おさげと花と地蔵さんと
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:東条寿三郎、作曲:細川潤一、唄:三橋美智也
1 指をまるめて のぞいたら 2 あれから三年 もう三月 3 なんにもいわずに 手を挙げて |
《蛇足》 昭和32年(1957)のヒット曲。
おさげはお下げ髪のことで、アップにしないで、後ろに長く垂らした髪形。2つに分け、それぞれの根元をひもなどで留めるタイプ、同じく三つ編みにするタイプ、1つにまとめて根元をひもなどで留めるタイプ、同じく三つ編みにするタイプなどのヴァリエーションがあります。
アップの女の子は活発で頭がよさそうに見え、お下げは控えめで女っぽく見えました。アップは襟足が、お下げは揺れるしっぽが、男の子たちの心をいたく揺さぶりました。
(二木紘三)
コメント
曲も素晴らしいですが、歌詞がいいですね。小説を作るように、ひとつのストーリーを作り上げてから作るのでしょうか。悲しいけれど、きれいな風景が目に浮かびます。
プロの詩人は田舎の歌を作っても洗練されていますよね。
投稿: 吟二 | 2008年11月29日 (土) 10時54分
小中学生のころ聴いていい歌だなあと思っていました。今でもぜんぶ歌えます。この歌のようなことが本当にあったことのような気がします。現実の記憶より歌の世界の記憶のほうが濃いことがあるようです。
投稿: TF | 2009年10月11日 (日) 10時26分
初めて投稿させて頂きます。このサイト、収録曲・懐かしい歌が多く、音質が良いので頻繁に拝聴させて頂いております。私は三橋美智也の大ファンです。カラオケでも良く三橋さんの歌を歌いますが、中でもこの歌は大好きです。第3節目、一番でしたら「日暮れの・・・」あたり、声が良く通るので、歌っていても聞いていても気持ちの良いものです。
投稿: 中田島 | 2009年11月13日 (金) 00時20分
歌詞にある「指をまるめて のぞいたら」というのは、どのような所作を指すのでしょうか。どなたかご教示ください。
投稿: イサコフスキー | 2011年8月20日 (土) 19時42分
イサコフスキー様
なるほど、何十年もこの歌を聞いたり唄ったりしてきましたが、深く考えたことがありませんでした。
1.今まで、何となくイメージしていたのは、「子供の頃ふるさとで友達との別れの日、夕焼けの山道を遠ざかりながら、指を望遠鏡代わりに丸めて眺めたら、いつまでも手を振って泣いてくれている友達を見た自分の思い出」でした。
2.でも、よく考えてみると、これは大人になった自分があのふるさとでの友達との別れを、まるで鍵穴から過去をのぞくように懐古している姿かもしれないとも思います。「鍵穴からのぞいた母の日本海」「鍵穴の奥で望郷揺れている」という川柳がありますが、そんなイメージかもしれないなとも思います。
結局、早く言えば1は「望遠鏡がわりの指」、2は「鍵穴」です。
でも、作詞者の意図は違うかもしれませんね。その他にどんなことが考えられるでしょうか。私も知りたいです。
投稿: 吟二 | 2011年8月20日 (土) 22時11分
吟二様 自分も1のような光景と指で双眼鏡の形をとる所作を考えておりました.しかしこの美しい歌詞にどこか相応しくないものを感ずるのです.お教えいただきました二聯の川柳は,日常の視野から思いがけず見出した,過ぎ去った懐かしい時間と空間を脳裏に投影してくれます.ロシア語で詠じてみたいのですが,うまくゆきません.北海道の日本海を望む漁村の出の詩人,吉田一穂に「故郷は海(月?)によこたう天の川」(手元に詩集がなく,うろ覚えであります.間違いかもしれません).まず先にこれが口にでました.吟二様ありがとうございます.
