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2007年8月24日 (金)

聞け万国の労働者

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:大場 勇、作曲:永井建子

1 聞け 万国の労働者
  とどろきわたるメーデーの
  示威者(じいしゃ)に起こる足どりと
  未来をつぐる鬨(とき)の声

2 汝の部署を放棄せよ
  汝の価値に目醒むべし
  全一日の休業は
  社会の虚偽をうつものぞ

3 永き搾取に悩みたる
  無産の民よ 決起せよ
  今や二十四時間の
  階級戦は来りたり

4 起て労働者 奮い起て
  奪い去られし生産を
  正義の手もと 取り返せ
  彼らの力何物ぞ

5 われらが歩武の先頭に
  掲げられたる赤旗を
  守れ メーデー労働者
  守れ メーデー労働者

《蛇足》 『聞け万国の労働者』と聞くと、労働運動・左翼運動が盛んになった戦後になって歌われ始めた歌だと思う人が多いかもしれませんが、実は、大正11年(1922)5月1日、第3回のメーデーが東京・芝浦で開かれたときに発表されたものです。

 永井建子(けんし)作曲の軍歌『歩兵の本領』や、そのメロディを援用した旧制一高の寮歌『アムール河の流血や』の曲に、池貝鉄工の従業員で社会運動家だった大場勇が詞をつけたもの。大場勇は、当時22歳でした。
 同じメロディが右と左のデモンストレーションソングに使われたのですから、皮肉な話です。

 メーデーの起源は、1886年5月1日、アメリカ・シカゴの労働者が8時間労働制を要求して行ったゼネラル・ストライキです。この闘争は敗北しましたが、1889年にパリで開かれた第二インターナショナル創立大会で、これを記念して、毎年5月1日を全世界労働者のデモンストレーションの日とする旨が決議されました。

 昭和40年代以前に青春期を過ごした人たちは、ブルジョワジー、無産者またはプロレタリアート、搾取、階級闘争、デモ・ストライキ・サボタージュの3大闘争戦術といった労働・左翼用語は、活動家でなくても、ある程度は知っていたものでした。

 しかし、現在の若い人たちにとっては、いずれもほとんど死語と化しています。だいいち、メーデー自体も、世界的に存続が危うくなっています。
 まことに、今昔の感があります。

(二木紘三)

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コメント

三、四十年も前から両方知っていたこの曲と『歩兵の本領』が同一の曲調であることは、今日初めて知りました。何だか似たような歌が別なところにあるがなあ・・・という漠然とした感じはずっと持っていましたが、あちらとこちらの正反対の集団なので、今の今まで両者が一致しませんでした。教えていただいて、自分でも笑い出しています。

投稿: 乙女座男 | 2008年6月 5日 (木) 22時52分

今の労働組合幹部に聞かせたい歌ですね。
春闘賃上げといっても総理の要請でベアがあるだけ。
ストもなければ団体交渉もない労働三権の行使もない賃上げ。馴れ合い賃上げで勝ち取った成果など吹き飛んでしまえ。無産の民非正規労働者決起せよ。

投稿: 昔の労働者 | 2014年5月26日 (月) 21時11分

戦後、昭和20年から30年代まで我が家の近所に運送会社が3軒ありよくストライキをやっていました。赤旗をたて、赤鉢巻をして、大きなドラム缶で火を焚き、大声で何かを怒鳴っていました。面白そうだったのでいつも見物をしていました。今では全く見られない光景ですね。その当時の労働者はおそらく晩酌の酒を買うお金もなかったと思います。お隣の職工さんの奥さんが、今月も給料が遅配でどうやってお米を買おうかと愚痴っていました。今では日本でも有数の自動車メーカーになり、職工さんの息子さんたちは良い車に乗り毎日晩酌をしています。隔世の感があります。

投稿: ハコベの花 | 2014年5月26日 (月) 22時52分

 春闘、ストライキ、懐かしい言葉ですね。20代前半、私は銀行員でした。東京での交通機関でストライキをしなかったのは、西武線だけの記憶があります。銀行でしたので、翌日の営業のため、男性行員は銀行に泊まり込みでした。借り寝具がどんどん運ばれてきました。また女子行員で通勤で利用する交通機関がストに入る模様だと、休みを取らされていました。
 銀行の組合は御用組合だと先輩行員から聞かされていました。スローガンでこんなのがありました。大晦日のNHKの「紅白歌合戦は家で見よう」が記憶に残っています。

投稿: konoha | 2017年2月14日 (火) 11時41分

京浜急行もほとんどストがなかったと記憶しています。社内一家の意識が強かったのでしょう。大学でアメリカの労働法をやりましたが一番記憶に残るのは「労働者による不当労働行為」の概念でした。勿論ストは合法ですが、なににおいても対等な立場であるという新国家の考えが表れていると感じました。我が国では古い歴史を引きずって労働者は常に被搾取者でこれを守るための法という位置付けだと思っています。正規、非正規の格差が問題となっている現在利益追求が宿命の企業と法や労組はどう折り合いを付けていくのでしょうか。

