どこかで春が
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作詞:百田宗治、作曲:草川 信
どこかで春がうまれてる どこかでひばりがないている 山の三月 東風(こち)吹いて |
《蛇足》 子ども向きの雑誌『小学男生』大正12年(1923)3月号に詞が発表され、のちに草川信によって曲がつけられました。
草川信は明治26年(1893)長野県松代の生まれで、「赤い鳥運動」に作曲家として参画し、『夕焼けこやけ』『汽車ポッポ』『揺藍(ゆりかご)の歌』など童謡の傑作をいくつも世に送り出しました。
小学生には東風(こち)という言葉がむずかしいというので、春風やそよ風に変えて歌われていた時期がありました。今もそうなっている音楽教科書があるかもしれませんが、あまり感心しません。
2月末ごろ、寒さが和らぎ始めると、東からの風が多くなってきます。これは春が近づいてきた証拠です。
子どもが東風ってなんだと疑問をもつと、その読み方以外に、こうした気象上の特徴も教えることができます。むずかしい言葉が、知識の幅を広げてやれるきっかけになるわけです。
(二木紘三)
コメント
美しい日本の抒情歌を幾度も聞きました。
美しい言葉はメロディーとともに後世にそのまま伝えたいものです。
一句:夕東風や海の船ゐる墨田川 水原秋桜子
季語:東風
有難う御座いました。波路。
投稿: 波路 | 2008年2月 5日 (火) 21時56分
少年が春の大陸発見す (拙句)
我が山形で『どこかで春が』といえば、根雪がすっかり解けきった、4月初旬頃の感覚だったでしょうか。それでも、この歌のように3月、雪が方々で解けだして、日を浴びてきらきら輝きながら土の上を流れているさまを見て、『あヽ春が来た』と思ったことがあったような…。
小学4年の前後のこの歌の感じの頃。ある先輩が、望遠鏡なるものを初めて覗かせてくれました。もちろん本式のものではなく、子供用のものだったとは思いますが。そんな望遠鏡でも、何百メートルか先の、普段見慣れた景色の一点に照準を当てて覗きますと、まったく見たこともない別世界に出会ったようなワクワク感を感じますから、子供とは何とも幸せなものです。
雪は既に解けていて、春先の淡々した草が、やけに鮮明に眼に飛び込んできたことを覚えております。
それは、アメリカ大陸を遂に発見し、遠くの船上から望遠鏡でかの大陸を覗き込んだコロンブスの興奮にも匹敵するものではなかったろうか?(かなりオーバーですね。)そう思って作ったのが冒頭の句です。
*
ところで、波路様。先日は久しぶりにコメントお寄せいただき、ありがとうございました。「波路」佳い俳号ですね。ということは、句歴、かなり年季が入っておられますね。
私は、母を介護していた時、軽い鬱(うつ)になり、と共に「ボケの初期症状」を自覚し、その対策のため右脳活性化の一環として始めたくらいでして。3、4年続けましたでしょうか。そのうち両方とも何とか改善され、現金なものでそれと共に句作もやめてしまいました。「継続こそ力なり」なのに。
水原秋桜子。秀句を数多く残している巨匠ですね。私は秋桜子の春の句では、波路様が引用された句と共に、
厨子の前千年の落花くりかへす
が好きです。古都京都の、さる寺で詠んだものでしょうか。
波路様。どうぞ今後とも、お好みの叙情歌に、懲りませずコメントお寄せください。
投稿: 大場光太郎 | 2008年4月14日 (月) 12時36分
大場光太郎様初めてご挨拶を致します。山形にお住まいでしょうか。遠くの嶺〃はまだ白銀の世界でしょうね。仙台、福島、北海道に生活しましたので早春の山脈が思い出されます。
このような名叙情歌に日本人の心が癒されるのですね。日本の国土と民族のすばらしさを誇りにしています。
冒頭の御句:少年が春の大陸発見す
すばらしい感性の御句と思います。小生まだまだ俳句1年生です。秋桜子の句は常に手本にしています。
山桜雪嶺天に声もなし 秋桜子
これからも二木紘三先生の抒情歌を鑑賞しましょう。波路拝。
(はるか宮崎県より)
投稿: 波路 | 2008年4月16日 (水) 15時59分
