ああ上野駅
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 どこかに故郷の香りをのせて (セリフ) 2 就職列車にゆられて着いた 3 ホームの時計を見つめていたら |
《蛇足》 昭和39年(1964)リリース。
集団就職で上野駅に降り立ち、東京で職業生活を始めた若者の心情を歌った歌です。
集団就職とは、地方の中卒者が東京など大都市の工場や商店に集団で就職したことを指します。
その始まりは、昭和29年(1954)に東京・世田谷区の桜新町商店会が合同で求人を行い、東京都などの斡旋により、地方の中卒者を採用したことに始まるとされています。
以後、労働省(当時)や都道府県、公共職業安定所が日本交通公社とタイアップして集団就職が本格的に行われるようになり、昭和52年(1977)に労働省が廃止を決めるまで続きました。
集団就職が行われた時期は、高度経済成長期と重なり、中卒者は「金の卵」ともてはやされました。
しかし、それは採用側からの表現にすぎず、ブルーカラーとしての労働は厳しいうえに低賃金で、中途離職者も少なくありませんでした。
北海道・東北からの集団就職者は、そのほとんどが上野駅で降り、雇い主に引き渡されました。家族との別離、新しい生活への期待と不安、東京の文物への驚きなどは、すべて上野駅のイメージと結びついていました。
もっともそれは、集団就職者にかぎったことではありません。ふるさとのなまりを聞きに来た啄木の昔から、北海道・東北出身者が東京で経験する成功も挫折も、すべて上野駅から始まったのです。
それはいくつもの小説や詩・短歌などに表現されています。その意味で上野駅は、東京のターミナル駅のなかでも最も多くの人びとの哀歓が染み込んだ駅だといえそうです。
(写真は昭和35年〈1960〉ごろの上野駅)。
(二木紘三)
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コメント
この曲を聴くたびに、若いときのことが思い出され、思わず涙ぐんでしまいます。
戦後日本を代表する名曲だと思います・・・
投稿: エスペロ | 2007年8月23日 (木) 21時13分
サラリーマン時代、同僚とカラオケでこの歌を歌うたびに、何か熱いものがこみ上げてきたのを思い出します。
私は東北出身ではありませんし、集団就職でもありませんが、私が大学に入学した当時(昭和38年)、田舎から都会に出てくる若者は、多かれ少なかれ、この歌のような心境だったのではないでしょうか。
投稿: 越山 洋平 | 2007年8月31日 (金) 09時19分
文字通り心の故郷ですね。
投稿: 山本 潔 | 2008年2月27日 (水) 19時19分
大学生の時に失恋し、新宿御苑で寝転んで読んだ寺山修司編「男の詩集」の最初にこの歌詞が掲載されていました。アルバイト先の会社の社長のお嬢さんだったけど、一度だけ深大寺でデートをしたのが思い出です。この歌を聞くとそのことが思い出されます。彼女ももうおばあちゃんになっていることでしょう。元気でいてくれたらと思います。
投稿: 陽ちゃん | 2008年3月 4日 (火) 23時12分
この歌が大好きです。でも、一番悲しくなる曲です。昭和37年、中学2年生の春に病に倒れた私はその後、2年間床に伏していました。当時、雑誌などのエッセイ掲載で得た賞金で購入したトランジスタラジオからこの歌や、高校3年生などが流れ、いつかは僕も病から開放され都会に出たいとほとんど絶望的な夢を見ていました。39年4月、治癒したわけでもないのに、やみくもにわがままを通し、熊本から夜行列車で父の付き添いで京都に就職しました。あれから約45年。今でもこの歌を口ずさむと、当時お情けでいただいた中学卒業証書のことと、支えてくれた父母、給食のパンを持って帰ってくれた幼い弟たちのことがっきりと思い出されます。
投稿: 松尾欣也 | 2008年3月 4日 (火) 23時59分
二木さまの歌声喫茶には、何時も心和ませるメロディーに癒されております、詩を大切に顧みる懐かしさに何時も感謝の気持ちで聞かせて頂いております、一日も長く続けて頂きたいと願います。
投稿: 近藤 博 | 2008年3月17日 (月) 19時35分
僕は昭和50年生まれですが、昭和19年生まれの両親の薫陶のおかげでこの唄が大好きです。何度聞いても涙ぐんでしまいます。人生の悲哀、希望と挫折と再起、懐かしいけれどまだ帰れない故郷…人の「情緒」がいっぱい詰まったこの唄が僕の十八番です。
この唄を好んで唄う僕は、同世代には奇人と思われますが(苦笑)、笑わば笑え、この唄が好きな僕は自分のことをまっとうだと信じられるから…。
二木先生、素晴らしい出来のデータのアップをありがとうございます!励みになりました!
投稿: にゃんこ | 2008年5月 1日 (木) 00時19分
昭和50年生まれの方がこの歌を好きだと聞いてうれしくなりました。ちなみに私は昭和20年の生まれです。
この歌を聞くたびに思い出すのは、確か昭和32,3年ころだったと記憶していますが、「一粒の麦」と言う映画がありました。集団就職を扱った映画で、菅原謙次さんと若尾あや子さんが付き添いの先生役でした。おそらく東北方面からの集団就職列車でしょう、上野駅で降りて青空の下、一人ひとりが雇い先に連れて行かれる場面が印象に残っています。たしか、ある少年の雇われ先のオヤジ(社長)を殿山泰司さんが演じていました。この偏屈オヤジの元で苦労する少年を思い出しまた。
投稿: 佐野 | 2008年5月 2日 (金) 19時05分
昭和39年3月地元の高校を卒業して 大阪の会社に就職しました。
子供の時からどもりがひどく それを子供心に隠しての背水の陣の就職でした。それが44年営業一筋で生きてきました。子供2人も私学の大学にも出すことが出来 今なお 請われて仕事しています。無論どもりながら・・です。言語障害でありながら 喋りでの世界で生きてきた この世の不思議さに驚いています。
家内は言います・・人の目から見ると どもりもはげも同じ程度の
恥ずかしさ・・だと それを聞いて 開き直りました。
投稿: あつちゃん | 2008年5月 3日 (土) 21時01分
あっちゃんさん、実は私も吃音です。今は大分良くなって、どもらなくなりましたが、若いときは、難発性吃音で苦労しました。
ところで、「ああ上野駅」の歌碑が数年前に上野駅前に建立されました。この時、私は友人と二人で除幕式に行きました。井沢八郎の歌声を上野駅前で聞きました!
