夏の思い出
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 夏がくれば 思い出す 2 夏がくれば 思い出す |
《蛇足》 殺伐とした事件ばかり続くこのごろ、こういう清冽な歌を聴くと、心が安らぎます。
中田喜直は大正12年(1923)8月1日、東京生まれ。父は『早春賦』の作曲者として知られる中田章。昭和18年(1943)東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業して作曲家になりました。
この曲は、昭和24年(1949)、江間章子の詞に、新進の作曲家だった中田喜直が曲をつけたもので、NHKラジオで放送されました。
平成12年(2000)5月9日没。生涯に2000以上の曲を作りましたが、とりわけ『めだかの学校』『夏の思い出』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』などは、季節の移り変わりに敏感な日本人への贈り物といっていいのではないでしょうか。
江間章子は平成17年(2005)3月12日没。91歳でした。
新潟県生まれで、子供時代を岩手県で過ごしました。『詩と詩論』の影響を受けて作詞を志し、戦後は少女小説、ラジオ歌謡など幅広く創作に携わりました。
(二木紘三)
コメント
2年前になりますか、ある曲の歌詞を知りたいと思い曲名で検索をかけたところ、ヒットした多数のサイトの中に「歌声喫茶」を見つけ、それ以来3日にあけずアクセスしております。
二木さんの、決してひけらかすことのない博識ぶり、文章の巧みさ、その文章が表わす人となり、等々、同じ曲に何度アクセスし読み返しても飽きません。
誰しもメロディを聞くだけで涙が滲んでくるような曲というのはあると思います。ジャンルは多岐にわたりますが、私にもたくさんあり、それらが「歌声喫茶」や「うた物語」に多く掲載されているのがとても嬉しいです。
リクエストを受ける必要などなく、掲載曲は二木さんの独断と偏見による選択が好ましいと考えます。
曲の使用についての注意書きにのっとり、私は MIDI 曲を多数ダウンロードして自分の iPOD に入れ運動のためのウォーキングなどで楽しませて頂いております (蛇足ながら iPOD は MIDI 未対応のため WAV に変換するソフトウェアを使用しています)。
良き思い出を誘い辿らせてくれるサイトの管理人さんにお礼を申し上げつつ、今後のこのサイトの発展を心から祈っております。
野村 秀樹 63 才
投稿: 野村 秀樹 | 2007年8月 9日 (木) 04時16分
二木さんご無沙汰してます、菅原洋一さんの"今日でお別れ"リクエストさせて下さい、宜しくお願い致します。
投稿: KOBAです。 | 2007年9月19日 (水) 22時00分
素晴らしい歌詞、美しい旋律・・・尾瀬を一躍有名にした名曲です。私も今夏友人らと尾瀬に行き、この歌を歌いました・・・
投稿: やまだ | 2008年10月 9日 (木) 19時12分
素晴らしい歌詞、美しい旋律(やまださんと同じ)いい歌で心が安らぎますね。
私が20歳頃からこの歌を聴き挑発され日本ではいちばん尾瀬に憧れて約半世紀・・・所属しております“いきいき歩く会”は月に1回の日帰りハイキング、年一度の2泊3日・・・
‘07.5/31~6/2やっと夢が叶いました。その年は降雪が多く尾瀬沼も尾瀬ヶ原にも残雪があり、谷から流れ込む雪解け水には楚々として水芭蕉が咲き始めていて、残雪が演出する景観は初夏の尾瀬の写真のイメージと全く違い、ある種の神秘的と言える“美”は厳しい遵守事項と東京電力他方の努力の成果とのことで、決して忘れ得ない感動と体験でした。
この歌を聴くたびにまたいつか機会があれば、薩摩切子に尾瀬の雪と某焼酎を入れて、この景観と成果に<乾杯!>したい・・・と思っています。
投稿: 尾谷 光紀 | 2009年1月 9日 (金) 21時33分