波路様。図らずもご返信賜り、まことにありがとうございました。
「我が山形」と表現して、誤解を与えてしまいました。私の現在の居住地は、神奈川県厚木市です。当地に住みまして、かれこれもう40年以上経ちます。田舎者の私は、こちらに来て10年ほど、こちらの生活や環境になじめませんでした。しかし今では(母が当地で亡くなったこともあり)、「第二の故郷」と言ってもいいほど、当地に愛着を抱いております。
しかしそれでも、生まれてから多感な18歳までを過ごした「山形」は、「第一の故郷」であり「本当の故郷」です。それでつい、今では住んでいもしないのに「我が山形」と表現してしまいました。ですから、私の当初のコメントは、少年時代の郷里での懐かしい思い出の一こまでありますこと、どうぞご了解下さい。
私ごとが長くなりました。波路様。「小生」とおっしゃっておられるということは、男性でしたか?私は「波路」という俳号、そして美しい叙情歌に多くコメントをお寄せですので、てっきり女性かな?と勝手に推察致しておりました。大変失礼致しました。
いえいえ。波路様の方こそ、各コメント読まさせていただきますに、すばらしい感性をお持ちです。今後より一層、「句道」にご精進下さい。
ゆえあって私は、当月末には『うた物語』を去らせていただきますが、波路様には末永く、素晴らしいコメントお寄せ下さい。私も楽しみに読まさせていただきます。
波路様のご健勝、そして現在大車輪のご活躍の東国原知事のもと、宮崎県が更にご発展致しますことを祈りつつ。 大場光太郎拝
投稿: 大場光太郎 | 2008年4月17日 (木) 17時35分
娘が幼稚園に行っていた時お母さん達が合唱をすることになり、「どこかで春が」も歌うことになった。歌詞は「山の三月 そよ風吹いて」だったが、家内は「主なきとて春な忘れそ」などと言って腹を立てていた。その家内の七回忌もだいぶ前だったし、幼稚園児だった娘の上の子は今度の三月に卒園の予定である。歌詞の意味などその時は分からなくてもだんだんに分かってくるものなのだろうが、30年前に絶滅しそうになった「東風」が復活しているとも思えない。何よりどうでもよいことをいつまでも覚えているのはボケの始まりだそうだが、気をつけなければいけない。
投稿: なとりがおか | 2012年9月29日 (土) 16時29分
「東風」とは東から吹く風ではないと思います。白鳳時代には中国から四神思想が伝えられ、春は東に、夏は南に、秋は西に、冬は北に配されました。実際に東から吹くということではなく、春は「東」に象徴されるということになります。皇太子を「東宮」と書いて「はるのみや」と訓読するのも同じこと。ですから「東風」とは東風ではなく春風のことてはありませんか。
投稿: むじん | 2015年6月24日 (水) 21時39分
むじん様
原始時代の採集・狩猟生活、それに続く素朴な農耕生活を中で、東風が多くなると草木が芽吹き、花が咲き、南風が多くなると、気温が上がり、緑が濃くなり、西風が多くなると、気温が下がり、草木が紅葉し、枯れ、北風が増えると、寒くなって雪が降る――何千にもわたるこうした生活体験が抽象化されて生まれたのが四神思想であって、何もないところから四神思想が生まれ、それに四つの方角や風を当てはめたのではないと思います。
なお、各辞書には東風について次のように定義されています。
「東ヨリ吹ク風。ヒガシカゼ。」(大言海-冨山房)
「春、東から吹く風。ひがしかぜ。こちかぜ。」(大辞林-三省堂)
「(春になると吹く)ひがしかぜ」(新明解国語辞典-三省堂)
「(「ち」は風の意)東の方から吹いてくる風」(国語大辞典-小学館)
「東の方から吹いてくる風。ひがしかぜ。」(デジタル大辞泉-小学館)
「(「ち」は風の意)春に東方から吹いて来る風。ひがしかぜ。春風。こちかぜ。」(広辞苑-岩波書店)
「東から吹いてくる風。東の風。」(全訳全解古語辞典-文英堂)
「春先に東方から吹いてくる風をいう。わが国では、春は東北風、夏は東南風、秋は西南風、冬は西北風が吹き、四季によって風位が区別せられる。」(俳句歳時記 春の部-平凡社)
なお、上記の俳句歳時記に「参考」として、
