高原の旅愁
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 むかしの夢の 懐かしく |
《蛇足》 昭和15年(1940)5月、コロムビアから発売。『湖畔の宿』のB面でしたが、若い人たちに愛唱されたそうです。
伊藤久男は明治43年(1910)生まれ。帝国音楽学校でピアノを学び、昭和8年(1933)にコロムビアの専属歌手となりました。
なかなかヒットに恵まれませんでしたが、昭和15年(1940)に『高原の旅愁』がヒットし、一流歌手の仲間入りをしました。
大戦中は『暁に祈る』『熱砂の誓い』など軍国歌謡を歌いましたが、戦後は『イヨマンテの夜』『オロチョンの火祭り』などの勇壮な歌や『あざみの歌』『山のけむり』などの抒情歌謡をいくつも歌いました。
昭和58年(1983)没。
1番の5行目にあるような「かの君」とか「かの人」といった言葉は、近年の歌謡曲ではさっぱり目にしなくなりました。
『酒は涙か溜息か』の2番「遠いえにしのかの人に」、『誰か夢なき』の3番「あわれかの君今在(ま)さば」、『悲しき竹笛』の4番「風よ伝えよかの君に」のような、思慕する人を婉曲に表現する言葉が使われなくなったのは、ちょっと寂しい気がします。
(二木紘三)
コメント
昭和30年代の終わり頃かとおもいます 飯田線の温田駅で中国からの
一時帰国の人をこの歌を唄いホームで送っていたのを思い出します
ここは満州に多くの人が移住し満州に向かった駅と思います
聞くたびに座席の角に座った女性を想います
投稿: okuada | 2007年9月 7日 (金) 14時21分
「MIDI歌声喫茶」~~【二木絃三のうた物語】とニューリアルされ、綺麗な画面になって音質も素晴らしく嬉しく拝聴しております。
以前にお願いしました「誰か夢なき」も~~有り難うございました。
累計(09502124)凄い数字となりまして慶賀に存じます。
名曲【高原の旅愁】を聞きながら~~当時18才位の頃で『暁に祈る』『熱砂の誓い』等の軍国歌謡が隆盛の頃でしたから友人と秘かに歌ってたのを思い出しています。
馬齢を重ね(85才)になり懐かしきメロディーをメデイアの発達と併せて元気で聞ける喜びを噛みしめています。有り難うございました。
~<謝_(._.)_謝>~
京都(1922年生まれ)
投稿: 大宮賢三 | 2007年12月13日 (木) 18時11分
昭和十八年十一月二十八日の夜でした。我が家で、両親と妹達、それに親戚や隣組の人達が集まって、学徒出陣で、明日の夜行列車で広島へ向かう私のために、ささやかな壮行会が開かれました。
その酒宴のさなか、そっと席を発った私は、ハーモニカを持って誰もいない暗い裏庭に行き、もう生きてこの家に帰って来ることはあるまいと心に深く思いながら、大好きだった「高原の旅愁」を吹き鳴らしました。
しかし、気がつくと、日頃から尊敬していた伯父が後ろに立っていました。そして、伯父は「生きて帰って来い。死んではならぬ」と私の肩を叩きました。
「高原の旅愁」は、その年の秋、同じ学徒出陣の二人の友人と共に、群馬県の沢渡温泉に一泊し、翌日、榛名湖とその周辺の高原を歩いた懐かしい旅の思い出と深く結びついています。
幸いに私はフィリピンから生還しましたが、二人はどうなったことか、終戦後今日まで、ついに連絡の取れないままに終わっています。
投稿: 石田福蔵 | 2008年1月 3日 (木) 18時27分
6年前自身の不始末から退職した私は、友人の世話で8月から12月まで長野県伊那谷のりんご農家の手伝いをしました。
失意の私は、たくましくもやさしいご夫婦にめぐまれ、中央、南アルプスの眺めのすばらしいりんご園で働くうちに力を取り戻したのでした。
休日には近くの山に登ったり、雪煙の舞う赤石岳を臨む高原に紅葉狩りに連れて行ってもらったり、温泉に行ったり本当によくしてもらいました。
帰郷するとすぐに新しい仕事が見つかり今日に至っています。
その後は年に一度は訪ね、手伝いをすることにしていますが、去年今年と続けて身内の慶弔で行けませんでした。
この歌を聴くたびに、伊那の山や小川の風景が目に浮かび行きたくて堪らなくなる私です。
投稿: 内倉功 | 2008年1月 4日 (金) 13時31分
