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2007年8月26日 (日)

神田川

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:喜多条忠、作曲:南こうせつ、唄:南こうせつとかぐや姫

1 あなたはもう 忘れたかしら
  赤い手拭い マフラーにして
  二人で行った 横丁の風呂屋
  一緒に出ようねって 言ったのに
  いつも私が 待たされた
  洗い髪が 芯まで冷えて
  小さな石鹸 カタカタ鳴った
  あなたは 私の体を抱いて
  冷たいねって 言ったのよ
  若かったあの頃 何も恐くなかった
  ただあなたのやさしさが 恐かった

2 あなたはもう 捨てたのかしら
  二十四色の クレパス買って
  あなたが描いた 私の似顔絵
  うまく描いてねって 言ったのに
  いつもちっとも 似てないの
  窓の下には 神田川
  三畳一間の 小さな下宿
  あなたは私の 指先見つめ
  悲しいかいって 訊いたのよ
  若かったあの頃 何も恐くなかった
  ただあなたのやさしさが 恐かった

《蛇足》 昭和40年代後半の同棲ブームに火をつけたのは、昭和47(1972)年11月から『漫画アクション』(双葉社)で連載が始まった上村一夫の劇画『同棲時代』でした。
 この人気に目をつけた松竹が、由美かおる・仲雅美主演で映画化し、由美かおるの絶品ヌードで評判になりました。

 『神田川』も、この劇画に刺激を受けて作られたようです。

 南こうせつ、伊勢正三、山田パンダの3人組が歌った『神田川』は、昭和48年の大ヒットとなり、それにより東宝で映画化されました。主演は関根恵子(現在高橋恵子)と草刈正雄。

 神田川は、井の頭池を水源とし、早稲田大学の北側・飯田橋・お茶の水を通って、やがて隅田川に注ぎます。その中流域には、学生相手の下宿が多く、昭和40年代以前には、この歌のように、狭い下宿で同棲していたカップルもかなりいたようです。
 50年代に入ると、高度成長とともに、学生の住宅事情もよくなってきたようですが。

 しかし、この歌で、「女より長風呂の男」というのはどうしょうか。「長風呂の男」からは、やさしいけれども優柔不断な男、というイメージしか浮かんでこないんですが……。

 この歌の制作過程をご存じらしい方から、次のようなメールをいただきました。
「作詞の喜多条忠さんは“烏の行水”といわれるほど早湯の方でしたが、湯から上がったあと、男湯の庭にある池で金魚を眺めているうち、時間を忘れてしまい、それで女性を外で待たせることになったそうです」

(二木紘三)

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コメント

金魚では、なくて鯉だと聞いたことがあります。

投稿: 松倉 千里 | 2007年8月26日 (日) 19時45分

若さ故の貧しさ・・・

遠く過ぎ去った青春への思い・・・

60代半ばを過ぎた小生は、この曲の一節一節を
涙をこらえて聴いています・・・

投稿: エスペロ | 2008年5月31日 (土) 20時13分

昭和48年2月、今の妻と結婚しました。
当時、新婚で入居した借家(戸建でした)は風呂がなく
二人で近所の風呂屋に毎晩通うのが日課でした。
「小さな石鹸カタカタ鳴った・・・」この歌の歌詞を聴く度に当時が思い出されます。
オイルショックのこの年は、長男が誕生し、新居に入居
、人生の三大事業を成し遂げた記念すべき年でした。

投稿: アキヒロ | 2010年5月22日 (土) 22時03分

子供のときに、歩いてすぐそばに神田川が流れていました。七夕の笹を流したりしました。この川を辺りでは子淀(小さな淀川の意味)と呼んでいました。今は地名も変わりましたが、私の生まれたその町は子淀町といいました。大きな橋は淀橋といいました。ちょっと北側に行くと川沿町という町でした。林扶美子の放浪記を読むと世に出て、落合に住むまでは川沿町に住んでいたようで、芙美子が疲れた足で私の実家の前の道を歩いていたと思うと感激します。今年還暦になる私は、二月に上行結腸と胆嚢をとり、その後の経過が悪く、20日で退院の予定が一月半の入院でした。2ヶ月の休職のあと復職を希望したら、退職させられました。まだまだ働かなければならないので、厳しい景気の中を職探しを始めました。林芙美子の放浪に共感します。再三の病気のとき、失職のとき、前にいただいた二木先生の励まし「歌でも歌って・・・」を思い出しています。

