国境の町
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:大木惇夫、作曲:阿部武雄、唄:東海林太郎
1 橇(そり)の鈴さえ 寂しく響く 2 故郷はなれて はるばる千里 3 明日(あす)に望みが ないではないが 4 行方知らない さすらい暮し |
《蛇足》 昭和9年(1934)リリース。この年、室戸台風が阪神を直撃し、全国で死者・行方不明者3036人、全壊・半壊・流失家屋8万2000戸あまりという大被害を出しました。
また、東北地方が大凶作に見舞われ、窮乏による自殺・行き倒れ・娘の身売りが続出しました。
アメリカからベーブ・ルースを主将とするプロ野球団が来日したのも、この年でした。対戦した日本側チームがいずれもボロ負けするなかで、18歳の沢村栄治投手が、静岡県草薙球場で大快投を演じました。
1対0で負けはしたものの、1回から4連続三振、6回まで被安打2という、当時の彼我の実力差を考えると、奇跡的ともいうべき成績でした。
四方を海に囲まれているうえ、長い間鎖国してきた日本では、一般国民が「国境」を意識することはほとんどありませんでした。
日本人が国境を体感するようになったのは、明治政府が大陸に向かって侵略的進出を開始してからです。その波の先頭には軍人と、国策に乗じて利益を得ようとする民間人たちがおり、そのあとに国内における閉塞状況から脱したいと願う庶民が続きました。
庶民の閉塞状況は、ほとんどの場合、経済的困窮によるものでした。
この歌の背景には、そうした社会状況がありました。
(二木紘三)
コメント
遠い遠い少年時代、この歌を聴き,過ごした日のことが昨日の如くに思い出されます。東海林太郎の直立不動の姿勢とともに、、、、。
その後2番の歌詞を実感するとは夢にも思いませんでした。
名曲だと思います。
投稿: 柾木 忍 | 2007年9月13日 (木) 16時54分
諸事情で中国に置き去られた同年輩の方々と共に歌いたいような気持ちにもなる歌詞で、今年も来日中の数名の朋友に贈りたい詩でもあります。
戦中から戦後、国内で過ごした我らも、そして外地なかんずく中国で幼少時を過ごさざるを得なかった同期の同胞たち・・幸あれとエールを贈りたいと思います。
投稿: 松浦 明 | 2007年11月17日 (土) 21時57分
数年前、私は日本語ボランティアの一員として、旧満州、中国吉林省延辺朝鮮族自治州のどんずまりで、北朝鮮との国境の町「図門」に行きました。図門大橋の橋の真ん中に赤い線が引いてあって「辺境線」(「辺界線」?)と書いてあります。線の向こうは北朝鮮です。
私達は線をまたいで写真を撮ったりしました。中国側に兵士が一人立っていますが、見てみぬふりです。有料の観光地になっているのです。北朝鮮の将軍様のグッズやたばこなどを売る店もあります。
我々の中に、先の戦争のとき隣街の「琿春」から、親に手を引かれて命からがら日本に逃げ延びた人がいました。彼はその当時まだ4^5歳だったようです。生まれた土地に帰ってきて、そのことを団長に話したら、そこの街の名士にも合わせてもらい親切にしてもらい、大感激でした。
帰りの船でのカラオケ大会で、彼が胸を詰まらせながら歌った「国境の町」を聞くと、彼を思い出します。
投稿: 吟二 | 2008年9月 3日 (水) 23時39分
83歳の老人男子です。最近子供の頃に耳に残った大正・昭和の歌のテープをマイカーのプレーヤで聞いて、この「国境の町」のメロディがとくに身にしみます。さてこの「国境の町」場所はどこなのか 知りたいのです。誰かご存じ方教えて下さいる。終戦直前軍学校で渡満中私は旧満州安東で終戦を迎え8/16日鴨緑江を渡り、早くに日本に帰国しました。なにか説明を聞いていると、この「国境の町」が旧安東か、北の図門のようでもあり分かりません。教えて下さい。
投稿: 野原 繁三 | 2009年7月 4日 (土) 21時32分
野原様
下記のような記事がインターネットにあります。ご参考までに。
綏芬河〜虎頭
さすがにこの町は国境の町であり異国情緒漂う町だ。 ... 東海林太郎のヒット曲「国境の町」は、この綏芬河が舞台と言われている。 国境の町. 東海林太郎歌. 大木惇夫 作詞. 阿倍武雄 作曲. 橇の鈴さえ 淋しくひびく. 雪の荒野よ 町の灯よ ...
