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2007年8月22日 (水)

ひまわりの小径

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:林春生、作曲:筒美京平、唄:チェリッシュ

1 あなたにとっては 突然でしょう
  ひまわりの咲いている径で
  出逢ったことが
  私の夢は 終わりでしょうか
  もう一度愛の行くえを 確かめたくて
  恋は風船みたい
  だからはなさないでね
  風に吹かれ 飛んでゆくわ
  たちどまる二人には
  交わす言葉もなくて
  恋はいつも 消えて行くの

2 あなたはいつか 忘れるでしょう
  ひまわりの咲いている径で
  出逢ったことを
  いけない人は わたしでしょうか
  それなのに涙しのんで ふりむくなんて
  恋は風船みたい
  だからこわさないでね
  わたしだけの 宝なのに
  うつむいた二人には
  交わす瞳もなくて
  恋はいつも 消えて行くの

  恋は風船みたい
  だからはなさないでね
  風に吹かれ 飛んで行くわ
  たちどまる二人には
  交わす言葉もなくて
  恋はいつも 消えて行くの


《蛇足》
昭和47年(1972)5月リリース。

 ひまわりの咲く道で、あの人と突然めぐり会うことなど、望むべくもない歳になってしまったでしょう、あなたも。せめて歌でときめいてください。

(二木紘三)

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コメント

向日葵の花咲く小道ではなく、其の花が好きな素敵な方に出会ってしまったことが何事も無くおくっていた静かな人生が心騒ぐものに…私が神ならば青春は人生の最後に持ってこようものを…

投稿: 村尾 忠 | 2007年9月20日 (木) 01時19分

チェリッシュの奥様の高い澄んだ声が耳もとに聞こえてきます。グループとしての魅力が何か無いと生き残れなかった時代だった。

投稿: M.U | 2008年7月20日 (日) 14時26分

「恋は風船みたい、だからはなさないでね。」ここもこの唄
を引き締めていると思います。

投稿: M.U | 2008年8月24日 (日) 11時17分

悦ちゃんが松崎君に恋をして。。。。
長い恋愛でしたねぇ。そしてあまり年齢のかわらない
私も恋をしていました。
悦ちゃんが。。。何かの時に「松崎君が何も(結婚の事を)
言ってくれないから」と言った事に。。。
女心としていたく同情した記憶があります。
あの輝いていたチェリッシュも普通の人になってしまいましたね。

投稿: sunday | 2008年8月24日 (日) 15時46分

人生の最後に青春良いですね。私は欲張りだから両方欲しい
しかし若い時の青春は昔のことですね。長寿青春大賛成です。

投稿: M.U | 2008年9月 4日 (木) 16時17分

交わす言葉もない。こうゆう言葉が出てくると、恋も終わり
だと、先生はおっしゃっていますが、残念だけど当たっています。このうた物語にも3曲ばかり有りますね。

投稿: M.U | 2008年9月11日 (木) 15時41分

この歌も「白いギター」も詞が綺麗(青春をくすぐっています。)悦ちゃんの声も素晴らしかった。

投稿: M.U | 2008年9月16日 (火) 14時30分

ひまわりの咲いてる・・・で出会えば風船のように飛んで
行く物でしょうか。自分達の事は棚に上げて。この唄は大
好きだがハッピーエンドに成らなかった物でしょうか。唄
に成らないのなら致し方ありません。

投稿: 海道 | 2008年11月30日 (日) 15時12分

ひまわりの咲いた小径で出会って、二人は立ち止まるけれど、交わす言葉もないという歌です。二人は以前交際していたのでしょうか、それとも時々すれ違うけれど話したこともないのでしょうか。“恋はいつも消えていく”とありますから、好きなタイプの人とすれ違っただけかも知れません。そうだとすると、何とも移り気な“恋”ですが、若く多感な頃はただ一度の出会いに恋を感じることもあるでしょう。しかし、モネの絵のような明るい夏の情景が思い浮かぶ歌詞です。
チェリッシュが流行した頃の私は貧乏大学生。『避暑地の恋』なんて歌もありましたが、当時の私は避暑地などとは無縁の身で、暑い京都の夏を悶々として過ごしました。大学から鴨川を越えて西に行った所に同志社がありました。いかにも私立といった感じの瀟洒な校舎が立ち並び、綺麗な女子大生もいて、住む世界が違うと感じたものです。