投稿: こうぞう | 2010年6月 1日 (火) 16時03分

この歌を聞くたびにいつも、寒空で風呂上がりの彼女を待たせるのはおかしいなあと思っていましたが、二木氏の解説でやっと理解できました。私はこの歌の素晴らしいところは、「若かったあの頃何も恐くなかった。ただあなたのやさしさが恐かった」のフレーズだと思います。実に含蓄のあるフレーズだと思います。

投稿: SK2 | 2011年6月29日 (水) 22時59分

この曲が流行した当時私は大学受験の浪人でした。その頃の神田川は悪臭を放つ汚泥の川でしたので、こんな川の淵に建つ下宿屋はさぞ安いだろうと想像しました。最近は大分きれいになり、魚も住むようになったようです。新宿区内の神田川が流れる場所にはかつて平川という大河が流れていて、下落合や目白台の急斜面はかつての平川が浸食した河岸と考えられます。この平川は幕府が置かれる前の江戸を分けていた豊嶋郡と荏原郡の境界となっていたとされています。豊嶋は豊島区という名に、荏原は品川区内の町名にその名を留めています。現在も新宿区西北部は神田川や妙正寺川をはさんで、北側が豊島台、南側が淀橋台と呼ばれる台地に分けられますが、こうぞうさんのお話では淀橋という橋があったのですね。淀橋の地名は淀橋市場など、新宿区内に多く残されています。現在の神田川の流れは浅いですが、大雨の際は氾濫の危険のある川で、高田馬場あたりは河川敷であったことが実感されます。

投稿: Yoshi | 2011年6月30日 (木) 09時22分

この歌がヒットしたのは高校3年生の時でした。
翌年東京の予備校に通うため住んだのは、高田馬場(当時は戸塚町)の三畳一間の木造の下宿。裏には神田川が流れていました。
まさに歌そのものの世界でしたが、彼女がいないところだけが違っていました。(笑)
大学への通学の関係上、1年でその下宿は出ましたが、初めての東京一人暮らし支えてくれた諸先輩の思い出が詰まった素晴らしい場所でした。
二十数年後、記憶を蘇らせながら妻とやっとのことで辿り着いたその下宿は立派なアパートに変わっていましたが、懐かしい大家さんの名前はそのままでした。
懐かしさでインターホンを押そうかと迷った挙句、結局は黙ってその場所を去りましたが、『青春』を確認できた満足感が残りました。

投稿: 流星 | 2011年12月21日 (水) 15時58分

yoshi様
流星様
まさに私と同世代ですね。この曲が流行った当時、私も高校三年生、受験勉強の真っ只中でした。
勉強に明け暮れる暗い日々の中、更に暗いこの曲をテープレコーダー(カセットではありませんでした)で何度も何度も聞いてたあの頃のことが懐かしく思い出されます。青春の1ページです。
「若かったあの頃何も恐くなかった ただあなたの優しさが恐かった」、心の琴線に触れる、本当にいい詩ですね。私もあと少しで還暦。若さを懐かしむ年代になった今、神田川を初めて聞いた若かりしあの頃とはまた別の感慨を覚えます。

投稿: 塞翁が馬 | 2012年6月 3日 (日) 11時23分

二宮清純さんと来多条忠さんの対談から
この詩の主人公は、女性なのか、男性なのかとよく聞かれるという。
喜多条氏によると、主人公は、女性も男性も一緒になっていて、書いた本人も「よくわからない」のだそうです。
『二宮:  この歌の主人公は女性と考えていいんでしょうか?
喜多条:いや、女性も男性も一緒になっていますね。よく、どっちの歌かと聴かれるんですけど、書いた本人もよくわかりません(笑)。』さらに衝撃的な発言がコレ ↓『僕が待たされたこともよくあるんですよ。彼女が髪を洗っていて時間がかかったときとか。“洗い髪が芯まで冷えて”という部分も女性のようですが、当時の僕は長髪だったので実体験でもあるわけです。』(喜多条氏)
えー!!横丁の風呂屋の外で、石鹸カタカタ鳴らして、洗い髪が芯まで冷えてたのは、男のほうだったのかーー!!

