いというか、日清戦争中に大いに歌われたのだと思います。清も元も同じ中国大陸の国、戦意高揚のために盛んに歌われたのでしょう。
軽快なメロディーを聴いていると、唱歌だか軍歌だか分かりませんが、その当時の国民的な歌だったのでしょう。
大軍勢の元軍の襲来で、日本は初めて「国難」に遭遇したのだと思います。この歌からは、奮い立つ鎌倉武士の闘志が伝わってくるようです。そして以前、観光で訪れた福岡の元軍防塁跡が目に浮かんできます。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年11月25日 (火) 15時46分

 吹き荒れる大颶風、猛り狂う波浪、翻弄され海中に没していく元の大艦隊。このシーンは、今大好評の映画『レッドクリフ』の赤壁大戦や、日露戦争で我が国の勝利を決定づけた日本海海戦にも匹敵する、一大スペクタクルに思われます。
 私は「元寇」には、表の主役と蔭の主役がいたと考えます。表の主役は、元の大軍が襲来してもいささかも動揺しない胆力が備わっていた鎌倉武士団の総帥、若き執権・北条時宗です。そして蔭の主役は、その元寇をずっと以前に予見していた日蓮です。
 日蓮は『立正安国論』において、もし国(鎌倉幕府)が正法(法華経)を用いずば、三災七難特に「他国侵逼の難」が襲いかかるであろうと警告しました。これは文永の役、弘安の役で事実となったわけです。それをもって日蓮の予言的中と言えるのかどうか、私には分かりません。しかし当時そんなことを予測した者は日蓮以外にはいなかったことは、注目すべきことだと思います。
 ただ惜しむらくは、日蓮の白熱火の如き宗教的情熱は、時代が遥かに下った昭和初期、日蓮主義を標榜する北一輝や陸軍首脳らによって、国学と共に戦争遂行に利用されてしまったことです。結果神風は遂に吹かず、「神州不滅」の信仰は木っ端微塵に打ち砕かれたのでした。

投稿: 大場光太郎 | 2008年11月28日 (金) 20時37分

三宅さんのコメントにありますように、黒澤明監督の映画「一番美しく」のなかで繰り返し使われています。黒澤明の監督第2作で戦時中の作品ですが、「戦意高揚」というより、暗に反戦的な気持ちを込めたような作品でした。主演は(高峰秀子でなく)矢口陽子さんで、後に黒澤監督と結婚されました。

投稿: 本多昭一 | 2010年4月21日 (水) 11時19分

「泣げば山がら”もんこ”くるど、ねえむれえや、ねむれえや」という歌詞の、悲しい歌を母は歌って、僕を寝かしつけてくれました。津軽衆でした。音韻史の授業では、学生は故郷の子守唄や遊び歌、御詠歌などを歌わされました。訓点資料と付き合わせると、古代日本語のアクセントを復元する手がかりが現れるのです。先生(正確には、先生の父上)は岩手出身でしたが、その旋律も歌詞も知っておりました。”もんこ”の意味を漠然と’奥山に棲む化け物’と思い込んでいた僕は、それがモングワール、ムガール、つまり’蒙古’の意味ではないかとする仮説まであることを知り、以来朝第一講のこの授業が待ち遠しくなりました。北海道のある地方では、’死人/仏様’を意味するようなのですが、アイヌ語起源ではないかとされているようです。それにしても、蒙古兵は海からではなく、山から来襲した、という点が解せません。どなたかご教示くだされば幸いに存じます。(長期間の旅行中で資料を見ることができません状況をご察しください)

投稿: イサコフスキー | 2011年12月28日 (水) 06時48分

モンコは”もののけ”が語源らしいと、ウェブで知りました。この子守歌は有名なようで、旋律もほぼ同じ。ただ別の歌詞に’お前の姿に化けたモンコが来る’という意味のものがあることから、蒙古兵ではありえず、’化け物’の意味をもつ”もの”または”もののけ”と解釈するのが合理的というものでした。お騒がせしました。

投稿: イサコフスキー | 2011年12月29日 (木) 02時00分

イサコフスキーさま 寛政元年頃から長い年月をかけて綴られた「東日流外三郡誌」と言う書物に、蒙古襲来の時、神風により国難を免れたが、元船12艘が津軽に漂着、元兵が山にこもったと言う記録が残っているそうです。(東日流はツガル)
それで「山からもっこ(蒙古兵)が来る」。子守歌の「もっこ・もんこ」には、そう言う説があるようです。
ただ、「東日流外三郡誌」は、諸説をそのまま記録している歴書とのこと、史実かどうかは別のお話だと思いますが…。

投稿: 門子 | 2012年1月 1日 (日) 12時40分

「東日流外三郡誌」は、どうも偽書の疑い濃厚なようです。
お正月から、お騒がせしてすみませんでした。

投稿: 門子 | 2012年1月 1日 (日) 13時02分

門子様 貴重なお話ありがとうございます。偽書とのことですが、偽書で言及されるほどの、津軽地方では知られた子守唄であったということなのでしょう。僕は、モンコが’物の怪’の音を写したとする説が合理的だとしても、’蒙古’の古音と関連付けられるからには、やはり何か「山から来襲する蒙古兵士」の歴史的事件もしくわ挿話が、壱岐対馬ではあったのかも知れないとも思っております。それにしてもモンコの子守唄はポーランドの”火の粉の子守唄”と旋律の一部が似ております(youtubeで "Bajki iskierki"とタイプすると、可愛い赤ちゃんが現れます)。子守唄というものは旋律の面で、ある種の普遍特徴をもたねばならないのでしょうか。