若い頃は気安いものです。昭和44年の満20歳直前、私は一人で1泊の奥多摩への山歩きに行きました。翌日夕方下山して、ひなびたバス停でバスを待っていると、一人の男性が山の方からやってきました。長いバス待ちの間いろいろ話をしました。その人は八王子の私より3歳ほど年上の人で、私とは別の山に登っての帰りとのことでした。話しているうちすっかり意気投合し、「次は一緒に山に登ろうか」「どこがいい?」ということになり、私が「尾瀬はどうですか?」と言うと「じゃあ、そうしよう」と決まりました。
こうして6月下旬、二人で2泊3日の尾瀬旅行に向いました。早朝尾瀬沼の方から入りました。その時はガスがかかった曇りでしたが、徐々に雲が切れて以後3日間奇跡的に大快晴に恵まれました。
二人はというより、私はその人に引っ張られる格好で、普段の尾瀬のコースからいとも簡単にすいすい逸れて、付近の地図になさそうな湿原に入り込んだり、隠れた滝に出くわしたりしました。特に圧巻だったのは、燧ケ岳、至仏山という2つの高峰の山頂まで登ったことです。
まだニッコウキスゲには早い季節でした。水芭蕉は盛りを過ぎたものの、所々の湿原に隠れるように咲いていました。遠くで白樺が風にそよぐさまに、高原の旅情を感じました。
40年前のあの頃でも、行き交うハイカーはけっこう多く、心温まる交流もありました。1泊目は尾瀬沼の長蔵小屋、2泊目は尾瀬が原ロッジでした。写真もどっさり撮り、たまに今でもアルバムを取り出しては、その時のことを懐かしんでおります。(にわかにまとめ、長文になりました。お詫び申し上げます。)
投稿: Lemuria | 2009年7月22日 (水) 01時01分
この歌を聴くと思い出すのは、尾瀬の風景とともに、尾瀬ヶ原に乗り入れる自動車道建設阻止の活動の最中に遭難死した平野長靖です。長靖は尾瀬を代表する山小屋、長蔵小屋の三代目の主人でした。私は学生時代に尾瀬を歩いたことがありますが、尾瀬の自然の破壊を身を挺して守った、私と同じ大学の出身の人間がいたことを知ったのは随分後のことでした。平野長靖の祖父、長蔵小屋を建てた長蔵も、かつて発電の目的によるダム建設の計画に反対して尾瀬の自然を守りました。東京電力は現在も尾瀬の土地の約4割を不動産として所有しており、福島第一原発事故の補償の一環として、尾瀬の土地が売却される可能性が取沙汰されています。長靖の死から40年を経て、また尾瀬の自然の危機が訪れようとしています。
投稿: Yoshi | 2011年9月 8日 (木) 08時37分
お世話になっています。過去にいろいろな曲をきかせていただいていますが、久し振りに立ち上げましたら 「夏の思い出」「あのすばらしい愛をもう一度」ともに
タイトルの下のスピーカーマークが真っ黒な帯で見えなくなっており 結果 クリックが出来ず 聞けませんでした! 対策がお分かりでしたら 教えていただきたいのですが・・・! 本日 再挑戦しましたが 同様で 過去に聞いたものまで聞けませんでした。どうもすべてが聞けないようです。
投稿: 窪 武彦 | 2011年12月17日 (土) 00時28分
窪武彦様 そのほか曲が聞こえなくなったという方
「このブログのについて」の(3)(4)(5)をお読み下さい。
投稿: 管理人 | 2011年12月17日 (土) 02時28分
「夏の嫌な思い出」
一昨年の夏あるスポーツをやっていて熱中症で倒れてしまいました。救急車で病院に運ばれましたが2週間気がつきませんでした。しかしそこで得たものが二つありました。一つは毎晩吉永小百合のロケの夢を見られた(砂丘が出てきました)。二つ目はどうやっても止めれなかったタバコと縁が切れました。前者の件は誰も信じてくれませんが。
投稿: 海道 | 2012年8月10日 (金) 16時07分
梅雨明け宣言が四国地方に出て、日本列島はいよいよ夏本番ですね。この歌は「夏が来れば思い出す・・」という歌詞の冒頭がつい口をついて出てきます。
しかし、知名度のわりには、この歌のコメント数は少ないのではないでしょうか。なぜだろうと考えました。