投稿: 海道 | 2012年6月30日 (土) 12時26分

この歌が流行っていたことは知りませんでした。当時は仕事一筋でした、「同棲時代」という映画のタイトルには反発していました。学生時代、社会人を通じて一人の恋人もいず、一度のデートもしていない私には大学生になった早々彼女と暮らし銭湯に仲良く通い、抱き合うなど別世界の話で、やっかみもあり、そんな自分への卑下もあったと思います。

それから数十年、この曲が好きになりました。物悲しさと、昔日の日々への郷愁が感じられ、心の琴線に触れるものがあります。

当時私は丸ノ内線の東高円寺に住んでいました。木造二階建てモルタル造りのアパートです。小さな道に面して奥行きが深く、通路を挟んで両側に6畳程度の部屋が並んでいました。通路の中ほどに裸電球が一つ灯っており、そこに共同のトイレがありました。昼なお暗い陰気なアパートでした。私の部屋は道に面しており家賃月9千円、4畳半の部屋でした。日割りにしますと日300円です。手が洗える程度の水回りがありました。道の向こうには小さな公園がありました。日差しの良い冬の日、葉の落ちた公園の木立を透かして、新宿の高層ビルを望むことができました。

アパートから少し歩くと地元の商店街がありました。小さな通りには飾り付けもしてあり、通りの中ほどに銭湯がありました。行きつけの料理屋ではお母さんと中学生の娘さんが働いていました。客やおかみさん、娘さん達の会話をそれとなく聞いているのも楽しみでした。下町の夕暮れの匂いを感じました。

ある日、アパートの入口にいた時、私のそばをサッと一迅の風のように駆け抜けた女性がいました。セーラー服姿の少女でした。中学生だったのでしょうか?高校生だったのでしょうか?わかりません。薄汚いアパートから出て行った、そのセーラー服があまりにもまばゆくて、「こんなところに・・・」と思って少女の後ろ姿を目で追っていましたら、その私の気持ちを見透かしたのか、「お婆さんと一緒に住んでいるんだよ・・・」と背後から男の人の声が聞こえました。そのアパートには半年間住みましたが、彼女を見かけたのはその一度だけでした。

それから40年近く過ぎ、今ではそのアパートもなく、銭湯もなく、商店街だった通りももう商店街としての趣はありません。唯一昔の記憶を確かめることのできる小さな公園に佇みますと、この曲のメロディと、その歌詞にある「横丁の風呂屋」、「三畳一間の 小さな下宿」が私の当時の日々と重なります。

投稿: yoko | 2014年9月28日 (日) 22時33分

昭和48年この歌が、毎日カーステレオから流れていた時、私は道ならぬ恋にどっぷりと、つかり悩みと苦しみと少しの快楽を得ていました。

41年経ちました。彼は昭和22年3月生まれです。多分、建築関係の仕事をしていると思います。神田川を聞く度にせつなくなります。T.O さん

これをみたら、二木紘三さんのブログに投稿してください。

まっています。K.Wより

投稿: Kです。 | 2014年12月 5日 (金) 00時39分

私の兄と義姉の青春はこの歌に似ていました。銭湯で風呂からあがる時兄が口笛を吹いて、女風呂の義姉に知らせていました。この歌の二人もそうしたらよかったです。この歌の続編と思われる「赤ちょうちん」の歌を聴くと、歌の二人に悲しい別れが待っていたのではと思われます。歌の女性は、二人の生活がこんなに美しい歌に描かれたことを知り、心を慰められたでしょうか。私は神田川のそばに住んでいた人を恋し、ふられました。彼女は愛し合っていた彼と「赤ちょうちん」の歌のような悲しい別れをし、田舎に帰ってしまいました。それから40年たっても神田川に来ると、20歳の彼女がことこと炊事をして彼を思っているように感じられます。

投稿: 加藤 | 2016年7月18日 (月) 00時54分

私は、昭和44年生まれなので、オンタイムで聴いていたわけではありませんが(この「神田川」やその他のフォークソングも同様です)、小学校の先生の影響と両親の聴いていた歌(NHKの歌謡曲番組を毎週見ていました)のおかげでいろんなフォークソングを小学校高学年から中学時代にかけてたくさん聴いていました。

そして、現在主に50代~60代の方たちと一緒にギターサークルでフォークソングを弾き語りしています。

ぼくはまだまだ下手くそなのですが、このような丁寧な音源がアップされていると、参考になりますしとても助かります。活用させていただきます。ありがとうございます!