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akashids/ryokou/kotou/futou18.html
ちなみに、この「綏芬河」(すいふんが/Suifenhe)は、中国黒龍江省南部に位置し、東をロシア沿海地方と27kmにわたって国境を接しているそうで、現在はハルピンについで発展しているそうです。
投稿: 吟二 | 2009年7月 5日 (日) 08時07分
吟二さま
思いがけず早速のお知らせ大変有り難うございました。「国境の町」の舞台が丹東(安東)では雰囲気が出ないとおもっおり、「綏芬河」(すいふん)ならピッタシの感を受けます。軍の先輩が「綏芬河小唄」を歌ってくれたことがあり、いま西条八十の「綏芬河小唄」の冒頭に「流れ流れて綏芬河」とあり、多くの兵隊さんや軍人も含めて行きたくない厳しい最果ての町のようで、この「国境の町」の歌が生まれたのでしょう。適切な別のURLもご紹介下さり、国境の要塞「虎頭」の大戦最後の激戦も恥ずかしながら今頃知りました。ちなみに私はソ連参戦まで牡丹江の南・東京城・軍・飛行場に居ました。
投稿: 野原 繁三 | 2009年7月 5日 (日) 16時16分
二木先生
この曲は昭和28年に職を変えて東京から北海道へ移って来たときの思い出です。
明け方洞爺丸が函館に近づいたときに、スピーカーからこの曲が薄暗い船室に流れました。外はまだ明け切っていませんでした。遠くへ来たものだという気持ちと、想いを断ち切ってきた人を思い、深く沈んだ気持ちになったものです。
翌年洞爺丸は15号台風で沈み、遺体の死体検案をしに函館へ行き、あのときのことを思いだしました。
今でもあのときの寂しいメロディーが忘れられません。
投稿: 遠藤雅夫 | 2010年5月21日 (金) 10時30分
私は昭和16年綏芬河で軍人の子として生を受けました。この歌は最も好きな歌の一つでカラオケで時々歌って同僚から古い古いとよく言われました。この「国境の町」の歌が綏芬河が舞台だったことは知りませんでした。そう言えば今92歳で施設にお世話になっている母が東海林太郎だったか「緑の地平線」の楠繁夫だったか忘れましたが慰問に来たとか言っていたのを覚えています。いずれもいいメロディーですね。それにしてもこのサイトへのアクセス数が2千万件を超えているとは驚きです。
綏芬河といえば「綏芬河小唄」をかって浅丘雪路が歌っていたのを聴いたことがあります。
投稿: 小林祐一郎 | 2010年12月 6日 (月) 19時33分
この欄で皆様方の懐旧あふれる思い出を懐かしく拝見しております。子どもの頃から何度となく耳にした『国境の町』ですが、私がイメージにした国境とは満州の西の果て、ロシアとの国境『満州里』だろうと漠然と考えておりました。実際には綏芬河であったとのこと。綏芬河といえばその東には興凱湖、さらにその東はウラジオストック。寒冷の地が思いやられます。私は昭和23年生まれです。
投稿: 乙女座男 | 2012年7月29日 (日) 16時28分
田舎の中学に入ったときはまだ「戦時中」、歌と言えば軍国歌謡がほとんどで、時たま耳に入るロマンチックな「流行歌」に軍国少年は胸を揺すぶられるのでした。「国境の町」もその一つですが、東海林太郎が歌った、というような情報はずっと後になるまでなにも知らず、ただ、誰にもにらまれる心配なしに歌えるいい歌、なのでした。
ところで、成人してから知った大木敦夫作詩は四節構成で、三番に:
明日に望みがないではないが
頼み少ないただ一人
赤い夕日も身につまされて
泣くが無理かよ渡り鳥
とあります。私の聴ける音源では掲載されている歌詞のとおりで、この三番がないのですが、最初から省略されていたのでしょうか。歌と同じ長さの間奏が入っていますから、SP盤のためには長すぎるというわけではないようです。私の気に入っている歌詞なので、省略〈削除?)された事情がお分かりでしたらお教え頂ければありがたいと思います。
投稿: dorule | 2012年12月14日 (金) 15時05分
dorule様
3番を追加しました。