いい歌だと認めていても、いざ投稿するとなれば、尾瀬に行った経験のない人には、コメントが書きづらいんですね。尾瀬に行った思い出もないのに何を書くのでしょう。さりとて「いつか行ってみたいです」で文章をしめるのも、少年少女じゃあるまいし、恥ずかしい。
やはり地名が入ると、一部の縁ある人を強く惹きつける一方で、多くの人を遠ざけるということになります。いわばご当地ソングの宿命を帯びてしまうのです。それがコメントにも反映しているのではないでしょうか。
「みかんの花咲く丘」という歌は、伊豆を舞台にして作られたようですが、歌詞に静岡や伊豆などの地名がいっさい出てきません。それゆえ、みかんの花咲く全国の丘からコメントが集まりそうです。個別の風景でいくか普遍の風景で行くか、それぞれ一長一短で、歌詞を作るのも難しい。作詞家の心配などする必要の全くない私が、今日はそんなことを考えながら、この歌を聞いていました。
私は、今日このブログの魅力を発見しました。おそらく誰も、まだ指摘されていないと思います。このページでいうなら、2007年のコメントからきちんと時系列にしたがってすべてのコメントが保存されていて、誰でも見ることができます。書いた本人からすれば「あんな駄文、いつまでもさらさないでー」というところでしょうが、こういう文章をていねいに保存しつづけるのは、なかなか意義のある仕事(文化事業)のように思いました。
投稿: 越村 南 | 2013年7月 9日 (火) 15時13分
昭和40年頃と記憶しています。学生時代に男女2組のペアで尾瀬に行きました。私は初めてでしたが、他の3人は
何度か訪れているようでした。
鳩待峠から入山したと思います。6月の梅雨のシーズンでしたが快晴で、新緑と澄んだ水面に可憐に咲く水芭蕉が感動でした。尾瀬沼まで行くと、キラキラ光る水面に観光船が浮かんでいました。この当時は観光船が運航してたのですね。
銀山湖あたりから尾瀬沼に入ったのでしょうか。この歌を聴くと当時の爽やかな尾瀬沼の記憶がよみがえります。
投稿: タケオ | 2015年1月30日 (金) 22時26分
「…きちんと時系列にしたがってすべてのコメントが保存され…書いた本人からすれば「あんな駄文、いつまでもさらさないでー」
南さんコメントにコクリと頷き、しばしば教えられ、感謝。仰る通り、私に限れば駄文をダブダブさせる塩梅で、間違いも後悔も致します。時に事実関係が混乱し、削除お願いしたり…、ふたつぎさんに迷惑をお掛けしています。
‘‘駄文なくして、人は進歩せぬ‘‘説に励まされつつも、書きながらそれを直ぐに忘れ(がち世代として)ないと、次に進め無いようになりました、嗚呼~。 ところで‘時系列過去ログ‘をどうして見るのか、教えて下されば幸です。
投稿: minatoya | 2015年1月30日 (金) 23時21分
タケオ様
薀蓄を傾けるつもりではありませんが、尾瀬ヶ原の自然を守る活動の最中に遭難死した平野長靖の生前の意思を継いで、"機械船" は焼却されたと記憶しています。
投稿: Yoshi | 2015年1月31日 (土) 04時06分
Yoshi 様、投稿を早速ご覧いただき、ありがとうございます。
確かに、尾瀬の自然を守るためには観光船等必要はありません。私も尾瀬は大好きで、その後何度も訪れています。
でも、初めての尾瀬沼で、キラキラ光る水面を走る観光船の思い出は、今でも青春の記憶として瞼に焼きついています。近くにいる尾瀬の愛好者も尾瀬沼にボートがあったり、観光船が運航したりの風景は記憶にない方が多いですね。先人が遺してくれた、富士山・上高地等数多くの大自然の景観を保護し、後世に伝えるのは私達の責務と思います。
投稿: タケオ | 2015年1月31日 (土) 10時09分
minatoya様
>‘時系列過去ログ‘をどうして見るのか、教えて下されば幸です。が気にかかりました。
「どうして」とは「なぜ」と言う意味でしょうか。それとも「どのようにして」と言う意味でしょうか?
