緑の地平線
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作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:楠木繁夫
1 なぜか忘れぬ人ゆえに 2 わざと気強くふりすてて 3 山のけむりを慕いつつ |
《蛇足》 昭和10年(1935)に日活多摩川撮影所で制作された同名の映画の主題歌で、古賀メロディーの傑作の1つ。
映画は3人の女性が紆余曲折の末、真の愛に目覚めるといったストーリーで、原節子、岡譲二などが出演しました。
楠木繁夫は高知出身。東京音楽学校を学生争議で放校処分になったあと、昭和5年に歌手デビューしましたが、ヒット曲に恵まれず、芸名を変えながらマイナーレーベルを転々としました。
しかし、テイチク専属となってからは、古賀政男のバックアップを得て、『女の階級』『人生劇場』など、ヒットを連発しました。
戦後はヒット曲に恵まれず、病身の妻などを悲観して、昭和31年(1956)に新宿の自宅の物置小屋で自殺しました。
作詞の佐藤惣之助には、ほかに『赤城の子守唄』『青い背広で』『湖畔の宿』『人生劇場』などのヒット曲があります。
(二木紘三)
コメント
映画の記憶は有りませんが、歌は口ずさみましたね。とにかく「間奏」がとても心地よいメロディーです。いつまでも歌い継ぎたいものですね。
二木紘三先生有難う御座いました。
投稿: 波路 | 2007年10月26日 (金) 21時13分
古賀メロディーの中では、最も愛聴している作品です。
この作品と密接な関係にある、横山美智子原作の小説「緑の地平線」を読みたいのですが、絶版らしく、入手できません。
でも、「いつかは・・・」と思っています。
因みに、横山美智子は、女優の大楠道代さんのお母さまです。
大楠さん出演の映画では、ビート武(北野武)さんが監督主演の「座頭市」が印象に残っています。
市が身を寄せる農家の女主人を好演していました。
追伸:江口夜詩作曲の「十九の春」、これも大好きな懐メロです。
是非、ここで聴けるようになることを願っています。
投稿: アカトンボ | 2008年5月 8日 (木) 19時00分
映画の主題歌だったんですか。
「リラの花」「霧の都」などから、1930年代の上海のダンスホールを想像していました。
投稿: クマ | 2008年7月 9日 (水) 16時10分
楠木繁夫のフアンで、いろんなことを調べて(検索して)いるうちにここに来ました。
この歌は、青木光一がカバーして歌っていたとき好きになりました。
楽しませていただきありがとうございました。
なお『誰か夢なき』は竹山逸郎の歌ですよね。
投稿: 卓 山 | 2008年10月25日 (土) 23時34分
とても良い歌ですよね。
歌唱の好みで色々なファンが存在するのですが
この曲のカバーでは「大川栄策」の試聴をお勧めします
一味違っております。
投稿: 山ちゃん | 2008年10月26日 (日) 22時20分
この歌は知っていましたが、特に深く刻まれたものではありませんでした。
しかし、親父が無くなる2年前に一緒に飲み屋に行った時、好きな歌なんだと歌ってくれたのが、この歌でした。無口な親父であんまり自分のことを言わなかったので、親父の心を垣間見た気がしました。それ以来、この歌を聞くと亡き親父を思い出します。
この歌をアップしてくださってありがとうございます。
投稿: 吟二 | 2008年11月12日 (水) 21時26分
私は今年古稀を迎えました。「緑の地平線」の歌は1935年の発表とのこと、私が生まれる5年前の歌とは知りませんでした。二木様の蛇足欄で知りました。大人が歌っていたのを聞いて覚えたのでしょう。当時の我が家には蓄音機はありましたが「緑の地平線」のレコードはありませんでしたから。レコードと言えば浪曲が多かった。後にラジオから流れるこの歌の旋律がとても心地よく、歌詞の意味も知らず、子供のころに覚えたこの歌がこの年になって、ますます心に沁みる愛唱歌となっています。軽やかなメロデーと詩情の美しさには、口ずさむたびに心が癒されます。3番の詩で希望を貰っています。