・・・集団就職・・・この言葉も死語になりました。
でも、この歌は、いつまでも心に残る名曲です。井沢八郎が亡くなった今も、歌い続けていかなければいけないでしょう・・
投稿: エスペロ | 2008年5月 4日 (日) 22時17分
昭和27年4月、中卒で集団就職ではなかったけれど、信州から上京、墨田区のワイシャツ工場に住み込みに入った。学校に行きたかったけれど叶わず、仕事帰りに「ああ!上野駅」を聞きながら、涙を抑えて自転車で走ったあの頃が、懐かしく想い出されます。もう今は72歳、孫8人に囲まれての気楽な隠居生活だが、「ああ上野駅」を聴くと、昨日のことの様にあの頃が思い出されます。ああ!青春!。
投稿: 牛山 長重 | 2008年5月13日 (火) 20時45分
昭和41年の3月に中学を卒業、集団就職の夜行列車で同級生の3人と共にに九州から上京しまた。夜行列車の窓をながめつつ、寂しさと不安を感じながら故郷をあとにし、翌日会社のある川崎の駅に到着しました。
電気関係の工場に勤めながら、川崎市溝口にある定時制高校に通い、その後大学の二部に通いました。「ああ上野駅」を聞くとその頃の苦しかったことなどが懐かしく思い出されます。
大学卒業後帰郷し小さな会社を経営しておりますが
昨年の3月に、娘の東京大学の卒業式に出席のため、妻とともに上京し上野駅にも行ってきました。
投稿: タナカ | 2008年6月28日 (土) 17時52分
タナカ 様
ぶしつけに書かせていただきます。
私は九州育ちで九州で職を得ましたが、娘が東京に就職し東京で結婚し川崎市高津区溝ノ口の下作延に新世帯を構え孫を出産しましたので、幾たびか訪れました。だから田園都市線の溝ノ口駅は懐かしいです。
娘は埼玉に転居しましたので、たまに上京する私にとって上野駅は乗り換え駅です。
同じ「駅」でもいろいろな思い出があるものだと感じましたので、つい筆を執ってしまいました。 周坊
投稿: 周坊 | 2008年6月28日 (土) 20時44分
流石に書き込みが多いですね 朝早く上野駅に着きました 万世橋の袂は 焼けた煉瓦が積み上げられていました 神田の羅紗屋さんに奉公です 毎日が楽しかった 毎年 東京とその近県に暮らす同級生の集まりで 校歌を歌い次はこの歌の出番です 何時も歌になりません 大泣きした後の 清々しい気分がいいのです あははは
投稿: 寅 君 | 2008年7月 9日 (水) 20時07分
自分は東京生まれですが、この歌を聞くと本当に切なさを感じてしまいます。転勤で東北を汽車で回っていました。
昭和42年の春の夜「鷹ノ巣駅」の上りホームに停車中の夜行列車、集団就職の若人と見送る大勢の人々。
発車の汽笛とともに混じりだす悲痛とも思えた、「元気でなー」あるいは人の名を叫ぶ大人の声、動き出した汽車をホームの端まで追いかけた女の子、みんな目に耳に焼きついてしまいました。
投稿: 山ちゃん | 2008年7月13日 (日) 22時19分
息子が持ってきてくれたDVD「映画・三丁目の夕日」を見ながら人情厚き昭和30年代は心から良かった時代と感じます。夢もあり挫折もあり、しかし何があってもそこには家族があったのです。「ああ上野駅」を「三丁目の夕日」の主題曲に推薦します。
投稿: S6年生まれ | 2008年8月17日 (日) 22時07分
昭和46年3月 五ツ違いの末弟は就職列車で大阪へ旅立ちました。
実家は駅まで遠かったのでホームで見送ったのは私ひとりでした。
まだ幼顔の詰襟学生服の弟は笑みと不安の混じった顔で旅立ちました。
その後資格を取り帰郷して会社勤めの後、電気工事店を営み繁盛しています。
5人兄弟の中で家族と親を気遣う心は一番でしょうか。
”ああ上野駅”を体現したような弟です。
投稿: 内倉 功 | 2008年9月12日 (金) 19時36分
中学校卒業式のとき、同級生Aが「俺は母ちゃんに楽させるため、東京に就職するんだ。見送りにきてくれよ。」と気丈夫に言っていた。見送りのため田舎町の軽便鉄道駅に行ったところ、母親と担任の先生がAを探していた。母親に「Aが居なくなったの、一緒に探して!」と言われ探したところ、Aは車庫の脇のドラム缶の影で蹲り泣いていた。Aの「母ちゃんと離れたくねえよ!行きたくねえよ!」と言った言葉が今でも思い出される。それ以来音信不通だが、あれから四十五年、Aはどうしているのだろうか。
投稿: 田舎者 | 2008年10月 8日 (水) 14時40分
田舎者さん、読んで涙が出ました。この歌にはドラマが満載ですよね。昔の男の子はシャイだけど男らしかったですね。
この歌をイメージして拙句を作ってみました。
泣きに来た上野で訛る鳩に遭う
二木先生、本当に高尚な事から下世話に通じた事まで、先生は色々な事をご存知だといつも感心しています。しかも、ご自身がすでにステイタスをお持ちなのに、なお、権威や偉そうにする人への反逆心にひそかに同感しています。
投稿: 吟二 | 2008年10月 8日 (水) 22時12分
S37年3月大学受験のために急行「能登」に乗って約10時間かけて上京しました。座席では寝れないので床に新聞紙を敷いて寝たのも今は遠い思い出です。初めて上野に着いたのですが新宿駅で迷子になりました。大学は不合格、浪人1年後に関西の大学に入りました。当時の上野駅は我々地方人にとって別の世界でした。今では東京駅ばかり利用していますが上野駅も変わりましたね。
投稿: 越野利栄 | 2008年11月28日 (金) 23時25分
中学生の頃だったと思いますが、和歌山県の片田舎で毎朝のようにラジオから流れてくるこの歌を聴きました。当時のことが思い出されて、懐かしいです。
ニュースなどで見る集団就職、私には別世界のことでしたが、悲しい世相は伝わってきました。
「ホームの時計を見つめていたら 母の笑顔になってきた」
三番の詩がいいですね。泣けてきます。
上京してから、上野駅に行く度にこの歌が浮かび、ジンときました。
投稿: 健児 | 2009年2月10日 (火) 01時52分
私パンプキンも、南九州の片田舎で育ち中学生時代はブラスバンド部に所属していました。
学校行事の一環として、都会へ旅立つ多くの先輩たちを駅のホームから校歌などを演奏して見送ってきました。
旅立つ人、見送る人その誰もが、なみだ涙のつらい別れのシーンでした。
まさしく山ちゃんサンのコメント(2008.7.13)そのままの情景が繰り広げられていましたね。
また、寅君サンの”校歌を歌い次はこの歌の出番です 何時も歌になりません
大泣きした後の 清々しい気分がいいのです あははは ”(2008.7.9)には、笑い泣きさせていただきました。
♪あぁ上野駅…をこよなく愛すお二人には、尊敬をこめて以後『兄貴』と呼ばさせていただきたく思います。
投稿: パンプキン | 2009年5月 9日 (土) 02時27分
昭和39年高校卒業し、北海道から東京に就職しました。
銀座に本社のある上場企業でした。支店勤務配属先は商品部、とはいっても商品をダンボールや木箱に詰め縄かけをして荷札をつけ発送する倉庫係りでした。石の上にも3年がんばれ、くじけそうになる自分を明治生まれの苦労して生きてきた祖母からのたどたどしい手紙を何度もよみかえし、もう少し頑張って見ようと思いました。定年まで勤めあげることができましたが、この曲を聴くと当時のこと思い出します。商品部にいた女で気の強いタイプの伝票作成の人と結婚しました。今鼾をかいて隣の部屋のソファで寝ています。
投稿: 浦野 | 2009年5月13日 (水) 20時19分
辛い時に 就職時のこの歌の心情を思い浮かべ定年までがんばることができました。当時は本当にこの歌のような情景でしたね。まさに応援歌でした。いまこのような歌はダサいと言われるでしょうけど日本人に忘れてほしくないですね。
投稿: alude2500 | 2009年9月29日 (火) 22時22分
昭和38年3月 就職列車で旅立つ朝に母は「見送りに行けんでごめん」・・・っと手をにぎり一言いって部屋の奥に姿を隠しました。