投稿: Bianca | 2015年1月31日 (土) 14時58分
Biancaさん、仰るとおり、いずれにも取れます。「どのようにして」ならば単純な技術的質問ながら、「なぜ」ならば、やや僭越と言うか相手の‘人生観‘を尋ねているような感じです。コクリと頷いていますので、後者の‘さらに突っ込む‘質問もありそうですが、ここは前者の積りです。あやふやな一行を注視して下さり、Biancaさん、勉強になりました。
この数週ときどき、霰が草原を転がり覆い、雪が小枝を飾ります。‘夏の思いで‘を聴くのは、寒々しい心が和み、逆に相応しいのかも知れません。
投稿: minatoya | 2015年1月31日 (土) 21時06分
minatoyaさま
いやどうも、おそれいります。
ひとつの歌のページを開くと、時系列の順序にしたがって、コメントが並んでいるという意味で、全曲のコメントをシャッフルして、時系列で並びかえるということではありません。
そんな技術は持っていません・・
「夏の思い出を聴くのは寒々しい心が和み・・」
そうですね。
私も、冬のビールを楽しんだり、今住んでいるベトナムで、美空ひばりの『越後獅子』を聴いたりしています。
そのミスマッチというか、倒錯感がたまらないのです。
投稿: 越村 南 | 2015年1月31日 (土) 22時25分
「何故」ではなく「如何にして」と言う意味だろうと98%位は思いましたが……。何年も前からのコメントが順番に並んでいるのを見られるのは楽しいという意味なんですよね。ご本人からお答があり、私が何も言う必要もないのですが、差出口をした責任から一言を。
「夏の思い出」を聴きつつ、この山陰の地も粉雪混りで時々陽がさす寒々しい日でした。でも明日からは二月、越村南さんのおられる越南やminatoyaさんのいらっしゃるところ(外国のように感じますが)にも春が近づいていることでしょう。御機嫌よう、good night.
投稿: Bianca | 2015年1月31日 (土) 23時29分
連続演奏Ⅰ.Ⅱ.Ⅲ.のような重宝な(検索可能な)機能だろうかと思ったんです。(連続演奏は掲載曲一覧のA~G頁にあり、他雑用中のBMとして…)。南さんはお住まいが連想され、Biancaさんは露西亜の民謡が浮かびます。ご本名の方々(管理人殿しかり)けじめ良さから遠いのですが、アザナHNを伺い想像するのも一興デス。私は無骨♂なので、女性アザナが少なく残念。横文字だとビアンカに並びアニタやシルビアは一昔前の欧米ベスト5、世代がわかりますね。‘名前も世につれ歌につれ‘
投稿: minatoya | 2015年1月31日 (土) 23時43分
「夏の思い出」の江間章子さんの思いにも触れたく、‘07.5/31~6/2念願の尾瀬を訪れました。 残雪と流れの中に楚々と咲き始めた水芭蕉・尾瀬沼・木道・大江湿原等を遠く雪に覆われた至仏山や燧ケ岳が見守っているような風景、あの感動はパソコンや携帯電話の壁紙に保存しています。
当時は東京電力の管理や地域のボランティアの方々の支援でこれらの景観を保持されているとのDVDも貰いましたが、福島の原発事故以来もそれまでと同じように保持されていることを心から願っています。
投稿: 尾谷光紀 | 2015年2月 2日 (月) 12時38分
この曲は昭和24年に作曲されたということですが、当時中学2年生だったわたしは、本屋で「科学朝日」という通俗科学雑誌を立ち読みしました。尾瀬という秘境の2ページほどのカラー写真に目が釘づけになりました。こんなに美しい自然が世にあるのだろうかと。その後、尾瀬は一大ブームになり、私も大学生のとき尾瀬観光の行列に加わったのですが、中学生のとき抱いたあこがれにくらべると、人の多さに一寸幻滅でした。しかしこの歌は純粋に中学生の時に想像した尾瀬を思わせてくれるようです。