この歌にかぎらず、4番以上ある歌は、歌集では編集の都合上いずれかの聯が省略されることがよくあるようです。私がこのmp3を作ったとき使った歌集にも3番までしかありませんでした。
レコードや放送では、できが悪いと目された聯が飛ばされてしまうケースがままあるようです。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2012年12月15日 (土) 00時35分
管理人様
さっそく3番を入れてくださいましてありがとうございます。私のつまらぬコメントに応じて、歌詞ばかりか演奏の方まで作り直していただき、まことにおそれいります。レコードで省略されていることに特別深い意味はないのですね。しみじみと聴きながら、「〜泣くが無理かよ渡り鳥」と声を合わせました。
投稿: dorule | 2012年12月16日 (日) 11時48分
昭和時代の数ある流行歌の中でも名曲中の名曲だと思います。東海林太郎さんが直立不動の姿勢で唄われていた姿を今でも想い出します。小生、時折、昭和初期の「蓄音機」で、SP盤でこの原曲を聴きタイムスリップしたような気分になっています。昭和期のSP盤にご興味があられる方がいらっしゃいましたらご意見等拝聴できましたら幸いです。
投稿: 一章 | 2015年7月24日 (金) 21時57分
早いものでこの曲に投稿してから丁度1年が経過しました。
曲目一覧を見ていたらいつの間にかこの曲を開いていました。
名曲はいつ聴いてもいいものですね!
来年は、喜寿を迎える後期高齢者ですが、60歳定年退職後、普通車の免許を取得、現在、弁当・食材等の宅配の業務を・・・1日の走行キロ、平均して74キロほど・・・
私の元気の源は、晩酌に芋焼酎を飲み、このサイトを開き、多くの愛好者の方々のコメントに癒されていることです。
明日も頑張るぞ!
投稿: 一章 | 2016年7月25日 (月) 21時49分
東海林太郎さんは、私の母が大好きでした!
一章様が仰るとおり、直立不動の姿勢で歌われるお姿と独特な髪形も素敵だと言っていました。亡くなった若い頃の母がよく口ずさんでいた影響もあり、幼なかった私も、国境の町 赤城の子守唄など、いつしか覚えていました。その頃を懐かしく想い出します。
一章様は、昭和初期の蓄音機とこの曲のSPレコードをお持ちなんですね!今となっては、とても貴重で、しかも鉄針の独特な音で、レトロ感を味わっておられる事と思います。私もレコードは数持っていますが、すべて EP LP ばかりで、78回転を使用した事がないので、チョッピリ羨ましい感じもします。SPレコード盤は少し大きく、少し分厚く重いと聞きますので、東海林太郎さんの歌など聴かれる時は、何とも言えない雰囲気を楽しんでおられるのかと察します。
今年喜寿になられて、なおかつ一日平均74キロも車を走らせておられるというそのお元気でご健康なご様子も嬉しく思っています。
投稿: 芳勝 | 2017年11月15日 (水) 15時55分
芳勝 さま
心のこもったご丁重なコメントありがとうございます。
そうですか、芳勝さまのお母さまがお気に入りの歌だったそうですが、私も、戦前期の流行歌の中でも特に、東海林太郎が唄うこの「国境の町」は、聴く者の心を揺さぶり、そして、癒してくれた名曲の中の一曲だと思います。
阿部武雄の名旋律といい、作詞の大木敦夫は、北原白秋の詩に深い感銘を受けただけあって、二木先生の蛇足にあるように「国境の町」のイメージにぴったりだと思います。
SP盤で聴く「国境の町」・・・針音がジージーとしますが、そこが蓄音機で聴く醍醐味だと思います。
いかにも、目の前で「東海林太郎」本人が唄っているようで、流行歌手になる前は、クラシックを目指していただけに、お腹の底から歌い上げる声量に圧倒されるようでした。
でも、この曲を「うた物語」で最初に聴いたときは、蓄音機で聴く雰囲気とは違い、二木先生の見事なアレンジとともにリズム感溢れる軽快な演奏に暫しパソコンの前に釘づけとなり、何度も繰り返し聴いたものでした。
これから、秋も深まり寒さも一段と増してくると思われます。
お身体には、充分にご自愛くださいますように!