何時も素敵な歌を有難う御座います。この曲は私が生まれた1年前に出来たのですね、感無量です。ところで後年同じ作曲・歌の「山のけむり」私にはこの歌のアンサーソングと思えて成りません、皆さんは如何ですか。
伊藤久男の歌は大好きです。子供の頃、あのいかつい顔で良くいい声が出るなと感心していました。多くの歌を歌っています、たとえば「サロマ湖の唄」「サビタの花」「イヨマンテの夜」「ブラジルの太鼓」等々です。もっと聞きたいと言うのは、私だけですか。
投稿: von Nomisky | 2008年2月 1日 (金) 23時49分
von Nomisky様
「山のけむり」はこの唄のアンサーソングだとおっしゃておられますが、そう言われればそうかなと思います。
「イヨマンテの夜」声量がないのでこの歌だけは唄えません。
投稿: M.U | 2008年7月 3日 (木) 19時12分
伊藤久男の「高原の旅愁」、タイトルは知っていましたが、これほど美しいメロディーとは感じておりませんでした。
この2月からBGM代わりに掛け捲っておりましたが、5月にCDを買い求めてしまいました。オリジナルはもっと素晴らしかろうと。
しかし、結果は豈図らんや、情感を沸き立たせる演奏等こちらには、かないません。
結局CDは2回程でお終い、またこちらのお世話になっています。
投稿: 山ちゃん | 2008年7月 8日 (火) 20時43分
この歌は失恋女性の心情を心なごむ詞に表したのですね。(現在では女性に対して君と言うので勘違いしそう
ですが)「わかって下さい」この詞も女性心理ですね。
「山のけむり」は出会ったばかりの男女なのでアンサーソングかしら。しかし他に見つかりません。暫くお待ち
下さい。
投稿: 海道 | 2009年1月 3日 (土) 20時28分
アンサーソングとしては「リラの花咲く頃」はどうでしょう?(岡本敦朗)
投稿: 海道 | 2009年1月 4日 (日) 21時47分
人は皆恋に破れると信州に逃げて来るのでしょうか。そういう魅力が有るのでしょうね。よく他人に信州はいい所ですねと言われます。冬の信州を知らないから。
投稿: 海道 | 2009年2月23日 (月) 10時58分
いい歌ですね。学生時代に同じ下宿生が上手に唄っていました。ニックネームは歌手。こんな感じでした。
http://www.youtube.com/watch?v=YeADCjb-hFU
投稿: PHOENIX | 2009年7月26日 (日) 23時08分
二木先生おはようございます。
私は1944年生まれですから先生より2歳後輩になります。
信州伊那市に住んでおります。
先日ボランティアでやってます歌の会で上田遠足をしました。
楽しみにしていました上田電鉄別所線で春原駅長さんのハーモニカに合わせて歌う事も出来ました。
一番最初は、なんと歌の会の会歌に決めてあります「ふるさと」でした。
二番目に「高原の旅愁」が来ましたが、以外と知らない人が多くてびっくりしました。
もう5年前に亡くなった高峰秀子さん似の母が口ずさんでいて私は知らずに覚えていました。
とても好きな曲のひとつです。
投稿: タンタン | 2011年6月 5日 (日) 06時32分
二木先生 いつも楽しく懐かしく拝聴、拝見させて頂いております。本当にありがとうございます。
さて、『高原の旅愁』を開けたところ、歌詞と先生の蛇足が表示されておりません。他の歌は表示されているので、この曲だけおかしいのかと思い連絡させて頂きました。
投稿: コタロー | 2012年2月24日 (金) 11時52分
この歌は昭和15年ですから私は未だ生まれていません。八州先生作曲、伊藤久男唄の我が信州の名曲だとは思いますが流行った頃を知りませんので肌で憶えていないのです。そう言う歌は唄えても何処となく不安になるものだと思ってしまいます。このサイトで練習しろ。それは賢い。でも画面に向かって音痴で伊藤久男風に唄ったら近所から〇〇家の爺ちゃんこの頃少し変とクレームがつきそう。
投稿: 海道 | 2012年9月14日 (金) 16時25分