その3年前にも兄を就職列車で見送った母は その悲しさのあまり 前から「見送りにいけんからかんにんね」
といってましたので覚悟はしていました。
そんなことで私の見送りは父と姉がきてくれました。
この歌を聴くたびにあのころの情景が思い出され目頭が
熱くなります。
投稿: ゴン | 2009年10月14日 (水) 15時37分
心根のやさしいみなさんのコメントを読み
涙がとまりません・・
二木さまのおかげで心ひとつになれるのです。
ずっと続けてください。ありがとうございます。
昭和17年生まれ群馬の出身です・・
投稿: 春爺 | 2010年8月17日 (火) 16時52分
昭和16年生まれ。集団就職でも地方出身者でもありませんが、この歌を聞くと、何となく目頭が熱くなります。昭和30年代40年代に青春を過ごした人々の心にうったえる名曲だと思います。後世の人々に、こういう時代もあったのだと、いつまでも残しておきたい曲です・・・
投稿: エスペロ | 2010年9月21日 (火) 20時08分
私が20代のときに北上野のS運送と言う小さな会社に勤めておりました。昭和40年代当時同僚で一関出身者が居て、暮れには夜になると昭和通りの下谷の近くまで長距離バスが並び、故郷で正月を迎える帰省者でごった返しておりました、今でもはっきりと覚えております。
私は西の方で東京駅ですが“ああ上野駅”を聞くと我が身の事のように思い出されます。私も既に67歳の新年を迎えようとしております。
投稿: トクラテス | 2010年12月 3日 (金) 15時02分
昭和45年3月末に、集団就職ではありませんでしたが、九州小倉から東京駅、上野駅経由で茨城に就職、今は当地で定年農業をしています。夜行寝台で小倉の駅を出る時のことをよく覚えています。夕方、見送りに来てくれたのは、近所で親しくしていた親戚でもないおじさんとその姪っ子の女の子(幼稚園くらい)だけでした。その頃は母子家庭だったのですが、自分の価値観を押し付ける母に反発していた私は、見送りを断っていたのです。その母を昭和の最後の正月に、九州に残したまま亡くしました。
会社の出張の帰り、住んでいた茨城に上野駅から列車に乗る度に、故郷とは逆の方向なのに何か懐かしさを感じたものです。カラオケは得意ではありませんでしたが、現役の時、強く要請されると、たいていカラオケ歌詞本の最初に載っているこの歌を唄ったものです。今でも、この歌を聞くと、田舎を出て来た当時のことが、いろいろ思い出されて、目頭が熱くなります。
投稿: 竹永尚義 | 2011年7月 2日 (土) 18時13分
昭和39年九州の小さな町(瀬高)から就職の為、一人で上京しました。どうゆう訳か私は上野駅が大好きで休みの日には一人でよく行きました。当時の上野駅は暗くて汚くてトイレの臭いがしてましたが私は人々の雑踏の中で駅の中央にある丸い大きな時計を見るのがひとつの楽しみでした。井沢八郎の唄の歌詞と遠いふるさとの母の姿を重ねていたのでしょう。私が一番好きな歌はこの「ああ上野駅」で3番までそらんじています。67歳になった今でもハーモニカで吹くと皆さんに大変喜ばれます、上野駅は私の心のふるさとです。
投稿: 桜井武二 | 2011年9月29日 (木) 10時28分
いやぁ素晴らしいブログですね。 演奏のうまさはもちろんですが、なにより解説(蛇足なんてとんでもない)の素晴らしさ、そしてみなさんからの投稿に感動しております。私も団塊の世代ですから、身に覚えのあることがたくさんあります。余談ながら私もパソコンで音楽をつくるのを楽しんでおります。このブログの管理者さまのようにはいきませんが
YouTube に
自作の曲 http://www.youtube.com/watch?v=iXVpvsq1IEs
自作のカラオケ http://www.youtube.com/watch?v=t-8_JAwu_Fs
をのせておりますので、お暇なときにご覧いただければ幸いです。
投稿: aranx2009 | 2011年12月 8日 (木) 15時50分
「あゝ上野駅」は、農家の雑誌“家の光”が、
毎朝全国ネットで放送していたラジオの“田園ソング”です。
http://41-31.at.webry.info/200803/article_10.html
田園ソングの時は台詞はありませんでしたが、
台詞は井沢八郎さんが考えられた?と何処かで読みました。
「あゝ上野駅ありがとう」も出ていますね。
「半音下げないと唄えなくなったら歌手をやめる」
と、言われていた井沢八郎さん、
「日本レコード大賞特別功労賞」を受賞されていますが、
故人に送る賞なのは残念ですね。
田園ソングで、就職の歌は、
「いち抜けた」(山田太郎)
「バスがいっちまう」(美樹克彦)
が、あります。
投稿: なち | 2011年12月 8日 (木) 19時26分
この曲、、、というよりも、皆さんのコメントを読んで本当に感激です。72才の方が、参加されていて、嬉しく思いました。若い人や年配の人などが自由にお話をできる場がこういう形であるということ、インターネットの普及とは大きな意味があるようにおもいました。
三丁目の夕日、本当に感動しました。母が福島でしたからきっと上野は思いでの場所だと思います。今はもういないので聞くことができませんが。金沢文庫で海軍の仕事をしていたようです。海軍ではおいしい食べ物がいっぱい豊富だったとのこと。戦争中は楽しかった、と言って父を怒らせています。戦後になると食べ物がなくて、福島から餅をぺったんこにして背中にしょって浜町のおばのところにとどけ汽車の最後の駅までのると調べられてとられるので、途中で降りたと言う話など、、おもいだします。父は91才です。こんど上野駅の思い出をきいてみます。
投稿: お正月 | 2012年8月17日 (金) 02時33分
昭和19年生まれの群馬の山猿です。高校中退して17歳の時に、東京タワーが出来てまもなくの頃でした。三田のパン屋で住み込みで働いていました。田舎者の悲しさか?どうしても東京の水に馴染めず、都落ちしましたが、今は故郷の山に抱かれて幸せです。当時は寂しくなると上野駅の高崎線のホームで、今度こそ今度こそと、帰郷する事ばかり考えていました。この歌を聞くと当時の辛い事を想い出します。
投稿: 赤城山 | 2013年5月12日 (日) 15時55分
私は集団就職を見たことはありませんが、昭和40年代に良く山陰線の夜行列車を利用していました。3月の終わりになりますと、夕刻の5時あたりから日の暮れるまで、列車は小さな村々の各駅に止まり、中学を卒業したばかりの子供たちを拾って行きました。家族や村人たちの見送りを受けて・・・、お母さんやおばあさんらしき方が泣いておられる姿も良く見たものです。中には、まだ小学生ではないかと思われるような小さな子もいました。皆、詰襟の学生服姿でした。就職用の服をあつらえる時代ではなかったんですね。というか、新しい服があつらえることのできる家庭であれば、高校に進学できたのかもしれません。暖かい見送りを見て、家族っていいなぁ、故郷っていいなぁ、と思い、涙がこぼれたこともありました。
私の卒業した中学は5クラスの内1クラスが就職クラスでした。そのクラスの中に一人友人がいました。彼は先生が就職について全く相談に乗ってくれない、と不満を漏らしていました。私はその先生にそれとなく話に行きました。先生は、面倒くさそうに、「おまえ、相談に乗ってやれよ、俺できないよ」、と言いました。私は怒りに震えたものです。しかしその友人ともいまは音信不通です。私が悪いのです。もう私から会う勇気はありません。彼が中学を卒業し、大阪で就職し、職を失った時までは連絡し合っていました。それ以降は知りません。私自身も仕事に不安を抱えていました。私から連絡を断ちました。彼には是非生き抜いていて欲しいと思います。そして私なんかは踏みつけるほどの成功をおさめていてくれたら、と思います。