コメントありがとうございました。
投稿: 一章 | 2017年11月16日 (木) 21時23分
旧・満洲で生まれ育った(S12生まれ、S21秋引揚げ)私にとって、「国境の町」は子供のころの郷愁を思い起こさせる歌の一つです。
旧・満洲に関連する歌は数多くあると思いますが、私が今も時々聴く歌を挙げるなら、「国境の町」、♪私十六 満洲娘…♪の「満洲娘」(石松秋二 作詞、鈴木哲夫 作曲、服部富子 唄 S13年)、♪馬車がゆくゆく 夕風に…♪の「いとしあの星」(サトウハチロー 作詞、服部良一 作曲、渡辺はま子 唄 S14)、♪遠い故郷は 早や春なれど…♪の「国境の春」(松村又一 作詞、上原げんと 作曲、岡晴夫 唄 S14)といったところです。
前3曲は、子供だった頃、母が家事をしながら歌っていたので、憶えました。「国境の春」は、大人になってから、好きな歌手である岡晴夫さんのレコードを買い求めたとき、その中に収録されていた1曲でした。初めて聴いて、なぜか強い感銘を受けて、憶えました。
投稿: yasushi | 2017年11月25日 (土) 15時03分
yasushi様のコメントを拝読していましたら、私十六満州娘と出ており、この歌詞の出だしには覚えがあったので、服部富子の満州娘をユーチューブで聴きましたところ、やはり私が幼かった頃に母が口ずさんでた歌でした。
この歌詞の、王さん待ってて頂戴ね!のこの部分は幼かった私も口ずさんでいた記憶があります。ただこの服部富子があの大作曲家服部良一の妹とは知りませんでした。
そしてyasushi様がレコードを聴かれて感銘を受けられた一曲という岡晴夫の国境の春にも私自身も強く興味を持ちましたので聴かせて頂きましたが、とても良い歌でした。
この歌詞に出てくるバラライカが気になり検索しましたら、ロシアの弦楽器であることも解り、以前調べたトロイカでのバイアンがアコーディオンみたいな楽器だったことも思い出しました。
投稿: 芳勝 | 2017年11月25日 (土) 17時45分
私の投稿が、芳勝様の目に留まり、多少なりとも関心・共感を持って頂けたようで、とても嬉しいことです。いろいろ、いい歌があるものですね。
なお、芳勝様には、知識欲が大層旺盛と見受けられ、見習わねばと存じる次第です。
投稿: yasushi | 2017年11月25日 (土) 20時45分
私はこの歌を長い間、岡田嘉子さんと、杉本良吉さんの恋の逃避行と解してきました。しかし、よく考えてみるとこの歌は、1934年レリースで、岡田さんの逃避行は1936年ですので、合わないことがわかりました。しかし、私の心には、岡田さんと杉本さんが、樺太の町を越えて、ソ連の地にはいったときの姿がこの歌に運命づけられた感じがしてなりません。その後、杉本さんは非業の死を遂げ、岡田さんも苦労されましたが、やがて、日本にも一時ご帰国されました。私はそのときの岡田さんの美しいお顔を今もわすれることができません。
この歌と何の関係もないことを知って、少しガッカリしております。
投稿: 瀬田住人 | 2018年9月13日 (木) 03時39分
吟二様
このホームペジは18年位前に友人の紹介で知っていました。この度数年ぶり覗いて見て懐かしく「国境の町」を繰り返し聴きら、コメント欄を読み進むと、
・日本語ボランティアの一員として…北朝鮮との国境の 町「図門」に行きました。
・我々の中に…「琿春」から、親に手を引かれて命からが日本に逃げ延びた人がいました。
・彼が胸を詰まらせながら歌った「国境の町」を聴くと彼を思い出します。
の件を読んだとき、これは私のことだと確信しました。
こんな奇遇があるのでしょうか。どうしても一言書かねばとの衝動に駆られました。
吟二様がどなた様か全く判りませんが、良くぞ書いてくださいました。
私は敗戦時、牡丹江からちょっと南の「廟嶺」から「図門」への逃避行でした。
1941年10月5日生まれの私はまだ4歳になっていません。紆余曲折があって、1953年8月に高砂丸で舞鶴に引き揚げました。定年を機に、自分の足跡を訪ねる旅が「新鑑真号」だったわけです。
昨日、七転八倒しながら「国境の町」中国語訳にたどり着きました。恥を承知で記しました。
邊境
1 就連雪橇的鈴鐺也孤寂地郷著
白雪的曠野街市的燈火有!