投稿: しょうちゃん | 2017年2月15日 (水) 20時56分

歌詞の5番 「掲げられたる赤旗を」は「掲げられたる自由旗」が正しい

第1回メーデー開催に当たり 「活版工組合信友会」及び「新聞印刷工組合正進会」(共にアナルコサンジカリズム系の指導者)が牽引役となって企画した そのため開催資金として堺利彦が保管していた幸徳秋水の『基督抹殺論』印税が当てられることになった 開催日が5月1日ではなく2日になったのは 偶々日曜日だったからである(1967~8年頃 存命であった元信友会のW氏から聞き取り) だから明くる5月3日の『東京日日新聞』は、冒頭に正進会を中程に信友会を載せ 最後に組織としては一番大きかった友愛会等で締めくくっているのである
また歌詞の4番「奪い去られし生産を……」の部分はサンジカリズムの考え方であり 自由を何より大切にするから デモの先頭は「自由旗」なのである(現在も釜が﨑の労働者間で歌われている歌詞は自由旗である)また当局の目を意識すれば赤旗よりも自由旗の方が抵抗は少なかっただろう(赤旗事件は別としてもアカや主義者などと云う言葉を蔓延させた連中である どうでも良い刺激は避けても構わないというより避けた方がいい)

投稿: 光田憲雄 | 2019年4月 7日 (日) 15時08分

メーデーことはじめ

(メーデーの始まり)
 労働者の祭典メーデーは、一八八六年(明治十九)五月一日に、アメリカ・シカゴの労働者が、八時間労働を要求してストライキをおこなったことがはじまりとされる。これに対し五月三日、ストライキ中の労働者四名を警察が射殺した。翌四日、これに抗議するための集会が、シカゴのヘイマーケット広場で行われたところ、再度警察と衝突があり、爆弾が投げ込まれた。これによって警察側七名、労働者側四名の死者が出た。
 この事件の結果、九名のアナキストが起訴された。証拠不十分であったにも拘わらず、八月二十日に絞首刑七名、懲役十五年一名の評決が下された。被告人はアナキストであり、過去に暴力行為を推奨してきたから、爆弾を投げたのが誰であれ、被告人らは責任を逃れられないという屁理屈である。裁判のやり直しを求めた弁護側に対しても判事は却下した。
「被告の誰かが爆弾投擲(とうてき)に加わったか、あるいはそれを予想したかどうかは枝葉の問題である。その程度のことで陪審員評決を覆すことは、無政府状態の導入につながる」
 と、またもや屁理屈である。十一月十日の朝に死刑囚の一人が自殺、同日夕方二人が無期懲役に減刑された。翌十一月十一日、四人の死刑が執行された。これが、ヘイマーケットの虐殺(Haymarket massacre)と呼ばれる大弾圧事件の概要である。
 事件から六年後の一八九二年六月二十五日、イリノイ州知事のジョン・ピーター・アルトゲルドは、被告人らは無罪であり、処刑された四人は冤罪であったと認め、獄中に残されていた三人の囚人を無条件で釈放したという。
 これほどの犠牲の上にようやく勝ち取った八時間労働だが、後に資本(経営)側がこれを破棄したため、一八八八年(明治二十一)、米国労働総同盟(AFL=American Federation of Labor)は引き続き八時間労働制要求のため、一八九〇年五月一日にゼネラル・ストライキを行うことを決定した。
 AFL会長ゴンパースは、一八八六年の統一スト後に、ヘイマーケットの大虐殺を受けた経験から、社会主義政党の国際組織である「第二インターナショナル」の協力を仰ぐこととした。すなわち、一八八九年の第二インターナショナル創立大会に出席し、AFLのゼネストに合わせ労働者の国際的連帯のデモを行うことを要請した。第二インターでこれが決議され、一八九〇年五月一日、AFLのゼネスト当日、ヨーロッパ各国やアメリカなどで連帯のデモが行われた。これを第一回に数え、以来毎年五月一日に世界各国でデモが行われるようになった。こうしてメーデーがはじまった。労働者の権利を主張する運動、国民がその時々の要求を掲げ団結と連帯の力を示す日として継続・発展してきた。

(日本への紹介)
こんなメーデーが日本に紹介されたのは、幸徳秋水らによってである。彼の主宰する『平民新聞』は折しも開戦中の日露戦争に強く反対したため、相次ぐ発売禁止や編集者の禁固刑・罰金刑、果ては印刷機の没収等により、一九〇五(明治三十八)年一月十九日、廃刊を余儀なくされてしまっていた。それでも同年の五月一日に、平民社内で「メーデー茶話会」を開いた。非公式ながら、これが日本におけるメーデー集会第一号とされる。
(以降のサンジカリズム等についての記述は管理人により削除)

投稿: 光田憲雄 | 2019年4月 7日 (日) 17時50分

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