投稿: yoko | 2014年6月15日 (日) 14時49分
私の友人に宮城県の人がいます。
神戸育ちの私には、東北出身の友達は彼だけです。
東北の人は、地味だが粘り強い、こう言えばステレオタイプの表現ですが、実際、彼はそんな人です。
彼が神戸の大学に通っていた頃、妹が高校を卒業し、東京の会社に就職した。会社のパンフレットを見て、特にきれいな住み込み用の社員寮が気に入って決めたそうだ。田舎では、親族が集まり、派手な就職祝いの壮行会をしてくれた。
大学の夏休みに、彼は、帰省の途中、就職して4か月の妹の様子を見に、東京の職場に行ってみた。しかし、社員寮は、きたなくて、ぎゅうぎゅう詰めの状態で、妹もストレスがたまっていた。パンフレットは、全く別の写真を使っていた。
(ひどいこと、しゃがる)と怒った彼は「おい、すぐ田舎へ帰ろう」と言った。妹は「だって、みんなに盛大に送ってもらったもの・・すぐには帰れないよ」とつぶやく。
彼は、問答無用で、すぐに離職届けを出させて、妹を田舎へ連れて帰った。
妹は今でも「お兄ちゃん、あれでよかったわ、ありがとう」と言うそうだ。
本当の勇気とはこういうことをいうんだろうな、と深く感動しました。その彼は、今年68歳、元気です。
投稿: 浮舟 | 2014年6月15日 (日) 22時45分
昭和15年生まれの俺たちの約8割は、中学の卒業式の翌日には就職列車に乗って地方から都会へと旅立って行きました。この歌の背景を知悉している者には、井沢八郎の曲を聞く度に自然に涙が溢れてしまうのです。神田のガラス屋に就職した武ちゃんや横浜の材木屋に行った文ちゃんのことなど・・・・・。
まだ遊び盛りの15歳の少年が親元を離れ、都会の片隅で歯を食いしばって丁稚奉公みたいな仕事に邁進する姿は、凛々しくもあり且つ哀れを誘うものでした。しかし一部には挫折はあったものの、大抵は自分に与えられた環境に耐え抜き、精神的にも社会的にも成長してそれなりに結実させ、今日に至りました。
投稿: 廣介 | 2014年10月 4日 (土) 23時42分
廣介さんのコメントには心を動かされました。
昭和18年生まれの、私たちは去年古稀を迎えました。中学を終えたら約半数の仲間が集団就職をしました。国鉄の中心駅から東京大阪名古屋へと旅立ちました。一人の友人を見送ったとき、この線路は東京に続いているんだと実感しました。
同窓会ではかつての友人で元気な仲間が集まりましたが、早世した友もあり複雑な心境にもなりました。
小生は県内で定年になりましたが、遠くで頑張った彼・彼女たちももう年齢を重ねておられるんだと思っています。去年の幹事では一生懸命頑張りました。
投稿: 今でも青春 | 2014年10月 5日 (日) 11時02分
この歌が流行頃、東京都内に若い根っ子の会っていう団体があったけれど、いまはどうなっているのでしょうか。
投稿: ヤマちゃん | 2016年9月 8日 (木) 12時02分
ヤマちゃんさん
検索してみたらありましたがこの情報も2008年、もう古いでしょうか?、
ーーーーーーーーーーーーーー
2008/4/300:02:08
いや~懐かしい言葉だな~…と思って検索してみたら、まだあるようですな。
http://www.puni.net/~aniki/archive/nekko/nekko1.html
ーーーーーーーーー
中学1年生になってひと月かふた月経った頃でした。授業中に突然校内放送がありました。
三月に卒業して大阪に就職した女の子からの便りが全校生に告げられたのです。彼女からの、中学生活が本当に楽しかったこと、先生や友達への感謝の気持ちが伝えられました。そして封には中学校への感謝の気持ちとして500円札が入っていたそうでした。お金がたまったらまた送ります、とのメモとともに。数か月経って彼女から二度目の便りがありました。再び校内放送もされました。お金も同封されていたそうです。
私が入学した年に卒業されたのだから三歳年上で見たこともない知らない女性です。今日街を歩きながら思いました。初めての給料嬉しかっただろうなぁ、その当時だと月4、5千円くらいだろうか。学校だけでなく、きっと、ご両親や兄弟にも送ったのだろうなぁ・・ そんなことを考えていたら歩きながら泣けてきました。頑張れよ・・と励ましたいのですが、彼女ももう70才なんですね。
お金、自分のために使いなさい、と言いたい。
知らない方ですが懐かしい少女です。
投稿: yoko | 2016年9月 8日 (木) 22時34分
ふっと侘しくなったときこの歌を
二木先生の「ああ上野駅」の演奏を聴きたくなるのです。貧農の長男に生まれた現在76歳の兄がせめてもの就職列車に揺られて東京へ出ていたら。持ち前の、頭脳と清廉な人柄、骨身惜しまぬ働き者ゆえに、必ずや大きな転換が訪れ一角の人間になりえたはずと。先日亡くなられた三浦朱門さんも書いていました。「人間は何処に生まれるかによって大きく左右されると。アインシュタインも アフリカの奥地に生まれていたなら日々の食料を得ることに終始したであろうと。我が兄も、せめてもの東京へでていたら夜学の道も開けていたであろう。この歌を聴くたびに人の運命、宿命を思って涙が込み上げます。その兄も 施設のベッドに寝たきり。自分の立場を受けいれて恨み言を言わなかった兄だけに「神様はいるのか」とやりきれない思いに襲われます。
注~ 高校進学の叶わなかった兄なりに
これからは「米だけではだめだ」と養豚牧場の農家に15歳で住み込み奉公。
投稿: りんご | 2017年2月13日 (月) 20時02分
りんご 様
久し振りのコメント 懐かしく読ませていただきました。
りんご様のことだから、またどこかの喫茶店めぐりの旅にでも出かけておられるのかな~と、思っていました。
昭和40年の初め頃だと思いますが、どこからでも「ああ上野駅」が流れてきましたよね。
紅白歌合戦では、この歌と〈若い根っこの会〉それにバードウオッチングの会員が双眼鏡で客席の赤白の数を数えたり…我々の年代の者には、学歴職業地位に関係なく誰もが口ずさんだ(今でも何かの拍子に気がつけば口ずさんでいますが)心に響く懐かしい曲です。
私の知人で神戸のお金持ちさんの奥様が、あこがれちゃん、私ねこの間も台所で大根を切っていたら、いつの間にやら包丁でリズムをとりながら“どこかに故郷のかおりをの~せ~て~”なんて歌ってるのよね~。と、話をされたばかりです。
本当にこの歌は、ふるさとを懐かしく感じさせられる歌ですよね。
りんご様のお兄様もきっとこの歌がお好きだと思いますよ。
投稿: あこがれ | 2017年2月13日 (月) 23時09分
「泣きに来た上野で訛る鳩に遇う」 (吟二)
先日テレビで、集団就職というと、東北から上京して上野に着いた人たちというイメージが強いが、実際には九州・関西方面からやってきた人たちも多いのだと言っていました。ああ、なるほど、そうなんだと初めて知りました。
1963年頃、鹿児島県から集団就職した9,544人の中の1人に森内一寛、のちの森進一がいた。彼は、大阪市・十三駅前の寿司屋「一花」へ就職した。住み込み食事付きで給与は1万2000円。一人前の寿司職人になりたいと思っていたが、1カ月で店を去った。
鹿児島へ帰って、大衆食堂の皿洗い、キャバレーのバンドボーイなどをやってみるが、続かない。また大阪へ戻って、鉄工所、大衆食堂。次は東京へ出て、中華そば屋、和風食堂、塗装看板屋、お茶漬け屋。また、大阪へ戻ってフランス料理屋、運送屋、バー。再び東京へ出て、家具屋、外人バー、大衆食堂……。ここまでで転職は17回を数えていた。長くても3カ月、最短はたった1日。転がる石のように転々と職を変えた。
後年、彼はその頃の様子を次のように語った。「日曜日にね、集団就職の仲間に会うんです。励ましたり慰めたり?とんでもない、情報交換ですよ。“どうだ、給料はいいか?“ “仕事、きつくないか?“ で、よし、となったら、タクシーにフトンのっけて、サッとずらかって、ちがう店へいっちまうんです。みんな、そうなんですよ。(『女性自身』1968年6月17日)