投稿: イサコフスキー | 2011年8月21日 (日) 09時00分
吉田一穂の詩集を開きましたら、「ふる郷は波に打たるゝ月夜かな」が載っていました。
イサコフスキーさんが引用していらっしゃるのとは別の句かも知れませんが…。
投稿: 眠り草 | 2011年8月21日 (日) 10時16分
私も吟二さんの1をイメージします。ただ、片目を瞑りもう片方の目に指を丸めて覗いたのではないかと思います。すると広がった景色ではなく一か所を集中して見られますね。おさげの少女とお地蔵さんだけが、強く印象に残ると思います。茜色の空と別れは万葉の時代から歌われています。日本人の琴線に触れるものがあるのでしょう。
投稿: ハコベの花 | 2011年8月21日 (日) 10時30分
眠り草様 ハコベの花様 ご教示に感謝もうしあげます。小生引用の句は別の方のものかも知れません。または、いくつかの文句を自分の頭の中で組み上げてしまったのかも。本当に本当に「茜空」は郷愁を呼び起こします。二十六歳レニングラードの跳ね橋の上から、夕焼けに見惚れていました。自殺でもすると心配したのでしょうか、ガイーという武装警官が職務質問をしてきました。手の甲にターニャという女の名の刺青。自分は夕焼けが美しいと言いましたところ、あれは自然現象ですと教えてくれました。ブレジネフ書記長の時代の思い出です。
投稿: イサコフスキー | 2011年8月21日 (日) 18時32分
眠り草様 「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」(芭蕉)を小生の頭脳が改作したもののようです。お恥ずかしい。
投稿: イサコフスキー | 2011年8月21日 (日) 22時38分
イサコフスキーさま
吉田一穂の生家は、当別のトラピスト修道院と裏山続きの位置にあったそうですね。彼は早稲田大学に進み、21歳の時には、トラピストに滞在していた三木露風を訪ねています。私が初めて吉田一穂の詩を知ったのは高校生のときで、第一詩集の「母」でした。
「あゝ麗はしい距離(デスタンス)
つねに遠のいてゆく風景……
悲しみの彼方、母への
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ)」
投稿: 眠り草 | 2011年8月22日 (月) 08時12分
2011年の、氷川きよしの楽曲で「あの娘と野菊と渡し舟」というのがあります。作詞水木れいじ、作曲水森英夫。 多分にこの「おさげと花と地蔵さんと」を意識しての佐作品でしょうね。そのトライは決して悪い事じゃゃないと思うし、『温故知新』、素朴さを狙って、時がゆっくり流れていた時代の風情、風景を再現するのもいい試みだと思います。前発が名曲だっただけに、それを乗り越える事は相当な出来でないと…。でも掘り起こしって大切ですよね。
投稿: かせい | 2012年12月27日 (木) 01時20分
三橋美智也さんの歌ですよね・・・
昔の昔・のど自慢で この歌を歌いました。
たしか鐘は二つだったと思いますが、
この歌を聴くたびに、若かりし頃が浮かび
何とも・・切なくなります。
今度カラオケに行ったら・歌ってみようかと
今・思っています。
投稿: 田中 喬二 | 2015年6月11日 (木) 19時41分
この歌が世に出た時代背景として地方からの中卒者の集団就職があります。当時、田舎の次男三男坊が都会の工員や丁稚として大量に出ていきました。戦後、大阪万博あたりまでこの集団が復興の底辺として日本を地道に支えたわけです。いったん都会に行ってしまえば、簡単にはふるさとに戻ることもできない時代でした。歌詞はふるさとを離れて都会にいく若者のふるさととの別れや淡い初恋の哀愁を描いているとしか思えません。
投稿: D51791 | 2015年12月 9日 (水) 10時59分