私は何故、いつまでも青春時代を引きずって生きているのだろうと考えています。彼と歩いた思い出の道、話した言葉が鮮やかに甦ってきます。甘い感傷ではなく、深く沈みこむような虚しさに襲われるのはなぜでしょうか。この歌を聴くたびに淋しさが胸にあふれてきます。もう半世紀以上も過ぎているのに、伝えたい言葉が一杯あるのに、月日だけは無情に過ぎていきます。生きていてほしいと願うばかりです。皆様もどうぞ誰かの思い出の為に生きていてください。
投稿: ハコベの花 | 2016年3月 4日 (金) 23時39分
わたしは、この歌のメロディが嫌いではありません。むしろ、好きな方です。しかし、抒情歌の「八洲秀章」のメロディとは異質なものを感じていたので、ちょっと調べてみました。
すると、この歌がリリースされた当時(昭和15年)の原盤では、作曲家名は「鈴木義章」となっていることが分かりました。本名の「鈴木義光」でもなく、ペンネームの「八洲秀章」でもないのです。かれが「八洲秀章」を用いるようになったのは、昭和14年のことのようです(くわしくは「さくら貝の歌」の《蛇足》をご覧ください)から、この歌がリリースされる前のことです。とすると、当然、この歌の作曲家は「八洲秀章」でなくてはなりません。なぜ「鈴木義章」なのでしょうか。これからは、わたしの独断的推察です。
実は、この歌がリリースされる前に、あの「さくら貝の歌」が出来ていたのです。原盤には「八洲秀章」のラベルが貼ってあったはずです。ところが、かれの渾身の力作も、戦時下という状況から不運にもお蔵入りになってしまいました。失意の底にあったかれに、次に課せられたのがこの歌だったのででしょう。関沢潤一郎の作詞も、わたしの目には、傷心の女性を癒す信州の自然を描いて、決して悪い詞だとは思いませんが、初恋の女性を失い、それに追い打ちをかけて、レコードの発売中止という悲運なかれにとっては、ただ懐かしい信州の風景を歌った、通り一遍の失恋の詞のように感じられたのではないかと思います。そうであれば、一般受けする演歌調でいこう、いやそれは社命でもあったでしょう。こうして出来上がったのが、この歌のように思います。かれにとっては、不本意な歌だったのです。ですから、この歌は「鈴木義章」という別人がつくったことにしたかった、ということではないでしょうか。
では、なぜ後に「八洲秀章」にしたかです。これも憶測の域を出ませんが、一つはかれの予想に反してこの歌がヒットしたこと、もう一つは、初恋の女性の死の痛みから、少し抜け出せたからでしょう。時間のなせる業のように思います。
投稿: ひろし | 2016年3月 9日 (水) 15時11分
私はこの歌が八洲秀章だとは知らずに聴いていました。抒情歌でもなく演歌でもない歌だと思っていました。楽譜が全く読めませんので感覚でしかわからないのですが、あざみの歌にもそんな感じがします。演歌に近い感じがします。歌詞に対してもう少しサラッとした曲なら良いのにと昔から思っていました。この歌が好きな方からお叱りを受けそうですね。好みの違いですからお許しを。
投稿: ハコベの花 | 2016年3月 9日 (水) 21時24分
間を置かずのコメント投稿ご容赦ください。
ひろし様の「ご推察」多分に大当たりだと思います。
世は正に戦時色濃厚たらんとする頃、軍の圧力、社命など、曲調は歌詞と違和を感じるほどアップテンポ。
伊藤久男の唄で馴染んだこの曲の作者が八洲秀章だったとは…、不覚でした。 言うならば、『流行歌謡』の八洲版。 ハコベの花様と同じく本日初めて知りました。
伊藤久男のハリのある歌声は、この後『軍国歌謡』のオファーを受けていくことになるのですね。
投稿: かせい | 2016年3月10日 (木) 01時26分
、高原は「かの君」を思い出す場所なのでしょうか。この歌を聴いたのは中学3年ぐらいだったと思います。信州の高原には素敵な恋が待っていると思い込んでしまいました。ずっと憧れていたのに一度も出かけたことがありません。高校の夏休みに毎年登山の募集があったのですが、心臓が悪いと思い込んでいましたので行ったことがありません。今も恋を懐かしむ所だと思っています。足が元気なうちに一度訪れてみたいものです。ただ、夫とは行きたくないのです。ロマンのかけらもないからです。つくづく自由が欲しいと思います。自由を私に!!