投稿: 昭和老人 | 2015年10月17日 (土) 01時17分
管理人の解説の「こういう清冽な歌を聴くと、心が安らぎます。」の通りですね。
「夏の思い出」をアップしていただき有難うございます。
私は学生の頃から尾瀬の自然を称える友人や尾瀬で結ばれた恋を語る友人の話の聞き役で尾瀬に憧れていました。
私がはじめて尾瀬を訪ねたのは20数年前で、その時の尾瀬の自然の美しさと人の多さが印象に残っています。
今年6月上旬 高校の同級生が1泊2日の尾瀬散策を計画をしました。熊本、福岡、首都圏から70歳前半の同級生12名が参加します。そのうちまだ仕事をしている人は4名、通院中の人は5名、女性4名・・高校を卒業して55年も経ちますと同級生も兄弟姉妹のように親しくなってきます。
この「夏の思い出」をみんなで歌うような気がします。
私は最近覚えた草笛で「夏の思い出」を演奏できるように練習しています。
老年になり尾瀬散策に参加できる幸せを感じる毎日です。
投稿: けん | 2017年5月22日 (月) 23時48分
今朝のNHK連ドラ「ひよっこ」で「夏の思い出」をコーラスをしていました。再度聴きたく開いたところ、けん様のコメントがありました。いいですね。しばし尾瀬ケ原に翔んでしまいました。
夫婦で運転免許証を返納して、これからはトレッキングで行こうと計画しトレッキングシューズを買いました。手始めに北から南まで木曽路を歩き、つぎに夫は尾瀬は行ったことがないというので、「いざ尾瀬へ」という矢先行けなくなってしまいました。トレッキングシューズはそれきりになってしまいました。
半世紀以上も前に二泊三日で私は尾瀬へいきました。この歌を聴いたり、歌ったりすると今だに尾瀬ケ原があざやかに蘇ってきます。
投稿: konoha | 2017年5月23日 (火) 09時24分
konohaさんは運転免許証を返納され・・、「いざ尾瀬へ」という矢先・・。半世紀以上も前に二泊三日でkonohaさんは尾瀬へ行かれたそうですね^^尾瀬ケ原があざやかに蘇るというコメント有難うございます。
今朝も「夏の思い出」を聞いています。心がウキウキしてきます(^^♪。幹事から今回の計画の最終案が届きました。
初日は、「尾瀬檜枝岐温泉、旅館〇〇」に13時30分頃着いて荷物を預け、ミニ尾瀬公園(周辺約2km木道(花は、尾瀬沼より1月早く既にミズバショウが咲いているとのことです))など足慣らしに、3時間コースの散策を予定しています。
翌日は、朝6時30分のバスで出発し、尾瀬沼山峠7時20分着、ここから尾瀬沼ハイキングを予定しています。(大江湿原で水芭蕉等観賞予定)
今年も5月1日から、現地の「会津バスの時刻表」が改訂されました。時刻表は、「会津バスー会津乗合自動車(株)」で検索。会津田島」の「会津田島→会津高原口駅→最終尾瀬沼山峠(2017.5/1ダイヤ改正)」を
浅草から会津高原口駅までの電車は、往復「特急リバテイ号」で。1泊2日古希を過ぎた同級生12名の旅です(^^♪
投稿: けん | 2017年5月25日 (木) 05時45分
けん様、尾瀬道中がとても楽しそうですね。山の新緑は様々な色があり、紅葉時期とはまた違った美しさがありますね。高齢になっても、かってのお仲間たちとのトレッキングも素敵です。全身に「マイナスイオン」を大いに浴びて楽しんできてください。
投稿: konoha | 2017年5月25日 (木) 10時09分