「冬の間よく吹いていた北西の季節風は、春になって衰え、移動性高気圧と低気圧とが相次いで日本を通るようになり、従って東風も多くなる。高気圧の中に入ると(中略)、日中は暖かく、微風がどの方向からともなくやわらかく吹くように感じられる。(中略)このようなそよ風を東風といったものであろう。」
とあり、東風→春風という置き換えは必ずしも不適切とはいえないかもしれません。
(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2015年6月25日 (木) 00時22分
むじん様の指摘された「東風(こち)=春風」説(東から吹く風のことではないというご意見)は、一見ごもっとものように思われます。確かに、俳句の歳時記などでは、「東風(こち)」は春・三春(初春・仲春・晩春)の季語として膾炙されていますから、「東風(こち)=春風」に置き換えても差し支えないかも知れません。しかし、もともと「こち」は、本来、「板子一枚下は地獄」の船乗りや漁師の生死を賭けた生活の中から生まれた、風の呼び名(瀬戸内海周辺が起源とか)です。「こち」に限らず、かれらの呼ぶ風の名に方向性がないはずがありません。したがって、わたしは、多くの辞書が解説している「東風(こち)は、春先に吹く東よりの風である」と思っています。とくに、この詞(百田宗治作詞)は風の吹きようをいち早く感じた、山の子の「まだ来ぬ」春を想う気持ちを詠っている訳ですから、「東風(こち)=春風」ではないと思います。
投稿: ひろし | 2015年6月25日 (木) 16時32分
ひろしさまの「板子一枚下は地獄」とのご説明に感銘を受け、「瀬戸内海」とのお言葉に、自分の行った学校の校歌が「瀬戸の潮路に白南風(しらはえ)渡り」で始まることを思い出しました。辞書を見て、校歌を知ってから50年たって初めて、「はえ」が「こち」に対応する古い和語であること、「しらはえ」が梅雨明けに吹く南風であること、「くろはえ」が梅雨の初めに吹く南風であることを知り、校歌を作詞された当時まだ20代だった担任の先生の、美しい和語を使われた偉さを思い知りました。「どこかで春が」の歌に「こち」という美しい言葉が使われていることは大切なことだと思いました。
投稿: 加藤 | 2015年6月25日 (木) 23時11分
「こち」でまず思い浮かべるのは菅原道真の古歌です。
「こち吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
追放される身の道真が庭の梅に詠みかけました。自分はもう帰れないだろうが、自分がいなくても春風が吹いたら忘れずに花を開いてくれよ。——それだけの歌と思っていましたが、<こち>の方向性のお話から、花の香りを都から西の果ての流刑地太宰府へ届けてくれという含意があると、今ごろ気がつきました。伝説では梅の花が一片飛んできたといいます。
右大臣の高位から藤原氏の讒言で左遷された九州での没後、京都では急病や皇居への落雷による皇族・高官の変死が異常に頻発しました。これは道真の怨霊の仕業に違いないと言われ、「雷公」道真は平安時代最大の怨霊とされるまでになりました。その怨霊、雷公の祟りを鎮めるために朝廷・藤原氏が祀ったのが天満宮でした。天神様ともいうのは、天神が雷の神だからです。学問の神様として各地の末社天神様が入試合格祈願を受け付けているのは、道真が200年以上続いた遣唐使を自分の代で廃止する理由として、唐の動乱などの外に、「もはや中国文明から学ぶものはない」と建議したほどで、教養抜群だったからでしょう。事実、日本ではそのあとに『源氏物語』に代表される和風の王朝文化が花開きました。道真は「こち」の意味も熟知していたに違いありません。
投稿: dorule | 2015年6月26日 (金) 16時50分
「こち」は、本来、「板子一枚下は地獄」の船乗りや漁師の生死を賭けた生活の中から生まれた、風の呼び名(瀬戸内海周辺が起源とか)というご指摘がありましたが、漁師の言う「こち」と古歌に言う「こち」は、発音は同じでも別物です。もちろん漁師のこちには方向性があるのでしょうが、この歌の場合のこちとは異なります。