投稿: | 2017年4月20日 (木) 13時56分

私は今76歳になりました。まさに作詞者の喜多条さんが早稲田大学に通っていた頃、私は早稲田大学の近くで都電と神田川に挟まれていた場所に住んでいました。神田川という楽曲の背景を知って驚きました。自宅のすぐ近くの神田川沿いにはいくつもの下宿やが建っていました。そして甘泉園が目の前です。
極めつけは歌に出てくる銭湯です。私はたびたび安部衛湯に
通っていました。とても懐かしいです。小学校も戸塚第一小学校を卒業しました。この界隈は私たち家族の遊び場でした。

投稿: 松本靖治 | 2018年9月26日 (水) 12時51分

この曲は、一つの時代の転換点を象徴するものだと思う。だいぶ大風呂敷を広げるようだが、“70年安保”という変革の闘争が敗北・挫折し、世の中はイデオロギーや理想などとは無縁の時代に入った。そこにこの曲が現われ小市民的、プチブル的な生活を送る若者たちの心情にフィットしたのだと思う。
日本社会はこの頃から政治より経済が重視され、若者たちは小さな幸せ、現実的な生きがいを求めるようになる。以後、今日に至るまで“管理社会化”がますます進み、その傾向は変わっていない。
同棲時代にマッチしたかどうか知らないが、「三畳一間の 小さな下宿 あなたは私の 指先見つめ 悲しいかいって 訊いたのよ・・・」という歌詞に、若者たちの諦めと慰めを感じる。
ずいぶん我田引水的な言い方だったと思う。息子の嫁さんにそう話したが、相手はどう理解しただろうか? この爺さん、何を言おうとしているの・・・と思っただろうか(笑)

投稿: 矢嶋武弘 | 2019年9月28日 (土) 09時50分

 みんな東京の暮らしをされたんですね。私は残念ながら田舎で過ごしました。恋も文通でした。このブログを読みながらいろいろな事を考えました。

投稿: 今でも青春 | 2019年9月28日 (土) 21時33分

今でも青春様 たまたまこの歌が東京が舞台になっているだけで、私は地方に住んでいても、東京に住んでいても、人間はあまり違いが無いと思います。その場所で社会を見、人間を知り、考えることが一番大切な事だと思います。地方に居ても美人はいますし、頭が良い人もいます。知識は本で得られます。青春時代に出会った人たちが優れていれば、ものを考える時に参考になりますね。年をとっても素晴らしい人に出会えます。今でも青春だと思っています。楽しい友人を沢山作って楽しみましょう。誰と出会えるか明日が楽しみです。

投稿: ハコベの花 | 2019年9月29日 (日) 00時08分

鶴巻町から、都電荒川線沿いに馬場近くまで二階建ての下宿屋が数多くあった。3疊一間というが廊下側には小さな三和土があり、隣の壁下は細長い板敷でもう少し広かったように思う。大半は学生だろうが僕の友人も含めて多様な人達が住んでいた。
下宿仲間との頻繁な行き来。「孤独ではいられん」が口癖だった。当時僕は目蒲線沿線に住んでいて、帰りがめんどうになるとよく部屋の隅のごろ寝で夜を明かしたものだ。
昼頃起きて大学で時間を潰し、クラスメートとダベる。
下宿に戻れば誰かが持ち込んだ匂いのキツイ「さつま白波」か「神鷹」の二級酒。もう御の字の酒盛りだ。簡単に連泊になる。
 ある日長い休み明けに下宿屋を尋ねると、部屋の引き戸は閉まっていて中も静かだった。
ふとためらって声をかけると、戸が開き前に立った友人の後ろに見覚えのある女性が座っていた。
「あまり時間がないから・・・」
いつの間にか僕たちは4年生の秋を迎えていた。彼女は北陸で教師になるはずだ。友人は和歌山に帰る。
そういうことか・・・直ノーサイドだ。
短い言葉を交わして僕は下宿屋を出た。神田川はいつものままで、空は青く日差しも未だ眩しいまでに厳しかったな。

投稿: 日月 明 | 2019年10月 1日 (火) 11時48分

鶴巻町という名前に久しぶりに出会いました。鶴巻湯という銭湯に通った思い出もよみがえります。印刷屋が多く、3年になって移った3畳ならぬ6畳はそうした倉庫の2階でした。ある日、築地でアルバイトをしていた先輩が、さくのマグロを持ってきて刺身にしてくれたことがありました。共同炊事場の後片付けが悪いと、同じ階に住む管理人のおばあちゃんにこっぴどく絞られたのも懐かしい思い出です。