一顆越嶺異国的星辰
結凍似邊境
2 故郷遠離遥迢千里
為何思念要来到?
遠方邦天空仔細地看
男人哭泣之夜晩也有
3 程不明漂浪的生活
天空亦灰暗尚且暴風雪
盡是思念只有洋溢
与君相逢不知何日?
投稿: 躁喋 | 2021年1月16日 (土) 23時39分
「国境の町」東海林太郎の大ファンだった母が生前ラジオからこの曲が流れてくると、一緒になって口ずさんでいたことを想い出します!
そんなこともあり私もこの曲が大好きなのでこのページにはよく訪れて皆様の貴重なコメントを読み返しています。
先の1月16日、躁喋様の御文を拝読しながら私が改めて想い出したのは、「邂逅」という言葉でした。
>・日本語のボランティアの一員として・・北朝鮮との国境の町「図門」に行きました。
>・我々の中に・・「琿春」から、親に手を引かれて命からがら日本に逃げ延びた人がいました。
>・彼が胸を詰まらせながら歌った「国境の町」を聴くと彼を想い出します。
上記の2008年9月3日に吟二様が投稿されたそのコメントをお読みになり、>これは私のことだと確信しました。
>こんな奇遇があるのか。どうしても一言書かねばとの衝動に駆られました。
とコメントされた躁喋様の驚愕されたそのお気持ちが、恐れながら戦後生まれの私にさえも伝わってまいります。
「国境の町」この度のコメントを拝読しながら、まさに「人生は邂逅なり」というこの諺の意味を、今回私は強く実感させられた気がします。
投稿: 芳勝 | 2021年1月19日 (火) 17時32分
躁喋さま
吟二です。久しぶりに何気なくこのサイトをのぞいたら、あの日、日本語ボランティアで中国東北地方へ行った時の話があり、私と一緒にその旅に参加した人だと分かりました。子供のころ躁喋さんは琿春から親に連れられて命からがら日本へ逃げのびたが、そのルーツである琿春や図門に生きてるうちにもう一度行ってみたいと思い参加したとのことでしたね。琿春で何人かの親切な中国の方の助けで懐かしい場所を案内してもらったり、あの頃の話を聞かせてもらって感激したと我々に話してくれましたね。そして確か、ボランティアへ行った高校の校長先生のおごりでカラオケへ行き、みんなでアリランなどを踊りながら歌い、めちゃくちゃ盛り上がりましたね。その時だったと思いますが、躁喋さんがその話を歌う前にみんなに言って「国境の町」を歌いました。みんな躁喋さんの身になって感激しました。このシーンを私は忘れられませんでしたので、このサイトに書きました。
あれは2002年8月のことでしたから、もう19年も経ちました。実は私も1941年11月生まれですから、ほとんど同い年だったんですね。躁喋さんがお元気でおられて嬉しいです。現在の中国共産党政府は嫌いだけど、我々が中国で会った人々はみんな良い人ばかりでしたね。これは他の日本の方々にも言いたいですね。
芳勝さま
懐かしい思い出を取り上げていただきありがとうございました。色々なコメントを投稿されていますが読んでいます。私はあなたのファンです。 吟二
投稿: 吟二 | 2021年1月19日 (火) 20時41分
躁喋さま
やはり人間は年月が経つと記憶があいまいになってゆくものですね。先ほど躁喋さんが「国境の町」を歌った場所は、琿春のカラオケだったと書きましたが、2008年に私が投稿した記事を見たら、帰国の船中(新鑑真丸?)での船長主催のカラオケ大会だと書いてありました。こちらの方が正しいですね。
それにしても躁喋さんの中国語のレベルは高いですね。羨ましいです。私も実はあの旅行の後中国語の勉強を始めて10年やりました。でも、あまり身に付かず今から11年ほど前にやめてしまったら、今ではほとんど忘れてしまいました。あの旧満州の地は、中国語と朝鮮語のバイリンガルが多いところでした。老人たちから日本語を習ったり、年配の学校の先生から日本語を習ったりしていましたからね。私は中国語の前から韓国語(朝鮮語)を習っていて、その後あの時の日本語学科の生徒たち5人と文通をしていましたが、その時は韓国語(朝鮮語)で書いたり、返事の日本語を添削してあげたりしていました。私も韓国語でなら「国境の町」の歌詞を韓国語訳出来るかもしれませんが、中国語は無理です。つい最近このサイトで「異国の丘」のコメントが出ています。こちらも我々には懐かしいのではないでしょうか。ちょっと覗いてみてください。
投稿: 吟二 | 2021年1月20日 (水) 19時19分
吟二様
待っていました吟二さん!