また移動性高気圧が多く来るので東風が吹くという引用もありましたが、高気圧が自分から見てどの方角にあるかによって、風向きは東にも北にもなります。何しろ空気の渦巻きですから、高気圧が移動するに従って風向きも移動するというのが科学的な理解ではないでしょうか。
投稿: むじん | 2016年2月26日 (金) 18時47分
むじん様のご投稿のように、中国の古い漢詩では、「東風」というと「春風」を意味することが多いようです。
昔の唱歌を作詞されたかたがたは、中国や日本の古典への素養が高く、たとえば「青葉の笛」の歌の「須磨の嵐」には須磨の嵐を描いた源氏物語への敬意が込められ、この「どこかで春が」の「こち」には、こちの名歌を作った菅原道真への敬意が込められ、昔に思いを馳せることで、春を待ったご先祖たちへの思いを誘うようになっていると思います。
むじん様のご投稿は、春風を歌った漢詩への思いを誘い、dorule 様のご投稿は菅原道真への思いを誘い、ひろし様のご投稿は板子一枚下は地獄の世界でこちを待ったご先祖への思いを誘い、この歌の味わいを深めてくださっていると思います。
なお最近のアイドルグループ「News」の歌 「Kaguya」は、平安の昔への思いを誘ういい歌だと思えます。
投稿: 加藤 | 2016年2月26日 (金) 23時44分
むじん様
古歌の「こち」とこの歌のそれは違うとのことですが、具体的にはどう違うのでしょうか。
文芸評論家山本健吉氏は「こち」について、菅公の歌で用いられた「こち」は、「漁村の潮の香やたくましい生活者の匂い」をすでに失い、「堂上貴族達の弱々しい美的生活」の中に融け込んでしまい、「ただの風雅の言葉」と化していると解説されています(「ことばの歳時記」から)。
「ことば」は「ことだま」とも言われ、霊力や生命力が宿っていると、ものの本には解説されています。確かに古歌にいう「こち」には、山本氏の解説にある、もともとの漁師や船乗りが使うような「生命力」はありません。その意味では、別物(要するに「春風」)という解釈が成り立つかもしれません。しかし、少なくとも、この歌は山のこどもという生活者の感覚で歌われているのですから、「こち」はやはり「春先に吹く東風」と解するのが妥当のように思われます。
投稿: ひろし | 2016年2月27日 (土) 12時29分
「東風」を「そよ風」等に変えて歌う理由について。詞としては「山の三月 東風吹いて」は素晴らしく、一部の唱歌のように難しいから口語調に変える等は良くないと思います。しかし、この曲の場合、歌うと「こお~ち」となって子供の頃から違和感がありました。今、歌詞を変えて歌われていた時期があったことを初めて知りましたが、「そよかぜ」「はるかぜ」の4音の方が曲に合って、歌うと綺麗に聞こえるのではないかと思います。歌詞の変更には、このような理由もあったのではないかと思うのですが、如何でしょうか。
投稿: 小西 | 2017年4月 8日 (土) 13時39分
山本健吉氏は「こち」について、本来は船乗りや漁師の生死を賭けた生活の中から生まれた、風の呼び名のように理解しているようですが、古代にそのような東風の用例はありません。私の見落としも考えられますから、あるなら明示して頂きたいと思います。音が同じでも、用いられた時代が異なれば、内容が同じとは言えないでしょう。南風を「はえ」と読むといっても、それを古代の文献に用例がないのと同じではないでしょうか。
投稿: milk3 | 2019年1月24日 (木) 18時37分
生家のすぐ裏が山なので子ども時代はこの歌が
ラジオから流れるとワクワクしたものでした。
作詞が百田宗治であることを今気が付き懐かしく
心は小学生に戻っています。確か6年生の時でした。国語で彼の詩を音読、貧しい境遇から 異次元へ誘われるようでした。百田をモモタと読むことも新鮮な驚きでした。
遠い夕やけの空を見ていると
ぼくはあの空の下に美しい国があるとおもう。
心のきれいな人ばかり住んでいて
いつもたのしい音楽が聞こえてくるような気がする。
(百田宗治 夕やけの雲の下により)
投稿: りんご | 2019年1月24日 (木) 19時42分