投稿: イサコフスキー | 2012年1月 5日 (木) 18時53分

イサコフスキーさま 私の書き方に問題があったようです。「東日流外三郡誌」に書かれているのは、元船が十二艘津軽に漂着して元兵が山にこもったと言う部分です。
また、ネット上の津軽語辞典にも、「もっこ」は載っています。(複数の方言辞書に)
「『もっこ』  幼児語のお化け(蒙古の意)  ※津軽の子守唄の一節に「泣けば山からもっこくるぁねぇ~」がある。この「もっこ」は蒙古の訛ったものである 」
史実かどうかは別にして、やはり元船漂着の伝承が津軽地方にあったのでは無いでしょうか…。
ご紹介のポーランドの「火の粉の子守歌」を聴きました。どこか共通するものがありますね。津軽地方の子守歌の方が、一層の哀愁をおびているような気がしますが…。どちらも美しいと思います。

投稿: 門子 | 2012年1月 7日 (土) 11時56分

門子様 お話に驚いております。あるロシアの民族学者が日本海沿岸にツングース系民族の頻繁な漂着があったとする論文を書いております。ならば緻密な戦略に基づく元のことですから、渤海使節が漂着した記録を参考にして、津軽にまで偵察隊を派遣したことも十分考えられることなのでしょう。なにか壮大な規模の因縁をもつ子守唄のような気がします。火の粉の子守唄は洗練されすぎていますね。僕も「もんこくっかね」の方が、酒をすすめます。ありがとうございます。

投稿: イサコフスキー | 2012年1月 8日 (日) 06時30分

イサコフスキー様
門子様
 偽書にもせよ、「元寇」で神風をしのいだモンゴル船が津軽に漂着、モンゴル兵が山に籠もったという伝承が語られているとは驚き、大いにおもしろく思いました。源義経が衣川で討ち死にせず、大陸へ逃れてジンギスカンになったという有名な話を連想し、方向は逆ですが、日本とモンゴルの血縁の深さを感じさせます。現代、日本の「国技」大相撲の最高位をモンゴル人が占め続けているのもむべなるかな。
 昭和30年代に岡田和夫編「日本民謡合唱曲集」という本で覚えてすっかり好きになり、今もよく口ずさむ「子守唄・青森地方・おきはるお編曲」の文句はこうです。
  ねんにゃもにゃ
    どこいった
  ねろじゃねろじゃ
    ねたこえ
  ねねば山から
    モコァくらァね
  ねろじゃ
    ねんねこせ
 解説に、<青森地方で広く歌われている美しい愛情にみちた歌です。モコァとはお化けのこと>とあります。
 亡妻は、東北とはいっても山形県米沢生まれでしたが、「山から来るお化けはモォよ」と言いました。そうすると、コは、「牛の子」が「ベコノコッコ」(ベェは牛)になるという例のコだな、と私は理解してきました。
  

投稿: dorule | 2013年3月29日 (金) 18時32分

先日九州福岡県の朝倉市甘木に仕事で行ったのですが
ここのカラオケにはこの歌がありました。
さすが九州の地名がいっぱいちりばめられたこの歌
九州のカラオケにはあるんだ。うん。
フォレスタのサイトでメロディーを覚えていたので
はじめてカラオケで歌いましたが何とか歌えました。
意外なことに、九州の人もまったくこの歌はご存じなく
九州のこんないい歌、初めて聞きました、
と東京の私が感謝されました。
で、東京に戻ってみると、この歌、カラオケに
入っていない。残念!

投稿: 江戸ふうりん | 2013年4月 9日 (火) 23時26分

古い話で恐縮ですが、昭和41年に福岡のある大学で応援歌として、歌った記憶があります。

投稿: 藤島 弘之 | 2014年9月 6日 (土) 22時06分

先週の夏場所楽しかったです!

照ちゃん応援してました。

モンゴルの強い大勢で頼もしい。

ふとこの歌小学生のころ歌ってました~~~(^^♪

もう昔のことですが、子供の頃の思い出です。


追伸いろいろ昔のの歌探して楽しんでいます。


今モンゴルと仲良くお相撲してます。
楽しいですね。

モンゴルのお相撲さん聞いたらびっくりでしょうね。

昔の歌探して楽しんでいます。

投稿: okikudesu. | 2015年5月29日 (金) 17時27分

 大和魂を鼓舞する名曲です。10年ぶりに聞いて再び感動しました。博多湾を眺める時おも出すこの曲が素晴らしい。700年前の九州の武士たちの士気を伺い知るメロディーに感激。

投稿: 波路 | 2017年12月25日 (月) 10時45分

随分昔に作られた「元寇」ですが、私(昭和12年生まれ)が子供の頃、この歌を勇ましく歌っていたことを、憶えています。ただし、そのころ歌っていたのは、歌詞の全部ではなく、歌詞1番の最初の4行、歌詞2番の最初の4行位でした。
特に、歌詞1番の♪国難ここに見る 弘安四年夏の頃♪と歌詞2番の♪傲慢無礼者 具に天を戴かず♪のフレーズは、子供心にも鼓舞するところがあったように思います。

日本国技の相撲を、少なからぬモンゴル出身の力士たちが加わって、日本の力士たちとともに盛り上げている現状に思いを馳せるとき、長い時代の隔たりを感じます。

投稿: yasushi | 2019年1月24日 (木) 14時20分

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