私たち同級生12名は6月11日東武浅草駅から「特急リバティ号」で会津高原尾瀬口に到着。会津高原尾瀬口で会津バスに乗り換え奥会津の檜枝岐(ひのえまた)に向かいました。旅館に荷物を置き、「ミニ尾瀬公園」で水芭蕉やシラネアオイ、キヌガサソウなどを鑑賞しました。
ロックガーデンの近くに江間章子氏の詩碑、中田喜直氏の譜碑がありその前に立つと「夏が来れば思い出す」のメロディーが流れてきます。私はメロディーに合わせて草笛を吹き ♬ 一生の思い出ができました ♬
翌日6時半の会津バスで沼山峠に向かい、7時半過ぎから大江湿原を目標に歩き始めました。林にはまだ残雪があり木道で滑らないように歩きました。杖に助けられました。
9時前に大江湿原に到着、水芭蕉の歓迎を受けました。
尾瀬沼の近くにある尾瀬沼ビジターセンターの周りにはミネ桜、チシマ桜、シラネアオイ、福寿草、リュウキンカ、カキツバタ、イワカガミ、キヌガサソウ、ミツガシラなどが咲いていました。オタマジャクシの卵も教えて頂きました。気温8度、曇り、降雨確率30㌫、燧ヶ(2,356m)の頂上付近は雲に隠れていました。
今年は水芭蕉の当たり年だそうで、大人の水芭蕉、子供の水芭蕉を沢山鑑賞できました。
約50年前 群馬大学医学部の学生が尾瀬でバイトをしていたところ尾瀬散策に来ていた京都の女子学生が怪我で治療所に運び込まれました。
その女性と文通⇒恋⇒交際⇒結婚と青春の絵になる幸せな人生に発展、歩み続けた医者のことを思い出しました。
投稿: けん | 2017年6月13日 (火) 14時33分
同級生の皆様との旅路、「夏の思い出」の碑の前での草笛とともに素晴らしい一ページになりましたね。また水芭蕉の当たり年とのこと、「尾瀬の水芭蕉」を満喫なさったのですね。ますます「夏の思い出」の歌と一緒に忘れがたい思い出になったことでしょう。
杖は使ってみて、はじめてその威力がわかります。私も山形の羽黒山を登ったとき、下りてくる人から杖を譲り受け、その杖をつきながら「こんなに楽なんだ」と初めておもいました。
尾瀬のロマンスの土産話も青春を感じます。
投稿: konoha | 2017年6月13日 (火) 17時25分
今朝NHKニュースの「おはよう日本」で、尾瀬のニッコウキスゲの群生が鹿による食害で見る影もない映像がありました。尾瀬の自然を守るため、古くは長蔵小屋を建てた平野長蔵氏,
息子の長英氏、そして孫の長靖氏の3代にわたる大変な尽力がありました。(1986年NHKドラマ『尾瀬に生き、尾瀬に死す』)
また、研究ノート『高度成長期における国立公園の過剰利用とその弊害(下)』(Yahoo! JAPANで検索できます)にあるように1960年代の尾瀬の荒廃、破壊、環境汚染に驚きました。私もその時代のハイカーの一人だったのですね。木道を外れることになんのためらいもありませんでした。
私の尾瀬行きは1964(昭和39)年の秋で、青春真っ只中でした。夜行で上野を発ち、早朝沼田駅に着き列車を降りると空気が冷たく、沼田の寒気に身震いするほどでした。
大清水から三平峠を越え尾瀬沼に出ると、時節柄渡し舟を待っているのは私達ともう一つのグループだけでした。焚火がしてあってそこでインスタントラーメンをすすりました。風花が舞っていたので、アルミの食器が手袋越しに暖かくラーメンがすごく美味しかったのを思い出します。渡し舟が静まり返って寒々とした水面を櫓の軋む音とともに滑るようにいったのを覚えています。燧岳が寒そうに見えました。
翌日は快晴でした。平滑の滝、三条の滝を見てしばらく樹々の間を歩いていくと、突然目の前が広けました。辺り一面こがね色です。美しい眺めでした。空がどこまでも高く青く、尾瀬ケ原の全てが草もみじでした。誰もいないのです。少なくとも私の目には人影は見えませんでした。