彼の最後の転職先は、チャーリー石黒と東京パンチョスというバンドである。石黒は、フジテレビの「リズム歌合戦」で優勝した森内を、内弟子兼バンドボーイとして自宅のガレージに住まわせた。固定給なし、空腹に苛まれながら、歌を学び直した。
演歌で行くという石黒の強い主張に、所属先の渡辺プロも折れた。デビュー曲は、「女のためいき」(吉川静夫作詞、猪俣公章作曲)。1966年6月。森進一の誕生である。十三の寿司屋を辞めてから、3年が経っていた。(菊池史彦著「転がる卵のように~集団就職と戦後都市」より引用)
日本の高度成長期を支えた集団就職の人々の群像の中に、たくさんの悲喜こもごものストーリがあるのですね。
投稿: 吟二 | 2017年7月 3日 (月) 22時21分
久し振りに書きます。森進一は鹿児島から上京し、あらゆる職業を経験し、一躍スターになったと思っていました。たまたま今日カミさんと「港町ブルース」の歌詞のことを話していました。当時の芸能雑誌の募集に一般からの応募がありそれが「港町ブルース」になったと何かの本で知りました。
投稿: 今でも青春 | 2017年7月 4日 (火) 20時01分
ああ上野駅 2007年8月23日投稿文を初めとして
2017年7月13日の最後の投稿文まで夢中で読みましたが、どれも素晴らしい投稿文面で感激しました。
特に2008年7月13日の山ちゃん様の投稿文面
発車の汽笛とともに混じりだす悲痛とも思えた~ の部分は
私もその光景を思い出しながら何度も読み返しました。
そこに触れると胸がしめつけられ、目頭が熱くなります。
今は井沢八郎はいませんが、若手の森山愛子いたるまで
幾多の歌手の方が引き継いで歌っています。
ユーチュウブを通して毎日映像を見ながら聞いています。
投稿: 芳勝 | 2017年10月28日 (土) 00時28分
作詞家の関口義明さんには「ああ上野駅」の他にどんな詩があるのでしょうか、興味深いです。
と申しますには、自転車を止めて聞いてる国訛りの下り
の部分ですが全く同じ経験をしていた私が感じたのは、その時の心情・状況表現が経験者でなければ計り知れないものだと思うのですが、見事に表現されています。故郷に帰ろうにも帰れない、という郷愁の念に駆られた者であれば
その理解度は絶大です。
投稿: しげる | 2017年11月24日 (金) 14時37分
私が上に書いています。「あゝ上野駅ありがとう」唄 井沢八郎
同じ田園ソングの「落葉道」唄 丘野美子
JASRAC には、346曲登録してあります。
沢山あるので歌のサイトに「関口義明 曲名等を入れて調べてください。
http://www2.jasrac.or.jp/eJwid/
村田英雄 白根一男 三船和子 佐々木新一 鏡五郎
歌詞だけでしたら作詞者名で検索すると沢山ありますよ。
https://www.uta-net.com/
山川豊 金田たつえ 香田晋 氷川きよし ・・
投稿: なち | 2017年11月24日 (金) 15時43分
今日、車を運転中に流れた来たのが、この曲を春日八郎が歌っているものでした。久しぶりに聞いて「ああいい歌だな」とホロッと涙が出てきました。
わたしは1948(昭和23)年生まれですから、この曲がリリースされたときは東京で高校一年生でした。中学校は一クラス60人近くいて、就職組は5人もいなかったと思います。それから、定時制高校に進学するという選択をする人たちも何人かいました。
わたしの高校には定時制も併設されていて、クラブで遅くなると定時制の生徒たちと一緒になることがありました。その定時制の生徒のなかに中学校で同じクラブだった男がいて、ときどきですが顔を合わせました。そういうときって何となく気まずいのです。「こいつは昼間働いているのに、僕は一日勉強して、放課後はクラブ活動なんてやっている」というのが負い目に感じられたのをおぼえています。
またその男がものすごく真面目な奴で、中学校のときはクラブでキャプテンをやっていたのです。遊び半分でプレーしているとすごく怒ったりする奴だったこともあって、ますます敬遠したくなりました。だから、高校でもあまり交流がなかったのです。
ただ、今から思うと、もう少しいろいろな話をしておけばよかった。こっちも子どもだったから、自分で世界を狭くしていたように思います。でもその彼はとにかく真面目で、よく努力する男だったから、きっとその後も良い人生を送っているでしょう。
投稿: 舟人 | 2018年1月13日 (土) 18時44分
私が生まれ育った故郷は、佐賀県の唐津・杵島・相知・多久など、炭鉱のある町でした!
私は昭和36年に小学校へ入学しましたが、その頃には、一クラス50人の6組制で、中学に於いては一クラス50人の15組まであるような、大勢の生徒数でした。
しかし、それから徐々に炭鉱の閉山があり、それとともに炭鉱離職者になられた方々が、どんどん地方へと移り始め、昭和40年を過ぎた頃には、学童の数が半分位になりました。
ちょうどそんな頃、我が家の近所に住んでいた、頭が良くて、優しくて、誰にでもに好かれていた女子中学生のお父さんが、大怪我をされて、働くことができない身体になったという、家庭の事情で、どうしても高校進学をすることが叶わず、地方へ就職することになりました。
その彼女には、それまでいろいろと可愛がってもらい、勉強なども見てもらうなど、私もお姉ちゃんと呼び、ずっと慕ってきた方だったので、彼女が就職先へ向かう日には、出発する最寄りの駅まで、そのご家族と一緒に私も見送りに行きました。
その駅には他の中卒就職者、またそのご家族や生徒仲間も集まっていて、それぞれに手を握りあったりしながら別れを惜しんでいました。
そのお姉ちゃんと呼んでいた彼女は、泣いている小学生の妹の頭を優しく撫でていました。
そして発車のベルが鳴り、いざ列車が動き始めると、どこからともなく、悲鳴のような泣き叫ぶ声が飛び交いました。そしてその家族の中には、その列車を追いかけ、手を振りながら、ホームを駆け出す人たちの姿もありました。
小学4年生の時に、たたずみながら見たその時の光景は、今でも私の脳裏に焼き付いています。
「ああ上野駅」、私はこの歌の前奏が流れ出すだけで、50年以上も前の、その時の光景をどうしても思い浮かべてしまいます。
その後、私は昭和45年に、佐賀県から寝台特急さくら号で、関門トンネルを超えて、愛知県に移って来ましたが、いろんな家庭事情はありましたが、そんな時も家族皆と一緒でしたので、まだ恵まれていました。
しかし、「金の卵」と言われていた頃、中卒で集団就職をされた方々は、未だ若干15才で、しかも単身で、親元を離れ、何もわからない地方へと行かれています。今考えてみても、その時の、その方々を襲ったであろう不安、またご家族と別れる時の、そのお気持ちはどうだったのだろう、そんなことを思うだけでも、私は胸が締め付けられます。
団塊の世代にお生まれになり、またその様なご経験をお持ちの方々にとって、「ああ上野駅」は、特別な思いで聴かれている、とても感慨深い、大切な歌だろうとお察し致します。
そして、この歌は、私にとっても決して忘れる事のできないない、思い出の詰まった歌でもあります。
投稿: 芳勝 | 2018年3月16日 (金) 17時06分
芳勝 様
私も同じ九州、小倉生まれ育ちです。以前にも投稿させていただきましたが、この歌にはやはり特別の思い入れがあります。九州を離れて48年、今は茨城県のお百姓です。
佐賀県出身の方との忘れられない思い出もあります。
一章様も佐賀でご活躍の様ですが、懐かしいです。
何年か前わざわざ、上野駅にこの歌の歌碑を撮影に行きました。
投稿: 竹永尚義 | 2018年3月16日 (金) 18時46分
竹永尚義様
竹永様がお生まれになった小倉には、私が幼い頃に一度だけ、父に連れられて野球観戦に行ったことがあります!
