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2007年9月 4日 (火)

児島高徳

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:不詳、作曲:岡野貞一

1 船坂山や 杉坂と
  御(み)あと慕いて 院の庄
  微衷(びちゅう)をいかで 聞えんと
  桜の幹に 十字の詩
  「天勾践(こうせん)
  空(むな)しゅうする莫(なか)
  時(とき)范蠡(はんれい)
  無きにしも非(あら)ず」

2 御心(みこころ)ならぬ いでましの
  御袖(みそで)露けき 朝戸出(とで)
  誦(ずん)じて笑(え)ます かしこさよ
  桜の幹の 十字の詩
  「天勾践を 空しゅうする莫れ
  時范蠡 無きにしも非ず」

《蛇足》 大正3年(1914)に発表された尋常小学唱歌。
 『太平記』のなかの有名なエピソードを歌にしたものですが、このむずかしい歌詞が小学生用として採用されたのは、驚くべきことです。

 元弘の乱のとき、南朝の忠臣・児島高徳は、後醍醐天皇が北条方に敗れて隠岐に移される途中、その身を奪いかえそうとして行列を追いました。
 美作
(みまさか)――岡山県の北部――の院ノ庄で行在所(あんざいしよ)に潜入したものの、近づくことができず、庭木の幹を削って「天莫空勾践 時非無范蠡」と書きつけて立ち去った、という話です。
 上の絵はこのエピソードを描いた日本画
(羽石光志画)

 勾践は、中国古代春秋時代の越の国王で、ライバルの呉王(ごおう)闔閭(こうりょ)を破ったものの、その息子の夫差(ふさ)に敗れて降伏しました。雌伏する勾践に仕え、呉王夫差を討って「会稽(かいけい)の恥」をすすがせた忠臣が范蠡です。
 つまり、児島高徳は、自分を 范蠡になぞらえて、自分の気持ちを後醍醐天皇に伝えようとしたわけです。

 児島高徳についての記述は『太平記』にしかなかったために、一時は架空の人物とする説もありましたが、現在では実在説が有力になっています。

(二木紘三)

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コメント

小学校時代、この歌の歌詞について、担任の先生が熱っぽく説明、教えてくれたことが懐かしく思い起こされます。
その後「太平記」を読み、現地を訪ねたこともあります。
その先生も今はおりません。
名曲だと思います。

投稿: 柾木 忍 | 2007年9月13日 (木) 17時09分

 児島高徳の物語は知っていたのですが、どうも曲の方が手に入らなくて……
 耳なじみの良いいいアレンジですね。男らしさのあって哀愁漂う曲調が好きです。

投稿: 自称文学青年 | 2007年12月30日 (日) 18時35分

小四の学芸会でこの歌をオルガンで弾きました。
その頃独身の叔父が教えて呉れました、この歌の替歌に「天保銭(テンポウセン)(八厘硬貨)を空しゅうするなかれ、時に半銭(ハンセン)(五厘硬貨)なきにしもあらず」(あんたは私の事を「八厘・八厘」の智恵足らずと馬鹿にするが、世の中には「五厘」位のやつもいるじゃないか)を大声で歌いました。昭和初年には未だ天保銭も五厘硬貨も通用していましたっけ。

投稿: 末廣照男 | 2008年6月 8日 (日) 06時13分

高齢者サロンで昔の唱歌や童謡・戦時歌謡にラジオ歌謡を毎月49歳の私が選曲してテープに吹き込み歌ってもらっています。
「児島高徳」を選ぶ時、皆さん知ってるかなととても心配しましたが、なんととても喜ばれました。
やっぱり小学4年の時、学芸会でやったという方がおられました。
戦時中の教育がいろいろ分かって、私も勉強になります。

投稿: 佐野典子 | 2009年6月 4日 (木) 21時00分

「児島高徳」
重厚な名曲ですね。高齢者施設にて、ボランテイアに参加しながら、いつも愛唱し、いつも感激しています。

もうこういう名曲もだんだんに、デクレッシェンドの
ように消えていくのでしょうか。
知っている方だけでも、大事にしたい唱歌ですね。

投稿: 鬼島三男(きじまみつお) | 2010年3月14日 (日) 09時41分

幼少の頃から児島高徳先祖にあたる家柄なんだよ・・・と父から聞かされています

投稿: 児島 佳代子 | 2011年11月 8日 (火) 22時42分

永らく特養老に入所していた母が90歳の頃時々歌っていました。歌うと言っても息が続かなくてかすれ声でほんの1~2フレーズだけでした。私も色々調べてやっと歌えるようになりました。機嫌よいときに一緒に歌ったのです。相部屋にやはりお年寄りが入居していましたが歌っていると面会にくる女性がいかにも迷惑そうな顔をするので帰るのを待って歌ったのです。尋常小学校の校舎や教室などは高峰秀子の「二十四の瞳」などでわかりますが後を継いで建て替わった母の郷土の小学校も既に廃校になっております。時の流れをつくづく感じる毎日です。

投稿: 林 滋 | 2014年4月 2日 (水) 18時15分

岡山県民謡に「忠義ざくら」(三門順子・斎藤京子)がありますが、
上原敏さんの「桜樹の詩」もあります。

♪高徳が刻みし桜今は無く 史跡訪ねる人は疎らに なち

投稿: なち | 2014年4月 2日 (水) 19時30分

国道二号線上にある船坂峠は今でも難所で知られる。ここをまたぐ国鉄山陽本線上郡・三石間は駅間12.8キロも離れており(山陽本線の平均駅間は4.2キロ)人跡まばらな山間部を貫いて走っている。
ここから尾根伝いに杉坂峠までよく踏破したものである。両峠とも訪問したことがあるが、昔伯耆の殿様が参勤交代に越えたという杉坂峠は往年の面影なく、行き交う車もまばらであった。(万能峠開拓以来往来が激減したそうだ)

投稿: 遠藤チュウ | 2020年9月 1日 (火) 00時04分

末広照男様
13年経ってからのコメントですみませんが、『天保銭』のバリアントです。『少年倶楽部』のユーモア小説の一節にあったものだと思います。
「天保銭をむちゃくちゃにするなかれ/時ハンペンなきに塩辛」
末広様の叔父上の替え歌のように高尚ではありませんが、替え歌らしい音合わせで、ハンペン、塩辛と下世話に飛躍するのがおもしろく、今もときどき口ずさみます。なお、私は昭和一桁生まれですが、天保銭が(8厘で)通用したとは知りませんでした。5厘硬貨というものは見たことも聞いたこともありませんでした。

投稿: dorule | 2021年7月 1日 (木) 12時38分

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