投稿: 中林みのる | 2010年3月 6日 (土) 16時39分
45年も前に義兄が持っていたSPレコードを貰って聴いていました。そのレコードは下宿の火事で消えました。義兄は急性白血病で亡くなりました。この歌を聴くと昔の事を思い出します。
歌手楠木さんの最期もかわいそうでしたね。
投稿: 妙義山のたぬき | 2011年12月 3日 (土) 12時54分
好きな曲で時々カラオケでも歌っています。ちょっとお聞きしたいのですが、この曲のオリジナル(SP盤)を聞きますと、だいぶスピードが早く感じられます。当時としてはなかなか早口の歌だと、思いますが、それで良いのか、何故なのか、以前どこかのHPで見かけたことがあるのですが、忘れてしまいました。どなたかご存知の方がおられましたら、教えていただければ幸いです。
投稿: なべちゃん | 2012年1月 5日 (木) 12時05分
蛇足様のコメントで原節子はこの映画にも出ていたのだと知りました。大正9年6月生まれの彼女だから、この映画に出演したのは満15歳?原節子が日独合作映画『サムライの娘』ベルリン・プレミアショウに参加するために大群衆に送られて夜の東京駅を特急富士で発ったのが昭12年3月だから、その時明瞭にまだ16歳9月。労働基準法がゆるやかだった時代とはいえ、今では考えられもしない。
投稿: 乙女座男 | 2012年7月29日 (日) 20時02分
7月29日にコメントしました乙女座男です。前便で小さなことながら、私の誤記が一点あります。昭12年3月10日、夜の東京駅を特別急行富士で発ったと書きましたが、21時25分に原節子が東京駅を発ったのは急行神戸行きです。11日朝三宮で下車し、親戚を訪ねたあと京都撮影所での壮行会に出席し、特別急行富士を深夜大阪駅で捉まえ乗り込んでいます。12日朝下関駅下車(関門鉄道トンネル未だ)、門司港から日満連絡船うすりい丸で大連へあと満鉄・シベリア鉄道経由ベルリン着同月26日。
投稿: 乙女座男 | 2012年8月25日 (土) 21時41分
YouTubeに石原裕次郎が歌ったこの曲があったが、著作権問題で削除されてしまったのは残念だ。「無理に注がせて飲む酒」などを含めて、裕次郎のために作られていたのではないかと勘違いするほどである。なお、楠木繁夫はすばらしい、とくに声がと思うとともに、この曲を含めて古賀政男の才能にはいうべき言葉がない。佐藤惣之助は詩人であったが、当時は何人かの有名詩人も作詞をしていたようですね。最近はどうも詩人は民衆から離れたところにいるようだ。
投稿: 吊るし雲 | 2012年10月11日 (木) 20時52分
何故か戦前の歌で全然知らないはずなのに、涙が出るほどかんげきしています。
投稿: 古川毅彦 | 2014年12月 1日 (月) 22時48分
すずらん から 何故か
ライラック (リラ) に 気がながれ
楠木繁夫唄う 緑の地平線 をきいています
昭和10年の曲ですから
僕にとっては 本来知りようもないものでした
しかし 何かのきっかけで よいメロディーだと認識し
それ以後は
この曲をきくと 決まって エアースポットのような
ところに 落ち込んでしまいます
それは 楠木繁夫氏の人生について
深く考えさせられる というところです
高知の医師である 親の反対を押し切り 音楽の道へ
現 東京芸大へ入学 しかし 学生争議で放校処分
となり
友人(藤山一郎氏など)の協力を得て 歌手の道へ
苦労の末に 古賀政男氏のバックアップ もあって
ヒット歌手となります
戦後はヒット曲に恵まれず 奥様(歌手 三原純子)の
病という苦しみも 重なり
昭和31年 52才で自死されるのです
人 ひとりの人生 難しいものです
思い通りいかないのが 人生
ほんの ボタンの掛け違いから 人生 どの方向に向かうやら
楠木氏 よりも 20年近くも長い生をもらい
いまさら 何をとお叱りをうけるかもしれませんが
一本の道しか歩けない 人生
どの方でもそうですね