一時、三原監督が率いた西鉄ライオンズが、日本選手権3連覇を成し遂げ、特に稲生和久投手の活躍は有名で、その逸話は、佐賀県でも語り継がれていました。そして打者の中西太も人気がありました。観戦した試合内容はあまり覚えていませんが、生まれて初めて見た球場が、とても広く感じたのを覚えています。
その頃は、野球解説者の小西得郎さんの「なんともうしましょうか」という語り口は有名で、私達子供でも、みんなマネをしていたほどでした。
あと小倉ではお城を見学したことと、西鉄バスに乗った記憶もあります。
私も佐賀を離れて48年が経ちます。近いうちに、妻と二人で、九州めぐりをしたいと思っています。
投稿: 芳勝 | 2018年3月16日 (金) 23時00分
芳勝さま
寒さも和らぎ穏やかな春の日差しも目の前に・・・佐賀地方でも桜の開花も待ちどうしいところです。
毎日、早朝から弁当等の宅配・・・頑張っています。
正直言って辛くて大変ですが、6年目に入ればこの際とことん頑張ろうかと思っている今日この頃です。
この歌が流行った当時は独身時代で、振り返って見れば・・たぶん佐賀ん街で居酒屋に日参していたかもしれません。
芳勝さまのコメントを拝読する度にこれまだの佐賀での日々が想い出されます。
懐かしいですね!唐津、杵島、相知、多久・・・以前は炭鉱の町として栄えた所でしたが・・・今では、ボタ山も見かけないようですが?
寝台特急「さくら」ほんとに懐かしいですね!
現職の頃、出張等で度々お世話になりました。
これからも芳勝のコメントを楽しみにいたしております。
竹永尚義さま
私の生まれは東京都(現、三鷹市)ですが,戦後、昭和20年に両親の故郷(佐賀)に転居、小学校入学は、6・3・3
制最初の年、昭和の22年の入学です。
小倉ご出身との由、九州同士、情報交換等できれば幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: 一章 | 2018年3月17日 (土) 00時03分
芳勝様のプロ野球観戦の思い出に誘われて、書きたくなりました。
その野球場は、今の小倉市民球場ではなく、今の小倉駅の北側(浅野地区。小倉駅も当時は、今の西小倉駅の所でした)にあった「豊楽園球場」でしょう。私も忘父に連れて行ってもらいましたが、公式戦ではなく、オープン戦(確か、阪神タイガースと大映ユニオンズ戦)でした。小学生時代は、勿論、熱い西鉄ライオンズファンでしたが、実物の選手は見た事はありませんでした。稲尾、中西、関口、高倉、大下・・・、全てラジオとプロマイドの世界でした。
高校2、3年は広島市に住み、最近、広島の高校同級生達に「私は元々は青(ライオンズ)だったけれど、最近は赤(カープ)がかって来ました」と冗談を言いました。
投稿: 竹永尚義 | 2018年3月17日 (土) 04時54分
一章様
お便り嬉しく拝見しました!
最近は何故だか無性に、佐賀の事が懐かしくなってしまいます。
実は、先月の事なんですが、本屋さんに行き、佐賀県の地図本を購入し、懐かしさもあり、念入りに見ていたのですが、不思議な事がありました。
自分が生まれた伊万里市や以前行った事のある、唐津や呼子などを見ていた時、何故だか一章様の事が頭を過りました。それで、佐賀の事が尚更懐かしくなり、愛知県に来てから今までに、佐賀県の事で強く残った想い出を、改めて振り返りました。
そして2月18日でしたが、自分の好きな「故郷」のページに、自分の想い出をコメントしました。
今もなお、信念を強く持たれ、朝早くからお仕事をされておられる一章様に、私は尊敬の念を抱きます。
これからもお元気で、益々ご活躍されますように祈っています。
投稿: 芳勝 | 2018年3月17日 (土) 10時09分
芳勝 様
私が名古屋から大阪に転勤で来たのは、昭和45年(1970年)4月のことでした。
豊中市の服部緑地公園に近い狭い借り上げ社宅で、1歳4か月の長男と妻と、安月給ながら楽しい暮らしでした。
当時、通勤途上に赤煉瓦で囲われた大きな紡績工場があり、中学校を出たばかりくらいの まだあどけなさの残る可愛い女の子達が、週末になると守衛室の横の大きな門の前で、同年配か少し上くらいの男の子達と群がって立ち話をしている風景を何度も見ました。
そのたびに、この「ああ上野駅」の歌が思い出され、“悪い男に騙されるなよ!"、“めげずに元気で頑張れよ!"と、車の中から小さな声で応援しながら、走り抜けたものです。
今は当時の赤煉瓦の工場跡は、いくらか残されてファミレスになり、塀は殆ど撤去され、ゴルフセンターやテニスコートとなっています。隔世の感がありますね~!