お下げとアップに対する管理人さんの思いにちょっと驚きました。異性の目はそう見るのですね。ある私立女子校では中学生はお河童、高校生からお下げと決まっていました。私、髪が真直ぐなので、お下げができません。高校までは刈上げからお河童、高卒でパーマ、最後にストレートロングヘアへと移り、今は短い髪に逆戻りです。少女時代には他人のしなやかな三編みに美しさを感じ、アップの髪型には縁遠い大人の世界を感じたものです。
投稿: Bianca | 2015年12月 9日 (水) 23時48分
シニア世代です。三橋美智也の出だしの頃の澄んだ張りのある歌を、幾年月を経て魅せられています。「指をまるめて覗いたら、黙って皆んな泣いていた」そして、一つの素朴な疑問が湧きました。「なぜ泣いているのか」自分ではうまく言い表せなくて、皆さまのご意見を聞かせてもらいました。そして、自分も日本人としての感性にすこし目覚めていたのかと感謝した次第です。
投稿: なつが大好き | 2016年1月17日 (日) 13時45分
二木先生の歌物語、疲れた時にいつも聞かせて頂いております。この歌が大ヒットしている頃、私は青春真っ只中で一人の女性を恋していました。おさげ髪の可愛い女性でした。
この恋はいつまでも続くと思っていたのでしたが、あっと言う間に終わってしまいました。今でも懐メロでこの歌を聞くと、青春時代を思い出します。
投稿: 坂本 佑精 | 2016年4月19日 (火) 16時27分
管理人様の【お下げ髪】の説明で、私の今までの【お下げ髪】の意識が大きく違っていたことを理解しました。母の考えで私の妹は黒く太い髪なので「おかっぱ」でした。私は赤毛で細くておまけに「ねこげ」ときているので、いわゆる[ワカメちゃんスタイル」でした。この髪型で兄達の【口撃】に会うのもしばしばでしたが・・・。30代になってから憧れの【ボブスタイル】が定着しましたが、母が存命なら文句タラタラ聞かされたことでしょう。
肩まで届くような髪型にしたことのないわたしにとって、管理人様の説明の【お下げ髪】は、「目からううろこ」とはこういうことなのでしょう。白いものがちらほら交る今となっては、どのお下げ髪も無縁です。
多くの男性と同じ目線で、【お下げ髪】に特別な感情を持って生きてきた女性もいるということを、どうぞお笑いくださいませ。
投稿: mitsuko | 2016年4月20日 (水) 13時47分
この歌がラジオから流れたのは小学校5~6年のころですが、このときすでに「なんとなくいい歌だな」と惹かれてしまい、今でも歌ったり聞いたりしています。
私にとりまして永遠の望郷演歌です
故郷は何かと言えばこれに尽きると思います。
投稿: 齊藤 弘 | 2016年7月21日 (木) 09時59分
おさげと花と地蔵さんと この歌はこの曲の題名にすべての魅力が詰まっていると思います!何とも言えない郷愁を感じてしまいます。私は佐賀の田舎で幼少のころ見渡す限り田んぼばかりのところに住んでおりましたが、あぜ道を歩いて行く田んぼの片隅に小さなお地蔵さんが作ってあり、何故かそこへ行くと立ち止まってじっと見つめていた この曲を聴くとそんな記憶がよみがえります。また20015年12月9日D-51791様のこの歌が世に出た時代背景として地方からの中卒者の集団就職があります。 このご意見に大きな共感を覚えます。何人もの方が投稿をされた ああ上野駅にもそんな思いを抱いてしまいます。昭和29年に生まれた私が言うのは生意気で少しおかしいのかも知れませんが、幼少の頃にしても昭和30年代を生きてこれて本当に良かったなあ と思ってます。
投稿: 芳勝 | 2017年10月30日 (月) 18時27分
三橋さんの歌は心があらわれます。
三橋さんの歌の中でも50曲ほどは完璧に唄うことができます。なかでも「お下げと花と・・・」は特にすきです。
投稿: 高橋 | 2018年4月15日 (日) 14時11分
「おさげと花と地蔵さんと」三橋美智也の数々のヒット曲は、昭和30年代に集中していますが、その中でも昭和32年にヒットしたこの唄に私は最も郷愁を誘われます!