投稿: Yoshi | 2012年8月26日 (日) 12時17分

今は70歳すぎた頃に人によって第二の青春(成春?)があるらしい。集団見合いらしいが唄われるのは不倫歌か何とも不釣合いです。先生のこのサイトから選択すればいくらでも受ける歌があると思うのですが。

投稿: 海道 | 2013年5月30日 (木) 03時13分

村尾さん 大分遅れてますが投稿読みました。「神ならば青春は人生の最後に持ってこようものを」・・その想い いやぁ同感です。まったくその通り。青春が人生の最後にあったら。ホントにホントに・・・。神田川も馬場の町も。ホントにホントに。この想いとてもうまく表現できません。

投稿: 林 滋 | 2015年11月 3日 (火) 17時49分

1972年、と言えば、「ひまわりの小径」のひと月後、6月に発売された麻丘めぐみさんの「芽ばえ」が強く記憶に残っています。街中で麻丘めぐみさんの歌声が流れていたように記憶しています。

その年から翌年にかけて私はある会社のコンピュータ室でオペレータをしておりました。シフト制勤務で夜勤もありました。税金の通知等、連続帳票の打ち出しでは、時に何時間も用紙交換以外他にする仕事はありません。そんな時は休憩室でブラブラと時間を潰しているだけでした。休憩室には週刊誌などの雑誌がありました。その一つに麻丘めぐみさんのグラビア写真が載っていました。私は夜勤が回ってくるたびにその写真を眺めていたのです。そのためか今日に至るまで彼女のその可愛らしい姿が脳裏に焼き付いてしまいました。

小さな会社でしたが女性社員はたくさんいました。社員の半数以上、150人くらいでしたか、は女性でした。新入社員の歓迎会ではその半数以上、10人くらい、が女性でした。話下手な私も楽しそうな女性たちの輪の中に少し加わらせて戴きました。社員が増えて会社が発展していることを素直に嬉しく感じていました。しかしその後彼女たちとは二度と出会うことはありませんでした。

女性の社員は多かったのですが彼女たちの職場か会社の社屋内にあるわけではありません。採用された女性のほとんどはキーパンチャーという職種への配属でした。キーパンチしてコンピュータの入力カードを作成する仕事です。彼女たちは数日の新人研修期間が終ると大手企業のコンピュータ室に送られて行きました。当時、派遣法はまだありませんでした。皆わが社の正社員です。数か月経って、あのときの気になる彼女たち今どうしているだろう、と思っていたところ、「もう辞めたそうだよ」という声が聞こえてきました。

社員のバス旅行が催されました。出向しているキーパンチャーの彼女たち、たくさん参加するだろうな、と思って期待で胸が膨らみました。しかし彼女たちはほとんど参加していませんでした。がっかりでした。それでも二~三人は参加していたでしょうか。バスの中である女性がマイクを持って歌いました。ヒットしていた麻丘めぐみさんの「芽ばえ」でした。

♪ もしも あのとき あなたに 出会わなければ ・・ ♪

帰りのバスで私はうとうとと眠っていました。霧の中で女性の声が聞こえてきました。「彼岸花よ。」半分目が覚めてバスの窓から外をみると沿道に咲いているたくさんの赤い彼岸花が流れるように去って行くのが見えました。私はぼんやりと、美しいなぁ、と思っていました。
・・・・

1972-1973年の思い出です。曲「ひまわりの小径」をきっかけに蘇ってきました。あの彼岸花の群生は僕の孤独でさびしい心の象徴だったのだろうか?それとも参加しなかったキーパンチャーの女性たちの見送りだったのだろうか?そんな妄想が浮かびます。そしてあのバスは風に吹かれて行ってしまったのだろうか?