一章 様
久しぶりのコメントを拝見して、ほっとしています。
毎朝、早くからのお仕事の無理がたたって、体調でもくずされたのかと案じていましたが、相変わらずお元気のようで安心しました。
投稿: あこがれ | 2018年3月17日 (土) 13時00分
あこがれ様
ご投稿されたコメントの中に出てくる、あこがれ様が、当時車からご覧になられれていた、大きな紡績工場や守衛室横の大きな門などの風景、そしてあどけなさの残る、少女たちなどのくだりに、私は拝読しながら、自分の昔を想い出し、そしてとても懐かしさを覚えました。
私が仕事を終えて、名古屋西区にある夜学にバスで通っていた頃、通学路のバス停の名前にもなっていた、大きな紡績会社で、御幸毛織という会社がありました。その会社はテレビ番組「ミユキ野球教室」のスポンサーでもありました。
実は少し照れくさい話になりますが、私の通学路にあった、御幸毛織前というそのバス停留所から、いつも同じ時間に乗ってくる、ある一人の制服姿の女の子がいましたが、何度か顔を合わせているうちに、挨拶を交わすようになり、会話をしていたら、彼女が御幸毛織に勤めている事を知りました。そのうちにバス内では同じ席に座るようになり、職場の事や、それぞれ学校での話もするようになり、お互い住んでいた会社の寮の電話番号を交換をしたりしました。それからは時々連絡しあって、時々ですが、地下鉄に乗ってとても大きな東山動物園に行ったり、待ち合わせた喫茶店で、お互いの将来の夢を語り合ったりして、楽しくお付き合いをしていた頃がありました。
その女の子は15才の時に九州からの集団就職で、その会社に来たそうです。その後彼女は家庭の事情もあり、学校卒業を待って、九州へ帰っていきました。
私にとって「ああ上野駅」この歌は、そんな頃を想い出させてくれる、やはり特別な歌になっています。
投稿: 芳勝 | 2018年3月21日 (水) 14時39分
芳勝様
御幸毛織提供「ミユキ野球教室」実に懐かしいです。社会人だった昭和40年代、毎週日曜欠かさず見たものです。同番組ではNHKアナ出身で当時日テレアナだった越智正典氏のプロ野球選手インタビューなどが記憶に残っています。
なお、同番組では御幸毛織の高級紳士服地ミユキテックスのCMが印象に残ってますが、安サラリーマンだったので背広は“吊るし”(既製品)でした(昭和40年代はどういう訳かミユキテックス、大同毛織大同ミリオンテックス、野村毛織ノームラテックスなど紳士服地CMがやたら多かったです)。
投稿: 焼酎 | 2018年3月21日 (水) 17時14分
焼酎様
まさか焼酎様からコメントを頂けるとは思ってもみませんでした!
ミユキテックス・ミリオンテックス・ノムラテックスなどのCMに、昭和の紳士服という、そんな時代を感じさせますね。
いつもどこかに男気を漂わせる、焼酎様のコメントの数々、歌謡曲に限らず、映画にも博識を感じさせて下さる、興味深い内容は、いつも感心しながら楽しく拝読しております。またこれまでには、ご配慮により、upして頂いている動画も、有難く楽しませて頂いてきました。いつも有難うございます。
私の父は生前25度の焼酎をストレートで毎日あおっていましたので、焼酎様のハンドルネームを拝見した時は、何処かに親しみを感じておりました。
これからもお身体には気をつけられて、いつまでも美味しい焼酎をたしなまれますように祈っております。
投稿: 芳勝 | 2018年3月21日 (水) 19時02分
芳勝様
>まさか焼酎様からコメントを頂けるとは思ってもみませんでした
そのような大それた者でなく、病院通いしながら年金で何とか暮らしている単なる焼酎好きのアルコール人間です。芳勝様の詩情性・抒情性あふれる投稿にはいつも感服しております。今後も芳勝様の投稿を楽しみにさせて頂きます。
投稿: 焼酎 | 2018年3月21日 (水) 20時24分
昭和42年、18歳の春、夜行で秋田駅を発ちました。寒く暗いホームで母が送ってくれました。泣いていました。上野駅には朝6時半頃に着きました。それから50年以上になります。集団就職での上京ではありませんが、「ああ上野駅」はその前奏が流れるだけで涙が溢れてきます。声を出して歌うなんてとてもできません。母も父ももう亡くなりました。
投稿: 和行 | 2020年2月 1日 (土) 00時38分
昭和39年、上野の桜木町に大学へ通うために、親戚宅に下宿しました。
我が家は日本橋中州にありましたが、昭和20年3月の東京大空襲で焼失、埼玉の片田舎に疎開していたためでした。
桜木町の親戚宅は上野動物園・芸大の裏手にあり、戦災に被災しなかったため戦前からの古い家屋が軒を連ねていました。
すぐ近くには当時人気の九重佑三子の実家もあり、閑静な住宅街でした。夜寝静まると上野駅の汽車の汽笛が聞こえてきます。この歌を聴くとこの当時が思い出されます。
投稿: タケオ | 2020年9月 2日 (水) 20時12分
二木紘三先生のうた物語の愛好者です。
そして私は昭和3年(1928)生れの台湾人です。
私の知る限り、このサイトでは年齢も、国籍も皆様方とたいへん違う、一番風変わりの投稿者でしよう。
投稿のきっかけは「ああ上野駅」に感動し、二木紘三先生はじめ、作詞の関口義明先生、作曲の荒井英一先生、唄の井沢八郎先生に心からの敬意を表わしたいのです。
私も17-8歳の頃に、集団就職ではないんですが、一人ぽっちで親元を離れ、台湾南部の田舎を巣立って、心細い不安とでっかい希望を抱いて、会社の合格通知書類の封筒の番地を根拠にして、夜行列車で西も、東も、何もわからない初めての、上野駅ならぬ台北駅に翌朝降り立ちました、当時は時速300kmの高速列車なんて夢にも思わないものでした。
なので、「ああ上野駅」を聞くたびに、70余年前の心境を思い出し、感動で涙ぐむ次第です。終戦を迎え、我が人生も大きく様変わり、日本国籍から中華民国籍になり、全て1からのやり直し、あれから70余年、日本語を話す機会も殆どなくなりました。2番の歌詞に” 配達帰りの自転車をとめて聞いてる国なまり”の国は国家の国ではなく、故郷だと私はおもっていましたが、先日電車内で二人の高校生らしき日本人に”お国はどちらですか”、とたずねたら、”日本です”との返答でした。意外でした。
今日は2020/12/21、一年の終わりである師走の冬至、前もって二木様はじめ皆様方に謹んで新年の祝賀を申し上げます。
投稿: ctlai | 2020年12月21日 (月) 13時06分
私は一時上野駅から歩いて職場に通っていた時期もあり、かつてはよく上野駅を利用しました。その頃の上野は、東北線、上信越線、常磐線の長距離列車の始発駅であり、中距離の通勤電車も発着する一大ターミナルでした。
しかし、東北上越新幹線のターミナルが東京駅になって在来線の長距離列車も減り、寝台特急も消えました。更に上野東京ラインが開通してからの上野駅は、始発列車が少なくなって、一通過駅に過ぎなくなった気がします。
話は変わりますが、近年上野駅が改装されて、かつての貴賓室が洒落たフランス料理のレストランになっています。とても落ち着いた雰囲気の内装で、紳士淑女が出入りして時代を彷彿とさせます。
投稿: Yoshi | 2020年12月24日 (木) 10時07分
中華民国 ctiai 様
私は1947年12月、九州・小倉市生まれ育ち、今は、茨城県で定年農業を営んでいます。 ctiai様は、人生の19年先輩です。集団就職ではありませんでしたが、九州から、上野駅経由で、茨城県に就職した50年前の事が思い出されます。上野駅前の「ああ 上野駅」の歌碑も知っています。
あなた様の様な高齢の外国の方とこのサイトで繋がれた事を嬉しく思います。