投稿: ハコベの花 | 2017年3月 9日 (木) 23時59分
毎年6月の第一日曜日は、八ヶ岳山麓 甲斐大泉のペンションで青春時代を共にした仲間達との同窓会各地から15~20名近くの仲間が集まり、夜の更けるのも忘れて若かりし頃の思い出や青春談義に花が咲きます。
そして、時には誰からということもなく古い懐かしい歌を口ずさみ始め、やがてみんなで
鼻をすすりながら、涙しながら歌ったことも何度もあります。
過ぎにし夢と 思いつつ
山路下れば さやさやと
峠吹き来る 山の風
胸に優しく 懐かしく
…
なんともノスタルジックな気持にさせられてしまいますね~。
30数年も前に、妻と二人で穂高の大雪渓を眺めながら歩いた河童橋から明神池への新緑に覆われた森の小道を思い出します。
あの頃は、二人とも背筋もしゃんとして、腰痛なんて関係なかったけどな~トホホ(@_@)
投稿: あこがれ | 2017年5月27日 (土) 13時21分
なんだか 今日は無性に ロマンチックな気分に浸ってみたい気分です。
2~3日前に見た ロバート・テーラー ビビアン・リーの切ない別れ 「哀愁」の残像が消えないまま 「ーーうた物語」に入り込んだせいかも知れません。
舞台がWaterlooであれ、高原の宿であれ、別れた人を偲びながら一人佇む男の心境に思いを馳せながら、この歌を静かに聞いていると、なぜだか涙が溢れそうになります。
旅愁という言葉だけでも、リリカルな感情が湧いて来るのに、そこが高原であれば その感情は 尚一層高まってくるものなのですね。
嘗て、安曇野から眺めた常念岳、梓川沿いに焼岳、河童橋からの穂高と大雪渓、大正池や明神池、嘉門次小屋のことが、懐かしく思い出されます。
登山は出来ませんでしたから、下界から眺めて憧れただけですが・・・。
投稿: あこがれ | 2018年3月16日 (金) 13時42分
『哀愁』4回は観たと思います。最後に観たのは昭和37年の6月23日だったと思います。彼を浜松駅のホームで見送りそのまま家に帰る気持ちになれず、映画館に入りました。『哀愁』でした。別れを告げた時、彼の目に涙が光っていました。橋の上でテイラーがビリケン人形をもってビビアン・リー忍んでいる姿と重なりました。4年3ヶ月の付き合いでした。段ボール箱2杯の手紙が残りました。握手すらしないで別れてしまいました。そのころ今の夫に付きまといをされていました。逃げ道がなく次の年に結婚しました。後悔ばかりの生活だったような気がします。母が生きていてくれたら全く違う人生があったと思います。『高原の旅愁』は私が初めて聴いた恋の歌でした。その当時、高原にはロマンがあると思っていました。今でも彼と歩きたかったと思いは募ります。過ぎてしまえばすべてが夢ですね。胸に優しく 懐かしく・・・ああ 青春、涙とともに。
投稿: ハコベの花 | 2018年3月16日 (金) 21時05分
はこべの花 様
私は何故、いつまでも青春時代を引きずっているのだろう・・・(2016・3・4 はこべの花 様 コメント)
4年3ヶ月の付き合いで、ダンボール箱2杯の素晴らしい思い出だけを残して、握手すらせずに別れていった彼・・・。
まるで、中河与一の「天の夕顔」の一シーンを思わせるような、切なくも悲しい はこべの花様の思い出に胸が熱くなってきます。
どのような事情で 別れなければならなかったのかは、知る由もありませんが、
心と心で抱き合った二人が、
その一歩手前で踏みとどまらなければならなかった痛々しい 若き日の純粋な恋の思い出は、
胸に迫るものがあり、
私にとっても、ほろ苦く甘い、忘れられない遠い日の記憶を鮮明に呼び覚ましてくれます。
若い日には、何度となく、恋心を抱いたり、悩んだり嘆いたりしたことはありますが、振り返って 生涯わすれることは無いであろうと、思えるような恋の体験がある人は幸せだ・・・と、思います。
投稿: あこがれ | 2018年3月16日 (金) 23時40分
あこがれ様 ハコベの花様のコメントに誘われて今、しみじみと二木オーケストラの心に染み入る名演奏に中学時代の彼女との片思いで、一度も個人的な話をしないまま離れ離れになり半世紀以上も過ぎ去ってしまった・・・今頃、彼女は元気でいるのかな?