16才の麻丘めぐみさんの歌声が響きます。

♪ もう あなたのそばを はなれないわ~
  はなれないわ~ ♪

その麻丘めぐみさん、ことし還暦のお祝いをなされたようですね。

投稿: yoko | 2015年12月 2日 (水) 10時20分

 約60年前、私は、山奥の中学校から父の新たな職場のある街の公立中学校へ転校しました。同県内とはいえ方言も異なり、かやぶき家でなく立派な庭、瓦家が多い家並みで経済的に恵まれた街のように感じました。

 1000名近い全校生徒は制服を着て洗練されており、同級生みんなは私より頭が良いように見えました。
 転校前の田舎の学校の同級生は まず農作業の手伝い、街の同級生のほとんどは高校受験の準備をしていました。転校した3学年1学期の最初の総合テストの順位はクラスの中位より少し上でした。

 転校して間もなく、おさげ髪で頭脳明晰、笑顔の綺麗な女生徒が同じクラスにいることを知りました。だんだんその女生徒を意識するようになりました。しかし転校生で成績も中位、親しい友達もいない私には高嶺の花でした。学校では友達つくり、家に帰ったら勉強をしましたので学業成績も少しづつ 上がってきました。

 コスモスの咲く頃、関西方面に2泊3日の修学旅行がありました。バスから降りて見学する時、彼女の近くを歩くだけで満足でした。集合写真で彼女が近くにいた時は恋の神様に感謝しました。話をしたことはなかったと思います。

 卒業前 彼女は他市の女子校、私も他校に進学しました。その後、彼女は結婚、3人の子供のお母さんになりました。私は転勤の多い仕事を選び結婚、父親になりました。

 彼女は50歳前にご主人を亡くし、子育て、仕事などで頑張ったようです。そして2年前の熊本地震では実家が全壊、佐世保に約1年避難しました。体調を崩し精神的に落ち込んでいくので若い頃から好きだった水彩画を描いて前向きに過ごすようにしていたそうです。昨年春には「みんな みんな ありがとう」という水彩画展を佐世保市と熊本市で開催しました。2年後の同級生が主催する「喜寿の祝い」で会えるのを楽しみにしていました。

 ・・昨夜 彼女の娘さんからはじめてメールが届きました。「 MAの娘、△S子です。本日は 母のスマートフォンのアドレス帳に登録されている方に一斉送信させていただいています。心あたりの亡い方はご容赦下さい。
 母 MAは9月19日 永眠致しました。生前は格別なご厚情、深く感謝申し上げます。 20日午後7時より通夜、21日午前11時より葬儀を・・」
  
 彼女はコスモスの好きな女性でした。二木先生の「再会」の曲でコメントしようかと迷いました。中学3年生の同クラスの1年間だけのほのかな思い出だけなので「ひまわりの小径」にしました。 

 M・A様の ご冥福をお祈り申し上げます。  合掌

 

投稿: けん | 2018年9月22日 (土) 09時55分

けん 様

60年前の淡い初恋にも似たような 美しい思い出を胸に秘めて、2年後の再会を楽しみにしておられた矢先の訃報、懐かしく楽しい思い出の一杯詰まった風船が、澄んだ秋の空に浮かんでいるうちにパチンと破れて、思い出は 遥か雲の彼方に飛び去って行ってしまった・・・そんな切ないコメントですね。

私の勘違いでしたら、許して頂きたいと思いますが・・・
けん 様は、若い頃 京都府の福知山市に在住しておられ、子供さんの急病時に、近くに病院がなく苦労されたとか・・コメントで拝見したことがあります。
けん様も yoko様も 関西に所縁のある方だな~と、親しみをもってコメント拝見してました。

どの歌でのコメントだったか?定かではありませんが・・
Hネームが leaf man 様と仰る 草笛を得意とされておられる方のコメントを拝見していたら、けん様への「MAさんの娘S子さんから・・・」と、同じような情景に出会いました。leaf man様の息子さんらしき方からの丁寧なコメントに、生前のお礼に添えて 元気に草笛を演奏される姿の動画がUPされており、感動した覚えがあります。