早速の投稿内容を見て大変興奮しております。同年の傘寿ですか。
日中文通クラブ主催の「日本語の授業お手手伝いボランテイア旅行」でしたね。
大阪(神戸)~上海はフェリー新鑑真号、そして列車、バスの旅でした。
・1班 吉林・永吉県コース2002年8月6日から19日…吉林目当て
・2班 延辺辺朝鮮族自治州コース2002年8月27日から9月9日…琿春目当て
両コースに申し込み、8月20から8月26日は一人旅で上海、昆明、石林、西双版納を巡りました。昆明から上海の帰路は敢えて、45時間かかる車中2泊の寝台列車にしました。
当時の旅行ノートを捲るのですが、名簿が見当たりません。
吟二さんはどちらにお住まいでしょうか。近ければ、コロナ禍が治まればお会いして往時を語り合いたいものです。
本名は神奈川県海老名市在住の田中拓美です。
旅行中の同室の藤田和孝さんは十津川高校の英語の先生でした。
琿春で、戦後初めて日本人を見たと中華料理をご馳走になったご主人は、昔居たところを親切に案内してくださり、琿春の白酎を2本頂きました。
敗戦時はソ連の侵攻で、廟嶺~図門~延吉へ逃避行。弟妹を栄養失調、早産で失いました。父が炭鉱技術者として強制抑留され、琿春、吉林、樺甸を転々し、1953年8月中旬に高砂丸で11歳のとき帰国しました。
山崎豊子原作テレビドラマ「大地の子」は3度とも涙しました。
廟嶺は三国国境に位置し、正に「国境の町」でしたので、忘れることができません。
東海林太郎の「国境の町」は哀愁があって何度聞いても当時を思い出します。
琿春第二中学(日本では高校)の咸忠根校長は、日本の東京工業大学大学院博士課程の息子咸哲俊に会ってくれと、自宅まで案内され写真を見せられました。帰国して息子さんと会い、父親の近況を琿春の白酎を傾けながら語り合いました。
想い出が溢れて、脈絡のない断片になったことをお許しください。
二木先生のお陰で、吟二さんとの思いを語れて感謝頻りです。
芳勝様
コメント欄、交流掲示板で、しばしばお見掛けする「二木紘三うた物語」の牢名主様(失礼をお許しください)に「邂逅」のお言葉でコメント下さり、感謝に堪えません。
投稿: 躁喋 | 2021年1月20日 (水) 19時49分
吟二様
私は琿春で、中国の小学校に8カ月通いました。
その後「吉林市立日本人完全小学校」に2年間の寄宿舎生活で帰国しました。日頃中国語を使わないので、発音は正調北京話ができるものの、ほとんど忘れました。
吟二さんは韓国語が堪能なのですね。私は全くダメです。
15年位前に、韓国世界遺産の旅に参加し、喫茶店に入って英語も、日本語も通じず閉口しました。その点、中国語は漢字なので助かります。
「異国の丘」も好きな歌でして、覗いて見ます。
投稿: 躁喋 | 2021年1月20日 (水) 20時29分
躁喋さま
躁喋さんとの話をもう少し続けたいのですが、これ以上は二人のプライベートなことになりますので「うた物語交流掲示板」の方に移行致しましょう。そちらにコメントしますので見てください。
投稿: 吟二 | 2021年1月21日 (木) 19時47分
この歌の場所は綏芬河とコメントされていますが、小生は今の北朝鮮のロシア国境に近い町と思っていたのですが、間違っていますでしょうか?ただ以前にこの歌の日本映画があり撮影場所は北朝鮮最北部とありましたので。あの有名な原節子さんが出演した映画です。どなたか正しい答えを教えていただければ幸甚です。
投稿: 須磨 | 2021年12月10日 (金) 18時16分