フルネームとその当時の彼女の笑顔が浮かんぜ来ます。
振り返って見れば、在学中に思いきって彼女に一度でもいいから声をかければよかったと・・・
でも、それで良かったのではと思う時もあります。
ちょっぴり寂しい気持ちもしますが、17歳当時の淡い初恋の想いを心の小箱の中に大事に忘れないようにと思う今日この頃です。
投稿: 一章 | 2018年3月17日 (土) 10時43分
このサイトで初めて知った曲です。私の生まれる9年前の昭和15年に作られました。にもかかわらず、どこかで聞いたことがあるようななつかしいメロディーと心に響く確かな歌詞に、しばし酔いしれます。
『高原の旅愁』、うーむ、おおげさな歌の題ではあるが、なんときれいなメロディー、誰の作曲かな、ああやっぱり八洲秀章先生か、そうだろうな・・最初の印象です。
歌詞の中では
山路下れば さやさやと
峠吹き来る 山の風
が胸にぐっとくる。
もっと字句を絞っていえば「さやさや」です。
若い頃、よく山歩きをしました。下山の時に体に受ける山風や谷風の心地よい感触が「さやさや」の言葉に蘇ってきます。
昭和21年発売の『旅役者の唄』の歌詞にも
雲が流れる 今年も暮れる
風にさやさや 花芒(はなすすき)
と「さやさや」が出てきます。西條八十氏も『高原の旅愁』の「さやさや」をいい言葉だなと記憶の底に沈ませていたのかもしれません。そういう勝手な想像が、私のささやかな楽しみです。
しかし『高原の旅愁』の
清水ほろほろ 湧くばかり
の「ほろほろ」は、何度くり返して口ずさんでも、なにか少し変な感じがします。
ほろほろ湧き出る清水とは?しかし清水チョロチョロではもっと変です。自噴水といって勢いよく上がる清水もありますが、そうなると、乙女の失恋の旅とはマッチしません。
関沢潤一郎氏も、もしかしたら、この箇所に頭を痛めたかもしれません。
投稿: 越村 南 | 2019年5月29日 (水) 21時05分
昨年、ある方にこの曲を教えて頂きました。YouTubeで初めて視聴した時、背景には信州の山々、若々しい高峰三枝子、佐野修二といった方々が。きれいな言葉、メロディーが心地よく、以来口ずさむようになりました。年末年始に帰省した折に大正12年生れの実家の母にスマホで聞かせたところ懐かしそうに歌い出しました。「乙女の胸に 忍び寄る~♪」昭和15年のリリース当時、母は乙女だったんだ!と当たり前のことなのに何だか胸に迫るものがありました。歌好きの母は父親(私には祖父)から「歌にはストーリーがある。子供に教える時は3番まである歌は1番から3番まで通して教えろ」と言われたと。確かに母は童謡、唱歌を3番まで唄ってくれていました。乙女の頃、母は「高原の旅愁」もフルコーラスで唄っていたのでしょう。「~明日の希望を 囁くよ」良い歌を教えて頂きました。
投稿: 菊理媛 | 2020年4月 7日 (火) 09時38分
「湖畔の宿」のB面の曲だったのですね。いやあB面とは思えない、とてもいい曲です。
コロナウイルスで世界中が少し沈んだような、現在の空気の中で、この曲のメロディーが時々おもいだされ、元気になります。
私は今、ベトナムで聞いています。もう住みついて10年が過ぎようとしています。
この曲は私の生まれた昭和24年より10年近くも前の曲なのになぜか強く心が惹かれます。
やはり八洲秀章のメロディーだなあ、とかみしめながら聞いています。
戦後の父母の世代に愛された歌なんだろうと、あの世代の几帳面さ、気まじめさを思いながら・・
はじめは歌詞に惹かれていましたが、やはりメロディーがいいんだなあと思い、いやいや歌詞もすばらしいと思いなおして、両方がいいのだと聞いています。
山登りが趣味だった若き時代を思い出させてくれ、信濃路にあこがれている今の気持ちも満たしてくれる、私のとって貴重な曲であります。
投稿: 越村 南 | 2020年4月24日 (金) 00時22分
心地良いメロディーですね。癒されます良いですね~。
特に"あざみの歌"など馬齢重ねても癒されてたまりま
せんね。
頑張りましょう。悪疫コロナと戦いましょう!。
投稿: 権兵衛 | 2020年4月24日 (金) 21時08分
歌詞に心惹かれ、作詞の関沢潤一郎さんのことを知りたくなり、「水郷詩人・関澤潤一郎論」(小野孝尚)を見ました。この歌は高原で悲しい様子の娘さんを見かけ、作ったとのことです。3番に心優しい作詞者の、その女性へのいたわりが現れていると思います。関沢潤一郎さんは詩集を出しておられ、幼い頃のことを書いた詩「母と紋白蝶」に、作者の妹へのみやげにとげんげ田に入ってげんげをつむ母親の微笑みを「幼ごころに そんな母の姿を美しいと思った」とあり、母と子の可憐な姿を描く可憐な詩だと思いました。
投稿: kazu | 2024年7月 9日 (火) 09時38分
Youtubeで「高原の旅愁」を検索すると、八洲さんと娘さんの松村美和子さんとの親子写真と共に、松村さんが歌った「高原の旅愁」を聴くことができます。お試しください。
投稿: ジーン | 2024年7月17日 (水) 10時58分