20年位前だったと思いますが、仕事(機械の修理)で台北に行きました。その時、御地代理店の方々が、歓待してくれ、80歳位の顧問の方とお話して、その「日本語」の綺麗さに驚きました。昔の日本人は、こんな綺麗な言葉を話していたのだと・・・。
台湾統治時代の日本は、良い事もしましたが、残虐な悪い事もしたと聞いています。
今後共、お元気で、二木紘三さんのこのサイトをお楽しみ下さい。 私は、実名で投稿しています。
投稿: 竹永尚義 | 2020年12月24日 (木) 17時10分
竹永尚義様
まずは、2021年あけましておめでとうございます。私もこのサイトで竹永様と繋がれた事をたいへん嬉しく思っています。竹永様が20年位前臺北でお会いなさいました80歳位の顧問の方は、今はもう100歳になりますね、ずっとご連絡なさっていらしたら素晴らしい事と存じます。竹永様はLINEをお使いなさっていますでしょうか?ずっとお友達として文通させていただけたら、嬉しく思います。NHKのニュースで全日本に雪、九州にも雪が降ったとの事でしたが、くれぐれもご健康にご注意なさいますよう、お願い申し上げます。さようなら。
2021年1月3日 ctLai 敬具
投稿: ctlai | 2021年1月 4日 (月) 14時34分
何時も有難く拝聴させています。
私は集団就職で東京、大阪へ出なかったのですが、中卒の同級生が主に京阪神へ就職しました。運よく地元の会社に高卒で就職しましたが、都会への憧れをずっと持っていました。
もう、同級生の数人は鬼籍に入っていますが、社会人になって、カラオケ等で歌うのはこの歌です。本当にいい歌です。
投稿: takasan | 2022年9月30日 (金) 21時26分
私が大学二年の時に、バイト先のお嬢さん(東京女子大生)に恋をして、一回だけデートをして、そのまま失恋になったころのある日寺山修司の「男の詩集」を手に新宿御苑に行って、寝転んで読んでいた。
その中に「ああ、上野駅」があった。九州出身で、上野には思い入れはなかったけど、東京駅の置き替えて読んだ。
東京駅の話はまた別に書きます。
今は井沢八郎さんの娘の工藤由紀さんが歌っているのをYOUTUBEで見ることがあります。
投稿: 江尻陽一 | 2024年4月23日 (火) 01時27分
高校を終えて、当時巣鴨にあった東京外国語大学に入るために上京した時のことである。東京駅のホール部分(上に辰野金吾さんの彫刻がある)で展示を眺めていたら、女の人が近づいてきて、「あなたは東京に何しに来たの?}ときかれた。「大学に合格したので、九州から出てきました」と答えたら、「見慣れない学帽だったので」と言って、その人はそそくさと離れていった。自分は手に風呂敷包みを持って、高校の制服と学生帽を身につけていた。「典型的な家出少年じゃないか」と気付いたことでした。
投稿: 江尻陽一 | 2024年4月23日 (火) 01時34分
『ああ上野駅』は、郷愁を誘われ、心に響くいい歌だと思います。
私自身、集団就職で上野駅に降り立つという体験はありませんが、上野駅は、青春の1ページとして思い出に残る駅です。
昭和30年代前半の早春、私は郷里・北陸のK市の高校を卒業し、大学受験のため、汽車で東京へ向いました。夕方に急行”ゆのくに”でK駅を出発し、金沢、富山、直江津、長野経由で、翌早朝に上野駅に到着しました。
見知らぬ土地に降り立って緊張する中、出迎えに来てくれた兄の姿を見出し、ほっとしたことは今も忘れません。幸いに、兄はこの年に大学を卒業し、四月から社会人になるべく、在京していたのです。
私の大学受験は、あえなく不合格。その後、捲土重来を期して挑戦し、2年後、東京の郊外の大学に入学することができました。
4年間の学生生活の間、だいたい夏休みと冬休みは帰省していたと記憶します。初めの頃は、受験のときと同じルートで、上野駅経由でしたが、3年生の頃からか、東海道回りルートの急行”はくさん(白山)”が出現し、費用・所要時間ともほぼ同じこともあり、気分により、こちらのルートを利用することがありました。
3年生のとき、郷里で夏休みを過ごした後、夕方、急行”はくさん”に乗り、福井、米原、東海道経由で、翌早朝東京駅に帰り着きました。東京駅はまだ人影まばらでしたが、いわば、大東京の表玄関口として、都会的な垢抜けした佇まいでした。上野駅とは様変わりの雰囲気だったことが思い出されます。
投稿: yasushi | 2024年4月24日 (水) 16時52分
数十年も上野駅を利用することはありませんでしたので、どのように変わったかは定かではありません。ただ、広小路口から、あの17番線ホームへ階段無しで行けるのは変わっていないのだと思われます…。国内有数のターミナル駅でホームまで段差が無いのは滅多にないと思われます…。
もう二十年ほど前ですが、私は九州の門司港駅に行ったことがあります。同駅周辺には古い明治・大正時代のものと思われるレンガ造りのビルが残されていて素敵でした。ついでに何の知識も無しに門司港駅に行って見ました、これがびっくり…。
何と昔のままで、道路~改札~ホームまで段差が無いのです。上野駅17番ホームを思い出してしまいました。また行ってみたいなあ…。
投稿: ジーン | 2024年4月25日 (木) 11時19分
ジーン 様
「ああ上野駅」へのあなた様の投稿を見て、久し振りに投稿させて頂きます。私の故郷は、北九州市小倉北区富野です。54年前の春に、就職の為、小倉駅を立って、茨城県に出て来ました。お袋が生きていた35年前までは、時々、小倉にも行っていましたが、今では実家も無く、行く機会が無くなりました。
「門司港駅」は、良く知っています。昔は、関門連絡船の乗り場へも繋がっていました。今では、観光名物として、「バナナの叩き売り」が駅前で、行われている様です(数少ない幼馴染から送ってもらった「西日本新聞」記事より)。
故郷も遠くなりました。今は、茨城の地で、相変わらず、定年有機農業に励んでいます。
二木先生の「うた物語」へご参集の皆様も、どうかお元気で、お過ごし下さい。
投稿: 竹永 尚義 | 2024年9月25日 (水) 16時58分
「ああ上野駅」この歌は一瞬にして私の脳裏を幼少のころへとタイムスリップさせます!
私が物心ついた(昭和34年当時五歳)のころは生活苦のため高校進学が叶わずやむなく遠くの地へと就職を余儀なくされた人たちが大勢おられたような気がします。
2018年3月16日に投稿した私のコメント(小学4年生時)に見たあの時の光景は60年の歳月が経った今でも私の脳裏に焼き付いたまま今もなお離れることはありません。
今おもむろに昔を顧みると当時の15歳はある意味で大人でした。両親の苦労を少しでも軽くしたいという思いで就職した方たちがさぞかし多かったのではと私は推察しています。
私事で恐縮ですが、今年の5月には川崎市に住む次男夫婦が計画したサプライズで、次男の嫁の生まれ故郷山形県米沢市への観光をかねた(古希祝い)の一泊旅行をしてきました。何せいたれりつくせりの真心籠る配慮の数々で本当に心に残る素晴らしい旅でした。
米沢へ向かう東京発の東北新幹線に乗車し次の『上野駅』に着いたとたん、私は不思議なことにふと感慨深い心境に陥りました。当時中卒の生徒さんたちを乗せた集団就職列車が旧国鉄の上野駅に到着し『上野~上野~』という構内のアナウンスを列車の窓越しで聞いた大勢の生徒さんたちは、いったいどんな心境だったのだろうか、私の胸の中にはいろんな思いが一気に湧いてきてしまい思わず目頭が熱くなりました。
「ああ上野駅」この歌が大ヒットしてから60年が経ちそして私は70歳になりました。ここで二木先生の名演奏を聴きながら私が今しみじみと実感させられるのは、この歌は私の人生の『原点』のような気がしてなりません。
投稿: 芳勝 | 2024年9月26日 (木) 21時05分