投稿: omuraisu | 2019年10月 2日 (水) 14時15分

兄と義姉の青春がこの歌のようだったと以前の投稿に書きましたが、補足を述べたくなりました。銭湯に行く道で、義姉が牛乳を飲むと兄が「飲むのを見ていたい」と見つめるので義姉が照れたり、目も当てられないアツアツぶりでした。義姉がグラタンを作ってくれました。それはひどくまずかったです。近年義姉と奈良を見物して歩いた時、義姉が「自分は、料理をするのは女だという考え方に反発して、十代の間は絶対料理を覚えないと決めていた」と話したので、40年以上経って味のまずさの理由を知りました。

投稿: kazu | 2020年12月28日 (月) 23時00分

「神田川」かぐや姫のこの曲が流行っていたころは私が最もフォークギターに夢中になっていたころでした!

あれから長年が経ちましたが、私は当時からこの曲のイントロメロディの部分が堪らなく好きでした。今でも時々クラッシックギターに変えてこの曲の弾き語りをしているほどです。

もうかれこれ25年ほど前になりますが、80代の女将さんがおひとりで切り盛りされておられた、当時私の行きつけの小料理屋さんで、この唄の作者である作詞家の喜多条忠氏を、私は女将さんに紹介していただいたことがあります。何でも蒲郡競艇のゲストの仕事を終えた帰りにはよくお忍びでお付きの方とご一緒にこの店に立ち寄られるとのことでした。
女将さんはこの方は「神田川」の大ファンの方ですよ!と私のことを喜多条先生に紹介してくださいました。すると先生はありがとうございます!と私に一礼してくださいました。
私が今も想い出すのは、ほろ酔い気分の私があつかましくも喜多条先生に話しかけた時のことです。
私は先生の作品の「メランコリー」について・・・
私は前から知りたかったことなのですが、『・・緑のインクで手紙を書けば、それはさよならの合図になると、誰かが言ってた・・』と先生は書かれていますが、それは本当のことなのでしょうか?と、私が喜多条先生にお尋ねした時、それはどうなんでしょうね!と朗らかに笑っておられました。私にとっては忘れられない本当に楽しかった小料理屋さんでのひと時でした。

「神田川」喜多条忠氏が電話口で南こうせつ氏に語りかけたという、この詩を聴きながら、この哀切漂う秀逸のメロディが即座に浮かんだという南こうせつ氏のその才能は今さら語るまでもありませんが、最近私はこの曲を聴く時、25年前の夜私に忘れられない想い出をくださった喜多条忠氏のこと、そしてお元気だったころの小料理屋の女将さんのことを必ず想い出します。
残念ながら喜多条先生は昨年11月22日にお亡くなりになられました。謹んで先生のご冥福を心よりお祈り申しあげます。


投稿: 芳勝 | 2022年7月16日 (土) 15時34分

神田川は何の風情もない都市河川に見えますが、この歌のおかげで、こころに染み込むような川となりました。ブログのハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。ありがとうございました。

投稿: ゆるりと | 2023年12月14日 (木) 05時55分

神田川という川について、ゆるりと様の「神田川は何の風情もない都市河川に見えますが、この歌のおかげで、こころに染み込むような川となりました。」と同じ気持ちです。ただ、私は神田川のことを色々調べたので、それを書きます。神田川は井の頭公園の池という小さな池を水源とする頼りなげな川に見えますが、3万年も前から神田川に沿って人々が暮らし(3万年というのは日本における人間の痕跡の残る最も古い時代だと思います)、富士山の標高も変化する天変地異の起きたこの3万年の間、神田川は健在で人々の暮らしを支えてきました。杉並区の神田川畔の塚山遺跡には慎ましく暮らした縄文時代の家と家族の姿が再現されていて、彼らも眺めたであろう紅葉が今頃その丘を染めているだろうと思います。大昔からの人々の思いのこもった川であるゆえに、この歌の作者の心も打つことができたのだと思います。中野区の神田川のそばの「神田川」の歌碑を見ました。心打つ歌碑でしたが、予算の関係か、私にとって一番切なさが高まる箇所「窓の下には神田川」のあたりは残念ながら刻まれていませんでした。

投稿: kazu | 2023年12月14日 (木) 11時49分

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