生まれた瞬間から 没するまで
一本の道なのです
わかりきったことを書きながら 残されている
短いだろう人生に思いをはせています
どういう 人間であるべきか
まだまだ成長できるはず
自分の与えられた 仕事に全力を尽くす
これだけですね
投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年4月18日 (水) 21時45分
二木様、みなさま、初めまして。かなり古い記事にコメントすることをお許しください。
歌から外れて恐縮ですが、当方、原作既読でありいくつか映画や原作本についても調べております。
まず映画は『キネマ旬報』で「こんなものは昔散々見たような駄作」とこき下ろされています。ここに載っているあらすじによると、原作を途中でぶった切り、無理にお涙ちょうだいに変えてしまったようです。もっともフィルムが戦災で行方不明では直接確認しようもなりませんが……。
また原作本ですが、昭和10年に朝日新聞社、昭和22年に新元社から出ています……が、貴重本です。前者は早稲田大学附属図書館と福岡県立図書館の2ヶ所のみ、後者は名古屋市立鶴舞図書館のみにしかありません。国会図書館は紛失。しかも後者は前編のみです。完本を手に入れるのは困難を極めると思います。
長々と歌以外の話題を補足と称して書き込み、申しわけありませんでした。それでは失礼いたします。
投稿: 苫澤正樹 | 2019年2月 4日 (月) 02時02分
私(S12生まれ)にとって、子供の頃から知っている歌です。(言うまでもなく、生まれる前の、映画「緑の地平線」は観ておりません。)
最近、カラオケで、たまたま、見知らぬ人がこの歌を謳っているのに出合い、懐かしく感じました。
私自身、古賀メロディが心地よく、調子よく歌えることもあって、ときどき、この歌を口遊んでおります。
歌詞1番の、♪リラの花さえなつかしや♪の、懐かしく思い起こす、リラ(ライラック)が咲いていた地はどこだろうか?ライラック祭りの、北海道であろうか?
歌詞3番の、♪山のけむりを慕いつつ♪は、見慣れた、火山(浅間山)から立ち上る煙に心を寄せながら?そして、♪緑うれしや地平線♪の、”緑の地平線”が見えるのはどこであろうか?日本に”緑の地平線”を見渡せるほど広いところはあろうか?あるいは、前のフレーズに、♪遠き前途(ゆくて)にほのぼのと♪とあるので、どこか遠地(外国)のことを謳っているのだろうか?
などと、歌詞の全体像はつかめないまま、あれこれ、楽しく想像を膨らませております。
投稿: yasushi | 2019年4月21日 (日) 14時09分
生きていれば、伊藤久男先生と双璧のベルカントの名手として名を馳せたろうに。
投稿: 遠藤チュウ | 2020年9月 1日 (火) 00時12分
昭和前期の映画主題歌だったそうですが、古賀メロデーに引きずられっぱなしになる名曲です。
また「涙かくして踊る夜」「無理に注がして飲む酒」「いとし小鳩の声聞けば」の詩には胸キュンと来ます。
それに、なぜか北海道の大地を彷彿とさせる光景が浮かんできます。
いつの間にか過去の自分の苦い恋に置き換えて口ずさむことが多く、永遠の名歌だと一人合点しています。
投稿: 伊勢の茜雲 | 2023年2月24日 (金) 21時20分
既に書込みをされた方の文章と重なるものがありますが、お許し下さい。
楠木繁夫さんは戦後ヒットに恵まれず、ヒロポンを常用したこと等から音程が外れるという、歌手にとっては致命的な状態になっていたとされ、自宅で自ら人生を終わらせたようです。
奥さんは歌手の三原純子さんで、あの「南から南から」を歌った女性です(この歌、大好きなんです…)。
三原さんは故郷である飛騨高山で入院療養されていたため、当初は楠木さんの訃報は伝えられていなかったようです。が、奥さんの知るところとなり、後を追って病院内で自ら命を絶ったとされています。
後年、夫妻の眠る墓に詣でた古賀政男は、「黒ちゃん、何で死んだんだ…」と言って涙を流したそうです。
投稿: ジーン | 2023年12月31日 (日) 13時08分