全てが清澄な大気に包まれた尾瀬ケ原でした。
その頃の木道は丸太を割ったままのもので、長さもまちまちで雑然と置かれていました。朽ちかけている木道もありました。そしてなによりも木道から外れて池塘まで行けました。池塘では真っ青な空の色をそのまま水面の落し、白い雲がぽっかり浮かんでいました。
あの情景はまさに歌そのものでした。
池塘まで行くことは現在では考えられないことですが、尾瀬ケ原の懐に抱かれた気分でした。このあと、夕焼けに染まる至仏山を見ながら山の鼻小屋に泊まりました。翌日もお天気良しで、鳩待峠に出て林道を走るトラックをヒッチハイクして、女性二人は助手席、男性三人は空の荷台に乗り帰途につきました。
現在の尾瀬の美しい自然を守る仕事に就かれている、多くの方々の大変な御労苦に感謝の念が耐えません。ありがとうございます。
投稿: konoha | 2017年9月23日 (土) 14時24分
最近 この『夏の思い出』を口ずさんでいて気付いたことがあります。
唄い出しのメロディが何かの曲にソックリなのです。
『夏の思い出』は♪ミ〜ミファ ソ〜ファミレ…♪で始まります。程なく解りました。 ♪ミミファソソファミレ…♪、なんとベートーベンの『歓びの歌』です。 父 中田章はモーツァルトに触発されて『早春賦』のメロディを、息子の喜直はベートーベンに触発されて『夏の思い出』のメロディを創ったということなのでしょうか。偶然だとしてもとても面白く感じます。 日照不足もあって、今年は梅雨寒の日が続いています。 梅雨が明けたらこのまま「冷夏」になるのでしょうか、それとも「猛暑夏」になるのでしょうか。 いずれにしても、尾瀬は今年の夏も大勢のハイカーで賑わうことでしょうね。
投稿: かせい | 2019年7月15日 (月) 21時36分
家内と結婚する前彼女の頃ある夏の昼熱いので流しソーメンを食べた。私はこの人と結婚するつもりでいたので何も気にならなかったが常識的にはビフテキだろうと色んな人から言われた。言われりゃそうかもしれないがあの時の熱さが悪い。その後50年近いが口喧嘩一つない。
投稿: 海道 | 2021年7月27日 (火) 09時29分
私は 茨城に住む歌声喫茶の大好きなシニアです。
現在は、コロナ対策のため、オンラインソフト・ズームを使った歌声喫茶に参加して、自宅で楽しんでおります。
その中でも一番の愛唱歌は、「夏の思い出」です 。
私は群馬県の 生まれで、子供の頃よく「上毛カルタ」で遊びました。
その中の一枚、「せ」の札が 「仙境 尾瀬沼 花の原 」でした。
そこには、群馬県には仙人の住むような秘境があり、それは尾瀬沼で、水芭蕉が咲き乱れるていると描かれていました。子供心にまだ見ぬ尾瀬に憧れていました。
私は、65年前の高校2年生(昭和 32年) の夏 、初めて、ニッコウキスゲが咲き乱れる尾瀬に行くことができました。その当時の尾瀬には木道が完全には整備されておらず、ところによっては、湿地を歩かざるをえませんでしたので、道が荒れ裸地が目だちました。また 湿地に降りて、池唐の近くに行って、澄んだ水 中を覗き込んだりした、鮮烈な思い出があります。自然保護の観点からは、現在とは、本当に隔世の感がありました。
その後家族連れで、何度も 尾瀬の自然に会いに出かけ、何時も故郷に帰ったような幸福感に浸り、リラックスして、下界に戻ってくるのが常でした。
この歌を 歌うたびに、今までの尾瀬ハイキング のことが思い出され 、非常に幸福な気分になれます。私の終生の友となった次第です。
ー ビバ! ビバ! 尾瀬! ー
投稿: まっさー | 2022年5月10日 (火) 05時11分