そしてこの唄のことがもっと知りたくなりネット検索をしていたところ、私はとても興味深い某コラムにたどり着きました。
それは集団就職エレジー「おさげと花と地蔵さんと」というコラムでした。
1:指をまるめて覗いたら 黙ってみんな泣いていた
日暮れの空のその向こう さようなら
呼べば遠くでさようなら おさげと花と地蔵さんと♪♪♪
コラムより抜粋、>この歌のリリースは<昭和32年>で、<みんな集まって泣いてさようなら>を言って離れるとくれば、これはズバリ中学卒業生の東京への<集団就職>の見送りである。
>一番の歌詞は{集団就職列車は見送りの愁嘆場を離れてかなり走っている悲しくて涙がでて仕方ないので、指をまるめて涙を拭うとともに、望遠鏡のようにして覗いてみたら、先ほどの涙の別れの光景が遠く浮かんで見えるように思われた。訣別の意味をこめて<さようなら・・・>と叫んだら、空の向こうの故郷のほうで、村はずれのタンポポに囲まれたお地蔵さんの脇で、ただ一人千切れるほどに汽車に手を振ってくれた少女の声が遠くで<さようなら・・・>と呼び返してくれるような気がした}というものである。
そして>これと同じことをストレートに表現したのが春日八郎の「別れの一本杉」である。>と結んでいます。
私は「おさげと花と地蔵さんと」この唄の作詞者の心理を捉えた上記のコラムでの記述に説得力を感じました。
戦後10年以上が過ぎたとはいえ、昭和32年のころの背景は、地方の人たちから見れば、東京がずっと遠くに感じただろうし、集団就職者たちの労働条件も厳しく、けして芳しいものではなかったのではと想像します。その当時この切ないメロディとともに三橋美智也の歌声をラジオで聴いた方たちの胸には、この唄がより心に沁みてきたのではないのか、私はそんな気がします。
私が4才のころの記憶ですが、田園風景が広がる田舎に住んでいた時、田んぼの片隅に木屋根付の箱があり、その中に野花ととも飾られた赤い布をかけた小さなお地蔵さんがいました。私はあぜ道をとおりながらそこへくると必ず立ち止まっていました。この唄を聴く度にその頃のことを想い出します。
投稿: 芳勝 | 2019年6月21日 (金) 22時48分
一番の歌詞「指をまるめてのぞいたら」に、いろんな感想や解釈が寄せられていますが、私は、吟二さんの説に賛成です。双眼鏡のように丸めた指で「おさげのひと」を見ているのを強調するためと思います。この曲が大ヒットしたのは、このフレーズのたまものとも思います。
望郷歌謡があふれていた当時、これがもし「走る列車の窓から……」といった平凡なものだったら、これほどのヒットにはならなかったのではないでしょうか。
作詞の東条寿三郎さんには、「両手を回して 帰ろ 揺れながら」で始まる『星屑の街』という大ヒット曲もあります。当時、私はその格好をあれこれ試してみましたが、どうしても納得ができませんでした。「指をまるめて」もこれと同じ“奇手”と思います。浜口庫之助さんにも似た手法で大成功した歌がたくさんあります。
小生1946年生まれです。同時代に聴いた覚えのある流行歌の中では異色の名曲と思います。
投稿: 待宵 | 2020年4月19日 (日) 09時12分
中華民國の ctlai 様の「ああ上野駅」へのご投稿、集団就職のお話に心を打たれました。この歌も皆様が既にお書きのように、集団就職で田舎を出た人が、見送ってくれた人たちを思い出している歌だと思えます。(ただ、Wikipedia が異なることを言っていることを下に述べます。)見送ってくれた姿が焼き付いて、その人たちが今もずっとその時のままの姿で立っているような二番が心にしみます。心にかかっていたおさげ髪の娘さんが、遠慮がちに人々の後ろに立っていたのか、何も言えずしかし手を振ろうと背伸びした姿が三番で思い出されているようです。しみじみと心にしみます。ですが Wikipedia には「貧しい家の娘が遊廓に売られていく歌である」とあります。歌を作った人または三橋美智也さんがそういうつもりだったという証拠があれば別ですが、三橋美智也さんの「リンゴ村から」などの当時の歌を合わせ考えても、皆様がお書きになった解釈の方が自然だと思います。
投稿: kazu | 2020年12月25日 (金) 08時43分
当サイトを愛読しています。さてこの「おさげと花と地蔵さんと」は私の大好きな歌ですがwikiには「少女が遊郭に売られてゆく歌」と記されています。相当無理がある解釈だと思います。売防法ぎりぎりの時期の歌ですが、多くの人が書いているように「集団就職の悲哀を歌った」と読んだほうが順当だと思います。音楽史や風俗史に詳しい二木先生のご意見を伺いたく存じます。
投稿: カルビの伊太郎 | 2022年12月27日 (火) 18時50分
就職(たぶん)で故郷を離れ、大都会で暮らしている少年が、出発を見送ってくれたおさげの女の子をはじめ、その時の光景を懐かしんでいる――以外の解釈は無理筋でしょう。
投稿: 管理人 | 2022年12月27日 (火) 19時12分