もし、私の場合だったら どうでしょう?
PC音痴のカミさんに頼んでいても無理でしょう。私のコメントが 半年?否1年 も、途絶えたら、老兵が黙って消え去ったものと思って下さい。

投稿: あこがれ | 2018年9月22日 (土) 11時20分

あこがれ 様

 プロ並みの歌唱力をお持ちのあこがれ様は、私の中学3年時の切ないコメントを「懐かしく楽しい思い出の一杯詰まった風船・・・」と表現されました。有難うございます。
 
 転校生で最初の学力テストは中位、得意な相撲や野球について運動部から誘いがかかった私。音楽、図工をはじめ主要4教科の成績はトップクラスで女子学生から人気のあったMAさん。私は各々が志望高校に合格した卒業直前の茶話会で、はじめて話をしました。

 その後 MAさんは見合い結婚をしたことを風の便りで知りました。数年後 私は親の薦める見合い結婚をして福知山市で長女を授かりました。自転車に乗れない妻は長女をおぶって数キロ離れた店に買い物に行ったりしていました。或る夜 泣きじゃくる長女をダッコして病院に駆け込んだことを「夕焼け雲」(ゴンタ泣き)に書きました。現在 長女は2人の子供に恵まれ海外生活をしています。

 病に倒れた父の全快を祈って小さな「木像」を数体彫ったことがあります。その頃MSさんはご主人を亡くされ憔悴されていたので「私の彫ったお地蔵様」をご供養にさしあげました。・・そんなことを新たに思い出しました。

 8月5日NHKBS 奇跡のレッスン」であこがれさんのお孫さんの名演奏をみました。あこがれ様のDNAを見事に引き継がれたお孫さんは船橋の名門校の弦楽部で頑張っていらっしゃいますね。ダニエル・ゲーデ先生の「音で物語を作れる人。人の心を動かせる人」などの言葉が印象深く残っています。

 草笛の故leaf manさんは正に草笛で人の心を動かせる人でした。 彼を知る草笛仲間から leaf manさんの素晴らしい演奏、人間性、交流などについて何度も話を聞いています。彼の残したブログ「一葉無限 草笛の世界」や動画「ひまわり」などを時々みて私の草笛修業の参考にしています。

 今後ともよろしくお願い致します。 

投稿: けん | 2018年9月23日 (日) 21時54分

「ひまわりの小径」チェリッシュはデュオとしてこの曲をヒットさせますが、私は5人グループでまだ無名だったころのボーカル悦ちゃんとの懐かしい想い出があります!

現在のイオングループ・大手総合スーパージャスコが、昭和46年当時の『スーパー岡田屋』だったころの話ですが、愛知県の小牧店催事場にチェリッシュのグループがキャンペーンにきていました。その日は姉の買い物につきあって偶然居合わせたその会場で、初めて聴いた「なのにあなたは京都へゆくの」を歌った悦ちゃんのその素晴らしい歌声に感激した私は、歌い終えたボーカルの悦ちゃんに、思い切って握手してください!と手を差し出したところ、悦ちゃんはありがとうございます!と言ってくれて、何とマイクを手に持っていたにもかかわらず両手を添えて握手してくれました。

今、冷静に振り返れば、当時新人だった悦ちゃんにとっては自然の流れで何気なくそうしてくれた、ただそれだけのことだとは思いますが、17歳の私にとってはそのことが何よりも嬉しくて感激したのです。私は50年前の優しかった悦ちゃんのあの時の笑顔が今も忘れられません。

その翌年からグループではなくデュオのチェリッシュとしてこの「ひまわりの小径」をはじめ、次々とヒット曲を連発して行ったことは、一ファンの私にとっても嬉しいことでした。あれから長年が経ちましたが、私は悦ちゃんのあの素敵な歌声が無性に聴きたくなって、今でも時々YouTubu視聴することがあります。

投稿: 芳勝 | 2021年10月16日 (土) 13時25分

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