髪を背に垂らした髪型を「おさげ」といい、ツインテールも、それを三つ編みにした型も元を一つに束ねて垂らしたもの、それを三つ編みにしたものも含めるというのは、言葉の元の意味からはよくわかります。
それでも、私は髪を二つに分けて三つ編みにしたものだけが「お下げ髪」と思っています。この歌の「おさげ」も「白い花の咲くころ」の「お下げ髪」も、一部の女子校の校則が指定していた「お下げ髪」もこの型ではないでしょうか。二木先生が、控えめで女っぽく見えた、と言われるお下げもこの型ではなかったでしょうか? 私が アンナ と内緒に呼んでいた子も、そんなお下げ髪のきれいな子でした。
アンナ は『緑のハインリッヒ』の初恋の美しく上品な少女。アンナのイメージはその子にぴったりでした。もっとも内緒の名で呼んでいたくらいですから、話しかけることもできませんでした。
投稿: Kirigirisu | 2022年12月30日 (金) 19時01分
『緑のハインリッヒ』懐かしいですね。11月に170冊の本をデジタル化(pdf化)したんですが、その中にこの本がありました。作業するのを忘れて、思わず読み始めてしまいました。
うちの長女の名前は、ケラーの別の作品から採ったものです。悲劇なのでどうかと思いましたが、音がきれいなのとそれにうまく当てはまる漢字を思いついたので決めました。大して悲劇的な目にも遭わずに、順調におばさんになっています。
歌のテーマから離れてしまいましたが、大目に見てください。
投稿: futatsugi | 2022年12月31日 (土) 04時03分
この歌を「少女が遊郭に売られてゆく歌」とする wikipedia の解説についてのカルビの伊太郎様と二木先生の議論を見た私の友人が、wiki のそこのノートページを使って、解説のその部分を削除しようという提案をしました。この頃は youtube にあるこの歌のコメント欄にも、この wiki に影響されてか遊郭説が散見され、嫌な気持ちがします。
投稿: kazu | 2023年1月 8日 (日) 18時29分
ずっと気になっていたのでWIKIを確認してみました。1月にノート欄に三橋本人の言葉も加え「歌物語」も引用しながら立派な訂正反論が記載されていました。しかし本文は変わりません。二木先生は優しく「無理筋でしょう」といなされていますが、こんなことが広まるのは残念なことです。WIKIは全面的には信用してはいけないと言われていることを思い出します。この歌が昭和32年、その7年前昭和25年のラジオ歌謡の「白い花の咲く頃」にも「さよならといったら 黙ってうつむいてたおさげ髪」とあるではないですか。当時ののど自慢で定食だった歌、子供でしたが耳について離れません。このシーンは世の中に定着し、作詞家がそれを外すことは考えられません。
投稿: しょうちゃん | 2023年4月28日 (金) 11時44分
しょうちゃん様がお考えをお示しくださり、Wikipedia のそこのノートに書き込みをした私の友人もありがたく思っております。友人は、「一年ほど様子を見てから本文を改訂」と悠長なことを書いてしまったのは失敗だったかもしれないと言っていまして(こういうまずいものは早く改訂しないと悪い影響が出るかもしれません)「もっと早く改訂したい」とそこのノートに書き込みをするだろうと思います。それからしばらくして本文の改訂をすると思われますが、友人も私も 最善の改訂ができるかどうか自信がなく、 しょうちゃん様に、あるいはどなたかに、あるいは畏れ多いことですが、歌についての知識と見識をお持ちの二木先生に, 改訂の労をとっていただけますか、アドバイスを頂けましたらありがたいです。友人が改訂する場合「故郷の村を出て大都会に住む人が、見送ってくれた村人のこと、特におさげ髪の少女のことを、思い出している歌である」と改訂する心算です。また、「かつてこの項に遊郭説が書かれていたが根拠がない」という注を入れるかもしれません。その場合には二木先生のこのブログでの「 ...... 無理筋でしょう」というお言葉を引用するかもしれませんがそれをお許しいただけますかどうか案じております。
投稿: kazu | 2023年4月29日 (土) 03時04分
しょうちゃん様・kazu様
この歌のWiki直しておきました。
投稿: 二木紘三 | 2023年4月29日 (土) 21時30分
二木先生のコメントを見てからこの歌のwikipediaを見たら
遊郭に売られてゆく女の子の歌などとは、まったく書いてありませんでした。良かった。wikipediaって誰でも訂正してよいのですか?先生は何でも知ってますね。
投稿: 吟二 | 2023年4月29日 (土) 22時06分
二木先生 大変ありがとうございます。Wiki の項に正確な情報をお書きくださり、歌の背景をご説明くださり、歌の内容を詩情豊かにご解説くださいました。心より感謝申し上げます。
投稿: kazu | 2023年4月29日 (土) 23時44分